初めて会ったのは、あいつがまだ十二の時だった。同じ人間とは思えないほどに、恐ろしく整った美しい顔立ち。それに透き通るほどに白い肌。その子供離れした容姿は、とても十二の少年には見えなかった。だが、同時に可哀そうなやつだと思った。その美しさが、呪いのように自身の首を絞めている。生まれた環境が、親が、まともだったら、もっと上手く生きられたのかもしれないのに。
 あの日の天気予報ははずれ、午後から土砂降りの雨が降った。せっかく仕事を早めに終えたというのに、外は雨。仕方なく近くのコンビニでビニール傘を買い、帰ろうとした時だった。通りかかったスクラップ置き場の前に、傷だらけの少年が倒れていたのは。
 こんなところに子供……?
 阿久津は倒れている少年の目の前にしゃがんだ。
「おい、小僧……」
 阿久津が声を掛けても、少年からの返答はなかった。
 まさか、死んでるんじゃねーよな……
 少年の首に手を置くと、脈は正常に動いていた。
 気を失っているだけか。にしても、なんでこんなところに……。
 衣服が乱れてないところを見ると、そういうわけではなさそうだな。チンピラにでも目をつけられてボコられたのか。
 ここで野垂れられても困るしな。とりあえず救急車でも呼んどくか。
 阿久津が上着のポケットから携帯を取り出そうとすると、それを阻むように、少年の手が阿久津の手に触れた。
「……いい……」
 少年はうっすらと片目を開け、弱々しくそう言った。
「すごい怪我だが?」
「いいって言ってんだろ……!」
 強気な物言いとは反対に、少年の目は怯えていた。
 触れられた手も、小刻みに震えていた。少し離れたの方から聞こえてくる下品な男たちの笑い声を聞くと、少年は体をびくつかせていた。
 こいつまさか……
「おい、お前」
 阿久津がそう言いながら、少年の顎に手を添えると、少年は錯乱していた。
 やっぱり……こいつ、男が怖いんだ。特に、大人の男が。
「っ……俺に触るな……!」
 少年は阿久津の手を振り払うと、ふらふらと立ち上がり、雨の中、一人走り去ってしまった。
「……」
 ――この時は思いもしなかった。またあの少年に、会う事になるとは。
 金を貸している一人の男が、借金を滞納しているという連絡が俺の元に入った。その男は元軍人らしく毎度、ありもしない言い訳を並べ、期日を先延ばしするらしい。
 男が住んでいると言うアパートを訪れると、家の中からは、普通ではない音がした。
 ガラスのような物が何度も割れる音。
 子供の悲痛な叫び声。
 男の尋常ではない怒鳴り声。
「やめときなさい」
 阿久津がドアノブに手をかけると、たまたま通りかかった、同じアパートの住人と思われる男が俺を止めた。
「もう何度も警察にも言ったんです……でも、まったく取り合ってもらえなかった」
 男の握られた拳は震えていた。
――ガシャーン……!!!
 叫び声は、悲鳴へと変わっていた。
「だから……見殺しにしろと……?」
「あなたが殺されしまう……!!」
「……お前は後悔する事になる。あいつを助けなかった事を……」
 阿久津はドアノブを強く回し、中に踏み込んだ。
 そして俺は知る事となる。十二歳の少年が置かれている残酷な現実を。
 玄関を入ってすぐ横にある部屋で、少年は父親から暴力を振るわれていた。近くにいた母親は、見て見ぬふり、子供の事など、どうでもいいと言った顔だ。
 少年の身ぐるみはボロボロで、顔は赤黒く腫れ上がっていた。体格のいい父親は、少年など簡単に殺してしまいそうだった。阿久津の侵入に気づいた母親は声を上げ、父親に抱き着いていた。
「なんだ……? お前は」
 父親は掴んでいた少年の胸ぐらを放り投げるように離した。
 少年はもうろうとした意識の中、阿久津を見ていた。
「七瀬一浪だな。俺は阿久津」
 その名前を聞いた瞬間。一浪の顔から血の気が引いた。一浪はすぐに阿久津が金を借りていると闇企業の親玉だと分かったらしい。
 阿久津はゆっくりと一浪に詰め寄った。
「滞納している金の回収に来た。さっさとよこせ。払えないなら、保険金をかけて死ね。名義は俺だ。忘れるな」
 阿久津の迫力に負けた一浪が取った行動。
 そう、子供を阿久津に売った。
「あんた、違法クラブ経営しているんだろ? だったら、こいつをそこで働かせて、金を返させる……それでどうだ」
 俺は何度、こいつらガキを闇へと引き込めば、救ってやられるんだろうな……。いや、分かっているはずだ。俺には、本当の意味でこいつらを救うことは出来ないと。
 経営するクラブの中に同じ年の子供はいた。みな親が居なかったり、家出をして居場所がない者ばかりだ。やつらをどうにかしてやりたいと思っても、俺のような人間には、ただ命を守る事しか出来ない。
「……小僧、どうする」
 俺は無理強いはしない。生きるも死ぬも、こいつらの自由だ。生きたいと思った奴だけ、俺は仕事を与える。だから自分は悪くない。なんて……言えたら楽だったのにな。 
「卑怯だな」
 少年は掠れた声でそう言った。
「……その通りだ。俺は卑怯だ。だから選べ。このクソ野郎から殴られる日々か、クソ野郎どもの世話か」
 殴られて充血している瞳で、少年は力強い眼差しを阿久津に向けてきた。
「……やってやるよ……クソどもの世話、やってやるよ……!!」
「……交渉成立だ」
 少年の父親は幹部クラスの元軍人で、警察組織とも深いつながりを持っていたため、警察は自分たちの保身のため、少年への虐待の事実を無視したのだ。
 つくづく思う、日本の警察は、何をしているのだと――。
 あの時、家に居た母親は、少年の実の母親ではなく、父親の恋人で、あの家に入り浸っているだけだった。
 少年の名前は七瀬青星と言い、母親は幼い頃に青星を置いて、家を出て行ったらしい。
 もしもその時に、青星を一緒に連れて行ってくれれば、今はもっと違う未来がこいつにあったのかもしれないと思わずにはいられなかった。
 青星の虐待は身体的な虐待で、その原因は経済的なものからだろう。仕事が上手く行かなくなった父親は、酒や賭け事に溺れ、現実を見なかった。ストレスは溜まり、そのはけ口になってしまったのが青星だった。子供の青星にとって直接的には何も関係のない事。虐待というものは、そうして起こっている。
 外は雨が降り始めていた。阿久津はバーカウンターに腰を掛け、雨の音に耳を傾けていた。
 あの時も、こんな風に雨が降っていたっけな。
 もうあれから一年が経とうとしている。青星は、元気にしているだろうか。あの女の元で、楽しく過ごせているだろうか。戻ってこないあたり、きっと上手くやれているのだろう。 
 ……仮に上手くいっていなかったとしても、ここには戻りたくないよな……。
 どこで何をしていてもいい、犯罪に手を染めるような事になっていたとしても、いい……いつも自分を一番に考えて、生きていてほしい。光を浴びられなくとも、せめて、カケラをあいつの傍に――。
「なんなんですかあなた……!」
 後ろを振りむと、そこには梢子の姿があった。
 間宮梢子……なぜここに……というか、なんだその姿は。
 髪も服もずぶ濡れで、ゾンビのような姿だった。梢子のその異様な光景に、阿久津は直感的に青星の身に何かがあったのだと思った。
「青星か。何があった」
「……確認する。お前は何もしていないんだな……」
「何?……」
 俺が何もしていないだと……? 
 梢子はズカズカと阿久津に詰め寄ると、殺気のある瞳で阿久津を睨んだ。
「お前はあいつに何もしていないんだろうな……!!」
 正気とは思えない、梢子のその姿に、阿久津は思わず言葉を失い、後ろに後ずさった。
 こいつ、頭に血が上って我を失っている。今なら人を殺してもおかしくはない。
「……間宮、落ち着け。俺は何もしていない……」
 間違いない。こいつのこの苛立ちようと焦りよう、青星に何かあったんだ。ここに来たということは……七瀬一浪、あいつだ……。
「おい、今日は休業だ」
 阿久津は店の従業員に向かって、そう言った。
「え、休業って……そんな急に無理ですよ……!」
「いいから休業だ。間宮、こっちに来い。俺も力を貸す」
 疑り深いこいつが、俺を信用してくれるかどうかが問題だが……。
 阿久津は奥に続く部屋のカーテンを持ち上げ、梢子を誘導しようとした。
 梢子は阿久津をじっと見ていた。阿久津その言葉がほんとかどうか見極めているのだろう。
 阿久津も梢子から目を離さずじっと見た。
 十秒ほど経つと、梢子は阿久津からを目を逸らし歩き出すと、何も言わずに部屋の中へと入った。
 奥の部屋は、普段、ここにある仕事部屋とは別に、阿久津が休憩室として使っている場だ。従業員や部下は立ち入らせない。
 部屋の中には、寝る為だけに置かれたソファーが、真ん中にぽつんとあった。梢子はそこに腰を下ろすと、阿久津を見ていた。
 阿久津は梢子の目の前を通り過ぎると、端にある金庫の前に跪き、パスワードを解除しあるものを取り出した。阿久津はそれを胸元にしまった。
 二人を顔を見合わせた。
「……チャンスは一度きりだ」
 阿久津のその言葉に梢子は頷いた。
 梢子と車に乗り込むと、阿久津はもう一度、胸元からそれを取り出した。
 相手は元幹部の軍人。戦いに慣れている。失敗は許されない。
 玉が入っている事を確認し、阿久津は車にエンジンをかけ、ハンドルを握った。
「行くぞ――」