「真白。お前の結婚が決まった」
短大の卒業が押し迫ったある日、突然父親にそんなことを言われ、七宮真白は父親の心配をする。
「お父様、大丈夫ですか? とうとうボケてしまわれたの? まだ若いのに、困ったわ。こういう時はお医者様に相談すればいいのかしら……」
言葉の割に狼狽した様子もなく、真白はのんびりとした声で困ったように頬に手を当てる。
一方、娘にあらぬ疑いをかけられた父親は吠えた。
「私はボケとらんわ!」
「あら、それならよかったです。だって、突然結婚なんてあり得ないことを言い出すんですもの」
「結婚は本当だ」
二十歳という年齢の割には若く見える真白は、ぱっちりとした大きな目をさらに大きくして父親を見る。
「どういうことですか? 私には結婚を誓った相手などいないのですけど」
「いたら、私はひっくり返って驚いているだろうよ。お前ときたら私が心配するぐらい男の気配がないのだからな。少しは娘の方を見習いなさい。……いや、あれを手本にされるのは非常に困るので、やっぱりやめておくんだ」
「お父様ったら、なにが言いたいんですか?」
父親の言う『娘の方』とは、真白の義妹である莉々のことだ。
真白の母は真白が幼い頃に亡くなったのだが、一年ほど前に生涯母だけだと誓っていた父親が、親戚からの圧力に負けて再婚した後妻の連れ子が莉々である。
中学、高校、大学と女子校で、男性と接する機会が少なく、恋人もできた試しのない真白とは違い、莉々は奔放で三カ月ごとに恋人が変わっているのではないかという頻度で男性をとっかえひっかえしており、父親の頭痛の種だ。
義母が叱らず甘やかすので、余計に莉々の行動に拍車をかけているのかもしれない。
「とりあえずだ! お前を嫁に出す! これは決定事項だ」
「横暴ではありませんか?」
普段あまり怒らない真白も、自分の意志を無視した父親の行いに不満顔だ。
すると、父親は先ほどの勢いをなくし眉を下げる。
「これは真白のためにもいい話ではないかと思うんだ。なにせ、お前はあれらと折り合いが悪いだろう? 特に娘の方からは虐めを受けているではないか」
「虐め? 莉々さんから、かわいらしいいたずらならされましたけど」
父親の言う『あれら』とは、もちろん義母と義妹のことだ。
今でも真白の実母を一番に愛している父親は、親戚たちからの圧に負けて再婚してしまったことを現在進行形で悔いている。
義母も親戚たちから再婚を強要された被害者かと思いきや、積極的に親戚たちに働きかけていたのが義母と知った父親は、彼女たちの名前を呼ぶのをやめた。
いつも『あいつ』だとか、『あれ』、『娘の方』『母親の方』などである。
父親がどれだけ後妻と連れ子を憎々しく思っているかが分かるというもの。
しかし、真白には虐められたような記憶はとんとなかった。
変わらぬ微笑みを浮かべる真白に、父親はあきれ顔だ。
「愚図だとか、鈍間だとか、ブスだとか散々言われていた上に、服を汚されたり階段から落とされかけたりしていたのに、あれをかわいいと言うお前のその鋼の心臓はどこから来たんだ……?」
「まあ、うふふ。お父様ったら」
「うふふ、じゃなくてだな……。本当にお前は亡くなったお母さんそっくりだ」
父親はがっくりと肩を落としている。
「あら、ありがとうございます」
にこにこと嬉しそうに微笑む真白に、父親はまたもや吠える。
「断じて褒めておらんぞ! 断じて!」
「お母様に似ているというのは、私にとったらすべて褒め言葉ですよ、お父様」
父親は疲れ切ったように大きなため息をついた。
「話を戻す。天孤様のことは知っているな? 子供の頃から耳にたこができるほど言って聞かせてきただろう?」
「ええ、存じておりますよ」
天狐・空狐・気狐・野狐。
狐の階級において最上位であるとされる天狐は、あやかしというよりほとんど神のような存在だ。
「我が七宮の本家である華宮は、代々天孤が憑いており、その天孤の力により繁栄し、その恩恵を七宮も受けている……っていうおとぎ話ですよね?」
「おとぎ話などではないと、何度も言っているだろう!」
「だって、お父様。狐憑きだなんて、ねえ?」
真白はこてんと首を傾けて頬に手を当てる。
その顔は父親の言葉をまったく信じていない。
「すべて真実だ! 天孤は宿主となっている人間が亡くなると、次の新たな宿主を華宮の一族の中から探す。現在天孤を宿しているのは華宮青葉様という二十二歳の男性だ。代々、天孤の宿主が年頃になられると、分家より貢ぎ物として花嫁もしくは花婿が分家のいずれかより選ばれることになっている」
「分家のいずれかというと、私でなくともよろしいのでは? それほど一族にとって大事な方のお相手となれば、私よりももっと美人で器量よしな方がいらっしゃるでしょうに。それこそ莉々さんとか」
莉々も一応七宮の親戚なので、条件には合う。
さらに言うと、莉々の方が社交性が高く、見た目も華やかだ。
実際は、莉々を華やかと受け取るか、派手と受け取るかはそれぞれの感覚だろうが、真白はいい意味で莉々の容姿を評価していた。
そして自分とを比べ、己の地味さにしょんぼりしていたが、元来深く考える達ではないので、次の瞬間にはどうでもよくなっている。
いい意味でも悪い意味でも楽観的なのが真白だった。
「あれを送ったら我が家の恥をさらすだけだ。それに、他の家の者と言うが、これまでになん人ものお嬢さんが花嫁にと向かったようだが、どの家の娘も青葉様に泣かされて、祝言を挙げる前に追い出されたらしい。そのせいで、これまでは跡取り娘を嫁に出すわけにはいかないと拒否していた我が家にお鉢が回ってきたんだ」
「でしたら、なおさら莉々さんの方がよろしいのでは? 彼女は私と違って世渡り上手ですし」
「あれを世渡り上手と言ってのけるお前の神経を父は疑うぞ……。あれは世渡り上手ではなく八方美人というのだ」
父親はがっくりと肩を落としている。
なにやらこのわずかな間で疲れたように見えるのは真白の気のせいだろうか。
「なんにせよ、我が家から誰か出さねばならん。だが、あれを送り出すことは七宮の家長として絶対できないから、仕方ないので真白が行ってくれないか? というか、行くしかない」
「あらあら」
父親の様子をうかがうに、どうやら真白に拒否権はないようだ。
「会ったこともない方とうまくやっていけるかしら?」
結婚を強要されたにもかかわらず、真白に悲壮感はまったくなかった。
むしろちょっと楽しそうにしている。
「何故だかお前ならやれる気がしてならない。……だが、これまで送られた娘が玉砕されてきたのは事実なので、泣かされたなら帰ってきてかまわない。誰も文句は言わないだろう。我が家としてもきちんと役目は果たしたことを示せればいいのだからな」
「そういうことなら分かりました。気は進みませんが、困っているお父様を放ってはおけませんからね」
「真白ぉぉ~」
ウルッと目を潤ませる父親は真白に抱きついた。
ぎゅうぎゅうと締めつけるので、正直離してほしかったが、父親思いの真白は口には出さなかった。
「結婚と言っても、その前に青葉様に追い出される可能性が高い。無理して気に入られるようなことはせずに、嫌だと思ったらすぐに帰ってきなさい」
「困ったお父様だこと」
必死な父親を見て、真白はクスクスと笑った。
「ところで、いつ家を出ればいいのかしら?」
「……うん。言い忘れていたが明日だ」
「えっ!?」
これにはのんびりな真白も即座に反応する。
「待ってくださいな。私は来週卒業式を控えているんですよ。お父様もご存知でしょう?」
「すでに卒業できる単位は取ってあるのだし、卒業式など出なくとも問題ない、問題ない」
やましい気持ちがあるからだろうか。
父親は真白と目を合わせない。
「あ、あんまりです! お父様のお馬鹿!」
その日、真白の機嫌が直ることはなかった。
そして翌日、未だ怒りの収まらない真白を、父親が涙ながらに見送る。
そこに義母と義妹の姿がないあたり、真白がどうなろうとどうでもいいと思っているのがよく分かる。
「真白~。早く帰ってくるんだよ~」
とうていこれから嫁にやる娘にかける言葉ではなかったが、事情が事情だけに致し方ないだろう。
しかし、父親への怒りが冷めぬ真白は、早く帰れと言われれば言われるほど意固地になっていく。
「次にお会いする時は、結婚式でお会いしましょうね」
変な顔で固まった父親に背を向けて、真白は長年暮らした生家を後にした。
真白が向かったのは、別名『神の島』と一部の者から呼ばれている島である。
島民はおよそ一万五千人ほどで、漁業と観光業が発展している。
島民の皆が皆華宮の親戚というわけではなく、天孤の存在を知る華宮の一族はほんのひと握り。
ほとんどの者が、この島に天孤という人外の存在がいることを知らない。
それというのも、天孤の宿主は生涯この島の外どころか人前にも出ないらしいのだ。
もともと簡単にお目にかかれる方ではなく、七宮の家長である父親ですら、華宮青葉の名前は知っていても、実際にお会いしたことはないという。
時折島で一族の集まりがあるようなのだが、その場に青葉が姿を見せないのが常だった。
そんな天然記念物よりも貴重な人の写真が軽々しく手に入るはずもなく、名前と年齢しか情報のない中で真白は嫁に行かなければならない。
自分の両親のような仲のよい夫婦を夢見ていた真白にとって、今回の結婚話はまさに青天の霹靂。
自分が政略結婚をするなど考えてすらいなかった。
卒業式にも出られず、さぞ落ち込んでいるかと思いきや、真白は島へ向かうフェリーで大層はしゃいでいた。
「素敵! 太陽に照らされて海面がキラキラ輝いているわ。まるで宝石みたい」
海面と同じように目をキラキラさせて海を眺める真白は、これが初めて見た海だった。
なにせ都会のど真ん中で暮らし、娘命の父親によって大事に大事に育てられてきた箱入り娘なので、これまでとんと海には縁がなかったのだ。
潮風がこんなにも気持ちいいものだと初めて知った。
「海も綺麗だけど、青葉様とはどんなお方かしら。きっと狐憑きというのだから妖怪のような恐ろしい姿をしているのかもしれないわ。だから人前には出ないのかしら?」
父親からの情報によると、先代の天孤の宿主は青葉の曾祖父で、曾祖父が亡くなって間もなく、当時五歳だった青葉が新たな宿主に選ばれた。
宿主に選ばれると、それまでと姿が変わるので、ひと目で宿主だと分かるらしい。
それまで普通の子供として生活していた男の子は、一族で最も尊い存在として一気に奉りあげられることとなったのだ。
五歳という年齢は真白にとっても深い意味があった。
真白の母親が亡くなったのも、真白が五歳の時だった。
急な環境の変化に戸惑ったのを幼いながらに記憶している。
同じ五歳。きっと彼も周囲の変化についていけなかったのではないかと、真白は勝手に親近感を覚えていた。
海を眺めながら真白ははっとした。
「ひと目で宿主と分かるなんて……。狐なのだから、もしかしたらお耳と尻尾がついているかもしれないわ~」
真白は両手で頬を隠し、顔を左右に振る。
「そうだったらどうしましょう。さわらせてくださるかしら~?」
これが政略結婚だと思わせないほどに、真白はフェリーの中で終始ご機嫌だった。
島へ着くと、観光客だろう人々がぞろぞろと降りていく。
その波に巻き込まれながら、島への第一歩を踏み出すと、大きく空気を吸い込んだ。
「さて、お父様によると、お迎えが来ているらしいのだけど……」
真白はきょろきょろと辺りを見渡しながら歩いていくと、淡いクリーム色の着物を来た妙齢の女性が真白の行く手を遮るように前に立った。
「真白様でいらっしゃいますか?」
「はい。そうですが、あなたは?」
「申し遅れました。私はこれより真白様のお世話を仰せつかっている華宮朱里と申します」
まだまだかわいらしさの残る彼女から発せられた『華宮』の名前を聞けば、嫁ぎ先からのお迎えだとすぐに分かる。
深々と頭を下げる朱里を見て、真白もにこりと微笑んで頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いいたします。真白でございます。これからお世話になります」
「……何日のつき合いになるか分かりませんけどね」
ぼそりとつぶやかれた言葉は、周囲の喧噪により真白には届かず、ニコニコとした笑みを浮かべたままだ。
「それでは参りましょう。車を待たせております」
「ありがとうございます」
朱里の後についていけば、黒塗りの車が待ちかまえており、それに乗り込むと車は華宮の屋敷へと向かった。