「桜があんまり詳しく教えてくれなかったから」
コーヒーショップのカウンター席で、真ん中に座った翡翠が軽く唇をとがらせた。近くで見ると肌が綺麗で感心する。少しハスキーな声は思っていたよりも軽やかだ。
「何かの武道ってことだけは聞いたけど」
「ごめん。ちゃんと続けられるかどうか分からなかったし……」
答える桜さんは翡翠の向こう側。背の高い翡翠に隠れてほとんど見えない。
桜さんが翡翠に説明しなかったことについては、なんとなく理由は分かる。なにしろ俺も、どう説明すれば正しく伝わるのか未だに分からないのだから。
黒川流剣術というのがうちの正式名称だが、それではまったく通じないし、剣術という言葉にもたいていの相手は首を傾げる。居合と説明すればある程度は通じるものの、うちは体術や他の要素の技もあり、一般的な居合術・居合道とは異なっている。
詳しく説明しても相手が興味がない確率が高く、退屈そうな相槌に、言わなきゃよかったと後悔したのは一度や二度じゃない。かと思うと過剰に興味のある反応をされて、こちらが引いてしまうこともある。
ということで、俺は今は積極的には剣術の話題は出さないことにしている。必要な場合は「刀を使う古武道」くらいでお茶を濁す。
「それにしても、クロのところだなんてすごい偶然」
「俺も翡翠と桜さんが知り合いだなんて、びっくりしたよ」
翡翠は中学からの友人だ。クラスの中で背が高かった俺たちは、よく背競べをしながらふざけあっていた。いつも楽しそうににこにこしている翡翠は男女を問わずみんなに慕われていて、そんな翡翠が俺には素の自分を見せてくれることが嬉しく誇らしかった。そして……翡翠の心からの願いを聞いたとき、ずっと支えようと心に決めた。
「最初の職場に桜がいたんだよね?」
同意を求められた桜さんが「そうなんです。今は別々ですけど」と翡翠の向こうから顔を出した。
「わたしは高卒で入って五年目で」
「桜はわたしのこと、大卒の同い年だと思ったのよね? でも、一つ上だって途中で分かったら、気を遣って敬語がごちゃごちゃになって。ふふ」
「年上の後輩ってそれまでにもあったんですけど、最初に同い年だと思い込んじゃったから……」
翡翠が「それが良かったんだよ」とにこにこ顔でうなずいたあと、表情をあらためて俺を見た。
「あのね、クロ」
「ん?」
「桜は全部知ってるから。気にしなくて大丈夫だよ」
全部。
翡翠の事情を全部。
それでも桜さんは翡翠とこうして一緒にいる。仲の良い友人として。
「そうか」
うなずきながら、今まで自分が緊張していたことに気付いた。桜さんは俺たちの会話を聞いているのかいないのか、さっき買った荷物を気にしている。
翡翠の事情。それは、翡翠が性別変更をしたということ。
知り合ったときの翡翠は男だった。俺たちは男同士として友達になったのだ。
翡翠が女性としての人生を望んでいると聞いたのは中学三年の秋だった。進路の話をしていたとき、目を合わせずに、とても小さな声で打ち明けてくれた。ずっと自分の中にあった違和感が次第に大きく、重くなってきてとてもつらい、と。
俺はその意味を深く理解できたわけではなかったけれど、翡翠が苦しんでいることは分かった。ずっと一人で苦しんできたのだと思った。だから、俺たちの友情はずっと変わらないと伝えた。翡翠がどんな選択をしても味方でいると。
高校からは別々になったけれど、連絡を取り合い、ときどきは会っていた。翡翠が家族に打ち明けたのは高校の後半で、幸いなことに、家族はみんな翡翠の気持ちを尊重してくれたようだ。
遠方の大学に進学して下宿生活を送るようになった翡翠は女性の服装で過ごすようになった。その時点から連絡はメッセージだけになり、直接会ってはいない。
けれど、翡翠は入学式と成人式の写真を、記念だと言ってシェアしてくれた。もともと端正な顔立ちだった翡翠は女性としてもまったく違和感がなくて、俺は笑顔の写真にほっとしながら幸せを願った。
大学在学中から翡翠は性別変更の準備をしていて、卒業と同時に正式に戸籍から変更した。就職が一年遅かったのはそれがあったからだ。女性として新たな人生に踏み出したいという決意を通したのだ。
ただ、葉空市役所に就職が決まったと連絡があったときは驚いた。いくら大都市とは言え、地元の市役所で働いたら翡翠の過去を知る誰かと会う可能性がある。名前を変えなかった翡翠は嫌な目に遭うかも知れないのに、と。
そんな俺への説明は、「窓口の人が驚かなかったから」だった。
性別変更後に戸籍謄本を取りに行った翡翠は、緊張のせいか、訊かれていないのに「性別を変えた」と窓口で言ってしまったらしい。動揺する翡翠にその職員はやさしく微笑んで「そうなんですね」とうなずき、そのまま何事もなかったように受付を済ませてくれた。そのことがとても有り難く、また、世の中に対して抱いていた引け目のようなものが大幅に薄まった出来事だったという。
その経験から、誰もが必ずどこかで関わらなくてはならない市役所にこそ自分はいるべきだと思った、と教えてくれた。マイノリティーの気持ちが分かる自分だからこそ、市役所にいる意味がある、と。そんな決心ができる翡翠を、俺は心からすごいと思っている。
「それで桜、クロのところの……なんだっけ?」
「剣術?」
「そう、それ! どんな感じなの?」
「めちゃくちゃ大変だよー」
――え? そうなのか?
あまりにも即答でびっくりした。いつも前向きな姿しか見せない桜さんだけど、本心では……?
「なんにも分からないところから始めたでしょう? 立ったり座ったりするのも大変だし、礼をするときのお作法もちっとも覚えられないし、歩くだけでも難しくて」
「そうなんだ?」
「うん。でもね、すごく面白い」
――あ。
目を輝かせ、翡翠をまっすぐに見つめる桜さん。口調は穏やかだけれど、わくわくする気持ちが伝わってくる。
「新しいことをやってみるのって楽しい。それにね、何もかもできなくて苦労してる自分が可笑しくって。何にもできないって、逆にすごくない?」
「確かに大人になるとそういう経験ってあんまりないかもね」
「でしょ? あと、すごいのはね、教えてくれる人が誰も『この前言いましたよね?』って言わないの! 何回でも怒らないで教えてくれる。それってほんとうに有り難いでしょう? だから、それに応えるためにしっかりやらなくちゃって思ってるんだ」
「ああ……、そういうところ、桜らしいね」
「そう?」
そうか……。
これが桜さんの物事のとらえ方なんだ。
上手くできない自分を笑い、アドバイスや駄目出しを有り難いと受け取る。怒ったりなげやりになったりせずに、起きたことをプラスに解釈する、大いなるポジティブシンキング。
「桜と一緒にいると楽しくなる。そう思わない、クロ?」
「え? あ、ああ」
ちょうどそう思ったところだった――いや、今気付いたわけじゃないな。
「さっき、買い物してるときも面白かったよ。桜さん、剣道の防具見て、床の間に飾るのかって訊くんだよ」
翡翠の向こうで、桜さんがコーヒーにむせた。
「剣道の防具? あの樽みたいなやつ?」
「そう」
「あれはっ、こほっ」
咳を止めた桜さんが翡翠に弁解する。
「百万円超えてたんだよ? そんなの実際に使う人がいるとは思えなかったんだもん。それに、胴だけじゃなくて面が乗っかってたし」
「面? 面って丸っこいあれだよね? 床の間に飾るには迫力に欠ける気がするけど」
「それはそうだけどね、色とか刺繍とか、かなり凝ってたし……」
言いながら、うらめしげな顔を俺に向けた。おとなしいと思っていた桜さんだけど、それだけではないらしい。
翡翠と別れて電車に乗ると、桜さんは翡翠との思い出を話してくれた。
一緒にランチをしたこと。仕事でお互いにフォローし合ったこと。他愛ない話でよく笑ったこと――。
翡翠は淋しくなかった。ちゃんと支えてくれるひとがいる。それが嬉しい。
俺と翡翠が会わなくなったのは、進学や就職だけが理由ではないと思う。お互いの中に生まれた遠慮。俺は、過去と決別するように生き始めた翡翠に。翡翠はおそらく、性別が変わった自分に俺が困惑するのではないかと考えて。
でも、大丈夫だった。桜さんのお陰で自然な形で再会することができた。そして、今は桜さんが翡翠の支えになっているのだと分かった。
別れ際、翡翠がそっと教えてくれたことを思い出す。
「桜に打ち明けたとき、桜はちょっとだけ考えてから、『ええと、女同士ってことでいいんだよね?』って言ったの。それから、『何にも変わらないよね?』って。それを聞いたらいろいろ覚悟して身構えてた自分が馬鹿馬鹿しくなっちゃって……、すごく嬉しくて泣いちゃった」
あまり大きく感情を表わさない桜さん。だけどたぶん、胸の中には思いやりとユーモアが同居していて、周囲を明るい気持ちにさせることに心を砕いている。きっとそうだ。