顔を上げて! 桜さん。


「面白かったです」

店を出ると、桜さんは満足げににっこりした。

「あんなに何でも揃っているなんて。かわいい手拭いも買えたし」
「手拭い?」
「はい。哲也さんが懐から手拭いを出して汗を拭いているのを見て『あれだ!』って思っていたんです。わたし、汗っかきなので、これから夏に向けて、ぜひあれをやりたいと」
「そうでしたか」

合理的で便利だけれど、お手本にしたのが“おじさん”だというのがなんとなく可笑しい。

竹見台駅へと並んで歩く足取りは来たときよりものんびり。買い物で緊張が解けて、お互いの距離が縮んだような気がする。……と、思ったのに。

「お時間を割いていただいて、ありがとうございました」

丁寧に頭を下げられてしまい、落胆した。頭に浮かんできたのは『他人行儀』という言葉。

「いいんですよ。僕も買うものがあったんですから」
「でも、わたしがいなければ、もっと短い時間で済みましたよね? 申し訳なかったです」

確かにひとりなら時間はかからなかったはずだけれど……。

さっぱりした顔で当然のように謝られると、前と同じように透明な壁を感じてしまう。少しは仲良くなれたと思ったのは俺の勝手な思い込み?

――……違う。

これは桜さんが人見知りのせいだ。いや、人見知りというより、自分が単なる余計者だと思っているのでは? だからこんなふうに謝罪の言葉を。それなら。

「謝る必要なんてありません」

ここはきちんと否定するべきだ。

「僕も面白かったですよ。新鮮な反応が見られて」
「ん?」

桜さんが目をぱちぱちさせた。

「……わたしですか?」

確かめるような、そして疑わし気なその表情。ひたすら礼儀正しかった彼女にそんな顔をさせたなんてすごいじゃないか!

「はい。思いがけないものに驚いたり面白がったりするので面白かったです」

ついでに彼女の“目立たないように”という理屈も。

「それは……」

数秒の間のあと、彼女はやっと力を抜いて笑った。

「じゃあ、良かったです。楽しんでいただけて」
「はい。また行きましょう」

――あ。

しまった! これは言い過ぎだったかも。「また行きましょう」なんて、人見知りの桜さんには馴れ馴れしいヤツだと敬遠されてしまいそうだ。

でも……。

桜さんは気付いていない? もうこちらを見ていない。

つまり、たいした失言じゃなかったということだ。俺も気にし過ぎだな……。

「続けようと思ってくれてよかったです」

気を取り直して話題を変えることにした。

「体験はときどき来るんですけど、皆さん、なかなか続かなくて」

桜さんが「そうなんですか?」と不思議そうな顔をした。彼女にとっては不思議なのだろうけれど、今までの入門希望者を思い出すと苦笑いが出てしまう。

「秋に神社で演武をするので、それを見てやってみたいと思うひともいるんです。あと一応、公式サイトを作ってあるので……。でも、一、二回で終わりのことが多いです」
「どうしてでしょう?」
「はっきりとは聞いていませんが」

まあ、想像はつく。

「地味なんだと思います。時代劇の殺陣(たて)とは違って(かた)を覚える稽古なので」
「でも、殺陣だって形があっての殺陣ですよね?」
「ええ。でも、殺陣を想像して来たら、うちだとだいぶ違いますよね。最初は抜刀納刀からですし」

形と言っても、必ず仮想の敵を相手にしておこなう。また、木刀を使って打ち合うものもある。どちらも真剣におこなうと息をのむような緊迫感が生まれる。

ただし、凄みや美しさは技と心を磨いていく中で生まれる――と、俺は理解している――ものなので、そこに至るまでの道のりは長い。体験に来た人が初めての居合刀の扱いに苦労しながらそのことに気付いてやめてしまうのも仕方ないのだろう。

「わたしには抜刀と納刀だけでも難しいです。素振りも足捌きもちゃんとできないし、殺陣なんて……人に見せられるようになんて、永遠にならない気がします」

桜さんがため息をついた。

「桜さんはまだ一か月じゃないですか。続けていけば必ず上達しますから大丈夫ですよ。そうそう、先週はだいぶ抜刀できるようになっていましたよね? そろそろ抜刀術も始まると思いますよ」

抜刀術は立っている状態で攻撃を仕掛けてきた相手を斬り伏せることを想定して動きが組まれている技で、全部で七本ある。演武で披露することも多い。

「わたしがですか?! もう?! ……大丈夫でしょうか?」
「大丈夫ですよ。もちろん最初は簡単ではないですけど、抜刀術も刀と体の使い方の基本練習になっているんです。それに僕だってまだ宗家に直されることがありますよ」
「風音さんでも完璧じゃないってことですか? あんなに綺麗なのに? 奥が深いんですねぇ。しっかりやらないと……」

桜さんのこういうところが良いところだと思う。おとなしいひとだけれど、今のところ「無理です」という言葉を聞いていない。地道で前向きな性格は武道に向いているような気がする。……まあ、向いているかどうかよりも、やりたいかどうか、なのかな。

そう言えば。

「母が桜さんを誘ったときのことを雪香から聞きましたよ。人違いから突然勧誘したって。いきなりでびっくりしたでしょう? うちの母、思い込むと一直線に進んでいく性格なので、家族でも思考が追い付かないことがあるんです」
「そうですね……」

視線を下げる桜さん。その日のことを思い出しているのだろうか。……と、にっこり笑ってこちらを見上げた。

「わたし、探していたんです」

何をですか?――という言葉が舌の上で止まってしまった。桜さんの笑顔が何かを隠しているようで――、同時に何かを伝えているようで。

探していた? 何を?

「習い事を……しようかと思って」

すっと視線を伏せ、つぶやくように彼女は言った。次に向けられた微笑みは静かで穏やかで……。

「あの日わたし、掲示板の前にいたんです。スポーツセンターの。どれなら自分にできるんだろうって思っていたら、ちょうど水萌さんと雪香さんが出ていらして」

遠くに向けた瞳がどことなく淋しげに見えるのは気のせいだろうか。憧れとあきらめが入り混じっているように感じるのは想像過剰だろうか。

「話しかけていただけてとってもラッキーでした。だって、黒川流って『スポセン便り』には載っていませんよね?」
「ええ。団体利用に申し込んでいるだけで、教室を開いているわけじゃないですから。じゃあ……母の早とちりも役に立つことがあるんですね」
「ええ、もちろん! わたしにとって、今までで一番のめぐり合わせです」

大切なものを確かめるように、桜さんは買った荷物に目をやって微笑んだ。その様子は「今までで一番のめぐり合わせ」が真実だと語っているように見える。

うちへの入門は、彼女にとってそれほど意味があるということ……?

「そう思っていただけるのは光栄です」

なんだか自信が湧いてくる。たった一人の言葉だけで。

彼女の思いが失望に変わらないように、俺もより一層励もう。先輩としてだらしない姿は見せられない。

「稽古までもう少し時間がありますけど……、桜さんは一旦家に帰りますか? スポセンの近くなんですよね?」
「いえ、準備はしてきたので、あとは今日買ったものを袋から出せば――あれ?」

桜さんが前方の何かに気付いた。

翡翠(ひすい)?」

桜さんの声に反応してこちらを向いたのは、コンビニから出てきた長身の美女。ジーンズにロングカーディガンというラフな服装でもスタイルの良さがはっきり分かる。

「桜!」

驚きと満面の笑みを浮かべて小走りに近付いて来る。あれは……。

「職場の友だちです。田名部(たなべ)翡翠(ひすい)さん。この駅が最寄りだって聞いてたけど、会えるとは思わなかった」

田名部翡翠。やっぱりそうだ。桜さんと……友達?

翡翠が俺を認め、数歩手前で足を止めた。ゆるくウェーブのかかった髪が肩で揺れる。顔を合わせるのは十年ぶりくらいか?

「クロ……?」

驚いて見つめ合う俺と翡翠を、桜さんが目を見開いて見比べている。と、翡翠が破顔した。

「やっぱりクロだよね? わあ、何年ぶり? え、やだ、どうしてふたりが一緒にいるの?」

最後の距離を詰めながら意味ありげに声をひそめた。

「……もしかして、マッチングアプリ?」
「ちげーよ!」

思わず言い返した俺を笑う翡翠。隣で桜さんがほっとしたように微笑んだ。






「桜があんまり詳しく教えてくれなかったから」

コーヒーショップのカウンター席で、真ん中に座った翡翠が軽く唇をとがらせた。近くで見ると肌が綺麗で感心する。少しハスキーな声は思っていたよりも軽やかだ。

「何かの武道ってことだけは聞いたけど」
「ごめん。ちゃんと続けられるかどうか分からなかったし……」

答える桜さんは翡翠の向こう側。背の高い翡翠に隠れてほとんど見えない。

桜さんが翡翠に説明しなかったことについては、なんとなく理由は分かる。なにしろ俺も、どう説明すれば正しく伝わるのか未だに分からないのだから。

黒川流剣術というのがうちの正式名称だが、それではまったく通じないし、剣術という言葉にもたいていの相手は首を傾げる。居合と説明すればある程度は通じるものの、うちは体術や他の要素の技もあり、一般的な居合術・居合道とは異なっている。

詳しく説明しても相手が興味がない確率が高く、退屈そうな相槌に、言わなきゃよかったと後悔したのは一度や二度じゃない。かと思うと過剰に興味のある反応をされて、こちらが引いてしまうこともある。

ということで、俺は今は積極的には剣術の話題は出さないことにしている。必要な場合は「刀を使う古武道」くらいでお茶を濁す。

「それにしても、クロのところだなんてすごい偶然」
「俺も翡翠と桜さんが知り合いだなんて、びっくりしたよ」

翡翠は中学からの友人だ。クラスの中で背が高かった俺たちは、よく背競べをしながらふざけあっていた。いつも楽しそうににこにこしている翡翠は男女を問わずみんなに慕われていて、そんな翡翠が俺には素の自分を見せてくれることが嬉しく誇らしかった。そして……翡翠の心からの願いを聞いたとき、ずっと支えようと心に決めた。

「最初の職場に桜がいたんだよね?」

同意を求められた桜さんが「そうなんです。今は別々ですけど」と翡翠の向こうから顔を出した。

「わたしは高卒で入って五年目で」
「桜はわたしのこと、大卒の同い年だと思ったのよね? でも、一つ上だって途中で分かったら、気を遣って敬語がごちゃごちゃになって。ふふ」
「年上の後輩ってそれまでにもあったんですけど、最初に同い年だと思い込んじゃったから……」

翡翠が「それが良かったんだよ」とにこにこ顔でうなずいたあと、表情をあらためて俺を見た。

「あのね、クロ」
「ん?」
「桜は全部知ってるから。気にしなくて大丈夫だよ」

全部。

翡翠の事情を全部。

それでも桜さんは翡翠とこうして一緒にいる。仲の良い友人として。

「そうか」

うなずきながら、今まで自分が緊張していたことに気付いた。桜さんは俺たちの会話を聞いているのかいないのか、さっき買った荷物を気にしている。

翡翠の事情。それは、翡翠が性別変更をしたということ。

知り合ったときの翡翠は男だった。俺たちは男同士として友達になったのだ。

翡翠が女性としての人生を望んでいると聞いたのは中学三年の秋だった。進路の話をしていたとき、目を合わせずに、とても小さな声で打ち明けてくれた。ずっと自分の中にあった違和感が次第に大きく、重くなってきてとてもつらい、と。

俺はその意味を深く理解できたわけではなかったけれど、翡翠が苦しんでいることは分かった。ずっと一人で苦しんできたのだと思った。だから、俺たちの友情はずっと変わらないと伝えた。翡翠がどんな選択をしても味方でいると。

高校からは別々になったけれど、連絡を取り合い、ときどきは会っていた。翡翠が家族に打ち明けたのは高校の後半で、幸いなことに、家族はみんな翡翠の気持ちを尊重してくれたようだ。

遠方の大学に進学して下宿生活を送るようになった翡翠は女性の服装で過ごすようになった。その時点から連絡はメッセージだけになり、直接会ってはいない。

けれど、翡翠は入学式と成人式の写真を、記念だと言ってシェアしてくれた。もともと端正な顔立ちだった翡翠は女性としてもまったく違和感がなくて、俺は笑顔の写真にほっとしながら幸せを願った。

大学在学中から翡翠は性別変更の準備をしていて、卒業と同時に正式に戸籍から変更した。就職が一年遅かったのはそれがあったからだ。女性として新たな人生に踏み出したいという決意を通したのだ。

ただ、葉空市役所に就職が決まったと連絡があったときは驚いた。いくら大都市とは言え、地元の市役所で働いたら翡翠の過去を知る誰かと会う可能性がある。名前を変えなかった翡翠は嫌な目に遭うかも知れないのに、と。

そんな俺への説明は、「窓口の人が驚かなかったから」だった。

性別変更後に戸籍謄本を取りに行った翡翠は、緊張のせいか、訊かれていないのに「性別を変えた」と窓口で言ってしまったらしい。動揺する翡翠にその職員はやさしく微笑んで「そうなんですね」とうなずき、そのまま何事もなかったように受付を済ませてくれた。そのことがとても有り難く、また、世の中に対して抱いていた引け目のようなものが大幅に薄まった出来事だったという。

その経験から、誰もが必ずどこかで関わらなくてはならない市役所にこそ自分はいるべきだと思った、と教えてくれた。マイノリティーの気持ちが分かる自分だからこそ、市役所にいる意味がある、と。そんな決心ができる翡翠を、俺は心からすごいと思っている。

「それで桜、クロのところの……なんだっけ?」
「剣術?」
「そう、それ! どんな感じなの?」
「めちゃくちゃ大変だよー」

――え? そうなのか?

あまりにも即答でびっくりした。いつも前向きな姿しか見せない桜さんだけど、本心では……?

「なんにも分からないところから始めたでしょう? 立ったり座ったりするのも大変だし、礼をするときのお作法もちっとも覚えられないし、歩くだけでも難しくて」
「そうなんだ?」
「うん。でもね、すごく面白い」

――あ。

目を輝かせ、翡翠をまっすぐに見つめる桜さん。口調は穏やかだけれど、わくわくする気持ちが伝わってくる。

「新しいことをやってみるのって楽しい。それにね、何もかもできなくて苦労してる自分が可笑しくって。何にもできないって、逆にすごくない?」
「確かに大人になるとそういう経験ってあんまりないかもね」
「でしょ? あと、すごいのはね、教えてくれる人が誰も『この前言いましたよね?』って言わないの! 何回でも怒らないで教えてくれる。それってほんとうに有り難いでしょう? だから、それに応えるためにしっかりやらなくちゃって思ってるんだ」
「ああ……、そういうところ、桜らしいね」
「そう?」

そうか……。

これが桜さんの物事のとらえ方なんだ。

上手くできない自分を笑い、アドバイスや駄目出しを有り難いと受け取る。怒ったりなげやりになったりせずに、起きたことをプラスに解釈する、大いなるポジティブシンキング。

「桜と一緒にいると楽しくなる。そう思わない、クロ?」
「え? あ、ああ」

ちょうどそう思ったところだった――いや、今気付いたわけじゃないな。

「さっき、買い物してるときも面白かったよ。桜さん、剣道の防具見て、床の間に飾るのかって訊くんだよ」

翡翠の向こうで、桜さんがコーヒーにむせた。

「剣道の防具? あの樽みたいなやつ?」
「そう」
「あれはっ、こほっ」

咳を止めた桜さんが翡翠に弁解する。

「百万円超えてたんだよ? そんなの実際に使う人がいるとは思えなかったんだもん。それに、胴だけじゃなくて面が乗っかってたし」
「面? 面って丸っこいあれだよね? 床の間に飾るには迫力に欠ける気がするけど」
「それはそうだけどね、色とか刺繍とか、かなり凝ってたし……」

言いながら、うらめしげな顔を俺に向けた。おとなしいと思っていた桜さんだけど、それだけではないらしい。

翡翠と別れて電車に乗ると、桜さんは翡翠との思い出を話してくれた。

一緒にランチをしたこと。仕事でお互いにフォローし合ったこと。他愛ない話でよく笑ったこと――。

翡翠は淋しくなかった。ちゃんと支えてくれるひとがいる。それが嬉しい。

俺と翡翠が会わなくなったのは、進学や就職だけが理由ではないと思う。お互いの中に生まれた遠慮。俺は、過去と決別するように生き始めた翡翠に。翡翠はおそらく、性別が変わった自分に俺が困惑するのではないかと考えて。

でも、大丈夫だった。桜さんのお陰で自然な形で再会することができた。そして、今は桜さんが翡翠の支えになっているのだと分かった。

別れ際、翡翠がそっと教えてくれたことを思い出す。

「桜に打ち明けたとき、桜はちょっとだけ考えてから、『ええと、女同士ってことでいいんだよね?』って言ったの。それから、『何にも変わらないよね?』って。それを聞いたらいろいろ覚悟して身構えてた自分が馬鹿馬鹿しくなっちゃって……、すごく嬉しくて泣いちゃった」

あまり大きく感情を表わさない桜さん。だけどたぶん、胸の中には思いやりとユーモアが同居していて、周囲を明るい気持ちにさせることに心を砕いている。きっとそうだ。






◇◇◇ 桜 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


『今日は桜の元気な顔を見られて嬉しかったよー』

稽古のあと、翡翠からメッセージが届いていることに気付いた。キラキラしたスタンプが添えられて、『10年ぶりくらいでクロにも会えたし』と続いている。

翡翠の笑顔が目に見えるようだ。

『わたしも会えてよかった! それに』

そこまで打って、手を止めた。家に着いてから落ち着いて送った方がいい。

一人になって夜道を歩いていると、午後の出来事が次々に浮かんでくる。初めての武道具店、コンビニから出てきた翡翠の姿、翡翠と風音さんが驚いて見つめ合う姿、そして……。

「ふ」

マッチングアプリだなんて、思わず笑いが漏れてしまう。たしかに風音さんとわたしの接点を推理するのは特A級に難しいだろうな。

コーヒーショップに向かいながら説明を聞いた翡翠は大袈裟に残念がっていた。

「最近のマッチングアプリの性能ってすごい! って思ったのに。この組み合わせなら間違いないって」

もちろんそんな言葉、冗談だと分かっている。風音さんも気にしていないようでよかった。ただ……、わたしは恋愛系の冗談を向けられるのは苦手だ。正しい対処法が分からないから。

否定するのも、肯定で受けるのも、相手に失礼のような気がする。そもそも冗談でもわたしなんかと組み合わされたことが申し訳ない。面白味もなければ美人でもないわたしなんかと……。

翡翠だって、わたしが苦手だってこと、ほんとうは分かってる。だから普段はそういう冗談は言わない。今日は最初の勘違いを笑い飛ばすためにあんな言い方をしただけ。それに、風音さんと久しぶりに会ってはしゃいでいたのかも。

翡翠と風音さん……か。

風音さんが翡翠の理解者でよかった。

ふたりが知り合いだって分かったとき、あそこで翡翠を呼び止めてはいけなかったかと、一瞬、血の気が引いた。ふたりの間に気まずそうな様子がなくてどれほどほっとしたか。

気まずいどころか、とても楽しそうだった。ブランクなんかないみたいに。ほんとうに良いお友達なのね。

でも、これからは気をつけよう。わたしのうっかりで翡翠が悲しい思いをすることがないように。




家に着いて、のんびり夕食を食べながらメッセージの返信をした。以前はできなかったことの一つ。

『わたしも! それに、風音さんと知り合いだなんてびっくりした』

そうだ。せっかくだから、今日の稽古のことも書こう。

『買ったばかりの袴を稽古で履こうとしたら、襞が崩れないように縫い留めてあったの。はさみがないから力づくで糸をちぎったんだけど、なかなか切れなくて焦っちゃった』

稽古の時間が近付くし、息切れするほど引っ張ったよね。わたしが非力なのか、あの糸が丈夫なのか……。

『ようやく着替えて、ほかの人にその話をしたら、『誰かに言えば、刀で切ってもらえたのに』って。何人かは真剣も持ってるからって』

一瞬、なるほどと思ったけれど。

『でも、糸なんか切っていいの?! って思わない? そしたらね、切れ味を試すチャンスはなかなかないから、ちょっとしたものでも切りたいんだよって』

あれを聞いてから、周りのひとたちが少し身近に感じられるようになった。今までは宗家や水萌さんたちが雲の上の存在に思えて、自分がそこに混じっていてもいいのか迷いがあったけれど、“ああ、ここにいてもいいんだ”って……。

真剣での試し斬りを、いつかわたしもやらせてあげると言われた。

神社の演武では畳表を巻いたものを斬るのを披露するそうだ。稽古では年に一、二回。準備と片付けに手間がかかるから、そう度々はできないらしい。

まあ、今のわたしのへろへろな振りでは、畳表ロールに刃が食い込めば御の字といったところだろう。「力で振るんじゃないんです」って言われているけれど、きちんと理解できていない……。

でも。

できたら格好いいよね。

「よし、がんばろ」

亀の歩みでも、続けていたら、いつかはどうにかなるかも知れない。現に今日だって、新しいことを教えてもらえるようになったし。

「そうだ」

摺り足の練習なら家でもできそう。時間があるときにちょっとずつやってみよう。

――あ。

お母さん……。

思い出した途端に重苦しさが胸に広がる。

不安。そして後ろめたさ。振り払っても振り払っても、繰り返し訪れる。弱気になると、大きな波になってわたしを飲み込む。

笑っていていいの? 楽しんでいていいの? それは正しいことなの? ――何百回も浮かぶ問い。

そのたびに、自分の幸せを求めるのは正しいと自分に言い聞かせて。

わたしにも幸せに生きる権利があるはず。それを求めなければ、何のために生きているのか分からなくなってしまう。けれど……。

たぶん、この気持ちから解放されることはないのだろう。だからどうにか折り合いをつけて、できる範囲で――わたしに見合った幸せを見つけていくしかない。

――いいえ。

やっぱり幸せになる資格なんかないのかも知れない。わたしには……。

もう十分に恵まれている。そうでしょう?

収入があって、住む場所があって、友達がいる。わたしを心配してくれる妹もいる。何も困っていない。そして、自由がある。

自由。

それがわたしを悩ませる。願ってやまなかった自由が。

わたしの自由。わたしの人生。楽しみと幸せ。

わたしの……。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



六月に入るとじめじめした日が続くようになった。稽古に使っているスポーツセンターの武道場は冷房が入るのでありがたい。

桜さんは少しずつ稽古に馴染んできた。袴姿も凛々しく、素振りのときはリズムについていけるくらいに。ただ……。

「ふぅ」

一つの素振りが終わるごとに大きく息をつき、すーはーすーはーと深呼吸をしている。

「桜さん」

インターバルで声をかけると、「はい」と息を整えながら姿勢を正して振り返った。

心成堂に行ってからずいぶん話すようになったけれど、彼女の礼儀正しさは崩れない。余分な緊張はしなくなったようだから、おそらくこれが彼女にとって自然な状態なのだろう。

「素振りのとき、桜さんは息を止めちゃってるんですよ」
「え?」

驚いた顔。自分では息を止めていることに気付いていなかったようだ。もちろん無呼吸ではないけれど、力を込める瞬間に息を止めてしまっているのだ。

「素振りの後に息切れしてるのはそのせいです」
「え、そうなんですか?!」
「ええ。素振りで声を出して数を数えるのは呼吸の練習の意味もあるんです」
「あ。わたし、声出してません……」

そのとおり。恥ずかしいのか、遠慮があるのか、桜さんは声が出ていない。

「呼吸で力の込め方が変わってきます。それと、酸欠になると動けなくなってしまいます。小さくてもいいので、声を出してみてください」
「分かりました。ありがとうございます」

神妙な顔でうなずいた。

おとなしいひとだから声を出すことに苦手意識があるのかも知れない。でも、こういうときに嫌な顔をしないのが彼女だ。だから躊躇なくアドバイスができる。

――頑張ってください。

上達してゆく姿が見たい。少しずつでも着実に。

次の素振りでは彼女の唇が動いていた。まったく聞こえないけれど、前向きに取り組んでいるのは間違いない。

個別練習の時間になると、清都くんと莉眞さんに(おもて)木刀の稽古を頼まれた。

表木刀は二人で向き合っておこなう技で、相打ちから仕留めるまでの流れが五本ある。その魅力は太い木刀での打ち合いと大きな掛け声によるダイナミックさ。技術のほかに気迫も大きな要素だ。

入門して二年目のふたりは五本の勝つ側、負ける側それぞれの動きは覚えている。でも、まだバランスが悪いし迫力もない。

「相打ちはちゃんと相手の面を狙って、ここに」

「そこは間合いを切るために大きく下がって。いや、ぴょこんと跳ばないで」

「そこで後ろの足を寄せてから……突く! そうそう」

「途中で上段になるときもいつもと同じ。重いけど切っ先が下がらないように、脇構えから、こう」

俺の指摘にふたりは一つひとつうなずき、やり直して確認する。「こうですか?」と質問し、「勘違いしてたー」と笑う。「なんでできないんだろう」と肩を落とした次の瞬間に「もう一回!」と構えている。上達したいという気持ちの前には遠慮など必要ない。

入門直後のふたりはこうではなかった。

稽古中に笑顔を見せることはめったになく、いつも眉間にしわをよせているみたいに見えた。やる気は見えるものの、話しかけると「はい」か「いいえ」しか言わないし、体を強張らせるのがはっきりと分かるので、こちらもずいぶん気を遣った。

それらは中学生まで通っていた水泳クラブの影響だったらしい。

少しずつ聞いた話を総合すると、「子どもは大人の言うことにただ従うべし」という強い信念で指導されていたようだ。ふたりとも好成績をあげていた一方で精神的に苦しくなっていて、高校受験を理由に退会できてほっとしたと言っていた。

そんなふうに、何かを習うということに疲れていた彼らがここに通うことを決め、今はのびのびと稽古している。俺や親世代の面々とも馴染んだ。彼らを見ていると、うちのような小さな団体でも何かしら世の中の役に立っているのだなあ、と感じる。

「そこはそうじゃないって」
「あ、宗家。これですか?」

宗家が来たので、宗家と俺が清都くんと莉眞さんそれぞれの相手になることにする。

俺と向き合った莉眞さんが、構えた途端に笑いをこらえたのが分かった。以前から、表木刀の稽古になると俺の顔が怖いと言って笑うのだ。

でも、これは仕方ない――というか、当然なのだ。正しく学んでもらうために、教える側は常に本気で向き合うべきだから。

向かい合っての技は実戦を模している。つまり、命のやり取りにつながっているということ。なので、常に本気で相手と向き合う。

それに実際問題として、重量級の木刀で打ち合うわけだから、気を抜くと大きなケガにつながる。……ということを分かっていても、莉眞さんは俺の顔――真剣な顔だ!――が面白いようだ。

相打ちの音がだんだん響くようになり、リズムも良くなってきた。宗家が一通りみたところで休憩にした。

場内では雪香と哲ちゃんが小具足の稽古をしており、その向こうで翔子さんと桜さんの抜刀術を母がみている。

離れて見ていると、入門から七、八年の翔子さんと桜さんの差がよりはっきりする。特に体の安定感。翔子さんに比べて、桜さんはまだぐらつきが多い。

――お。

彼らも休憩にするようだ。歩いてきた桜さんが俺に気付いて微笑み、小さく頭を下げた。屈んで水筒に手を伸ばしても、もう刀身が鞘から滑り出てくることはない。

「どうですか?」

声をかけると、「難しいです」と苦笑いが返ってきた。

「正面を斬ったときに前屈みになるのが直らなくて……、あと、視線がすぐに下とか手元にいっちゃうし。足もなかなか上手くいきません」
「そうですか」

まあ、週一回の稽古だと、上達は一進一退というところかも。

「それに、どうしても刀が抜けたところで『抜けた!』ってほっとしちゃうんですよね。そこで気持ちが途切れてしまうみたいで……」
「はは、それじゃあ相手にやられちゃいますね」

まだ抜刀が不安なようだ。刀が抜けなくて止まることはほとんどなくなっているけれど。

「抜刀のどこが気になっていますか?」

尋ねると、桜さんは考え考え動作をゆっくりなぞった。最初に比べるとだいぶ上手になっている、が。

「刀が抜ける最後のところでガリガリいう感触があって……、鞘引きが足りないってずっと言われてます。あと、ガチャガチャいう音が」
「あ、俺もガチャガチャ直らないっす」

横にいた清都くんが手を挙げた。

「ああ、そうだよね」

抜刀も納刀も、正しくできていると音がしない。ガチャガチャいうのは動きのどこかしらに不都合な点があるということだ。清都くんの場合は急ぎ過ぎで、余分な力が入っている。莉眞さんによると、アニメの影響で格好つけているからだとか。

自分の命を守るうえで、速く動くことは重要だ。でも、急いで動くというのとはちょっと違う。黒川流ではその“速さ”を、無駄のない動線と、さまざまな力の流れを利用することで生み出そうとする。

「水分補給が終わったら、ちょっと抜刀してみてもらっていいですか?」

はずしていた刀を差しながら桜さんに言うと、彼女は「わたしなんかにそんなに丁寧に言わなくてもいいんですよ!」と笑った。清都くんもクスッと笑っている。セリフにさりげなく親しみと可笑しさを込めるのは桜さんならではで、話していると、フッと肩の力が抜ける瞬間がよく訪れる。

水筒を置いて壁から離れた彼女の左側――帯刀している側――に立つ。

「いきます」

視線を正面に向けた桜さんが姿勢を正す。右足から出て一、二、三で抜き付け。正眼の構えから血振り、納刀――の初めで声をかけた。

「鞘引きは――この左手なんですけど、もっと前、鯉口が隠れるように握ると、あと何センチか引けます」
「え、それは手がはみ出すくらいってこと……ですか?」
「そうです。こんなふうに」

やってみせると桜さんが目を瞠った。

「それだと手を切っちゃいませんか?」
「大丈夫です」
「居合刀だから……?」
「いいえ、本身でも。正しくできていれば切れません」

桜さんが無言で俺の顔を見る。

桜さんはよくこんなふうに、会話の途中で黙って俺の顔を見る。初めは戸惑いの表情かと思ったが、実は自分の意見を胸の中にとどめているときの彼女の癖だ。その都度、微妙に表情が違うのだ。そう気付いたら、何が言いたいのかもだいたい想像がつくようになった。

今はたぶん、疑念か否定。そして、それを口にするのは失礼だ……なんて考えているのだろう。言わなくても顔に出ていたら同じなのに、と思うと可笑しい。

「練習すればできますよ」

確信を込めてうなずいてみせる。

「……分かりました」

桜さんも、自分に言い聞かせるようにうなずいた。

「風音さんを信じます。練習します」

俺を真っ直ぐ見て言ってから、にこっと笑って。

「まあ、この刀ではいくら触っても切れないですもんね?」

気軽に付け加えられたひとこと。入門当初は返事をされて終わりだったけれど、今は少しやり取りが増えた。

「そうですけど、最初から本身を使うと早く上達するそうですよ。良かったら僕のでやってみますか?」
「え、それ、切れるやつですか?」
「そうです。ときどきこっちでも稽古しているんです」
「どうりで今日は柄巻きの色が違うなあと思ってたんですよね……」

話しながら桜さんがそろそろと後ろに下がっていく。俺を信用していないらしい。

「大丈夫ですよ。人に向けては抜きませんから」
「あ、ソーシャルディスタンスです。普通の」
「明らかに間合いを取ってますよね?」
「ああ、なるほど! これが間合いを取るっていうことですね? すごい! よく分かりました!」

本気で感心している彼女。なんだか漫才をやっているような気分になる。

「では、納刀してみます」

あらたまって姿勢を正した彼女に、俺もあらたまって「はい」と返事をした。

俺の横に戻った彼女が正眼に構える。そこから血振り、そして――。

「ええと鯉口の……このくらいですか?」
「あー、もう少し前ですね」
「こう?」
「うん、そのくらいかな」

――信じます、か……。

ふと、さっきの言葉が頭に浮かぶ。

なんだか妙にくすぐったいような、照れくさいような気分。彼女が俺に大きなものを委ねてくれたみたいな。

そんなふうに考えるのは大袈裟だ。だけど……。

だけど。






「ありがとうございました」

モップかけが終わった武道場。荷物を持った桜さんが、丁寧に頭を下げて前を通り過ぎていく。荷物を持って……?

「あれ? それ……」
「あ、お借りしたんです」

わざわざ戻って来て見せてくれたくたびれた刀ケース。たしか予備の刀が入っていたやつだ。長さが一メートル二十センチくらいある刀ケースは、小柄な彼女が持つと一層長く見える。

「家で練習したいなあと思って。居合刀を持ち帰れるかお聞きしたら、公共の場所で中身を出さなければ大丈夫ですよって、哲也さんが入れ替えて貸してくださったんです」
「そうですか」

予備の刀や木刀は哲ちゃんが車に積んで持ってきている。今まで桜さんは、その中から自分用と決めたものを取り出して使っていた。刀ケースは一本用からまとめて入れられるものまで、いくつかあったはずだ。

それにしても、家で練習とは嬉しいことを聞いた。

「桜さんの家は戸建てでしたね。庭で練習できますね」

俺はマンション住まいだけど、素振りはできる限り毎日やっている。そのために一階の部屋を選んだのだ。と言っても室内でできることはそれほど多くない。

「え? 庭でなんて無理ですよ!」

彼女が笑う。

「駐車スペースしかありませんから。そんな場所でやったらご近所の評判になってしまいます」
「あ、そうなんですか」

隣の家が祖父のお得意様だと聞いたから、桜さんの家もそこそこの広さの庭があるのかと思っていた。

「じゃあ、室内でやるんですね」
「ええ。リビングのテーブルを寄せれば、抜刀と素振りくらいはできるかなって」
「壁とか天井、気をつけてくださいね」

「はい」と答えた桜さんは、ちっとも危険を認識していない笑顔だ。これは危ない。

「意外と遠くまで届くんですよ。いくら居合刀でも切っ先で壁紙とかソファーは破れます」
「え? そうなんですか?」
「ええ。それに、刀身が当たれば床や家具はへこみますから」

桜さんは眉を寄せて黙った。と思ったら、納得したような笑みを浮かべた。

「風音さん、もしかしたら、やったことがあるのでしょうか?」
「あはは、分かりました?」

そう。あれは入門してすぐのころだ。

「中学生のとき、家族が留守の時にこっそりやっていたんです。室内に少しずつ傷が増えて、ソファーに穴が開いたところでとうとうバレて、めちゃくちゃ怒られました」

それ以来、実家では庭でしかやらない。幸い実家の庭は商売道具の植木が生け垣代わりになっていて、外からは見えにくい。

「気をつけます。ありがとうございます」

桜さんが笑顔で言った。

「でも大丈夫です。怒るひと、誰もいませんから」

誰もいない? それって……?

誰も怒らないのか、誰もいないのか……と考えている間に、彼女は「ありがとうございました。お先に失礼します」と丁寧にお辞儀をして行ってしまった。

――ま、いいか。

そのうち聞く機会もあるだろう。

「哲ちゃん、荷物運ぶよ」
「うん、頼む」

稽古にはいつも哲ちゃんのワゴン車に祖父と母と雪香が同乗して来ている。俺は電車で来て、稽古の後は一緒に実家まで乗せてもらう。

いつもより荷物が少ないな、と思い、桜さんが自分の居合刀を持ち帰ったことを思い出した。

――あれは間違いだったな。

初めのころの桜さんの印象。

彼女にはあまり積極性がないと思った。でも、そんなことはない。対人関係や自己表現では控えめだけれど、自分でできることを考えて実行している。

家で練習するようになると、今までよりも上達が速くなるだろう。毎週、彼女が上手になっていくのを見るのはとても楽しみだ!

思い出してみると、雪香や清都くんたちが入門したときは、単に後輩が入ったとしか思わなかった。彼らが頑張っていることは認めているし、仲間意識もあるけれど、その一方で、自分は自分として努力するだけ、という気持ちだった。どうして桜さんについてだけ、その上達にこんなに関心があるのだろう? 桜さんが同年代だから?

貴志(たかし)は今日も部活か?」

駐車場に向かいながら祖父が父のことを尋ねている。中学教師の父は剣道部の顧問をしていて、日曜日に家を空けることも多い。

「今日は休みでゴロゴロしてました」

後ろから母が笑って答えた。

「今ごろ夕飯作ってくれてるはずです」
「兄貴、料理上手くなったのか?」
「レパートリーがずいぶん増えたのよ。ね?」

同意を求められた雪香が「うん」と答えた。

駐車場はスポーツセンターの前にある。その端に掲示板があって、母と雪香はそこに立っていた桜さんと出会ったのだ。

――あの日……。

稽古の後にここを通るたびに思う。

あの日、俺は用事で稽古を休んでいた。母と雪香は稽古後に二人で食事に行こうとうちの車で来ていて、祖父たちとは別行動だった。いつもと違う状況だったあの日、桜さんも偶然、その時間にそこにいた。

もしも一つでも違っていたら、桜さんの入門はなかったかも知れない。その可能性を考えると、なぜか胸がざわざわする。俺には何も影響はなかったはずなのに。

うちへの入門をとても大切そうに語っていた桜さん。態度は控えめだけれど、上手くなりたいという思いを胸に秘めている。そんな彼女がうちの存在を知らないままだったら……、彼女は何か別の大切なものを見つけていただろうか。

そして俺は?

ずっと稽古は好きだった。技を究めることに心を向けると、日々の心配事や煩わしさがそこで上書きされて、気持ちをリセットすることができた。

今ももちろんそうだ。そうだけれど、それだけではなくなった。

同じものに向き合い、俺と同じ方向を向いているひとがいる。経験年数に差はあるけれど、上手になりたいと取り組んでいる桜さんが。

ほかのみんなも同じはずなのに、桜さんにだけこんなふうに感じるのは何故だろう……。

「そう言えばね、(たつみ)くんに彼女ができたらしいよ。家に来たって翔子さんが言ってた」

車に乗り込みながら母が言った。

巽くんは翔子さんの息子で、高校生のときに翔子さんと一緒に入門した。楽しそうだったけれど、大学で鉄道研究会に入ると、バイトと旅行で忙しくなって退会した。

あとから聞いた話では、もともと剣術をやりたかったのは翔子さんで、巽くんを誘ったそうだ。当時の巽くんは不登校気味だったため、学校以外の場所で人間関係を築かせたいという翔子さんの親心もあったらしい。

黒川流は入門に関しては非常におおらかで、入る気があるひとは迎え入れ、退会するひとは引き留めない。お金を儲けるものではないのでそれでいいのだ。

「巽くん、いくつだっけ? 大学卒業した?」
「去年就職したんだよ。お菓子の会社に」
「彼女って同僚なのかな? それとも趣味仲間? 親に紹介するってことは結婚も考えてるってことかな?」
「どうだろう? 社会人二年目で結婚?」
「夫婦二人で働くなら、若くても収入は十分かしらね?」

三列シートの一番後ろで、恋人や結婚の話がこっちに向きませんように! と祈る。二十九歳、彼女無しの俺は、こういう話題には口を噤んで気配を消しておいた方がいい。

――そう言えば……。

翡翠に誤解されたっけ。桜さんと……俺の関係を。

誤解だとわかると残念がっていた。桜さんと俺ならぴったりだと思ったのに、と。その可能性はあるのかな……。

――俺は……嫌じゃない、けど。

あのときは驚いて、即座に否定した。もちろんマッチングアプリで出会ったわけではないから、否定したのは正しい。桜さんが困るとも思ったし、その後の関係がぎくしゃくするのも避けたかった。でも、べつに嫌な気分ではなかった。俺が否定した理由を桜さんが勘違いしていないといいけれど。

――もう少し長く話す機会があればいいんだけどな……。

ときどき思う。心成堂の日のことを思い出したときや、あるいは、今日の帰り際みたいなときに。もう少し時間があれば、と。

彼女と話すのは楽しいのではないかと思う。それに、彼女が何を面白いと感じて、何を大事にしているのか知りたい。それから……彼女が俺と仲良くなれそうだと感じているか確認できたら。

でも、誘う理由がない。

正直に「あなたをもっと知りたい」なんて言ったら仰々しいし、もう後戻りできない感じだ。何かもう少し軽いきっかけがほしい。

スポセンの周りは学校と住宅街で、稽古のついでにご飯を食べに行く場所なんてない。だとしたら平日? 理由は例えば――。

「う、なんか……」

急に来た。

雪香が気配を感じたらしく、前の席で振り向いた。俺の顔を見て眉をひそめる。そして。

「ねえ! お兄ちゃん、酔ったみたいだよ」
「え? やだ、静かだと思ったら」
「しばらくなかったのになあ。空腹で車に乗ったせいか? 風音、大丈夫か?」
「うん。大丈夫……」

胃のあたりが気持ち悪い……。

「あと二、三分で着くからな」
「うん……、ごめん」

車内の気遣わしげな空気に申し訳なくなる。けれど、こればかりはどうしようもない。スポセンから実家までほんの二十分程度なのに、車酔いなんて情けない。きっと黙って考え込んでいたせいだ……。

――カッコ悪いな。

こんな俺じゃあ、桜さんにがっかりされてしまうかな。

それに、今日は父さんの手料理を食べられそうにない。残念だ。






ずっとメッセージのやり取りばかりだった翡翠から電話がかかってきたのは六月半ば。用件はなんと、桜さんとの食事会への招待。まるで俺の願いが届いたかのようなタイミングだ。

金曜日の夜に、葉空駅の近くのイタリアンレストラン。桜さんの同期の男性も来るけれど、俺が参加してもまったく問題ないと言われ、ほぼ迷わずにオーケーした。返事が早すぎたかと少し不安になったりしたが、翡翠が何も言わなかったので気にしないことにした。

葉空駅はJRや市営地下鉄のほかにいくつかの私鉄も乗り入れている大きな駅だ。連絡通路は朝から晩まで大勢の人が行き来している。

緊急の仕事が入ることもなく無事に退社できたから、遅れずに参加できそうだ。梅雨も一休みで晴れた一日だったけれど、外に出ると蒸し暑さが半端ない。桜さんに会う前に、どこかで顔を洗いたい気分。

「クロ!」

JRの改札から出たところで翡翠が追い付いてきた。隣に並ぶと背の高さが俺とさほど変わらない。紺のワンピースに細いネックレスがフォーマルな雰囲気。

「え? もしかしてちゃんとした店? 俺、仕事のままだけど」

半袖ワイシャツにグレーのパンツ。一応、革靴は履いているけれど、ノーネクタイだ。

「ああ、大丈夫大丈夫。わたしはこういう服が好きだから着てるだけ」

笑って言う翡翠は、やっぱりどこから見ても女性でしかない。

そう確認したら安心した。中途半端に気を遣う必要はない。翡翠は女性だ。そして友達。

「声かけてくれてありがとう」
「こちらこそ、来てくれてありがとう。お店、知ってる?」
「いや、初めてだな」
「こっちが近道なの」

駅の東西を結ぶ中央通路から、地下街へと抜ける細道に入る。

古くから東京と県内を結ぶ存在だった葉空駅は、俺が知っている限り、常にどこかを改修している。地元に住んでいても初めて知る出口があったり、いつの間にか抜け道ができたり消えたりするのだ。どこまでできたら完成形なのかまったく分からない。

「もう一人来る桜の同期はね、わたしたちより五つ年上。見た目がちょっと個性的だけど、いい人だし、クロとも気が合うと思う」
「五つ上? じゃあ、桜さんとは六つ違いか」
「そうね。桜は高卒で、イッチーは大卒の転職だから。あ、名前が一柳(いちやなぎ)(めぐる)さんっていうの。だからイッチー」

なるほど。

見た目が個性的というのは想像しにくい。服装なのか、体型なのか、雰囲気なのか。いったいどういう方向の? 女性からニックネームで呼ばれているのなら、フレンドリーな性格か。

年齢が五つ上ということは三十四歳。……いや、それよりも高卒すぐの桜さん、つまり十八歳だった桜さんを知っているっていうところがなんだか羨ましい。俺はべつに十代の女の子が好きというわけではないけれど――。

「あ、いたいた。桜! イッチー!」

翡翠が駆け寄る先に桜さん。淡い色のふわりとしたブラウスを着て、今日は髪を下ろしている。そして隣には。

――え? あのひと?

長身で逞しい男性。近付いてみて、思わず凝視してしまった。

白いポロシャツに包まれた胸の厚み。半袖から伸びる腕は筋肉に包まれている。ボディービルダーほどではないけれど、肩からウエストへの引き締まり具合にオーラを感じる。そこに人の良さそうな笑顔と角張った黒縁メガネが加わって、まるで正体を隠しているスーパーマンみたいだ。

「風音さん、こんにちは。来てくださってありがとうございます」

桜さんの声。稽古で聞くよりも元気で可愛らしく聞こえる。

「あ……、こんにちは。今日はお邪魔します」
「全然お邪魔じゃないです! こちらは一柳さんです。わたしの同期。十年だから、長い付き合いだよね?」
「一柳巡です! 葉空市消防局勤務です!」
「消防局……ですか」

ビシッと敬礼でもしそうな自己紹介に圧倒されつつ納得。そのとき。

「イッチーは消防士じゃないからね? 総務課よ。事務職の係長」

隣から翡翠の声。

事務職?

「あ……そうなんですか?」
「はっ。新採用時に坂井と同じ区役所に配属されて、隣の課で四年ほど」

区役所に……。

区役所に行って、窓口にこのひとが出て来たら、ちょっと身構えるな。……って、俺も自己紹介しないと。

「黒川風音です。翡翠とは昔なじみで」
「今はわたしの剣術の先生。すごーくお世話になってるの」

先生ではないと言おうとしたけれど、桜さんの表情を見たら言葉に詰まってしまった。

――桜さん、一柳さんにはそんな顔をするんだ……。

すかさず一柳さんが「坂井がお世話になってます」と深々と頭を下げる。

「あ、いや、そんな、こちらこそ、桜さんが入門してくれたこと、うちのみんなが喜んでいるんです」

あたふたしているうちに、宗家以外は先生と呼ばないと訂正するタイミングを逃してしまった。

桜さんと翡翠は可笑しそうに視線を交わしている。でも。

――これは……どういうことだ?

一柳さんと桜さんの親密そうな雰囲気。いったいどのくらいの関係?

同期と言っているけれど、桜さんのことで俺にこんなに丁寧にお礼を言うなんて、まるで身内みたいだ。それに、桜さんが一柳さんに向ける表情がいつもと全然違う。楽し気で、気楽そうで、からかう様子は甘えているようにも見えて……。

いつの間にか翡翠は入店し、すぐに案内係が来た。疑問を抱えたまま後に続いた俺の隣に、気付いたら桜さんがいた。

「風音さんがいらっしゃる前に」

軽く笑いながら桜さんがささやく。

「一柳さん、名刺を用意していたんです。風音さんに自己紹介するときに渡すって」
「名刺ですか? 仕事用の?」
「ええ。止めましたけど……」

もしかして、極端に真面目なひとなのか? あの自己紹介と言い、桜さんのことと言い、単にそれが理由?

「もしかして、欲しいですか?」
「……え?」

何を?

「一柳さんの名刺。要ります?」
「あ、いや、一柳さんの職場に連絡することはないと思います。お気遣いありがとうございます」
「いえいえ」

欲しいかと無邪気に訊く桜さんも……桜さんらしいな。笑ってしまう。

――やっぱり桜さんはいいな。

一柳さんの登場に混乱していた気持ちがほぐれていく。これが桜さん効果だ。

広い店内には点々と丸テーブルが並び、グラスを集めたようなシャンデリアで明るく照らされている。店員がイタリア語で威勢よく呼び交わしながら、気取った様子でテーブルの間を歩いている。

「ここ、本格的な薪窯で焼くピザが絶品なんだって! 絶対頼もうね!」

席に着いてすぐに宣言する翡翠に桜さんがにこにことうなずく。

翡翠が中心になって手際よくメニューを選び、注文してくれた。桜さんはメニューやお酒にはあまり詳しくないようで、遠慮気味だ。

「黒川さんは」
「あ、はい」

向かい側から一柳さんに名前を呼ばれて思わず姿勢を正した。稽古のときの桜さんもこんな気分なのかも。

「どんなお仕事をされているんですか?」

桜さんと翡翠も俺に目を向けた。

「建築士です。建築会社で建物や公園の設計をしています」
「え? 植木屋さんじゃないんですか?」
「あ、そう思っていたんですか?」
「はい。雪香さんがそうだって聞いたので、てっきりご家族みなさんで……と」
「はは、そういうわけでもないんです」

目を丸くしている桜さんに翡翠が「今日はクロにいろいろ聞けるチャンスだよ」と笑って言った。俺としても、それは彼女の情報を得ることにもつながるわけで……望むところ、かな。

乾杯用に頼んだスパークリングワインが来て、店員が注ぐのを桜さんは畏まった様子で、そして興味津々の様子で見ていた。

「実は初めてなんです」

隣から身を寄せてこっそりと教えてくれた。

「こういうお店?」
「お店もですけど、スパークリングワインとか。ボトルでワインを頼むとか」

ににこにこしている桜さんは心から楽しそうだ。

「そうなんですか?」

勤めて十年なら、行く機会はありそうなのに……?

「はい。職場の宴会だと和食か中華ばっかりで」
「ああ、たしかに」
「はーい。では乾杯しましょう!」

翡翠から声がかかり、みんなでグラスを持つ。

「素敵なメンバーで集まれたことに、かんぱーい」
「かんぱーい」

グラスをあげ、桜さんは翡翠に「今日はありがとう」と言ってからそっと口をつけた。一口飲んでグラスを見つめながら味わい……にっこりした。

「美味しい!」

その笑顔を見た翡翠が「よかった!」と笑顔を返した。

「桜のために選んだお店だから、たくさん楽しんでね」
「そうだぞ。食べたいもの、飲みたいもの、どんどん頼め」
「ありがとう」

――桜さんの、ため?

三人の間では了解事項があるらしい。翡翠は何も言わなかったのに。

「お誕生日とか……ですか?」
「あ、違うんです、ごめんなさい」

桜さんが俺の戸惑いに気付いてくれた。

「ちゃんと四人で割り勘ですから心配しないでください。風音さんも遠慮しないで頼んでくださいね?」
「あ……はい」

べつに支払いのことを心配していたわけではないんだけどね……。






翡翠の情報どおり、ピザがとても美味しい店だ。

しっかりした生地がふくらんでいて熱々で、トマトソースの酸っぱさにバジルの香りやアンチョビの塩味、そしてとろけるチーズ! ほかの料理もワインもみんな美味しくて、一つを味わうたびに感嘆の声が上がり、会話が弾む。

翡翠と桜さん、そして一柳さんの気心の知れた会話と笑顔が心地よい。三人とも当たり前のように俺にも話しかけてくれるので、俺も楽しい時間を過ごせている。

「じゃあ、筋トレは去年からなんですか?」

一柳さんは元から筋トレ好きだったわけじゃないと聞いて驚いた。

「そうなんです。消防士たちに訊いた手前、やらないわけにもいかなくなりまして。なにしろみんなが次々と教えてくれるので。ははは」
「一柳さんて、やるとなったら手抜きができないタイプだから」

桜さんのひと言に心から納得する。椅子に座る姿勢も話し方も、お酒が入った今でも崩れていない。

「わたしたちもびっくりしたよね? 久しぶりに会ったらイッチーが痩せてたから」
「え? 痩せた?」

思わず訊き返してしまった。今は、マッチョだけど痩せ型とは言えないと思う。ということは。

「一柳さん、就職してからどんどん太っちゃって」
「そうだったんですか……」
「いやあ、坂井には『そのままだとセイウチみたいになっちゃうよ』って怒られたなあ?」
「桜はイッチーには容赦ないから」

たしかに桜さんは、一柳さんに対してはわりと強気だ。翡翠のようにニックネームで呼ぶことはしないけれど、口調に遠慮がない。それを受ける一柳さんは気を悪くするでもなく、ただ笑っている。そして――。

一柳さんが桜さんの飲み物や料理の残り具合を気にかけて、さり気なく世話を焼いていることに俺は気付いている。だって、俺が口を出す隙がないのだから!

こういうお店が初めてだという桜さんを気遣うのは分かる。でも、それにしては慣れているようにも見える。桜さんがそれに素直に応じているのも気にかかる。“いつものこと”みたいに。

これが十年間の絆なのだろうか? そう思うと落ち着かない。

とは言え、桜さんは俺を気遣ってくれているようだし、俺と桜さんが話すのを邪魔されることもない。だから桜さんと一柳さんの関係を俺が気にする必要はない……のだろうか。

「美味しいものって、世の中にたくさんあるんですね」

ワイングラスを手に、桜さんが満足げにため息をついた。店内を見渡す瞳が明かりを受けて輝いている。

「この前は翡翠と有名なフルーツパーラーに行ったんです。値段は高かったけど、パフェがほんとうに美味しくて、お店も素敵で大満足でした」
「美味しいものを食べるっていいですよね」

それが気の置けない相手と一緒ならなおさらだ。

「わたし、今まで……」

彼女はそっとグラスを置いた。

「母の体調がもともと良くなくて、職場の歓送迎会くらいしか、宴会や食事会には出ていなかったんです。妹が家を出てからは、母とわたしの二人暮らしだったし。でも……二月に母が亡くなって」

はっとした俺を気遣うように微笑んで。

「ほんとうは、喪中だからあんまり楽しんじゃいけないんだろうなって思うんですけど、妹が、今までできなかったことをしてほしいって言ってくれて。先月、その話を翡翠にしたら、楽しい企画を考えるよって言ってくれて」

話が耳に入ったらしい翡翠が「あたしだってずっと桜と遊びたかったんだもん」と言ってにっこりした。桜さんがそれに微笑みを返す。

「桜さんのお母さんも、きっと桜さんが楽しく過ごしている方が嬉しいと思いますよ」
「ええ……、そうですね」

俺の言葉に微笑んで答えながらも目を伏せてしまう。そりゃあ、お母さん――しかも長い間、看護をしてきた――を亡くしたことから簡単に抜け出せなくて当然だ。

――……長い間?

就職してからずっと? つまり十年間? 職場の歓送迎会だけ? それ以外はまっすぐ帰宅?

十八歳から二十代って、周りはいろいろなことを楽しんでいる年齢じゃないか。就職していれば自由に使えるお金もあるし。でも、桜さんは何もできなかった?

――それは……。

どう言ったらいいのか分からない。そんな味気ない毎日を想像すると、分かったような顔をして労いの言葉をかけることもためらってしまう。

だとしたら、俺にできることは……、彼女が“今とこれから”を楽しく過ごせるように手伝うことしかない。

「もしもお金に糸目をつけないで好きなことがいくらでもできるとしたら、桜さんは何をしたいですか?」
「お金がいっぱいあったら?」

大きな瞳がこちらを見返す。翡翠と一柳さんも会話を止めて桜さんに視線を向けた。

「そうです。一生、仕事をしないで済むくらい」
「ああ! それだったら古代遺跡です!」

笑顔が輝いた。声も憧れがあふれ出したみたいに明るくて。

「わたし、神話とか伝説が好きなんです。エジプトとかメソポタミアとかマヤとか、ギリシャ、キプロス、クレタ島……。本で読んだ場所に行って、自分の目で見てみたいです」
「坂井はいつも本読んでたなあ」

一柳さんのつぶやきに納得する。本を読むことは、桜さんの制限された生活での大きな慰めだったに違いない。

「あ、でも、古代遺跡じゃなくても、本に出てくる場所が見たいかな。ベネチアとか、ロンドンの駅と橋」
「駅と橋?」
「アガサ・クリスティの小説に駅の名前がときどき出てくるんです。あと、クマのパディントンのパディントン駅。それからものすごく好きな小説に出てくるブラックフライアーズ橋」
「なかなかピンポイントですね」
「ええ。でも考えてみると、ロンドンだったら行くのも現実味がありますね。あ、あとドイツの博物館島! 川の中州に大きな博物館があって、そこにバビロニアのイシュタル門があるそうなんです」
「それは……僕も見てみたいですね」

古代の建造物には興味がある。それを造った人々の思いを想像しながら見るのも好きだ。

「翡翠は?」
「あたしはねぇ、気に入った服を片っ端から、値札を見ないで買いたい」

桜さんに尋ねられた翡翠が答えた。

「それすごい! 保管場所もお金かかりそう」
「んー、じゃあ、一回着た服を売るお店もつくる」
「売るのか? 金持ちなのに?」
「でなければ、トールサイズ専門のレンタルドレスとか」
「意外と儲かるかもね」

屈託なく笑う桜さん。それを見ながら、聞いたばかりの彼女のこれまでを思う。

桜さんの笑顔にいつもほっとする気持ちを味わってきた。でも今は、その笑顔の後ろに淋しい過去や葛藤があることを知っている。だから、桜さんの笑顔がより一層大切に思えてくる。



店を出たとき、翡翠は上機嫌だった。四人の中で一番酒に弱いようだ。くすくす笑いながら隣を歩く翡翠は、素面のときよりも女っぽさに磨きがかかっている。

「ねえ、クロ? 桜のこと、ほんっとによろしくね?」

俺の顔をのぞき込むようにして翡翠が言う。

「めちゃくちゃいい子なの! いっつも誰かのために頑張ってるの! なのに、自分はダメな子って思ってるの」
「ダメって……どうして」
「いろいろあるのよ……。自分の価値が分かってないの。あたしがどんなに感謝しても、どんなに褒めても、自分は何も役に立たないって思ってる。そんなことないのに……」

たしかに桜さんはいつも控えめだ。稽古でも目立たないことを信条としている。

初心者で自信がないから目立ちたくないのだと思っていた。けれど今、一つの言葉を思い出した。心成堂に行ったときに桜さんが口にした「わたしがいなければ」――。

あのとき、俺に手間をかけさせたと謝る彼女を他人行儀だと思った。その理由を、知り合ってからの時間が短いからだと思った。でも、もしかしたらあれは、“価値のない自分”という前提があっての言葉だったのだろうか……。

「桜はね、自分はダメな子だから、幸せになる資格がないって思ってる」

前を行く桜さんに視線を向けると、一柳さんをぱしぱし叩いて笑っている。稽古では聞かない遠慮のない笑い声に胸がちくりと痛い。

「でも、クロなら……って、あたしは思ってる」
「俺?」
「クロなら桜の固まった心をほぐせるかもって」

翡翠の真剣なまなざしが俺を捉えた。と、にっと笑い。

「この前、会ったときに言ったこと、結構本気だったんだよ? 今日も見てて思った。クロと桜って、お、に、あ、い!」

鼻の頭をつつかれた!

「何言ってんだよ?」

身を引いた俺の耳に翡翠が囁く。翡翠の背の高さなら簡単だ。

「桜ってクロのタイプでしょ? 分かるんだから~」
「なんでだよ? そういう話、したことなかっただろ?」
「でも、クロのこと、あたしはよーく分かってるもん。クロのやさしさって筋金入りだし」

翡翠の得意気な微笑みに、中学時代の顔が重なる。

「桜ははっきりとは言わないけど、お母さんのこと、かなり大変だったと思う。ずっとだったしね」
「十年……だっけ」
「違うよ。もっと。たぶん中学生のころから。家事も全部」
「え? そんなに?」

ってことは……十四、五年? 中学生で? まだ子どもじゃないか。

「だからね、桜には幸せになってほしいの」
「それは俺も思うけど……」

前を歩くふたりは。

「イッチーと桜はなんでもないよ」

翡翠は俺の不安もお見通しだ。

「根拠があるの。今は言えないけど。あのふたりはお互いに……そうだな、あたしを見守ってくれたクロみたいな存在」
「見守って? お互いに?」
「そう。イッチーは六つも年下の同期の面倒をみなきゃって心に誓ったんだって。でも本人は、新人のころは真面目すぎて、窓口でお客さんが怒っちゃうことがあって、桜はいつもハラハラしてたって」

翡翠も前のふたりを見て、ふふ、と笑った。

「だから、クロは遠慮する必要はないよ? ――あ、でも、嫌なら無理にとは言わないけど」
「いや、べつに嫌じゃ、ないけど」

そう。嫌じゃない。でも、どのくらいの好きなのか分からない。まだ。それに……。

「俺一人の気持ちでどうにかなるわけじゃないから……」

そう。桜さんがどうなのか分からない。

「でも、試してみてくれる? もちろん、無理にとは言わないけれど」

翡翠の表情は真剣だ。酔っている分を割り引いても。

「桜はフレンドリーに見えて、実は人見知りで他人にはなかなか警戒を解かないの。でも、仲良くなったら、相手をものすごく大事にしてくれる」

それは翡翠との関係を考えればよく分かる。

「自分には結婚とか恋愛は無理だっていつも言ってるのは、たぶん本気」

悲し気に微笑む翡翠。

「幸せになる権利は誰にだってあるのにね。そうでしょ? まあ、もしも結婚は無理でも……」

駅の入り口で桜さんと一柳さんが振り向いた。

「友達にはなってあげてね? お願いね、クロ」

俺の肩をぽんとたたき、ふたりに笑顔で応える翡翠。

桜さんが俺にも微笑みかけてくれた。そこにはやっぱり礼儀正しさを感じるけれど。

――もっと親しくなれたら。

彼女は一柳さんに向けるような表情を俺にも見せてくれるのだろうか。そして、いつかもっと……?