「――ち、佐知?」
すぐ近くで名前を呼ばれてハッと我に返った。辺りを見れば、香椎先輩が心配そうに顔を覗かせていた。高嶺先輩の姿はどこにもなく、いつもと変わらない第八美術室に戻っている。
「香椎先輩?」
「ようやく気付いた……ったく、毎度絵に呑まれてんじゃねぇよ」
「絵……」
カンバスを見ると、高嶺先輩が描いた美術室の絵が変わらず置かれている。一つ違うのは、中央にあった走り書きが消されていることだ。
あれは本当に絵の中に呑まれていたのか、それとも私が無意識で触れたのか。曖昧な記憶だけど、高嶺先輩と話していたことだけは覚えている。
途端に足の力が抜けて立ち崩れる。慌てて香椎先輩が腕を掴んで、すぐに近くの椅子に座らせてくれた。頭がボーッとする。先輩がペットボトルの水を渡してくれた。
「飲めるか? こんな暑い中、水分取らずにボーッとしてたら熱中症になりかねないだろ」
「ありがとう、ございます……」
受け取って一口、二口と流し込んでいく。一気に半分まで減った水を見て納得する。窓を全開にしていただけで満足して、熱中症のことなどすっかり忘れていた。
落ち着いたところで、香椎先輩も近くの椅子に座りながら何があったのかと訊いてくる。どこから話せばいいのか、と視線を逸らすと、先輩の手に持っていた手紙を見てハッとする。
「先輩、それ……」
「ん? ああ、高嶺のだろ。全部見た」
そういえばスケッチブックと一緒に出しっぱなしにしていたっけ。先輩がまだ来ていないからと油断していた。
ただでさえ今の香椎先輩は、視力をカバーするための聴覚や触覚が正常に機能していない。過度のストレスからくるものだとしたら、さらに追い詰める内容だ。
しかし、全部見たというわりには、どこかあっさりと答える香椎先輩に疑問が浮かぶ。
「全部、読んだんですか……?」
「読んだんですかって、高嶺からの指示書きだろ。半分は滲んで読めねぇし」
「え?」
滲んで読めない?
手紙を見せてもらうと目を疑った。読めるのは宮地さんへ宛てた一文が書かれた行までで、それ以降は濡れた痕が引っ張られて文字が滲んで読めなくなっている。私が涙を落とした時はすぐ拭いたし、滲みもそこまでなかったはずだ。
まさかと思い、まだ読める文の末尾に指を置いて小さく擦れば、うっすらと読めるくらいの薄さで残っている。ボールペンはおろか、鉛筆でもこんな消え方はしない。
「木炭……?」
「なるほどな。なんかの拍子で擦れて消えたのか。重要なことでも書かれていたのか?」
「えっ、えっと……いえ、なかったと思います」
本当のことを告げるべきか迷って、私は黙っておくことにした。
この文字が滲んで読めなくなったのが偶然だったとしても、これを実現しないように誰かが細工したのかもしれない。いや、それ以上に、高嶺先輩が消したと思っていた方が気が楽だった。香椎先輩はしろどもどろに答えた私を疑うように見ていたが、すぐに手紙を取り上げて見ながら言う。
「アイツが遺言まがいなことでも書いていたら、叩き起こしに行こうとしたのに」
「うえっ!? そ、それはダメですって!」
「一丁前に俺に説教してんだ。それくらいしたっていい」
「それは先輩のことを思って……」
「だからって、自分の灰を俺に託そうなんて考えるバカがどこにいる」
先輩が的確すぎて、心臓がどきりと跳ねた。滲んで読めないと言っておきながら、香椎先輩が消した可能性だってある。普段からあまり表情が顔に出ない香椎先輩も、今日ばかりは苛立ちが滲み出ていた。
「それで、お前は何を見た?」