学校に行く前に、病院に行ってみることにした。もしかしたら急に調子がよくなって一般病室に戻っているかもしれない。淡い期待を抱きながら向かうも、そこにはからっぽのベッドが一つ置かれているだけだった。
 それもそうか、もし何かあったら香椎先輩から電話なりメッセージなり来るはずだ。
「あら、あなた……」
 引き返そうとすると、後ろから声をかけられた。高嶺先輩のお母さんだ。よく眠れていないのか、昨日会ったときよりも目の下のくまが濃くなっている。
「千暁と悠人くんと同じ学校の方よね、えっと……」
「一年の浅野佐知といいます。……あの、先輩の様子は?」
「大分落ち着いてきたけど、こればかりはわからないわ」
「そうですか……いきなり来てしまって、すみませんでした」
「いいえ、わざわざありがとう。千暁と会わせてあげられないのが申し訳ないわ」
 高嶺先輩がいるのは集中治療室は、家族以外の面会は禁じられている。昨日は香椎先輩が訪れたようで、状況を聞いて放置されていたカンバスを回収して帰ってしまったという。
「悠人くんは幼い頃からずっと一緒にいてくれたの。だからずっと気にかけてくれていてね。人は笑うと病気が治るって話を知ってる? 実際に千暁は悠人くんと出会って毎日が楽しそうで、最近は発作もなかったのよ。だから……今回ばかりは、ね」
 そう言いかけて言葉を詰まらせる。余命宣告を受けた一年前から気が気でなかったはずだ。
「本当は、宣告を受けてからすぐに入院することを勧められていたの。でも千暁自身が、頑なに夏休みに入るまで待ってくれって聞かなくて。発作が落ち着いているからと言って、完治したわけじゃないわ。だから週一日の通院と運動の禁止、夏休みに入る前に悪化したら即入院という条件で通わせることにしたけど……私たちは、間違っていたのかしら」
「……え?」
「あの子、ただ絵を描きたかっただけだと笑ったの。……親としてはふざけてると思ったわ。でも反対できなくて、結局夏休みに入る前にこうなってしまった。入院中も描いているのを見て頭が痛くなった。私たちはただ、自分のことを考えて生きてほしいのに」
「……確かに、ふざけていると思われても仕方がないかもしれません」
 たとえ文化祭に作品を出さなかったとしても、先輩は病室のベッドの上で何かを描いていただろう。まだ出会って一年どころか、半年も経っているかも怪しい私が言うのもどうかと思うが、美術部としての先輩を見てきたから言えることだってある。
「先輩は美術部であることに誇りを持っています。自分のタイムリミットがあるとわかったうえでやりたいことを決めて、まだ生きることを諦めていません。どうか、それだけはわかってあげてください」
 私がそう言うと、お母さんは辛いのを隠して小さく笑った。すると、ずっと抱えるようにして持っていたものを差し出す。
「あなたに、これを預けていいかしら」
 高嶺先輩がいつも持ち歩いているスケッチブックだった。以前よりも背のリングが歪んで、表紙に妙な折り目が見受けられる。
「倒れたときにいろんなものが床に散乱していたでしょう? その時に誰かが蹴っちゃったみたい。ボロボロになってるけど中は無事だったわ」
「……どうしてこれを、私に?」
「…………」
 黙ったまま顔をふせた仕草を不思議に思いながらも受け取る。風景画が描かれているページを何枚か捲っていくと、私は目を疑った。
 描かれていたのは、カンバスに向かう香椎先輩の横顔だった。何度も描き直しているようで、うっすらと跡が残っている。他にも、床に座って描く私や、工房のかまどに火をくべる宮地さんのスケッチが描かれていた。さらにページを捲っていけば、学校周辺や工房、二人がそろって私のバイト先に来て注文したコーヒーとケーキもあった。チーズケーキをフォークですくった時の、断面の質感さえも繊細に描き込まれている。
 知らないうちにモデルになっていたことが怖いとか、ぞっとする感情さえも忘れてしまうほど絵のクオリティに圧倒される。
 もしかしたら、いつもスケッチブックを使っていたのもこのためだったのかもしれない。
 私や香椎先輩が使っているクロッキー帳は、無地の薄い紙でできており、鉛筆などの単色で描くのに向いているため、主に絵の練習の際に使われる。
 対してスケッチブックは、厚みのある画用紙だ。スケッチした上で水彩等で色がつけられる。水彩画を清書する際に利用されるから、作品として描くときにはスケッチブックを使われる傾向があるという。
 ならば、高嶺先輩にとってこれは記録だ。
 描かれている角度がすべて後ろ向きや顔が見えないようになっているのは、長身の高嶺先輩がいつも見ている位置だからだ。自分がいつ死んでもいいようにと、余命宣告されてからずっと描き続けてきた先輩の生きた証を一冊のスケッチブックにまとめた作品集――考えたくはないが、皮肉にもそれが一番しっくりくる。
 スケッチブックの最後のページを開くと、中に四つ折りにされたルーズリーフが入っていた。丁寧に中を開くと、高嶺先輩の字が並んでいる。