お見合い結婚します―僕たちやり直すことにしました!

紗奈恵たちがニューヨークへ来た翌年の4月に僕は2年半のニューヨーク勤務を終えて帰国することになった。

幸い向こうのベンチャーと共同開発していたものが新規医薬品になる可能性が高いことが分かったので、今度は日本の製薬会社とも共同開発をすることになった。それで帰国後はその調整のために本社の研究開発部に勤務することになった。

僕は帰国すると本社着任の挨拶状をこれまで世話になった会社の関係者などに送った。中学校のクラス同窓会の幹事の石田君にも出しておいた。それから紗奈恵にも出すことを忘れなかった。

今住んでいるところは大岡山の駅前の1LDKの賃貸マンションだ。ここからなら横浜研究所へも新橋の本社へも通勤が可能だ。

◆◆◆
帰国してほぼ1か月が経っていた。丁度中学校の同窓会が5月下旬の土曜日に3年ぶりに開かれるとの案内状が届いた。幹事の石田君が僕が帰国したことを知って出席の締切期限がすでに過ぎていたにもかかわらず案内状を送ってくれた。

せっかくだから、出席することにして、実家へもそれに合わせて帰国後初めて帰省することを知らせておいた。

実家へは智恵と別れて以来ずっと足が遠のいていた。両親からとやかく言われるのがいやだったからだ。ニューヨーク赴任中は1度も帰国しなかった。本社や研究所での打合せを兼ねて一時帰国することもできたが、そういう気持ちにはなれなかった。

◆◆◆
同窓会の前日の夜遅く実家に着くと、母親がすぐにそばに来て、どのようにして暮らしているか聞いてきた。

一人暮らしだけど何不自由なく暮らしていると答えておいた。でも母から、もう智恵と別れてから4年近く経っているし、そろそろ再婚を考えてもいいのではないかと言われた。

それと智恵が再婚したことを教えてくれた。仲人をしてくれた山村さんから聞いたそうだ。半年前に幼馴染の同級生と再婚したという。相手の人は初婚で一旦は断ったそうだが、相手の人がどうしてもいうので承知したそうだ。

彼女が再婚したと聞いて内心ほっとした。心のどこかにいつも残っていた重石が取り除かれたような気がした。今度は幸せになってほしい、心からそう思った。だから、母は僕にも再婚を考えてほしいと言ったのだと思う。

「お前もバツイチだからそう条件のよい人は見つからないかもしれないけど、いつまでもこのままという訳にもいかないだろう」

お見合いを始めるときにも聞いたような話だ。友人にもいい人がいたら紹介してもらえるように頼んでいるとのことだった。

「今はその気になれない。その気になったら、自分で見つけるから余計なお世話はいらないから」

そう言ったのは、智恵との見合い結婚も親の言う通りにしたから、あんなことになってしまったのかもしれないという思いもあった。
午後6時から市内のホテルで中学校の同窓会がある。3年ごとに開かれていたが、この前は出席できなかった。それまでは帰省がてらできるだけ出席していた。今回は6年ぶりだ。

紗奈恵は出席するだろうか? あれから紗奈恵とは一度も話していない。スカイプで連絡を入れても応えてくれなかった。帰国後に電話をかけることも考えたが、拒絶されることが怖くて、どうしてもかけられなかった。

僕は早めに会場についた。3年5組の幹事の石田君と吉村さんが受付にいた。久しぶりによく来てくれたと言ってくれた。僕は石田君に連絡のお礼を言った。

今日の5組の出席者名簿を見せてもらった。池内紗奈恵の名前があった。彼女が来る。大森芳恵の名前もあった。

案内された5組のテーブル席に座っていると次々と同級生がやってくる。いつも来る人は大体決まっている。6年前にあった時と容貌が少しずつ変わっている。皆、歳をとったんだ。

大森さんがやってきた。すぐに僕のところに来てニューヨーク旅行のお礼を言った。あいにく僕の両側の席はすでに埋まっていた。僕から一番近くの空いていた席に座った。

ようやく紗奈恵も現れた。僕を見つけると微笑んで会釈をしてくれた。そして僕の斜め前の大森さんの隣に席を取った。席に座った紗奈恵を僕はずっと見つめていた。ニューヨークへ来てくれた時とあまり変わった印象はなかった。

僕の視線が気になるのか、僕と目を合わせずに大森さんと話している。僕はすぐにでも紗奈恵と話がしたかったが、そろそろ開会の時間になっていた。

お決まりの同窓会会長の挨拶や恩師の挨拶が終わって乾杯となった。食事が始まると5組は幹事の石田君の提案で一人ずつ近況を話そうということになった。

僕は5年前に見合い結婚をして4年前に離婚したこと、それから関西へ転勤し、ニューヨーク勤務を経て、2か月前に帰国して東京の本社勤務になったことを話した。皆驚いてこの5年間の話を聞いていた。

紗奈恵は3年前に夫が交通事故で亡くなったので、実家に帰ってきて、今は市内の病院に勤めていると言っていた。

大森さんは3か月後に同級生と結婚することを報告していた。また、池内さんと一緒にニューヨーク旅行をして僕に案内をしてもらったことを話していた。

ここ6年間で皆にはいろんなことがあったみたいだ。子供ができたと言う話も多かった。皆そういう年齢に達している。男子はほとんどが既婚者になっていた。女子もほとんど姓が変わっていた。

僕は紗奈恵の隣の席が空いたら移動しようと狙っていた。だがなかなかあかない。彼女は今でもクラスの人気者だ。だから周りに人が絶えない。僕はビールを持って彼女に注ぎに行った。隣の席の大森さんが話かけてきた。

「ニューヨークでは本当にお世話になりました」

「いや、僕も二人を案内してとても楽しかった」

「私、さっきも話したけど、結婚することになりました。相手は隣の4組の大野君なの。今日は仕事で出席できなかったけど、どうしてもと言われてその気になりました」

「それはおめでとう」

「やっぱり、好きな人より好きになってくれる人だと思って」

「その方が幸せだと思うよ。本当によかったね」

大森さんから結婚の話を聞いてほっとした面もあった。紗奈恵は親友の大森さんの僕への思いを知ったから身を引いたと思っていたからだ。

大森さんは僕が紗奈恵に好意を持っていることを知っていながらあえてあの時、自身の悔いが残らないように僕に告白したのだろうと思う。だから、僕と紗奈恵の前でわざわざ結婚の話を伝えたかったのだろう。

大森さんはそれだけ話をすると、僕が紗奈恵と話ができるように席を空けてくれた。僕はそこに座った。

「久しぶりだね」

「ニューヨークではお世話になりました」

「いや、こちらこそ来てくれて楽しかった。少しは気が晴れたらのならよかったのだけれど、元気にしているみたいだね」

「そうでもありません」

「今でもご主人が亡くなったことを後悔している?」

「いつも心のどこかに重しのようにのしかかっています」

「早く忘れて楽になれたらいいのにね」

「忘れてはいけないことだと思っています」

「僕の別れた妻は再婚した。大森さんと同じで、幼馴染の同級生がどうしてもと言ったので承知したらしい。それを聞いて僕はほっとした。重荷が取り除かれたような気がした」

「死んだ人は生き返りません。彼も生きていれば再婚してやり直せたかもしれませんから」

「あの早朝に実家へ逃げかえった時に二人は別れたんだと思う。その後に彼が亡くなった」

「でもそれが原因で彼が亡くなりました。彼の再婚の道までも閉ざしてしまいました」

これ以上ここで話をしてはいけない、彼女をますます追い詰めることになると思った。僕は「後で話そう」と言って席を立った。そして、ビールを注ぎにまわった。

同窓会はあっという間に時間が過ぎて、お開きになった。もう少し紗奈恵と話がしたかった。クラスで2次会に行くらしい。紗奈恵も誘われて参加するみたいだ。僕も行くことにした。2次会はカラオケ店でやると言う。そこなら10名くらいは入れる部屋がある。
2次会ではそれぞれが持ち回りで歌を歌うことになって始まっている。皆それぞれの好きな歌を入れて歌っている。紗奈恵は「君を許せたら」を歌っていた。初めて彼女の歌を聞いたが、意外と歌がうまい。僕も歌が嫌いな方じゃない。この頃は一人で音楽を聴いていることも多くなった。僕は「レモン」を歌った。

ようやく紗奈恵の隣りの席が空いた。すぐに僕は隣に座った。もう時間が残り少ない。ただ、そばに座っていても話題が見つからない。紗奈恵は黙って歌を聞いている。それでも僕は彼女の隣りに座っていることに満足していた。それに彼女は席を移動しようとはしなかった。

どこかで聞いた歌を誰かが歌っている。スナック純で聞いた曲だった。僕には辛い曲だ。聞いていると悲しくなる。紗奈恵はそれをじっと聞いていた。

「なんという曲か知っている?」

「知っていますか?」

「『22歳の別れ』という1970年代の曲だ。」

「聞いていると身につまされる歌詞ですね」

「えっ」

それ以上、言葉がでなかった。紗奈恵は何を言いたかったのだろう。でもどうしてとは聞けなかった。2次会は2時間の予定だった。すぐに時間が来た。

「一緒に帰らないか? 送っていくよ」

彼女は何とも答えなかった。彼女の家はここから歩いても25分くらいの距離だと思う。出口で皆と再会を誓い合って別れた。帰りの方向が同じ数人が歩き始める。僕は紗奈恵のそばを歩いている。

一人減り2人減りして僕たちだけになった。この間にどうしても話しておきたいことがあった。思い切って口に出した。

「僕とやり直す気はないか?」

「えっ」

「僕と付き合ってくれないか? あれから、連絡しても応えてくれなくなったから、連絡だけでも再開してくれないか?」

「辛くなったんです。あなたとお話するのが」

「辛い?」

「何の解決にもならないから。それに私はあなたには似つかわしくありません。一度あなたを裏切りました」

「裏切った?」

「あなたの気持ちを知っていながら、彼との結婚を決意しました。あの歌のとおりなんです」

「いや、あの時の君の決心は間違っていなかったと思う。僕はあの時、彼のように君にプロポーズする勇気も君と生活する力もなかった。ただ、好きなだけだった。だから、今でも後悔はしているけど、それは僕の問題で、君が僕を裏切ったとは思っていない」

「私は裏切ったと思っています」

「覚えている? 大学の学園祭に誘ったら君が来てくれて、今日のように遅くなったので僕が家まで送って行ったこと」

「そんなことがありましたね」

「僕はその時、君が好きだったけど、何も言えなかった、好きだとも、付き合ってくれとも言えなかった。勇気がなかったというか自信がなかった。あの時、好きだから付き合ってくれと言っていれば、君の気持ちを繋ぎ留められていたかもしれない。それが僕の後悔だった。そして、今のようなことにはなっていなかったかもしれない」

「その時の後悔を繰り返したくないから、今、僕の気持ちを素直に君に伝えておきたい」

「僕が結婚に失敗して失意に満ちて関西に赴任してきた時に、偶然に君と再会した。住んでいるところも同じで、その偶然に驚いた。それに決定的なことは君が僕に助けを求めたことだ。驚いたし怖くなった。運命の糸がまだ繋がっていると思った」

「それからは君が知ってのとおりだ。僕は電話をしたり、スカイプをしたりして、君との繋がりを大切にしてきた。でも君はそれを切ろうとした。運命の糸はそんなに簡単に切れるようなものじゃない。今日の同窓会で再会して、僕はそう信じるようになった」

「運命の糸をですか?」

「僕の大学時代の友人が同級生を好きになった。相思相愛だったが、彼女の両親が反対した。彼女は一人娘だった。遠方に彼女を嫁がせたくなかったからだと思う。それで親思いの彼女は結婚をあきらめて彼と別れた。

その彼女に今度は僕の親友が卒業前に惚れたんだ。その惚れこみようはなかった。卒業してからも毎日電話して彼女の気持ちをつかもうとした。でも彼女の両親が反対したので、彼女は親友との交際を断った。

でもそれがきっかけで彼女の気持ちが変わったのではないかと思う。偶然に元カレと再会して、また付き合うようになって結婚したそうだ。

同窓会に出席したときに理由を聞いたらお互いに忘れられなかったと言っていた。それに運命の糸は切れないと言っていた。切っても切られても結ばれる二人はどんなことがあってもいずれは必ず結ばれると言っていた」

「私は一度切れた糸は繋がらないと思っています。繋いでもまたきっと切れます。だからお受けできません」

「切れてもいいじゃないか。また繋いでみればいいじゃないか?」

「怖いんです。それでもまた切れてしまうのが」

「分かった。そこまでいうのなら。でもまた同窓会で会おう。3年後くらいにまた開くと言っていたから」

「そうですね。私もできれば出席します」

「その時までに気が変わっているといいけどね」

「今のままだと思います。そんなことは考えないでほかの人を探してください」

彼女の家の手前で僕は彼女と別れた。後悔のないように今日は気持ちを伝えられた。これで思い残すことはなくなった。東京へ戻ろう。3年後には彼女の気持ちも変わっているかもしれない。それを期待しよう。
東京の本社へ異動になって早くも3か月が経っていた。今の仕事は本社の研究開発部にいて、横浜と茨木の両研究所と米国の提携会社と日本の製薬企業との間の研究の調整が主な仕事だ。2年半の海外赴任で向こうのベンチャーとのパイプもできていて、何とか仕事がこなせていた。

マンションに帰ると郵便受に宅配便の不在配達の連絡票が入っていた。すぐに電話して明日土曜日の午前中に配達を依頼した。午後9時過ぎに実家の母親から電話が入った。

「雅治、お見合い写真を送ったけど、見てくれた?」

「いや、まだ見ていない。不在配達があったので、明日の午前中に受け取るようにしたけど、お見合い写真なの?」

「お前のことを高校の同級生だった大島さんにお願いしておいたら、お相手のお写真と履歴書を持って来ていただいたの。中学校と学年が同じだからお前の知っている方かも知れないけど」

「お見合いなんて、今はまだそんな気持ちになれないから」

「もう離婚して4年は経っているし、智恵さんも再婚しているし、気に入らなければ断ってもいいけど、写真と履歴書が入っているから見るだけも見てくれない? 出来れば会ってほしい。大島さんにはお前のことをお願いしているから私の立場も分かって」

「分かった。まあ、見てみるけど」

◆◆◆
土曜日にお見合い写真と履歴書が届いた。開いてみたが、僕は目を疑った。そこには紗奈恵のスナップ写真と履歴書が入っていた。そのスナップ写真は紗奈恵がニューヨークへ旅行に来た時に僕が撮ってあげたものだった。

また、仲介してくれている大島さんの紹介文があった。それには「池内紗奈恵さんは一度結婚されましたが、ご主人を事故で亡くされて、実家に戻れられています。私の高校の先輩の娘さんで、母親もいい人だから娘さんも間違いなく性格がいいと思います」と書かれていた。

僕はすぐに母親に電話を入れた。

「母さん、お見合い写真と履歴書を見た。その池内さんとのお見合いの話の経緯を聞かせてくれないか?」

「どうなの? その気になった?」

「ああ、3か月前の中学の同窓会に来ていた。彼女とは3年生のとき同じクラスだった。腑に落ちないことがあるから」

「一週間ほど前に、私も高校の同窓会があってね。そこで大島さんに久しぶりに会って、子供たちの話になって、お前が離婚したこともお話したの。そうしたら丁度大島さんのクラブの先輩のお嬢さんがご主人と死別して実家に戻って来ていて縁談を頼まれていると聞いたので、その方とのお見合いをお願いしたのよ。それでお前が嫌がるとは思ったけど、お持ちいただいた履歴書と写真を送ったの。あなたにその気があるなら、すぐにあなたの履歴書と写真を家に送りなさい。大島さんに先方へ持って行っていただくから」

「会ってみたいから、すぐに送る。大島さんには僕が是非会ってみたいと言っていると伝えてほしい」

「そう、乗り気になってくれてよかった。分かったわ。すぐに履歴書と写真を送って」

こんなこともやっぱりあるんだ。運命の糸がまた繋がろうとしている。切られても切られても繋がろうとしている。僕は確信した。

すぐに写真をプリントアウトした。写真はニューヨークで大森さんが撮ってくれた中から選んだ。それから履歴書をワープロで作る。ワードを打つ手が震えているのが分かった。落ち着け! 出来上がった履歴書を何度も確認した。

それらを大型の封筒に大切にファイルに挟んで入れて、コンビニの宅配便で実家へ送った。明日には届くと言う。それを送ってから、僕はようやく落ち着きを取り戻した。

だが、不安が頭の中をよぎる。紗奈恵はお見合いを受けてくれるだろうか? 3か月前も交際を断られた。今度もそうなるかもしれない。いや、その確率はかなり高い。

それから、しばらく母親からの連絡が途切れた。1週間経っても母からの連絡はなかった。僕はもうあきらめかけていた。あの時の興奮はどこへ行ったのだろう。またしても、繋がろうとしていた糸は切れてしまったのか? 彼女の言うように一度切れた糸はもう繋がらないのだろうか?

2週間後の金曜日の夜だった。もう9時をとうに過ぎている。今週も連絡がなかった。僕はどうしても母親に電話して聞く気になれなかった。その答えを恐れていた。買ってあったウイスキーをロックで飲み始める。お気に入りのジョニ黒だが、今日は味が悪い。

そろそろ寝ようかと思った時に電話が入った。母からだった。おそるおそる電話にでる。母の弾んだ声が聞こえた。

「先方が、お見合いを希望されているそうよ。今、大島さんから連絡がありました」

「そう? 本当?」

「あれからすぐに大島さんに写真と履歴書をお渡してお願いしてあったのだけど、大島さんからお返事がなくて私も心配していたのよ」

「大島さんは何と言っていた?」

「お渡しして1週間、お返事がなかったけど、お母様が娘さんを説得されたみたいで、娘さんもようやくその気になったと言っていました。お母親様から連絡があって、本人からも直接よろしくお願いしますと言われたそうです」

僕はホッとして身体から力が抜けた。運命の糸がつながった?

「それじゃあ、お見合いの日を決めなければならないね」

「大島さんもそうおっしゃっていました。都合はどうなの?」

「今度の土日には帰省できるけど、土曜日の午後2時ごろではどうかな? もちろん先方の都合でいいけど」

「分かった。大島さんに伝えてお願いしておくから」

「お願いします。決まったらすぐに知らせて。母さん、いろいろとありがとう」

2日後の夜に連絡が入った。今度の土曜日の午後2時に、同窓会をしたホテルのラウンジで池内紗奈恵とお見合いをすることになった。
お見合いの日程が決まってからも、僕は紗奈恵と連絡を取らなかった、いや怖くて連絡を取れなかった。直接話をして破談になるのが怖かったからだ。

まだお見合いが成立することに不安があった。ここまで運命の糸を繋いでくれたのは大島さんだ。会うまでは大島さんに任せたい。そう思っていた。

僕は母親と会場のホテルに15分前に着いた。ラウンジの端の方から誰かが手を振って合図していた。大島さんだという。その隣に紗奈恵がいた。軽く会釈していた。僕は初めて池内紗奈恵とのお見合いの成立を信じることができた。

「大島さん、お初にお目にかかります。今日はお骨折りいただきましてありがとうございます」

僕は興奮しているからか早口になる。

「いいえ、ご縁があればよろしいですね。こちらが私の高校のクラブの先輩のお嬢さんの池内紗奈恵さんです」

「市瀬雅治です」

「母親の市瀬涼子です」

「よろしくお願いします」

「ご両親は?」

「私のお見合いだから親がとやかく言うことはないと来ませんでした。でも決して反対している訳ではないんです。両親は勧めてくれています」

「分かりました」

「大島さん、この度は池内さんをご紹介いただきありがとうございます。僕と池内さんは中学3年生の時に同じクラスでお互いに知っていました。3か月前に同窓会でもお会いしています。ご縁があったのだと驚いています」

「私はそのご縁というのが結婚では一番大事なことだと思っていますから」

「大島さん、これから二人だけでお話をさせてもらえませんか? 母さんもそれでいい? 何か聞いておくことはない?」

「ひとつだけあります。池内さん、息子は一度結婚に失敗しています。それを承知してこの見合いを受けていただけたのですか? 結婚に失敗するということは片方だけが至らないということではありません。息子も至らないことがいっぱいあったはずです。それを繰り返すかもしれません。それでもよろしいのですか?」

「夫が事故で亡くなったのは私のせいだと思っています。私は息子さんの嫁にふさわしくないかもしれません。それでもよろしいのですか?」

「そういう風に思っていらっしゃるのなら大丈夫です。息子も同じですから、気にすることはありません。お互いにそれを糧にすることができたらいいと思います」

「ありがとうございます」

「じゃあ、お二人は場所を変えたらいかがですか? 私たちはここでもうしばらくおしゃべりをしていきますから」

大島さんが言ってくれた。僕たちはホテルのラウンジを出て場所を探した。この辺りはホテルが多くて、少し離れた場所に別のホテルがあってラウンジもあった。二人はそこへ入った。

「よく僕とお見合いする気になってくれたね。3か月前は断られたから」

「大島さんからあなたとのお見合いの話があった時に、あなたの言葉を思い出しました」

「なんて言ったっけ?」

「この間送っていただいた時、別れ際の言葉です。運命の糸はそんなに簡単に切れるようなものじゃない。切っても切られても結ばれる二人はどんなことがあってもいずれは必ず結ばれるとおっしゃっていました」

「君は一度切れた糸は繋がらない。繋いでもまたきっと切れますと言っていたね」

「あなたは切れてもいいじゃないか。また繋いでみればいいじゃないかと言ってくれました」

「君の気持ちを変えようと苦しまぎれに出た言葉だけど、僕は君とのお見合いの話があった時は身震いするほど怖くなった。こんなこともあるんだと」

「私はあの特急電車に乗ったときに、なぜあなたと結婚しなかったのかと後悔しました。あなたの気持ちが分かっていて、そのときのあなたの立場が分かっていながら、待つことができずに目の前の幸せに飛びついてしまいました。あなたはこのまえの同窓会の帰りに、学生時代に家まで送った時に付き合ってくれと言わなかったことを後悔していると言っていましたね。私も同じ後悔をしていましたが、後悔することはいままでの私の人生を否定するようで、ずっとあなたを受け入れることができませんでした。ただ、今は運命の糸が繋がっていたと思えるようになりました。それに両親があなたのことを勧めてくれました。あのお正月のことを両親も覚えていました。あなたとはご縁があるんだと言って。それでお会いすることに決めました」

「ということはお付き合いしてくれるということだね」

「はい。その前にお話ししておきたいことがあります。私のことをすべて知ったうえで、あなたにもう一度そう言っていただけるかどうか分かりませんが」

「聞かせてくれる」

「私は亡くなった夫に結婚を申し込まれる前に付き合っている人がいました。付き合っていると言うより私が一方的に好きになっていただけかもしれません。クラブの先輩で大学3年生の時、彼は大学院2年生でした。彼は一流会社に就職が決まっていて、私はカッコいい彼と結婚したかった。だから一生懸命でした。そして気を引くために身体の関係を持ちました。でも彼は私の方を向いてくれずに就職して離れていきました。失意の私は何も知らない夫から交際と結婚の申し込みをされて私はそれを受けてしました。彼もまた一流会社に就職していましたから」

「女性が自分を幸せにしてくれそうな男性を何人かから選ぶのはごく自然なことだと思うけど」

「私はあなたが私を好いてくれていることは分かっていました。それで付かず離れずであなたとお付き合いをしていました。私はあなたを含めて3人を天秤にかけていたずるい女です。だから幸せになれなかった。私はあなたを不幸にするかもしれません」

「そんなに自分を卑下すことはないと思うけど、誰でも結婚相手は選んでいるんだから」

「同じクラブでしたから、夫は私と片思いをしていた彼との関係を疑っていたのかもしれません。嫉妬深い人でしたから、それも不仲になった原因かもしれません」

「確かに、僕の部屋に君を探しに来た時に僕も疑われた。でもそれだけ君を愛していたと言うことじゃないのかな」

「でも、独占欲と嫉妬心が強くて、息苦しいほどでした。私はそういう風に愛されるのには向かない女なのかもしれません」

「僕にもその傾向がないとは言えないけど、でもそんなことは当たり前で男の本能のようなものじゃないのかな。彼とはただ相性が悪かっただけではないのかな」

「だから、あなたと上手くやっていけるか心配なんです」

「君の話はよく分かった。それとその心配もよく分かった。でもそんなことやってみなければわからないし、僕はたとえ上手く行かなくても、後悔はしない。その前にできるだけのことをする。だから、付き合ってくれないか?」

「今の話を聞いていただいて、それでもとおっしゃるのならばお受けします。お話をして良かったです。これで引っ掛かっていたものがなくなりました」

「こちらこそ、話してくれて、ありがとう」

「これから私の家へ行って両親に会ってくれませんか?」

「これから?」

「はい」

「君の気持ちが変わらないうちにご両親に会っておくのがベストだと思うから、すぐに会いに行こう」

紗奈恵は電話してきますと席を立った。2~3分して戻ってきて、ぜひ来てほしいと両親が言っているとのことだった。

すぐに二人はホテルの入り口でタクシーに乗って、池内家へと向かった。途中、母と大島さんが歩いているのが見えた。

すぐに池内家へ着いた。ここを訪ねるのはあの正月以来だ。玄関を入ると両親が待っていた。葬儀の時も見かけていたが、あの時よりもまた歳をとっていた。

「ご無沙汰いたしておりました。市瀬雅治です」

「どうぞ、お入り下さい」

リビングに通された。リフォームをしたようであの時とはずいぶん違った印象を受けた。

「今日はお見合いに同席せずに失礼しました。どうしても二人とも同席する気になれなくて」

「このお見合いには気が進まないとか?」

「そうではありません。今回は娘にすべて任せようと思ってのことです。亡くなった彼女の夫と結婚したのは私たち二人が熱心に勧めたからだと思っているのです。それであのようなことになりました。娘はあの時、始めは気が進んでいませんでした。誰かは分かりませんでしたが、気になる人がいたようでした。それがあなただったような気がしています」

「おっしゃっていることはよく分かりました。それですぐにここへ参りましたのは、お嬢さんとお付き合いさせていただこうとご両親に直接お願いに参りました。ただ、私には離婚歴があります。それをご理解いただいた上でのことですが」

「娘はお受けしているのですか?」

「ようやく承諾してもらいました。そうだね」

「はい、お受けしました。私からもお願いします」

「それはよかった。娘をどうかよろしくお願いします」

「これで思いが叶いました。娘さんを幸せにします」

「まるで、プロポーズをお受けしたみたいですが」

「それと同じだと思っています」

「そうかもしれません」
僕たちは1か月後に大島さんの仲人で正式に婚約した。僕は東京へ帰ってからは毎日、紗奈恵とスカイプで話をした。午後10時の定時の連絡を欠かさなかった。

彼女は嬉しそうにそれを受けてくれた。映像が出るからきちんとした身なりでいてくれた。それに連絡を楽しみにしていてくれた。それが嬉しくて励みにもなった。

思っていることは何でも隠さずに話した。紗奈恵も何でも隠さずに話してくれた。この繋がった糸をもう二度と切れないようにしたい。僕はそう思ったし、紗奈恵もそう思っているに違いなかった。

週末に僕は必ず帰省した。僅かな時間の逢瀬だったが、とても時間が長く感じられたのはどうしてだろう。ほとんどの時間がお互いの家への訪問に費やされた。

二人きりになれたのは紗奈恵の部屋にいる短い時間だけだった。ソファーに座って抱き合ってキスしただけだったが、二人の気持ちは十分すぎるほどに満たされた。僕はそう感じていた。

結婚して紗奈恵は東京へ来ることになる。当面は僕の1LDKにそのまま住むことになった。2LDKへの引っ越しを提案したが、狭くても部屋に一緒に居た方がいいとそうなった。二人なら今のままでも住むことができる。僕もその方がよいと思った。

僕は一つだけ気になることがあった。僕の母親と紗奈恵との相性だ。智恵と母親はどうも相性が悪くて始めからぎくしゃくしていた。そしてだんだんと関係がうまくいかなくなった。いつの世も嫁姑戦争はなくならない。

当然のことながら夫婦仲にも影響する。息子である夫はどちらに着くこともできない。中立を維持するしかない。いや妻に付くべきなのかもしれない。智恵にはそうしてやるべきだった。今となってはそう思う。

紗奈恵も夫の母親とは折り合いがつかなかったと言っていた。僕の母親とはどうかと見ているが、相性は悪くはないようだ。二人とも苦い経験があるから、気を遣えるだけ遣っているようだ。僕としてはお互いにうまくやってくれることを祈るばかりだ。

でも今度は何があっても紗奈恵の味方になることに決めている。僕しか守ってやれないし、守り切る覚悟はしている。もう二度と同じ間違いは繰り返さないようにしたい。3度目はきっともうない。
婚約から3か月後に結婚式をあげることにした。式にはお互いの家族と仲人の大島さんだけが出席することにして、その後、家族と大島さんを含めて会食をすることにした。

お互いに2回目だから結婚式は内々に行いたかった。また、親戚や上司や友人を招いての披露宴はしないことにした。

ただ、やはり式だけは挙げておきたかった。両家族の前で添い遂げることを誓い合うことはどうしても二人には必要だった。

それから、結婚指輪は二人で買いに行った。紗奈恵は結婚指輪だけで良いと言ったのであえてそうした。そして紗奈恵の気に入ったデザインのものを選んでもらった。

会社へは結婚の話をしなかった。入籍を済ませてから手続きだけをすればよいと思っていた。赴任してきたばかりだったので上司の式への招待は不要だと思ったし、迷惑をかけると思ったからだ。

二人の結婚も同窓生にはしばらくは内緒にすることにした。二人とも照れ臭かったので話し合ってそうした。東京で落ち着いたら後から皆に結婚の挨拶状を出すことにした。

◆ ◆ ◆
結婚式は土曜日の午前11時から始まった。両家族の前で添い遂げることを誓った。紗奈恵は誓いの言葉の後に泣いていた。彼女の複雑な思いが溢れたのだと思った。それを見た僕は紗奈恵の手をしっかりと握った。紗奈恵は強く握り返してくれた。

12時から両家族に大島さんが加わった食事会が始まった。僕と紗奈恵は大島さんに感謝の気持ちを伝えた。ただ、両家の両親ともに話がはずまない。どちらの両親もこの結婚を心から喜んでいるのだが、思いは複雑なのだろう。

食事は2時過ぎには終えた。これから僕たちは近郊の湯涌温泉に一泊することにしていた。そして明朝、東京へ向かうことにしている。

新婚旅行を提案したが、紗奈恵はすぐに二人だけの生活に入るのだから行かなくてよいと言った。それでも一泊くらいはと言って近場の温泉のホテルを予約しておいた。紗奈恵の弟さんがホテルまで車で送ってくれた。

ホテルへ着いたら、ようやく一息ついた。紗奈恵も疲れているみたいだった。でも部屋に入るとすぐに僕は我慢できなくなって紗奈恵を抱きしめた。紗奈恵もしっかり抱きついてきた。ここまで本当に長い道のりだった。

ソファーに座ってからもただ抱き合ったままだった。すぐにでも紗奈恵を僕のものにしたい衝動に駆られる。

「温泉に入ってきます。久しぶりにゆっくり浸かりたい気持ちです」

「そうだね、大きなお風呂にゆっくり浸かるのもいいね」

部屋には温泉かけ流しの小さなお風呂もついていたが、やっぱり温泉へ来た以上、大浴場へ行くに限る。それにこのまま紗奈恵と愛し合うのも気が引けた。初めてだからゆっくり愛し合いたい。

浴衣と着替えを持って、二人は展望大浴場へ向かう。もちろん、ここは男湯と女湯に別れている。ゆっくり入ろうねと別れた。

時間がまだ早いせいか、一人二人入っているだけだった。窓の外にはところどころ雪が残った冬の山が迫っている。その割には圧迫感がないし、冬の寂しさも感じない。

これから紗奈恵と何を話そうか? 心の内はもうすべて話したような気がする。すっかり気持ちも楽になっていた。もう話すことが思い浮かばない。

確かにここへ着いてからもほとんど会話らしい会話をしなかった。ただ、抱き合っているだけでよかった。そして心は満たされていた。

気持ちが通い合っていて気を遣わないということはいいことだ。でもやはり不安がある。それでいいのだろうか? 智恵とはそうだった。気持ちが通じ合っていると思っていた。いつも話していないと紗奈恵の気持ちが離れて行ってしまうのではと不安がよぎる。

身体のつながりはどうだろう。智恵とは結婚するまで一切なかった。結婚して初めて交わって繋がりができた。身体のつながりが心の繋がりを生んで絆が深まっていくと信じていた。実際、その絆は揺るぎないもののように思えた時があった。僕たちは幸せだった。

でもいつの間にか心に隙間風が入り込み、身体の関係が希薄になり、それが心を離して戻れないところまでいってしまった。僕に思い込みと油断があったのは間違いないことだけれども、他にも何かあったようにも思うし、何かが足りなかったようにも思う。

紗奈恵とこれからどう向き合っていったらいいのだろう? お互いのこの気持ちをどう持ち続けて行けばいいのだろう? 身体の関係ができたら、ますます心の結びつきが強くなるだろう。それを保っていくためには僕はどうすればいのだろう。

もう紗奈恵とは決して別れたくないし,離したくない。この気持ちの強さは誰にも負けない。それだけで大丈夫だろうか? 紗奈恵の夫も決して別れたくない、離したくないと思っていた、でも紗奈恵は離れていった。

ただ、こうして考えて一人で悩んでいてもしょうがない。紗奈恵という相手のいることだ。紗奈恵の気持ちを大切にしなくてはいけない。

つい先ほどまでは幸せな気持ちで満ちていたのにどうしたのだろう? 気分が悪くなってきた。湯あたりしたのかもしれない。早く上がって部屋に戻ろう。

部屋に戻ると紗奈恵がソファーに座って、ボトルの水を飲んでいた。

「湯あたりしたみたいだ」

「大丈夫ですか?」

「ここに座って、これを飲んで横になって下さい」

渡されたボトルの水を飲んだ。紗奈恵も上がったばかりのようで、ボトルの水が冷たくてうまい。紗奈恵が膝枕をしてくれた。

「ありがとう」

「どうですか?」

「疲れていたのかもしれない。今日はずっと緊張していたから、考え事をしていたら、気分が悪くなった」

「何を考えていたんですか?」

「君とのことを考えていた」

「私のことを考えていて気分が悪くなったんですか?」

「誤解しないでくれ。君とどうしたら末永く仲良く暮らしていけるかを考えていた」

「そんなに深く考えないでも、今のあなたのままでいいと思いますけど」

「そうかね。僕は一度失敗している。今までのままでよいと言われると不安になる」

「あれからあなたは変わったのではないですか? 私も変わりましたから」

「どう変わった?」

「何が悪かったか考えたと思います。私もそうですから」

「確かにそうだけど、考えるだけで変われるものなのか?」

「変われるかどうか、私も分かりません。ただ、考えたことが大切なんだと思います」

「そうだね。それを君の口から聞いてほっとした。力を抜いてもっと自然体でいいのかもしれないね」

「そうです。そんなに気を遣っているとお互いに疲れてしまうと思いますから」

「そうだね」

紗奈恵が僕の手を握ってくれた。僕はその手を握り返した。

「頭重くない?」

「いいえ、このまま休んでください」

「ああ、落ち着く」

仲居さんが「お食事の用意をします」と声をかけてきた。その声で二人は目を覚ました。二人はそのままうたた寝をしていた。二人とも疲れていたし、ほっと気が抜けたらからだろう。
美味しい食事だった。お昼の会食も美味しそうな料理が出ていたが、十分に味わっていなかった。そう言うと紗奈恵も私もですと言った。

お酒はほどほどにした。紗奈恵がビールを注いでくれる。美味しいお酒を思う存分に飲みたかったが、大切な後があるので控えめにした。これくらいにしておくと緊張がほぐれてちょうどいい。紗奈恵もビールをコップに2杯くらいは飲んでいた。頬に赤みが差している。

ほどよいころに仲居さんが料理を引きあげていく。それから布団を敷いてくれる。二人は窓際のソファーに座ってそれを見ていた。僕は紗奈恵の手を握っている。

仲居さんが「ごゆっくり」と言って出て行った。二人になるとなんとなく緊張する。シャワーを浴びてくると言って僕は部屋の浴室に入った。熱めのシャワーが気持ちいい。僕が出て行くと代わりに紗奈恵が入っていった。

僕はソファーで水のボトルを手に持って喉を潤している。紗奈恵が上がってきて、僕の隣に座った。そして「よろしくお願いします」と頭を下げた。「こちらこそよろしくお願いします」と言い返すと、水のボトルを手渡した。

紗奈恵はそれをすぐに一口飲んだ。そしてニコッと笑った。今までに見せたことのない笑顔だった。抱き締めずにはいられなかった。固くしている身体を抱き上げて布団に運んで横たえた。

「避妊しようか?」耳元で囁くと、首を振ったと思うと僕に抱きついてきた。僕は今までの思いを紗奈恵にぶつけた。

薄明りの中で紗奈恵は僕のなすがままになっている。紗奈恵の身体はあの美香と同じだった。大きな乳房に大きな乳輪、くびれたウエスト、大きなお尻、顔が似ていると身体も似ている。

それから身体全体が敏感で何度も何度も昇りつめた。美香と同じだった。だから僕にはそれを楽しむゆとりがあった。違うことがひとつだけあった。紗奈恵はとても恥ずかしがった。

「みだらな女でしょう。恥ずかしい」

「いや、敏感なだけだから」

紗奈恵はどう思ったか分からない。そして二人は同時に昇りつめて果てた。僕は美香と同時に昇りつめて果てることには慣れていた。紗奈恵とも同じようにそれができた。ただ、紗奈恵には少し後ろめたいような複雑な思いだ。

僕は紗奈恵の亡くなった夫があれほど彼女に執着した理由が分かったような気がした。僕も絶対にもう紗奈恵を手放したくないと思った。亡くなった紗奈恵の夫のように彼女に執着する気がした。ひょっとすると紗奈恵は自分でも言ったように魔性の女なのかもしれない。

心地よい疲労の中で僕は紗奈恵を腕の中に抱き締めている。紗奈恵も手だけが生きているように僕にしがみついている。

「ずっと、一緒にいたい」

「ああ、もう離さない」

紗奈恵の手に力が入る。その力が抜けていったと思ったら僕も眠ってしまった。

◆ ◆ ◆
朝、紗奈恵が布団から出て行くのに気づいて目が覚めた。浴室に入って行った。もうすっかり明るくなっていた。朝風呂もいいかなと僕も後を追って浴室へ入った。

「おはよう。一緒に入っていい?」

外を見ながら身体を洗っている紗奈恵は驚いて振り向いた。

「いいって、もう入っているでしょう」

笑って言った。僕は浴槽からお湯を汲んで身体にかけてそのまま浸かった。部屋には温泉かけ流しの小さなお風呂がついていた。窓の外には冬の山並みが近くに見える。春には桜が咲き、新緑も美しいと言う。

身体を洗い終わった紗奈恵が湯船に入ってきた。近くで見る裸身は締まっていて美しい。

「昨晩はありがとう」

「こちらこそ、何もかも忘れられました」

「避妊しなくてよかったのか?」

「できにくい体質だと思います。それに授かりものですから」

「そうか、僕もそうかもしれない。分かった。そうしよう」

子供ができると絆がもっと強くなる。僕も紗奈恵にもそれがなかった。作られるものならすぐにでも作りたい。僕は別れてしまうことを恐れている。紗奈恵もそうかもしれない。

「明るくなるまで目が覚めなかった。明け方にもう一度、君を可愛がってあげたかった」

「昨晩、十分可愛がっていただきました。それでぐっすり眠れました」

「僕もぐっすり眠った」

「今日は東京まで行かなければなりませんから、そうゆっくり入っていられないと思いますが」

「休暇を取ってもう1日ここにいるんだった」

「私は早く二人の生活を始めたいです」

「それはそうだけど」

「さあ、上がりましょう」

上がって、身体を拭きあってから、二人はすぐに帰り支度を始めた。浴衣から服に着替えた。時計は8時を過ぎていた。それから食堂へ行って朝食を食べた。

9時30分に駅行きの送迎バスが出るので、それに乗ることにしてあった。10時56分発の「はくたか」に乗車すると13時52分に東京着、午後3時ごろにはマンションへ着ける。

駅では昼食用と夕食用のお弁当を買った。これで自宅に二人が着いてからゆっくりできる。駅に紗奈恵の両親が見送りに来てくれていた。娘のことが気になって仕方がなかったのだろう。僕にどうか娘のことをよろしくと何度も頭を下げていた。紗奈恵は「しばらくは帰らないから」と言っていた。

実家へ戻って4年ほど過ごして、このままずっと両親と一緒にいようと思っていたのだと思う。僕とこういうことになってまた実家を離れることになった。「しばらくは帰らないから」は紗奈恵の両親への思いと帰らないという決意が現れていた。

新幹線が動き出した。両親の顔が見えなくなると寂しそうな表情が見て取れた。僕は紗奈恵の手をしっかりと握っている。

「向こうに着いたら、慣れるまでしばらくはゆっくりして」

「そう言っていただけると気が楽です。でも落ち着いたら仕事を探します」

「管理栄養士の資格を持っていたんだよね。すぐに見つかると思うけど」

「帰りが遅くならないようなところを探そうと思います。二人の時間を大切にしたいから」

「僕に気兼ねはいらないから、僕もそんなに早くは帰れないから」

「そうさせてください」

「君にまかせる。そう言ってくれて嬉しい」

「僕も二人の時間を大切にしたいと思っているから」

紗奈恵は嬉しそうに僕の腕をしっかり抱きかかえた。

二人がもたれ掛かって居眠りをしているとすぐに東京駅に到着した。東京へ戻ってきた。これから二人の生活が始まる。
マンションへは午後3時前に到着した。紗奈恵の荷物は先週の土曜日に搬入されていた。母親と午後1番の搬入に合わせてやってきて、整理をすませると午後6時には帰って行った。もともと彼女の荷物は多くなかった。家具や家電は僕のものを使うことにしていた。

だから荷物は紗奈恵の衣類や身の周りの物、布団、それに食器と調理器具だった。もともと僕がここへ引っ越ししてきてから日が浅かったので、収納スペースは十分に余裕があった。すべて難なく収まった。必要なものがあれば、買うか、紗奈恵の実家から送ってもらうことにしていた。

紗奈恵は到着するとすぐにスーツケースを開いて片付け始めた。それから洗濯を始めた。一人暮らしに楽なようにドラム式の乾燥機付きの洗濯機を買ってあった。これで紗奈恵の負担も少なくて済む。

僕はコーヒーメーカーでコーヒーを2杯作った。ソファーに座って二人で飲んだ。

「家事は君のペースでいいからね。僕にできることは何でもするから、遠慮しないで言ってくれればいい。食事の準備が大変なら弁当でも総菜でも買ってくるから言ってくれればいいから」

「ご心配には及びません。こちらの生活になれるまでは、家事に専念しますけどそれでいいですか? 食事もきちんと作りますから、ご安心ください。慣れてきたら、勤め口を探してみます」

「君のペースでやってくれればいうことはない」

「それじゃあ、一休みしたら、近くのスーパーへ連れて行ってください。今日の夕食はお弁当を買ってきましたが、明日の朝食や夕食の材料を仕入れてきたいです」

「それじゃ、一休みしたら、案内しよう」

二人は駅前のスーパーへ行って、必要なものを買ってきた。カードで支払おうとしたが、紗奈恵はカードを使わないで、現金で支払いたいと言った。カードではお金を使い過ぎるからと言う。意外と倹約家だと感心した。

帰ってから、相談していなかった家計のことを率直に話し合った。僕は基本的にすべて紗奈恵に任せたかった。僕は給料をすべて紗奈恵に渡してそれからお小遣いをもらうことにした。始め紗奈恵は任せられても困るといっていたが、最後は引き受けてくれた。前は亡くなった夫がすべて取り仕切っていて、生活費だけ渡されていたと言っていた。

でもそうしたことが嬉しそうだった。僕が彼女を信じていると言う証にもなる。ただ、これまでの僕の貯金は僕の思い通りに使わせてもらうことで承知してもらった。もちろん彼女の貯金もそうしてもらうことにした。

幸い僕は海外赴任中にかなりの額を蓄えることができていたが、その額は彼女には内緒にしておいた。いずれ自宅を購入するときの頭金にしようと思っている。

こうして紗奈恵との生活が始まった。落ち着いた二人だけの生活だ。僕は何一つ不満がない。紗奈恵もそう思っているのだろうか。いつも柔和な笑顔を見せてくれる。

僕は紗奈恵と愛し合った後は必ず抱き締めて眠ることにしている。愛おしくてたまらないのと、眠っている間にどこかへ行ってしまいそうな不安があるからかもしれない。またあのような失敗を繰り返してはいけないと思っているからだ。

紗奈恵は僕がそうすることを決して嫌がらない。むしろ彼女の方からしっかり抱きついてくるし、抱きついて眠っている。同じ思いなのかもしれないと思うとますます愛おしさが募っていく。

ただ、眠ってしまうとお互いに力が抜けて離れてしまう。夜中に紗奈恵が無意識に抱きついてくることがある。僕は夜中に目が覚めて紗奈恵と離れていても必ず彼女に触れている。腕を抱いていたり、手を握っていたり、胸に手がかかっていたりしている。無意識でも繋がろうとしているみたいだ。

紗奈恵も同じだ。僕の腕にしがみついていることや手を握っていることが多い。僕の大事なところに手を置いていたこともある。寝顔はいつも安らかだ。思わず抱き寄せてしまう。

思い返すと智恵とはこういうことはなかった。確かに始めのころはあったが、長くは続かなかったように思う。

どこに違いがあるのだろう。紗奈恵への思いの強さしかないように思う。それとも何度も何度も切れかけた糸を繋いで繋いでようやく結ばれたからだろうか?

僕は身体のつながりがやがて心のつながりを生み、その心のつながりが身体のつながりを凌駕して絆が強くなっていくと思っていた。

でもそれだけはないことが分かった。ほかに何か大切なことがある。僕と紗奈恵の間にあったもの、今もあるもの、でもそれがなんだかはっきりとは分からない。