もう一度会いたかった

もう一度会いたかった
                   蒼ノ下 雷太郎 

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 私は神様に育てられた。
 と言ったら、みんなどんな反応するだろう。
「ねーねー、ホノカちゃんの家ってどんな感じだった?」
 居酒屋の席。年上の先輩にそう聞かれた。これは、ほんとのことは言っちゃまずいよね。「へ、平凡な家庭でしたよ」そこから話をつなげられたらよかったんだけど、コミュ障の私はろくに口が回らず、その間に他の子が話題を出しそちらに波はいく。ホッとすると同時にショックも大きかった。
『私は神様に育てられました』と言っていたら、場は盛り上がったかな?
 変な勘違いだけされて終わりそうか。しかも、私は真実を正すこともできないしね。だって、本当に神様がいるって証明をしなきゃいけないし。
『お前さんはもう卒業じゃよ、小童』
 うるさいな。……あいつのことがどうしても忘れられない。悔しいことに、まだあいつとの思い出が私を支配している。
 チェーン店の居酒屋。そこで大学のサークルの飲み会をしていた。お堅い海外文芸サークルのはずだけど意外と髪を染めたり、見た目が明るい人が多く、今回の飲み会も小説の話題が出ることなく話は進んでいた。入るところ間違えたかな私。
「はぁ……」
 トイレの鏡を見ながら呆然としていた。途中、サークルの先輩である女性が入ってきて、心配そうに声をかけてくれたりした。
「ごめんね。まだ雰囲気慣れないよね。あ、酒飲まされたりしてない? あなた、まだ未成年だよね」
「は、はい。それは大丈夫です」
「なら、良かった。何かあったら私に言ってね」
 と、頼りがいのある人だったのだけれど。そのあとに来た人達が「知ってる? あの先輩二股してるらしいよ。それも大学の教授と不倫だって」と聞きたくない話を言っていて絶句する。ちょうど、何かお腹も痛くなってきたと個室トイレに入ったときだった。
 これまで、あいつと二人で引きこもりのような暮らしをしてきたから対人コミュニケーションに不慣れなとこが出ている。いかんな、私。
 また飲み会の席にもどると、私がいたところはすでに他の女の子が座っていて、というかみんなの座席がコロコロ変わっていた。仕方なく、私は空いてるところに座るがそこはスマホを眺めたり、本を読んでいたり、飲み会に来たくて来たわけじゃないという人ばかりの場所だった。
「………」
 ちびちびと、メロンソーダを飲む。
 サークルは大体二十数名いて、そのほとんどが輪の中心で楽しそうにしていた。その輪から外れたのは真面目そうというか、周りと全く話したくないってオーラの者達ばかり。ほとんどが女性で、一人だけ男の人もいた。
 黒髪をショートに整えた眼鏡をかけた人。細い手足をしていて、見た目だけで言うならサブカルチャー系の人に見える。いや、失礼かな。私もそっち系の話題が好きだから、できたらちょっと話したいと思ったけど。と、私の視線に気づいたのか幹事長が来て「あー、ダメダメ」と言った。私に近づいてこっそり教えてくれる。
「ごめんね。あいつ、女には興味なくて。ほら、あれなんだよ。男だけ、にね。ほら、多様性の時代だし、そういうの重要じゃん?」
「あ、は、はい。ごめんなさい」
「いいのいいの」
 いや、そんな飢えた獣に見えたかな私は。
 そう見えたのなら失礼なことをしたけど……いやでも、その人の性のことは本人が言うならいいと思うけど。他人が勝手に話しちゃ悪いんじゃないかな。私だったら、勝手に語られたくない。……違うか。もしかしたら、幹事長はあの人と仲が良いのかもしれない。だから、群がる虫を払いのける役割を、彼が代わりに持ってるのかも。いや、どれだけまずい目つきしてたんだ私は。
「悪いな。あいつ、嫌な奴じゃないんだけど腹立ったろ?」
 また、トイレからもどるときサブカルチャー(系に見える)人に言われた。
 名前は、岩島(いわしま)さんという。大学三年生。
「俺がゲイなのは事実だけど、あいつそれを知ったら過剰に保護しようとしてさ。そのくせどこかズレてるっていうか。勝手にゲイなのを誰かに教えたりして」
「嫌ですか、やっぱり」
「その情報を誰かに伝えるのは俺自身の権利だと思うし、それは誰かが勝手にすることじゃないと考えてる。あいつ自体は悪い奴じゃないんだけどな」
 だから、ごめん。と、岩島さんは言った。
「あいつのこと嫌いにならないでくれ。無神経でほんと馬鹿だけど、悪い奴じゃないんだ」
 それを言うと、また飲み会の席にもどっていった。いや、輪の中心に入りはしないけど。
 大学でもあまり話はせず、黙々と小説を読む人で、無愛想のイメージが強かった。正直、このとき私は岩島さんをすごい良い人と感じた。友達の印象を守るためだけに、トイレから私が来るのを待っていたのか。
 私が席に戻ると、また幹事長が忠告した。
「岩に惚れないでよ。あいつやたらと女にモテて困ってるからさ」
 と言われた。いや、分かってるちゅうねん。
 確かに、正直キュンッてしたけどさ。でも、そこはそれ、理解したよ。
 というか、何度も他人のプライベートを勝手に語っちゃ駄目でしょ。
 ……どれだけ、顔に出てたんだろ。駄目だ駄目だ、この大学生活はちゃんと勉強して良い会社に就くって決めたんだ。恋愛にうつつを抜かしてる場合じゃない。
 後日、そうは言いながらも岩島さんとは仲良くなった。
 昔から友達も少なく、教室で本を読むことが多かった私。自然と活字中毒の岩さんと話すことが多くなっていた。
「俺、妖怪が好きなんだわ」
「妖怪?」
 青い瓶のマークが描かれたカフェにいる私達。そこで私は酸味のあるアイスコーヒーと、ワッフル。先輩はホットコーヒーだけを頼んだ。
 岩さんは仲良くなると意外とおしゃべりだった。
 ただ、あのサークルは話せる人がいないから話さなかっただけらしい。それなら、どうしてサークルに入ったのと聞くと、あの幹事長がやたらとうるさくて、と。
「妖怪ってあれですか。水木しげるとか京極夏彦が好きなんですか」
「いや、あの人達が妖怪みたいな言い方になってるぜ。確かにその両先生好きだけどな」
 私もサブカルに傾倒してるから、妖怪はそこそこ知ってる……と思うけど。岩さんはそれ以上だろうな。正直、妖怪といってもその二人の名前しか出てこない。
 ずっと、妖怪みたいな人と暮らしてたけどね。
「確かさ、榎戸(えのきど)の出身地に有名な妖怪いただろ」
 妖怪って言うと、あの人怒るだろうな。いや、あの『人』ではないか。
「妖怪じゃなくて神様ですよ」
「おー、そうだったか。すまん、悪いことをした。そうだな、そこはちゃんとしないと。で、えーと、その神様ってさ」
 もっと言うと、神様って言われるのも嫌がる。ワシは神様って名前じゃないぞって。
「百花(ひやつか)」
 百の花と書いて、百花。
 それが、あいつの名前だ。
「そうそう、資料によって古い神様って言う人もいるし、比較的新しい方ってのもいるからよく分からん神様だけどな」
 私は、昔神様に育てられた。
 だけど、ある日を境に家を出ることになった。
『お前は卒業じゃよ』
 そんなことを言われても困る。私は一生神様のそばにいたかったのに。
『馬鹿かお前は。ワシは一生成長しない化け物じゃぞ。そんなものといっしょにいてどうする。ワシの思い出なんかはな、大人になったら忘れればいいんじゃ』
 絶対に嫌だった。それなのにあの神様は。

 1

 昔から、私は恋が実らない女だった。
 初めて好きになったのはアニメの男の子で、しかもそいつは私が感情移入したメインヒロインじゃなく、別の女の子と付き合い最終話はその子と結婚した。
 次に好きになったのはサッカーが得意な男子。現実にいる男の子だ。でもその子からは陰で暗い奴と言われていて、それを知って恋心は失せた。
 で、三番目に好きになったのは神様だった。ほら素敵なお父さんがいたら好きになるでしょ。あの人が私にとってお父さんなのかそれともお兄さんなのか、何とも言えないけど。いや、そもそも見た目が常に少年だったからな。四番目は――ま、あとで話すよ。
「どうしたんじゃ、ほのか。肥だめに落ちたような顔をして」
「百花。……好きな男の子がいたんだけどね」
 胃番目に好きだった男の子について話す、当時の私。
 話を聞くと、百花は言う。
「よかったじゃないか。そんな馬鹿なぞ相手するだけ無駄じゃぞ」
 そんな奴にほのかの時間を使うより、他のことに使った方がいいと。
 彼は言った。
 銀色に近い白髪。短めのそれは煌めいて見える。百花は当時の私から見たら、大人に見えた。でも、実際は百花は見た目中学生くらいの男子のようである。
 神社の神主さんが祭事に着るような狩衣を着ていた。袴も何もかも全部白で統一され、百の花という名前には不釣り合いでもある。
「おい、それよりもご飯ができた。夕飯じゃ夕飯。お前、いわしが好きじゃろ。この前、ほのかが買ってきてくれたので祭じゃ祭」
「祭って私の分だけの食事なのに」
 神様はご飯を食べない。妖怪も何かを食べる話はいくらでもあるのに、どうしてだか百花は食べなかった。
「こら、妖怪といっしょにするな。ワシは神じゃぞ、神。神にはいらんのじゃ」
 神様が何かを食べる話もよく聞くけどな。
 でも、いつも私の分だけはちゃんと用意してくれる。栄養バランスも無駄に気にして、どこから手に入れたのか栄養学の分厚い本をキッチンの横に置いている。
「いいか、ほのか。馬鹿な男に付き合うより、勉学が大事じゃぞ。昨今、東大のエリートでも職にありつけぬ有様。だがそれは東大でも無職になるってことであって、それ以外の者が得する話じゃない。論外とすら思われてる世の中じゃ。だからの」
 神様、当時の日本社会を理解しすぎでしょ。まだ年端もいかない幼少の私も思っていた。

 2

 幼い頃に両親が死んだ。
 葬式は親族が執り行ったが、一人残された私のことは彼らの間で揉めたらしい。
 どうする?
 どうしよう? とね。
 当時の私は年端もいかない子供で、誰が引き取ろうかと彼らは悩んだ。別に全員が裕福なわけでもなく、自分らの家計を支えるので精一杯だった。一人分でも余計に払う財力はなかったのだ。
 結局、私は叔父さんに引き取られる。
 叔父さん。
 海外を渡り歩くルポライター。いくつか本を出しているけど、未だに収入は安定しておらず、妙なオカルト雑誌にも記事を書いてると親族間では色々言われていた。
 結局、この人と直に会ったのは数えるほどだ。最初会ったときから――二回目までは大分時間が経っている。
「オレにはお前さんを育てる自信はねーよ。でも安心しな。オレより適任の奴に預けるから」
 会って早々に言われた。
 私は何も言わずに受け入れた。どうせこうなるのは分かっていた、と。
「………」
 叔父さんに連れられて海の見える田舎町へと向かう。
 そこで、神様に出会った。
「お前のう。ワシを神だと思っておるか? 都合の良い妖怪だと思ってるじゃろ」
 海に面した田舎町。その辺りを一望できる丘に建てられた家。
 年季の入った古民家で木造建ての瓦屋根、庭だけはやたらと広く、生け垣が景気よく家を囲っている。神様――彼はそこに住んでいた。
 銀に近い白髪、少年のような姿、神主が着るような服――当時それはコスプレに見えた。奇妙な外見だが姿は人間に見える――はずが、どうしてか私はすぐに彼が人間じゃないと悟った。
「お嬢ちゃん。オレはろくでなしだ。オレが引き取ると言った手前であれだが、こいつならお嬢ちゃんを育てられる」
 当時の私は物わかりが良かった。
「ありがとうございます、おじさん」と。
 すんなり言った。だが、神様は許さなかった。
「小娘。ここに住むのは良いが条件がある」と、銀髪の神様は言った。「そいつを殴れ」
 叔父さんは仰天する。
「おいおい、神様」
「小娘。何を我慢しておる。ふざけるな。子供がそんなモノをしまい込むな。腹を壊すぞ。ムカつくんだろ。両親が死んで。その上、親族は自分を引き取るの嫌がって、たらい回しにされて。とりあえず、この男を一発殴っていいぞ」
「……っ」
 このとき、私はとても驚いた。
 いや、だってねぇ。
 こんなにはっきりと言う人なんていなかったから。大人は、どうにかこうにか言葉を偽って本心を隠してたから。そんなにしてまで隠すなら、いいよ。素直に言っちゃって。私が嫌なんでしょ……と思っていたのに。
「っ、あぁぁぁぁっ」
「え、いや、何故泣く!?」
「あー、泣かした! こいつ、神様のくせに子供泣かした!」
「うるさいわ、たわけ! おー、よしよし。どうした、何がそんなに嫌じゃった?」
 と、私を抱き上げてあやそうとする神様。
 下手くそにぶんぶん振り回すその様子は、神様というには不器用すぎる。
「うわああああああああああああんっ」
 でも、こんなところが私は好きだった。思えば、初めて会ったときから私は神様に惚れてたんだ。他の大人達とは違う、全く別の存在だったから。

 3

 ま、そんなこんなあって。
 そんなこんなって、簡単にまとめすぎだけど。私は、神様に育てられることになった。
「ワシの名は百花じゃ。ひゃ、っ、か」
「ひゃっか?」
「百の花と書いて、ひゃっか。どうじゃ、良い名じゃろ」
 自分から言う神様も珍しい。
 少年の姿をした彼はニカッと笑って言う。まるで、ちょっと年上のお兄さんという感じ。
 百花は私の世話を良くしてくれた。
 学校の書類など細かいことは叔父さんが外でやってくれた。実際に私の教育や面倒を見てくれたのは百花だ。だが、両親が死んでまだショックが続いていた私は百花にいくら優しくされてもすぐに慣れることはできなかった。最初の対応はうれしかったが、それでも長く住もうとすると弊害は生まれるものだ。
 だから、学校が終わっても中々家に帰らず、どこかで時間を潰したりした。このときは見慣れぬ土地だったし、新鮮であった。だから山の方や、海が見えるところ、港の周りを探索していたんだけど――。
 一回、間違って海に落ちちゃったことがある。
 テトラポッドがいっぱいある堤防から海を眺めていたときだ。うっかりそのまま落ちちゃったんだよね。今にしてみると危ないことしてた。でも、海なんてあの頃は珍しく、危険性とか全く理解してなかったんだよね。
 海に落ちた私。
 学校のプールじゃいくらでも泳げたのに、いきなりでもあったし、何より海水に濡れた服が意外と重たくてまるで私を海の底へ引っ張るようで……そのまま、連れてかれそうになってしまう。
「アホか」
 それを引き上げてくれたのは、神様だった。
「このたわけ! くそっ、おい息しろ。ちぃっ」
 海に飛び込んで私を助け、息がもどらない私を人工呼吸し、心臓マッサージをして、蘇らせた。私はゲホッゲホッと咳き込む。
「――はぁぁぁっ、心配させるな。もう、ハラハラさせるなぁぁぁっ」
「……ごめん、なさい」
 涙ぐむ、私。
「泣きたいのはワシの方じゃぞ」
「ごめん……なさい」
「怖かったじゃろ」
「うん」
 これが死。
 嫌になるほど味わってしまった。一時、お父さんとお母さんが死んで悲しくて死にたいと感じたこともある。だけど、これが死なんだ。海で溺れて底に沈んでいく――死にそうだった。それを体験してしまった。
「死にたくない。この気持ちは絶対忘れるんじゃないぞ」
「……うん、本当に、ごめんなさい」
 そのあと、百花は私を米俵でも持つように片手で抱えて帰る。
 私は嫌がったけど、「やかましい!」とお尻を叩かれた。
「命を粗末にする子はこんな扱いで十分じゃ!」
 ほんと、その通りだけどさ。
 家に帰ると、百花はぐったりして倒れ込む。おいおい、倒れたいのは私の方だよと思ったが。「……忘れてた。そうじゃな、こうなるんじゃったな」何か変なことまでブツブツ言っていた。結局、その後は私が百花の看病をすることになった。といっても、大して体格の違わない少年を布団を敷いて運んだだけだ。
「ごめんね」
 事情は分からないが、私のせいでこうなったのだと思った。だから私は謝った。
「……小娘が気にするな」
 と、苦しそうにしながら言う百花。
 ごめん、百花。正直言うとこのときの私はうれしかった。
「………」
 こんなに苦しそうにしている百花には悪いとは思うけど、私はうれしかったんだ。私なんかのためにここまでがんばってくれる人がまだいるんだって、感じられたから。
 ほんと、たち悪いよね。ごめんね、百花。

 4

 神様の家はいつも波の音がした。
 一キロは離れてたはずだけど、それほど波の音は広範囲に届くようで彼らは怪獣のように堂々と私達の家に居座る。
 でも、塩害や湿気の心配は不思議となかった。
 本来、海に近い家ってのはそういう被害が出るらしい。思えば、神様の家じゃない周りの人々はそうだったな。車もマメに洗車したり、屋外にさらけ出すこともしてなかったし。
 そういえば、迂闊に下着をベランダに干してるっ言っちゃったときもあるな。
 ある日を境に私は下着を洗われるのが嫌になったんだ。ま、百花は案の定理解できてなかったけどさ。で、私が悪いんだけど二階のベランダに干したまま忘れちゃったことがあったの。百花をそれをとりを取り込んでくれたんだけど、私は怒ってね。で、ケンカになっちゃった。『お前がパンツを忘れたままなのが悪いんじゃろ!』いや、その通りだけどさ。百花もデリカシーというものがさ。
 で、ムシャクシャした私はクラスメイトにその話をしちゃったんだけど。
「え、ベランダに干してるの?」ってこっちの意図せぬとこで首をかしげられてね。
 沿岸地域って、外に干しても湿気が強いから洗濯物も中々乾かないんだってね。知らなかったから、慌てて言い訳したよ。
 波の音は許し、でも塩害や強すぎる湿気は入れない。あまりにも私達に都合が良すぎる。だけど、神様の家としてはらしいなってこのときは思った。

 5

「ねぇ、神様」
「神様なんて名前の奴はおらん」
 百花は神様と呼ばれるのを嫌がる。
 夏の暑い日。
 焼けるような日射しが我が家を襲撃――はせずに、むしろ夏の日には似合わぬ心地よい風が家の中を漂う。テレビに映るキャスターは『酷暑になります』と言っていたのに。
 百花は縁側に腰を下ろし、右膝を立てて本を読んでいた。
 傍らにはお盆、そこには彼のマグカップがある。入れられてるのは彼が煎れたアイスコーヒーで、酸味の強い、けど紅茶のような味だから私も飲みやすかったもの。氷の入ったマグカップがカタッと音が鳴る。氷が多少溶けたらしい。本来なら、夏の熱さで一気に溶けてもおかしくはない。
「ねーねー、百花」
「落ち着かん童じゃのう」
 彼は私をちゃんと育ててくれてはいる。洗濯物は思春期になった私が嫌になり、自分からやるようになったけど毎食彼は用意してくれたし、しかも栄養バランスまで考え、私が好きそうなの、ちゃんと飽きてないか、おいしく食べてるか、ときおり私のスマホを手に取り、それで最近の流行まで探って作ってくれる。勉強だって博識だから困ったら大体教えてくれる。私の養育費というか学校のお金もろもろも神様が用意してくれてるらしい、彼の元には毎週何らかの客が来てそのお礼に何かをくれる。そのお礼というのがお金に換算できないほど価値のあるものだったり――多分あのお客は人外も含まれてたんだろうな。そのため、百花は裕福な暮らしをしていた。
「てか、百花ってご飯は食べないのにコーヒーは飲むんだ」
「食べる必要がないからの」
「コーヒーは?」
「好きだから飲む必要があるんじゃ」
 と、読書の世界に目をやりながら私の言葉に答える。
 むむむ、と当時の私は悔しそうにしていた。
 百花は私のめんどうは見るには見るが、自分だけの時間というかそういうのもちゃんと守っていた。私がかまってほしいときも、絶対に譲ろうとはしない。一回泣き叫んだことがあるが、嘘泣きじゃろ、とあっさり見破られた。
 いつしか、私も本を読むようになっていた。
 百花は神様だからか縁側に座って平気にしているが、私は籐椅子に家具チェーン店で買ったクッションを敷いて座る。あいつ、お尻が痛くなったりしないのかな。
 神様のくせに流行には敏感でやたらと人間が何にハマっているのか気にしたりする。それは本でも同じだ。原作が映画化してテレビで紹介されたときも、それよりも前から注目してたぞ、と自慢げに言っていたっけ。
 冬。
 縁側から見える庭には雪が積もる。庭といっても何か植えてるわけじゃなく、立派な和風庭園ですらない。地面はむき出しのままで、雑草が生えないように何かしてるのか学校のグランドのような状態を保ち続けている。
 古びた日本家屋なら冬の寒さもすさまじく隙間風があちこち来るはずだが、これもなく、家は冬でも穏やかな楽園のままだった。一応半袖から長袖になったが、それは敷地内に入った雪の冷たさが多少影響するだけの話で、雪が降らない日はタンスにしまい忘れた半袖をそのまま着ちゃうときもあった。
 何度も古いといったあの家は何度か改築はされてたらしい。元は江戸時代辺りの豪農の家だったんだとか。でも、トイレは洋風、しかも最新式のお尻洗うやつまであるのに変えて、お風呂も自動お湯沸かし機能まで付いていた。
 リビングになってるフロアと畳敷きの十畳ぐらいある一室が一階を占めていて、その他に書院もあるが、これは百花の所有する本棚で埋め尽くされていた。本は馴染みの古書店が通いで来て、そこから入手してるらしい。
「………」
 こんな家、友達に見せたら驚くだろうな。と考える私。
 だが、その友達がいなかった。
 漫画だったら一話くらいその話で埋まるだろうにもったいない。
 リビングにあるソファーに座り、温かいコーヒーを飲んで雪の積もった庭を眺める私。
 その日百花が煎れたのは、深煎りの大分濃い味のするものだ。コーヒー豆はその道にくわしい者から買うらしく、東京の名店や海外から進出してきたお店、中には沖縄や九州と広大な範囲のを我が物としている。
「ねぇ、百花」
「ん」
 向かい合わせのソファー。百花は反対側のソファに座り、本を読んでいる。
「百花って、もしかしてこの家から出られないの?」
「あれ、言ってなかったか。というか、今頃気づいたのか」
「うっさいな。だって、私を助けに来てくれたときあったじゃない。あのときは外に出てたし――いや、それ以外に見たことないんだけどさ。学校に私は行ってたし。も、もしかしたら、そのときに家を出てるかもしれないって。いや、その」
「トロイ娘じゃのう。将来の婿がどうなることやら」
 うぅ、と私はうなる。そこまで言うことないじゃない。
 いや、確かにもっと前に気づくべきだとは思うけどさ。
 そうだ、私を助けに来てくれたときだって変なことつぶやいてたし、そのあとに倒れ込んじゃったし。もしかして、出るのがすごい大変だったのかなって。あとになって気づいたんだ。
「……ふぅー」
 百花は話題が終わったと判断したのかまた読書の世界にもどっていった。いや、何で外に出ないかを話してくれないのかよ。ここは過去編に回想が始まるとこでしょ、と。
「………」
 しばし、私は目で訴えるが完全にシカトしやがる百花だった。くぅっ、こいつめ。
「……んぅ」
 仕方がないから、私が勝手にあれこれ考えてしまう。どうして、百花は外に出ないのか。いや、出られない? なのかな。やっぱり。
 何かの制約があるのか。神様だから、人間の私には計り知れないものがあって。
 この頃……おぼろげな記憶だな。確か、私は中学生になっていた。
 気がついたら、百花の背を超えていた。
「ねぇ、百花はさ」
「ん」
「……いや、何でもない」
「ん」
 おい、そこは何でもないって何じゃ、て聞いてくれてもいいでしょ。
 違うか。それは流石に根暗の言い分にも程がある。男性の人が見たらめんどくさい女って言われそう。
 中学生くらいの頃になっても、私は私のままだった。学校ではあまりみんなになじめず友達がほとんどおらず、唯一いるのも他のグループに本命がいたり、自分だけ一人になるのは嫌で緊急のために私の近くに来ただけで他にできたらすぐに離れてった子もいた。
 余計に家に居座ることが多くなる。
 二階に自分の部屋があるがそちらに行くことなくリビングで過ごしてばかり。それはやっぱりあの神様のせいなんだけど、その神様本人はそんなのおかまいなしに本に夢中で私が不満そうに彼を眺めても知らんぷりする。
 中学生にもなると流石に不満が溜まっていた。
 彼は親代わりをしてるわけじゃない。あくまで居場所を与えてくれただけだ。彼も必要以上に絡む気はないのだろう。これまでそんなに愛情を持って接してくれたことなんて――いや、それは言い過ぎか。
「………」
 海に溺れたとき、助けてくれたもんね。
 でも、彼本人に何らかの制約があるのか外には出られない。出たら、以前のように体調が悪くなる。だから旅行もしたことがないし、私も友達がいないから家でダラダラとすることが多くなる。自然と私の子供時代は百花と沈黙ばかりの日々だ。
 彼が相手してくれないとあきらめ、私は勉強をする。ノートを広げ、教科書を見ながら問題を解いていった。百花がいるからサボることもできないし、緊張度が高まる。そして、分からないことがあれば聞けるから私の成績は昔からトップを走っていた。
「ほのか。お前、大人になったらここを出てけ」
 急に言い出した、神様。
 私は勉強に集中していた。トムとジェリーがいて、トムは毎日のバス代が高いと困っていると英語で長ったらしくしゃべっている。そんなの知らないよと思いながらもトムの英語を翻訳していき――ん、何を言ったこの神様。
「いきなり、何? ちょ、唐突すぎない?」
「………」
 だんまりかよ!
「ちょ、流石に何か言ってよ! 出てけって、今更そんな」
「大人になったらと言ったじゃろ。正確には高校を卒業したらじゃな。上京して大学に行くんじゃろ? お前、そのときになれば自然と出てくさ。困ることはない」
「別に、上京するって決めてるわけじゃ」
「こんな田舎に就職先なんてないし、それにお前さんは外に出た方がいい」
 早く、出て行けるならした方がいいと彼は言った。
「………」
 私は、一方的な物言いに納得がいかず、何か言おうとしたんだけど。
 でも、冷静に考えると確かに私は上京――悪くないかなと思ってる。
 別にこの地が嫌いなわけじゃない。だが、特別好きでもない。ちょっと歩けば海が見える素敵な場所、ていうのは外を気軽に歩く明るい性格の持ち主がすることで、そして惚れることで、私からしたら波の音はうるさいし、塩害はこの家じゃしないけど、外に出ると影響がすごいし。学校に行く自転車とか、外に止めてたら短時間でもダメージ受けるしさ。
 だけど、納得がいかなかった。
 確かに、いずれ私はここを出るかもしれないけどさ。
「………」
 それって、百花とも離れることになるじゃん。それをさ、自分から言う?
 てか、百花は何も思わないわけ。
 私達、仮にも長年暮らしてきたんだよ。それなのにさ、そんなあっさりと出てけなんて。例え、まだ大分先の話であってもだよ。何だか、嫌だ。それに出てけって言うのがさ、まるで。
「それって、もう二度とここには来るなってこと?」
 神様は答えない。
 ひどい。悪魔だ。こういうときだけ、神様みたいな威圧感のある雰囲気を出して、私に何も言わせないようにしている。神様というより、本当に悪魔なんじゃないか。
 この当時は中学生だ。
 中学生の心は常に爆薬を抱えてるようなもの。このとき爆発した私の心は駆け出し、家を出て走った。どこに向かうか決めてない。すでに日は落ちかけていて、夜になるというのに。子供の私は百花が冷たい態度を取ってふてくされてプチ家出みたいなことをしでかした。
 海の近くに、錆びてしまった遊具ばかりが残っている小さな公園がある。
 そこのブランコで一人座って、ブランブランッと時間を潰した。
 また、あのときみたいに百花が私を助けに来てくれないかなと思っていた。
 数時間経ち、流石に十時を越える頃になると家に帰宅した。百花は私は出てくときと同じ姿勢で場所で、本を読んでいた。
「夕飯はできてるぞ。たくっ、もう少し遅かったら尻を叩いてたわ」
「来なかったくせに」
「そう何度もワシは外に出られん」
 それ以上語る気はないらしく、会話は終わった。
 出されてる料理は私の好きな焼き魚やあさりの味噌汁で、そこだけは救いだった。
 これは、あとあとになって気づいたことだが、あいつ公園のそばでずっと私がどうするか見守ってたらしい。夕飯を用意したあと、ぐったりと寝込んだし。後日、学校で夜の公園に美形の少年の噂が流れていた。ほんと、あの神様はツンデレにも程がないだろうか。

 6

 でも私も子供だったな、と現代の大人な私はうめく。
「……はぁ」
 私は、現実にもどる。大学二年生になっていた。
 朝、白いカーテン越しに日射しが入る。北欧家具チェーン店で買ったカーテン、あ、洗うの忘れてたな。ちょっとホコリがついてるや。
 八畳間ぐらいのアパート。
 神様の家にあった机や本棚、ベッドをそのまま持ってきてる。本棚もあり、大学で使う資料を机から取りやすい位置において、あとは趣味の映画関係の雑誌や、サブカルチャー系の本、小説は下段や上段に置いている。あまりにも濃い本は下の下に。
「………」
 起き上がる。
 時計を確認すると朝の五時。随分と早い時間帯だ。二度寝しようかとも思うが、ちょっと本でも読んでようかな。ある程度経ったら、大学行く準備をしよう。
 上京する前に、いやあの家を出る前に百花から十分なお金はもらった。なので、学費と生活費に関しては大分蓄えがある。私も趣味が少ないし、多少本を買う程度なので散財の心配はない。
「……はふっ」本を読み、時間になると朝食の準備をした。昔は全部百花にやってもらってたけど、ご飯を作るのって大変だ。良いご身分だったんだなと今の私は感じるよ。ほんと、楽園にも程があるところだった。百花に良くしてもらいすぎた。
 神様が、家から出てけと言ったのは卒業という意味だったのかな。
 あのままだったら、ぬくぬくと永遠にあの場所に居続けた。
 それこそ二十歳を超えても、三十を超え、おばあちゃんになって死ぬ間際も――あの場所にいたかもしれない。
 百花は、それだけは嫌だったのかな。
「ずっと少年の姿の神様か」
 百花は、どんな気分だったのかな。小っちゃかった私に背を超えられて。
 嫌な感じだったかな。
 そうだったら、嫌だな。
「………」
 目玉焼きを作ることにしたが、目玉焼きはすぐに焦げてしまった。

 7

 電車に揺られて、目的地へ。
 私は本を読みながら、走るゆりかごに身をゆだねる。
「………」
 今日は、岩さんと会う。

「俺、大学辞めるわ」
 昨夜突然岩さんは言った。オンラインゲームをしていたときのことだ。FPS系、中国か韓国制作ので銃をバンバン撃つゲームだ。
 百花は私にゲームをするな、とは言わなかった。だが、私の心の中でどことなく忌避感があった。私は早くに両親を失い、この家に居候のような形で将来がどうなるか分からないという焦りがあったのだろう。だけど、クリスマスが近くなると百花は私にプレゼントとしてゲーム機を渡そうとした。その際、さりげなく(百花はそう思ってる)プレゼントが何がいいかを聞いてきたことがある。あいつ、普段は黙々と本を読んでるくせにそういうイベント事はうるさいのだ。
『のう、ほのか。ゲーム機とか欲しくないか?』
『いらない』
 全然さりげなくじゃなかったな。あいつ、ちょっとゲームやってみたかったのかもしれない。当時の私はそんな彼の気持ちも知らずに断っちゃったけどね。
 思春期だし、余裕がなかったのだ。
 で、そんな感じでこれまでずっとゲームをしてこなかった私。
 大学生になっても触れる気はなかったのだが、岩さんがちょっとだけでもやってみ、と誘い、パソコンでできるゲームも多いからと――気がつけば、FPS系のゲームを筆頭に色々なゲームに手を出す始末だ。
 電車に揺られてゴトンゴトン。
 本を読んでいる。ブックカバーをつけて。
 相変わらず本の虫だけど原作はノベルゲームのやつで、それもオタクの人が好みそうな題材。中世ヨーロッパ風のお姫様が色々な王子様と恋愛するのだ。
 趣味変わったな、と自分でも思う。
 電車は平日のお昼頃らしく人の数はまばらで、安心して私は読書時間を楽しめ――ない。正直、岩さんのことで頭がいっぱいだった。
「………」

 8

「岩さん、あの、大学を辞めるって」
「ほんとだよ」
 岩さんとしては、穏やかに話を進めようとしたらしい。
 渋谷にあるおしゃれなカフェ。コーヒーの味より雰囲気とお菓子の内容で勝負する、若い人向けの店だ。そこで、岩さんはアイスコーヒーを、私はカフェオレを選ぶ。
「この前やったゲーム」と岩さんとしては普段通りの談笑から始めようとしたんだけど、私がそれを遮って発言してしまった。相変わらず、自分の不器用さに凹む。
「も、もしかして、同性愛のことで」何か言われて、と言おうとしたのだが。
「あのさ。勝手にいらん想像するのやめろや」
 音量の高い声。
 これまで岩さんがすることはなかった怒りという色を込めたもの。
 私は、思いがけない声を聞いてしまい、ビクッと硬直する。その硬直も恐怖による硬直というより動画を一次停止したかのように微動だにしない硬直。恐怖もあるはず。でもそれ以上に悲しみとか、そういうのが勝る。
「すまん、ちょっと怒りっぽくなってる。ごめんな」
「い、いえ、すいません。悪いのは私です」
 うなだれる、私。
 悪いと思うなら場を和ますこと言えばいいのに、落ち込むだけの私。岩さんには感謝してもし足りない恩があるのに、ほんとに最後まで何にもできない。
「単純な話だ。金、金がないんだよ」
 父親の会社が倒産したらしい。それで、岩さんも働くはめになったと。
「で、でも奨学金を使えば」
「それも返せるアテがないからな。ははっ、しょうがないわ。オヤジに無理言って上京したんだ。だから、オヤジが困ってたら助けなきゃな。母さんもパートばかりやってるらしいし」
 弟もいるから、と岩さんは言った。
 だから、来年すればもう卒業なのに岩さんは辞めると言っているのだ。
「……そ、そうですか」
 ほんとに、気の利いたことを何も言えない私。自分で自分に腹立つ。刺したくなる。何で、これまで何度も岩さんに助けてもらったでしょ。何してんの、あんた。何か、少しでも何か言いなさいよ。
「気にするな。といっても、ほのかには無理か。無駄に考えすぎるタイプだからな」
「い、いえ、私」
「ショック、はショックだけどな。でも、どこか心の中じゃやっぱりこうなったか、て思ってんだ。今までうまく行き過ぎたろってな。田舎が嫌でさ、今思うと多少マシなとこもあるけど、当時はほんとにクソみたいなとこって……でも、今はいいかなって」
 悪い、と岩さんはアイスコーヒーを勢いよく飲み干し、席を立つ。
「先帰るわ。悪いな」
「あ、いや、いえ」
 また、何も言えず、がんばってくださいすら言えてない。いや、失意の中でそれは逆にひどいか。あー、何をしたいのか自分でも分かっていない。
「……岩さ――」
 ひたすら悶々として、意気込んで振り返るとすでに岩さんはいなかった。
 数名の若い子達が談笑してるカフェで、一人ぽつんとしてしまう私。
 カフェオレを飲み、無性に砂糖が欲しくなった。

 9

 帰りの電車。
 岩さんのことを考えてる。
 多分、あの人のこと好きだったんだろうな私。ろくな恋愛経験ないけどさ。初恋となる者はアニメキャラで二回目は陰で私の悪口言ってて、三度目は……三度目は人間ですらない。アニメキャラとはまた違う存在。確かにいるのに、不思議な存在。
 四度目は……高校のときに少しだけ付き合った男子。で、五度目が岩さんか。恋愛か分からない。単に男の人に優しくしてもらうってのが久々で、いや神様は例外ね。あれは別。だから、私はその気になってしまったんだと思う。岩さん、女性が恋愛対象じゃないのに。
「………」
 でも、実らなくてもいいってあきらめてた。あきらめ?
 違うか。納得はしてたんだ。最初から恋愛対象にならないって言われたし。じゃあ、岩さんの近くでというか。友達として、やっていこうと。単純に岩さん人が良いし、楽しいしってさ。だからさ。でも、いなくなるって悲しいな。実家は九州らしいから会うことはないだろうな。ネットで会話するくらいか。それも仕事で忙しくなれば、岩さんはできなくなるか。
「はぁ」
 帰りの電車。多少、人の数が増した。しかし、それは一人か二人程度。
 本を開いてるが中身は頭に入ってこない。
「そうだ」
 百花に相談すれば?
 神様なら、お金だっていくらでも持ってるんじゃないか。それなら――。
「最低か、私は」
 私のお金じゃないだろ。百花に世話になっておいて、何をまだねだろうとしてるの。たち悪い。そうやって友達が辛い目にあったら何でも百花にお願いするの。卒業するって、あいつの家を出るとき誓ったはずなのに。
「………」
 窓ガラスにふと視線がいくと、私自身の姿がかすかに映る。嫌になった。

 10

 高校生になった私。
 あの頃の私は、ちょっと無敵だった。
 それまで学校では内気で陰気な生活を送っていた私だが、勉学ばかりに励み、その甲斐あってか進学校に合格した。
 百花の家からはバスを乗り継いで五十分ほどかかるが、設備は地方にしては整っており、吹奏楽部や演劇部など文化系の部活動が盛んである。校舎は近代建築らしい白い真四角がいくつも並んだ建物で、ここに通うだけで陰気な気分は吹き飛んだ。
 友達も何人かできた。とはいっても、進学校の授業は厳しくてついてくのでも大変だったし、友達はほとんど部活に参加していたので、私だけ帰宅部でさびしい思いをする。
「高校生になっても早く帰って来るのう。部活動でもすればよいのに」
 と、帰宅した私を百花は言ってくれるが。
 うるさい、こっちは好きで早く帰宅してるんだ。
「……ふんっ」
 正直、この頃になってようやく百花に対しての思いを把握しつつあった。
 といっても相手の見た目は私よりも若く見える。いくら何でも恋しちゃまずいだろってくらいに。いや、神様相手に何を考えてるんだって話だが。
 それに、百花は全く私を相手にしていないしね。
 悩みなんて、相談すれば一応真剣に聞いてはくれる。授業についてくのが大変といえば、勉強のサポートもしてくれるし、分からないことが尽きっきりで教えてくれた。
 でも、それは子供に対する接し方だ。もちろんだけど、恋愛対象にしてるわけじゃない。
 当たり前でしょ。幼い頃からいっしょにいるんだから。
「………」
「何じゃ、ワシに何かついてるか」
「ついてないけど」
 ふと、彼の顔を長く見過ぎてしまった。流石の神様も反応する。
 こいつ、私が恋してるってこと気づいてすらいなんだろうな。で、告白したら絶対笑うんだろ。小さい娘がパパ好きーって言うのと同じような感じと思っちゃうんだ。
「………」
 本当のパパは死んじゃったけど。ママもね。
 もう、あの二人の記憶はうっすらとしか覚えてない。いなくなったときは悲しくて死にそうだったのに、ひどいかな。でも、時間っていうのは驚くほど私の記憶を抹消してくんだよ。
「ねぇ、百花」
「何じゃ」
 勉強する手を止めて、私は百花に聞いてみる。彼はまた本を読みながらの対応。
「上京することになって家を出たら、長い時間が経っちゃったりしたらさ。私、百花のこと忘れちゃうのかな」
「忘れろ。本来、ワシのような存在は人間と会うべきじゃない」
「叔父さんとは知り合いだったくせに」
「あいつは昔から変なものに巡り会う才能があるんじゃ。海外でもワシのようなのと出くわしたらしいぞ。本来、そんなものいらんのにな」
「いらなくないよ」私は言う。「だって、百花に出会わなかったら私、どうなってたか」
「ほのかは十分強い子だったと思うぞ」だから、大丈夫だったと思うと。「いや、大変な道のりになるとは予想するがな。でも、ワシはほのかだったら案外平気だったんじゃないかと考えておる」
 そんなことを考えられても困るんだけどな。
 百花と出会わなかったらなんて。そんなの、考えたくもない。ひどくない。そんな話するなんてさ。

 11

 高校生になると多少化粧をするようにもなる。
 中学までは私の周りは一部の人達がする程度だった。都会だったらまた違うのかな。それとも、私の周りだけだったのかな。ともかく、高校になるとみんなが当たり前のように化粧をしていた。呼吸でもするかのように、大人になったら税金を払うのが当然のように自然とみんな化粧をするのが法律となっていた。
 地味な印象の多い私の友人関係も、みんなしていた。
「あのね、地味だからこそ化粧すべきなんだよ」
 と高校の友人の一人に諭された。確かにその通りだと自分を恥じる。
 私も彼女達に教えられながら、化粧をした。いや、あくまで高校生が買えるぐらいのものだ。それでいて基礎的なのを教わる。スキンケアやベースメイクの方法、目の周りのあれこれや、リップなど、おすすめを試しながら学んでいく。
 高校二年生になると私も化粧を自然とこなせるようになった。といっても元々がめんどくさがりやだから、積極的に目元を強調したりはせず、ただ肌荒れとかそういうのは気にするからそれをカバーする程度だ。
 家にいても神様はその手のことは疎いのか気づかずにいたが、高校三年生くらいになってようやく神様は私の化粧に気づいた。
「……ん、おおっ!? ほのか。お前、化粧してるのか」
「いや、遅いからね。高一でしてるよ」
 何だ、子供にはまだ早いっていう嫌な大人的なこと言うのかとそのときは疑ったがそのときは何も言わず、後日、誰かからもらった化粧品グッズやらを私に渡してくる。いや、高そうな口紅とか香水まであってさ。そんなの私だって分からないよ。
「ワシがやってやろうか? 一度やってみたかったんじゃ」
「絶対にイヤ。死んでも百花にはやらせない」
「何でじゃ!?」
「そんなショックそうな顔してもダメ! 百花、子供心な目をしてるもん。それ、男の子がプラモデルいじるときにする目でしょ!」
 ただ、その後も百花はしつこかったので一度だけやらせることにした。案の定、私の顔は昭和の怪人のような顔になってしまった。ほら、江戸川乱歩とか。そういうの。
「……(しゅんっ)」
 百花の妄想では、嫌がってた私が賞賛するほどのメイクをするはずだったらしい。この神様、妙な自信だけは無駄にあるんだよね。
 私にもやらせてよと百花にメイクした。元から質感の良い白い肌をしてるというか。普段の彼が超絶美形だからか。逆にどこをメイクすれば分からなかったが、とりあえずメイクの下地をして、多少まつげを整える。それだけでも美しい彼の顔は際立つ。
「ほう、やるもんじゃのう。ほのか」
 いや、すごいのは百花の美顔だよ。
 くぅ、神様と人の違いってやつなのか。メイクを教えた私の方が悔しくなったのだった。

 12

 メイクをすると自信もついてきた。歩くときも以前の私は重しでも乗せられたかのように背が曲がって目もキョロキョロと落ち着きがなかったのが、背筋に針金を通したみたいにビシッとなり、動作の一つ一つも毅然とする。
 そして、告白された。
「おれと付き合わない?」
 橘修介(たちばなしゆうすけ)くん。
 私が通学で使うバス停は人があまりおらず、それもそのはずであの家がある辺りはほぼ限界集落だし、そこ付近の子供というとどうしても分母の数は限りなくゼロに近い。彼も私と負けず劣らず田舎の子だった。
 派手な印象はなく、一応部活でサッカーをしてるらしい。日焼けした体。体格は私から見たら倍以上あるように見えて、でも威圧感のある人じゃなく、だからかバス停で出くわすと度々会話した。
 だから、自然と「はい」と答えていた。
 当時の私は浮かれていた。告白されたのは高二の夏。正確には夏休みに入る前だ。
「私、彼氏ができたんだ」
 いつも通り本を読んでいた神様。このときも「ふぅーん」と反応するだけだった。
 おい、もっと何か言うことあるだろと私は不満だったが、その日の夕食は大量の赤飯だった。どれだけ感情表現が下手なんだ、あいつは。百花と出会い暮らすようになってそこそこ経つが、ようやく彼のことが分かり始めて来た。
 朝、登校しようと外に出る直前、百花は家庭料理の入門書という本を渡してきた。
「………」
 いや、何か言えよ。
 多分、これで男の胃袋をつかめ。的なことを言いたかったんだろうけど、不器用すぎて何も言えなかったらしい。言いたいことは分かるけどさ。あーもう、神様なのに何なのだ、と心でブーブー言いながら私はバス停へ向かう。
 私の高校の通学は二つか三つバスを乗り継ぎするもので、橘くんとは三つ目のバスでいっしょになる。
 楽しかった。
 あまり男子慣れしてない私だが、彼は優しく紳士的で、それでいて会話も部活のサッカーで大人数と話して吸収して語彙が多いらしい。テレビで見るお笑い芸人よりも笑わせてくれた。
 百花という超絶美形の見た目お子ちゃまな神様と暮らしているが、あいつは男子、いや男……という感じではない。外見からして人外というか、人の領域を超えすぎていて、学校の男子とは別物だったし、あいつは……私を娘、いや小娘程度にしか思ってないだろうから、異性の目で見られることもなかった。
 今にして思えば、私が岩さんに惹かれたのもそれが理由だったのかもしれない。
 異性として見られないからこその安心感。
 それに甘えるように私は女扱いをしないというか、性の対象として見られることがない安全圏にいられるから、と思い込んでしまった。

 13

 橘くんとは半年ほど付き合って、別れた。
 理由は明白、私は彼の誘いを断った。
『なぁ、いいかな。榎戸……』
 ある日のバス停。
 雨がざーざーと振り、二人しかいなかった待ち時間。橘くんはキスしてきた。そして、頬を赤らめて私に言ったのだ。ちょ、こんなところでと胸をさわられ、嫌がる私。いや、それだけじゃない。恐怖。怖かった。橘くんが知らない人のように感じられ、私は強く彼を突き飛ばす。もちろん、体格差がありすぎるから彼が吹っ飛ぶことはなかったものの、彼は精神的にショックだったようだ。
 でもさ、誰だってイヤじゃない。そんなとこで求められても。だけど、彼にとっては重要だったようでそれ以降は疎遠になり、彼から別れを言い出した。
『榎戸、お前さ。おれ以外に好きな奴がいるだろ』
 それが辛くて、もう耐えられないと。
 彼は言った。
 ……そうだよ?
 そうだけどさ。ずっと、ある奴のことが好きだけどさ。今、それについて言うかな。
 違うでしょ、私が橘くんを拒絶したからそれがショックだったんじゃないの。
 私が違う人を本命にしてるのは別の話じゃないの。
 ……言い訳か。違うよね。多分、彼は付き合った当初から私の本命は他にいるって気づいてたんだ。そうか、あんなところで急に求めて来たのもそれが理由だったのかな。
 悪いのは私だったのかな。
 橘くんと別れることになった日。
 家に帰り、死人のように沈黙する私。
「………」
 神様はというと、やたらソワソワしている。いつもは一言か二言、何か言う私が死に体で読書にも集中できず、私の周りをウロチョロしていた。しかし、聞き出す勇気はないようでとりあえず温かいお茶を出したり、お茶菓子を出す程度だ。しかも無言。
 温かいお茶……紅茶を丁寧に淹れたやつでおいしかった。
「……うぇ」
 泣いた。
 ここ何年も号泣してなかった分も含めてのような大粒の涙。
 余計に神様は慌ただしくなるのだが。

 14

「いや、それお前は悪くないじゃろ」
 事情を聞いた百花は怒った。
 他人からはそうは見えない。いつも通りの無愛想に感じられるのだが、長年いっしょにいる私には分かる。一見、普段と同じなようでも天気雨のような怒りの放出がある。
「本命が誰かなんて、そんなの知ったことか! そもそも、あらぬ場所でやろうとするのが悪いんじゃろが。何じゃ、そのガキは。ちょっとワシ出かけてくる」
「百花外出るのきついんでしょ! ちょ、やめなってば! 目を血走らせて行かないで!」 本命云々のところまで言った。一度、何もかも百花にぶちまけたかったのだ。
 どうにか彼を止めることはできたが、『いっそ、神の力を全部使って……』と物騒なことを言っていた。
「そもそも若人は溢れるものがあるとはいえ早すぎるじゃろ。そういうのは男がちょっと考えるべきなんじゃないのか。まだ高校生じゃろ。高校生じゃぞ。責任なんて取れるのかって話じゃ。うちのほのかが悲しんだらどうするつもりじゃ、あんぽんたんめ」
「うちのほのかって」
 そういう言い方、してくれるんだ。
 何となく、この神様は冷淡な奴だと思ってたけど違ったのかな。実際は感情表現が下手くそなだけで、中身は……。
「ねえ、百花。ちなみに私の本命の人って、誰だか分かる?」
「知らんわ、そんなもの。ふんっ、誰であろうとそいつも憎たらしい。そもそもじゃな、こんな小さき子をたぶらかしておいて」
「ユー」
「ん?」
 私は百花を指さして言った。
「あなただよ。私が、好きなのは」
 本命は、と。
 百花に告白した。

 15

「……それをあいつは大笑いして返答したんだよな」
 思い出すだけで腹が立つ。いや、想像してた通りだけどさ。
 大学の食堂でたぬきうどんを食べる私。
 あまり人はおらず、友達の多いグループとかは外に出ておしゃれな店で食べるらしいからね。私はその例外だ。
『お前、ショタコンだったのか』
 それをあんたが言う?
 いや、確かにあんたの見た目はそうだよ。百花はどっからどう見てもショタの姿ですけども。だからってさ、それを本人が言うかね。それに中身は何千年も生きた妖怪じゃないの、あいつと当時は思った。
『そんな子供のような見た目のワシに恋したのか。はははっ、それって恋なのか? えらく単純な娘じゃのう』
『な、何よ。笑うことないじゃないの!? わ、私は』
『止めた方がいい』
 ワシに恋なんかするな、と百花は言った。
『ワシは永遠の子供じゃぞ』
『そ、それが何』
『一生ここから出られない。ちょっとブラリとするだけでキツいワシじゃ。ようは永遠の引きこもりじゃよ』
『それが、何だっての。私は』
『私は?』そのあと、何を言うつもりだ? と。百花は聞く。『ほのかはワシと違う。お前は外の世界で生きていくべきだ』
 そのあとも何か言おうとクチを開こうと……するんだけど、百花の表情を見て何も言えなくなる。顔を背けて、表情をゆがめた。まるで、心底悲しいことがあったかのように。外に出られない、そのことがどれほど彼の心に傷跡を残しているのか。
 彼が神様になった過去を、簡単にだが聞かせてもらう。
『ワシは昔から神だったわけじゃない。元は人間だったんじゃよ。ワシは、生まれながらにして不自由な体してての。豪農の家だったから捨てられることはなかったが、畑仕事も何にもできんくて。やがて村に飢饉が起こると何故お主の息子はのうのうと生きている。何もしてないくせに。ずっと寝てるだけのくせに、とな。あろうことか、ワシを生け贄にして捧げろと言い出す者まで現れた』
 当時は人の数がイコールで武力になる。
 村人を抑えきれなかった豪農の家は渋々要求に応える。百花も、その方が良いと彼からも後押しした。恨まれながら生きながらえるより、生け贄の方がマシだと。
 彼は神様がいるとされる山奥の滝の前で放置される。餓死するまで。
 もちろん食べ物も何もないし、病気がちな彼は逃げることもできない。そのまま、彼は亡くなった。百花曰く、最後は犬に食われた気がすると言っていた。あまりにも痛すぎるので思い出したくないと言っていたが。
 だが、彼は神として復活してしまう。
 村人達が願ったらしい。やがて、自分達が生け贄に捧げたくせにあの行為は間違えだったんじゃないかと恐怖し、百花が祟らないようにと神に祭り上げたのだ。そして、その後も長い年月をかけて飢饉や自然災害が起こると百花に願った。助けてくれ、と。自分達はその声に耳を傾けなかったくせに。百の花を代わりに生け贄にして――。
『元より、ワシは助けを求めはせんかったよ。無駄なことって、分かっておったから』
 そして言う。
『ワシにとっての世界――人生は広い畳の部屋から見える縁側の向こう側が限界じゃった。それがワシの世界の果て。それをようやく超えたと思ったら、山奥の滝で生け贄に捧げられた。こんなのが、神様と言われるワシの中身じゃよ』
 だから、と。
 百花は言う。
『こんなワシを、好きだなんて言わんでくれ』

 16

 私はあの家があったと思われるところに行った。
 現代の私、大学三年生になった。
 帰りに行くのではない、逆だ。二度と帰らないために。本当の意味で卒業するために行った。海に近いあの田舎町に。
「百花のバカアアアアアアアアアアアッ!」
 私は辺りを一望できる丘から叫ぶ。
 あの家があった辺りをうろうろしても、あの家を見つけることはできなかった。やはり、何らかの力が働いてるのだろう。もう二度と私はあの家に足を踏み入れることはできない。うるさい、知るか。
「今、就職活動の真っ最中! でもコミュ障の私だから絶賛大失敗中! もう死ぬほど散々悩んで、だけどここに来たのは帰りに来たんじゃないからね、バカアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
 私は卒業するために来た
「何が、好きだなんて言わんでくれ、だよ! ふざけんな、馬鹿! あんたが自分のこと大嫌いでも私は昔からほんとに子供の頃からあんたのことが大好きだったんだ!」
 大泣きしながら、いい歳をした奴がと誰かに見られたら思われるだろう。うるさい、知ったことか。
「どうせ……あんたは、私に会わないんでしょ。分かってるよ。でも、区切りは……つけなきゃいけないから。私はあんたのこと大好きだけど、この気持ち、絶対変えるつもりはないけど……卒業は、するから」
 私は涙を拭ってその場から離れる。
 で、帰りの電車に乗ってまた東京に帰っていった。東京が私の帰る場所になっていた。
「……百花」
 一応、本を開くのだが頭に活字が入ってこない。気づけば、ぽつりとあいつの名をつぶやいていた。何が卒業するだよ、できてないじゃない。
「………」
 本当は、もう一度会いたかった。

 17

 春。
 桜が散り、その前に宴会をやる機会があればよかったけど私にはなかった。慌ただしく過ぎていく日々。仕事に追われて、それどころじゃなかったのだ。
「それじゃ、榎戸ちゃん。あの先生のことよろしく頼むね」と編集長に言われて、毎日走っている。
 私は大学を卒業した。ほんとに大人になり、就職大失敗の嵐も乗り越えて就職した。
 だが、就職したのは出版社だった。大手で私の好きな作家の本も出てる……と思ったのが運の尽きだ。これがもう激務という激務で、寝る間も惜しんでばかりの毎日。作家も作家で精神がアンバランスな者が多く、とくに新人は才能が尖るとて性格まで尖ってるのも多く、苦労のしっぱなし。そのくせ、経済不況で本の売れ行きも良くなく、ほんと大変だ。
「……やだぁ、もうやだぁ。あの家に帰りたい。助けてぇ、百花ぁ」
 百花が聞いたら、馬鹿か己はと苦言を呈するだろう。私は平日の昼間、作家のお宅にうかがい、作家のやる気を鼓舞しての帰宅の途中。最近は原稿をデータでもらうのだが、それで苦労が解消されることはなく、文芸誌の締め切りを破る可能性のある作家の元に行き、一件一件、解決していく。それだけが仕事じゃなくそれ以外にも雑用があったりと苦労が続いていた。
「……はぁ」だけど、悔しいことにやりがいはあるんだよな。ほんと、理不尽な職業だよ。やっぱり本が好きなんだろう。それの制作に携わるのは苦労は絶えないけど、嫌ではない。
 私は馴染みの喫茶店に寄り、アイスコーヒーを注文する。そこはサードウェーブ系に影響されてるお店で、シングルオリジンの個性ある農園のを出してくれたりする。
「おいしい……」
 だが、百花の頃にいたときには飲めなかった味だ。
 時代は変わり、百花の思い出も薄らいでいく。それが少し寂しい。思い出って、物体じゃないからずっと掴み続けることはできないんだ。
「せっかく出版社に入れたのにな」
 理由は単純。いや、本が好きだからって気持ちももちろんあるよ?
 でも、最初に浮かんだ動機は。
「百花に、読んでもらえると思ったから……分からないけどね」
 あいつ、ミステリーでも文芸でも海外のでも日本のでも何でも読んでたけどさ。でも、だからって偶然私が手がけた本を読むかは分からない。何せ、世の中には一生かけても読み切れないほどの本があるのだから。それに、あいつには私が関わった本を知る術はないし。連絡なんて、してないし。本には編集者の名前まで書かないしさ。
 そもそも、私はあの家をとっくに出たんだから。
「………」
 卒業、か。
「卒業できてるのかな」
 未だに、あいつのこと忘れられないんだけど。

 18

 私は三十を超えていた。
 出版社に入社した当初はすぐにこんな仕事辞めてやると思っていたのに、気がついたら三十路だ。あー、時が経つのは怖い。早い、早すぎるよ。
「榎戸さんって、生まれどこですか?」
「海。すっごい田舎でさ」と軽快に話す私。大学生の頃にこの舌があったらまた違ってたかな。個人経営の小さな居酒屋。そこのカウンターで担当している作家の人と談笑していた。
「いいなー。俺ずっと東京なんで田舎って憧れますわ」
「うわっ、性格悪い。それってね上から目線になってるからね。気をつけなよ」
 私はタコわさびをちょびちょびやりながら飲んでいる。
「海の近くって塩害ひどいんでしょ?」
「……そう、らしいね」
「え、らしいねって。近くに住んでたんですよね」
「私、神様といっしょに暮らしてたからさ」
 ふと、正直に漏らしてしまった。この作家さんに話してみたら、どういう反応になるかなと閃いてしまったのだ。理由は分からない。
「マジで!? え、え、どんなすか? やっぱそれって異界みたいなとこで暮らしてたんですか」
 やたらと食いついてきた。多少酔ってるのもあるのかもね。何かもう、今なら世界の救世主が現れてもすんなり受け入れるかもしれない。
 私は本当にあったことをベラベラ話していた。作家くんの方もノリノリでさ。
「いいっすよ。それ、次の作品で書いちゃってもいいですか!?」
「……て、言ってたけどさ」
 後日、私は小説投稿サイトを見る。
 あいつ、よりによってうちの文芸誌じゃなくてネットに載せやがった。あの野郎……書くならうちのでさぁ。書籍化するとき絶対他のは断れよ?
 くっ、しかも結構おもしろいしさ。私が話してたのまんまも多いけど。上手くアレンジしてやがるよ、あいつ。
 ははっ……昔は、私達だけの物語って言ってたんだけど。気がついたら、大勢の人に読まれる話になってた。おかしい。何がどうして、こうなったのやら。
「でも、そうか」
 これで、百花の存在は世界中に知られるのか。それほどこの話が読まれるとは限らないけど。でも――もう、あいつにとっての世界ってあの家だけじゃなくなるよね。
「ありがとう、百花」
 気がついたら、その言葉をクチにしていた。
 正直、あの居酒屋で話すまで大分百花のことは忘れていたけど。あいつに多大な恩があるのにさ。……百花は、それが卒業って感じで言ってたけど。
「これで、本当に卒業できた気がするよ」
 あいつを外に出すこと。それが、私にとっての卒業だったのかな。そうだ。私だけじゃ駄目だったんだ。外に出るのは。物語なら――あいつと私の物語なら、いくらでも外に出せるから。
 ちなみに、あの作家くんが私から聞いた話をまとめて小説にしたの。題名は『神様といっしょにいて卒業するまでの日々』だってさ。いや、卒業って単語が聞いてる内に強く響いてくれたのなら、それはそれで嬉しいんだけど。……違うんだよなぁ。
「話を聞いただけの人と、そりゃ解釈が違うのは当然か。私だったら……そうだな」
 と、投稿サイトのコメント欄をのぞいていると、「あっ」と感じるコメントを発見する。
『ワシも、正直言うとほんとはもう一度会いたかった』
 だが、と続きが綴られている。
『これを読んだら、その必要もないことが分かった。お前さんはとっくにワシから卒業できてると。そして、それがワシが多大な影響を及ぼしてると感じたから。……感謝しろよ』
 あの野郎。パソコンかスマホ、使えるのか。いや、私がいたときも触ってたな。
「………」
 私も、もう一度会いたかった。
 だけど、私もこのコメント見たらその必要がなくなった。何て言うんだろう。離れていてもつながってるというか。会えなくても悲しくない、なのかな。うまく言語化できないけど……多分、あいつといた日々が忘れたくても忘れられないほど、こびりついてるんだろうな。私の心に。
「じゃあね」いや、違うな。「………」
 きっと、あいつと再会することはないだろう。
 神様と人が会うなんて、世界の理としては正しくないだろうし。
 違うな。そういう世界のルールとかじゃなくて、単純に、これが多分私のとっての卒業だったんだ。無理して別れの言葉を言うより、お礼を言う方が性に合ってる。
 私は神様に育てられた。これまでもらった彼の愛情を返す形で。
「ありがとう、百花」
 私の心は、ちゃんと卒業できたよ。

(了)

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