「あぁー! ゴメンなさい。手が滑っちゃったぁ!」
 
 冬間近の冷えきった水が、後宮の廊下を水拭きしていた楊花の頭に一気に降り注いだ。楊花(ようか)は悲鳴をあげて慌てふためきそうになるのを必死に堪える。楊花の長く綺麗な黒髪が裏目に出て、髪に水が染み込み頭が重くなる。寒気と合わせて痛みが駆け上がる。悲鳴を堪えた事で更に寒さに拍車がかかった。
 
「あらぁ、大丈夫ー?」

 わざとらしい口調で心配の声を出してくる。後宮で同じく女官の彼女から嫌がらせを受けるようになったのはごく最近だ。楊花が後宮の女官になってから5年になるが、この手のいざこざは日常茶飯事でその全てを避けて生きてきた。稼ぎ頭だった父が亡くなり、母と弟に少しでも楽な暮らしをさせたいが為に、今まで平穏に暮らしてきた。これからも平穏に暮らす事が楊花の目標だったのだ。――しかし、
 
「えぇ、大丈夫よ。貴女の頭よりは」
「――――ッ!」
 
 ついに見過ごせずに口を出してしまったが最後。平穏は呆気なく去っていく。自分の口の悪さを呪いたい。
 楊花に水を掛けた相手は、ドスドスと大きな足音を立てて去って行った。楊花は深く息を吐いて、服にこびり付いた水を絞って床に落とした。
 ある程度水を落としたあと、雑巾で水を拭おうとした時、先に床を拭いている人物がいることに気がつく。
 
「ゴメンなさい。私のせいで」

 彼女は女官になって三月も経たない紫蘭(しらん)という少女だ。少し要領が悪く、仕事がもたつくことがあり、それが運悪くいじめが大好きな彼女の目が止まってしまった。
 普段の楊花ならそのまま見過ごすのだが、紫蘭はまだ務めて間もないから要領を掴めていないのは分かっていた。
 
「貴女のせいじゃないわ、紫蘭。新人いびりの強い御局様が悪いの。気にしないで」
「ありがとうございますッ!」

 女官は長く務めていると、官僚から色恋のお声がかかるものだ。御局様の年齢を察するとその苛立ちがあるのだろう。早く声のかかりそうな可愛い子には八つ当たりしたくなるというような心情だろうか。御局様のあの性格では誰にも声がかからないのも頷けた。
 
「それより仕事は終わったの?」
「いえ……まだ……あのったまたま通りかかって……」
「だったら先に仕事を終わらせて。それが私を助ける事にもなるから」
「はいっ」
  
 紫蘭は愛くるしい歩き方で走り去って行った。まるで小動物を見ているかのような癒しを感じる。少しだけ癒された後、これでもかと長い廊下の掃除を再開する。この一人では抱えきれない廊下の掃除をすることになったのも、紫蘭を助けたのが関係しているが、先程の御局様の悔しがる姿を見て、心の靄が晴れた。
 清掃に集中していると、男性の優しい声色が聞こえた。

「どうして、そんなに濡れている?」
「先程、台風に巻き込まれました」
「…………そうか」

 楊花が見上げると、第一皇太子晧月(こうげつ)様の側近である秋陽(しゅよう)がそこにはいた。楊花は慌てて伏したまま廊下の端に移動した。

「お心遣い大変有難く――」
「楊花という女性は、貴女か?」
「はい、左様でございます」

 楊花は、床に鼻がつくのではないかというくらい深々と頭を下げ続けた。
 
「晧月様が貴女をお探しだ。来てくれるだろうか」
「はい! 喜んで伺いたいのですが……今の仕事を終わらせ、着替えてから伺いたいので、少しお時間をいただきます。よろしいでしょうか?」
「もちろんだ、是非そうしてくれ」
 
 紫蘭を助けた時のような胸騒ぎを感じた。しかし、一介の女官が断れるほどの権利はない。
 楊花は深くため息をついた。