(11)
 四月の暮れ。
 まだ、暑さも控えめで過ごしやすい気候のはずだ。しかし、一歩競技会場に足を踏み入れれば、そこに広がるのは灼熱。アリーナから出てきた選手の頭からは、熱を帯びた湯気が見えるほどだった。
 関係者でも何でもない俺は、二階の自由観覧席を目指す。横目で眺め見るアリーナにはたくさんの選手が激闘を繰り広げていた。
 その中で夕凪先輩だけが、濃くはっきりと浮かび上がって見える。対戦相手の実力は分からない。でも、正直に言ってしまうと夕凪先輩の勝利は見えなかった。
 圧倒的な実力差。攻め込まれて押されているのが、初心者の俺にもわかるほどだった。背に着けられた『夕凪』のゼッケンが揺れるたび、俺は泣きだしたい衝動に駆られる。
 俺のエゴで先輩は傷ついているのかもしれない。
 でも、俺のエゴがいつか先輩を救うかもしれない。
 わからない、わからないけど、先輩がプレーするその姿から目を離したくなかった。
「月見くん、こっち」
 桜井先輩が手を振る。ちょうど夕凪先輩がプレーする台を横から眺める形の座席だ。
「さっき、一セット取られちゃった。果歩の調子が悪いとかじゃなくて、相手が強すぎるの。さっきトーナメント見てきたんだけどね、第四シードの子なんだ。果歩、もうまるまる一年くらい試合出てないんだもん」
 相手は強豪校の子なのだろうか、攻撃が決まると歓声が上がった。
 それに対して、カホ先輩の試合を見ている生徒はたったの一人もいない。俺が知る限りの卓球部、平田は試合中。有井でさえも審判に駆り出されていた。夕凪先輩が点を取っても、誰も声をあげたりはしない。寂しい試合だった。
「桜井先輩、これって点取ったら声出しても大丈夫なんっすよね」
「うん、たぶんだけど。みんな本当に卓球選手みたいに叫ぶんだね」
 全国中継される卓球の試合の選手たちは、点を取ると何かを叫ぶ。ただ、卓球をしない俺らにとってそれが何を意味する言葉なのかが分からない。みな、似たような言葉を叫んではいるものの、少しずつ異なり一貫性に乏しい。
 どこかの選手が「ナイスボール」と声をあげた。それは、俺にとっても割と馴染みのある言葉だった。意味が分かる、使い方も分かる。
「よし、俺らも声出しましょう。先輩が点取ったら、とりあえず『ナイスボール』でいいっすか?」
「おっけい、『ナイスボール』だね。おっきい声出すよ、二人きりの大応援団だ」
 桜井先輩は親指を立てて、いたずらに笑った。それを確認して、また夕凪先輩のコートに視線を移す。
なかなか声を出すタイミングが生まれない。先輩の得点が変化しないからだ。素人が傍から見ていても、相手の実力が上であることは一目瞭然だった。
 じっと見守ると、ようやく夕凪先輩のサービスを相手がネットにかけた。
「「ナイスボール」」
 二つ隣に腰を掛ける観客が、目を大きく開いてこちらを見ていた。それくらい大きな声が出たということだ。たった二人の応援団は、会場で一番気合の入った声を出している。
 夕凪先輩はこちらを向いた。
 審判を務める有井もこちらを確認した。
 二人して、驚いた顔をしている。そして、夕凪先輩は大きな声で「よーーーし」と声をあげた。審判を務める有井は、もどかし気に頷いた。
 ただ、いくら俺らの応援が届いても実力の差は埋まることはない。タイムアウトを挟んでも、相手がサービスミスを冒しても、決して流れがこちらに傾くことはなかった。
 着々と、確実に終わりが近寄っていく。
――三対十
 その最後のラリー。夕凪先輩の打球は鋭い弾道を描いて……そのまま、ネットを超えることなく夕凪コートに落ちて撥ねた。
 相手選手が小さくガッツポーズをして、有井は点数盤を観客席に見えるように動かした。選手二人は礼をして、握手を交わす。対戦相手はそのまま運営席に向かって行った。
 試合が、終わった。
 先輩の卓球はこれで終わりだ。
 俺と桜井先輩は、ただひたすらに拍手を送った。審判を終えた有井も、小さく手を叩いた。


 俺は熱すぎる館内の雰囲気に酔ってしまい、気分転換を兼ねて外を歩いていた。
 一方で夕凪先輩は敗者審判を終え、クールダウンを兼ねて競技場の外を歩いていたらしい。
 適当な段差に腰を掛けて「お疲れ様っす」と言ったきり、会話が進まない。掛けるべき言葉が見つからなかった。
 遠くで聞こえる館内の歓声、床を踏み込む大きな足音。それをただ、ぼんやりと聞いている。
 その静寂を破ったのは、夕凪先輩だった。
「ねぇ、月見くん。聞いてくれる?」
「うっす」
「わたしね、いつか努力は報われて、そりゃプロになれるだなんて思ってなかったけど、大学のリーグで活躍くらいはできると思ってたの。それが夢だった。わたしは一番努力してる。だから、わたしが一番強くなる。この会場の中で、一番卓球が好き。だから、わたしが勝つんだって」
 夕凪先輩は瞳を細めて、過去の自分を懐かしむように笑う。それは、一種の諦めのようにも見えた。
「でも、それは雲を掴むような夢。それもちゃんとわかっていたはずなの」
 夕凪先輩は空に手を伸ばす。身を焦がすような日差しが、彼女の腕の輪郭を白く縁取った。
「それでも、雲は掴めるはずだって。いまでもそう思ってるの。わたし、馬鹿だよね」
 夕凪先輩が描いた雲。
 その夢はきっともう掴むことができない。分かっていてもなお、彼女は手を伸ばすことを辞められない。希望を描くことはきっと、一種の地獄に足を踏み入れることに近い。
 俺は思う。先輩が描いた雲は美しく儚いものだ、と。届かない雲。限りなく遠く、漠然としてつかみどころのない夢。
 でも、どうしてもはっきりと見えてしまったのだ。夕凪先輩が手を伸ばし、それを掴んで笑う姿がはっきりと鮮明に。
「夕凪先輩は、まだ雲を掴めますよ。描ける雲は一つだけじゃないっすから」
 先輩は目を大きく見開いて、ゆっくりと閉じた。雲を掴もうと伸ばした手で、流れ落ちる涙を拭う。そのときに彼女が何を考えていたのか、俺はそれを知ることができない。それでも、もう一度雲に手を伸ばす姿を見て、純粋に綺麗で眩しいと思った。
雲に手を伸ばすことができる人間は、それを掴むことのできる人間だ。

「ありがとう、月見くん。雲はいつか掴めるものね、きっと」
 それは言い聞かせるように、優しく穏やかな言葉だった。
 心地よい先輩の声を俺は静かに受け取って、流れ落ちた涙を拭った。