翌日の昼ごろ、ブランチの準備のためにキッチンに立つ千隼。豆もやしの袋をばりばりとパーティ開けにする。
豆もやしのひげ根を丁寧に取って行く。ひげ根はビニール袋に捨て、綺麗になった豆もやしはざるに入れて行く。1本1本手間ではあるのだが、これをするのとしないのとでは、味にも食感にも大きな違いが出るのだ。
取り終わったら流水でさっと洗って、よく水気を切っておく。
次に青ねぎ。これは洗ったら、5センチぐらいの長さにざくざくと切っておく。
さて、一時期流行ったタジン鍋を出す。そこに上部が平らになる様に豆もやしをこんもりと盛り、その上に青ねぎを乗せ、さらにスライスされた豚ロース肉をたっぷり、野菜を覆う様に乗せて行く。
蓋をしてコンロへ。中火に掛ける。数分後、豚肉に火が通ったら完成だ。
それをご飯と、小松菜の味噌汁と一緒にいただく。
家の掃除を終えてキッチンに顔を出した佳鳴が、コンロの上のタジン鍋を見て「あれ?」と目を丸くする。
「豆もやしのナムル作りたいって昨日言うてへんかった?」
「姉ちゃんが昨日の客に書いてるレシピ見たら食いたくなって」
そろそろだろうか。蓋を開ける。すると豚肉は白く色が変わっていて、豆もやしはそのかさを少しばかり減らしていた。葉物野菜ほどは減らないので、ボリュームがある。
「じゃあご飯よそおうか。大盛り?」
「おう。蒸したの、ごまだれとポン酢どっちがええ?」
「どっちも!」
食器棚からお茶碗を出す佳鳴が元気な声を上げる。
「どっちも旨いもんな。俺も両方使うか」
佳鳴がお茶碗と一緒に出したとんすいと、千隼が冷蔵庫から出したごまだれとポン酢をダイニングに運ぶ。続けて鍋敷きも。
佳鳴はお米をお茶碗によそい、トレイにお箸とグラス、麦茶のポットを乗せてダイニングへ。タジン鍋は鍋つかみを使って千隼がダイニングへと運んだ。
こうして家の食事を用意するのは、千隼の仕事なのである。
ダイニングテーブルに向かい合わせに座り、佳鳴と千隼は手を合わせた。
「いただきまーす」
とんすいにごまだれとポン酢を用意し、佳鳴はさっそく蒸し料理に手を伸ばした。千隼は米から頬張る。
豚肉で青ねぎと豆もやしを巻いて、まずはポン酢からだ。甘い豚肉にしゃきしゃきの野菜が良い塩梅だ。そしてポン酢が豚肉の油をさっぱりとさせてくれる。
「やっぱり蒸したお肉とお野菜美味しいわぁ。昨日のお客さまも気に入ってくださるとええけど」
「そうやな。うん、旨い」
千隼は蒸し料理にごまだれをたっぷりと付けて、大口を開けた。
これは、昨日貧血らしいと仰っていた女性のお客さまにお渡ししたレシピのひとつである。
レシピでは、豆もやしでは無く緑豆もやし。その方が安価だからだ。そして青ねぎは包丁やキッチンバサミが必要なので加えていない。豚肉も安価でそのまま使えるこま切れや切り落としで充分だ。
もし豚肉が贅沢だと感じる様であれば、ハムやベーコン、油を適度に切ったツナ缶でも良いとしてある。
もやしと肉類を深めの器に入れて、ラップをしてレンジで数分チン。ごまだれやポン酢、ドレッシングなど好きな調味料で味付けをして食べる。たったそれだけだ。
器は家にあるもので充分である。新たに買う必要は無い。
もやしは他の野菜に変えても良い。包丁など使わずとも、きゃべつやレタスなら手でちぎることが出来る。もやしのひげ根を取れなんて手間はもちろん書いていない。ひげ根だって食べられるものである。
出来るだけ節約できて、簡単に手間無く失敗も少なくできるレシピを書いたつもりだ。これならレンチンの時に使った器で食べることが出来るので、洗い物も少なくなる。
そして、まずは白米をしっかり食べて欲しいと言い置いていた。ダイエットなどをしている様なら難しいかも知れないが、あの女性はとにかくお腹をいっぱいにしたいと仰っていたので、大丈夫だろう。
どの様なお米を選ぶのかで変わっては来るのだが、米をしっかりと食べたら実は節約になるのだ。国産米はどれも美味しい。よほどのこだわりが無ければ満足できるだろう。
あとは業務スーパーで買える冷凍野菜などを使ったものをいくつか。これはスマートフォンで商品一覧を確認しながら書いた。
冷凍揚げ茄子まであるとは、冷凍野菜恐るべし。レンジで揚げ浸しができてしまうでは無いか。
冷凍ほうれん草もかなり使い勝手が良い。そのまま汁物に入れたり炒めたり、レンジを使えばおひたしも簡単に出来る。
それに業務スーパーに限らなければ、ほとんどの野菜が冷凍して販売されている。季節に問わず価格が安定しているし、生の野菜より安価なことも多いので、節約料理にはかなり有効だ。
普段冷凍の野菜を使うことがほとんど無い姉弟なので、昨夜ふたりであらためて調べてみて驚いたものだった。今度ブランチ用にでも購入してみようか。確か豊南市場に冷凍食品のお店があったはずだ。
貧血気味だということだったが、まだ若いのだし、そう深刻でも無さそうだったので、鉄分を意識するよりは、まずはバランスの良い食事を摂ることが大事だと佳鳴は思ったのだ。
「しっかし姉ちゃんも人がええよなぁ。客にレシピとか教えてしもうたら、もう来てくれへんくなるかも知れへんやん」
千隼が言うと、佳鳴は「そやろか」と小首を傾げる。
「ほら、あのお客さまなるべく節約してるって言ってはったたから、教えても教えなくても、今はそうそう店には来られないと思うで。大丈夫やって。学生さんやろ、卒業して就職したら、また来てくれるかも知れへんで」
「そうやろうか」
「就職しても引越しとかが無ければ、また店の前通るやろうから、思い出してくれるって」
「だったらええけどさ。せっかくの客なんやからさぁ」
「そりゃあ常連さんは多いに越したことは無いけどね〜」
そうしてブランチは進んで行く。このあとは市場で煮物屋さんの仕入れだ。
しかし、その機会は予想よりかなり早く訪れた。
「こんばんは!」
前回と打って変わって元気に現れたお客さまは、貧血かもと言って、佳鳴にレシピをもらった女性だった。
「こんばんは。いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ〜」
佳鳴と千隼はそう迎え、千隼はおしぼりを用意する。他のお客さんと適当な距離を取って座った女性はカウンタの下にバッグを押し込み、おしぼりを受け取って、ほぅと息を吐きながら手を拭いた。
「あの、定食でお願いします」
「はい。かしこまりました」
今日のメインは鶏肉と厚揚げの味噌煮だ。人参やごぼう、椎茸などの野菜も入っている。
生姜をほのかに効かせ、お味噌なのでしっかりと旨みとコクがある。そして優しい味わいだ。
小鉢は切り干し大根と春菊のさっと煮。切り干し大根はさつま揚げといんげん豆で作った。
旬で青々として張りのある春菊は、注文を受けてから火を通す。お出汁にお醤油とみりん、日本酒とお砂糖でおつゆを作っておいて、いつでも火が通せる様にしてある。春菊は火を通し過ぎるとえぐみが出るので、火を通すのはほんの数秒が良いのだ。
そしてメインが味噌煮なので、汁物はすまし汁にした。具は卵と三つ葉。かき玉汁だ。
料理を整えて、カウンタに置いて行く。
「お待たせしました」
「ありがとうございます。いただきます」
女性はいそいそとお箸を取り、かき玉汁をずずっとすすると「はぁ〜」と満足げな溜め息を吐いた。
「お客さま、あれから貧血は、体調はいかがですか?」
佳鳴が聞くと、女性は「え」と目を見張る。
「覚えていてくれはったんですか?」
「もちろんですよ。大丈夫やろかって、ちゃんとご飯食べてはるかなぁって気になってました」
「わぁ嬉しい! ありがとうございます!」
女性はにっこりと笑う。
「教えていただいたレシピ、私でも出来ました。お母さんに、あ、母に聞いたら、お米もたくさん炊いて冷凍とかしておくと経済的なんですね。レンジの前に常温で解凍したら良いって。私、ひとり暮らしを始める時に、訳がわからんままに母に3合炊きの炊飯器を買わされてたんですけど、使うことがこれまでほとんど無くて。家でご飯作る様になってから使う様になりました。3合炊いて、2分の1合ずつ冷凍して、夜解凍して食べてます。おかずもしっかりあるから、すごい満足感があるんです。本当にありがとうございました!」
「お役に立てたのなら何よりです。じゃあもうお元気なんですね」
「はい。なのでお礼が言いたかったんですけど、覚えていてくれてるかなぁって不安で。なので良かったです。あ、業務スーパーにも行ってます。冷凍のお野菜たっぷり買っちゃって、今うちの冷凍庫、お野菜とご飯でぱんぱんです」
「それは良かったです。やっぱりご飯はしっかり食べへんとあきませんね。お顔の色も、以前より良い様に見えますよ」
「ほんまですか? はい。ちゃんとご飯を食べる様になってからはますます元気です。朝と昼は相変わらずなんですけど、晩ごはんを変えるだけでこんなに変わるんやなぁって、びっくりしちゃいました。あ〜この厚揚げ、お味噌の優しい味で美味しい〜。やっぱり食って大事なんですね〜」
女性はにこにこ言って、料理を味わった。そうして半分ほどを平らげたころ。
「あの、私、もうすぐ学校卒業なんです。就職先も決まっていて。なのでお仕事を始めたらもっとここに来れると思います。自分で作るのもええですけど、ここまで凝ったん作れんから。なのでその時には、またお願いします」
「はい。いつでもお待ちしております」
佳鳴が言うと、女性はほっとした様に笑みを浮かべた。
まだ少し先のことだろうが、新たな常連さんの誕生だ。「ほら、言うたやろ」、佳鳴がそんな視線を千隼に投げると、千隼は「はいはい」と言う様に鼻を鳴らした。
「ほらあれや、最近の若いのは、あれやで」
赤い顔をしたスーツ姿のおじさんがビールのグラスを片手に、カウンタ越しの厨房に立つ佳鳴にとつとつと語る。
しかしそのセリフはいろいろと言葉が抜けていて、あまり意味が通じない。要は酔っ払いのたわ言である。
佳鳴は少しだけ眉尻を下げつつ、おじさんの話に相槌を打つ。これも仕事のひとつだ。そう割り切らないとやっていられない。なにせそう愉快では無い内容だ。
この煮物屋さんではお酒を出しているが、酷い酔っ払いになるお客さんは出ない。この様な酒癖のよろしく無いお客さまは珍しいのである。
常連では無い。一見さんだった。
「セクハラだのパワハラだの虐待だの、あれや、そんなもんなぁ、俺ら当たり前なんやで。それが今じゃいちいち騒ぎ立ててさぁ。たかだか手ぇ触られたぐらいでなぁ」
大声でまくし立てる。他のお客さまも苦笑するしか無い。
結局そのおじさんは瓶ビールを2本空けて、ふらふらと緩やかな千鳥足で帰って行った。おじさんの姿がドアの向こうに消えた瞬間、他のお客さまの「はぁ〜」という溜め息が店内に響く。
「あれが昭和のおじさんってやつやんねぇ」
呆れた様に言う女性、こちらは常連さんだ。この門又さんが麦焼酎「兼八」の水割りで唇を湿らせ、続けて口を開く。
兼八は大分県の四ッ谷酒造が造る麦焼酎である。はだか麦を使い、試行錯誤の上に引き出された麦の香ばしい風味がふんだんに漂う逸品である。四ッ谷酒造の代表格とも言えるお酒だ。
「うちの会社にもおるよ。令和の世の中で昔の常識を通そうとするおじさん上司。時代云々や無くて、常識が無いって私なんかは思ってまうんやけどなぁ」
すると門又さんの隣で「うんうん」と頷く、こちらの榊さんも女性だ。ふたりはこの煮物屋さんで出会い、親しくなった。
この店以外で会うことはあまり無いみたいだが、この店には同じ時間帯に来られることが多いので、こうして隣り合って会話を楽しんでいる。
「うちにもおるわぁ。事あるごとに肩とか腕とか触ってきてさぁ、気持ち悪いったらぁ」
榊さんはそう言って、嫌そうに顔をしかめた。
「そうなん? セクハラパワハラに関しちゃ、講習とか無いん?」
「あるでぇ。でも自由参加やからねぇ、そういうの平気でする人に限って参加しないもんなんよぉ」
「それもそうか。自分には無関係って思ってるんやろうねぇ。無関係どころか周りに嫌な思いをさせてるって言うのにねぇ」
なかなか辛辣である。しかし佳鳴は表情には出さずに、心の中で頷く。こっそりと同意見なのだ。
「そういえば店長さんたちって、会社とかで働いた経験ってあるの?」
おや、話の矛先がこちらに向いた。佳鳴と千隼は「ふふ」と笑みをこぼす。
「ふたりとも会社員経験ありますよ」
千隼が応えると、門又さんは「そっかぁ」と頷く。
「脱サラってやつやんね。店長さんなんかはもしかしたらあったんや無いの? セクハラとか」
この場合、店長は佳鳴のことだ。千隼は常連さんからは「ハヤさん」と呼ばれている。
「ああ〜、ありましたねぇ。そんな酷いものでは無かったですけど、程度云々じゃ無くて嫌なもんですね〜」
会社員時代のことを思い出す。男性社員はしようと思ってしている訳では無いのかも知れないが、やはり服越しでも、特に親しくもない異性に触られるのは良い気分では無い。
「やっぱりあったかぁ。そう、程度の問題やないよね。いや、そりゃあ酷かったらもっと嫌やろうけどね?」
「あ〜あぁ、本当にもうそんな昭和親父たち絶滅してくれへんやろうかぁ」
榊さんはそんな物騒な事を、ハイボールを飲みながらぼやく。
その時、店のドアが開いた。冷えた外気とともに顔を覗かせたのは、また常連さんの男性、結城さんだった。
そろそろ冬の気配も濃くなり始め、結城さんはコートなどは着ていないものの、暖かそうなマフラーで首を覆っていた。
「こんばんは。行けます?」
「いらっしゃいませ。どうぞー」
佳鳴がにこやかに応え、千隼も「いらっしゃいませー」と声を上げる。
今は席数のそう多く無いこの店に、お客さまは門又さんと榊さん、そしてこちらも常連さんの山見さんご夫妻の4人。店の奥から山見さんご夫妻、1席空けて門又さんと榊さんが座っていた。
結城さんは榊さんからひとつ空けて掛ける。佳鳴から温かいおしぼりを受け取って、気持ち良さそうに手を拭いた。ここで顔などを拭かないところが、結城さんが紳士であることの表れである。
「定食とお酒、どちらにされますか?」
「定食で。今日は仕事を持ち帰ってしもたんですよね。家に帰ったらまた仕事です」
「大変ですねぇ」
「若い子がミスってしもうて。明日朝イチでいる会議の資料作りですよ。その若い子と手分けしてね」
「結城さぁん、そのミスっちゃった若い子にパワハラなんてしてへんでしょうねぇ?」
榊さんがからかう様に言うと、結城さんは慌てた様に「え、え」とどもる。
「もちろん気を付けているつもりなんですが。でもそう思われていたらやっぱりショックでしょうかね」
「あっはっは、そう思ってるんなら結城さんは大丈夫やわ」
門又さんがそう言って笑った。
「さっき帰った初めて見るお客さんが、いわゆる昭和親父でねぇ。そんなの俺たちの時代じゃ当たり前やーってがなってたもんやから」
「ああ。それは僕の会社にもいますよ。反面教師や無いですが、気を付けなって思います」
「うんうん、やっぱり結城さんは大丈夫やと思うわぁ」
榊さんも頷くと、奥から「いやぁ」と男性の声が届く。山見さんご夫妻の旦那さんだ。
「耳が痛い話です。私も昭和生まれの親父ですから」
山見さんの頭髪には白髪も目立つことから、そこそこ年嵩が行っていると思われる。奥さんは綺麗な黒髪だが、細っそりとした首の年齢はなかなか隠せない。
ご夫妻はひとつの2合とっくりからそれぞれのお猪口に、「神亀」の熱燗を注ぎ合って仲良くちびりとやっていた。
神亀は埼玉県の神亀酒造が醸す純米酒で、熱燗の王道とも言える日本酒である。辛口なのだが燗にすることで穏やかになり、濃厚なコクと米の旨みが楽しめるのだ。
「確かに私らの世代は、部下が失敗すると怒鳴ったりするのも当たり前やし、女性社員の肩を気安く触ったりするんもね、毎日の様にありましたからね。確かに女性に触るのはどうかと思いますが、怒鳴るのは部下のためを思っての側面もあるのかと思っていましたが……」
「怒鳴ることに関しては程度問題ですよ。あ、兼八の水割りお代わりちょうだい」
門又さんが氷だけになったグラスをカウンタの台に上げながら言う。千隼が「はい」とグラスを受け取った。
「中にはただ感情的に怒鳴る人っていうのもおるでしょうしね。そういう人はセクハラもしますよ。ただ、これは子育ての話なんですけど、怒鳴って育てると脳に影響が出るんですって。精神的な成長を妨げるらしいです。なので問題行動が多くなったりするって聞きました。怒鳴られないために狡いことをしてしもたりね。就職するころにはもう大人やから、そこまで影響があるかどうかは判らへんのですが、例えば大事なことを相談してもらえへんかったり、ミスをした時に報告が遅れたり、そんなことはあるかも知れませんねぇ」
「あー、それは確かにそうかもぉ」
横で榊さんが頷く。そのころには門又さんのお代わりはできていて、門又さんはそれを美味しそうに傾けた。そして結城さんの定食も揃って、結城さんは温かな食事を前に「いただきます」と手を合わせた。
今日のメインは牛すじと根菜の煮物だ。
煮物の牛すじはしっかりと下茹でをして、余分な脂とあくを除いている。1回目であくを取り、2回目では白ねぎの青い部分と生姜を入れて臭みも取る。
そうして柔らかくなった牛すじを、こんにゃくとごぼうや人参などの根菜と一緒にお出汁でことこと煮るのだ。味付けはお砂糖と日本酒、お醤油でシンプルに。
冬に近付くにつれ、根菜はどんどん甘みを増して美味しくなって来る。
器に盛り付けたら小口切りにした白ねぎを振り掛けた。
ほっくりと煮上がった根菜とぷるんとしたこんにゃく、とろっとなった牛すじは優しくも味わい深い味に仕上がっている。
小鉢のひとつはシンプルなポテトサラダ。茹でたじゃがいもを粉吹きにして水分を飛ばし、熱いうちに荒く潰して塩とお酢を加えておく。
合わせる具は塩揉みした玉ねぎときゅうり、短冊切りにしたハムだ。味付けのマヨネーズはしつこくならない量を入れ、白胡椒も効かせる。定番でほっとする味だ。
きゅうりと言えば夏の代表格だが、やはりベーシックなポテトサラダには欠かせない。幸いにも豊南市場の八百屋さんに張りのあるきゅうりがあった。
小鉢もうひとつはほうれん草のおひたし。こちらも定番の作り方。茹でたほうれん草の水気を絞ってお醤油で洗い、器に盛って、お醤油を落としたお出汁を掛け、削り節をふわっと掛ける。
そろそろ旬のほうれん草の味がしっかりと感じられ、シンプルだが馴染みの深い味。今日は煮物とポテトサラダがしっかりめの味なので、口の中をさっぱりとさせてくれる一品だ。
「解ります。僕は上司の立場ですけど、あまり部下が萎縮せん様に気を付けてるつもりです。僕も上司に怒鳴られてええ気がしませんでしたからね」
結城さんが言いながら、味噌汁をずずっとすすって顔を綻ばせる。今日はたっぷりあさりの味噌汁だ。
「また怒鳴られる、怒られるって思うとぉ、すごく言いづらいわよねぇ。叱られるならともかくねぇ。叱られると怒られるって混合されがちやけどぉ、まったく別物やねんからぁ」
榊さんが言うと、山見奥さんが「ふふ」と笑みをこぼす。
「門又さんと榊さんは、将来お子さんを産んだらええお母さんになりそうやね」
その言葉にふたりはきょとんと顔を見合わせて、「あっはっは」と楽しそうに笑う。
「いえいえ山見奥さん、私たちもうアラフォーですから!」
「そうですよぉ。もう結婚はほぼほぼ諦めちゃってますぅ」
門又さんと榊さんは独身なのだ。そして今はあまり結婚願望は無いらしい。
「まあぁ、おふたりともええお嬢さんなのにねぇ」
そんな話で店内が沸いた時、また店のドアが開いた。顔を見せたのは、これまた常連の田淵さんだった。
「いらっしゃいませ。今日は珍しくお早いんですね」
「いらっしゃいませ」
佳鳴と千隼が続けて声を掛けると、田淵さんは「ええまぁ、はは……」と力無さげに小さく笑う。
田淵さんは既婚者で、この店に夕飯を食べに来られるのは、仕事で遅くなった日だけと決めているらしい。
この店はたいがい24時ごろに閉店なのだが、だいたいは21時以降、ぎりぎりの23時ごろに来られることも珍しく無かった。それも1、2週間に1度ほどだ。家族に負担を掛けないためなのだと言う。
なのに、今日はまだ19時半だった。
「ええ。あの、実は家内と喧嘩をしてしもうて」
田淵さんは言いながら、結城さんからひとつ離れて掛けた。
「それは……」
「あらぁ……」
門又さんと榊さんが呟き、店内に不穏な空気がかすかに流れた。
「大丈夫ですよ、田淵さん。そう深刻なもので無ければ、夫婦なんてすぐに仲直りできますよ」
夫婦の大先輩とも言える山見奥さんの優しい言葉に、田淵さんは「そうやとええんですが」とまた気弱に応える。
「あ、定食をください」
これもまた珍しい。田淵さんはいつも少しだけお酒を楽しまれるのだ。
「喧嘩中やのに飲んで帰るんはさすがにね」
そう言って、田淵さんは苦笑を浮かべる。
「あの、これが深刻なんかどうか、俺にもよう判らんくて困ってるんです。家内がなんであんなに怒ったんやろうって」
「田淵さん、それって喧嘩って言うより、奥さんが一方的に怒ってる感じ?」
門又さんが聞くと、田淵さんは「ああ、そうなのかも知れません」と応える。
「ん〜、私たちは独身やからぁ、奥さんの気持ちがどこまで理解できるか判らへんけどぉ、良かったら話してみるぅ? 山見奥さんもおられることやしぃ」
すると田淵さんは少し考えた後、「そうですね」と頷く。
「確かに俺だけやお手上げです。聞いてもろてええですか?」
「私たちで良ければ、聞かせてくださいな」
山見奥さんの言葉に、田淵さんは「ありがとうございます」と小さく頭を下げた。
田淵さんご夫妻は、フルタイムの共働きである。お子さまはいない。
「せやので、家事は分担しています。料理は家内、掃除は俺、洗濯干すんとたたむんは自分のもんは自分でって。共有のものはその時々で」
「そこはちゃんとされてるんやね」
門又さんの言葉に田淵さんは「はい」と応える。
「家内にばかり負担を掛けたく無いので」
榊さんが「うんうん」と頷く。
「最初のうちは、家内はほぼ毎日夕飯を作ってくれとったんです。朝はパンで互いに手間が掛からん様にして、昼はそれぞれ社食とかで済ませて。なんですが、最近スーパーやコンビニで惣菜を買って来る様になったんです」
「もしかして、田淵さんそれを責めたりした?」
「いや、まさか。仕事が終わってから炊事をするんは大変やと思います。俺もひとり暮らしをしてる時はそんな気力残らんかったですし、外食とかコンビニばかりでしたから。なので惣菜なのはええんです。弁当でも構いませんし」
となると、残りの主な家事は洗濯と掃除のふたつになる。
「なので掃除はこれまで通り俺がやるとして、洗濯をもう少し任せられへんかってお願いしたんです。そうしたら怒ってしもうて」
田淵さんが話し終えると、一同は「うーん?」と唸ってしまう。田淵さんはここで目の前に揃った料理に手を付け始めた。
今日のメインは鶏だんごと野菜の含め煮だ。
鶏だんごはもも肉と胸肉の挽き肉を合わせて、さっぱりさせつつもしっとりとこくのある鶏だんごにしている。お塩を少しだけ加えた鶏挽き肉をもったりとするまで手で混ぜ、卵も加え、味付けは日本酒と生姜とお醤油を少々。
野菜はそろそろ走りの白菜と人参、蓮根を使う。白菜は芯までとろとろになる様に煮込み、人参はほろっと柔らかく、蓮根はさくっとした歯ごたえが気持ち良い。
鶏だんごから出た旨味が野菜を包み込み、全体が柔らかく優しく仕上がっている。彩りには小松菜の塩茹でを添えた。
小鉢のひとつは。焼きししとうのマリネ。破裂しない様に数カ所穴を開けたししとうをオリーブオイルを引いたフライパンで焼き、ワインビネガーやオリーブオイルなどで作ったマリネ液に浸け置く。
ししとうのぴりっとした辛さとビネガーの酸味が合わさり、爽やかな一品だ。
小鉢のもうひとつは、椎茸としめじのもみじおろし和えだ。厚めにスライスした椎茸とほぐしたしめじをごま油で炒め、大根と鷹の爪をすり下ろして作ったもみじおろしで合えた。
こちらもピリ辛であるが、ししとうのものとはまた違う。鷹の爪は控えめにし、大根のさっぱりさを出している。それがごま油で味付けされたきのこに絡み、ふくよかな味わいを生み出すのだ。
今が旬のきのこ類はぱんぱんに身が張って、まるで輝く様だ。
田淵さんはほんの少し冷めてしまった鶏肉だんごを美味しそうに頬張り、「あ〜優しい味が沁みる〜」と顔を綻ばせた。
「確かに買い物の手間はあるけど……あ、惣菜は家で他の皿に移したりしてる?」
「はい。それはしてくれます。その洗い物も」
「じゃあ奥さんにとって、やってることは今までと変わってへんって意識?」
門又さんが首を傾げ、榊さんが「あ」と声を漏らす。
「実は食器洗いが大嫌いでぇ、その負担が大きかったとかぁ?」
「食洗機を使ってるんで、そう面倒では無いと思うんですけど、それでもだめやったんでしょうか」
「あらまぁ、食洗機なんて素敵やねぇ。それは奥さん、とても助かってると思いますよ」
山見奥さんの言葉に、田淵さんは「そうでしょうか」と不安げな声を上げる。
「私もそう思うなぁ。それやったら正直、田淵さんの方に負担が大きい様に聞こえる。でも奥さんにとっては違うってこと?」
「奥さんの方が残業が多いとか?」
結城さんに聞かれ、田淵さんは「いいえ」と首を振る。
「家内はほぼ毎日定時で上がっているみたいです。俺も定時で終わることが多いですが、1時間俺の方が遅いです。職場も俺の方が遠いんで、家内は買い物をしても6時には帰ってるんですけど、俺は7時を過ぎることがほとんどです」
やはり、聞けば聞くほど奥さんの負担がそう大きく偏っているとは思えない。むしろ田淵さんの方が大きいと感じる。皆はまた唸ってしまった。
「判らへん」
「判らへんわぁ」
「ごめんなさいねぇ、私にも難しいみたいです」
女性3人が済まなさそうに言い、佳鳴も「すいません、私にも判らないです」と目を伏せた。
「いえ、話を聞いていただいてありがとうございました。少し気が楽になった様な気がします。帰ったら家内に聞いてみることにしますね。俺だけで勝手な結論を出しても間違えると思いますし」
「それがええでしょうね。やはり男では女性の心は判りません」
結城さんがしみじみとそう言う。
「私たちが女でも判らへんのは独身やから?」
「私は既婚者ですけど、難しかったですよ」
「いやぁしかし、田淵さんは偉いですなぁ」
山見旦那さんが感心した様に言う。
「私は妻に家事も子育ても、私の世話までもさせてしもてましたから、ずいぶん苦労を掛けてしまったと思います」
「あらあなた、私は専業主婦やったんですから」
「そういうのも時代なんですよ、きっと」
山見ご夫婦の言葉に、門又さんが笑顔で言う。
「結局はふたりが良い様に折り合いを付けられるのが1番ですよね。今でも専業主婦になりたいって女性はいますしね」
「そうですよ、あなた。私はあなたのお陰で外で苦労をせずに済みましたからね」
山見奥さんはそう言って柔らかく笑う。すると山見旦那さんは「そう言うてもらえると救われるよ」と表情を綻ばせた。
翌日、佳鳴と千隼は開店準備を進める。今日のメインは肉豆腐。小鉢はブロッコリのおかかマヨネーズ和えと、ひじきと大豆の炒め煮だ。
できあがったそれらを器に盛って写真を撮り、プリントの間に試食がてらの夕飯をいただく。
並んでカウンタに掛け、いただきますと手を合わせたその時、まだ鍵を掛けている店のドアががたがたと音を立てた。
それは風によってドアが叩かれた、などでは無く、明らかに何者かに開けられようとしている様な、ドアノブががたつく様な音である。
姉弟は顔を見合わせて、一瞬警戒する。が、次にはドアがとんとんとノックされた。
千隼が立ち上がり、ドア越しに「はい」と、警戒心をわずかに残したまま応えると、「開店時間前にすいません」とくぐもった声が聞こえた。
「こちらに度々お邪魔させていただいてます、田淵の妻です」
続けて言われ、千隼は慌ててドアを開ける。するとそこに佇んでいたのは、わずかに緊張した面持ちの、スーツ姿の小柄な女性だった。
「あの、少しお話させていただいてええですか?」
田淵さんの奥さんが遠慮がちに言う。千隼は「はい。どうぞ」と店内に促す。奥さんは「すいません」と会釈しながらおずおずと入って来た。
「開店時間は6時ですよね? その時間にまた来ますので、1番奥の2席を空けておいてもらえませんか。主人を待ちたいんです」
「はい。大丈夫ですよ」
千隼が言うと、田淵奥さんは表情をほっと和らげる。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
田淵奥さんは一礼して、店を出て行った。
奥さんが田淵さんを待つと言うことは、昨夜仲直りできなかったと想像できる。わざわざ待ち伏せまでして。これは。
「まさかここで夫婦喧嘩勃発!?」
千隼が少しわくわくした様に言うと、佳鳴が「こら」とたしなめる。
「それは判らへんけど、うーん、巧く仲直りくてくれるとええけどなぁ」
佳鳴はそう言って、腕を組んだ。
18時、開店時間になった。千隼が看板を表に出す。それとほぼ同時に、田淵奥さんが現れた。
「先ほどはすいませんでした。もう入れますか?」
「はい、どうぞ。いらっしゃいませ」
千隼がドアを空けて、田淵奥さんを中に促す。1番奥の2席には、念のために「予約席」のプレートを置いておいた。
「いらっしゃいませ」
佳鳴も声を掛ける。田淵奥さんは佳鳴にぺこりと頭を下げた。田淵奥さんが席に着くと、佳鳴がおしぼりを渡す。田淵奥さんはまた小さくお辞儀をしながらそれを受け取った。
「ご注文はどうされますか? うちは料理が決まっていまして、それにご飯とお味噌汁を付けて定食にするか、おつまみにしてお酒を付けるかを選んでいただける様になっています。あ、ソフトドリンクでも大丈夫ですよ」
「お料理は決まっているんですか?」
「はい。今日は肉豆腐と、ブロッコリのおかかマヨ和え、ひじきと大豆の炒め煮です」
「あ……そうなんですか」
田淵奥さんはわずかにショックを受けた様に見えた。その意味が判らず、佳鳴は微かに首を傾げる。千隼もカウンタの中に戻って来た。
「あの、じゃあお酒でお願いします。ビールで」
「中瓶ビールになりますが、よろしいですか? スーパードライと一番搾りがありますが」
「はい、大丈夫です。スーパードライでお願いします」
「かしこまりました」
佳鳴がアサヒスーパードライの瓶ビールを出し、栓を抜き、グラスとともに台に上げた。
「瓶ビールお待たせしました」
「ありがとうございます」
田淵奥さんはビールを受け取り、グラスに良い泡を立ててなみなみと注ぐと、それをごっくごっくと音を立てて一気に飲み干した。
「はぁ〜、美味しい!」
そうして浮かべる笑顔は、先ほどとは打って変わって生き生きとしていた。
「ビールお好きなんですか?」
佳鳴が聞くと、田淵奥さんは笑顔のままで「はい」と頷いた。
「ビールもですがお酒が好きで。いつも外では生ビールなんですが、たまには瓶ビールもええですね」
「生ビールのサーバが置けたらええんですけどね。場所を取るって言うのもあるんですが、ビール樽の交換やサーバの洗浄が大変そうで、断念しちゃいました」
佳鳴が言うと、奥さんは「ふふ」と笑みをこぼす。
「確かに。でも居酒屋なんかに行くと、生ビールあるのにわざわざ瓶ビールを頼む人もいますしね」
そんな話をしながら、佳鳴たちは料理を用意する。
千隼が盛り付ける肉豆腐は、たっぷりの牛肉で作っている。長ねぎは厚めに斜め切りにし、椎茸は半分にカット。豆腐は木綿を使っている。彩りの青い野菜は春菊だ。
牛肉と長ねぎから出た甘みと旨味が木綿豆腐と椎茸に含まれ、とても良い味わいになる。
ブロッコリのおかかマヨネーズ和えは、こちらも時期のものだ。小房にして塩茹でしたブロッコリの粗熱を取って、マヨネーズを全体に薄くまとわせ、削りかつお節で和えた。
しゃくっとした歯ごたえの良いブロッコリに、マヨネーズとおかかの旨味がまとう。シンプルだが味わいの深い一品だ。
ひじきと大豆の炒め煮は、水で戻したひじきをごま油で炒め、水煮大豆を追加してさっと炒めたらひたひたのお出汁、砂糖、みりん、日本酒、醤油で煮て作る。
味出しのだめにお揚げも入れている。お揚げから出た優しい旨味を淡白なひじきが吸い、煮汁をまとった水煮大豆もふくよかになる。ほっとする一品だ。
「はい、お料理お待たせしました」
3品を台に乗せると、奥さんが「ありがとうございます」と言いながらそれらを受け取る。グラス2杯目のビールを半分ほど飲み、奥さんは「いただきます」と言いながらお箸を取った。
まずはひじきと大豆の炒め煮の小鉢を手にし、一口運ぶ。それをゆっくりと噛んだと思うと、田淵奥さんの目からほろりと涙が溢れた。これには佳鳴も千隼も驚いてしまう。
「お、奥さま? どうされました?」
「あの、お料理に何か?」
ふたりが慌てて聞くと、田淵奥さんはお箸と小鉢を置いて「いいえ」と首を振る。そして気分を落ち着かせるためか、ビールを一口飲んだ。
「ごめんなさい、あの、美味しくて」
そう言って、バッグからハンカチを出してそっと涙を拭った。
美味しくて? 佳鳴と千隼は顔を見合わせる。
「やっぱり、これぐらい美味しいご飯を作れんとあかんのかなぁ。私、がんばってたつもりやねんけどなぁ」
そう言うと、また新たな涙が浮かぶ。それもまたハンカチで押さえた。
もしかしてこれは、田淵さんとの喧嘩に関わることなのだろうか。佳鳴は恐る恐る聞いてみる。
「あの、差し出がましくてすいません。実は昨日田淵さんが来られた時に、奥さまと喧嘩をされていると聞いて。もしかして当店に何かありましたか?」
「いえ、いいえ、違うんです。このお店は全然悪く無いんです」
田淵奥さんは慌てて言う。
その時、店のドアが開く。見ると姿を見せたのは田淵さんその人だった。
「あれ、田淵さん? お早くないですか?」
千隼が言うと、田淵さんは「いやぁ」と笑う。
「営業先から直帰でええって言われて。ああ、まだ6時過ぎなんですね。って、あれ、沙苗さん?」
田淵さんは奥さんの姿を見て、大いに目を丸くする。
「ヨシくん」
田淵奥さん、沙苗さんは田淵さんをそう呼んで、ずずっと鼻をすすった。
「え、どうしたん沙苗さん。確かに今日も外で食べて帰るって言うてたけど。沙苗さんが怒ってる理由が判らんくて情けなくて悪いんやけど、でもあの」
田淵さんは焦ってせかせかと沙苗さんに近付いて来る。すると沙苗さんこそ情けない様な表情を浮かべた。
「ヨシくん、私悪い癖で、ふたりきりで家で話したら、また感情的になってまうと思って、それなら人目のある方が冷静になれるかなって。ここはヨシくんのテリトリーやから、私が来たらあかんかなって思ったんやけど、ここならヨシくん絶対に来るからって」
「感情的になっちゃうって言うのは、それは俺も確かにどうしたら良いのか困るけど、テリトリーとか無いで。沙苗さんが良かったら、ふたりで来たってええんだから」
「そうなん?」
「そうやで」
沙苗さんは少しほっとした様な表情になる。
「田淵さん、いらっしゃいませ。おしぼりをどうそ」
佳鳴がおしぼりを出すと、田淵さんは「あ、ありがとうございます」と受け取り、沙苗さんの隣に掛けた。そして沙苗さんが飲んでいる瓶ビールを見て。
「沙苗さん飲んでるんだね。じゃあ俺ももらおうかな。ビールで」
「はい。かしこまりました」
田淵さんは沙苗さんときちんと話ができるであろうことに安心したのか、表情を和らげる。佳鳴は瓶ビールとグラスを台に上げた。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
田淵さんが瓶ビールとグラスを取ると、沙苗さんが素早く瓶ビールを取り上げる。そして「ん」と田淵さんのグラスに注いだ。
「ありがとう」
田淵さんは嬉しそうにそれを受け入れる。沙苗さんは自分のグラスに残ったビールを飲み干し、新たに注いだ。それをふたりは自然に重ねた。
ふたりは喧嘩中、正確には沙苗さんが怒っているのだが、ここはさすが夫婦といったところか。
「ヨシくん、ここのご飯美味しいね」
「うん。そうやね」
「私、こんなに上手に作られへんで」
「え、沙苗さんのご飯、美味しいで」
田淵さんがきょとんとした顔で言うと、沙苗さんは「でも」と目を伏せる。
「ヨシくんはご飯がお惣菜でもお弁当でも構わへんのやろ?」
沙苗さんが言うと、田淵さんは「え?」と不安げな表情になる。
千隼も訳が判らないと言う様に首を傾げるが、佳鳴だけは心中で「あ〜そういうことかぁ」と納得し、密かに小さな息を吐いた。
田淵さんの返事を待っているのか、沙苗さんは黙したまま、またずっと鼻を鳴らす。
「奥さま、ここははっきり仰らへんと伝わらへんと思いますよ」
佳鳴が優しく言うと、沙苗さんは一瞬すがる様な目をしたが、すぐに、はっと目を開く。
「田淵さんがこんなことで怒ってしまう様な方で無いのは、奥さまが1番解ってはるでしょう。大丈夫ですよ。びしっと言っちゃいましょう!」
佳鳴はそうして軽くガッツポーズを作る。
「察してちゃんなんて、ええ女のやることや無いですよ」
だめ押しの様に言うと、沙苗さんは「そ、そうですよね」と目を伏せる。
「ちゃんと言わずに察して欲しいやなんて、虫のええ話ですよね」
沙苗さんは言うと、決心した様に顔を上げる。そして景気付けなのか、ビールをぐいと煽った。
「ヨシくん、あのね!」
少し声が大きくなったが、今は他にお客さまがいないので構わない。
「ヨシくんはご飯、私が作ろうがお惣菜やろうがお弁当やろうが、変わらへんってことなんやと思うんやけど」
沙苗さんが言うと、田淵さんは「え、そんな訳あれへんよ」と目を丸くした。
「沙苗さんが作ってくれんのが1番嬉しいに決まってるや無いか」
「でも、お惣菜とかでもええんでしょう?」
「だって、仕事の後にご飯作るんて大変やろ。せやから沙苗さんの負担が減るなら、惣菜とかでもええよって。でもその分、洗濯をもう少しやって欲しいって言うてもうたんは失敗やったかなぁって」
「うん。ヨシくんがそうやって帳尻を合わせようとしたから、もう私が作るご飯はいらんのやなって思った」
「ちゃうんや。洗濯と掃除は、外に任せるんやったら家政婦頼んだりせなあかんけど、ご飯は惣菜とかでもどうにかなるから、それができるんならその分また分担できたら、沙苗さんも俺も、負担が減るかなぁって思ったんや」
「そういうことでしたかぁ」
ようやく理解したと、千隼が声を上げる。
「そんなん、よほど料理が下手とかで無ければ、惣菜より手作りの方が美味しいし嬉しいですよ。田淵さんは単純に、奥さんの負担を減らすことを考えただけだと思いますよ」
「そうなん……?」
沙苗さんが驚いた様に目をぱちくりさせる。
「そうやで。そっかぁ、俺ら完全にすれ違ってしもてたんかぁ」
田淵さんは叫ぶ様に言って、頭を抱える。沙苗さんも恥ずかしそうに両手で顔を覆った。
「やだ、私ったら自分のことばかり考えてたのに、ヨシくんは私のことを思ってくれてたんやね」
「俺はそのつもりやったんだけど、そっかぁ、伝わってへんかったかぁ」
田淵さんはそう言って項垂れる。沙苗さんは「ごめんなさい」と素直に詫びた。
「俺の方こそ、言葉が足らへんかったよな。俺こそごめん。ちゃんと思ってることを言うべきやったんやんな」
「ううん。ちゃんと話ができて良かった。気遣ってくれてありがとう」
「こっちこそ嫌な思いをさせてごめんな。あのな、俺、沙苗さんのご飯好きやで。せやから毎日食べられたら嬉しいけど、そんなん大変やもんな。せやから惣菜とか弁当とか、外食でも、疲れてる時はそうしてくれて大丈夫やからさ。そうや、この店にもまたふたりで来ようや。ちょっとお酒も飲んでさ。沙苗さんお酒好きやもんな」
田淵さんが言うと、沙苗さんは嬉しそうに「うん」と微笑んだ。
数日後、営業中の煮物屋さんのドアが開かれる。
「こんばんは」
そう言ってひょこっと顔を出したのは田淵さんだった。その後ろには沙苗さんが。沙苗さんも「こんばんは」とにこやかに声を掛けてくれた。
「こんばんは。いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
佳鳴と千隼はそう言って笑顔で迎え入れ、おしぼりを用意する。
ご夫妻が仲直りをした奥の席は、今夜は門又さんと榊さんが占めていたので、ふたりは真ん中あたりに掛ける。
おしぼりを受け取ったふたりは、ほぅと気持ち良さそうに息を吐きながら手を拭いた。
「あ、田淵さん、こんばんは」
「こんばんわぁ」
田淵さんに気付いた門又さんと榊さんに声を掛けられ、田淵さんは「こんばんは」と笑顔で応える。
「ご一緒の方は、もしかして」
「はい、家内です」
田淵さんが少し照れ臭そうに言うと、門又さんと榊さんは顔を見合わせて、軽く口角を上げた。仲直りできたことを察したのだろう。
「奥さん初めまして。こんばんは」
「こんばんわぁ」
沙苗さんも笑顔で「こんばんは」と応えた。そして門又さんと榊さんは、またふたりの会話に戻って行った。
「店長さん、今日もお酒でお願いします」
「かしこまりました」
田淵さんの注文に、佳鳴と千隼はふたり分の料理を用意する。
今日のメインは根菜たっぷりの筑前煮。小鉢はなますと厚揚げのあんかけだ。
筑前煮の筍は水煮を使ったが、ごぼうとれんこん、人参に里芋は生のものを使っている。
鶏もも肉とこんにゃく、戻した干し椎茸と一緒にほっくりと煮込んでいる。干し椎茸の戻し汁も使うので、とても風味が良い。彩りは下茹でした絹さやだ。
なますは旬のみずみずしい大根と人参でシンプルに。甘酢で爽やかさが引き立つ。隠し味にレモン果汁も使っている。
厚揚げのあんかけは、お出汁をたっぷりと含ませた厚揚げに和風のあんをとろりと掛け、薬味のわさびをそっと添える。わさびはお好みだが、ぴりりと味のアクセントになる。
「お酒は何にされますか?」
佳鳴が聞くと、田淵さんはメニューを見ることも無く「瓶ビールで。スーパードライで」と応える。
沙苗さんはメニューを睨み付け、それを持つ手を震わせた。
「やだ……お酒の種類たくさんある……」
前回来られた時は、アルコールメニューをまともに見る余裕が無かった。今日あらためて見て、嬉しそうに目を輝かせた。
この煮物屋さんでは、プレミアが付かない、だが一般的に美味しいと好評の酒を多数用意してある。ウイスキーや焼酎、日本酒など。
普段プレミアが付いてしまうものは、運良く卸値で入荷できる時に期間限定で提供する様にしていた。
プレミアが付くお酒は確かに美味しい。だがそれに沿って高値で提供するのは佳鳴と千隼の思うところでは無かった。この店では気軽に美味しい料理と酒を楽しんでもらいたいと思っているからだ。
沙苗さんは「ううん、ううん」と唸りながらも、結局は「やっぱり最初はビールで」と注文をした。
「はい。かしこまりました。まずはスーパードライ1本お出ししますね」
手早くアサヒスーパードライの瓶ビールの栓を抜き、グラスを2客添えて台に上げる。
「お待たせいたしました」
田淵さんご夫妻がそれを受け取り、続けて料理も提供される。それもテーブルに移して、ふたりはビールを注いだグラスを小さく重ね合わせてぐいと煽り、そして料理も楽しみ始めた。
「やっぱり最初はビールが美味しいなぁ。あ、里芋おいしい。ほっくほく」
「厚揚げもすっごい出汁が染みてて美味しいわ。沙苗さん、食べてみいや。わさびと凄く合うで」
「……ほんまや。これなら私でも似た様なの作れるかな?」
田淵ご夫妻が酒と料理に舌鼓を打っていたその時、また店のドアが開く。入って来たのは山見さんご夫妻だった。
「こんばんは」
「こんばんは」
ご夫妻はにこやかに言いながら、空いている席に掛けた。佳鳴は「こんばんは、いらっしゃいませ」とおしぼりを渡した。
山見さんご夫妻は近くに座る田淵さんご夫妻に気付き、「こんばんは」と声を掛けた。田淵さんご夫妻も「こんばんは」と微笑んで応える。
すると山見奥さんが嬉しそうに口を開く。
「田淵さん、奥さまとご一緒なんですね。ええですねぇ。やっぱりね、夫婦は仲がええのが1番ですよ。そりゃあ喧嘩もたまにはあるでしょうが、そこは不思議なもんでね、どうにでもなるもんなんですよ。ええ、ほんまに、こうしてご一緒できるのが嬉しいですよ」
田淵さんご夫妻は、その言葉に照れた様に笑う。山見奥さんの横で山見旦那さんも嬉しそうだ。
「私たちはね、喧嘩と言うかね、相当家内に苦労も嫌な思いもさせたと思うんですよ。私が全部を任せてしもうてましたからね。でも家内は何も言わずに我慢をしてくれてね。でも今はそんな時代では無いですから。どうかご夫婦で支え合ってね、仲良うして欲しいなと思いますよ」
山見旦那さんの言葉に、田淵さんご夫妻は顔を見合わせて、ふっと笑みを浮かべる。
このすれ違いを経て、このご夫妻の絆はより深まったのだろう。それはとても素敵なことだ。
「すいませーん、ええと、雪の茅舎ください!」
そう言う沙苗さん。もうすっかりと元気だ。
雪の茅舎は秋田県の齋彌酒造店が造る日本酒である。すっきりと雑味が無く、フルーティな味わいが広がり、バランスがとても良いのだ。
「かしこまりました!」
佳鳴は威勢良く応えた。
そろそろ本格的に寒くなってくるだろうか。気温も下がり吹く風も冷たく、すっかりと冬の気配を見せている。
煮物屋さんに来られるお客さまも、ジャケットやコートを着込んでいる方が増えて来た。
この煮物屋さんではお持ち帰りも行なっている。常連さんの会社員の女性仲間さんは、今日もひょっこりと訪れ、持ち帰り用に用意した料理を手に笑顔で帰って行った。
今日のメインはおでんだ。冬先取りと言ったところか。
具は大根とじゃがいもにこんにゃく、厚揚げと牛すじ。牛すじはお箸でも食べやすい様に、ひと口大のものを爪楊枝に刺した。
かつおと昆布をメインにした優しい出汁でじっくりと煮込んだ。それが全ての素材にしっかりと吸い込まれ、ふくよかでほっとする味わいになる。
大根は米の研ぎ汁で下茹でしてあるので、繊維の中までしっかりと味が入り込んでいる。中まで味の沁みた大根はおでんの醍醐味とも言える。
こんにゃくも格子に包丁を入れているので、お出汁が良く絡む。
小鉢は冷や奴。薬味は塩もみしたきゅうりを柚子胡椒で和えたもの。持ち帰り用は薬味を別添えにしてある。
爽やかなきゅうりに柚子胡椒のぴりりが、淡白なお豆腐に良く合うのだ。
小鉢のもうひとつは、そろそろ旬の小松菜のマヨネーズポン酢和えである。ポン酢は佳鳴と千隼のお気に入りを入荷している。酸味の柔らかなものだ。
和え衣は小松菜に薄くまとう量にしてあるので、小松菜が持つ鮮やかな旨味を壊さない。
「家で録画した深夜ドラマ見ながら食べるんや〜」
そう仰っていたので、きっとお家でゆっくりと楽しまれるのだろう。
今、深夜ドラマは何を放送しているのだろうか。その時間、佳鳴と千隼は店の片付けをしていたり、風呂に入っていたりで、まぁ見る時間は無い。
そう言えば、定休日の月曜以外はゴールデンタイムのテレビを見ることも無いので、今流行りの歌やドラマなども良く分からなかった。
インターネットを漁れば情報などいくらでも入るのだが、特に必要だと思っていない。お客さまとの会話も、佳鳴たちの場合はその方が話が広がりやすいのだ。お客さまはご自分の知っていることを、嬉しそうに教えてくれる。
その代わり日々のニュースだけはきちんとチェックする様にしている。それは一般常識である。
「深夜ドラマ、俺も見てるわぁ。今ね、サスペンスのおもしろいのやってるんですよ」
「平日の遅い時間なんやから、録画して次の日見たらって言ってるのに、リアルタイムにこだわるんですよね〜。次の日仕事やってのに」
田淵さんがわくわくした様子で言う隣で、奥さんの沙苗さんが呆れた様に言う。
「だってそんなん待てへんって! 寝れへんって! 次どうなるんやろ、どうなるんやろって気になって気になって」
「そもそもヨシくん、そんなサスペンスとかって好きやったっけ?」
「いや。同僚に教えてもらってん。会社のな。原作の小説がおもしろいから楽しみにしてるって言われて、じゃあ俺も見てみるかなって。そしたらはまってしもてさ〜」
「じゃあもう今から視るんじゃ遅いですね。途中からじゃ解らへんのじゃ無いですか?」
佳鳴が言うと、田淵さんは「いやいや」と手を振る。
「まだ間に合いますよ。前回までのあらすじってのもありますし。興味があったら視てみてください」
そう言う田淵さんを、沙苗さんが小突く。
「ヨシくん、店長さんたちは多分お忙しい時間帯やで」
「あはは、そうかも知れませんね」
佳鳴が笑うと、田淵さんは「あ、そっか」と目を丸くする。
「この店が終わっても、なんやかんやありますかぁ」
「そうですねぇ」
佳鳴は応えて笑みを浮かべた。
数日後、また仲間さんが現れる。今回も持ち帰りたいとのこと。
「今日は友だちが来るから、一緒に食べるんや〜」
そう言ってふたり分をお持ち帰りされた。その日は週末だったので、家飲みでもするのだろうか。それは楽しそうだ。そういうシーンの食事を、この煮物屋さんを選んでくださるのは嬉しい。
その日のメインは豚の角煮だ。卵と大根も一緒に煮込み、盛り付ける時に塩茹でしたちんげん菜をたっぷりと添える。ちんげん菜の時期もそろそろ終わりだろうか。
小鉢は、ひとつは白菜とかにかまの甘酢和え。もうひとつはほうれん草のごま和えである。
豚ばらの塊肉は、白ねぎの青い部分と生姜を使ってしっかりと下茹でし、柔らかくするのと同時に癖と余分な脂を取り除いている。
半月切りにした大根は米の研ぎ汁で下茹でし、日本酒をたっぷりと使った甘辛の優しい味のお出汁でことことと煮た。
日本酒の効果で豚ばら肉はまた柔らかくなり、お箸でほろりとほぐせる。大根はほっくりと煮上がり、半熟に茹でた卵は取り出した煮汁に浸けたので黄身がとろりとしている。
半熟卵が苦手なお客さまもおられるので、一部は一緒に煮て固茹でにして、選んでいただける様にした。
お持ち帰りの場合は衛生的観念から固茹でを入れる。
白菜とかにかまの甘酢和えは、塩揉みした白菜と割いたかにかまを甘酢で和えた一品。太めの千切りにした白菜の芯はしゃきしゃきで、ざく切りにした葉もざくっとした歯ごたえ。
かにかまの旨味が加わり、甘酢で白菜の甘みと爽やかさが引き出されている。
白菜もそろそろ旬になり、葉のしっかりと詰まったぱんぱんのものが出て来るころだ。
ほうれん草のごま和えは、茹でたほうれん草にお出汁と日本酒、お砂糖とお醤油で作ったおつゆを絡め、すり白ごまをたっぷりとまとわせた。
ほうれん草の持つ旨味と白ごまの甘みと香ばしさが混じり合い、ほっとする味わいだ。
ぜひお家で楽しんでいただきたい。
その翌週末、また仲間さんがやって来た。今度は3人分を持ち帰りたいと言うことだ。
「今週も家飲みやで〜」
そう言って仲間さんは笑う。「それは楽しそうで良いですねぇ」、そんなことを言いながら佳鳴と千隼は料理を整えた。
その日のメインはじゃがいものそぼろ煮。
皮を剥いて適当な大きさに切ったじゃがいもをお出汁でことことと煮て、味付けは日本酒とお砂糖、お醤油で軽く付ける。
じゃがいもを引き上げたお出汁に、ぽろぽろに炒めた鶏もも肉の挽き肉とすり下ろした生姜を加え、一煮立ちしたら水溶き片栗粉でとろみを付ける。
器に盛ったじゃがいもに鶏そぼろあんをたっぷりと掛け、彩りに塩茹でした絹さやを添えた。
ほっくりと煮上がったじゃがいもに、ほのかに香ばしく仕上がった鶏そぼろあんが絡む。ほっこりと味わい深い一品だ。
小鉢のひとつは卯の花。人参に椎茸、水菜とちくわで具だくさんで作った。それもあって今回は小鉢より少し大きめな器に多めに盛り付ける。その分メインを控えめにしてある。
卯の花は味をどんどん吸ってしまうので、ほんの少し濃いめの味付けにしてある。それぐらいでちょうど良いのだ。
そこに様々な具材が絡み合って美味しさを生み出す。
水菜は鮮やかな色合いを残すために、最後の方に入れてさっと火を通すぐらいにしてある。そろそろ時期のもので、ぴんと張ったしっかりとした水菜が店頭に並ぶ様になる。
もうひとつはシンプルに、きゅうりとわかめの酢の物だ。塩揉みしたきゅうりと塩抜きした塩蔵わかめをお酢などで作った和え衣で和え、盛り付けたら白ごまを振る。
お手軽とも言える一品だが、こうしたさっぱりとした箸休め的なものがあると、他のお料理もぐっと引き立つ。もちろん酢の物そのものの味わいだって良いものなのだ。
さて、その翌日。土曜日である。18時になり、表におしながきを出して開店だ。
千隼が表から戻って来て間も無く、ドアが静かに開かれた。仲間さんだった。
「いらっしゃいませ〜」
「いらっしゃいませ」
佳鳴たちが出迎えると、仲間さんは憂鬱そうな表情で「どないしよ」と呟いた。どうしたことか? 佳鳴と千隼は顔を見合わせた。
仲間さんはふらりと中に入って来ると、まだ誰もいないカウンタ席の真ん中あたりに腰掛けた。そうして組んだ両手で額を支え、「はぁ」と溜め息を吐いた。
「仲間さん?」
佳鳴が声を掛けると、仲間さんはとろとろと顔を上げる。
「うっとうしくてごめんね。こんばんは」
「こんばんは。どうかされました?」
「自業自得なんやけど、やってもた〜ってね……」
そうして仲間さんは、また「はぁ」と溜め息を吐いた。
「どないしよ……」
そう呟いて、また溜め息をひとつ。注文を聞ける様な雰囲気では無かった。どうしたものかと佳鳴と千隼はまた顔を見合わせる。
「あの、仲間さん……?」
千隼がそっと声を掛けると、仲間さんは「ん〜」と唸る。
「店長さんとハヤさんにお嫁に来て欲しい……」
切実そうにそう言われ、佳鳴たちは思わず「は?」と声を上げてしまった。
「私、彼氏がいるんやけどね……」
仲間さんはそうぽつりと口を開く。
「あら、そうなんですね。それはお幸せですねぇ」
佳鳴が言うと、仲間さんは「そうだよねぇ〜」と机に突っ伏してしまう。
「ほら、最近料理持ち帰りにさせてもらってたやろ。それ、その彼氏と、昨日は彼氏の妹さんも一緒に食べたんやけど」
「はい」
「私、自分で作ったって言っちゃって〜……」
仲間さんは突っ伏したまま、悲鳴の様な声を上げた。
ああ、それは確かに良く無いかも知れない。佳鳴たちは仲間さんの料理の腕前は知らない。しかしそうしてしまうと言うことは、自信が無いのかも知れない。
佳鳴たちは眦を下げ、無音で「ああ……」と口を開いた。
「彼氏と結婚したくて、胃袋掴みたかってん〜……。彼氏のお母さんがお料理上手やって聞いて、負けたないって思って〜……。でもね!」
仲間さんはがばっと顔を上げる。
「料理ができひんってわけやないねん! ただ、味がなんか微妙で、こうお店で食べるご飯の様にならへんって言うか、私の母みたいにもならへんって言うか」
「普段はお料理されるんですか?」
佳鳴が聞くと、仲間さんは「たまに」と応える。
「平日仕事の時は疲れてるからなかなかできひんねんけど、彼氏と会わへん週末に作り置き作ってみたり。でもなんかいまいちなんよなぁ」
そう言って眉をしかめて首を傾げる。
「レシピとか見てますか?」
「うん、見てる。母からは料理の基本しか教わらへんかったから、家を出る時に基本の本を何冊か持たされた。野菜炒めの味付けなんかもそれで知ったぐらい」
「なら、問題無く美味しいものが出来ると思うんですが」
「やんねぇ。なのに微妙なものしかできあがらへんの。なんでやろか」
仲間さんはしょんぼりとうな垂れてしまった。
千隼が佳鳴を見て、何かを問う様に首を数回縦に振る。すると佳鳴がそれに応える様に、1度大きく頷いた。
「あの、仲間さん、もしよろしければなんですが、明日午後からお時間があったら、僕たちの仕込みをご覧になりますか?」
「え、ええの?」
千隼の申し出に、仲間さんははっと目を見開く。
「はい。仕込む量が多いのでどこまでご参考になるかは判りませんが、もしかしたら何かお伝えできたりすることもあるかも知れませんし」
「うわぁ、それは助かる! 嬉しい! いろいろ質問とかしてまうかも!」
「はい。私たちでお応えできることならなんでも」
佳鳴が笑顔で言うと、仲間さんは「やったぁ!」と小さくガッツポーズを作った。
「ほんまにありがとう! ああ、安心したらお腹空いて来てもうた。店長さん、お酒でお願い」
仲間さんは心底安心したと言う様に息を吐き、ようやく注文をするに至った。
「かしこまりました」
今日のメインは豚肉としめじと水菜のみぞれ煮。
豚肉をごま油で炒め、お出汁を張って煮込み、小房にほぐしたしめじを加えたら味付けは少し濃いめに、お砂糖と日本酒にお醤油。水菜を加えたらさっと煮て、すり下ろして軽く水気を切った大根をたっぷりと入れて一煮立ち。
大根を入れると味が薄まるので、濃いめの味付けにしたのだ。
すり下ろし大根を入れることでお出汁がふんだんに具材に絡まる。また大根に火が通ることで甘さが生まれ、全体がまとまり良い味わいになる。大根はこれからの時期もっと美味しくなる。
小鉢のひとつはトマトと黄パプリカのサラダ。ひと口大にカットしたトマトと黄パプリカに、ワインビネガーとオリーブオイル、お塩と黒こしょうで作ったシンプルなドレッシングを掛けた。さっぱりといただける一品だ。
もうひとつはペンネと玉ねぎの明太クリーム和えだ。塩茹でしたペンネと塩揉みした玉ねぎを、明太クリームで和えてある。
生クリームはしつこくならない様に、明太子を軽く溶きのばす程度にしてある。玉ねぎの爽やかさがあるので、想像するよりさっぱりといただけるのだ。
仲間さんは用意されたそれらにさっそくお箸を伸ばし、「はぁ〜」と嬉しそうな息を吐いた。
「みぞれ煮美味しいなぁ〜。あっさりしてるのに優しい〜。私も明日でこんな美味しいの作れる様になれたら良いなぁ〜」
そう言いながら、仲間さんは「サマーゴッデス」のソーダ割りをぐいとあおった。
サマーゴッデスは福井県の真名鶴酒造が造る、炭酸割り専用の日本酒である。ほんのりとした甘味とフルーティで爽やかな酸味が感じられる。炭酸で割っても水っぽくならない製法を用い、完成した一品だ。
翌日の日曜日、佳鳴と千隼が仕入れを終え、煮物屋さんに戻って来たのが15時少し前。
豊南市場は日曜日と祝日が定休日なので、その日の仕入れは地元のサンディ豊中曽根店でしている。店側にも事情を説明していて、お肉や野菜の大量買を融通してもらっているのである。
15時をほんの少し過ぎたころ、店のドアが開かれた。
「店長、ハヤさんこんにちは。今日は本当によろしくね」
仲間さんだ。少し照れ臭そうに中に入って来た。
「こちらこそよろしくお願いします」
「お願いしますね。エプロンは持って来てもらえましたか?」
千隼の問いに、仲間さんは「うん!」と元気に応え、手にしていたナイロンの袋からがさごそと、スモーキーピンクの大振りな花柄のエプロンを取り出し、ばさっと広げた。
「持ってへんかったから、さっきダイエーで買うて来た」
「えっ、わざわざ。それは申し訳無いことをしました」
千隼が焦って言うと、仲間さんが「いやいや」と笑って首を振る。
「考えてみたら、普段から料理をする人間の家にエプロンが無いのがおかしいんよね。今はエプロンしない人も多いみたいやけど、ほら、エプロン姿って言うのも、彼氏へのええアピールポイントになるやろか、なんて思って」
仲間さんはそう言って「へへ」と笑い、エプロンを着ける。仲間さんは目鼻立ちがはっきりしたお顔立ちの女性なので、その華やかなエプロンがとても良く似合った。
「じゃあ始めましょうか。野菜など切っていただくのは大丈夫ですか?」
「もちろん。そこは即戦力になれると思う」
「では、僕が作る煮物を手伝っていただきますね。横で姉が小鉢と汁物を作るので、それもご覧いただけるかなと思います」
「うん。楽しみ」
千隼は買い出ししてきたばかりの食材を台に出して行く。
「まずはかぶの下ごしらえです。僕が洗うので、切って行ってください。葉も使うので、落としたらとりあえずこのバットに入れておいてください」
「オッケー。かぶに茎は残す?」
「いえ、完全に落としてしもてください。もし砂が残ってしもたらあかんので。で、かぶは皮を剥いたら縦に4等分にしてください」
「かぶって、皮は厚めに剥くんやんね?」
「はい。薄く剥くと繊維が残って舌触りが悪くなってしまうんで。繊維を落とす様に剥いてください」
「分かった」
千隼がかぶを洗い、まな板に上げて行く。それを仲間さんが下ごしらえして行った。見るとなかなかの手際の良さである。
かぶもそろそろ時期だ。青々とした葉が目に眩しい。身にはたっぷりと甘さを蓄えている。
「仲間さん、すごいですね」
「ふふん。味付けは微妙でも、切ったり剥いたりは人並みにできるんやで〜」
そう得意げに言い、手を動かして行く。洗い終わった千隼もかぶ剥きに加わった。
次は落としておいたかぶの葉だ。残った身を落として、根元に残っている砂をしっかりと洗い落としたらざくざくと切っておく。
次は人参だ。へたを落としてピーラーで皮を剥いて乱切りに。
椎茸は小振りなものなので、石づきを落とすだけでちょうど良い。
お揚げは湯を沸かした鍋にさっと入れて、余分な油を抜いておく。
「さ、ここから調理です」
土鍋を出してかぶ、人参を入れてお出汁を張り、火に掛ける。ふつふつと沸いて来たらお揚げを加え、再び沸いて来たら椎茸を入れ、落としぶたをする。そのままくつくつと煮込んで行く。
「かぶって実は火通りが早いんよね?」
「そうなんです。根菜なんですけど、大根とかじゃがいもなんかと違うて、早いんですよね。それに形も崩れやすいんで、あまり触らずに手早く煮て行くんですね」
「なんか意外やよね〜。あ、私無駄に知識だけはあるんよね〜」
そうして5分も煮たら、落としぶたを上げて味付けだ。まずは甘み。砂糖、そして日本酒。
千隼が軽量スプーンで砂糖を、軽量カップで酒を計ると。
「えっ?」
仲間さんが驚いた様な声を上げた。
「え?」
千隼も驚いて顔を上げる。
「え、調味料計ってるん?」
「はい、計りますよ。お客さまには安定した味をご提供したいので」
「そうなん?」
「そうですよ。あ、仲間さんもしかして」
これはもしや。
「調味料とか計らず、目分量で入れていましたか?」
「うん。だって母もそうしてたし。料理本見たら分量書いてあるから、そんな感じにはなる様に入れてるけど」
「仲間さん」
千隼はぐっと唇を引き結ぶ。仲間さんはその様子にただならぬものを感じたか、緊張を帯びた表情になった。
「それです」
「それ、とは」
「微妙な味付けになってしまう、そう仰っていた原因です」
「そうなん!?」
「そうです」
声を上げる仲間さんに、千隼は力強く頷いた。
「えええ? じゃあなんで母の料理は目分量やのに美味しかったん?」
「それは長年の経験です。お母さまも、お料理を始められたころにはきちんと計っておられたと思いますよ。そうしていると、大さじ1はこれぐらいだとか、おおよその量が把握出来る様になって来ます。そうしたら目分量で作れる様になるんです。ほとんどの方はそうです。いきなり目分量で作る方は少ないと思います。僕も今でこそお店意外では目分量で作りますが、料理し始めは全部計ってました」
「そうなんや、そうなんやぁ……そんな初歩的なことやったんやぁ……」
仲間さんは力が抜けた様に、台に両手を付いてうな垂れた。
「ああ〜……でも原因が解ったから、私でも美味しいご飯作れるやろか」
「はい。大丈夫です。今作っている煮物と、姉が作っている小鉢のレシピをお渡ししますから、お家で調味料の分量を計って作ってみてください。軽量スプーンとカップはお持ちですか?」
「ううん、持って無い」
「ではぜひ買ってください。100均でもありますから。ダイエーにキャン・ドゥ入ってますよね。それかシルクのワッツか。今は便利なものも出ているんですよ。1カップと大さじ1が両方計れるものとか。ご自分で使いやすそうなものを見てみてください。粉を計るのはスプーン状のが良いかも知れないですね。ご一緒にキッチンタイマーも揃えられたら良いと思いますよ。これも100均にありますから」
「じゃあこれ終わったらさっそく行ってみる。そっかぁ、それで解決できるんなら助かるわ。実はさ、彼氏の妹さんと3人で食べたって話、昨日したと思うんやけど」
「はい」
「もうすぐお母さまの誕生日なんやって。で、妹さんがお母さまに料理を作ってサプライズしたいんやってさ。彼氏が妹さんに「俺の彼女料理巧いで」って言うてもて、じゃあ教えて欲しいって話になってもてさ。妹さんも美味しい美味しいって嬉しそうに食べて、これならお母さんも喜んでくれるねなんて言われちゃ、実は私味付け微妙なんて言えへんで。嘘吐いたことを知られるもの嫌だったけど、妹さんが本当に嬉しそうだったから」
仲間さんが苦笑しながら言うと、小鉢を作っていた佳鳴が「ふふ」と笑みをこぼす。
「ええや無いですか。一緒に計量しながらお作りになられたら良いですよ。実際計量することは大事なんですから。まだ実は私もそんな慣れて無いねんなんて言いながら作ったらええんですよ。きっと楽しいと思いますよ」
すると仲間さんは、安心した様に表情を綻ばせた。
「そうやろか」
「はい」
千隼も笑って言うと、仲間さんは「そうかぁ〜」と嬉しそうに笑みを浮かべた。
作り終えると、仲間さんは「家に帰ってさっそく作ってみたいから!」と、「これお礼!」とアルチザンの焼き菓子詰め合わせを置いて、レシピとエプロンをバッグに大事にしまって、飛び出す様に帰って言った。
お菓子のアトリエアルチザンは曽根を本店に、豊中市内に数店店舗を持つ洋菓子店だ。佳鳴と千隼が産まれる前から展開していて、地元で親しまれているお店である。
佳鳴と千隼が誕生日の時などのケーキもアルチザンで用意してもらうことが多かった。幼いころから慣れ親しんだ味なのである。
講習代の様なものも支払うと言われたのだが、むしろこちらは下ごしらえを手伝っていただいたこともあるし、そもそも最初から受け取る気は無い。佳鳴が言うと仲間さんは空気を読んですぐに引き下がってくれた。
仲間さんを見送って、佳鳴と千隼は夕飯だ。今日のメインはかぶと人参とお揚げの煮物、小鉢はピーマンのじゃこ炒めと、豚しゃぶとホワイトアスパラガスのサラダだ。
煮物のかぶは丁寧に繊維を落としているので、とろっと舌の上でとろける様だ。人参もほっくりと仕上がっている。
お揚げから出る程よい油と旨味がかぶと人参に絡み、優しくも味わいのある味にできあがった。かぶの葉も入れてあるので彩りも綺麗だ。
ピーマンのじゃこ炒めは千切りピーマンとおじゃこをごま油で炒める。おじゃこに塩分があるので、味付けはピーマンを炒めている時に少しお塩をする程度。
お醤油も香り付け程度で、器に盛ったら白ごまを振っている。
ほのかな苦味のあるピーマンとおじゃこが絶妙に合い、白ごまの香ばしさが合わさって、また深い味わいを生むのだ。
ピーマンもそろそろ旬が過ぎる野菜だ。張りのある肉厚なピーマンをぜひ食べ納めていただきたい。
豚しゃぶとホワイトアスパラガスのサラダ、ホワイトアスパラは缶詰を使う。
佳鳴と千隼のお気に入りはクレードルという北海道札幌市のブランドだ。北海道産の旬のアスパラガスを缶詰にしているので、風味も豊かで甘みが強くて美味しいのである。
お湯で豚肉を茹でる時は、弱火に掛けて静かなところに入れて、ゆっくりと火を通す。ぐらぐらと沸騰したお湯に入れると豚肉は固くなってしまうのだ。
冷ましてからひと口大に切り、適当な長さに切ったホワイトアスパラガスと合わせて、器に盛り付けてからヨーグルトソースをとろりと掛けた。さっぱりといただける一品だ。
「仲間さん、巧く行くとええなぁ。うん、かぶがとろっとして美味しい」
「そうやな。お、豚しゃぶ旨い。ヨーグルトソースが合うな。しかし姉ちゃん、またレシピ教えちゃってさぁ」
「出し惜しみする様なものや無いやろ?」
「確かにそうやけどさぁ。ま、仲間さん喜んでくれたしな」
「うん。それが1番やで」
ふたりはただ、こうなったら成功を祈るのみである。
翌週の終わり頃、また仲間さんはやって来た。今回はお客さまとしてだ。
「この前はほんまにありがとうね」
「いえ、とんでもありません。作ってみましたか?」
聞くと、仲間さんは少し興奮気味に口を開く。
「うん! 計量カップとスプーンとタイマー、キャン・ドゥで買うてね。レシピ通りにちゃんと計って、時間も測って作ったら、ちゃんと美味しいのができた。感動してしもた。ほんまに計量の大切さをしみじみと思い知ったで〜」
「それは良かったです」
佳鳴が言って微笑むと、仲間さんは「ふふ」と笑みを浮かべた後、小さく溜め息を吐く。
「でね、彼氏の妹さんに教えるの、今週末に決まってん。明日やね。ちゃんとできるか不安やで」
「大丈夫ですよ。でもそうですね、それまでに何回か作って、もっと慣れておくと良いかも知れませんね。あ、でも明日ですか」
「やっぱりそうやんね。だから平日しんどいけど、できるだけ作る様にしとった。今日はちょっと休憩。さすがに疲れたわ〜」
「さすがです。何を作るんですか?」
「妹さんのリクエストは煮込みハンバーグやねん。持ってる本の中に美味しそうなレシピがあったから、それにしようと思って。ソースはデミグラス缶とトマト缶をアレンジするから、これやったら私でも作れるかなって」
「作ってみたんですか?」
「うん、聞いた日にさっそくね。玉ねぎのみじん切りなんかは元から出来るから、そこはどうにかなったし、味付けはちゃんと計って作ったから、ちゃんと美味しくできた。ほっとしたわ」
仲間さんは言って、またほぅと息を吐いた。
「ほんまに良かったです。慣れたらアレンジも出来ると思いますよ。ハンバーグの中にチーズを入れたり、ソースにきのこやグリンピースなんかを入れたり」
佳鳴のせりふに、仲間さんはごくりと喉を鳴らす。
「それ絶対に美味しい! 野菜もたくさん摂れるし。ううん、でも明日は変な冒険はせえへん。失敗してまう方が怖いもんな。野菜はサラダとか食べてもらおう」
「そうですね。明日はそれが良いかも知れませんね」
「巧く出来たらええな。あ、注文良いかな。お酒で」
「はい、かしこまりました」
今日のメインは治部煮だ。鶏肉とたっぷりの根菜ときのこを使ってある。彩りは塩茹でした小松菜で添える。
鶏肉に小麦粉をはたいて煮込んでいるので、煮汁にほのかなとろみが付き、それがお野菜にたっぷりと絡むのだ。お出汁を効かせた優しい味である。
小鉢はふろふき大根とコールスローだ。
ふろふき大根はお米の研ぎ汁で下茹でした輪切り大根を、お出汁でじっくりと炊いたので、中まで豊かな味が沁みている。それに辛さ控えめのからし味噌が良く合うのだ。
コールスローの和え衣は、マヨネーズにレモン汁を混ぜて、さっぱりとなる様にしてある。太め千切りのきゃべつを塩揉みして水分を絞ったら、短冊切りのハムと合わせて和え衣と混ぜ、器に盛ったら黒こしょうを掛けた。
きゃべつは冬きゃべつがそろそろ出回る。切るとじわりと水分が出て来て、なんともみずみずしい。
「ねぇ店長さん、ここのご飯って味とかのバランスもええっていつも思ってるんやけど、そういうのも慣れたらできる様になるやろか」
「ええ。こういうのも慣れですから」
「そっか、頑張ろ。ん、この煮汁、とろっとしてて野菜とかにしっかりと絡みついてくる。美味しいな〜。ふろふき大根も辛さ控えめで優しいなぁ。コールスローもちょっとした酸味がええよね。こういうんもバランスやんね。しかもどれも美味しいんやもんなぁ〜」
「ありがとうございます」
仲間さんは全ての皿をひと口ずつ食べ、満足げにサマーゴッデスのソーダ割りを傾けた。
さて翌週。月曜日は定休日なので、火曜日。煮物屋さんが開店してぼちぼちと席が埋まり始めたころ。仲間さんが元気な姿を現した。
「店長、ハヤさん、巧くできた!」
ドアを開けるなりそう言って、コートを脱ぐのもそこそこに、空いている席に慌ただしく掛ける。そして「お酒でね」と注文をする。
「いらっしゃいませ。彼氏さんの妹さんへのお料理ですか?」
佳鳴がおしぼりを渡しながら言うと、仲間さんは「そうそう」と嬉しそうに頷く。
「その日のお昼にも作ってみてん。晩ご飯と続いてまうけど、不安になってもて。連続して作ったからやろか、リラックスして作れたって言うかね。ふふ、妹さんとちゃんと計りながら楽しく作れたで。で、美味しくできた!」
「ほんまに良かったです。じゃあ彼氏さんの妹さん、喜ばはったでしょう」
「うん。でね、ちゃんと妹さんにも「計量は大事」って言っておいた。ハヤさんの受け売りやけど、私も今回のことでしみじみと思い知ったからね〜」
「そうですね。慣れるまではそれが良いと思いますよ」
千隼が言うと、仲間さんは「うん。でね」とまた頷く。
「目標は計量無しで、目分量で作れる様になること!」
そう言ってぐっと拳を握った。
「ならもっと料理をしないとですね」
「うん。平日はやっぱり凝ったん難しいけど、休みの日とか頑張ってみるわ。彼氏も食べに来るしな。結婚もしたいし。ちゃんと自分の手で胃袋掴むねん! あ、日本酒のソーダ割りお願いね」
「はい、かしこまりました」
そうして整えた料理を出して行くと、仲間さんが「あ」と少しばかり驚いた様な声を上げた。
「煮込みハンバーグ!」
勢い込んで飛び込んで来られたからか、表のおしながきをご覧になっていなかった様だ。
「はい。仲間さんのお話を聞いていたら作りたくなってしまって。仲間さんにはハンバーグが続いてしまいましたね。すいません」
千隼が言うと、仲間さんは「ううん」と首を振る。
「ソースも私が作ったのと色が少し違うし、きのことグリンピース入ってる。これ、マッシュルームとしめじとエリンギ? 美味しそう! じゃあもしかして中にチーズ入ってる? ろくにメニューも見ずに入ったからびっくりしてしもた。じゃあお酒、ワインとかにすれば良かった。後で頼もう」
「はい。チーズ入れちゃいました」
「やったぁ! チーズハンバーグ美味しいやんね! ソースはこの色ってことはデミグラスソース?」
「はい。家庭でも作れる様に改良したレシピで。さすがに洋食屋では無いので、いちから作ることは難しすぎて」
「いただきます!」
仲間さんはまずサマーゴッデスのソーダ割りをぐいと半分ぐらい飲んでしまうと、いそいそとお箸を取る。
豪快に真ん中から割ると、透明な肉汁がじゅわりと、そして溶けた黄金色のチーズがとろりと流れ出て来た。仲間さんは「ああん」と嬉しそうな声を上げる。
「これこれ! 私でも作れる様になるやろか」
「ハンバーグが美味しく作れるんですから大丈夫ですよ。今度試してみてください」
「うん」
そうしてチーズとソースをたっぷりと絡めて口に放り込む。そして「んん〜」と満足げな声を上げた。
「美味しい……やだもうほんまに美味しい……すごい美味しい……チーズがとろっとろでお肉がふわっふわで」
そう言ってうっとりと目を細めた。
メインにボリュームがあるので、今日の小鉢はひとつ。カリフラワととうもろこしのピクルスだ。玉ねぎも使ってあるので、デミグラスソースをさっぱりとさせてくれる。
とうもろこしは缶のものを使った。夏の旬の生もとても美味しいが、缶のとうもろこしも捨て難い旨味が詰まっている。
サマーゴッデスのソーダ割りを挟みつつそのピクルスを口に入れ、「これお酒にも合うね」と言って、残りのソーダ割りを飲み干してしまった仲間さん。さすがのハイペースだ。
「次赤ワインで。ちょっとこれはゆっくりと楽しみたいなぁ」
「かしこまりました」
そうして仲間さんはワイングラスに用意した赤ワイン「イエローテイル」のピノ・ノワールをゆったりと口に含み、はぁ〜と満足そうに息を吐いた。
イエローテイルはオーストラリア産の赤ワインである。様々なぶどう品種の展開があるが、このピノ・ノワールはベリーの様な酸味が感じられ、やわらかに旨味が広がる赤ワインである。
「あとは、彼氏と妹さんのお母さまが喜んでくれたらええなぁ」
「大丈夫ですよ。まずは娘さんの手作り料理ですもの」
「そうやね。味はもちろんやけど、そういうのええよね。本当にええ子なんよねぇ、妹さん。私、将来良いお義姉ちゃんになれるやろか、なりたいな〜」
仲間さんはまたちびりとワイングラスを傾けて、幸せな未来にふうわりと思いを馳せた。
冬の気配もすっかり濃くなり始め、息もそろそろ白くなるだろうか。朝ベッドから出るのが嫌になるだろうかというころ。
煮物屋さんの常連さんで、毎週日曜日の遅めの時間に来るお客さまがいる。いつもはつらつとしていて、大きな声で笑う、とても気持ちの良い女性だ。
今日は日曜日。そろそろ21時になるだろうか。佳鳴は厨房に置いてある小さな置き時計に目を走らす。
そのタイミングで、煮物屋さんのドアが開かれた。
「こんばんは!」
鼻を赤くして元気な挨拶とともに入って来たのは、先述の女性の常連さん、高橋さんだ。
「こんばんは、いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませー」
高橋さんはせかせかとコートを脱いで椅子に掛け、千隼からおしぼりを受け取った。
「あ〜お腹ぺっこぺこやぁ。ハヤさん、まずはハイボールください! お米とお味噌汁はいつも通り締めにいただきますね」
「はい。かしこまりました」
この高橋さん、とても良く召し上がるお客さまで、まずはお酒を飲みながら料理を食べ、その後に白米と味噌汁を召し上がられるのだ。
カナディアンクラブという銘柄のカナディアンウイスキーでハイボールを作ってお渡しし、続けて料理を整える。今日のメインは豚肉と長芋の煮物。彩りはほうれん草だ。
豚肉はロースの塊肉を買うことができたので、贅沢に厚めに切り、軽くお塩を振ってフライパンで香ばしく焼き付ける。
長芋は半月切りにし、こちらも厚めに切ってある。火を通すとほくほくになる長芋のお陰で煮汁にほのかにとろみが付き、豚肉に良く絡む。味沁みも良く、柔らかな旨味が口に広がる。
小鉢はタラモサラダと青ねぎたっぷりの卵焼きだ。
タラモサラダは明太子を使った。マヨネーズは控えめに、明太子のぷちぷちとふくよかな辛みを活かす。
荒く潰したじゃがいもに和えるので、和え衣は少し強い味でも大丈夫なのだ。隠し味に、じゃがいもが熱いうちにバターを落としている。
少しぴりっとしつつもしっかりとした甘さと旨味が感じられる一品だ。
青ねぎの卵焼きにはお出汁を加えてあるので、青ねぎの爽やかなアクセントがありながらも優しい味わいである。
「あ〜っ、ハイボールが沁みるぅ。この煮物、白いのが長芋ですよね?」
「そうですよ」
「長芋のこんな食べ方、私初めてです!」
高橋さんはさっそく長芋をお箸で割り、口に入れる。そして「へぇ〜」と目を丸めた。
「ほっくほくやぁ。あ、でもそっか、串かつの長芋もほくほくですもんね。長芋って火を通すとこうなるんですよね。美味しいです! 豚肉も美味しいです!」
「ありがとうございます」
「タラモサラダとか卵焼きとか、こういうのも作るんって地味に面倒やったりしますもんね。だから嬉しいです! ここで食べたら確実に美味しいの判ってますから!」
「ふふ、ありがとうございます」
高橋さんの称賛に、佳鳴は笑みをこぼす。こんなことを言ってもらえて、嬉しく無い訳が無い。
「あ、高橋さん、お預かりしていたフライヤー、終わりましたよ」
「ほんまですか!? ありがとうございます!」
千隼のせりふに、高橋さんはぱぁっと満面の笑みを浮かべた。
「ほんまに助かりました! そう数を刷った訳や無いので、ノルマも多くは無かったんですけど、実際問題、いつもどこに配ったらええんやって話で。会社で配っても限度がありましたから」
高橋さんが心底ほっとした様に笑みを浮かべると、少し離れた席から声が上がった。常連の男性、赤森さんだ。
「高橋さん、俺もフライヤーもらったで。絶対に観に行くからな!」
「わぁ赤森さん、ありがとうございます!」
赤森さんの活きの良いせりふに、高橋さんは笑顔を投げた。
この煮物屋さんで、高橋さんが所属する小劇団の公演のフライヤーを預かっていたのだ。それを会計の時にお客さまに手渡ししていた。
ハガキサイズなので店内で場所を取ることも無く、お客さまも受け取りやすかった様だ。
劇団員のおひとりがデザイナーで、その方が制作を手掛けたのだと言う。確かに素人臭さのまるで無い、格好良いフライヤーだった。
「もう来週なんですねぇ。練習はどうですか?」
佳鳴が聞くと、高橋さんは「順調です!」と元気に応える。
「まだまだ拙いって解ってはいるんですけど、皆一生懸命です。少しでもええもんを観てもらうんやって。お話そのものは著作権の切れた名作の現代版アレンジですから、オリジナル脚本よりは馴染んでいただけるかなって思うんですけど」
「そうですね。取っ掛かりがあれば、ご覧いただきやすいでしょうしね」
「それはそれで、ご覧いただく方との解釈違いとかもあるかと思うんですけど、そこは違いを楽しんでいただきたいです」
「奥が深いんですねぇ」
高橋さんは舞台女優さんなのだ。ご本人は「そんな大げさなものじゃ無いですよ」と謙遜されるが、1度舞台に立てば、そしてそれを継続されているのなら、もう立派な女優さんだと佳鳴たちは思っている。
高橋さんいわく、これは「クラブ活動」の延長の様なものなのだと言う。毎週日曜日の夜の2時間ほど、梅田のスタジオを借りてストレッチや発声練習をしているのだ。
そして本番は1年に1度。発表会の様な感覚らしい。舞台と客席の境があまり無い様な小さな劇場をレンタルする。
お客さまからいくばくかの入場料をいただくが、それは全て経費に消える。
気楽に活動をしてはいるが、決してふざけていたり手抜きをしている訳では無い。皆さん、楽しみながら真剣なのだ。それは高橋さんの話からも伝わって来る。
年に1回の本番前、その週だけは毎日練習をするのだと言う。
「来週は毎日練習です。せりふを覚えたりは個人で家でも出来ますけど、合わせるのはそうも行かへんですからね。本番まで少しでもええもんにしたいですから」
「私たちも拝見したいんですけど、お店がありますからねぇ」
公演日は来週末の日曜の晩、1回公演である。
「思い切って休みにしてまえば? あ、高橋さん、私たちも観に行くからねー」
門又さんが言い、榊さんと並んで高橋さんに手を振った。
「ありがとうございます!」
高橋さんは門又さんたちにがばっと頭を下げる。
「そうですねぇ」
佳鳴はふわりと笑う。
「ふふ、そんなことを言われたら揺らいじゃいますねぇ。前の時も拝見出来ませんでしたからねぇ」
高橋さんがこの煮物屋さんの常連になってから、今回が2回目の公演なのだ。前回の時もフライヤーをお預かりした。
まだ煮物屋さんに来始めたころの高橋さんが、フライヤーの束を手に大きな溜め息を吐かれていたものだから、佳鳴がつい声を掛けてしまったのだ。
するとフライヤーの配り先に困っていると言うので、煮物屋さんでお預かりすることにしたのだった。
「でも店長さぁん、まだ1週間もあるからぁ、今からやったらお休みするって言っても大丈夫や無ぁい?」
榊さんの言葉に佳鳴は「そうですねぇ……」と唸ってしまう。
高橋さんの公演を見たいのは本心なのである。劇団のことを話す高橋さんは本当に楽しそうできらきらしていて、そんなにも打ち込めるものがあるのが羨ましい、そして素晴らしいと、微笑ましく思っているのだ。
そんな佳鳴の気持ちを千隼も知っているので、千隼は「たまにはええんや無いか? 姉ちゃん」と軽く声を掛ける。
「ここ始めてから月曜以外の休みって無かったやん。今からチラシとか貼って周知したら大丈夫やって。たまには2連休しようや」
千隼にも言われ、佳鳴は心を決めた。
「じゃあそうさせていただこうかな。申し訳ありません皆さま、来週末の日曜日はお休みをいただきますね」
佳鳴が言ってカウンタの向こうに頭を下げると、お客さま方は「はーい」「楽しんで来てね〜」と暖かい言葉を掛けてくださった。
「店長さんとハヤさんにも来ていただけるなんて、本当に嬉しいです! がんばりますね!」
高橋さんは本当に嬉しそうに満面の笑みを浮かべ、佳鳴と千隼も笑顔を返した。