この世界は君で彩られていく

 教室から強引に連れ出され、授業中に廊下を巡回している先生たちの目を掻い潜って第八美術室に向かう。部活での作業の関係で公欠扱いとされているとはいえ、非公認の美術部だからという理由で疑う先生は少なくない。
 日中の第八美術室に入ったのは、授業をサボって香椎先輩に連れてこられた時以来だった。
「それに着替えたら校庭のベンチに集合な。少し歩くから、靴も履き替えてこい」
 入ってすぐに香椎先輩がトートバッグを投げて渡すと、開いていたカーテンを閉めて出て行ってしまった。
 今からなにをするかを全く聞いていない。先程の笑みで何となく察しがついているけど、それをする工程が全くわからない。投げ渡されたトートバッグには、三年生が使っている紺色のジャージ――「高嶺」の刺繍入りだ――と軍手が入っている。確実に汚れる作業をすることは確かだ。
 言われた通りに着替え、昇降口にスニーカーに履き替えて校庭へ向かう。
 すでに香椎先輩がベンチに座っており、誰もいない校庭を眺めていた。足音で気付いたのか、近くまで来ると顔をこちらに向けて立ち上がった。品定めするようにじっと見ると眉をひそめた。
「やっぱり一年の時のでも佐知にはデカいな」
「そ、そうですね……え? 一年?」
「アイツ、この三年で十センチは伸びてる。中学の時なんて俺よりも小さかったのにな」
「高嶺先輩が……?」
 香椎先輩よりも小さかったというのは少し気になる。
「にしてもこのベンチ、日差しを吸収しすぎ。あちぃ」
 香椎先輩はそう言って、ベンチを怠そうに見つめる。
 今まで設置されていた木製のベンチは六月の大雨の日に落ちた雷で大破して、軽くて丈夫なアルミ製に交換された。まだ傷一つもついていないベンチは校舎に馴染むよう、座面を焦げ茶色、背もたれのアーチや脚を黒にペンキで塗られていた。
 先程まで座っていたそれを見て、香椎先輩がぼそっと呟く。を見て、ぼそっと聞こえた。
「味がねぇ」
「設置されたばかりですからね」
 これから学校に馴染んでいくところなのに、設置されたばかりのベンチに何を期待したのか。
「まだ新しすぎて馴染まないけど、きっと俺が卒業しても変わらないんだろうな」
「それって、どういう……」
「俺が失明したら、その直前までにある記憶が俺の視界だから」
「…………」
「高嶺から聞いたんだろ。……いや、アイツが勝手に話したんだろうけど、気にすんなよ。今まで通りでいてくれ」
 平然としたその表情は、貼り付けたような仮面にも見える。私はぐっと飲み込んだ。
 自分が失明したら。一生目が見えなくなったら。――考えるだけで不安が襲い掛かる。この先も見えるはずだった世界が、色が、形が何も分からない。自分の想像で作り出すしか見られない。
 私は、自分が無神経に聞いてしまったことを酷く後悔した。
 ……だから、二週間も美術室に行けなかったのかもしれない。実際に勉強もバイトも忙しかったけど、なにより香椎先輩と顔を合わせることを恐れていて、どこかで避けていた自分がいた。
「すみませんでした。私、先輩に失礼なことを」
「だから気にしてねぇよ。第六感は俺の特技みたいなモンだから。それより、さっさと宿題を提出しに来い」
 そろそろクロッキー帳も終わるだろ、と何でもお見通しだと言わんばかりに笑う。
 思わず涙が出そうになって、袖口で慌てて目元を隠す。ずっと美術室に置きっぱなしにしているのか、体操着から絵の具の匂いがした。
 しばらくして、高嶺先輩が両手に下げた二つのビニール袋を持ってやってきた。大量のペットボトルのスポーツドリンクとブドウ糖タブレットが入っている。水滴で袋の内側が張りついているのは、冷えた場所から取り出してきたばかりなのだろう。
「お前、コンビニは向かう途中に行くって言ってなかったか?」
「工房の真逆なんだから、学校来る前に買って、職員室の冷蔵庫に突っ込んでたに決まってんだろー。時間もあまりないし、行こうぜ」
 袋の片方を香椎先輩に、自分のポケットから今にも落ちそうな軍手を私に渡して、高嶺先輩は歩き出す。つい先程まで一年生の教室の前で早紀の暴君に付き合っていたというのに、その爽やかな表情と雰囲気はいつもの先輩だった。
「高嶺先輩、あの……早紀はどうなりました?」
「さき? 誰だっけ?」
 キョトンとした顔で返される。
「なんてね。桑田さんなら教室に送り返したよ。なんか喚いてたけど」
 高嶺先輩が笑顔でそう言うと、途端に香椎先輩が目を逸らした。何を言って説得したのか、怖くて聞けない。
「佐知、今すっごく失礼なこと考えてない?」
「いいえ全く。……というか、本当に私、入部していいんでしょうか」
「え?」
「邪魔に、なっていませんか」
 ついて来ようとする早紀がしつこくて、最終手段として先輩が掲げた入部届。本来ならば顧問の先生に出すものだが、それ以前に私は入部を断られている。
 それでも先輩たちはいつも気にかけてくれて、美術室の出入りを許可してくれただけでなく、私に絵を描く機会をもう一度与えてくれて、素材を作る工程まで携わせてくれようとしている。
 本当は邪魔者なんじゃないかと何度も思った。でもそれ以上に、この時間に執着する自分がいる。もしこれがお情けなら、今ここで、バッサリと突き放してほしい。
 先輩たちは顔を見合わせると、同時に吹き出した。こっちが真剣に悩んでいるのに、一応授業中だと考慮してか、笑い声を堪える。
「な、なんですか!」
「いやっ……ごめんごめん。これはちゃんと言ってなかった俺たちが悪い!」
「そうだな」
 二人だけで納得しないでほしい。じろっと睨むと、高嶺先輩は改めて言う。
「確かに最初は断ったけど、クロッキー帳を渡した時から巻き込もうって話はしてたんだぜ。特に俺は、佐知が中学の時に入賞した絵を見てるし、本格的に描きたいわけじゃないとも聞いていたし」
「むしろ佐知が遠慮してるのが目に見えてたからな。どうしようかと話していたところにあの入部届だ。お前、クロッキー帳の裏に貼り付けてたんだろ。マスキングテープは剥がれやすいから、なんかの拍子に落ちたんだろうな。ご丁寧に入部希望の欄に美術部と名前まで書かれてるのを見て、これは使うしかない。……って、高嶺が」
「拾ったのも賛成したのも香椎じゃん! 俺一人のせいにすんなよ!」
 ああだこうだと先輩たちの言い合いに、私は一人唖然としていた。
 つまり私は、知らぬ間に先輩たちの手の平で踊らされていたらしい。実感が湧かない中、高嶺先輩が「あーだからつまり!」と私の方を見て続ける。
「これは正式に俺が受け取った! 今更取り下げるなんて受け付けないからな!」
 あまりにも唐突で呆気なくて、言葉も出てこない。決して呆れているわけではないんだけど、それ以上に、自分を認められたような気がして、じわじわとやってきた高揚感に心地良ささえ感じてしまう。私は二人に向かって頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「おう!」
「……ほら、早く行かないと終わるぞ。(みや)()さんから始めるって連絡きてただろ」
「ヤッバ! そうだった」
「みやじさん? って、これから何をするんですか?」
 先を急ぐ二人が顔を見合わせる。服が汚れる作業であること以外何も聞いていないのに、説明がないのは不公平だ。すると、二人が互いの顔を見合わせて眉をひそめた。互いに説明した気になっていたらしい。
 校舎の裏門をくぐったところで、ようやく高嶺先輩が教えてくれた。
「今から行くのは、学校近くにある工房。芸術コースも良く世話になっていて、資材や特殊な機材を使わせてもらっているんだ。宮地さんはウチの卒業生で、工房の持ち主。花井理事長の教え子さ。あとは行ってみたらわかるよ」
 先輩たちと話しているうちに、工房へ辿り着いた。学校は市街地よりも山寄りにあり、十五分ほど歩けば森林が広がっている。そこに佇む木造の平屋が目的の場所だという。一見普通の平屋だが、門や塀、玄関の引き戸に繊細な飾りが施されている。
 平屋の裏手からカンカンと何かを叩いている音が聞こえてくる中、先輩たちは止まることなく奥へと突き進む。
 次第に奥の開けた場所に出ると、そこには大きなかまどが鎮座しており、吹き抜けになった天井にまっすぐ伸びている。
 そのすぐ近くで木材を解体作業をしている強面な男性に、香椎先輩が駆け寄っていく。
「宮地さん、お疲れ様です。手伝います」
「……ん? 悠人か。珍しく遅かったな。勝手に始めてるぞ」
「なかなか学校から抜け出せなくてさ」
「わははっ! お前ら、ちゃんと卒業できんだろうなぁ?」
 顔を上げた男性――改め、宮地さんは茶化すように笑うと、香椎先輩に工具を渡した。先輩も慣れた手つきで一緒に何かの部品を外す作業に取り掛かった。何をしているのかわからないまま、横から新品のマスクが差し出された。
「はい。これから木屑や煙が出てくるからこれで覆って。佐知と俺はここで見学。何かあったら宮地さんの指示に従ってね」
「え? いいんですか?」
「香椎の絵の材料なんだから、アイツ主体で作らなきゃ意味がないだろー。ちなみに今解体しているもの、何かわかる?」
 少し離れた位置で作業する二人の手元を見る。どうやら木材に刺さった鉄を分けているらしい。取り外された鉄に妙なカーブがかかっているのを見て、つい先日まで設置されていた校庭のベンチを思い出した。
 先輩たちはここに来る前に素材を集めに行くのではなく、素材を作りに行くと言っていた。先日まで香椎先輩がカンバスに下描きしていた絵がベンチだったのは――。
「絵の具に混ぜる灰を作るんですか?」
「正解! でも俺たちが手を出せる作業は、かまどに火をくべて、ベンチが炭と灰になるのを見届けるまで。灰を粉末状にするのは宮地さんに頼んでいるんだ。特殊な方法だからどうやっているかは教えてもらえてないけど、香椎が頼んだ粒の大きさに必ずしてくれる、灰の職人(・・・・)だよ」
「灰の職人って?」
「木炭のデッサンはしたことはある? 宮地さんは木材を使った造形製作が本業なんだけど、デッサン用の木炭を依頼された時だけ作っているんだ。一本もらったことがあるんだけど、すごく良い書き心地でさ。だから灰の職人って、俺が勝手に呼んでる」
「なるほど……じゃあ、あの文化祭の時も?」
「あの時はさすがに火葬場で喪主の息子さんから預かった遺灰を、宮地さんに調整してもらった。ベンチみたいにここで火葬するわけにはいかないからな」
 私たちが話しているうちに、解体作業は黙々と進んでいく。埃と木屑が舞う中、香椎先輩だけはマスクをしていない。高嶺先輩に聞いたら「眼鏡が曇る方が怖い」と言って突き返されてしまうらしい。
「多分、ちゃんと見ていたいんじゃないかな。これから灰になるベンチを、どの絵の具に混ぜようかとか、完成する絵の想像とか。今のアイツには、勉強や進路よりも絵の方が大事なんだよ」
 そう教えてくれた高嶺先輩は、少し泣きそうな顔をしていた。
 香椎先輩はあと二年もしないうちに失明してしまう。卒業後も絵を描いていくのか以前に、今見える景色、感じるものすべてを記憶に焼き付けたい想いが強いのかもしれない。
 じっと作業を見ていると、顔を上げた香椎先輩と目が合う。
「佐知、これを移動させるから手伝ってくれ。かまどには宮地さんに入れてもらう。傍に置くだけでいい」
「オイオイ、女子に力仕事をやらせる気か?」
「部活の公欠なんだから、何かやらせねぇと。宮地さんだって学校に報告するときに話しやすいだろ?」
 香椎先輩の指示で、高嶺先輩も加わって解体された五基分のベンチの木材を少しずつ移動させていく。ひっかき傷やサビで変色しているのは、何年ものの間にいろんな人が使ってきた証だ。
 いくら先輩たちが解体して、かまどに入るほど小さくなっているとはいえ、ずっしりと重みがあった。表面が乾いているから素で触れたらひっかき傷になりそうだ。自分の身長の半分ほどの木材を持ち上げるのでも大変で、震える腕を堪えてかまどの近くに持っていけば、宮地さんが片手で軽々と取り上げてくれた。
「助かるよ、ありがとう。無理すんなよ」
「あ、ありがとうございます、えっと……」
「ああ、初めましてだな。ひと段落したらちゃんと挨拶させてくれ」
 宮地さんは木材を丁寧にごうごうと燃え盛るかまどの中へ入れていく。これがすべて炭と灰になるまで燃やすのだそうだ。その後、余分なものを省いて粒子を揃える作業が待ち構えており、これが二週間ほどかかるのだという。入りきらない分は残しておいて、時間がある時にデッサン用の木炭にするらしい。
 長く伸びた煙突からもくもくと煙が昇る中、かまどの前で香椎先輩と高嶺先輩で火の番をする。
 そこからすこし離れた場所で、私は改めて宮地さんに挨拶をした。
「改めまして、一年の浅野佐知です」
「ああ、宜しくな。話は二人から聞いているよ。絵の中に入れるんだって?」
「え……?」
「『明日へ』の絵を見ただけで、花井先生に弟さんがいることを言い当てたんだろ? それって絵に呑まれたってことじゃないのか?」
 そういえば以前、香椎先輩の知り合いが絵に飲み込まれたという話を聞いたっけ。でもそれは、それほどまでに絵が素敵だったからではないか。私がそう答えると、宮地さんは嬉しそうに笑った。
「あの二人には勿体無いくらい良い後輩じゃないか」
「い、いえ! 私は何も……」
「謙遜しなくていい。二人が誰かをここに連れてくるなんて、今まで一度もなかったんだ。幽霊部員の他の三人や顧問の教師もな」
「そう……なんですか? すみません、何も聞いてなくて」
「本当に説明なしで連れてこられたんだな……。アイツらは頑なに口にしないが、これまでもずっと美術部として活動することにこだわってきた。この工房は芸術コースの生徒が借りに来ることもあるが、あの二人だけは特別だ」
「……どういう意味ですか?」
「灰を絵の具に混ぜる手法を教えたのは俺だからさ」
 宮地さんが先輩たちと出会ったのは、美術部がまだ生徒会へ認定申請をしている最中のことだった。
 この工房自体、宮地さんの好意で芸術コースが利用させてもらっている。だから面識があるが、そこまで生徒とは深く関わることはなかったらしい。
 ある日、ふらっと現れた二人が唐突に「工房を描かせてほしい」と頼みに来た。入口となっている平屋にある細かい細工と、天井を突き抜けて伸びるかまどの煙突が、入学当初から気になって仕方がなかったらしい。
 当時の宮地さんは二人が芸術コースの生徒だと勘違いして中に招き入れた。好きなようにデッサンをさせていたところ、二人の画力に大層驚いたそうだ。
「話を聞いたら二人とも進学コースだっていうからさ、今からでも遅くねぇから編入しろって怒ったんだ。そしたらアイツら、なんて言ったと思う?」
「……嫌です?」
「『クソくらえ』ってよ」
 実に先輩らしい答えだと思った。
「その根性が気に入ってよ、デッサンが完成するまで工房の出入りを許可したんだ。……ちょうどその頃だったな、俺がデッサン用の木炭を作り始めたのは」
 二人がデッサンに夢中になっている間、宮地さんは外部からの依頼でデッサン用の木炭を作っていた。画家の友人へプレゼントしたのがきっかけで作り始めたのだ。デッサン用の木炭は温度管理が大切で、しばらくは離れられない。かまどの前でじっと見つめていた宮地さんに、香椎先輩が興味本位で隣に座ってきたという。
「あまりにも静かだったから驚いてな、何かあったのか聞いたら『俺に構わず続けてください』って、じっとかまどの火を見つめていたんだ。あの時は不気味だったが、それ以上に面白い奴だと思った。お互い目線はかまどに向けたまま、いろんな話をしたんだ。その時に灰を絵の具に混ぜる手法を教えた」
 木炭が完成した後、香椎先輩から「絵の具に混ぜたいから灰を分けてほしい」と頼まれたらしい。
「灰の粒子は均一じゃない。余計なモンも入ってたら、絵の具もおじゃんになっちまう。だからずっと前に俺が調整した灰をくれてやったんだ。アイツ的には、かまどに入ってたのがよかったらしいんだが、まだ冷めてもないものを渡せるかっての」
「出来立てをもらおうとしてたんですか……それじゃあ、灰を使った絵を描くのは『明日へ』が初めてじゃないんですね」
「そういうことになるな。二週間後に工房のデッサンを下絵に描いた絵画を一枚、持ってきてくれたんだけど、灰はその絵に使われたアクリル絵の具に混ぜられていた」
 お嬢ちゃんにも見せてやりてぇな、と宮地さんは懐かしそうに目を細める。以来、宮地さんは二人と連絡を取り合うようになり、絵の具に混ぜる灰の調整をするようになったそうだ。
「今回のベンチもな、俺が頼んだんだ。工房を立ち上げた頃、趣味で作ったベンチを花井先生が気に入ってくれてな、六基を寄付したのがあれだ。そしたら先日の雷で壊れただろ? 俺としても、ここいらが潮時だと思っていたんだ。同じものを作る力はねぇ。でもそれなりに愛着があったからな、廃棄処分するのを引き取ったんだ……アイツらなら、ちゃんと供養してくれると信じている」
「それは、理事長先生の供養絵画を知っているからですか?」
 私が問うと、宮地さんは目を閉じて小さく頷いた。
「話を聞いた時は驚いたよ。しかも、その遺灰の調整を俺にやってほしいと先生自ら連絡がきて、一度は断ったんだ。……けど、その二日後に千暁から悠人に決まったと聞いて、引き受けることにした。先生も酷なことをしたモンだ、教え子にこんなことさせるなんて」
「……どうして、断ったのに引き受けたんですか?」
「聞くだけ野暮ってもんだぜ、そりゃ」
 宮地さんはそう言って小さく笑う。
「誰だって複雑な事情を持ってる。花井先生だって、悠人に描かせることを躊躇ったと思うんだ。それでもアイツらは『誰かに届く絵を描く』と先生の前で誓ったんだよ。そんなこと本人の目の前で言われたら、俺も本気で向き合わねぇと意味がねぇだろ」
「宮地さんもその場に?」
「遺灰を使わせてもらうんだ。先生が好きだったカスミソウの花束を持って一緒に行った。……ところで、悠人の目についてはどこまで知ってる?」
「……二年もしないうちに、失明すると聞いています」
「そうか。きっとそれもあるんだろうな。この工房で灰を作るときは、解体から火の番まで手伝いにくるんだ。……ほら、見ろよ」
 宮地さんが指す方を見ると、かまどの前で手を合わせる先輩たちの姿があった。
「形あるものが灰になる。……それは意志があろうがなかろうが、人も物も変わらないんだと」

 交代でかまどの火の番をしていると、学校の方から昼休みを告げるチャイムが聞こえてくる。
 昼食をすっかり忘れていたと思っていたら、宮地さんの奥さんが大量のおにぎりと重箱一杯に詰めたおかずを持ってやってきた。ここではいつものことで、特に美術部の二人がくると張り切って作りすぎてしまうと、恥ずかしそうにしていた。
 先輩たちに合わせて、コンビニのおにぎりよりも二回り大きいものだったこともあって、私は一つでお腹いっぱいになる。キムチとたくあんを混ぜ込んだおにぎりが意外にも美味しいことに感激して、思わず重箱に入っていただし巻き卵と一緒に作り方を教えてもらうほど仲良くなった。
 ベンチが全て炭と灰になったのを見届けると、後は宮地さんの仕事だ。
 後片付けを済ませて学校に戻れば、すでに昼休みが終わって授業が始まっていた。昼食後にも関わらず校庭でランニング中の生徒を見て、思わず苦笑いを浮かべる。
「俺ら、教室に着替えを置いてあるから直接戻るけど、佐知は一人で大丈夫?」
 高嶺先輩が心配そうにこちらを見て言う。私は美術室に制服があるから、今から急いで戻っても授業の途中から参加する形になる。それは先輩たちも同じだ。
「大丈夫ですよ。もう迷いませんから」
「ああいや、そうじゃなくて。……ほら、かなり強引に教室から出てきただろ?」
 そもそも、強引に連れ出したのは高嶺先輩なんだけど。
「大丈夫ですよ。もし本当に居づらくなったら美術室にこもらせてください」
「まだ入学して半年も経ってないのにサボり癖がついたって、長谷川に叱られても知らねぇぞ」
「公欠扱いでしょ? その時は先輩たちを頼らせていただきます」
 私がそういうと、二人は顔を合わせてニヤリと悪い笑みを浮かべる。そして揃って口を開いた。
「お前、そんなに悪い子だっけ?」って。
 *

 灰の調整が終わるまで、香椎先輩が美術室にこもってイメージを固めたいと聞いた私は、しばらくカフェのシフトを増やすことにした。実際に描くのは先輩たちであり、私は外から見ているだけ。作業をしないのなら、邪魔をしてはいけない。
 今日は店長が不在のため、珍しく閉店までのシフトで入っている陽子さんと一緒だ。平日の夜とあって店内はゆったりとした時間が流れており、久々にドリンクを作るポジションの練習をしている。
 基本的に氷を入れて注ぐだけのジュース系はともかく、ペーパードリップで入れるホットコーヒーやエスプレッソマシンを使うカフェラテは、何度も繰り返しやっていくしかない。いくらチェーン店で統一されたレシピがあっても、揃えるレベルまでにスタッフを育てなければならないのが正社員の仕事だ。――と言っても、この店舗にいる正社員は店長だけなので、心労ばかりかけてしまっているのが現状である。
 その代わりに、バリスタとして大会まで出場経験のある陽子さんが、スタッフの指導に一役買ってくれている。店長のお墨付きなので、誰も文句は言えまい。
 今日も店内が落ち着いたのを見計らって、ドリップコーヒーを試飲してもらう。前回は私でも分かるほど酸っぱくて後味が酷いものだった。一口含んだコーヒーを、舌で転がしながら確認していく陽子さんは、飲み込んですぐに私に向かって微笑んだ。
「大分良くなったわね。これなら出してもいいかも」
「ほ、本当ですか!」
「ええ。でもこれから忙しくなるときはドリップじゃなくて機械で一気に作り置きにするし、アイスコーヒーが一番出るから、しばらく出さないかもね」
 そっちの方が簡単よ、と素敵な笑顔で答えられる。せっかく覚えたドリップコーヒーを店で出すことは先のようだ。
 ふと顔をレジの方へ向けると、ちょうど香椎先輩と高嶺先輩がこちらにくるのが見えた。普段なら部活で美術室にいるはずなのに、少しばかり珍しく思う。
「あ、佐知。来ちゃった」
「いらっしゃいませ、今日は美術室で準備するって言っていませんでした?」
「大体終わったから早めに切り上げた……んだけど、明日が授業ノートの提出だって忘れてたから写さないといけなくてさ、ファミレス入るよりも美味しいコーヒーが飲みながらの方がいいなーって思ってこっちに香椎を連れてきた。あ、俺はアイスコーヒーね」
 高嶺先輩が注文する傍らで、香椎先輩はしかめっ面でメニューを食い入るようにして眺めている。書かれている文字が小さいから読みにくいのかもしれない。
「高嶺、この間のどれ?」
「んー? ああ、あれか。佐知、塩入りのキャラメルラテでアイスってできるかな?」
「できますけど……え、あれって香椎先輩の分だったんですか?」
 私が高嶺先輩と話すきっかけはこのカフェで、持ち帰りのメニューに困っていたからだ。「美味しかった」と感想を言われたから、てっきり高嶺先輩が飲んだのだと思っていた。
 すると先輩は思い出したように「ああ、実はさ」と続けた。
「あの日はやけに香椎の集中が切れたから差し入れしたんだよ。俺は甘いのあんまり得意じゃないから、コーヒーか紅茶しか頼まないんだけど『キャラメルラテにトッピングか、甘くてオススメのドリンク』って雑な注文を押し付けられて困ってたんだよね。あ、ちょっとだけ味見させてもらったよ。美味しかったけど、ずっとは飲み続けられないな、悪い」
 話を聞いて、思わずショーケースに入ったケーキに目を輝かせている香椎先輩を見る。
 そういえば初めて第八美術室に入った時、香椎先輩が買ってきてくれた牛乳パックのラインナップが異色だったのを思い出した。ミルクティー、ウーロン茶、いちごミルク。――私がミルクティーを選んだ後、香椎先輩が有無を言わさず自然にウーロン茶を高嶺先輩に渡し、自分はいちごミルクにストローを挿していた。もし私がウーロン茶を選んでいたら、高嶺先輩には何を渡すつもりだったんだろう。
「香椎先輩、甘いの好きなんですか?」
「疲れたときは甘いものって言うだろ?」
 香椎先輩はそう言って、ショーケースに飾られたタルトタタンを指さした。
 注文されたドリンクとケーキを二つずつ――あの後、高嶺先輩も甘さ控えめのチーズケーキを注文してくれた――を先輩たちが座るテーブルに持っていくと、高嶺先輩が授業用ノートを真っ白なノートに書き写している対面で、香椎先輩はクロッキー帳を眺めていた。
 私に気付いて、高嶺先輩がテーブルに広げたものを片付けながら言う。
「悪いな、本当はカウンターで受け取りなのに……」
「いえ、お気になさらず!」
 空いたスペースにトレーごと置くと、アイスコーヒーの水面が軽く揺れる。
 注文をもらってすぐ、アイスコーヒーが半分にも満たないことに気付いた陽子さんが「席で待っててもらって!」と起点を利かせ、他の準備をしている間に私が一杯分のアイスコーヒーをドリップコーヒーの要領で作ることになったのだ。私が提供するドリップコーヒーはこれが初めてになる。いくら見知った相手だからとはいえ、緊張しない訳がない。
 店をよく利用するという高嶺先輩は、アイスコーヒーの入ったグラスを取ると「あれ?」と不思議そうな顔をした。
「なんか今日のコーヒー、いつもと違う?」
「わ、わかるんですか? 浅煎りの豆で淹れたアイスコーヒーなんです。以前、高嶺先輩は陽子さん……じゃなくて、スタッフに『酸味のあるコーヒーが好き』だと話したことはありませんか?」
「えっ! もしかして陽子さんが覚えててくれた!?」
 慌てて「スタッフ」と言い直さなくてもよかったらしい。
「はい、それでちょうど、日替わり用で仕入れたコーヒーがあるから特別にって」
「へぇ、嬉しいなぁ。ちなみに浅煎りって?」
 浅煎りのコーヒーは、苦みの強い深煎りのコーヒーより酸味のあるフルーティーが特徴だと、陽子さんの受け売りをそのまま高嶺先輩に伝えた。ちなみにバイトを始めてから店のコーヒーの味を覚えるため、スタッフは出勤時に必ず味を確かめることになっている。……が、私は一向に区別がつけられない。陽子さんや他のバイトさんの花の香りが漂うとか、チョコレートっぽい後味とか言われてもいまいちパッとしない。こればかりは飲み比べていくしかない。
 高嶺先輩はアイスコーヒーを吟味しながら飲むと、私の方を見て笑った。
「結構好きかも。ありがとな。陽子さんにもお礼言っといて」
「は、はい!」
 ホッと胸を撫で下ろす。初めて作ったドリンクを提供したのが高嶺先輩でよかった。
「香椎も飲んでみる? ……っておーい、香椎?」
 先程から黙ったままの香椎先輩に声をかけても反応がない。クロッキー帳を見つめたままで、ドリンクやタルトに手をつけた様子はない。
 見ていたのはベンチの絵だった。宮地さんからの依頼で描くことになったものであり、すでに下描きはカンバスの布に描き写されているはずだ。
 高嶺先輩はもう一口コーヒーを飲んでから、香椎先輩に問う。
「何か引っかかってるのか?」
「なんかこう……足りないなと思って」
 描かれていたのは、校庭が見えるように設置されたベンチに生徒が一人座っている構図だ。この時の生徒はまだ輪郭がぼやけているため、男女の区別はついていない。ベンチは手すりに巻き付くように蔦が巻かれ、名も知らぬ花が咲いている。
「でも着色したら見方が変わったりしませんか?」
「着色した後はな。デッサンみたいに消せるようなモンじゃねぇから、今のうちにこの違和感を払拭させたい」
「どうやって……」
「何かが足りないような気がしてる。ただ、それがなんなのか分からねぇ」
 香椎先輩はそう言って、クロッキー帳を見つめながらまた黙り込んでしまう。隣で高嶺先輩はあーだこーだといろんな可能性を話しかけてくるが、相手にされていない。
「ダメだ、話を聞いちゃいねぇってことは、全部不正解ってことか」
「どこで判断してるんですか……」
「反応したら閃いたと解釈している……けど、そんな話をしている場合じゃないな。もし描き直すことになるとして、間に合うのか?」
 今回のベンチの絵は宮地さんからの依頼であり、供養絵画と同じ扱いだ。そう長く引き伸ばすわけにはいかない。
 話を聞いていると外部発注のように見えるが、金銭のやり取りは一切行われていない。『明日へ』の時は外部の関係者である宮地さんの工房利用費に上乗せする形で学校から支払われたが、今回は宮地さん本人が依頼人だ。ベンチを灰にし、粒子を調整する作業はすべて宮地さんが行うため、かかる費用はほぼないに等しい。これは美術部の顧問の先生にも共有済みだ。
 ちなみに美術部への報酬は、校内での活動を許可することだった。だから公欠扱いが可能なのだと教えてもらったのは、つい最近の話。
 高嶺先輩の問いに、ずっと見つめていたクロッキー帳を脇に置いて、ホイップが溶け始めたキャラメルラテに手を伸ばす。
「多分間に合う。……この違和感が分かったら」
「もしかして解決への道が――」
「阿呆か」
 見えてるわけがないだろ、と呆れながら、香椎先輩はストローでひと混ぜすると、からんと氷がぶつかる音が響いた。
「早めに見つける。それに文化祭に出す絵も決めねぇと」
「……文化祭?」
「顧問から文化祭の展示会に美術部として一点だけ出していいって許可が降りたんだよ」
 言ってなかったっけ? と首を傾げながら高嶺先輩が言う。以前、交渉して逆に怒られたと聞いて以来、文化祭の話は一切聞いていない。
「聞いてません……」
「高嶺、部員増えたんだからちゃんと共有しとけよ。しっかりしてくれ、部長」
 香椎先輩が促すと、高嶺先輩はしまった、と頭を抱えた。
「あまり時間もかけたくねぇな。できれば下描きもできてるやつがいい」
「というと?」
「俺たちで最後の代だから、壊れて使えなくなった画材の灰を混ぜられたらいいなって。第八美術室には古くて使われなくなった物が押し込まれてるだろ? 顧問と芸術コースの先生に確認して許可貰ったから、いくら使っても良いってさ」
「そっか、種類が多ければ灰の調整に時間がかかりますね」
「今のところ、イーゼルと絵筆の灰を入れようと思ってる。……宮地さんにもいつ頃作業できるか、確認しないと」
 宮地さんに灰を調整してもらうには、長くても二週間はかかる。それを複数の灰を作って貰う前提だから、描くものだけでも決めなければならない。それにしても大胆なことを考えるものだ。こんな簡単に灰を使う前提で完成形を目指しているなんて。
「佐知、なんか描きたい絵とかない?」
「私ですか?」
 なんでもいいよー、と高嶺先輩がノートに顔を埋めながら言う。二人ともやることが多すぎて浮かばないらしい。と言われても、私も何を提案していいか考えるもすぐには出てこない。ふと、目に入ったクロッキー帳を見て思い出した。
「美術室はどうですか?」
「美術室?」
「第八美術室です。高嶺先輩、スケッチしてましたよね?」
 いつも美術部が集まる思い出が詰まった場所――私が思いつく場所がここしかない。校舎となると大きすぎるし、芸術コースの誰かが描いていそうな気がした。
 その提案にいち早く反応したのは香椎先輩だった。眉をひそめると、ゆっくり高嶺先輩の方を見て、「へぇ」とニヤついた笑みを浮かべながらどこか不服そうな声で言う。
「高嶺、美術室のスケッチしてたのかぁ」
「……えーっと」
 話を聞けば、高嶺先輩は照れ臭いという理由だけで美術室のスケッチを見せていなかったらしい。もちろん見せたり報告する義務はないけど、立ち上げた当初に香椎先輩がスケッチしていたのを見て「エモいことすんじゃん」と茶化したことがあったらしく、それを今自分がしているとなれば絶対いじられると思い、言い出しずらかったという。
 香椎先輩は呆れた様子で「決まったな」と呟いた。
「高嶺、お前の美術室が見たい。描いてくれ」
「やっぱり言うと思った……」
「いいじゃん。最後を飾るにはぴったりだろ? 頼むぜ、部長」
 最大級の信頼と嫌味を込めて言うと、香椎先輩はフォークでタルトの先を突き刺した。

 放課後にアルバイトが入った日のほとんどは、香椎先輩と高嶺先輩は帰りがけに私のバイト先のカフェに寄って受験勉強かデッサンに勤しんでいた。未だにベンチの絵の違和感は拭いきれておらず、カンバスに写した下描きも何度か直しているらしい。
 ちなみに文化祭に出す絵は、高嶺先輩がデッサンしたものを元に、下描きを高嶺先輩、着色を香椎先輩という分担制になった。私は後ろでサポートにまわる……らしいのだが、おそらく今までと同様に後ろで見学しているだけになるような気がした。

   *

 工房に訪れた日から二週間が経ったある日、次の授業の準備をしていると、教室の入口近くの席に座っている小田くんが、いつかのようにおそるおそる私を呼びに来た。
「あの、浅野さん? またあの先輩がきたんだけど…‥」
 言われて入口を見れば高嶺先輩と目が合う。移動教室を終えた帰りなのか、ノートと文房具を抱えていた。
「わかった、ありがとう。いつもごめんね」
「最近よく声かけられてるよね、背が高くてかっこいいなぁ……せめて僕も、平均身長くらいまで伸びたいけど、やっぱり難しいよね」
 小田くんはうっとりした表情で高嶺先輩を見つめた。彼の身長は私より低い一五三センチ程度だと聞く。すらっとした長身の先輩に憧れるのも分かる気がする。
「あの先輩、高校入って十センチは伸びてるんだって」
「えっ!?」
「だから小田くんも伸びるんじゃないかな?」
 私がそう言うと、小田くんは途端に目を輝かせて「自分も伸びる可能性が……っ!」と喜んだ。それを横目に、高嶺先輩が待つ教室の入口に行く。
「なんか楽しそうな話でもしてた? 彼、すっごく嬉しそうだけど」
「先輩くらい身長が欲しいそうです。十センチ伸びてる話をしたら希望を持ったみたいで」
「あれ? なんで佐知が俺の成長記録を知ってるわけ?」
「香椎先輩が教えてくれました。……えっと、何かありました?」
 部活のことは基本、メッセージ上でやり取りしている。先輩自ら教室に来たのはこれで三度目だ。
「ついさっき、宮地さんから灰の調整が終わったって連絡が来たんだ。今日の放課後に取りに行くことになっているんだけど、俺が先生に呼び出されてちゃって。悪いんだけど、香椎と一緒に行ってきてくれない? ホームルームが終わったら美術室に集合するように言っておくから。あ、ジャージの方がいいかも。もしあれだったら置きっぱなしにしてる俺の着ていいから」
「わかりました。でも今日は自分のがあるので、着替えて美術室に行きますね」
「助かる。宜しくな」
「はい。……でもこれ、教室に来てまで話さなくてよかったんじゃないですか?」
 私はそう問うと、高嶺先輩は一瞬キョトンとした顔をして、小さく溜息をついた。
「先輩はねぇ、後輩がクラスに馴染めてるのか心配になるんだよー? あんなことの後だしね。心配したっていいだろ?」
「……あっ」
 忘れてたのかよ、と呆れて笑う。
 早紀とは一切話さなくなった。この二週間の間で席替えが行われて席が離れたことも大きいが、休み時間に話しかけてくることも、昼休みにお弁当を持って席に来ることもない。強引に割り込んだ女子のグループにすっかり馴染み、時折私に向けた陰口を話しているのが聞こえてくる。
 高嶺先輩はそれを気にしていたようで、次いでに私が教室に馴染めているのかを確認しに来ていたのだ。私と早紀を離したのは自分だと責めているのかもしれない。
「心配しなくても平気ですよ。辛くなったら美術室に行きますから」
「……そっか」
 ホッとしたのか、頬が緩んだ高嶺先輩を見て私も笑う。良い先輩に恵まれたと思う。
「じゃあ、そろそろ行くわ。……あ、それと」
 高嶺先輩は一度足を止め、自分の口元に人差し指を当てて言う。
「俺、本当は十三センチ伸びてんだわ。香椎には内緒な」

 放課後、言われた通りジャージに着替えて美術室に向かうと、すでに香椎先輩が待っていた。見慣れた眼鏡姿で驚くことはないが、下描きしたカンバスを眼鏡をかけたまま見つめているのは珍しいと思った。それほどまでに視力が低下してきているのだろうか。
 私が入ってきたことに気付いたのか、先輩はカンバスからこちらに目線を移した。
「……佐知か?」
「はい、私ですけど……どうしました?」
「……いや、悪い。芸術コースの奴かと思った」
「え? ……あっ!」
 申し訳なさそうな顔をする香椎先輩を見て気付く。
 この高校のジャージは、入学して来た年ごとに色分けされている。主に紺、赤、青をローテーションしていく中で、今年の一年生には青が割り当てられた。香椎先輩たち三年生は紺色だ。そして私は、今まで先輩たちの前で青のジャージを着たことがない。だから先輩は、放課後に作業することが多い芸術コースの一年生が間違えて入ってきたのだと錯覚したのだ。いくら眼鏡があって視野が確保されていても、日に日に悪化していく先輩の視力をフォローするのには限界だった。
「気にしないでください。私だと気付いてくれただけで嬉しいです」
「佐知……」
「それよりもほら、宮地さんのところに行きましょう!」
 辛そうに見えた香椎先輩の顔を見ないように、私は近くの机に荷物を置いて急かす。それにつられて先輩も一緒に美術室を出た。
「そういえばクラスはどうだ? 最近クロッキー帳を見ても、描いているのは美術室か家ばっかりだし、教室で描いたモンが一つもない。やっぱり居づらいとかあんの?」
「絵で判断するんじゃなくて直接聞いてくださいよ。何の為の口ですか」
「直接聞くも何も、俺と高嶺はお前をクラスから孤立させたようなモンだろ。いくら俺が不愛想だからって、気まずいモンは気まずいんだよ」
 それが行動に現れているのか、香椎先輩はいつもより足早に先を行く。後ろから見る先輩の横顔は、どこか申し訳なさそうな顔をしていた。
「……私は、あのクラスから離れて正解だと思いました」
 私がその場に立ち止まると、つられて先輩も足を止め、顔だけをこちらに向けた。
「私は入学当初からあの教室で浮いていました。それは早紀と一緒にいたからじゃないし、部活に入らないことを長谷川先生に嗤われたからじゃない。元々馴染めない存在でした。――いつか孤立するのが、このタイミングだっただけの話です」
 和気あいあいとするクラスの中に溶けこめなかったのは、今に始まったことではない。むしろ私は、二人が連れ出してくれたことに感謝すらしている。
「だから先輩たちは何も悪くありません。溶けこむ努力をしなかった自分が悪いんです」
「お前……」
「あっれー? 浅野さん?」
 香椎先輩が言いかけた途端、後ろから聞き覚えのある声が私を呼んだ。同じクラスの女子グループだった。教室と第八美術室は真逆の方向にあるが、昇降口は同じ場所にある。だから必然的にここで合流することになるけど、まさかまだ教室にいたなんて。一番後ろには早紀の姿もあった。
「やっぱり! なんとなくそうかなーって思って」
「ジャージって珍しいね、部活?」
「えっと……」
 同じクラスとはいえ、授業中のグループ学習か、委員会や係のことくらいしか話したことがない。現に声をかけてきた二人の名前も曖昧だ。
 つい数秒前に先輩に向かって悪くないと格好つけて言ってしまったけど、事の発端は自分のコミュニケーション不足が引き起こした結果だ。だから急に呼ばれると、どうしていいか分からない。
「――なにそれ」
「……え?」
 グループの後ろから早紀が呟いた。今まで聞いたことのないほどの低い声は、どこか苛立ちを感じる。