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どうしたものかと頭を悩ませていれば、彼女がふと顔を上げた。その視線は先程とは違い、どこか決意を固めた色で。
「わ、私に、土鳩事件の情報を教えてくれませんか!?」
「えっ!?」
――予想外の事態に、僕は声を上げる他なかった。
「ど、どうしてそんなことを知りたがるんだい?」
「やっぱり、ダメでしょうか」
「嗚呼いや、ダメとかではなく、その……土鳩の事件はどれもこれも惨いものばかりだろう? 君のような高校生が興味を持つのは珍しいと思って」
できるだけ優しく、けれど自分の気持ちを偽らないようにそう言えば、天使は驚いたように目を見開き、「……確かに」と零した。俯き、悲しそうな顔をする彼女は、捨てられた猫のように見えてしまい――。
「……何かきっかけがあったのかい?」
聞いてしまったのは、無意識だった。僕の問い掛けに頷いた彼女は、周囲を見渡すと内緒話のようにして静かにその胸の内を明かした。
「……はい。この前、あの神社の前で事件があったのは知っていますか?」
「もちろん。その日のビッグニュースだったじゃないか」
「その時被害にあったの……私が育てていた子なんです」
「なんだって!?」
僕は思いがけない事実に、目を見開いた。まさか彼女が大切にしていた土鳩が犯罪の餌食になっていただなんて。
(でもそうか……それなら彼女がこの事件に興味を持つのもわかる)
事件現場に花を添えに来たくらいだ。彼女の中で土鳩は友達として大切な存在なのだろう。
「だから……敵とは言わなくても、私に出来る事はしてあげたくて……」
潤む彼女の瞳に心臓が撃ち抜かれたような気分になりながらも、僕は持ち歩いているメモ帳を取り出した。
(別に、秘密にすることでもないし)
僕は持っていた紙をポケットに突っ込むと、天使へと笑いかけた。
「僕の持っている情報でよければ。もちろん、未公開の情報を教えることは難しいけれど……それでもいいのであれば」
「! 全然っ、大丈夫です! お願いします!」
勢いよく頭を下げた天使は、花を咲かせるように微笑んだ。その様子に、つい僕は彼女に喫茶店に行くことを提案し、足を踏み出した。幸い、仕事柄打ち合わせで使う喫茶店やおしゃれなカフェというのは多く知っている。彼女のような若い子のお眼鏡に合う場所も、きっとあるはずだ。僕は弾む心に笑みを携えながら、自身の腹部に手を添え、僅かに頭を垂れた。まるで小説に出てくる執事のように。
「お嬢さん。甘いものはお好きですか?」
驚く天使に、僕は小さく笑みを零した。
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彼女の答えを聞いて僕が選んだのは、そこから程なく歩いた所にある小さなカフェだった。カランカランと鈴が鳴り、店内の者に来店を報せる。
「いらっしゃいませ。二名様ですか?」
「はい」
「お好きな席へどうぞ」
にこやかな対応に軽く手を上げて、僕は彼女を振り返った。好きなところを選んでいいと目で告げれば、彼女はおずおずと店内の比較的隅の席へと足を運んだ。その背中を追いつつ、横目で店内を見回す。
(……凄いな)
皆が皆、天使を目で追っている。仕事の休憩にと新聞を読んでいたサラリーマンも、談笑していたご婦人方も、勉強をしていたらしい女性も。彼女が通るのと同時にハッとしたように顔を上げ、彼女の行く末を見つめる。まるで引き寄せられているように。
(……やっぱり、この子は凄い子だ)
僕には、勿体ないくらい。
「ここでいいですか?」
「嗚呼、構わないよ」
どうぞとソファーの席を差し、僕は手前の椅子に腰掛ける。この辺りは窓からの光も少ないのか、人の死角になりそうな場所で、秘密の話をするのには絶好の位置だろう。僕はメニューを手に取ると、天使へと差し出した。
「好きなものを頼んでいいよ」
「えっ、でも」
「いいんだよ。その代わり、土鳩のことを教えてくれよ」
「そんなっ、教えることなんて何も……」
いやいやと謙遜する彼女に、僕は何も言わず笑みを返し、もうひとつのメニューを取って写真を眺める。戸惑う空気が漂ってくるが、気に留めていなければ次第にそれも薄れていく。僕は自分の気持ちを押し込めるように内心で呟く。僕は珈琲ゼリーと珈琲を、彼女は珈琲とパンケーキのセットを注文をすると、顔を向かい合わせた。
「そうだ、土鳩たちはよく来るのかい?」
「あ、はい。最初は一匹だけだったんですけど、餌をあげている内に増えてきちゃって」
「鳩は群れるからね」
「そうですね。でもまさか、あんな早く増えるとは思ってもいなくって」
頬を掻きながら正直に笑う彼女に、僕は胸が高鳴るのを感じる。恥じらうように若干頬が染まっているのが、何とも愛らしい。
(って、何考えているんだ僕はっ)
ふるふると首を振って、邪な思考を飛ばす。こほんとわざとらしい咳ばらいをして、僕は彼女に笑いかけた。
「でも、あんなに仲がいいなんて珍しいんじゃないか?」
「そうですか?」
「ああ。鳩だから懐き易いかもしれないが、あそこまで警戒心がないのは初めて見たよ」
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僕の言葉に、嬉しそうに桜色の唇でゆるりと弧を描く天使。その姿に僕は今度こそ完全に目を奪われてしまった。ひらりと白い頬に落ちるひと房の髪に、視線が釘付けになる。耳に掛けられた髪の毛が冷房の風に僅かに揺れた。まるで絵画のようなワンシーンは、向けられる視線と声によって現実へと引き戻される。
「……私、中学生の頃に初めてあの神社に行ったんです」
「おや。そうだったのかい?」
「はい。中学に入って早々、トラブルに巻き込まれてしまって」
憂うような視線が下げられる。それすらもまるで一つの絵画でもあるかのようで。再び見惚れてしまいそうになるのを、必死に視線を逸らして回避した。
「その時、あの子たちに救われたんです」
「それじゃあ、旧知の友人って感じなのかな」
「ふふっ。はい。あの子たちはみんな、私の友達です」
「それはいい事だね」
ふふっと自然と笑みが浮かぶ。鳩が友人なんて、やっぱり可愛らしいじゃないか。
(……って、そうじゃない)
隙を見ては浮き上がってくる本心を、ぎゅっと奥底へと押し込める。すると、丁度よく珈琲が運ばれてきた。僕はすぐにそれに手を付け、一口飲む。酸味の強い香りが鼻を抜けていくのを感じ、少しだけ頭が落ち着いたような気がした。二口目を流し込み、今度はしっかりとその上品な舌触りに舌鼓を打つ。
「それじゃあ、今度は僕が知っている事を教えようか」
「お、お願いしますっ」
慌てて頭を下げた彼女に、僕は苦笑を浮かべる。「とは言っても、全部調べればわかることばかりだけれどね」と告げれば、彼女はハッとしたように顔を上げ、不安そうに顔を歪めた。……やはり自分では役者不足だっただろうか。何だか申し訳なくなってくるが、口を零す前に彼女が徐ろに視線を下げた。
「そうなんですね……すみません。そんなことにお手間を取らせてしまって……皆自分で調べているのに、なんか私、ズルしてるみたいですね……」
「ええっ!? いやいや! そんなことは……!」
俯き、申し訳なさそうに話す天使に僕は慌てて手を振る。——その考え方は予想外だった。てっきり、調べられるなら聞かなくてもよかったとでも言われるかと思っていたのに。思ったよりも自己肯定感の低い彼女の言葉に、僕は必死に言い訳を考える。
「……僕は、自分で情報を集めようとしているということ自体に意味があると思うよ」
出たのは、ありきたりな言葉だった。

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「えっ?」
「君からすれば、知ろうとしなければ知ることもなかった出来事だ。気持ちのいい事件ではないし、普通の人なら知りたいと思うことすらないだろう」
「でもっ」
「自分がどんな思いをするか分かっていながら知ろうとする事こそが、大切なんだと思う。入手経路なんて、二の次さ」
僕はそう言うと、珈琲を煽った。恥ずかしさが込み上げてくるが、それすらも一緒に流し込む様に。少し冷めて適温になった珈琲は、程よい苦みを残して喉元を過ぎ去っていく。少しくさい台詞をいってしまっただろうか。……そうは思うものの、言ってしまったものはもう戻すことができない。僕は気恥しさを隠すように再び咳払いをし、僕は彼女に向き合った。目の端でウエイターが僕たちの注文品を持ってくるのは、確認済みだ。
「と、まあ僕の持論は置いておいて……どうだい。ちょうど注文したものも来たみたいだし、食べながら話さないかい?」
「は、はい」
ウエイターが彼女の前にベリーのたっぷり乗ったパンケーキを、僕の前には珈琲ゼリーを置き、お辞儀をして去って行く。その姿を見送り、僕は彼女に笑いかける。
「どうぞ、召し上がれ」
「い、いただきます」
両手を合わせ、行儀よくお辞儀をした天使は、ナイフとフォークをその細く白い手に取った。綺麗な指先と洗練された所作は、高校生とは思えない程美しい。
(……やっぱり、綺麗だなぁ)
「あの……?」
「あ、ああ、すまない。君があまりにも美しい所作をするものだから、ついね」
「えっ」
「不快に思ったのなら謝罪するよ」
すまないと頭を下げようとして、彼女がブンブンと顔を横に振る。
「い、いえっ! 確かに驚きましたけど……所作が綺麗だと言われたのは、初めてでした」
「そうなのかい? まるでドラマの女優のようだったけれど」
「は、はい。なので……その……嬉しかったです」
顔を赤く染める彼女に、僕は心臓が大きく脈打つのを感じた。白い雪のような肌が紅潮している。所在なさげにしている目が忙しなく動く様は、初心な少女の反応そのままで。
(……可愛いなぁ)
てっきり慣れているものだと思っていたけれど、どうやら現実は違うらしい。僕は内心でそう呟くと、込み上げる笑みを咬み殺すように言葉を続けた。
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「そ、うかい。不快にさせていないのなら、よかったよ」
「はい。ありがとうございます」
「えっと、それじゃあ本題に入ろうか。──君は事件の、何が聞きたいんだい?」
持ちかけた珈琲ゼリーのスプーンを置いて、僕は問いかける。彼女は考えるように宙へと視線を投げると、ゆっくりと桜色の唇を開いた。
「……どうして、あの子達が狙われているのか……とかでしょうか?」
「うーん。残念ながら、そこはまだ分かっていないんだ」
「そうなんですか?」
「ああ。犯人が何のために殺しているのかも、何故ターゲットが土鳩なのかも、実はわかっていない」
正しくは、土鳩が嫌いなのではないか。土鳩に何か嫌なことをされたのではないか。……なんて憶測が飛び交っているのだが、それを彼女に伝える必要はないだろう。僕は手帳を広げペンを取ると、土鳩の事件をまとめるように文字を書き連ねた。
「今わかっているのは、犯人の手口と犯行の特徴だね」
「手口と、特徴……」
「そう。犯人の手口はこうだ」
──まず土鳩を誘き寄せる為、彼らの好む木の実を集める。そしてそれを人通りのない場所、もしくは人が気づかないような場所に撒く。
「土鳩はもちろん餌を求めて集まる。それを何度か繰り返すんだ」
「繰り返す?」
「そう。土鳩達に『ここにはこの時間帯に餌がある』と認識させるんだ」
「なるほど……! それでおびき寄せて、捕まえるんですね!」
「その通り」
僕は頷く。ちなみにこの情報は、警察の話をたまたま聞いたらしいちゅう秋から貰ったものだ。なんでも、夥しい血の中に潰れた木の実がいくつも紛れていたのだとか。もちろん、警察もこの情報は公にしているものの、残念ながらあまり重要視されていない。ニュースでもあまり取り上げられていないのは、そう言う事だろう。
「そして捕まえた土鳩を犯罪の場所へと持っていき……ここから先はかなりグロテスクな話になるが、大丈夫かい?」
「は、はいっ! 覚悟は出来てます……!」
「そうかい? それじゃあ話すけど、気持ち悪くなったらちゃんと言うんだよ」
「わかりました」
しかと頷く彼女に、僕は手帳をめくる。
「……土鳩を捕まえた犯人はまず、彼らの『部品』を全て取るんだ」
「ぶ、『部品』……?」
「顔のパーツのことさ」
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そう言って、僕は自分の目の下に人差し指を当てた。指先はもちろん、『目』を指している。彼女が僕の仕草に気がつくのを確認して、指先を今度は口元に触れさせる。その行為が示すものに、たっぷり十秒を開けて彼女は気が付いた。
「も、もしかして……!」
「思っている通りで間違いないよ」
「っ……!」
口元に手を当て顔を真っ青にする天使に、やはりまだ刺激が強かったかと苦笑いを零す。
(そう……顔の『部品』を全て、だ)
「その後は特に順番は決まっていないようだが、羽と足を……」
「す、すみません!」
バンッとテーブルが叩かれ、大きな声が鼓膜を揺らす。驚いて言葉を止めれば、天使は立ち上がっていた。荒い息を吐く彼女は、どうやらかなり気が動転しているらしい。震える肩を見て、僕は首を傾げた。
「どうかしたかい?」
「あ……いえ……その……」
視線を逸らし、口ごもる。様子のおかしい彼女に、心配そうな視線を向けてしまう。
(何か聞きたいことでもあったのだろうか?)
それとも、何か思い当たる事でもあったのか。思考を巡らせていれば、天使は迷ったように視線を彷徨わせるとゆっくりと腰を落ちつけた。強張る肩が、加護欲をそそるのは気のせいじゃないだろう。
「す、すみません、急に大声なんて出してしまって……でも、それ以上は、もう……」
無理です、と小さく聞こえた声に、僕はハッとした。
「あ、あああ! すまない! こちらこそ配慮が足らなかったようだ!」
真っ青な顔で泣きそうに告げる天使に、僕は自責の念で押し潰されそうになる。
(無理だったら言ってくれって僕が言ったんじゃないか……!)
自分の至らなさに、思わず頭を抱えたくなってしまう。しかし、それをする前に目の前の少女が首を横に振る。
「い、いえ。むしろ私の方こそ、教えて欲しいと言ったのにこんなこと……すみません」
そう告げると、彼女は申し訳なさそうに頭を下げる。別に構わない、寧ろ言ってくれて助かったと思っているのだが、彼女にそれは伝わらなさそうである。
(そうだ。もっとクリアな話をしよう)
僕はそう決めると、メモ帳のページを捲った。
「犯人の手口や特徴についてはこれくらいにして、そうだな……一度、事件の全容をまとめてみようか」
「は、はいっ、よろしくお願いします」
ホッとしたように息を吐く彼女に、僕は内心頷く。……良かった。まだ話を聞く気力は残っているらしい。
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折角覚悟を決めてくれたのに、最初から全てをへし折ってしまったかと思ったが、どうやらそれは杞憂だったようだ。僕はメモ帳から一枚を千切り取ると、時系列に事件のあらましを書いていく。
「まずは事件のあらましだけれど、こんな感じだ。内容としては、知っての通り土鳩を殺害する以外には特に目立った目的はなさそうに見える。一見愉快犯にも思えるが……、愉快犯と言うには少し不自然な点が多いんだ」
「不自然な点?」
「そう」
もし本当に単なる愉快犯なのであれば、これだけで済むはずがない。愉快犯は自分のやっていることは芸術として扱っている節がある。よくある者としては、一匹だけでは足りないとどんどん数が増えていったり、その凄惨さが過激になっていくのが普通だ。——だが。
「増えていくのは一匹ずつ。しかも、回数が増えることも無い。愉快犯にしては遊ぼうとする気持ちが見えないんだ」
「なるほど……でも、ただのストレス発散の可能性もあるんじゃないでしょうか?」
「いや、それも可能性としては薄いと思う」
「どうしてです?」
首を傾げる天使に、僕はにやりと笑みを浮かべる。
「誰にも見つからない、咎められないストレス発散。そんなものがあるなら、君はどうする?」
「……あっ」
ハッとした様な顔をする天使に、僕は内心愉快で堪らなかった。自分の知識が彼女を驚かせていると思うと、気持ちが上がるのも当然だろう。
──そう。もしそんな都合のいいストレス発散方法があるなら、人間は行動を大きくする。許されているのだと、まだ大丈夫なのだと、思い込んで。
「でも……そうすると、ターゲットとしてはどんな人になるんですか?」
「僕が考えるに、恐らく犯人は……何かの目的のためにやってるんじゃないかな」
「目的?」
首を傾げる彼女に、僕は頷く。
「だから、必要な時に、必要な分だけ殺す。土鳩である理由は……もしかしたら無いのかもしれない」
「土鳩を、何かに利用していると、言うんですか……?」
「そう」
「そんな、酷い……っ」
僕の言葉を聞いた天使の瞳に、涙が浮かぶ。握りしめられた手は、力を入れすぎて常時よりも白くなってしまっている。その様子に心臓が握りつぶされる様な罪悪感を覚えるが、現状、犯人の心境としてはそれが一番近いのだ。
(……それならば、この現状にも説明がつく)
回数が少ないから、余計捕まえられないのだろう。単純に、残される証拠と言えるものが少ないのだ。
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「もし、僕の言うように誰かが何かの目的のためにやっているなら、僕はその目的ごと見つけたいと思っている。そして、阻止するんだ」
「……私も、その方がいいと思います」
こくりと頷く彼女は、溢れそうになっていた涙を静かに拭い、僕の意見に賛同した。自信を纏った瞳は、真っ直ぐ僕を見つめて乞うように細められた。まるで、お願いしますと言わんばかりの表情に、僕は使命感のようなものが心の中心に突き刺さる感覚に陥った。――泣かせてしまいかけた時はどうしようかと思ったが、どうやらその心配は無用だったらしい。
それから、僕たちは他愛もない話をしつつ、土鳩の話をしては食事の時間を楽しんだ。永遠にも感じた時間は、残しては失礼だとパンケーキを必死に頬張った彼女が食べ終わるのと同時に幕を閉じた。カフェを出れば、時間はもうおやつ時を過ぎていた。
「今日はありがとうございました」
「いやいや、こちらこそ。久しぶりに君のような若い子と話が出来てよかったよ。刺激になった」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
ふわりと微笑む彼女。相変わらずの整った顔は日に当たりキラキラと輝いている。天使は続ける。
「すみません、急に引き留めてしまって。ご予定など、大丈夫でしたか?」
「予定……?」
天使の言葉に首を傾げた僕は、数秒考え、自分が何をしに外に出たのかを思い出した。一気に顔が青褪めていくのを感じる。ポケットに手を入れれば、かさりと丸くなった紙が無造作に入れられている。
(……まずい)
非常にまずい。僕は冷や汗を拭うことなく、頬を引き攣らせた。大人の余裕なんて、もうどこに行ったのかわからない。すっかり忘れてしまっていた。
「す、すまない! 僕はもう帰るけど、その、送って行けないが大丈夫かい?」
「は、はい! 大丈夫です!」
「本当にすまない!」
僕はそう言い放つとその場を走り出した。
急いで買い物をし、家に帰るが、出迎えたのは不機嫌そうな妻の顔だった。……どうやら遅かったらしい。
僕は仕事関係者に捕まっていたのだと弁明し、遅くなってしまった昼食は僕が作るという条件で許してもらう事にした。不器用な手で作った昼食がテーブルに並んだ時には、もう夕方になっていた。
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あれから数日後。僕の書いた土鳩の記事が世の中に出始めたのを肌で実感している中、調査を進めようと隣町へと足を運んだ先で、僕は彼と出会った。
「あ、あの時のおっさんじゃねーか」
「君は」
プレイボーイくんじゃないか、と言いかけて僕は止まる。このあだ名は僕しか知らない名前なのだ。彼に言ったところで通じないし、何か言いがかりをつけられても困る。だってこれは僕の健忘症の予防方法なのだから。そんな現実逃避をしつつ、僕は彼を見つめる。彼の腕にはこの前いた女性とは別の女性がくっついていた。——嗚呼、出来ればそのまま通り過ぎてくれればよかったのに。
こちらを見下げるような顔で見上げてくる女性は、やはりというかキャバクラに勤めていそうな風体をしている。水色のワンピース――否、ドレスのようなもの――を着て、染めた髪を綺麗に巻いている。しかし、先日の妖女とは違い、今回はかなり若い女性のようだった。
「……デート中だったかい? すまないね、邪魔したようだ」
「はあ? 冗談きついぜ、おっさん。こいつはただの仕事仲間だ」
「えー。ちょっとぉ、ひどぉい!」
「ハイハイ。悪かったな」
彼女の腰に手を回して引き寄せ、ちゅっと自然な行動で女性の額にキスを落とすプレイボーイに、僕は顔が引き攣る。手慣れた仕草に、僕は悟った。どうやら勝手につけたあだ名は、あながち間違っていなかったらしい。
「そういえば、この間神社で高校生の女の子に話しかけていたのを見たが……彼女は良いのかい?」
「あ? ああ、なんだおっさん。アレも見てたのか」
青年に体を寄り添わせる女性を抱きかかえつつ、彼は僕を見た。その表情はどこか挑戦的で、どこか嘲笑っているような表情をしている。まるで――こちらをおちょくるかのように。
「なあ、アンタって奥さんいるんだってな」
「な、何を」
「あの後調べたんだよ。あんまりにも突っかかって来るから」
彼の言葉に、僕は嫌な予感が心を過る。……こういう時、彼等のような人間との価値観の違いがまざまざと見せつけられるのだ。
「したら既婚者だっていうじゃねーか! びっくりしたぜ、ほんと」
「……それがどうしたんだい」
「つまりさぁ、——アンタのオアイテをするのは、別に彼女じゃなくてもいいんじゃねーの?」
淡々と話す彼に、僕は眉を顰める。……何が言いたいのか、全くわからない。僕は震える声で、青年に問いかけた。