絵の中に入る――いや、絵に呑まれることは不可能じゃない。
 今まで私が呑まれてきた絵は、必ず絵の中の世界が広がっていた。それこそ、作者である香椎先輩が考え、願いを込めた世界そのものだとしたら。
 作者の考えが絵に込められている――ならば、絵に呑まれたら、先輩の真意を探れるかもしれない。
 私は持っていたスケッチブックと手紙を端に置いて、カンバスを両手で持って掲げる。すぐに入れたなら苦労はしないが、こればかりは運任せだ。
 ……それにしても。
「素敵な絵だなぁ」
 木炭だけでこんなにも感傷的に描けるものなのかと感服する。ただ少しだけ寂しげに見えるのは、これが最後の絵だと悟った、先輩の心が映し出されているのだろうか。
 ――俺の大切な世界を完成させてくれ。
 手紙で高嶺先輩はそう言っていた。カンバスに描かれたものは、先輩の大切な思い出が詰まった世界。モノクロなんかで終わらない、色を乗せるまでが完成なのだから。だから「ほぼ完成」だと曖昧な言葉を使ったのだろうか?
 ……わからないことばかりで頭がパンクしそう。
 カンバスを動かして、いろんな角度から描かれた美術室を見る。平面なのは変わらないけれど、見方によって変わるかもしれない。それこそ、トリックアートのように飛び出しているとか。

「――さすがにそれは難しいんじゃない? もっと俺に時間があったら描いてみたいけど」

 後ろからかけられた声に、私は一瞬思考が止まった。
 思わず振り向いて目を疑う。ここにいるはずのない人がどうしているのか。
「……高嶺先輩」
「お化けかと思った? まだ生きてるよ」
 いつもの変わらない屈託のない笑みを浮かべながら、洒落にならないことを言う。ああ、なんてデリカシーのない人。今も治療室の前で、ご両親が無事に回復するよう祈っているというのに。
 高嶺先輩は私の隣にくると、カンバスの中心に触れる。走り書きの文字を擦って消すと、どこか達成感に浸りながら続けた。
「久しぶりに風景画を描いたよ。まさか生きている間にカンバスに描けるなんて思ってもいなかったから、すごく楽しかった」
「……描いたこと、なかったんですか?」
「それはそうだろ。美術部の原点は、カンバスじゃなくてルーズリーフやノートの端っこの落書きから始まったんだから。カンバスに描き始めたのは『明日へ』が最初だ。そして、それを描いたのは全部香椎だ」
「待ってください、高嶺先輩だってフォローに入ったって」
「俺は横で意見を言っただけ。描いたことはないよ」
 高嶺先輩は懐かしそうに話を続ける。
「香椎はさ、昔から単体を描くのが得意だったんだ。イラストを描くように勧めたのは俺で、アイツが風景画が描きたいって言ってたのを知った上で押し付けた。自分の好きなものと自慢できるものが同時に盗られたような気がしてさ、俺にとっては嫌がらせみたいなもんだった。『お前はイラストに集中すべきだ』って言い聞かせた」
 高嶺先輩が顔を上げると、途端に周りの様子が変わった。端に寄せられたイーゼルや山積みの木枠、雑に片付けられた机と椅子、棚の位置すべてが第八美術室そのものなのに一つだけ違う。
 色がない。モノクロで描かれた、カンバスの絵のように。
「後悔したよ。香椎のやりたいことを俺が奪った。描くたびにどんどん上達していくアイツを見ていて妬んで、なんてバカなことしたんだろうって自分に呆れた。だから美術部で絵を一枚描くってなると全部香椎に押し付けてた。カンバスなら風景も単体も全部描ける。俺は絵を描かないで、アイツのサポートに回る方がいいって思った。……でもやっぱり、俺もやりたかったなって羨ましく思う」
 自業自得だよな。
 だんだんと暗くなる表情にあわせて、周りの様子も一段と黒く染まっていく。先輩の心情と世界が同調している。これは現実じゃない。
「困惑してるな」
「……しますよ、立ったまま眠っているのか錯覚するくらい」
 だとしたら都合のいい夢だな、と高嶺先輩が皮肉そうに笑う。私の知っている先輩は、こんな顔しないのに。
 これが「絵に呑まれた」というのなら、私はこの高校に来てから頻度が増えている。それこそ、理事長先生と出会ってから二度も『明日へ』に呑まれているし、最近だと宮地さんが依頼したベンチの下描き時点で、また理事長先生と再会した。
 二つの絵には理事長先生が関係していて、香椎先輩が描いている。さらに灰が使われていることが共通していたし、後から聞いた情報が積み重なって生み出した妄想だと思えば納得できた。
 でもこの美術室の絵は違う。描いたのは高嶺先輩で、灰を混ぜ込んだ絵の具ではなく、ベンチから作られた木炭だ。これでは妄想の一言で片付けられない。
 だとしたら、絵に呑まれるこの現象はなんだろう?