ことことと火に掛けた大きな土鍋からは、温かな湯気とほっとする豊かな香りが立ち上る。

 千隼(ちはや)は煮汁を少量スプーンですくい、そっと口に運ぶ。

「うん。今日も美味しくできとる」

 そう満足げな表情で口角を上げた。

 横では佳鳴(かなる)もせっせと手を動かす。大きな平ざるの上では、塩茹でした旬のスナップえんどうが丘上げされていて、そろそろ粗熱も取れている。

 そのスナップえんどうは二等分に斜め切りにし、こちらも旬の生わかめと合わせる。生わかめは水で洗ってしっかりと水分を切り、ざくざくとひと口大に切ってある。

 大きなステンレスボウルで作った和え衣は、マヨネーズをポン酢で軽く伸ばしたもの。

 そこにスナップえんどうと生わかめを入れ、シリコンヘラで底から混ぜ合わせ、全体に薄く和え衣をまとわせる。

 スナップえんどうと生わかめのマヨポン酢和えのできあがりだ。

 もう一品は菜の花を使う。茎と葉を分けてひと口大に切り、時間差を使ってさっと茹でてあくを抜き、冷水に取ったら水分を絞る。

 和え衣は煮切ったみりんとお砂糖にお醤油、風味付けに昆布茶、たっぷりの白すりごま。こちらも大きなボウルで和えて行く。

 菜の花のごま和えの完成だ。

「千隼、小鉢できたで」

「おう。こっちももうできるで」

 本日のメインは和風ポトフだ。お出汁(だし)に日本酒とお砂糖、薄口醤油でシンプルに味を整えて、使う食材は鶏もも肉、春きゃべつ、新じゃがいも、新玉ねぎ、春人参、アスパラガス。

 ポトフのきゃべつは(しん)を残してくし切りにして使うことが多いが、煮物屋さんでは量の加減がしやすい様に、大きなざく切りにしている。

 新じゃがいもは皮付きのまま半分に、新玉ねぎは芯を残して6等分にくし切り、春人参は厚みのある輪切りに、アスパラガスは斜め切りで適当な長さに。

 それぞれをフライパンで焼き目を付けてから煮込んでいる。

 アスパラガスは色合いを残すために、お出汁を取り分けて単体で軽く火を通し、器に盛り付けてから添える。仕上げに黒こしょうをぱらりと振って。

 さて、まかないを兼ねての味見の時間だ。表に出すおしながきの写真撮影もつつがなく済ませる。

 プリンタが立てるががっという音を背景に、佳鳴と千隼はカウンタに並んで「いただきます」と手を合わせた。

 佳鳴はまずお味噌汁に手を伸ばす。

 今日は厚揚げと三つ葉のお味噌汁だ。厚揚げでお味噌汁を作り、生の三つ葉を入れたお椀に注ぐ。そうすると三つ葉の香りがふわりと上がり、食感も保たれる。

 厚揚げの旨味がお味噌汁に溶け出して、清涼感のある三つ葉と合わさり、なんともほっとするふくよかな味に仕上がっている。

 次はマヨポン酢和え。スナップえんどうとわかめの風味を生かすために、和え衣は最小限にしてある。

 だがスナップえんどうの青みと生わかめの磯の香りが、和え衣をまとうことによって調和するのだ。

 和え衣にポン酢を使っているので、マヨネーズの濃さは和らいでいる。

 肉厚のスナップえんどうの食べ応えと、しゃくっとした生わかめの食感が面白い。

 次にごま和え。少し苦味のある菜の花は、茹でてあくを除くことで和らぎ、旨味が増す。

 そこに香ばしい白ごまをまとわせることで、春の味覚が完成するのだ。

 さくっと噛みしめると、心地の良い柔らかなほろ苦さと爽やかな旨味が広がり、白ごまの甘さが合わさって、たまらない風味となる。

 最後に和風ポトフ。煮込む前に材料を焼き付けているので、煮汁に香ばしさが溶け出し、それがこくと旨味のひとつになっている。

 煮汁に溶け出ているのはそれだけでは無い。食材のひとつひとつからも甘みや旨味が溶け出して、それぞれに相乗効果を生み出している。

 とろっとした玉ねぎと春きゃべつ、ほっくりとなった新じゃが、さくっとした春人参とアスパラガス。それぞれの歯ごたえを楽しみながら、旨味たっぷりの煮汁をまとった季節の野菜をじっくりと味わう。

「千隼、ポトフ凄っごい美味しいで。良くできてるねぇ」

「小鉢も美味いで。今日も上出来やな。見事な春メニューや」

「うん。もうすっかり春やもんね。新ものがたくさん出回ってて、お買い物も楽しいよねぇ」

 そう、外ではもうすっかりと春の風情だ。満開の淡い桜色が空を染め、開き切ったものははらりと落ちてまだらに絨毯を作っている。

 今日は土曜日なので、お弁当やお酒などを用意して、お花見をしている人も多いだろう。明日は日曜日だし、夜桜目当てに洒落込む人も多そうだ。美しくライトアップしている公園も多い。

「なぁ姉ちゃん、明後日の月曜日、弁当でも買うてぞうさん公園に花見にでも行く?」

 ぞうさん公園、正式名称は桜塚(さくらづか)公園と言う。そう大きな公園では無いが、桜の名所として地元で知られている。大きなぞうの滑り台があり、ぞうさん公園の愛称で親しまれているのだ。

 最寄り駅は曽根駅のひとつ北側の岡町駅だが、曽根岡町間は距離が短く充分徒歩圏内なので、家から歩いて行けるのである。

「あ、ええねぇ。どこで買おうか。岡町で買うんがええよね」

「そうやな。それを励みに今日と明日がんばろか」

 幸いにも常連さんに恵まれているこの煮物屋さんだが、一見さんには決して良い人ばかりでは無い。

 この店では客の食いたいもんも食わせられへんのか。そんなことを言われたこともある。

 だが姉弟はぶれずにこのスタイルを貫き通して来た。そしてこの煮物屋さんの煮物と小鉢、お酒を楽しみにしてくれる常連さんに支えられて来た。

 これからもクレームの様なものも受けるかも知れない。頭を下げることだって。

 だが素敵な常連さんと、これから常連さんになられるかも知れないお客さま、一見さんでも美味しいと仰ってくださるお客さまのために、佳鳴と千隼は腕を振るうのだ。

 今日もふたりは、お客さまに暖かくて優しい食卓を提供するために尽力しよう。

「ごちそうさまでした!」

「ごちそうさん!」

 姉弟の元気な声と、ぱんっと手を合わせる音が重なった。