「……息苦しいのよ」

「は?」

「息苦しいの。あの教室は」

 利香は、キョトンとした顔で彩音の横顔を見つめている。

「息苦しいって、なんか病気でもあるの?」

 彩音は溜息をつきながら、それに答える。

「違うわ。病気もなにもないわよ。健康極まりないわ、私の体は」

「じゃあ、なんで?」

「水槽」

「スイソウ?」

「そう……あの教室は、まるで水槽みたい」

「どういうこと?」

「温度も調節してもらって、綺麗な水草とか入れてもらって、そこでひらひら泳ぐのが、私達。熱帯魚みたいにひらひらと綺麗な尾びれを振りながら水槽の中にいるんだけどさ、空気だけが足りてない。だから、我先にポンプから出てくる空気を吸い込んで、そして、あまり目立たないように生きていく。多く動けば、空気はなくなる。だから、あまり動かないように、皆の動きを見ながら呼吸をするの。息苦しくなった人は、勝手に水面から外を覗いて口をパクパクさせるのよ。必死にね。でも、それは水槽の中ではタブー。あくまで配られた空気だけを使って過ごさなければならないの。勝手なことをすれば、排除されるのよ」

「そこから抜け出そうって思わないの?」

「抜け出すなんて考えられないわ。私達は熱帯魚よ。外の世界に触れれば、生きてはいけないの。温度調節を誰かにしてもらわなければ凍えて死ぬ、空気だって作ってもらわなきゃ死ぬ。それにね」

「それに?」

「水槽の中は、空気のことさえ我慢すれば心地がいいのよ。餌だってくれる、仮初であれ仲間だっている。集団に属していさえすれば、全てが平均的に手に入るのよ。それは、酷く魅力的なの。それこそ、人を騙すのが平気になるぐらいに」

「でもさ、空気が足りないって言うなら、友達になにか言えばいいじゃない。自分は息苦しいって」

「言えないわ」

「なんで。あの委員長の周囲にいたのって、友達でしょ?」

「この場所で委員長って呼ぶのは止めて」

 彩音が利香を睨むと、利香はその表情に少しビックリした顔をした後で言いなおした。

「彩音の友達に言えば」

「いきなり名前で呼ぶの?」

「ごめん」

「別にいいけどね」

 彩音がフッと笑う。特にいじわるをしたかったわけではないが、なんだかビックリしてしまって、ついつい嫌味みたいな言葉が口をついて出てしまった。

「確かに、周囲にいるのは友達。でもね、私の話を聞こうなんて、彼女達は誰も思ってないわ。だってね、グループの中にも上と下があるわけよ。勿論、そこまでえげつないものじゃないけどね。でも、リーダーの子がいて、そこに群れを作るのよ。そうなると、リーダー様の言うとおりに動かなきゃいけないわけ。それに、空気も読まないといけない。あの場所で出てくる話題は、男子のこと、ファッションのことに……簡単に言えば、お気楽な話題しか出てこないのよ。そんな中で自分の思っていること、言えるわけないわ。それに、息が詰まりそうな原因は、彼女達でもあるのよ」

「どういうこと?」

「家に帰ればSNSで相互の関係にあるから、ログインしていればすぐさまわかる。しかも、文章送られて読んだら返事しないと理由を聞かれる。家に帰っても、学校の中の人間関係に振り回されるの。プライベートな時間があまりない。これで息がつまらない方が、どうかしてる」

 大きく溜息をついて、彩音は目の前にいる利香を見た。

 あまり、ピンときた顔をしていない。

「あまり、よくわかってない?」

「うん、だって、私はあまりそんなことを気にしたことなかったから。それに、あの場所が水槽だなんて、思ったこと、なかったから」

「そうね。だって、水槽なんて本当はないんだもの。先生達だって、私たちを水槽の中に押し込めているとは思ってないでしょうね。それに、彼女達だってここは水槽だなんて思ってないわよ。だけど、不思議。誰も作ってないのに、教室は水槽になってる。誰かが作ろうなんて言い出してないのに、いつの間にか空気が出来て、それに呼応するように、皆がプラスチックを持ち寄って水槽を作るのよ」

「水槽、ね」

「相沢さんはそんな風に思わないの?」

「利香でいいよ。だって、私も名前で呼んでるし」

 不思議な感覚だった。ほぼ初めて会話したと言っても過言ではないのに、こんな風に溶け込んでくれる人がいたなんて、彩音は思わなかった。

「じゃあ、利香はさ」

 そう言って、少しだけ止まった。なんか、胸がこそばゆくて、セーラー服に擦れる胸がざらざらした。

「何?」

「利香は、あの教室が水槽だと思えない?」

「うん、だって、彩音がさっきも言ったように、そこにはないんだもん。だから、ちょっと水槽だなんて思えないかな」

「多分、それは利香だけかな」

「なんで?」

「だって、利香は水槽の外で自由に泳ぎまわっている魚だから」

「どういうこと?」

「たまにね、そうやって逸脱した人間が出てくるのよ。私たちみたいに水槽の中で生きていく人間、利香みたいに水槽なんてものがなくて、外に出て行く人間。普通なら水槽の外に行こうとしたりするけど、それをすればその人は集団から排除されて壊れていく。けれど、利香みたいに周囲の人間の行動を意に介さない人だったりすると、人はその人を放っておくの。だって、自分たちの理から外れているし、自由なのが気に食わないから」

「なんだか、難しい世界にいるんだね、彩音って」

「そう?とても単純よ」

 彩音は唇の端を片方だけ吊り上げて笑う。

「友達を作って、あまりでしゃばらないように生きていけば、後は自由。試験みたいに対策さえ出来ていれば、何も怖くなんてないのよ」

「それ、楽しい?」

「楽しいとか楽しくないとか、もうそんなに考えてはいないわ。今は、この場所を守るだけで精一杯」

「この場所って?」

「この、文学部の部室である図書館よ。誰もいないし、家族も入ってこない空間」

「あれ、他の部員は?」

「いるわよ、だけど、みんなが幽霊なの。もう、誰がこの部活に入っているのかさえ、忘れてしまったわ」

「そっか」

「だから、この部活は来年で廃部。顧問の水木先生もいなくなるし。でもね、私はこのまま新人を入れずにやっていきたいのよね。だって、一人だけでこの空間にいられるのが楽しい。誰にも邪魔されないこの時間が、私には最高」

「邪魔だった?」

「ううん、特には。……いつもだったらやんわり追い返すんだけどね、珍しく利香の話を聞いちゃったわ」

「ねえ」

「何?」

 利香は彩音を見つめた。

「また、話しかけてもいい?」

 捨てられた子犬のような瞳でこちらを見てくるので、彩音は少し胸が締め付けられた。

「……駄目」

 でも、それに流されないように断れたのは、自分の教室での立ち位置がわかっていたからだろう。

「水槽の中の人達の視線が、気になる?」

「……うん、ごめん」

 心の中を見透かされて、少し嫌な気分になった。こんな風に断りをいれなきゃいけない水槽の世界が憎い。

「じゃあさ、この場所で、部活の時間に少しだけ話すならいい?」

「……それならいいけど、利香、部活は?」

「美術部だけど、あそこは製作中は自由なの。作品が出来るなら下校時刻まで何をしてもいいから、ここに来るぐらい、大丈夫」

「そう」

「じゃあ、また来るよ。出来るだけ、本を借りてきた体で来ればいいよね?」

「そうね」

「わかった。じゃあ、また」

「うん、またね」