「真白。お前の結婚が決まった」
短大の卒業が押し迫ったある日、突然父親にそんなことを言われ、七宮真白は父親の心配をする。
「お父様、大丈夫ですか? とうとうボケてしまわれたの? まだ若いのに、困ったわ。こういう時はお医者様に相談すればいいのかしら……」
言葉の割に狼狽した様子もなく、真白はのんびりとした声で困ったように頬に手を当てる。
一方、娘にあらぬ疑いをかけられた父親は吠えた。
「私はボケとらんわ!」
「あら、それならよかったです。だって、突然結婚なんてあり得ないことを言い出すんですもの」
「結婚は本当だ」
二十歳という年齢の割には若く見える真白は、ぱっちりとした大きな目をさらに大きくして父親を見る。
「どういうことですか? 私には結婚を誓った相手などいないのですけど」
「いたら、私はひっくり返って驚いているだろうよ。お前ときたら私が心配するぐらい男の気配がないのだからな。少しは娘の方を見習いなさい。……いや、あれを手本にされるのは非常に困るので、やっぱりやめておくんだ」
「お父様ったら、なにが言いたいんですか?」
父親の言う『娘の方』とは、真白の義妹である莉々のことだ。
真白の母は真白が幼い頃に亡くなったのだが、一年ほど前に生涯母だけだと誓っていた父親が、親戚からの圧力に負けて再婚した後妻の連れ子が莉々である。
中学、高校、大学と女子校で、男性と接する機会が少なく、恋人もできた試しのない真白とは違い、莉々は奔放で三カ月ごとに恋人が変わっているのではないかという頻度で男性をとっかえひっかえしており、父親の頭痛の種だ。
義母が叱らず甘やかすので、余計に莉々の行動に拍車をかけているのかもしれない。
「とりあえずだ! お前を嫁に出す! これは決定事項だ」
「横暴ではありませんか?」
普段あまり怒らない真白も、自分の意志を無視した父親の行いに不満顔だ。
すると、父親は先ほどの勢いをなくし眉を下げる。
「これは真白のためにもいい話ではないかと思うんだ。なにせ、お前はあれらと折り合いが悪いだろう? 特に娘の方からは虐めを受けているではないか」
「虐め? 莉々さんから、かわいらしいいたずらならされましたけど」
父親の言う『あれら』とは、もちろん義母と義妹のことだ。
今でも真白の実母を一番に愛している父親は、親戚たちからの圧に負けて再婚してしまったことを現在進行形で悔いている。
義母も親戚たちから再婚を強要された被害者かと思いきや、積極的に親戚たちに働きかけていたのが義母と知った父親は、彼女たちの名前を呼ぶのをやめた。
いつも『あいつ』だとか、『あれ』、『娘の方』『母親の方』などである。
父親がどれだけ後妻と連れ子を憎々しく思っているかが分かるというもの。
しかし、真白には虐められたような記憶はとんとなかった。
変わらぬ微笑みを浮かべる真白に、父親はあきれ顔だ。
「愚図だとか、鈍間だとか、ブスだとか散々言われていた上に、服を汚されたり階段から落とされかけたりしていたのに、あれをかわいいと言うお前のその鋼の心臓はどこから来たんだ……?」
「まあ、うふふ。お父様ったら」
「うふふ、じゃなくてだな……。本当にお前は亡くなったお母さんそっくりだ」
父親はがっくりと肩を落としている。
「あら、ありがとうございます」
にこにこと嬉しそうに微笑む真白に、父親はまたもや吠える。
「断じて褒めておらんぞ! 断じて!」
「お母様に似ているというのは、私にとったらすべて褒め言葉ですよ、お父様」
父親は疲れ切ったように大きなため息をついた。
「話を戻す。天孤様のことは知っているな? 子供の頃から耳にたこができるほど言って聞かせてきただろう?」
「ええ、存じておりますよ」
天狐・空狐・気狐・野狐。
狐の階級において最上位であるとされる天狐は、あやかしというよりほとんど神のような存在だ。
「我が七宮の本家である華宮は、代々天孤が憑いており、その天孤の力により繁栄し、その恩恵を七宮も受けている……っていうおとぎ話ですよね?」
「おとぎ話などではないと、何度も言っているだろう!」
「だって、お父様。狐憑きだなんて、ねえ?」
真白はこてんと首を傾けて頬に手を当てる。
その顔は父親の言葉をまったく信じていない。
「すべて真実だ! 天孤は宿主となっている人間が亡くなると、次の新たな宿主を華宮の一族の中から探す。現在天孤を宿しているのは華宮青葉様という二十二歳の男性だ。代々、天孤の宿主が年頃になられると、分家より貢ぎ物として花嫁もしくは花婿が分家のいずれかより選ばれることになっている」
「分家のいずれかというと、私でなくともよろしいのでは? それほど一族にとって大事な方のお相手となれば、私よりももっと美人で器量よしな方がいらっしゃるでしょうに。それこそ莉々さんとか」
莉々も一応七宮の親戚なので、条件には合う。
さらに言うと、莉々の方が社交性が高く、見た目も華やかだ。
実際は、莉々を華やかと受け取るか、派手と受け取るかはそれぞれの感覚だろうが、真白はいい意味で莉々の容姿を評価していた。
そして自分とを比べ、己の地味さにしょんぼりしていたが、元来深く考える達ではないので、次の瞬間にはどうでもよくなっている。
いい意味でも悪い意味でも楽観的なのが真白だった。
「あれを送ったら我が家の恥をさらすだけだ。それに、他の家の者と言うが、これまでになん人ものお嬢さんが花嫁にと向かったようだが、どの家の娘も青葉様に泣かされて、祝言を挙げる前に追い出されたらしい。そのせいで、これまでは跡取り娘を嫁に出すわけにはいかないと拒否していた我が家にお鉢が回ってきたんだ」
「でしたら、なおさら莉々さんの方がよろしいのでは? 彼女は私と違って世渡り上手ですし」
「あれを世渡り上手と言ってのけるお前の神経を父は疑うぞ……。あれは世渡り上手ではなく八方美人というのだ」
父親はがっくりと肩を落としている。
なにやらこのわずかな間で疲れたように見えるのは真白の気のせいだろうか。
「なんにせよ、我が家から誰か出さねばならん。だが、あれを送り出すことは七宮の家長として絶対できないから、仕方ないので真白が行ってくれないか? というか、行くしかない」
「あらあら」
父親の様子をうかがうに、どうやら真白に拒否権はないようだ。
「会ったこともない方とうまくやっていけるかしら?」
結婚を強要されたにもかかわらず、真白に悲壮感はまったくなかった。
むしろちょっと楽しそうにしている。
「何故だかお前ならやれる気がしてならない。……だが、これまで送られた娘が玉砕されてきたのは事実なので、泣かされたなら帰ってきてかまわない。誰も文句は言わないだろう。我が家としてもきちんと役目は果たしたことを示せればいいのだからな」
「そういうことなら分かりました。気は進みませんが、困っているお父様を放ってはおけませんからね」
「真白ぉぉ~」
ウルッと目を潤ませる父親は真白に抱きついた。
ぎゅうぎゅうと締めつけるので、正直離してほしかったが、父親思いの真白は口には出さなかった。
「結婚と言っても、その前に青葉様に追い出される可能性が高い。無理して気に入られるようなことはせずに、嫌だと思ったらすぐに帰ってきなさい」
「困ったお父様だこと」
必死な父親を見て、真白はクスクスと笑った。
「ところで、いつ家を出ればいいのかしら?」
「……うん。言い忘れていたが明日だ」
「えっ!?」
これにはのんびりな真白も即座に反応する。
「待ってくださいな。私は来週卒業式を控えているんですよ。お父様もご存知でしょう?」
「すでに卒業できる単位は取ってあるのだし、卒業式など出なくとも問題ない、問題ない」
やましい気持ちがあるからだろうか。
父親は真白と目を合わせない。
「あ、あんまりです! お父様のお馬鹿!」
その日、真白の機嫌が直ることはなかった。
そして翌日、未だ怒りの収まらない真白を、父親が涙ながらに見送る。
そこに義母と義妹の姿がないあたり、真白がどうなろうとどうでもいいと思っているのがよく分かる。
「真白~。早く帰ってくるんだよ~」
とうていこれから嫁にやる娘にかける言葉ではなかったが、事情が事情だけに致し方ないだろう。
しかし、父親への怒りが冷めぬ真白は、早く帰れと言われれば言われるほど意固地になっていく。
「次にお会いする時は、結婚式でお会いしましょうね」
変な顔で固まった父親に背を向けて、真白は長年暮らした生家を後にした。
真白が向かったのは、別名『神の島』と一部の者から呼ばれている島である。
島民はおよそ一万五千人ほどで、漁業と観光業が発展している。
島民の皆が皆華宮の親戚というわけではなく、天孤の存在を知る華宮の一族はほんのひと握り。
ほとんどの者が、この島に天孤という人外の存在がいることを知らない。
それというのも、天孤の宿主は生涯この島の外どころか人前にも出ないらしいのだ。
もともと簡単にお目にかかれる方ではなく、七宮の家長である父親ですら、華宮青葉の名前は知っていても、実際にお会いしたことはないという。
時折島で一族の集まりがあるようなのだが、その場に青葉が姿を見せないのが常だった。
そんな天然記念物よりも貴重な人の写真が軽々しく手に入るはずもなく、名前と年齢しか情報のない中で真白は嫁に行かなければならない。
自分の両親のような仲のよい夫婦を夢見ていた真白にとって、今回の結婚話はまさに青天の霹靂。
自分が政略結婚をするなど考えてすらいなかった。
卒業式にも出られず、さぞ落ち込んでいるかと思いきや、真白は島へ向かうフェリーで大層はしゃいでいた。
「素敵! 太陽に照らされて海面がキラキラ輝いているわ。まるで宝石みたい」
海面と同じように目をキラキラさせて海を眺める真白は、これが初めて見た海だった。
なにせ都会のど真ん中で暮らし、娘命の父親によって大事に大事に育てられてきた箱入り娘なので、これまでとんと海には縁がなかったのだ。
潮風がこんなにも気持ちいいものだと初めて知った。
「海も綺麗だけど、青葉様とはどんなお方かしら。きっと狐憑きというのだから妖怪のような恐ろしい姿をしているのかもしれないわ。だから人前には出ないのかしら?」
父親からの情報によると、先代の天孤の宿主は青葉の曾祖父で、曾祖父が亡くなって間もなく、当時五歳だった青葉が新たな宿主に選ばれた。
宿主に選ばれると、それまでと姿が変わるので、ひと目で宿主だと分かるらしい。
それまで普通の子供として生活していた男の子は、一族で最も尊い存在として一気に奉りあげられることとなったのだ。
五歳という年齢は真白にとっても深い意味があった。
真白の母親が亡くなったのも、真白が五歳の時だった。
急な環境の変化に戸惑ったのを幼いながらに記憶している。
同じ五歳。きっと彼も周囲の変化についていけなかったのではないかと、真白は勝手に親近感を覚えていた。
海を眺めながら真白ははっとした。
「ひと目で宿主と分かるなんて……。狐なのだから、もしかしたらお耳と尻尾がついているかもしれないわ~」
真白は両手で頬を隠し、顔を左右に振る。
「そうだったらどうしましょう。さわらせてくださるかしら~?」
これが政略結婚だと思わせないほどに、真白はフェリーの中で終始ご機嫌だった。
島へ着くと、観光客だろう人々がぞろぞろと降りていく。
その波に巻き込まれながら、島への第一歩を踏み出すと、大きく空気を吸い込んだ。
「さて、お父様によると、お迎えが来ているらしいのだけど……」
真白はきょろきょろと辺りを見渡しながら歩いていくと、淡いクリーム色の着物を来た妙齢の女性が真白の行く手を遮るように前に立った。
「真白様でいらっしゃいますか?」
「はい。そうですが、あなたは?」
「申し遅れました。私はこれより真白様のお世話を仰せつかっている華宮朱里と申します」
まだまだかわいらしさの残る彼女から発せられた『華宮』の名前を聞けば、嫁ぎ先からのお迎えだとすぐに分かる。
深々と頭を下げる朱里を見て、真白もにこりと微笑んで頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いいたします。真白でございます。これからお世話になります」
「……何日のつき合いになるか分かりませんけどね」
ぼそりとつぶやかれた言葉は、周囲の喧噪により真白には届かず、ニコニコとした笑みを浮かべたままだ。
「それでは参りましょう。車を待たせております」
「ありがとうございます」
朱里の後についていけば、黒塗りの車が待ちかまえており、それに乗り込むと車は華宮の屋敷へと向かった。
翌日の出発ということで、さしたる準備もできなかった真白の荷物は鞄ひとつのみ。
もともと身ひとつで来てもらってかまわないと言われていたらしいので、問題はないのだろう。
朱里も荷物の少なさを目にしてもなにも言わなかった。
「早速ですが、青葉様と顔合わせをしていただきます。お覚悟はよろしいですか?」
「承知しました!」
まるで死地へ赴くような顔で覚悟を求められ、青葉様はそれほどひどい姿の方なのだと思った真白は気合いを入れる。
なにがあっても悲鳴をあげないように。それと同時に期待もしていた。
狐なら耳と尻尾が絶対についているはずだと。
そうしてドキドキと胸を高鳴らせながら廊下を歩く。
外に面した廊下からは、広い庭が見渡せた。
黄金色に染まる庭を見て真白は目を大きくする。
「金木犀?」
今は三月だ。冬と言うには暖かく、春と言うにはまだ寒さが残る。
特にこの島は真白が育った場所より肌寒く感じた。
そんな場所で秋に咲く金木犀が満開になっているなんて。
別の花と勘違いしているのかと思ったが、鼻腔をくすぐる酔いそうなほどの香りは金木犀で間違いがない。
「どうして金木犀が……」
「ここは神にも通じる天孤様が住まう屋敷でございますから」
「なるほど」
妙に納得してしまった真白。
人ならざる者が住まう場所なのだから、季節を無視するような摩訶不思議な現象が起きていたとしても、別におかしくないということか。
「綺麗ですねぇ……」
思わず季節違いの金木犀に目を奪われていると、ひときわ強い風が真白を襲う。
「あっ」
思わず目をつぶった真白が、風によって乱れる髪を押さえながら目を開くと、金木犀の花が散る中を、絹糸のような白い髪をなびかせて男性が歩いてくる。
彼は、真白の前で足を止めた。
まるで精巧に作られた人形のように整った顔立ち。
鼻筋はすっと通っており、切れ長の金色の目は凛々しく、薄い唇は色香を感じさせる。
とても生きている者とは思えない。
説明されなくともすぐに分かった。
彼が天孤、華宮青葉だと。
風と木々が擦れる音しかしない中、美しいという賛辞では足りない青葉を見て、真白は驚いた顔をした後、ひどいショックを受けた。
「な、なんてことでしょう。お耳も尻尾もありません……」
この人外の美しさを持った人を前にして口にする言葉がそれかと、文句を言いたげな視線が朱里から向けられるが、真白はそれどころではない。
青葉は怪訝そうに眉をひそめる。
「なんだ、なにか不満があるのか?」
「大ありです! 何故お耳も尻尾もないのですか? 私の期待を返してください」
どうやら思ってもみなかった返しだったのか、青葉は目を丸くして驚いている。
しかし、すぐに体を震わせると、大きな怒鳴り声をあげた。
「ふざけるな。なんの期待だ! 耳や尻尾など生えているわけがないだろ! 俺は化け物ではない!」
「ひどいです。楽しみにしていたのに……」
残念そうにしょぼんとする真白を、得体の知れないものを見るような眼差しで見る青葉は、次の瞬間には目つきを鋭くする。
「貴様にひとつ言っておく。この結婚に愛情は必要としていない」
忌まわしげに吐き捨てられた言葉に、真白は目を丸くする。
「これはただの政略結婚だ。それを分かった上で嫌なら──」
「嫌です」
途中で被せられた真白の声に、行き場を失う青葉の言葉。
「これが政略結婚だというのは存じておりますが、せっかくご縁があったのですから、私は旦那様と仲よくしたいです」
そう言って真白は柔らかく微笑んだ。
青葉の顔から目を離すことなく、じっとその目を見つめた。
たじろいだのは青葉の方で、先ほどまでの勢いはどこへやら、言葉をなくしている。
なにか言いたげに口を開いたが、そこから言葉は出てくることはなく、素っ気なく背を向けると庭の奥へと消えていってしまった。
「あらあら、どうしましょう。嫌われてしまったかしら」
真白は困ったように頬に手を当てているが、まったく困っているようには見えない。
実際に、少しの沈黙の後『まあ、初対面だし気長にやっていきましょう』という結論に達し、楽観的に考えていた。
青葉本人から『愛は必要ない』などと言われても、真白にしたら、だから?という感じだ。
そんな真白のそばにいた朱里は、別の感情を抱いたらしく……。
「真白様、すごいです!」
朱里に顔を向けると、最初の素っ気なさのある雰囲気と違い、尊敬する人間に向けるような眼差しで真白を見ていた。
このわずかな時間の間になにがあったのか。
「なにがでしょうか?」
「あの青葉様のご尊顔をあれほど長く見つめていられる方なんて初めてです!」
「ご尊顔?」
「ええ、そうです。神より与えられし尊きご尊顔を直視できる方は今までおりませんでした! これまでに幾人もの花嫁がこの屋敷にやって来られましたが、青葉様の神々しい姿を見ると、どんな美人もことごとくプライドをへし折られ、泣きながら帰っていったのです。あの方のおそばに侍る資格は自分にはないと嘆きながら」
「あら?」
真白が聞いていた話と少し違っている。
「青葉様に追い返されたと、父からは聞いていたのですけど?」
「ええ。それも間違いではございません。青葉様から発せられる神聖なる覇気に耐えられず号泣し、どんな歌姫でも嫉妬する青葉様の奇跡の美声でお声をかけられるたびに気絶するものですから、気絶してばかりの花嫁などいらぬと追い返されてしまわれたのです。ですが、彼女たちの気持ちはよく分かります。私も気を抜くと腰が抜けてしまいますので」
うんうんと頷く朱里は、納得顔でありながらどこか誇らしげであった。
「青葉様とあれほど近くでお声を交わされて、真白様はなんともなかったのですか?」
「確かに綺麗なお方でしたけど……」
気絶するかと言われたら否だ。
真白が分からないといった様子でいると、朱里は表情を輝かせる。
「素晴らしいことですよ。ほとんどの方々が、一度青葉様にお会いしただけで自ら去るか、追い返されてしまっていましたから」
「そうなんですね」
真白が思っていた印象とずいぶん違っているではないか。
泣かして追い出したと聞いていたのでとても怖い人を想像していたのに、聞いていたら青葉の方が不憫である。
なにせ話すたびに泣かれたり気絶されるのだから、そんな人間を妻に迎えられるはずがない。
「なるほど。ですから、身ひとつでかまわないということなのですね」
「ええ、一日経たずに帰ってしまわれますから」
身ひとつで来てもらっていいというのも、青葉と対面するとすぐに帰ってしまうのだから大荷物など必要ないということ。
だとすると少々困ったことになる。
「どうしましょうか?」
「えっ、どうしましょうとは、まさかお帰りになるんですか!? いけません! どうぞお考え直しください!」
「いえ、できればもう少しご厄介になりたいです。青葉様がどんな方かまだ分かりませんもの。嫁になるつもりでやってきたのですから、もっと親交を深めたいです。ただ、身ひとつと言われてきたのでさしたる準備もしておらず……。おそらくそちらも同じなのではありませんか?」
小さく「あっ」と声をあげる朱里は、申し訳なさそうにする。
「その通りでございます。きっと今回の方もすぐにお帰りになるだろうと、屋敷者皆が思っておりました。こうしてはおれませんね。すぐに必要な身の回りのものを取りそろえておきます。お部屋は整えてございますのでご安心していつまでもお過ごしください! 永遠に」
「ええ。これからよろしくお願いします」
それから華宮の屋敷で暮らすことになった真白は、一応青葉の婚約者という立場で暮らすようになった。
政略結婚を目的として来ているので、青葉のゴーサインが出ればすぐにでも式を挙げられる準備は整っているらしい。
しかし、なかなか青葉と話をする機会がなかった。
どこでなにをしているのか分からないが、青葉は天孤としての力を使って仕事をしているのだと朱里が教えてくれた。
それがどんな仕事なのかは、まだ結婚もしていない客人でしかない真白には教えられないという。
それならば仕方ないかと、真白は深くは聞かなかった。
真白は日がな一日をのんびりと過ごした。
あれからすぐに朱里が女性に必要な身の回りのものをそろえてくれたので、不自由はしていない。
むしろこちらが恐縮してしまうほど、家人たちには気を遣って世話をしてもらっている。
食事には必ず真白の好きなおかずが一品は含まれ、入れ替わり立ち替わり朱里を含めた家人が様子をうかがいに来ては、必要なものはないかと聞いてくれる。
まさに至れり尽くせり状態だった。
そうして過ごしていたら、短大の卒業式があったはずの日もとっくに過ぎ去ってしまっていた。
軒先に座りながら、友人たちからスマホに送られてきた卒業式の写真を微笑ましそうに眺める。
出席できなかったのは残念だが、仕方がない。
ここに来ると選んだのは自分なのだし。
そう言い聞かせたとしても、やはり……。
「ちょっと寂しいものですね」
父親は今頃どうしているだろうか。
母を旅行中の事故で亡くしたため、父親は真白が自分の目の届かない遠くへ行くことを嫌い、学校での修学旅行なども真白だけ不参加だった。
なのでこんなにも父親と離れたことはなかったのだ。
今さらながらどれだけ箱入りだったのかを思い知らされる。
「これがホームシックというものですかねぇ」
初めての体験に、真白はちょっぴり感動した。
きっと今頃父親は真白が帰ってくるのを今か今かと待っていることだろう。
しかし、残念ながら今のところ帰るつもりは微塵もない。
風に乗って散る金木犀にスマホを向け、カシャリと写真を撮った。
なんとも幻想的な景色を見て満足そうにする真白は、先ほどから感じる視線にクスリと笑う。
庭を覆い尽くすほどのたくさんの金木犀の陰からこちらをじーっと見つめてくる金色の目。
その姿は、狐ではなく、まるで警戒する狼のようだと真白は思った。
真白は離れたところから見てくる青葉に向けてにっこりと微笑む。
「こちらで一緒に座りませんか?」
「…………」
半目で見てくる青葉は返事をすることなく、ささっと姿を消してしまう。
無視されても悲しさは感じない。
「うーん。嫌われてはいないようですけど、めちゃくちゃ警戒されていますねぇ」
真白はほわほわとした笑みを浮かべて、傍らに置いてある湯飲みを持ってお茶をすすった。
「あら、今日は甘露茶ね」
なんてことをつぶやき、先ほどまで青葉がいた場所に視線を向ける。
真白がこの屋敷に暮らし始めて一週間ほどだろうか。
まるで時が止まったように、季節を感じられないここにいると、今日がいつなのか日付を忘れてしまいそうになる。
もうずいぶんとここで暮らしているような錯覚に陥るが、まだ一週間なのだ。
そのことに真白は驚いてしまう。
その間に青葉と会話したのは最初の邂逅の時だけ。
それ以降はひと言すら声をかけられたことはない。
けれど、毎日顔は合わせている。
ここにやって来た翌日から、真白は庭を見渡せるこの軒先の絶景スポットを発見してお茶を飲んでいると、先ほどのように青葉が遠く離れたところからじっと真白を見てくるようになった。
本当にただ見てくるだけ。
向こうから話しかけてくるわけでもなく、さりとて真白が話しかけようとすると、慌てたように姿を隠してしまう。
「うーん。一応興味は持ってもらっているということでしょうか……」
そうでなければ、真白を観察したりはしないだろう。
けれど、青葉が真白を怖がっているように感じるのは気のせいだろうか。
威圧的な態度は最初の時だけで、青葉が真白を追い出そうと動く様子は今のところない。
だからこそ真白ものんびりとかまえているわけだが、このままというわけにもいかないだろう。
しかし、一度追いかけてみたことがあったが、風のような素早さで逃げてしまうのだからどうしようもない。
自身が運動音痴なのを自覚している真白は、早々に追いかけるのをやめ、向こうから近付いてくるのを気長に待った。
一週間経って、今日ようやく声をかけられるほど近くまで来るようになったので、これは前進したと言っていいはずだ。
「のんびりといきますか」
その言葉の通り、真白は毎日をゆっくりと過ごす。
青葉が近付いてくるのを、ただのんびりと待ち続けたのだ。
いつも決まった時間、決まった場所で、お茶を飲みながら庭の金木犀を眺める。
そうすればどこからともなく青葉がやって来るのだ。
真白が安全かを確認するように少しずつ、少しずつ距離を縮めてくる青葉に、真白は笑い声を抑えるのに必死だった。
今日もまた距離が近くなったと日々の成果に達成感のようなものを感じている。
そして、この日はいつもと違う。
これまではひとつだった湯飲みを、ふたつお盆に載せて持ってきた。
ひとつはもちろん真白のもの。
もうひとつが誰のものかは言わずとも知れたのか、ふたつのお茶を朱里に頼んだ時、朱里は大層張り切って屋敷で最も高級な茶葉を使ってくれた。
いつものように軒先でお茶を飲み始めると、どこからともなく青葉がやって来た。
たくさんある金木犀の中で、一番真白に近い木から覗いている。
その距離は、もう隠れて見る気はないだろとツッコミたくなるほどだが、本人はまだ木に体を隠しているつもりのようだ。
真白からだとほとんど全身が見えているのだが。
そのお間抜けさがかわいらしいと真白は小さく笑った。
そして、隠れられていない青葉に今日も声をかける。
「こちらに座って一緒にお茶をご一緒しませんか?」
青葉はじーっとお茶と真白を交互に見てなにやら考え込んでいるようだ。
これは今日こそいけるかと真白が期待した次の瞬間、背を向けて逃げるように行ってしまった。
「あらあら。まだ早かったかしら? でももう一歩って感じよね」
これはもう真白と青葉の我慢大会のようなものだ。
どちらが先に折れるのか。
真白は負ける気はしていない。
その日から毎日お茶をふたり分用意してもらうようにした。
ただ、今のところ惨敗である。
仕方なく毎日ふたり分のお茶を飲み干し、気長に待ち続ける。
それからさらに幾日が過ぎた頃だったろうか……。
「お茶をご一緒しませんか?」
いつものようにお茶に誘うと、普段なら背を向けていた青葉が金木犀の木から離れ、真っ直ぐに真白に向かって歩いてくるではないか。
そして目の前までやって来た青葉は、真白の隣に腰を下ろしたのだ。
これには真白もびっくりして目を大きくした。
けれど、すぐに嬉しそうな笑顔を浮かべて青葉に湯飲みを差し出す。
「どうぞ。まだ温かいですよ」
微笑む真白をじーっと見つめてから、気まずそうに視線を逸らして湯飲みを受け取る。
青葉は終始なにかをしゃべるでもなく、無言でお茶を飲み干すと、湯飲みを置いてさっと行ってしまった。
空になった湯飲みを見て、真白は静かに興奮している。
「ついにやりましたー」
真白はぐっと拳を握り、達成感に浸る。
「ああ、でもこれで終わったわけではありませんね。次はお話をしていただけるようにならなければ」
決意を新たにする真白は、とうとう青葉がお茶を飲んだことを朱里に報告すると、一緒になって喜んでくれた。
そして朱里のやる気にも火をつける。
「明日は茶菓子もつけましょう! 少しでも真白様といる時間を稼ぐために」
「わぁ、楽しみです」
真白はパチパチと拍手しながら微笑んだ。
正直言うと、真白が楽しみにしているのは青葉と過ごす時間より、どんな茶菓子が出てくるかの方に傾いている。
そして翌日、やって来た青葉を手招きすると、今度は悩む素振りもなくすっと隣に座った。
その素直さに真白は己の粘り勝ちを確信して心の中でガッツポーズをする。
まるで手負いの狼を手懐けていくような気持ちである。
「どうぞ。今日はお茶菓子もありますよ」
湯飲みを渡してから、小皿に乗せられた羊羹を青葉の横に置く。
なにを考えているのかじーっと羊羹を見る青葉に、真白は「甘い物はお嫌いでしたか?」と問う。
返ってきたのは無言で、顔を横に振っての返事だったが、真白の言葉に反応を返したことに変わりはない。
この調子で会話に持ち込もうと思っている間に、青葉はひと口で羊羹を食べ、流し込むようにお茶を飲み干すと駆け足で逃げるように行ってしまった。
「あっ……」
お茶菓子で時間を稼ぐつもりが、逆にスピードアップしたような気がする。
きっと朱里が残念がるだろう。
「甘い物はお嫌いだったのかしら?」
だが、嫌いならそもそも食べようとはしないだろうと首をかしげていると、どこからともなく舌打ちが聞こえ周りを見回す。
すると、曲がり角からこちらをうかがう朱里と、茶菓子を作った料理長と使用人頭がいた。
料理長は短髪の厳つい顔立ちの男性で、使用人頭は白髪交じりの髪をお団子にしている女性だ。
ふたりは朱里よりも長く、それこそ先代の天孤の宿主が存命の時からこの屋敷に仕えているという。
「あら、皆様どうなさったの?」
真白が声をかけると、しずしずと姿を見せる。
「申し訳ありません、真白様。気になってしまって」
と謝る朱里はばつが悪そう。
そして厳つい顔の料理長は、帽子を脱いでその場に土下座した。
「すいやせん! きっと青葉様はわしらの気配に気づいて早々に去っていかれたんだと思いやす」
「まったく、この人が顔を出しすぎるからですよ」
そう言った使用人頭は料理長の頭をぺしんとはたいた。
「そういうことでしたか」
「あの青葉様が女性とお茶を一緒にしたって聞いて、いても立ってもおられず……。それに青葉様を目の前にして、真白様が気絶しちまわないかってのも心配で」
「私ですか?」
自分の心配をされているとは思わなかった真白はこてんと首をかしげる。
「だってだって、あの青葉様ですよ! もはや顔面凶器と言ってもいい美貌を持ったあの方を前にすると、長年仕えてるわしでも直視できんです」
「ええ、ええ。私も先代様からお仕えしているので、青葉様から発せられる神々しい気配にある程度免疫はありますが、他の若い子たちは腰を抜かせばいい方で、新人に青葉様と会わせようものなら気絶は避けられません」
料理長と使用人頭の言葉に、朱里はうんうんと頷いている。
「一度も気絶したことがないのは、先代から仕えている古株の方々だけですから」
「というと、朱里様も?」
「お恥ずかしながら一度だけ……」
朱里は恥ずかしそうに頬を染めた。
「とまあ、こんな感じですんで、わしらですら直視できん青葉様にお声をかけるなんてとんでもなく……。けれど、朱里から、真白様は臆することなく青葉様に話しかけていると聞いたので、どんな様子なのかとちょっとばかし気になったというわけです」
「まあ、そうなんですね。皆様もお話しになったらよろしいのに」
「そ、そんな、恐れ多いです!」
顔を青くさせて首を振る料理長は、顔に似合わず小心者なのか。
だが、朱里と使用人頭もとんでもないという様子であたふたしているので、別に料理長だけがどうこうというわけではなさそうだ。
「私のような一使用人が天孤であられる青葉様にお声をかけるなどっ」
朱里が恐れおののくようにそう言うので、真白が使用人頭に視線を向けると、使用人頭も困ったように眉を下げる。
「わ、私は多少なら。ですが、できる限り目を合わさないようにしております」
そこまでしなければならないのだろうか。
まるで危険物扱いである。
「えーと、皆様別に青葉様がお嫌いなどということは──」
「それはありません!」
「とんでもねえです!」
「絶対にありえません!」
食い気味で三人は一斉に否定する。
「私は青葉様をなにより大事に思っております」
「使用人頭だけじゃねぇです。この屋敷に仕えてる者は皆、青葉様が大好きなんです」
その必死さは大いに伝わってきた。
「私どもは青葉様にお仕えできることを誇りに思っているのですから!」
使用人頭が力強く語ると、料理長が後に続く。
「その通り! 毎日毎日青葉様の口に入るもんは厳選に厳選を重ねて、喜んでいただけるように最高級の料理をお出ししてるんです。青葉様が食べられたあとの空っぽの皿を見るのがどんだけ嬉しいか」
厳つい顔についている目を輝かせて、語る料理長からは青葉への敬愛が見て取れた。
「……けど、本能は正直なんですよね……」
朱里の言葉に、そろってがっくりと肩を落とす三人。
一喜一憂して表情を変える三人を見ていると面白いなと思ってしまった真白は、顔には出さないように心がけた。
「真白様!」
突然ガシッと真白の両手を握った使用人頭は、怖い顔で真白に顔を近付けてくる。
思わずのけ反る真白に、使用人頭は訴えた。
「あの顔面凶器を前にしても動じない真白様が最後の希望です! 青葉様を前にしても微笑んでいられる、たわしのような心臓を持った真白様が必要です!」
「それを言うなら毛の生えた心臓では?」
「青葉様には毛ごときでは対抗できません! たわし……いえ、金たわしぐらいでちょうどいいのです」
なにげにひどい。
本当に大切に思っているのかとツッコみたくなるほどだ。
「お願いいたします。真白様が頼りなのです……」
途端に勢いをなくしてしまう使用人頭だが、握られた手の力は強い。
青葉への思いが伝わってくるようだ。
この空気の中で否と言えるはずもない。
「分かりました。善処してみます」
ぱあっと表情を輝かせる三人は、本当に青葉が大好きなのだなと感じた。
翌日は、気になっても誰も来ないようにと、ちゃんと注意をうながしてからお茶の時間に挑んだ。
なにやら屋敷の中では、青葉と面と向かって話せる真白のことを勇者と称えているそうだが、その気持ちがあるなら他の人たちもぜひとも頑張ってみてほしい。
しかし、真白のように隣でお茶を飲むなど、一発で気絶してしまうので無理!という言葉が四方から飛んでくるので、真白もあきらめた。
なにせ、そんな自分たちを不甲斐ないと落ち込んでいるのだから、真白がこれ以上責める気にもならない。
真白には、そんなひどい顔をしているようには思えないのだが、ただ鈍いだけなのかと、真白は首をかしげる。
確かに父親や友人からは『鈍い』『天然』などと言われるが、真白自身に自覚症状などないので、いつも否定していた。
けれど、こんなあからさまに反応が違うと、自分を疑ってしまう。
昨日と同じ時間、同じ場所にやって来た青葉は、真白が誘わずとも隣に座った。
それを心の中でガッツポーズをして喜ぶが、顔には出さず、いつも通りの笑顔を浮かべた。
改めてじっと青葉の顔を見てみる。
確かに顔面凶器と言えなくもない、美しすぎる顔を持っているが、やはり気絶するほどではないなと、真白は改めて感じる。
むしろ彼に耳と尻尾がなくて残念でならない。
真白にはそちらの方が重要だった。
「青葉様は耳と尻尾は出せないのですか?」
ちょうど、お茶請けの豆大福を手に持ったところだった青葉は、ぎろりと真白をにらんだ。
顔が整いすぎているせいか、強面の料理長ににらまれるよりずっと怖く感じる。
だが、真白はにらまれても平然としている。
「出せるわけがないだろう」
「ですが、狐ですよね?」
「狐ではない! 狐憑きなだけだ!」
「そうなのですか? 残念です……」
なにやら普通に会話しているなと気がつくが、真白は気にせず続ける。
「そう言えば、結婚式はどうしましょうか? 一応今は婚約者の身として滞在させていただいておりますが、いつまでも居候という立場ではおれませんし、結婚するのかしないのかはっきりしていただきたいのですが?」
追い出すのか、追い出さずこのまま結婚するのか。
この結婚は青葉の意志によって決定される。
そこに真白の意見は必要とされていない。
これは華宮に仕える分家の役目だからだ。
なんという時代錯誤な風習だろうか。
そこに関しては真白ももの申したいと思っているが、言ったところで黙殺されるのが山だろう。
それに、真白はこの青葉を悪くないと思っている。
愛せるかどうかはこれからの青葉の態度次第だが。
だからこそ、青葉の意志をきちんと明確にしてほしかった。
しかし、青葉は仏頂面で口を閉ざした。
これでは彼の意志が分からない。
少しは仲よくなったかと思っていたが、まだまだ足りないらしい。
「ふむ。とりあえず仲よくなるために、名前で呼び合うというのはどうでしょう?」
真白の急な提案に、青葉は目を点にする。
「は?」
「真白ですよ、真白。ほら言ってみてください。さあさあ」
「な、名前などどうでもいい!」
そう言ってふいっとよそを向いてしまった青葉の顔を両手で挟み、自分の方へ向ける。
青葉は非常に驚いた顔をしているが、真白は関係なさそうに不機嫌さを露わにする。
「どうでもよくなんてありませんよ。名前は親が最初に与える愛の詰まった贈り物なんですから」
すると、真白はここではないどこかを見て、柔らかく微笑む。
「私の名前が決まるまで、父と母はそれはもう悩みに悩んで、果てには離婚に発展しかねない夫婦喧嘩まで起こして、大騒ぎした末に決めたんですよ。まあ、結局父が折れたんですけど、未だに根に持って当時の話を酒のつまみに愚痴るものですから、耳にたこができてしまいました」
クスクスと笑う真白を青葉がじっと見つめていると、ふたりの目が合う。
「青葉様の名前も誰かが一生懸命考えた名前なのでしょう? 素敵ですね、『青葉』って」
すると、青葉はその美しい顔を歪ませてどこか傷ついたような顔をする。
まるでナイフでえぐられたようなそんな顔を。
鈍い真白でもさすがに気づき、おずおずと青葉の顔色をうかがう。
「あの、もしかして余計なことを申してしまったでしょうか? 父にもお前は時々ひと言余計な時があると言われるんです。そうでしたら申し訳ありません」
「……いや、そんなことはない」
「そうですか。じゃあ、呼んでください」
コロッと表情を変えて笑顔で催促する。
「なんでそこで急に『じゃあ』になるのかまったく分からん! さっきの殊勝な態度はどこへやった!」
「いいから呼んでください。真白ですよ」
呼ぶまで顔を掴む手を離さないぞと力を入れると、しぶしぶといった様子で「真白……」と、青葉は口にした。
それを聞いて真白は嬉しそうに微笑む。
「……お前は俺を真っ直ぐ見るんだな」
「人と話す時は相手の目を見ろと躾けられましたから」
「そういう意味ではない」
「じゃあ、どういう意味です?」
こてんと首をかしげると、青葉は自分の顔に触れる真白の手をそっと外しながら、沈痛な面持ちで話し始める。
「俺はこの屋敷の者たち……いや、俺と会うすべての者は、俺を嫌っている」
「え?」
思わずぽかんとした顔をしてしまう真白だ。
「だが、当然だな。俺は化け物なんだから……」
最初に顔を合わせた時に「俺は化け物ではない」と言った口で、自分のことを『化け物』だと話す。
しかも、すべての者から嫌われているとはどういうことなのか。
真白の知る限り、青葉は熱狂的なほど屋敷に住む人たちから愛されていると思う。
どこに嫌われている要素があるのだろうか。
「嫌われているなんて、青葉様の勘違いでは?」
「勘違いなどではない! 誰も彼も俺とは目を合わせないし、話しかけたらすぐに逃げていくし、果てには目を合わせただけで気絶するんだぞ!」
「あー……」
確かに青葉側から見たら、自分は嫌われてると思ってもおかしくないなと、真白は思い知る。
「俺は嫌われ、恐れられているんだ!」
「そんなことありませんよ。皆さん青葉様のことがお好きなのですよ」
「下手な慰めはいらん!」
真白も朱里や料理長たちの話を聞いていなかったら勘違いしていたかもしれないが、いかんせん、青葉ラブの家人たちの心の声を知っているだけに、盛大なすれ違いを起こしていると理解し、遠い目をした。
「やって来た婚約者もことごとく気絶するか泣き出す。俺が化け物だから恐れているんだ。こんな俺と結婚なんて嫌なのだろうさ」
少々やさぐれているのは、これまでの経験ゆえだろう。
なんだか青葉が憐れに思えてきた。
「だから追い返したのですか?」
「わざわざ嫌がる女をそばに置く趣味はない。しかし、次の七宮からの娘を追い返したら、他にまともな嫁がいなくなると年寄りどもに言われ、それならもう愛されることはあきらめるしかないと……」
「あら、もしかしてこの結婚に愛は必要ないとおっしゃったのは、私が怖がると思って、青葉様ご自身を無理に愛さなくてもいいという意味だったのですか?」
青葉はこくりと頷いた。
「どうせ俺なんかを愛する人間なんていないと思って、役目のためと義務的に俺を愛そうと無理をする必要はないと言いたかった……。俺は口下手だから上手く伝えられたかどうか分からないが……」
これは予想外だ。
まさかあの発言が真白を思っての言葉だったとは。
「私はてっきり政略結婚を嫌がって、お前のような奴を愛するなどと思うなよ!と、警告していたのだと思っておりました」
「ち、違う……。そんなつもりはない……」
真白の勘違いを聞いて少しショックを受けている青葉の様子に、真白は頬に手を当てた。
「あらあら」
青葉に抱いていた印象ががらりと変わっていくではないか。
「どうしましょう?」
「どうしましょうとはどういう意味だ? やはり俺との結婚は嫌だから帰るのか?」
青葉は急にオドオドとしだした。
「青葉様はどうしてほしいですか?」
「え、俺? お、俺は……」
目に見えて狼狽する青葉に、少し虐めすぎたかと真白は反省する。
真白は湯飲みを持ち、もう冷めてしまったお茶をひと口飲む。
そして、咲き誇る金木犀に目を向けた。
「青葉様は不器用な方なのですね」
「それは否定できない」
「青葉様はこの結婚になにを望みますか?」
「俺がなにかを言えた義理じゃない。分家の娘たちは役目のために無理やりここへやって来るのだから」
落ち込んだ声。沈んだ顔。
その姿は神のごとき天孤に選ばれた崇高な存在ではなく、ひとりの男性にしか見なかった。
「けれど、もし……。もしも、我儘が叶うなら、愛してほしい。こんな化け物でも目を見て笑いかけてほしい。手をつないで歩きたい」
嫌われていると思い込み、そのことを寂しく感じつつも人を思いやることは忘れていない。
誰よりも人を愛し、愛されることを願っている。
ああ、なぜだろうか。そんなこの人がとても愛おしく感じる。
「これが母性を刺激されたというものでしょうか?」
「ん?」
「こちらの話しですよ」
真白はふふっと小さく笑った。
そして、青葉の手を握る。
はっとした顔をする青葉の目は、動揺したように真白とつながれた手とを行き来する。
「では、まず手をつないで庭を歩いてみませんか? あなたを愛するかどうか、今はまだ分かりませんけど、私はあなたのことを好ましく思っています」
息をのむ青葉。
「青葉様はどうですか? 私ではお嫌ですか?」
微笑みかける真白に困惑した顔をする青葉だが、次の瞬間には意を決したように真白の手を握り返した。
「……正直言うと、俺にもまだ愛し愛されるという関係がよく分からないのだ。けれど、俺を真っ直ぐ見るお前が気になってしかたないんだ。だから、お前に好きになってもらえるように頑張る」
「ええ、頑張ってくださいね。私も、青葉様に好きになってもらえるように頑張ります」
真白の言葉に青葉は顔を真っ赤にする。
それがおかしくて、真白はクスクスと笑った。
「それと、私のことは真白です。お前は禁止ですからね」
「そうだったな。分かった。真白」
「はい!」
それから、金木犀の花が舞う庭を、手をつないで散歩するふたりの姿が見られるようになり、屋敷の使用人たちは涙を流してその様子を見守った。
青葉の盛大な勘違いは、真白から使用人たちに伝えられ、使用人たちは腰を抜かして驚き、その場の勢いで青葉へ押し寄せておいおいと泣き始めた。
「誤解です~」
「気絶してすみません~」
「大好きなんです!」
「青葉様ラブ!」
突然やって来た使用人たちに、青葉はタジタジ。
しかし、それ以後使用人たちはあれやこれや対策を練って、青葉に関わろうと必死になった。
どうやら青葉に勘違いされていたのがよほど堪えたらしい。
青葉も、使用人たちの愛の叫びでようやく誤解であることを知り、その顔は晴れやかなものだった。
使用人たちの間では、いかにして青葉と目を合わせるか、話をしても気絶しないかを検証し始めた。
そのやる気ときたらすさまじく、それなら最初からしていたらよかったのにと、真白をあきれさせた。
しかし、口出しすることなく、真白はのんびりとお茶を飲みながらその様子を楽しそうに眺めるのが嬉しかった。
時には使用人たちに混じって、青葉対策会議に出席したりもする。
「青葉様にサングラスをかけていただいたならいけるのではないでしょうか?」
「いや、あんな綺麗な瞳を隠すなど罪です!」
「いや、それより似合いすぎて逆に失神者増えるんでは」
「確かに」
そろって「却下!」の声があがった。
「いっそショック療法で、青葉様とにらめっこでもしてみましょうか。耐えた方にはボーナスに追加で金一封差しあげるとかしたらやる気も出るのでは?」
「おお、真白様! ナイスアイデアです。金のためならこいつらやりますよ、絶対!」
そう一番に声をあげた料理長がもっとも金に目がくらんでいるように見える。
ワイワイと楽しく会議をしていると、襖をちょっとだけ開けて青葉が姿を見せた。
「あら、青葉様」
「真白、俺も考えたのだが、サングラスをかけてみるのはどうだ? いつも来ている和服だと合わないから、スーツを着てみたんだ」
そう言って、襖を大きく開けて登場した青葉に、使用人たちは阿鼻叫喚する。
「ぎゃあぁぁぁ! 青葉様が素敵すぎる」
「サングラスとスーツのコンボ!」
「やばい! 前方の奴らが青葉様の攻撃に軒並みやられたぞ!」
「鼻血出してる子もいるわよ!」
部屋は一気に騒がしくなる。
「真白様! さっさと青葉様をどっかにやっちゃってください」
「あらあら、大変」
使用人たちも青葉との距離が近くなったせいか、青葉の扱いが雑になりつつある。
崇拝しているのは変わらないが、どこか親しさが込められていた。
「はいはい、青葉様。皆さんが大変なことになっちゃってるので退散しましょうね」
「これでも駄目だったか!?」
「むしろ威力をあげちゃいましたねぇ」
すると、青葉はがっくりと肩を落としている。
青葉も青葉なりに使用人たちに近づこうと努力していた。
逆効果になっていることが多いのが残念だ。
「こうなったらもうお面を被るしか……」
「ひょっとこのお面なんてどうですか?」
真白だけは相変わらず青葉を前にしてもほわほわとした笑みを浮かべている。
金木犀は真白が来た時と変わらず満開に咲いており、雪のように地面に降り積もる。
「……真白」
「はい、なんですか?」
「祝言の日取りを決めたい。真白は構わないか?」
祝言。青葉から初めて結婚の意思表示をしてきた。
「どうやらお前のいない生活は考えられそうにない。ずっとそばで俺を支えてくれないか?」
緊張しているせいか、いつもの三割増しで人形のように表情が固まっている青葉は、そんな顔でも美しかった。
真白はクスクスと笑う。
「自分より綺麗な旦那様というのも気が引けますけど、いつ青葉様が結婚の話しを言い出してくれるのか心待ちにしていた時点で私も答えが出ているようです」
「それなら!」
ぱっと表情を輝かせる青葉に向かって、真白は頷く。
「お受けします」
躊躇いがちに真白を抱き寄せる青葉の背に、真白もそっと腕を回した。
「人生で一番今が幸せかもしれない」
「駄目ですよ。これから一緒にもっと幸せになるんですから」
「ああ、その通りだ」
ふたりを祝うように金木犀の花が舞った。