ベルトコンベアの音は一種独特だと由衣は思う。他の機械とは明らかに違う、ジーともピーとも聞こえる耳障りなモーター音が稼働中ずっと鳴り続ける。耳栓が必要なほどうるさい工場内だというのに、いつもはっきりと聞こえる。
 その音はいかにも『さっさとネジを締めてベルトに流せ』と命令しているようだ。
 由衣は促されるまま素早く自分の仕事を果たし、未完成の機械をベルトコンベアに乗せ、次の工程に送る。流れてきた機械を取り上げ、ネジを締め、ベルトコンベアに流す。機械のように、ただその動作をいつまでも繰り返す。
 いつまでも。

 けたたましい終業のブザーとともに作業員がロッカールームに押し寄せる。女たちの止むことないお喋りに、由衣は背を向けた。帰りにどこに寄るか、次の飲み会はいつにするか。
 由衣には関係ない声たちを無表情で聞き流し、薄水色の作業着から私服に着替える。由衣の私服は作業着よりずっと地味で質素だ。誰とも目を合わせないように下を向いたまま、由衣は工場を後にした。

 帰宅すると、座卓に置いたパソコンまでまっすぐ歩き、いそいそと電源を入れる。日暮れて薄暗い部屋の中、起動するまでの時間をそわそわと待ち、パソコンが起ちあがるとすぐに動画投稿サイトにアクセスする。
 昨日から聴き続けている曲には『538回再生』という表示がある。それを確かめて再生ボタンをクリックすると、ようやく人心地つき、部屋の電気をつけた。
 この動画投稿サイトを見ることが由衣のたった一つの楽しみだ。食事をとっている間も、歯磨き中も、寝る直前まで、延々と同じ曲を繰り返す。別に好きな曲でもないし、作曲者のファンでもない。
 けれど家にいる時間のほとんどを、曲をくり返すために使っている。するとあっというまに再生回数は千回を迎え、由衣は満足げに微笑む。
 再生回数はきっちり千回までしかあげないと決めていた。そうして次に再生すべき曲を探す。
 あまり長い曲ではダメだ。数字を上げにくくなる。かと言って数秒で終わってしまうものでは曲とは呼べない。二分から三分くらいの曲がいい。
 ジャンルなどはなんでもいい。ただ、由衣がその曲と出会うまで、再生回数が十回を超えていないものがいい。ほとんど誰も聞いていない曲を千回も再生される曲に作り変えることに、由衣は深い満足を覚えるのだった。

 工場の単調な仕事は眠気との戦いだ。ベルトコンベアで流れてくる機械の決まったところに、決まったネジを、決まった回数だけ回して取り付けていると、次第に頭がぼんやりしてくる。
『無我の境地』と職場の皆が呼ぶのを聞いたことがある。その呼び名は、ネジを回す作業がなにかの修行であるかのように思わせる。この仕事に就いたばかりの頃は、無我の境地に陥ってネジを締め忘れることがしばしばあり、主任から叱られることが多かった。
 ネジ一本締め忘れただけで製造している機械が故障することもある。そのせいでクビにもなりかねない。それを聞いて由衣は緊張し、しばらくは集中することができた。

 仕事に慣れれば無我の境地にはならないのだろうと思っていたが違った。慣れてくると、頭をまったく使わずに、何度でも繰り返し同じ作業ができるようになるだけだった。
 体は動作を覚えてしまい、仕事中いつも由衣は無我の境地にいる。寝ていても起きていても変わらない。ただベルトコンベアに急かされるままネジを締めているだけだった。そうして無我のなかで過去の幻と出会うのだった。

 由衣たち作業員は自分が作っている製品が稼働している姿を目にすることがない。一般的に使用されるために組み立てられる機械ではなく、もっと大きな機械を動かすための部品の一部だから、出来上がり次第よその工場に運ばれていく。
 由衣は時折、自分が作っているものがミサイルや大砲の一部かもしれない、とふと思う。そうだったらいいのに。自分が作ったものが世界を壊してしまえばいいのに。そんなことを思いながら由衣はネジを締める。

 由衣の七歳違いの姉は、いつもお腹を空かせていた。朝食も夕食も、母親は由衣が食べる分だけ作り、姉には何も食べさせなかった。姉は給食だけで生きていた。手足だけがひょろ長く、がりがりに痩せ、由衣よりも背が低かった。

「ほら、由衣ちゃん。あーんして」

 母親が由衣の口元に食べ物を運ぶ。由衣はいつも、廊下からこちらを覗いている姉を見ながら母親に食事を食べさせてもらっていた。姉が中学を卒業して家出するまで、その習慣は続いた。

 仕事から帰り、まっすぐに座卓へ向かう。
 昨日はうっかり電源ボタンを押してパソコンの電源を切ってしまった。機械が苦手な由衣は正しい操作を覚えようともせず、それなのに機械が壊れてしまわないかと心配ばかり持てあます。

 恐る恐る電源ボタンを押すと、パソコンは問題なく起動した。胸を撫でおろし、いつも通りマウスを動かす。
 モニターの明かりだけが昏く輝く部屋に、少し抑揚のおかしな、甲高い声が、スピーカーから流れだした。一世を風靡した歌う合成音声ソフトだ。すでに世の中に浸透して溢れかえっている分野に取り組んだ誰かが、自主制作の楽曲を動画投稿サイトにアップしたようだ。
 由衣が見つけた時の再生回数は9回だった。名も知れぬ作曲者が作った曲は誰にも見向きもされない。作曲者自身でさえ9回しか再生しない。手垢がついて誰もが使いこなせるようになったものに取り組んでいても、なんの成果も上げることはできない。愛を歌い上げても誰にも届かない。
 そんな曲を、由衣は繰り返し再生し続ける。その繰り返しに確かに満足しているはずなのに、モニターの光に照らされた由衣の顔には、何の表情も浮かんではいなかった。



 ネジの残りが十本を切った。
 ふいに由衣は無我の境地から覚める。報告のため手を挙げて配給係を呼ぶ。やってきた男性社員は由衣の作業台を覗き、足りない部品を確認すると、倉庫へと向かった。
 由衣たち組立作業員は作業台から離れることを許されない。休憩時間以外のすべての時間を自分の作業台のそばで過ごす。まるでそこにネジ留めされているかのように。そうして一人一人が誰にも関心を示さない。まるで機械の中の部品たちのように。
 配給係がネジを追加して去っていくと、またすぐに由衣は無我の境地に入っていった。



 小学校の修学旅行で奈良へ行った。大仏を見たり鹿にせんべいをやったり、由衣は友人たちとはしゃぎまわって楽しんだ。夜は同室の皆で怪談をして盛り上がった。
 ほぼ徹夜で寝不足の朝、由衣はボサボサの頭のまま鏡の前に突っ立っていた。いつも母親が梳かしてくれるので、ヘアブラシを握り締めたまま、どうしたらいいのかわからない。夕べ風呂に入った時も、どうやって頭や体を洗えばいいかわからず湯に浸かっただけだった。歯磨きを自分でするということを考えつきもしなかったので、歯も磨いていない。
 素早く洗面をすませて着替えを終えていた仲良しのメイちゃんに「ねえ、髪を梳かすってどうやるの?」と聞いたとき、同室の女子は全員ぽかんと口を開けた。由衣は困ってパジャマの裾を左手で引っ張った。誰も何も言ってくれないので、由衣は意を決してもう一度たずねた。

「髪の梳かし方がわからないの」

 部屋が揺れたかと思うほどの爆笑が起きた。メイちゃんも涙を流して笑っていた。隣の部屋からも何事が起きたのかと物見高い女子が集まってきた。メイちゃんが皆に今あったことを説明すると、爆笑は伝染し更に大きくなった。由衣は首から額まで真っ赤になってうつむいた。その日から由衣の渾名は『ベビーちゃん』になった。

「ベビーちゃん、一人で学校に来たの? えらいね」

「ベビーちゃん、宿題出来たのね、すごーい」

「ベビーちゃん、体育着にお着換えできたのね」

 確かに友人だと思っていた女の子たちが皆、由衣を嘲笑い話も聞いてくれなくなった。

「ベビーちゃんの赤ちゃん語、聞いても何を言ってるか分からない」

 くすくすくすくす。由衣の言葉は意地の悪い笑いに覆い塞がれて聞こえなくなっていった。




「あら、近藤さん。今日は一つ結びなのね」

 ロッカールームに入るとすぐに、同僚の四十年配の女性が声をかけてきた。何を言われたか聞き取れず、由衣はひるんで一歩下がったが、中年の同僚は意に介さず、ずいずいと由衣に迫ってくる。

「やあだ、かわいいじゃない。若いんだから、もっとオシャレしなきゃダメよ」

 由衣は恐怖に直面したかのように身をすくめた。同僚はやっと由衣のただならぬ様子に気づき真顔に戻る。

「あ、ごめん。余計なお世話だよね。いつものおさげも似合ってるわよ」

 早口に言って、そそくさと部屋を出る女性の後ろ姿を、由衣は見ていなかった。由衣の視線はただ過去だけを見つめている。



 姉が叩かれている音が聞こえる。由衣は興味なさげにテレビゲームを続けていた。『この穀潰し!』と母が叫んでいる。ゴクツブシと言う言葉の意味を由衣は知らなかったが、なんだか貧乏臭いな、と思っていた。
 父親が帰ってくると、しばらくは母の機嫌が悪くなり、姉に当り散らす。そんな時でも母は、由衣には変わらずとろけるような声で接するので恐いと思ったことはなかった。ただ、喚き声がうるさいので少し迷惑するだけだ。
 お姉ちゃんも叩かれるのがわかっているんだから、どこかに消えればいいのに。そうしたらいつも静かで快適なのに。テレビの中で由衣が操るゲームの主人公が次々に敵を倒していく。敵が一匹死ぬたびに、姉の体にはアザが増えていった。

 毎日同じ操作しかしていないのに、由衣のパソコンのスピーカーは、いつのまにか音量調節が最大になっていることがある。何かの理由で設定が初期化されているのかもしれないが、機械が苦手な由衣には、ただ迷惑なだけだった。
 音楽を再生しているのは鑑賞するためではない、再生回数を上げるためだ。音量は再生が終わったことがわかるだけ、そのためだけに必要なのだ。最低限の音、ほんとに小さな音でいい。
 由衣はイライラと画面上のアイコンをクリックする。パソコンは黙って大人しく命令に従った。



 仕事帰りはいつも、主婦だらけで混雑しているスーパーに寄る。その日の夕食と翌日の朝食を仕入れるためだ。昼食は食べない。昼休みは誰とも顔を合わせないようにするため、作業台で寝て過ごす。工場の収入は、贅沢できるほど多くはない。それでも賞味期限ギリギリの、半額になった菓子パンやおにぎりを買うくらいならば余裕も残る。
 もっとも、以前勤めていた風俗業で収入が多かった時も、食事は質素なものだったのだが。

 由衣は料理をしない。生まれてこの方、一度も包丁を握ったことがない。学校の調理実習の時も、みんなが「ベビーちゃんには無理よ」と言うので後ろで見ているだけだった。
 箸の使い方がわからないせいもあるが、そもそも食べるものを自分で選ぶということをしたことがなかったので、食べたいものがなんなのか全くわからなかった。
 自分で用意しないと食事は出てこないのだということを、風俗店の寮で同室だったエミリに教えてもらって初めて知った。

 エミリは髪を真っ赤に染めて若作りだったが、内面は面倒見がいい近所のおばさんと言った感じの女性だった。生きるために必要なことのほとんどを由衣に教えてくれた。服の着がえ方、髪の梳かし方、買い物の仕方。けれど物知りなエミリでも、由衣が何を食べたいのか何をしたいのかを知る術だけは、教えることができなかった。

「由衣にもいつか欲しいものが出来るといいねえ」

 エミリが由衣の髪を梳かしながら言った意味が、由衣には今でも分からない。



 スーパーを走り回っていた子供が、由衣の目の前で唐突に転んだ。耳をつんざく大音声で泣き喚く。由衣は不思議な気持ちでただ子供を眺めていた。
 なぜこの子供は泣いているのだろう?
 なぜこの子の母親は、子供が転ぶようなことをしていても抱き止めに来ないのだろう?
 走り回ったらだめよ、怪我をして大変なことになるわと、なぜこの子の母親は泣きながら、抱きしめに来ないのだろう?
 なぜ?

 由衣の父親は年に二回しか帰ってこなかった。外洋船の乗組員なのでいつもどこか遠くにいるらしい。父親の体には潮の臭いが染み付いていて、由衣は抱きしめられるたびに顔を顰めた。父親は姉のことも抱きしめたが、姉は何かを怖れるように身を縮め、できるだけ父親から体を離そうとしているようだった。
 父親は帰宅するたび二人に土産を買ってきた。筆入れだとかノートだとかの文房具が多かった。それらは外国の風情がある洒落たものばかりだったが、どれもこれも由衣と姉とおそろいだった。
 由衣は姉が自分と同じものを持っていることに苛立ちを覚えた。熱が出て気分が悪い時と似た感じだ。
 姉はもらった文房具を、さっと隠すようにポケットにしまう。由衣はそれらを興味なさげに見やり、適当に放り出す。父親がまた船に乗って遠くへ行ってしまうと、父がいる間中ずっと不機嫌だった母が、由衣の分の土産の品々を指先でつまんでゴミ箱に捨ててしまうのが慣例だった。

 由衣は今日も動画投稿サイトで千回に到達させるべき曲を探す。