どこにいても、何をしていても、いつもどこか息苦しい――こんな自分のことが大嫌いだ。
 青い空を見上げて、そんなことを考えた。
 あと一歩踏み出せば、カラスのように飛べはしないだろうか。

 今朝もいつものように七時五十一分発の電車に乗った。習慣で、最後尾の四つ手前のドアから中に入っていた。
通勤の時間帯とはいえ、最後列の車両となると立っている人はいない。なので車内の端まで見通すことができる。運転席も覗けた。最後尾は中間の車両に比べて開放感があり、落ち着ける。
 出発点のこの駅では数分の間扉は開きっぱなしになっており、そこから入り込む風で車内が洗われるので、すっきりとした空気感もある。
 空いている席に座ろうかとも考えたがやめておいた。座席で隣の人に挟まれると、少し窮屈さを感じてしまう。そんな時は不自然に呼吸が浅くなり、息苦しい。
 ホームとは反対側の、閉まっている扉の脇に立った。ここが僕の定位置だ。扉に寄りかかり、向こう側に並ぶ数本のホームの上をなんとなく眺めた。こうして景色が動き出すのを待つのも、いつもと変わらない。

 車窓の景色が見えなくなり、目の前を暗闇が流れ出した。電車がトンネルに入ったのだ。
 真っ暗な外から視線を内に戻した。かといって、特に見るものなんてない。手持ち無沙汰なので、車内広告を鑑賞することにした。昨日とまったく同じ広告だ。東北のご当地どんぶりが詰め込まれた宣伝広告。
 はじめに見た時は、素直に美味しそうだと思った。冬休みに東北に行けたらいいなとも考えた。けれど、毎朝同じ写真を見ていても決して腹が膨れはしない。食欲への刺激にも慣れてきて、数回目には無心でサーモンどんぶりを見るようになっていた。むしろ、大盛りのサーモンに胃もたれに似た鬱陶しさを感じ始めている。他の広告も何度見たか分からず、大体が同じ印象だった。どれを見てもなんら刺激を受けることがない。かといって、トンネル内では電波が届かないので、スマートフォンでもできることがない。このトンネルでは、無意識にため息がもれる。
 ああ、退屈だ。

 トンネルを抜けてすぐ、電車は駅のホームに到着した。ここが学校の最寄駅だ。閉じた扉の前では、乗ろうとする人たちが、まるで城門が開くのを待ちうける敵兵士のように並んでいる。その人たちの邪魔にならないよう、ドアの開く途中でホームに飛び降りた。

 ホームでは同じ制服を着た生徒たちが、エスカレーターの列に押しかけていた。その列の最後尾に、前の人との間を半歩分だけ開けて並んだ。
 食パン工場のベルトコンベアーのように、列はゆっくりと前に進んでいった。乗り口の手前では他のレーンも合流するので、急に密集度が高くなる。空いている階段の方を選べばよかったかもしれない。

 通勤カバンを持った人や、リュックを背負った学生たちの流れに押されて改札を出た。風が冷たくて顔が痺れたように痛い。駅前の信号機で止まっている学生の列に入ろうとした。そのとき、前方にKを見つけた。彼から隠れるように、反射的に男子学生の集団の後ろに下がってしまっていた。いつの間にか、歩調は失速している。
 Kは合唱部で唯一仲が良かった友達だ。だけど、三年生となり僕は部活を辞めた。なぜだか大きな声が出せなくなったのだ。合唱部を退部して以来、クラスの違うKと話すことはめっきりなくなっていた。
 前の人たちの間からK を盗み見るようにしては、声をかけても不自然じゃないだろうかと考えていた。例えば、

『ひさしぶりK。元気にしてた?』
『あっ、ひさしぶり』
『うん、ひさしぶり』
『……』
『……えっと、今日は寒いね』

 だめだ。上手く話を始められる気がしない。そもそも、僕は彼に相談をせず一方的に部活を抜けた。どんな顔をして話しかければいいんだ。Kがふと後ろを振り返るのに気づいて、目線が合わないように車を眺めるふりをした。
 信号は青に変わって、Kは横断歩道を渡り出した。
 Kが渡っているうちに、信号機が点滅を始めた。僕は急ごうとせず立ち止まって、信号が赤に変わるのを待った。Kの後ろ姿を見て小さく安堵の息を吐く、そんな自分が嫌だった。

 校門をくぐって、校舎へと続く坂を登っていた。その坂の途中を、一羽のカラスがゆったりと歩いている。その子とは面識があった。まるで学生の一人みたいに、坂をけだるげに登っている。羽の色も新品のブレザーのようだった。きっとアスファルトに落ちている木の実を探しているのだ。坂の横には小山があって、そこから木々の枝がアーチのように頭上にかかっている。リスが木の上を走っているのに遭遇した時はびっくりした。
 僕がその横を通るとき、その子が会釈をした。釣られて僕も小さく頭を下げた。すると、その子はくちばしを高く振り上げ、空に向けて鳴いた。

「コァー」

 その声は『おはよう』と言っているように聞こえた。
 いきなり大声が間近で炸裂したので、周りにいた生徒全員が肩をびっくりさせて、そのカラスの子の方を振り向いた。ちょっとしたドッキリだ。周囲の反応と驚いた顔をみて、ずっと感じていた退屈が和らいだ。 

 午前の授業では、何度も時計の針を確認しては、五分がたつのにもじれったさを覚えた。無意識のうちにペンを回し始めたり、机を指で叩いたりしていた。また退屈が辺りを覆いだしていた。
 ようやく昼休みのチャイムが鳴り、先生はプリントの最後の空欄を急いで説明して、四時間目の授業が終わった。クラスメートたちは手を洗いにいったり、他クラスに遊びにいったりし始めた。僕はメロンパンの袋を持って、教室を抜け出した。
 坂を下って、旧生徒寮の前に来た。錆びが目立つ相当古い建物で、三年生のあいだでは幽霊塔と呼ばれている。がらんどうの巨大な建物は、まさに幽霊の城だった。校門近くの守衛室にいるだろう守衛さんに見つからないよう注意しながら、幽霊塔の近くまで寄った。この塔の右脇の坂を上ると、その途中に小さな高台がある。僕はよくここで昼食を食べている。まず人はやって来ないし、周りを植木に囲われているので門からも死角になる。この場所ならば落ち着いて食べることができた。
 砂糖コーティングのメロンパンを食べ終えたところで、目の前にカラスが降り立った。花びらみたいに軽やかな着地だ。小さなくりくりとした目でこちらを見つめている。今朝挨拶をした子だ。
 僕は気軽に声をかけた。

「ナッツがあるんだけど、お腹空いてる?」
『いただくよ。ありがとう』
「ちょっと待って。いま出すから」

 この子の名前はクレーエという。彼女自身が名乗ったものだ。
 声が聞こえだしたのは、大体六ヶ月前になる。ちょうど三年生に進級した頃だ。それよりも前から、クレーエにナッツやドングリをあげることはあった。初めは警戒心をむき出しにしていて、ナッツをくわえたら近くの木の枝まで飛んで、そこで食べ始めていた。だが僕に敵意がないのがわかると、段々と近づいてくれるようになった。それで、僕が合唱部を退部した時だ。いつもと変わらない昼食なのにどうしようもなく惨めな味がした。その日、珍しく彼女がすぐそばまで来て、初めて話しかけられた。
 そのときはとても驚いた。それと、クレーエが女性だったことにも少なからず驚いた。うっかりそれを口にしてしまい、こってりと叱られたこともある。カラスは性別に関わらず真っ黒なので、見た目からはまったく判断がつかなかっただけなのだ。けれどクレーエいわく、

『全然違うよ。男の方が声が低いじゃないか』

 ということだ。それでも、鳴き声にそこまで明確な違いがあるとは思えなかった。仮にも合唱部だったので、自分の耳には自信があった。
 そのほかにも少し驚いたことがあった。クレーエはどんぐりが好きではないのだということだ。美味しそうとは思わないけど、目の前にあったら食べてしまうものだといっていた。全然甘くないカカオのチョコみたいなものだろうか。前に坂で、ドングリの皮を器用に剥いでいる姿を見たことがあったので、てっきりそこまでして食べたいのだと思い込んでいた。
 なので今日は、クレーエが好きだと言っていたナッツを持ってきた。

「どうぞ」
 カシューナッツをクレーエの嘴の前まで持っていく。
『いただきます』

 クレーエは嘴の先でナッツをつまんだ。そのときは小さな首を傾けて、僕の指を挟まないようにしてくれた。そして咥えたナッツを宙に放り投げて、華麗に口でキャッチした。

『なんだか甘い』
「そう、砂糖漬けのミックスナッツ。前に甘くて油分があるものが好きだって言ってたから、ぴったりだと思って」
『砂糖に漬けて作るのかい。なんて贅沢なんだ』

 クレーエは翼を広げて驚きを表現した。
 やっぱり、砂糖とナッツという組み合わせはクレーエの味覚にピッタリとハマったようだ。一粒一粒を噛み締めて食べてくれた(実際に噛んだわけではないけれど。クルミを食べるときには、真剣に嘴でつついて細かくしていた。破片がどこかに飛んでしまわないかと心配していたのだと思う。次は袋の中で砕いてから渡そう)。気に入ってくれたようで何よりだ。まだ家に沢山買ってあるので、次も持ってきてみよう。
 少しずつナッツを食べる姿はハムスターみたいで、なんだか愛くるしい。その様子を眺めていると、翼が目に止まった。日の光が映り込んだ表面は、ベンツの車体のような高貴さがある。細かな羽根に光が反射して、波型の紋様が浮かんでいた。

「翼を撫でてもいい?」

 そう聞くとクレーエは顔をあげ、ちんまりとした右目で僕を見た。

『好きに撫でていいよ。いつもお世話になっているしね』

 クレーエは撫でやすいように翼をこちらに向けてくれた。翼を撫でると、ひんやりとした空気を梳いているような感触がする。撫でるごとに羽の形が、形状記憶合金みたいに整っていく。機械細工みたいだ。

「翼は私の自慢なんだ」
「うん、すごくきれい」

 そう言うと、クレーエはいきなり顔を背けた。そのまま顔を見せずに、首をプルプルとさせている。

「かぁ…… くぅ……」

 か細い声で鳴いているようだった。
 そしてちらりと振り返って、うらめしそうな目を向けてきた。
 その目線が僕の背後に向いた。

『あ。先生が来たみたい』

 背筋が固まった。恐る恐る振り返ると、ジャージを着た大人が立っていた。見かけたことのない先生だ。

「何してるんだ、こんなところで」
「えっと……」

 先生は僕の顔をまっすぐに見据えて、答えを待っている。早く答えなければいけないという焦りで、上手い言い訳が思いつかなかった。

「昼飯を食べてたんです」

 先生はそれを聞いて気まずそうな顔をした。

「何年生だ?」
「中三ですが」
「そうか。じゃあ報告はしないでおくけれど、みんな我慢して教室で食べているんだから、次からはお前も教室で食べるようにな」

 言い残して先生は幽霊塔の裏の駐車場に向かった。正直に言ってしまうと、放っておいて欲しかった。ただ静かな所にいたいだけなんだ。そして、教室は僕にとって息の詰まる場所だった。
 その後、クレーエが植木の影から出てきた。先生のいた間はそこに隠れていたようだ。

『明日からは教室で食べるのかい?』

 僕は首を振った。

「次は別のところで食べるようにするよ。どこが良いかな?」
『それなら良い場所があるから、放課後にでも案内しようか』
「近くにそんな場所があるの?」
『すぐそこだよ。今朝君と会った坂の脇に森があるでしょ。そこに畑を作っているんだ』
「畑って、野菜を植えるあの畑?」
『そう。トマトをたくさん育てていてね。そろそろ収穫を終えないといけないから、その前に一度招待したいと思っていたんだ』

 よっぽど大切にしている畑なんだろう。クレーエは楽しそうに僕を誘ってくれた。
 森の中に畑があっただなんて知らなかった。驚きながら聞いていたけれど、段々と僕もワクワクしてきた。秘密の畑に遊びにいくなんて素敵だ。
 クレーエとは放課後に会う約束をした。そして、昼休み終了五分前のチャイムが、本校舎から微かに聞こえた。

 本校舎に戻り、一階の三年七組の教室に入った。後の扉のドアノブを掴み、金具の音が鳴らないぐらい慎重に回した。教室内に入って、一直線に窓際の自分の机を目指した。
 椅子を引いてあとは座るだけというところで、船橋に見つかってしまった。

「あっ、カラスくんじゃん」

 カラスの写真をスマホに撮りためているのを見られて以来、船橋は僕のことを「カラスくん」と呼んでいる。
 船橋は僕の真横に立ち止まった。座った位置から見上げると、自然と相手に見下されるような形になってしまう。

「朝カラスに挨拶してるとこ見ちゃったんだけど。もしかしてカラスと喋ってた?」

 船橋は、笑いが口の中から溢れるのをこらえているような顔でいった。

「……別に、話していたわけではないよ」
「いや絶対話してたでしょ」
「違うって」

 船橋が大音量で話しているので、他の人の目線が集まってきた。船橋と仲のいい男子生徒たちもこちらに集まってきていた。その視線が嫌で、席を立って扉に小走りで向かった。

「待てって。逃げなくてもいいじゃん」
「用事があるだけ」
「じゃあ最後にカラスの鳴き真似だけしてよ。カーカーって。きっとめちゃくちゃ上手いでしょ」

 僕は返事をせずに、その場から逃げ出した。
 背後からは船橋たちがどっと笑い出す音が聞こえた。口々にカラスの鳴き真似をしている音も聞こえる。

 用事はなかったが、教室に戻りたくはなかった。意味もなく四階まで上がった。
 外のベランダに行こうかと思ってそちらに足を向けると、向こう側から歩いてくるKの姿が見えた。合唱部の仲間たちと喋りながら歩いている。一瞬、Kと目が合った。勇気を出して、右手を控えめに振った。自分に対して良くやった、と言いたかった。けれど、Kはそれに気が付かなかったかのように、すぐにまた隣の友人と会話を再開させた。
 僕は上げた手を下ろすきっかけを失って、中途半端に右手を宙に漂わせた。前からはKたちが近づいてくる。先ほどとは真逆の、見つかりたくないという感情が湧いた。
 咄嗟に最も近くの扉の中に隠れた。そこには屋上へと続く階段があった。薄暗い部屋の中に、螺旋の階段が押し込まれている。
 Kはただ僕に気がついていなかっただけだ。また手を振ればいい。そう頭の中で何度も何度も繰り返した。

 俯いた視界の中に暗い階段が入った。
 気づけばその一段目に足を踏み出していた。続く階段を上りながら、なぜ足を進めているのだろうと思った。何か決定的なきっかけがあったわけじゃない。ただ、今日は苦しさが続く日で、その段差を上るうちに屋上まで着いてしまっていた。

 扉を開けてまず初めに、屋上の端にある石製の手すりが目についた。そこまで僕は走った。そして衝動のままにそこに拳を打ちつけた。手が痺れて、石で切れた皮膚からは血が出ていた。
 思いっきり叫びたかった。喉が張り裂けるような痛みが必要だった。
 けれど息をどれだけ吸い込んでも、口からは声が出ない。ただ息だけが肺から消えていく。喉に穴が空いているみたいな、掠れた音しかしなかった。
 叫びたくても声を上げられないことが、何よりも苦しかった。目の前の光景が急に滲み出した。浮かんできた涙を、乱暴に拭った。

 眼下の多目的コートでは、男子生徒がバスケをしている。僕はゆっくりと手すりの上に立ち上がった。
 あと一歩踏み出せば、カラスのように飛べはしないだろうか。
 涙で滲んでしまった空を見上げて、そんなことを願った。
 そうして足を前に出そうとしたところで、クレーエとの放課後の約束を思い出した。足は止まってしまった。

 翼が風を切る音が聞こえた。隣にはいつの間にかクレーエがいた。

『そんな方法では飛べないよ』

 ビー玉のような左目が僕を静かに見つめていた。
 その声を聞いて、僕は足が震えだし、後ろに倒れた。
 クレーエは僕の上に飛び乗ってきた。その右目で僕の顔を覗き込んだ。

『カラスになりたいのかい?』

 クレーエの目を見ていると、返事が出せなかった。

『カラスになれる魔法があるとしたら?』

 いつもなら信じようともしない話。けれどクレーエなら本当にできてしまうかもしれないと思った。そして、もしそんなカラスの魔法があるのなら、僕はカラスになりたかった。そうして、どこかに行ってしまいたかった。だからクレーエの問いかけに頷いた。

『それならまずは、鳴き声の練習だ。コミュニケーションの基本だからね』


『ソとラの間の音を維持するといいよ。大体二分音符ぐらいを続けて』

 屋上でクレーエによる歌のレッスンが始まっていた。生徒は僕で、手すりに先生のクレーエが向かい合っている。

『小さな音から始めよう。私の後に続いて』

 クレーエは鳴き声でリズムをとり始めた。ハシボソガラス特有のしゃがれた声だ。けれどもよく聞いてみると、幾つもの音の波が重なり合っていることがわかった。狭い音域の中に音が詰め込まれているようだった。
 メトロノーム並みに正確なクレーエの音に合わせて、僕もカァと声を出した。隣で一緒に歌ってくれる人がいるのは久しぶりだ。小さいけれども自分の声を出すことができているのが、とても嬉しかった。
 クレーエの鳴き声は、『ここにいるよ』と言ってくれているように聞こえた。

『音は合ってきたね。次は大きな声でやってみようか』

 そう言ってクレーエは僕を手すりの方に招き寄せた。僕はためらいがちに歩いた。戸惑いながらクレーエを見ると、彼女は門の外の町を向いていた。

『遠くにいるカラスたちに聞こえるよう挨拶をするんだ。届いたら、彼らもこんにちはと返してくれる』

 屋上から眺めると、町にはたくさんのカラスがいることがわかる。
 電線に並ぶカラス。
 木に飛び移ろうとしているカラス。
 ゴミ箱の周りを歩くカラスの夫婦。
 高層マンションの屋上から町を見下ろしている孤高のカラス。
 グラウンドに落ちているテニスボールを転がしているカラスの子ども。
 門のアーチの上で鳴いているカラス。
 人と同じように、カラスたちもそれぞれの生活を送っていた。
 彼らに届くようにと思って音を出した。けれどそれはまだ小さくて、誰にも届くことはなかった。

 休憩の時間に、クレーエに聞きたかったことを尋ねてみた。

「どうやって魔法を身につけたの?」

 クレーエは驚いたように僕の顔を見上げた。

『信じてくれるんだね。いや、君ならそうしてくれるか』

 噛み締めるようにクレーエは言った。

『私はもともと魔女だったんだ。魔法はその頃に覚えた』
「だった、っていうのは……?」
『ずっと昔は私も人だった。この姿は呪いなんだ』

 軽々しく聞いてはいけない話題だと直感して、口をつぐんだ。

『そんなに気にしなくてもいいよ。数百年前の話なんだから。むしろ、よければ君には聞いてもらいたい』

 百年という言葉には驚いた。けれど、僕はクレーエのことを知りたいと思った。

「聞かせて」
『ありがとう。
 ____私は一五〇六年に生まれたんだ。うちは農家で、家族みんなで畑を耕していた。町の外れで少し不便だったけれど、助け合って暮らしていたんだよ。
 魔法は母に習ったんだ。私の家では、魔法は母親から習うものでね。母もおばあ様から魔法を教わった。そうやって魔法を伝えるのも魔女の仕事の一つなんだ。
 魔女の魔法と言っても悪いものではないよ。私が習ったのは薬作りの魔法に灯りの魔法、傷を癒す魔法の三つだけ。でも、素敵な魔法でしょ。
 けれどある年、ほとんど雨が降らなくなった。そのせいで私たちの畑だけじゃなくて、町中の畑がダメになってしまった。町に買い出しに出た時は、みんな憂鬱な顔で歩いていた。それでも私たち家族は、森で果物を集めたり、鳥を獲ったりしてなんとか食い繋いでいたんだ。

 そんな苦しい日が続いていたとき、牧師がうちにやって来た。彼の後ろでは町の人たちが私たち一家を睨んでいた。牧師は母を逮捕すると言った。訳がわからなかったよ。私は絶対に間違いだと牧師を問い詰めて、父は奥から鍬を持ち出して私たちを守るように前に出てくれた。
 牧師は羊皮紙を手に持って、そこに書かれた「罪状」を読み上げた。いわく、その年の飢饉は全て私の母のせい。邪悪な魔女が魔法によって雨が降らないようにしていたのだと言った。町の人たちもその「罪状」を信じ切っていた。彼らの畑を魔法で守ることだってできたはずなのに、私たちは何もしなかった、そう口々に罵られた。飢饉の中で、みんな何も見えなくなっていたんだ。
 母を掴もうとした町の人たちに、玄関から押し入られそうになった。父は彼らを押しとどめようとしてくれた。でもその中に斧を振り上げた人がいた。斧を持った男は父を殺して、訳のわからない雄叫びをあげた。耳を塞ぎたくなる声だった。他の人たちは、その声に狂わされたように突進してきた。
 私は足が動かなくなってしまった。その両腕を、母とおばあ様に引っ張られた。私は二人に守られたんだ。あなただけでも逃げて、そう泣きながら言われた。その後、奴らは母とおばあ様を……殴りだした。群がる奴らに取り囲まれて二人の姿は見えなくなった。そこに突っ込もうとしたとき、私は牧師に呪文を唱えられた。

 気がついた時には、カラスに姿を変えられて、森に捨てられていた。だからこれは呪いなんだ。不死のカラスに人を変えるという呪い』

 話を聞いている間、僕はクレーエの目を見ているのが苦しかった。けれど、目を逸らしてはいけないと思った。

「おかしいよ、そんなの」

 そんなことがあっただなんて信じられないような、信じたくないような理不尽だった。

「クレーエをカラスに変える魔法を使った牧師は、罪には問われないの?」
『あの時代は、魔女の使う魔法だけが邪悪とされていたんだ。男の魔法使いが有罪とされることなんてほとんどなかった』

 悔しそうにクレーエは言った。

『目を覚ました時にはもう何もかも手遅れだったんだ。目覚めた後は、ずっと鳴き続けたよ。あたりのカラスたちはその声を怖がって、森から逃げ出してしまった』


 一人にしてほしいと言ってクレーエは飛び去った。五時間目の終業を告げるチャイムがなり、僕も屋上を後にした。もう一度手すりに上ろうとは思わなかった。
 クレーエの前でカラスになりたいと言ってしまった自分を、殴りたい気分だった。
 階段の途中で船橋たちに会った。手すりにもたれかかって、大声で騒ぎあっている。
船橋は降りてくる僕に気付いて手を振ってきた。

「カラスくんじゃん。授業サボって何してたの」

 それを聞いて船橋の仲間が突っ込みを入れた。

「カラスくんってなんのことだよ」
「あいつ。カラスが大好きだからカラスくん」

 船橋は面白可笑しそうな口調で答えて、突っ込みを入れた人が笑った。

「カラスくん、カーカー、カーカーって言ってみてよ」

 船橋の鳴き真似は空っぽだ。声は大きいのに、一つの感情もこもっていなかった。
 それに対して、クレーエの声には心が込められていた。
森で目覚めた後、クレーエはどんな声で叫んだのだろうか。

 目一杯息を吸い込んだ。腹の中で何かがグチャグチャと混ざりあっていた。それらを全て乗せて、鳴き声にした。感情が音圧に変わったそれは、まるで叫びのようになった。
 校舎の外からはカラスたちの鳴き声が聞こえた。僕の鳴き声と共鳴するように鳴いている。
 船橋たちは目を見開いて、全身を震わせていた。大きく口を開けて、何も言えなくなっている。

 固まった船橋たちを放って、屋上へと駆け出した。
 屋上の扉を開けると、クレーエが胸に飛び付いて来た。

「聞こえたよ。ありがとう、私の悲しさを声にしてくれて」

 クレーエの声は泣いていた。

『ねえ、もうカラスになりたいとは思わないかい?』

 クレーエは僕の目を見上げて問いかけた。

「うん。もう少し、頑張ってみようと思う」
『よかったよ。……実は、カラスになれる魔法があると言ったのは、飛び降りるのを止めるための嘘なんだ』
「ごめん、辛いことを言わせて」

 そう言うと、クレーエは首をふるふると振った。

「君が人に戻る方法を僕も探すよ」

 そう伝えると、またクレーエは首を振った。

『いいんだ。君がいつもみたいに、私を人として扱ってくれるだけで幸せだよ』

 クレーエは僕の目を見つめて言った。とても温かい言葉だった。
 自然と、そのくちばしに口づけをしていた。黒曜石のようになめらかな感触がした。

「好きだよ。クレーエ」
 
 目の前を黒い羽が舞った。それらが落ちると、クレーエのいた場所に一人の少女が立っていた。ブロンドの髪で、同い年のような姿だ。見たことのない人だった。けれど、その濡れ羽色の瞳で、彼女がクレーエなのだと分かった。
 クレーエは感触を確かめるように、両手を開けたり握りしめたりした。何度も握りしめているうちに、目からは涙が流れ出した。クレーエは僕を見て言った。

「嘘じゃないんだよね……本当に戻れてるよね?」

 その声は変わらず、綺麗な響きだった。僕は彼女の両手を握って答えた。

「嘘じゃない。クレーエはちゃんと、ここにいるよ」

 そう答えると、クレーエは僕の肩に顔を埋めて泣き出した。とめどなく涙を流していた。彼女を見ているうちに、僕も涙が止まらなくなった。
 僕たちは二人で支え合うようにして、溢れてくる涙のままに泣き続けた。けれど、その泣き声に悲しみはなかった。
 やがてすべての涙を流し終えたクレーエは、穏やかに目を閉じた。

 見上げれば、澄み切った空が広がっている。自然と肩の力が抜けていき、ゆっくりと空気を吸い込んだ。
 少しだけ息がしやすくなった気がした。