田淵さんの返事を待っているのか、沙苗さんは黙したまま、またずっと鼻を鳴らす。
「奥さま、ここははっきり仰らへんと伝わらへんと思いますよ」
佳鳴が優しく言うと、沙苗さんは一瞬すがる様な目をしたが、すぐに、はっと目を開く。
「田淵さんがこんなことで怒ってしまう様な方で無いのは、奥さまが1番解ってはるでしょう。大丈夫ですよ。びしっと言っちゃいましょう!」
佳鳴はそうして軽くガッツポーズを作る。
「察してちゃんなんて、ええ女のやることや無いですよ」
だめ押しの様に言うと、沙苗さんは「そ、そうですよね」と目を伏せる。
「ちゃんと言わずに察して欲しいやなんて、虫のええ話ですよね」
沙苗さんは言うと、決心した様に顔を上げる。そして景気付けなのか、ビールをぐいと煽った。
「ヨシくん、あのね!」
少し声が大きくなったが、今は他にお客さまがいないので構わない。
「ヨシくんはご飯、私が作ろうがお惣菜やろうがお弁当やろうが、変わらへんってことなんやと思うんやけど」
沙苗さんが言うと、田淵さんは「え、そんな訳あれへんよ」と目を丸くした。
「沙苗さんが作ってくれんのが1番嬉しいに決まってるや無いか」
「でも、お惣菜とかでもええんでしょう?」
「だって、仕事の後にご飯作るんて大変やろ。せやから沙苗さんの負担が減るなら、惣菜とかでもええよって。でもその分、洗濯をもう少しやって欲しいって言うてもうたんは失敗やったかなぁって」
「うん。ヨシくんがそうやって帳尻を合わせようとしたから、もう私が作るご飯はいらんのやなって思った」
「ちゃうんや。洗濯と掃除は、外に任せるんやったら家政婦頼んだりせなあかんけど、ご飯は惣菜とかでもどうにかなるから、それができるんならその分また分担できたら、沙苗さんも俺も、負担が減るかなぁって思ったんや」
「そういうことでしたかぁ」
ようやく理解したと、千隼が声を上げる。
「そんなん、よほど料理が下手とかで無ければ、惣菜より手作りの方が美味しいし嬉しいですよ。田淵さんは単純に、奥さんの負担を減らすことを考えただけだと思いますよ」
「そうなん……?」
沙苗さんが驚いた様に目をぱちくりさせる。
「そうやで。そっかぁ、俺ら完全にすれ違ってしもてたんかぁ」
田淵さんは叫ぶ様に言って、頭を抱える。沙苗さんも恥ずかしそうに両手で顔を覆った。
「やだ、私ったら自分のことばかり考えてたのに、ヨシくんは私のことを思ってくれてたんやね」
「俺はそのつもりやったんだけど、そっかぁ、伝わってへんかったかぁ」
田淵さんはそう言って項垂れる。沙苗さんは「ごめんなさい」と素直に詫びた。
「俺の方こそ、言葉が足らへんかったよな。俺こそごめん。ちゃんと思ってることを言うべきやったんやんな」
「ううん。ちゃんと話ができて良かった。気遣ってくれてありがとう」
「こっちこそ嫌な思いをさせてごめんな。あのな、俺、沙苗さんのご飯好きやで。せやから毎日食べられたら嬉しいけど、そんなん大変やもんな。せやから惣菜とか弁当とか、外食でも、疲れてる時はそうしてくれて大丈夫やからさ。そうや、この店にもまたふたりで来ようや。ちょっとお酒も飲んでさ。沙苗さんお酒好きやもんな」
田淵さんが言うと、沙苗さんは嬉しそうに「うん」と微笑んだ。
数日後、営業中の煮物屋さんのドアが開かれる。
「こんばんは」
そう言ってひょこっと顔を出したのは田淵さんだった。その後ろには沙苗さんが。沙苗さんも「こんばんは」とにこやかに声を掛けてくれた。
「こんばんは。いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
佳鳴と千隼はそう言って笑顔で迎え入れ、おしぼりを用意する。
ご夫妻が仲直りをした奥の席は、今夜は門又さんと榊さんが占めていたので、ふたりは真ん中あたりに掛ける。
おしぼりを受け取ったふたりは、ほぅと気持ち良さそうに息を吐きながら手を拭いた。
「あ、田淵さん、こんばんは」
「こんばんわぁ」
田淵さんに気付いた門又さんと榊さんに声を掛けられ、田淵さんは「こんばんは」と笑顔で応える。
「ご一緒の方は、もしかして」
「はい、家内です」
田淵さんが少し照れ臭そうに言うと、門又さんと榊さんは顔を見合わせて、軽く口角を上げた。仲直りできたことを察したのだろう。
「奥さん初めまして。こんばんは」
「こんばんわぁ」
沙苗さんも笑顔で「こんばんは」と応えた。そして門又さんと榊さんは、またふたりの会話に戻って行った。
「店長さん、今日もお酒でお願いします」
「かしこまりました」
田淵さんの注文に、佳鳴と千隼はふたり分の料理を用意する。
今日のメインは根菜たっぷりの筑前煮。小鉢はなますと厚揚げのあんかけだ。
筑前煮の筍は水煮を使ったが、ごぼうとれんこん、人参に里芋は生のものを使っている。
鶏もも肉とこんにゃく、戻した干し椎茸と一緒にほっくりと煮込んでいる。干し椎茸の戻し汁も使うので、とても風味が良い。彩りは下茹でした絹さやだ。
なますは旬のみずみずしい大根と人参でシンプルに。甘酢で爽やかさが引き立つ。隠し味にレモン果汁も使っている。
厚揚げのあんかけは、お出汁をたっぷりと含ませた厚揚げに和風のあんをとろりと掛け、薬味のわさびをそっと添える。わさびはお好みだが、ぴりりと味のアクセントになる。
「お酒は何にされますか?」
佳鳴が聞くと、田淵さんはメニューを見ることも無く「瓶ビールで。スーパードライで」と応える。
沙苗さんはメニューを睨み付け、それを持つ手を震わせた。
「やだ……お酒の種類たくさんある……」
前回来られた時は、アルコールメニューをまともに見る余裕が無かった。今日あらためて見て、嬉しそうに目を輝かせた。
この煮物屋さんでは、プレミアが付かない、だが一般的に美味しいと好評の酒を多数用意してある。ウイスキーや焼酎、日本酒など。
普段プレミアが付いてしまうものは、運良く卸値で入荷できる時に期間限定で提供する様にしていた。
プレミアが付くお酒は確かに美味しい。だがそれに沿って高値で提供するのは佳鳴と千隼の思うところでは無かった。この店では気軽に美味しい料理と酒を楽しんでもらいたいと思っているからだ。
沙苗さんは「ううん、ううん」と唸りながらも、結局は「やっぱり最初はビールで」と注文をした。
「はい。かしこまりました。まずはスーパードライ1本お出ししますね」
手早くアサヒスーパードライの瓶ビールの栓を抜き、グラスを2客添えて台に上げる。
「お待たせいたしました」
田淵さんご夫妻がそれを受け取り、続けて料理も提供される。それもテーブルに移して、ふたりはビールを注いだグラスを小さく重ね合わせてぐいと煽り、そして料理も楽しみ始めた。
「やっぱり最初はビールが美味しいなぁ。あ、里芋おいしい。ほっくほく」
「厚揚げもすっごい出汁が染みてて美味しいわ。沙苗さん、食べてみいや。わさびと凄く合うで」
「……ほんまや。これなら私でも似た様なの作れるかな?」
田淵ご夫妻が酒と料理に舌鼓を打っていたその時、また店のドアが開く。入って来たのは山見さんご夫妻だった。
「こんばんは」
「こんばんは」
ご夫妻はにこやかに言いながら、空いている席に掛けた。佳鳴は「こんばんは、いらっしゃいませ」とおしぼりを渡した。
山見さんご夫妻は近くに座る田淵さんご夫妻に気付き、「こんばんは」と声を掛けた。田淵さんご夫妻も「こんばんは」と微笑んで応える。
すると山見奥さんが嬉しそうに口を開く。
「田淵さん、奥さまとご一緒なんですね。ええですねぇ。やっぱりね、夫婦は仲がええのが1番ですよ。そりゃあ喧嘩もたまにはあるでしょうが、そこは不思議なもんでね、どうにでもなるもんなんですよ。ええ、ほんまに、こうしてご一緒できるのが嬉しいですよ」
田淵さんご夫妻は、その言葉に照れた様に笑う。山見奥さんの横で山見旦那さんも嬉しそうだ。
「私たちはね、喧嘩と言うかね、相当家内に苦労も嫌な思いもさせたと思うんですよ。私が全部を任せてしもうてましたからね。でも家内は何も言わずに我慢をしてくれてね。でも今はそんな時代では無いですから。どうかご夫婦で支え合ってね、仲良うして欲しいなと思いますよ」
山見旦那さんの言葉に、田淵さんご夫妻は顔を見合わせて、ふっと笑みを浮かべる。
このすれ違いを経て、このご夫妻の絆はより深まったのだろう。それはとても素敵なことだ。
「すいませーん、ええと、雪の茅舎ください!」
そう言う沙苗さん。もうすっかりと元気だ。
雪の茅舎は秋田県の齋彌酒造店が造る日本酒である。すっきりと雑味が無く、フルーティな味わいが広がり、バランスがとても良いのだ。
「かしこまりました!」
佳鳴は威勢良く応えた。
「奥さま、ここははっきり仰らへんと伝わらへんと思いますよ」
佳鳴が優しく言うと、沙苗さんは一瞬すがる様な目をしたが、すぐに、はっと目を開く。
「田淵さんがこんなことで怒ってしまう様な方で無いのは、奥さまが1番解ってはるでしょう。大丈夫ですよ。びしっと言っちゃいましょう!」
佳鳴はそうして軽くガッツポーズを作る。
「察してちゃんなんて、ええ女のやることや無いですよ」
だめ押しの様に言うと、沙苗さんは「そ、そうですよね」と目を伏せる。
「ちゃんと言わずに察して欲しいやなんて、虫のええ話ですよね」
沙苗さんは言うと、決心した様に顔を上げる。そして景気付けなのか、ビールをぐいと煽った。
「ヨシくん、あのね!」
少し声が大きくなったが、今は他にお客さまがいないので構わない。
「ヨシくんはご飯、私が作ろうがお惣菜やろうがお弁当やろうが、変わらへんってことなんやと思うんやけど」
沙苗さんが言うと、田淵さんは「え、そんな訳あれへんよ」と目を丸くした。
「沙苗さんが作ってくれんのが1番嬉しいに決まってるや無いか」
「でも、お惣菜とかでもええんでしょう?」
「だって、仕事の後にご飯作るんて大変やろ。せやから沙苗さんの負担が減るなら、惣菜とかでもええよって。でもその分、洗濯をもう少しやって欲しいって言うてもうたんは失敗やったかなぁって」
「うん。ヨシくんがそうやって帳尻を合わせようとしたから、もう私が作るご飯はいらんのやなって思った」
「ちゃうんや。洗濯と掃除は、外に任せるんやったら家政婦頼んだりせなあかんけど、ご飯は惣菜とかでもどうにかなるから、それができるんならその分また分担できたら、沙苗さんも俺も、負担が減るかなぁって思ったんや」
「そういうことでしたかぁ」
ようやく理解したと、千隼が声を上げる。
「そんなん、よほど料理が下手とかで無ければ、惣菜より手作りの方が美味しいし嬉しいですよ。田淵さんは単純に、奥さんの負担を減らすことを考えただけだと思いますよ」
「そうなん……?」
沙苗さんが驚いた様に目をぱちくりさせる。
「そうやで。そっかぁ、俺ら完全にすれ違ってしもてたんかぁ」
田淵さんは叫ぶ様に言って、頭を抱える。沙苗さんも恥ずかしそうに両手で顔を覆った。
「やだ、私ったら自分のことばかり考えてたのに、ヨシくんは私のことを思ってくれてたんやね」
「俺はそのつもりやったんだけど、そっかぁ、伝わってへんかったかぁ」
田淵さんはそう言って項垂れる。沙苗さんは「ごめんなさい」と素直に詫びた。
「俺の方こそ、言葉が足らへんかったよな。俺こそごめん。ちゃんと思ってることを言うべきやったんやんな」
「ううん。ちゃんと話ができて良かった。気遣ってくれてありがとう」
「こっちこそ嫌な思いをさせてごめんな。あのな、俺、沙苗さんのご飯好きやで。せやから毎日食べられたら嬉しいけど、そんなん大変やもんな。せやから惣菜とか弁当とか、外食でも、疲れてる時はそうしてくれて大丈夫やからさ。そうや、この店にもまたふたりで来ようや。ちょっとお酒も飲んでさ。沙苗さんお酒好きやもんな」
田淵さんが言うと、沙苗さんは嬉しそうに「うん」と微笑んだ。
数日後、営業中の煮物屋さんのドアが開かれる。
「こんばんは」
そう言ってひょこっと顔を出したのは田淵さんだった。その後ろには沙苗さんが。沙苗さんも「こんばんは」とにこやかに声を掛けてくれた。
「こんばんは。いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
佳鳴と千隼はそう言って笑顔で迎え入れ、おしぼりを用意する。
ご夫妻が仲直りをした奥の席は、今夜は門又さんと榊さんが占めていたので、ふたりは真ん中あたりに掛ける。
おしぼりを受け取ったふたりは、ほぅと気持ち良さそうに息を吐きながら手を拭いた。
「あ、田淵さん、こんばんは」
「こんばんわぁ」
田淵さんに気付いた門又さんと榊さんに声を掛けられ、田淵さんは「こんばんは」と笑顔で応える。
「ご一緒の方は、もしかして」
「はい、家内です」
田淵さんが少し照れ臭そうに言うと、門又さんと榊さんは顔を見合わせて、軽く口角を上げた。仲直りできたことを察したのだろう。
「奥さん初めまして。こんばんは」
「こんばんわぁ」
沙苗さんも笑顔で「こんばんは」と応えた。そして門又さんと榊さんは、またふたりの会話に戻って行った。
「店長さん、今日もお酒でお願いします」
「かしこまりました」
田淵さんの注文に、佳鳴と千隼はふたり分の料理を用意する。
今日のメインは根菜たっぷりの筑前煮。小鉢はなますと厚揚げのあんかけだ。
筑前煮の筍は水煮を使ったが、ごぼうとれんこん、人参に里芋は生のものを使っている。
鶏もも肉とこんにゃく、戻した干し椎茸と一緒にほっくりと煮込んでいる。干し椎茸の戻し汁も使うので、とても風味が良い。彩りは下茹でした絹さやだ。
なますは旬のみずみずしい大根と人参でシンプルに。甘酢で爽やかさが引き立つ。隠し味にレモン果汁も使っている。
厚揚げのあんかけは、お出汁をたっぷりと含ませた厚揚げに和風のあんをとろりと掛け、薬味のわさびをそっと添える。わさびはお好みだが、ぴりりと味のアクセントになる。
「お酒は何にされますか?」
佳鳴が聞くと、田淵さんはメニューを見ることも無く「瓶ビールで。スーパードライで」と応える。
沙苗さんはメニューを睨み付け、それを持つ手を震わせた。
「やだ……お酒の種類たくさんある……」
前回来られた時は、アルコールメニューをまともに見る余裕が無かった。今日あらためて見て、嬉しそうに目を輝かせた。
この煮物屋さんでは、プレミアが付かない、だが一般的に美味しいと好評の酒を多数用意してある。ウイスキーや焼酎、日本酒など。
普段プレミアが付いてしまうものは、運良く卸値で入荷できる時に期間限定で提供する様にしていた。
プレミアが付くお酒は確かに美味しい。だがそれに沿って高値で提供するのは佳鳴と千隼の思うところでは無かった。この店では気軽に美味しい料理と酒を楽しんでもらいたいと思っているからだ。
沙苗さんは「ううん、ううん」と唸りながらも、結局は「やっぱり最初はビールで」と注文をした。
「はい。かしこまりました。まずはスーパードライ1本お出ししますね」
手早くアサヒスーパードライの瓶ビールの栓を抜き、グラスを2客添えて台に上げる。
「お待たせいたしました」
田淵さんご夫妻がそれを受け取り、続けて料理も提供される。それもテーブルに移して、ふたりはビールを注いだグラスを小さく重ね合わせてぐいと煽り、そして料理も楽しみ始めた。
「やっぱり最初はビールが美味しいなぁ。あ、里芋おいしい。ほっくほく」
「厚揚げもすっごい出汁が染みてて美味しいわ。沙苗さん、食べてみいや。わさびと凄く合うで」
「……ほんまや。これなら私でも似た様なの作れるかな?」
田淵ご夫妻が酒と料理に舌鼓を打っていたその時、また店のドアが開く。入って来たのは山見さんご夫妻だった。
「こんばんは」
「こんばんは」
ご夫妻はにこやかに言いながら、空いている席に掛けた。佳鳴は「こんばんは、いらっしゃいませ」とおしぼりを渡した。
山見さんご夫妻は近くに座る田淵さんご夫妻に気付き、「こんばんは」と声を掛けた。田淵さんご夫妻も「こんばんは」と微笑んで応える。
すると山見奥さんが嬉しそうに口を開く。
「田淵さん、奥さまとご一緒なんですね。ええですねぇ。やっぱりね、夫婦は仲がええのが1番ですよ。そりゃあ喧嘩もたまにはあるでしょうが、そこは不思議なもんでね、どうにでもなるもんなんですよ。ええ、ほんまに、こうしてご一緒できるのが嬉しいですよ」
田淵さんご夫妻は、その言葉に照れた様に笑う。山見奥さんの横で山見旦那さんも嬉しそうだ。
「私たちはね、喧嘩と言うかね、相当家内に苦労も嫌な思いもさせたと思うんですよ。私が全部を任せてしもうてましたからね。でも家内は何も言わずに我慢をしてくれてね。でも今はそんな時代では無いですから。どうかご夫婦で支え合ってね、仲良うして欲しいなと思いますよ」
山見旦那さんの言葉に、田淵さんご夫妻は顔を見合わせて、ふっと笑みを浮かべる。
このすれ違いを経て、このご夫妻の絆はより深まったのだろう。それはとても素敵なことだ。
「すいませーん、ええと、雪の茅舎ください!」
そう言う沙苗さん。もうすっかりと元気だ。
雪の茅舎は秋田県の齋彌酒造店が造る日本酒である。すっきりと雑味が無く、フルーティな味わいが広がり、バランスがとても良いのだ。
「かしこまりました!」
佳鳴は威勢良く応えた。