営業が始まって数時間、お陰さまで料理は完売となった。まだ店内ではお客さまが寛いでおられるが、千隼はお品書きを回収し、営業中と書かれたプレートを支度中にするために表に出る。
すっかりと寒くなって、空気が澄んでいる。街中なので星は見えないが、きっと高台に上がれば綺麗な星空が広がるのだろう。
千隼は寒さに首をすくめながらプレートを返し、ドアからお品書きのホワイトボードを外した時、駅の方からふらふらと歩いて来る人影があった。
その気配に千隼がそちらを見ると、それは春日さんだった。
「春日さん。こんばんは、お久し振りですね」
千隼が明るくそう声を掛けると、春日さんは力の無い笑みを浮かべる。
「ああ、ハヤさん。こんばんは。本当にすっかりとご無沙汰しちゃって」
千隼の前で春日さんの足が止まる。店内から漏れ出て来る光を頼りにあらためて春日さんを見ると、その頬はすっかりと痩けてしまっていて、色艶も良く無く、かなり疲れが表れていた。
春日さんはもともとふっくらとされていた方だったので、その変貌に千隼は驚きを隠せない。
「どうしはったんですか、春日さん。かなりお疲れみたいですけど」
「ええまぁ、ここしばらくかなりの激務でね」
春日さんは言って苦笑する。
「いろいろあって勤務形態が変わってしまって、毎日帰宅は日をまたいでしまうんだ。今日はこれでも少し早いぐらいでね。食欲もすっかり落ちてしまって、ろくな食事も出来ていなくて。でも帰って来る時にはもう煮物屋さんは閉まっているから」
春日さんはうなだれてしまう。
「ああ、またここのポテトサラダが食べたいなぁ」
そう言って春日さんははぁと切なげな溜め息を吐いた。
「あ、あの、春日さん、少し、少しだけ待っていてもらえますか?」
「うん?」
千隼は言い置くと、ホワイトボードを手に慌てて店内に戻る。厨房に入って隅にボードを放り投げる様に置くと、冷蔵庫から小鉢の料理を入れたタッパを出し、その中身を詰められるだけ、小鉢用の持ち帰り用使い捨て容器に詰める。
途中で佳鳴が首を傾げて「どうしたの?」と声を掛けて来るが、応える時間が惜しい。千隼は「あとで」と言いおき、容器を取っ手付きのナイロン袋に入れて、飛び出す様に外に出た。
春日さんは表で静かに待っていてくれた。千隼は用意したそれを両手で持って、春日さんに差し出した。
「これ、良ければお持ちください。今日の小鉢はシンプルなもんですがポテトサラダやったんです」
仕込みの時、佳鳴がマッシャーで潰していたじゃがいもだ。今回は塩もみきゅうりとハムだけのシンプルなものだったが、味付けは佳鳴が丁寧にほどこしたいつものものだ。
煮物は品切れていたが、小鉢はいつも少し多めに作るのだ。閉店後に余った分は、千隼たちの夜食になる。
春日さんはナイロン袋に入れられた容器を見て、「わぁ……」と顔を輝かせた。
「良いのかい?」
「はい、もちろん。お代も結構ですよ。陣中見舞いやと思っていただけたら。ほんまにお疲れの様ですから」
千隼が言うと、春日さんは「いやいや」と首を振る。
「ちゃんとし払わせて欲しいな。お願いするよ」
そう言われ、しかし千隼は「いえ、こちらが押し付けたんですから」と返すが、春日さんは首を縦に振ってはくれなかった。
「解りました。では……」
と、千隼は小鉢分に相当する金額を挙げた。それを小銭でちょうどを受け取り、ポテトサラダを春日さんに渡す。
「本当にありがとう。嬉しいよ。落ち着いたらまた寄らせてもらうね」
春日さんは先ほどとは打って変わって嬉しそうな笑顔で言い、今度はしっかりとした足取りで帰って行った。
店に入り厨房に戻ると、不思議そうな顔で千隼を見る佳鳴に「悪い」と短く詫びる。
「表で春日さんに会うたんや」
「あら、お久し振りやね。お元気にしてはった?」
「いや、それが仕事で激務が続いてるらしいて、帰って来る時間にはこの店も閉まってるんやって。だからせめてポテトサラダ食べて欲しいて思って」
「あらぁ、そうなんや」
佳鳴は言うと、かすかに顔をしかめる。
「え、春日さんが来られへんくなって、もう2ヶ月ぐらいにはなるやんね。その間、ずっと帰りがその時間やったってこと? お休みはちゃんと取れてるんやろか」
「そんな話はしてへんかったけど、平日そんだけ働いてたら、休めたらもう家から出たく無いやろ。睡眠不足やろうし。びっくりしたわ、すっかりとやつれてはって」
「そうなん? それは心配やね……」
佳鳴の眉がまた歪んでしまう。
「じゃあご飯もまともに食べれてへんってこと? なんでそんなことになってもたんやろ」
「そこまでは判らへんけど、落ち着いたらまた来てくれはるってさ」
「じゃあその時を待つしか無いんやね。何か差し入れとかしたくなってまうけど……、逆にお気を遣わせてまうやろうしね」
「多分な。ポテトサラダもお代支払われたし」
「あんた、押し付けたのにお金いただいたん?」
佳鳴がやや呆れた様に目を見開くと、千隼は少し焦って「いやいや」と手を振る。
「俺はもちろんいらへんって言うたで。けど払わせてくれって。そこで押し付けてまうと、春日さん気を遣うやろうから、小鉢分もらった」
そう言って開いた千隼の掌には、数枚の硬貨が乗せられていた。
「まぁ、確かに春日さんはそう言う方やんねぇ……」
佳鳴は納得した様に、小さく息を吐いた。
久しぶりにお会い出来た春日さん。様変わりしてしまった春日さんに、千隼は大いに驚いたのだ。最近煮物屋さんに来られなくなった原因に合点はいったが、それが原因でああなってしまうとは。
今日春日さんがいつもより少し早く帰れたこと、そしてその日の小鉢がポテトサラダだったのは、そういう縁だったのだろう。
食べて、少しでも元気になってくれたら良いのだが。
まだ寒さは続くが、そろそろ梅が蕾を付け始め、そろそろ春の気配を覗かせるころ。
蒸し器で皮ごと蒸かしたじゃがいも。熱々のそれの皮をふきんを使って皮を剥いて行く。
それをボウルに入れ、マッシャーでざくざくと潰す。まだ熱いうちにバターを落とし、混ぜながら潰して行く。
適度に潰れたらゴムべらに持ち替える。まだ温かなそれの熱を逃す様に、底から返しながら混ぜて。
あら熱が取れるまで具材の準備。スライスした玉ねぎと輪切りにしたきゅうりに塩を振り、しんなりするまで置いておく。
ハムはさいの目切りにする。缶詰のスイートコーンはざるで汁気を切っておく。
じゃがいもが適度に冷めたので、用意した具材を入れて行く。しんなりした玉ねぎときゅうりは揉んでしんなりさせて、流水で水洗いをしたらぎゅっとしっかり水気を絞る。
それにハムとスイートコーンも追加して、全体を混ぜて行く。
次に味付け。マヨネーズ、少量のマスタード、塩、白こしょう。今日は少しのヨーグルトも入れる。
「姉ちゃん、今日もポテトサラダ?」
最近は使う具材こそ違えど、ポテトサラダの小鉢が増えていた。もちろんメインの煮物を見てバランスは考えるので、そちらに芋類が使われたら作らないが。
「うん。春日さんがいつ来はってもええ様に。他のお客さまに飽きられへん様に、具はいろいろ変えてるけどね。今日はちょっと凝ったバージョンで」
「へぇ、とうもろこし入れてるんや」
「うん。彩りが綺麗やろ? 同じ黄色やったら卵でもええんやけど、今日はコーンで。これも甘みがあって美味しいからね」
そんな今日のメインは、鶏団子ときゃべつともやしの塩味の煮物だ。素材を昆布とかつおの出汁で煮て、味付けは酒と塩だけと言うシンプルなものである。それがまた素材の旨味を引き立てる。
鶏団子には小口切りにした青ねぎとみじん切りにした椎茸も入っている。もやしはせっせとひげ根を取ったので、見た目も綺麗で食感も良い一品である。
小鉢のもうひとつは、こちらは手軽に冷やっこにした。薬味はごま油としょうゆ、一味唐辛子で炒めたじゃこだ。
炒めることでおじゃこのかりかり感が増し、香ばしさも加わる。ほんの少しピリ辛にして、煮物やポテトサラダとの対比を出した。
「毎日ポテトサラダはお店的に難しいけど、出来る限りはね。また春日さんに美味しいって食べていただきたいな」
「そうやな」
そうしてふたりは、開店準備を進めて行った。
時間になって煮物屋さんが開店し、小さな店内がぽつりぽつりと埋まり始めた頃。またドアが開いてお客さまが訪れる。
「こんばんは。すっかりとご無沙汰しちゃって。3ヶ月振りかなぁ」
「春日さん!」
少し照れた様な笑顔で入って来た春日さんに、千隼はぱあっと笑顔を浮かべる。
「春日さん、本当にお久し振りです」
佳鳴も笑顔になると、春日さんは少しほっとした様な表情になる。
「この前ハヤさんには少し話したんだけど、仕事が忙しくなってしまってね。でもどうにか落ち着いたよ」
「それはほんまに良かったです」
春日さんは「うん。ありがとう。あ、呉春をよろしくね」とにっこり頷いてカウンタに掛ける。千隼からおしぼりを受け取り手を拭いて、ようやく落ち着いた様に「ふぅ」と息を吐いた。
痩けてしまっていた頬は、少し戻りつつあるだろうか。少なくとも顔色は良くなっていて、佳鳴も千隼も安堵する。
「実はね、3ヶ月前に会社の社長が変わったんだよ。当時の社長が隠居するって言ってね。社会経験のためによその会社に勤めていた息子さんを呼び戻して新社長に据えたんだけど、これがまぁ、なかなかね」
春日さんは苦笑しながら言うが、先にお出しした呉春をちびりとやると、心地良さそうにふぅと息を吐いた。
「僕が言うのもなんなんだけど、どうもその息子さん、新社長、あまり良い会社に就職できて無かったみたいで、その影響をもろに受けてしまってたんだよ」
いわゆるブラックと呼ばれる不良企業だった様で、従業員だけではこなせない仕事量、無茶なノルマ、理不尽な経費削減、夜遅くまでのサービス残業は当たり前だった。
かたや社長として就任した会社は、従業員に見合った業務量、残業もほぼ無し、あっても時間単位での残業手当が出る優良企業。
だがそれが、新社長にとって「ぬるい」と感じられた様だった。新社長には就職した会社での働き方が常識になっていたのである。
「そんなに従業員はいらない、なら経費削減も兼ねてリストラしようとなってね」
「それやと従業員の方々も反発しはったんや無いですか? はい、お待たせいたしました」
佳鳴は言いながら、千隼と整えた料理を春日さんに提供する。春日さんは「ありがとう」とそれを受け取り、続けて「そうなんだけどね」と口を開く。
「大役を任せられて浮かれちゃったのかなぁ、のぼせたって言うのかな、新社長が他の経営陣、取締役の話もまるで聞かないワンマンになっちゃったんだよね」
「ああ……」
「ああ〜……」
佳鳴と千隼は揃って声を上げた。
「僕の会社は毎日業務日報を出すんだけど、新社長がそれを見てリストラする人間を決めちゃったんだよ。まぁ営業なら売上げ成績とかで判断出来ないわけじゃ無いけど、内勤の人間には特に理不尽だったよ。新社長、業務の内容もろくに知らずに、仕事の数だけで判断しちゃったからね。優秀かどうかなんて判らずにやったから、ばんばん辞めさせられた。私は対象にはならなかったけどね。リストラされなくても、その状況じゃ離職率も上がってしまって、本当に大変なことになってしまってたんだよ」
「それは大変でしたね。今は改善された、でええんですよね?」
「そう。とにかくお客さまとか取引先の兼ね合いなんかもあって、穴を空けられないことも多いから、皆必死で、死に物狂いで働いてたよ。でももう先が見えなくてね。で、どうしたら良いんだろうって考えて、まずは極端だけど、新社長退任の署名を、新社長に知られない様にこっそりアナログで始めたんだ」
「それを元に新社長に直談判を?」
「いや、前社長に持ち込むことにしたんだ。何せ誰の話も聞かないから、直談判は署名が無駄になるかも知れないからね。新社長は実家を出ていたから良かったよ。それも社会勉強のひとつだったらしいけど。休みの日に前社長の家に行って、署名を見せて社長に現状を話した。本当に驚かれてしまってね。まさかそんなことになっているなんてって。新社長は前社長の父親に今の会社の状態を詳しくは言ってなかったみたいだから。ただ聞かれても「巧くやってるよ」としか返って来なかったって。もともと信用している取締役もいるんだから、前社長も問題無いって思ってらした」
「そうですね。問題無いって言われれば、これまで通り、もしくはさらに良うなっているって思われますよねぇ」
佳鳴が言うと、春日さんは「だよねぇ」と息を吐く。
「だから前社長も安心していたって。でね、現状を知った前社長は、さっそく週明けに会社に来られて、そりゃあもう時間を掛けて現社長に話をされたよ。その結果、新社長は社長じゃ無くなった。いちから勉強をし直すことになったよ。次の新社長は取締役のひとり。これで会社は元に戻ったんだ。リストラされて再就職先が決まっていなかった人を呼び戻したりもしてね。その時に出された退職金やらなんやらでちょっとごたごたしたけど、それはそれとして」
「それで、またこの煮物屋さんに来ていただける様になったんですね。ほんまに良かったです」
「ありがとう。本当に店長とハヤさんのお陰だよ」
そう笑顔を浮かべた春日さんに、佳鳴と千隼は「え?」と驚いて首を傾げる。佳鳴たちは何もしていない。正確には出来なかった。ポテトサラダの頻度を上げて、春日さんをお待ちすることしか出来なかった。
「疲れて帰って来たあの日、ハヤさんは僕にポテトサラダを持たせてくれた。家に着いてお茶を淹れてサラダをいただいた時にね、思ったんだよ。このままじゃいけない、なんとかしなければって。それまでいっぱいいっぱいだったんだけど、大好きなポテトサラダのお陰で少し余裕が出来たんだろうね。また元気に煮物屋さんで美味しいご飯を、ポテトサラダを食べたいって」
春日さんはふっと目を細める。
「店長さんの心の込もったポテトサラダが、ハヤさんの心遣いで僕に届いた。あの時は本当にぼろぼろだったから、優しさもすごく沁みたものだよ。あの時ハヤさんに会えなかったら、あの会社そのものの存続も危うかったかも知れない。あんな経営状態じゃ長続きしないだろうからね。だから店長さんとハヤさんには本当に感謝しているんだ。本当に、ありがとう」
春日さんはそう言って、深々と頭を下げた。佳鳴たちは慌てて手を振る。
「春日さん、頭を上げてください! 私たちは何もしていませんよ」
「そうですよ。僕たちは本当に何も。春日さんが頑張らはったんですから」
「ううん、それもおふたりの心遣いが無かったら踏ん張れなかった。ありがとう」
春日さんに笑顔で言われ、佳鳴たちは戸惑いながらも、笑みを返した。
「私たちはほんまに何もしてませんが、そうおっしゃっていただけるのは嬉しいです。こちらこそありがとうございます」
「こちらこそだよ。さ、お料理をいただこう。ポテトサラダ嬉しいなぁ」
春日さんは箸を持つと、ポテトサラダをすくい、ぱくりと口に放り込むと、ゆっくりと咀嚼する。
「ああ、やっぱり美味しいなぁ。こうしてここでゆっくりいただくポテトサラダが1番美味しいよ」
春日さんは満足げに言って、うっとりと目を細めた。
まだ肌寒さは残るが、春が顔を出し始める。そろそろ冬のコートもお役御免だ。
「こんばんは!」
煮物屋さんが開店して少しした頃、ご機嫌な様子で現れたのは門又さんだった。
「こんばんは、いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ〜」
佳鳴と千隼も笑顔で迎え、まずはおしぼりを用意する。門又さんは差し出されたそれを受け取りながら「お酒でお願い。兼八の、ええっと、今日は炭酸割りにしようかな」
「レモンとかお入れになります? 酎ハイのお値段になりますけど」
この煮物屋さんでは焼酎はロックや水割り、お湯割りで提供することが多く、炭酸割りにするといわゆる酎ハイになる。プレーンな酎ハイは焼酎と同じ値段で、果汁などが入るレモン酎ハイなどは少し高くなる。
「あ、そっか。焼酎を炭酸で割ると酎ハイになるんや」
「はい。うちでは酎ハイはキンミヤ焼酎を炭酸水で割って作っていますから。焼酎の炭酸割りは酎ハイのプレーンです」
「キンミヤ焼酎」の正式名称は「亀甲宮焼酎」と言う。三重県の宮崎本店で造られているものだ。
癖が少なく割り材の邪魔をしないので、焼酎のベースとして広く使われている一品である。
「うーん、でも食事の時はあまり甘い飲み物好きやないしなぁ。プレーンで」
「かしこまりました」
佳鳴はさっそく棚から兼八の瓶と、冷蔵庫から炭酸水の瓶を出す。おお振りのグラスに氷を半分ほど詰め、メジャーカップで焼酎を測ってグラスに入れ、そこに炭酸水をグラス8分目ほど注ぎ、マドラーでくるりと混ぜる。
「お待たせしました」
出来上がった麦焼酎の炭酸割りをお出しすると、門又さんは「ありがとう」と受け取る。
「ねぇ、このお店って酎ハイとサワー両方あるけど、違いってなんなん?」
門又さんが美味しそうにグラスを傾けながら問う。
「今の日本では明確な線引きは無いみたいですよ。でもうちでは酎ハイはキンミヤ焼酎、サワーはスミノフを使ってます。サワーは本来、ウォッカとかジンとかのスピリッツに、柑橘とか果物で作ったお酒を合わせて作るんやそうです。炭酸では割らへんのですって。日本では割ったもんがなじみ深いので、この店でもそうしてますが。果物のお酒も、代わりに果汁で代用してますしねぇ」
「カクテルみたいやね」
「そうですね。うちではカクテルの取り扱いが無いんで、洋酒がお好きなお客さまにはサワーやウイスキーをおすすめしてます」
「なるほどね〜。このお店って煮物とかの和食を食べさしてくれるから、なんとなく焼酎とか和のお酒て思ってたけど、洋酒好きかておるよなそりゃあ」
「はい。あまり種類は多く無いですが、お好きなお酒で楽しんでいただけたら嬉しいです。はぁい、お待たせしました」
そして整えたお料理をお出しする。メインは豚だんごと大根と厚揚げとししとうの煮物だ。スライスした玉ねぎも入っている。
豚だんごはふっくらと仕上がる様に、豚挽き肉にお塩だけを入れて、もったりしろっぽくなるまでこねる。そこに卵を入れ、アクセントに青ねぎの小口切りを入れて、お醤油などで軽く調味をしてお団子にする。
煮汁に甘みを出すために、ごま油で繊維に垂直にスライスした玉ねぎをしんなりと炒め、お出汁を張り、沸いたら豚だんごを落として行く。
豚だんごから出るあくを丁寧に取り除き、お米の研ぎ汁で下茹でした大根、油抜きした厚揚げを入れて、ことこと煮込んで行く。
味付けは日本酒とお砂糖、薄口醤油で付け、ししとうは色合いを生かすためにしんなりする程度の火通しにする。
煮汁には玉ねぎから旨味が滲み出し、ふわっふわに仕上がった豚だんごに良く絡む。大根や厚揚げはその旨味を吸い、すっかりとろとろになった玉ねぎと一緒に口に運ぶと、ふくよかな味わいが広がる。
小鉢はいんげんと舞茸のきんぴらと、たたき長芋ののり梅和えだ。
きんぴらは日本酒とお砂糖、お醤油で味を付け、白すりごまをたっぷりとまぶす。ごま油でしゃきっと炒めた歯ごたえの良いいんげんと、しんなりとした舞茸の対比がおもしろい。味わいのある一品だ。
長芋はジップバッグに入れて綿棒で叩き、ひと口大ぐらいになったら、叩いた梅干しを混ぜ込んだのりの佃煮と和える。
のりの佃煮も煮物屋さんで作っている。のりはガスの直火に当てて香ばしさを出し、ちぎって日本酒とお醤油、お砂糖で煮詰めて作る。旨味を出すためにかつおの粉末も入れている。
甘やかなのりの佃煮の中から顔を出す梅の爽やかな酸味が、さくさくの長芋に良く合うのだ。
「ありがとう。いただきます」
門又さんはお箸を取って、小鉢から手を付ける。
「あ〜、こういうおばんざいみたいなんが食べられるんがほんまに嬉しいやんねぇ。家でひとりやとこんなん作れへんもん」
そう言って嬉しそうに顔を綻ばせる。そしてまた兼八の炭酸割りをあおった。
「あ、そうや。店長さん、ハヤさん、これ見てこれ!」
お箸を置いた門又さんが、開いた左手の甲をぐいと伸ばす。
きらりと輝く綺麗な透明の石が埋め込まれ、それを挟んで赤い不透明の石がふたつ填め込まれた、デザインとしてはシンプルな指輪が門又さんの薬指を飾っていた。
真ん中の透明の石がいちばん大きく、赤い石はやや小振り。土台になっている銀色の金属もほとんど傷など無く、石に負けじと光を放っていた。
「綺麗ですねぇ!」
佳鳴が黄色い声を上げる。佳鳴だって女性だ。アクセサリーだって好きである。
「へへ。ちょっと奮発してん」
門又さんは言って、嬉しそうに笑う。
「自分へのご褒美や無いけど、まぁ今まで独り身でがんばってきたやろかって。いや、自分で選んで独り身なんやけどな? 今はな? でも平日毎日有休もろくに取らんと仕事して、家事もやってって。そりゃあそんなんひとり暮らしやったら当たり前なんやし、結婚して仕事持ってたらもっと大変なんやろうけど、これまであんまりご褒美ってしてへんかったなぁって思って」
「ええですねぇ、ご褒美。若いお嬢さんは結構自分へのご褒美ってしているみたいですね。今週がんばったから、ちょっとお高めのスイーツとか」
「そうなんやってね。私も服とか買うけどそれは必要やからやし、アクセサリーはあんま興味が無かったから、冠婚葬祭に使う真珠ぐらいしか持ってへんかったんやけど、ついでがあって梅田の阪急百貨店のジュエリー売り場に行ったら綺麗なんたくさんあって。もしかしたら食わず嫌いやったんかもって。店員さんに相談して、これに決めてん。真ん中がダイヤで、赤い石が珊瑚。好きな色やねん」
「珊瑚が不透明なのがええですねぇ。真ん中のダイヤが際立って見えます」
「やろ? 余計に輝いて見えるやんね。赤いんが輝く系の石だったら、ちょっとうるさいかもて思って。もう私もそう若いわけや無いから、これぐらい落ち着いてるぐらいの方が長く使えるし」
「門又さんはまだまだお若いと思いますが。あ、でも薬指なんですね」
「そうやねん。在庫あるのが薬指にしか合わへんで。サイズ直し2週間掛かるって言うから待てへんなって、とりあえず落ち着くまで薬指に付けてる。ほぼ一目惚れみたいなもんやったからね〜。お店もサイズ直しいつでも受け付けてくれるて言うてくれてるから」
「解ります。気に入っちゃったらすぐにでも身に付けたいですよねぇ」
佳鳴がうんうんと頷くと、門又さんは「あはは」とおかしそうに笑う。
「私に男っ気が無いんは皆知ってるし、変な誤解生むことも無いやろうしね。実際今日これで会社行ったら、男の同僚に「何見栄はってんねん」って笑われてもた。失礼やんね〜」
「門又さん、そこは怒るところです」
千隼が言うと、門又さんはまた「あはは」と笑う。
「もうそんなんいちいち気にしてられへんて。私って同期の中でも結構出世してるからなぁ。将来のこともあるからばりばり働いて貯金してって思ってるから、女扱いされてへんのかも知れんなぁ」
「そこも、怒るところですよ」
千隼の少し呆れた様なせりふに、門又さんはまたまた「あはは」と笑顔。
「まぁ気にせんぐらいには図太くなったんかもね。この指輪は今の私の唯一の潤いかも。土台もプラチナやから、私にしては結構がんばって買うたんやで。できたら一生大事にできたらて思ってる」
「ええですねぇ、そういうの。私も何か見に行ってみようかな。お仕事中は着けられないですけど」
「やったらネックレスとかでもええんやない? 綺麗なんたくさんあったで」
「あ、そうですね。あまり派手なもので無かったら、お店でも着けられますもんね」
「もし買うたら見せてな〜」
「はい。もちろんです」
佳鳴は言って、ふわりと微笑んだ。
数日後、開店したばかりの煮物屋さんにはお客さまがまだひとり。最近来てくださる様になった若い男性のお客さまだった。名を山形さんと言う。
山形さんは小柄でおとなしそうなイメージなのだが、若いだけあってたくさん召し上がる。最初はお酒で料理を楽しまれたあと、ご飯と味噌汁を頼まれる。
そしてお酒は、これもまた若いからなのか、サワーを多く飲んでいた。特にカルピスや柚子がお好みの様だ。山形さんは「まだまだ子ども舌なんですわ」と笑っていた。
そんな山形さん、今夜は柚子サワーで料理に舌鼓を打っていた。子ども舌と自分で言うわりには、佳鳴たちが作る和食、家庭料理を美味しい美味しいと食べている。
今日のメインは鶏もも肉とかぶとお揚げの煮物。彩りは塩茹でしたスナップえんどうを添えている。
かぶは冬の野菜だが、通年出回っている。それは春の気配が濃くなった今でも変わらない。
今日は豊南市場の八百屋さんを覗くと、お得値になっていたのだ。
旬は過ぎているので小振りだが、張りのある良いかぶだ。葉っぱは八百屋さんに置かれている時にはすでに落とされていた。
鶏もも肉は皮目をこんがりと焼き付け、全体をさっと炒めたらお出汁を張り、縦に4等分にしたかぶ、油抜きしたお揚げを入れて、日本酒とお砂糖とお醤油で煮込んだ。
鶏もも肉とお揚げから出るふくよかな旨味がかぶに吸い込まれ、繊維もしっかりと取り除いたそれは口に中でとろりと溶ける様だ。
スナップえんどうはそろそろ旬がやって来る春の野菜。塩茹でしただけで爽やかな甘みが蓄えられる。
小鉢は筍の土佐煮と、水菜と椎茸の煮浸しである。
筍は小さめだが生のものが買えたので、水から米ぬかと唐辛子を加えて茹でた。茹で上がったら放置して冷ましながらあくとえぐみを抜く。
生の筍の新鮮さを活かすために、味付けはお出汁をメインに、日本酒で甘みを少し、薄口醤油で風味付け。仕上げに削り節をまとわせてできあがりだ。
しゃくっとした爽やかな筍に、削り節がふんだんに旨味を足すのだ。
春にしかお目に掛かれない生の筍は、それだけで価値があると考える佳鳴と千隼である。
煮浸しは日本酒とみりん、お醤油で味を整えたお出汁に、ざく切りにした水菜と厚めにスライスした椎茸を加えてさっと煮て、火を落として余熱で火を通す。そうすることで水菜の綺麗な青と歯ごたえが損なわれない。
今夜は全体的にかつお節の旨味に頼ったお献立だが、素材が変われば味わいもまた変わる。その違いを楽しんでいただけたら嬉しい。
「筍がしゃきしゃきしてて美味しいですねぇ〜。味も優しくて。ハンバーグとかも大好きですけど、たまにはこういうんも食べて身体を労ってあげんと」
「お家や他のお店では洋食が多いんですか?」
「そうですね。ハンバーグとかカレーとかオムライスとか。あとは牛丼とか、お昼やったらハンバーガーも多くて。コンビニやったらパスタとか唐揚げ弁当とか。どうしてもお魚よりお肉ってなります。本当に子ども舌やなぁ、僕」
「お若いんですから、お肉をがっつりと食べたくなりますよね。弟もお肉の方が好きですよ。なのでこのお店でもお魚の煮物は少ないんですよねぇ」
「あ、そんな理由なんですか」
「そうなんです。何を作ろうか考える時、どうしても肉が先に浮かびますね。魚は仕入れの時に目に付いて、自分が食べたいなって思ったら作ります」
千隼が笑いながら言うと、山形さんは「そうなんですね」と笑みを浮かべる。
「じゃあ今度お魚の時に挑戦してみようかな。お肉好きのハヤさんが作るお魚料理やったら美味しそうです」
「はは。楽しみにしててください」
千隼が言って笑った時、煮物屋さんのドアが開いた。
「こんばんは」
門又さんだった。
「こんばんは。いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
店内はまだ空いていて、門又さんは山形さんから3つ席を開けて手前に掛けた。佳鳴からおしぼりを受け取り、兼八の水割りを注文する。
「あ〜、今日もがんばって働いたわぁ。ここでのご飯はご褒美やんね。あ、ご褒美ってこういうことかぁ」
「ああ、先日おっしゃってたことですね」
「そうそう。やったら私しょっちゅうご褒美あげてたやん。若い子のスイーツ以上やね」
「うちでのお食事がご褒美になっていたら嬉しいです」
「もの凄うなってるわ〜。この指輪もやけど、ご褒美って大事やね」
門又さんは言って、左薬指にはまっている件の指輪を大事そうに撫でる。
すると、少し離れている山形さんが、お箸を持ったまま門又さんの手元をぼんやりと見つめていた。
何だろうかと理由も判らず佳鳴は首を傾げる。するとそんな佳鳴に気付いたのか、山形さんは慌てふためいて両手をさまよわせた。
「あ、あの、違うんです。いや何が違うんかあれなんですけど、あの、指輪、きれいやなぁって」
山形さんの視線は、門又さんの指輪に注がれていたのだった。門又さんは「あら」と声を上げると、指輪を外しながら「そう言えば、お会いするのは初めてのお客さんやね?」と言う。
「あ、はい。最近転職して曽根に引っ越して来て、このお店を見付けました。山形と言います」
「山形……くん? 私よりも若いやんね。よろしくね、門又と言います」
門又さんがふわりと笑みを浮かべると、山形さんも嬉しそうに笑顔になってぶんと頭を下げた。
「よろしくお願いします!」
「あ、指輪やね。見る?」
「え、ええんですか?」
「うん、もちろん」
門又さんが山形さんに指輪を渡すと、山形さんは顔を輝かせてそれを受け取る。
「うわぁ……! きれいです。真ん中がダイヤで、両脇は赤珊瑚ですか? 土台はプラチナ……」
「山形さん、お詳しいんですねぇ」
佳鳴が言うと、山形さんは照れた様に笑う。
「へへ、僕こういうの好きなんです。あ、男やのにこういうのが好きっておかしいですか……?」
途端に山形さんの顔が曇る。すると門又さんが「ううん、全然」とこともなげに首を振った。
「宝石とかが好きでもおかしないって。おるやんねぇ、そういう男性かて。そういうんに詳しいのも格好ええよねぇ」
「はい。僕は全然詳しくないですけど、天然石とか見るの結構好きですよ。色とりどりできれいですよね」
千隼も言うと、山形さんはほっとした様に表情をほころばせた。
「良かったです」
そう言って、「へへ」と小さく笑みを浮かべた。
数日が経ち、月曜日。煮物屋さんは定休日である。
佳鳴は千隼が作ったナポリタンの昼食を摂ったあと、阪急電車を使って大阪梅田駅に降り立っていた。
春はまた少し近付き、桜もちらほらと開き始めている。大阪梅田駅の電車止めにある花壇を見ると、色とりどりの花が可愛らしい姿を見せていた。
数日前に門又さんに見せてもらった指輪に触発されたのか、少し見てみたくなったのだ。そこで一目惚れする様なものがあれば購入しても良いと思っている。もちろんお財布と相談なのだが。
アクセサリーを見に行くなんて何ヶ月振り、いや、何年振りだろうか。煮物屋さんを初めてから、食べ物を扱う商売だからと、指輪はもちろんしていない。
門又さんがおっしゃっていた様にネックレスなら問題無いだろう。ピアスでも良いだろうが佳鳴の耳はピアスホールを開けていない。イヤリングは落とす可能性があるのでするのはためらわれた。
佳鳴は阪急うめだ本店に入る。アクセサリーやジュエリーは1階フロアである。佳鳴は鼻歌でも歌いそうなご機嫌さでジュエリーのエリアに向かう。佳鳴だって女性である。こういうきらびやかなものが好きなのだ。
目的地辺りに着くと、数々のブランドコーナーが軒を連ねていた。まずは一周回ってみることにする。
行く先々で「いらっしゃいませ」と店員に上品に声を掛けられ、佳鳴はそれらに笑顔と会釈で返す。
ショウウィンドウに所狭しと並べられている指輪やネックレスなどはどれもとてもきれいで、佳鳴はわくわくする。石をひとつだけ使ったシンプルなものから、多くをあしらった華やかなものまでその選択肢は多い。
しかし佳鳴は普段使いができたらと思っているので、あまり華美なものは選ばない。
ダイヤモンドはやはりお値段はお高めだ。大きさや透明度などにもよるのだろう。1カラットともなると、もう佳鳴には手出しできない。
そんな数々の輝きの中で、佳鳴が良いなと思ったのは……。
無事購入し、小さなショッパー片手にふんふんと上機嫌でフロアを後にしようと下りエスカレータに向かう。すると向かいから見知った顔が歩いて来た。
それは煮物屋さんの常連さんだったので、佳鳴は一瞬お声掛けに迷う。しかし向こうが気付いて声を掛けてくれた。
「あ、店長さん。こんにちは」
そう言って柔らかな笑顔で会釈してくれたのは山形さんだった。
「山形さんこんにちは。お買い物ですか?」
「はい。あの、ちょっと参考にしたくて。店長さんもお買い物ですか?」
「はい。門又さんの指輪がええなぁと思って、私も何か良いのがあればと思いまして」
「そうなんですか、門又さんの……あ、そうや、あの、これからお時間ありますか?」
「はい。大丈夫ですが」
この後は予定も入れていないので、家に帰って休んだ後、千隼と夕飯の支度をするだけだ。
「あの、相談に乗っていただけたらと思って。あの、ええっと、門又さんの、ことで……」
だんだんと尻すぼみになっていく言葉に、佳鳴は少しずつ耳を寄せて行く。そしてどうにか聞き取れた門又さんの名前。
「門又さんですか?」
佳鳴が目を丸くすると、山形さんは「は、はい……」と恥ずかしげに顔を赤くした。
翌日の火曜日。煮物屋さんはまた営業を始める。門又さんが来られたのは19時になろうと言う頃だった。
門又さんは佳鳴から受け取ったおしぼりで手を拭き、麦焼酎兼八の水割りを注文したところで佳鳴の首元に気が付いた。
「あれ、店長さん、そのネックレス」
「あ、はい」
佳鳴はつい照れて、小さく笑ってしまう。
「昨日のお休みに買っちゃいました」
「へえぇ、ええねぇ。凄いかわいい。店長さんにとても良お似合とるし、その色やと確かにカジュアルな服でも浮かへんね。何て石なん?」
「ターコイズ、トルコ石なんです。この色やったらあまり服を選ばへんやろなって思いまして。なのでそう言っていただいてほっとしてます」
「土台は金なんやね。うん、その方がかわいい。ええの見付けたね」
「ありがとうございます」
佳鳴が昨日見付けたのは、ターコイズが1粒使われたシンプルなネックレスだった。18金の円形プレートにはめ込まれたターコイズブルーは鈍く、しかし可愛らしく輝き、ベースの金色が控えめに彩りを添えていた。
自分のことの様に笑顔で褒めてくれる門又さんに、佳鳴は嬉しくなってしまって、満面の笑みを浮かべた。
それから約2週間後、仕込みをしている煮物屋さんの固定電話が鳴る。ちょうど手が空いた千隼が受話器を上げた。
「はい、煮物屋さんでございます。あ、こんにちは。いえ、こちらこそいつもありがとうございます。……はい、はい、分かりました。伝えておきますね。はい、失礼いたします」
そうして受話器を置くと、味噌を溶いていた佳鳴に声を掛ける。
「姉ちゃん、山形さんから。できたって」
「今夜から大丈夫なんかな」
「そう言うてた」
「了解っと」
そして味噌を溶き終えた佳鳴は、鍋の中身をお玉でぐるりとかき混ぜた。
それは翌日のことだった。19時半ごろに門又さんは現れた。
「こんばんは〜。ちょっと残業になってもた。疲れた〜」
そう言いながら溜め息を吐く門又さん。佳鳴は「いらっしゃいませ。お疲れさまです」とおしぼりを渡した。
「ありがとう。兼八の水割りでお願い」
「かしこまりました」
今日のメインは豚ばら肉とえびと白菜と椎茸の旨煮だ。旬の絹さやで彩りを添えている。
旨煮は濃いめの味付けの煮物だが、煮物屋さんでは和らげて仕上げている。
白菜の時期はもう終わっている。だがまだ肌寒い日もあり、まだまだ美味しくいただける。椎茸も厚みのある傘のものが買えた。
豚ばら肉をごま油で炒め、お出汁を張ったら白菜の芯を入れ、柔らかくなるまで煮込む。椎茸と白菜の葉を入れて、日本酒とお砂糖、お醤油で味を整える。しっかりと臭み抜きをしたえびは固くならない様に最後の方に加える。
たんぱくな白菜に少しばかり濃いお出汁が染まり、豚ばら肉から出た甘い脂が絡む。椎茸やえびからも旨味が出るので、それらが合わさって風味良く仕上がっている。
小鉢は豆腐と生わかめのごま和えと、トマトと新玉ねぎのマリネである。
木綿豆腐は水切りをして適当に崩し、ざくざくと適当に切った生わかめを混ぜ、味付けはお砂糖と薄口醤油、ごま油と白すりごま。ほのかに甘辛くも香ばしい一品だ。
マリネのトマトは皮を湯剥きし、舌触り良く仕上げている。味沁みも良くなっている。そして春だからこその生の新玉ねぎが爽やかな風味を生み出すのだ。
先にドリンクを用意し、料理を整えて門又さんに提供する。
「お待たせしました」
「ありがとう」
門又さんは兼八の水割りで唇を湿らせ、さっそくお箸を手にする。マリネを口に放り込み、「ええなぁ。さっぱりしててお酒に合う〜」と目を細めた。
「千隼、お水補充するな」
「おう」
佳鳴は冷蔵庫からボトルを出してバックヤードに入る。ミネラルウオーターや炭酸水などのストックはそこにあるのだ。
もう空に近いボトルに、ペットボトルからミネラルウオーターを注ぐ。水割りを作る時は、この水を使うのだ。
そして佳鳴は、マナーモードに設定してあるスマートフォンに手を伸ばした。
それから数分後のこと。またお客さまが訪れる。
「いらっしゃいませ」
「こ、こんばんは」
そう言って息を切らすのは山形さんである。山形さんはまっすぐに門又さんの元へと向かった。
「か、門又さん、こんばんは」
「あ、山形くん。こんばんは」
顔をわずかに赤くして緊張した様子の山形さんに、門又さんはにこやかに応える。
「こんばんは、あ、あの」
山形さんは胸元に掛けたボディバッグからごそごそと、包装された細長い箱を取り出す。
「これ!」
それを両手で持って、門又さんに差し出した。
「ん?」
門又さんは小首を傾げる。
「あの、門又さんに受け取って欲しいて。あの」
「え、私に? え、なんで」
門又さんは戸惑ってしまう。それはそうだろう。この店で1度会っただけの、さして親しいわけでも無い人から何かをもらう理由が無い。中身は何か分からないが、赤い包装紙できれいに包装されたそれは、飴ひとつもらうのとは訳が違う。
「門又さんの言葉が嬉しかったんで! お願いします、受け取って欲しいです」
「私なんか言うたっけ?」
門又さんは困惑する。山形さんは「はい」と大きく頷いた。
「門又さんにとっては忘れてしまう様な些細なことやったんかも知れへんのですけど、僕にとってはそうでは無かったんです。せ、せやから」
山形さんは必死で訴える。それにほだされたのか、門又さんはためらいつつも手を伸ばした。
「じゃあ受け取るね。ありがとう」
箱が門又さんの手に渡ると、山形さんは心底ほっとした様に頬を緩めた。
「受け取ってもらえて良かったです。じゃあ失礼しますね」
笑顔になった山形さんは踵を返す。「え、ご飯は?」と言う門又さんのせりふを背に、山形さんは煮物屋さんを出て行った。
「え、私にこれをくれるためだけに来たん?」
「みたいですねぇ」
「ん? 確かに私はここにしょっちゅう来るけど、今日来ることは何で知ったんやろ。知ってたみたいやったやんね」
「外から見えたんじゃ無いですか?」
「手前にもお客さんおるのに?」
「まぁまぁ、細かいことはええや無いですか」
訝しむ門又さんを、佳鳴はやんわりと宥める。
「んー、気になるけど、まぁええか。中身なんやろ」
門又さんは丁寧に包装紙を剥がして行く。出て来たのは白い厚紙の箱。それを開けるとベロア調の箱が出て来た。
「ん、これまさか」
その箱を開けると、出て来たのはネックレスだった。銀色のチェーンに繋がれているのは、同じ銀色に縁取られた赤い石。門又さんは「わぁ」と声を上げる。
「かわいい。これ赤い石、私の指輪の石と似てる。もしかして同じ珊瑚? チェーンは、は、嘘、プラチナ!?」
ネックレスの受け金具のプレートを見た門又さんは大いに驚く。そこにはベースの金属がプラチナであることを示す記号が刻印されている筈だ。
「えええ? 何でこんな高価なもんくれるん? え? 何で?」
門又さんはすっかりと慌ててしまう。
「山形さん、相当嬉しかったみたいですねぇ」
佳鳴が言うと、門又さんはカウンタに突っ伏してしまった。
「ほんまに何でぇ〜? 私何を言ったんやろ〜」
佳鳴と千隼は目を見合わせて、「ふふ」笑みをこぼした。
佳鳴と山形さんが阪急百貨店で遭遇し、相談を聞くためにレストランフロアのカフェに場を移すと、山形さんは門又さんにお礼がしたいのだと言った。
「僕が宝石とかを好きなことをおかしないって、格好ええって言ってくれて、ほんまに嬉しかったんです」
男性でもアクセサリーを着ける人は多い。だがやはり宝石は女性が主に着けるものだと言う印象がある様だ。
小さなころから宝石に興味があった山形さんは、心ない男子から「女みたい」と散々からかわれたのだと言う。女子に笑われることもあったらしい。
そういう差別の様なものは大きくなるにつれ少なくなって来るだろうが、山形さんは幼い頃の記憶がずっと引っかかっていて、大っぴらにするのを止めていた。
だから門又さんの言葉は、山形さんにとっては救われたとも言えるだろう。
……と山形さんは力説していたが、それだけでは無いのではないかと佳鳴は読んでいる。
それを山形さん本人が気付いているかどうかは判らないが。
門又さんは左手の薬指に指輪をされていたので、誤解が生じているかも知れないし。
そこで無自覚の山形さんから受けた相談は、どんなデザインだったらあの指輪と一緒に着けてもらえるかということだった。
なので佳鳴はシンプルな赤珊瑚のネックレスを提案した。自分が買ったものを参考にすすめたのだ。
ダイヤモンドを使ったものも考えたが、高価になってしまうので、お礼として渡すには重すぎる。
プラチナがそもそも高価なものだから、それで充分だ。
そして山形さんの転職先と言うのが、彫金スタジオなのだ。山形さんは彫金師の卵なのである。
大学を出て一般企業に就職したのだが、やはり宝石が好きで、それに携わる仕事に就きたいと、思い切って転職したのだった。
なので、山形さんが門又さんに渡したのは山形さんのお手製、それも初めての作品なのだった。
佳鳴はまだ慌てふためく門又さんを見て、そっと微笑む。これは先々が楽しみかも知れない。こっそりと見守らせてもらおうと思った。
まだ肌寒い日も多いが、暖かな日差しが降り注ぐ様になって来た。立春も過ぎ、暦の上ではすっかりと春である。着実に春の足音は聞こえていた。
煮物屋さんでは、毎月29日は炊き込みご飯の日なのである。煮物と小鉢2品は変わらないが、煮物を野菜メインの控えめなものにして、千隼は炊き込みご飯作りに精を出す。
29日と言えば、今や「肉の日」の印象が強い。だがこの煮物屋さんでは普段からお肉を使った煮物が多いので、お肉を出しても目玉にはならない。汁物を豚汁にすることも考えたが、その日豚肉がお買い得だとは限らない。
肉の日ということでそこはお肉屋さんも努力されるのだが、佳鳴たちはそれらの中でも1番のお買い得を選ぶので、鶏肉かも知れないし、牛肉かも知れないのだ。
そして今月も訪れた29日。佳鳴と千隼はいつもの様に豊南市場に買い出しに行く。
「豚のひき肉が特売かぁ。じゃあこれと根菜で炊き込みご飯にしようかな」
「ええね、美味しそう。そっちで根菜使うんやったら、煮物は葉もの野菜中心にする?」
「そうやなぁ、きのこなんかも使うか」
「じゃあ小鉢は海藻にしようかな。塩蔵わかめ買ってこ」
佳鳴たちは買い物をしながら、その日の献立を決めて行った。
そうして整った献立。メインの煮物は厚揚げとちんげん菜としめじの煮浸しだ。
厚揚げは煮る前に表面にかりっと焼き目を付けているので、香ばしい旨みが生み出されている。それに優しいお出汁がじゅわっと沁みて、なんとも味わい深くなった。
春が旬のちんげん菜は青々として美しく、火を通してもしゃきっとした歯ごたえがなんとも良い。しめじもふんだんにお出汁を吸って、良い味わいだ。
小鉢のひとつは、玉ねぎとかにかまとわかめの酢の物だ。玉ねぎは塩揉みしてしんなりさせてあるので、裂いたかにかまとわかめと良く馴染む。
それらを甘酢で和えれば、箸休めとしてさっぱりといただける一品になる。
もうひとつはブロッコリとブラックオリーブのマヨネーズ和えだ。
ブロッコリは食べやすい様に小さめにカットしてある。それに粗みじん切りしたブラックオリーブを混ぜ、軽めのマヨネーズで和えてある。
ほんのりと酸味のあるマヨネーズにブラックオリーブのアクセント。こちらも旬もブロッコリの甘みが引き立つ。
汁物はシンプルにお揚げと三つ葉のお味噌汁だ。
お椀にざく切りした生の三つ葉を入れて、そこにお揚げだけで作った味噌汁を注ぐ。そうすると三つ葉の風味も食感も生かされる。
三つ葉はまだ少し旬には早いが、水耕栽培のお陰か、時期をずらしても美味しい三つ葉をいただくことができる。
そして平行して炊き込みご飯である。千隼はどう作るのが美味しいかをいつも楽しみながら考える。
まずは米を洗う。ボウルに入れた生の米にミネラルウォータを注ぎ、たっぷりと吸わせる。ざっと大きく混ぜて、米をこぼさない様に注意しながら水を捨てる。
ここで研ぎ作業。最近の米はぬかがほぼ取り除かれているので、強い力は必要無い。ボールを握る様な指先でぐるぐると何度かかき混ぜていく。米が割れたりしない様に丁寧に。
さてすすいで行く。ここは水道水を使う。濁った水を捨て、それをもう1度繰り返し、最後はミネラルウォータ。それも混ぜたら捨てて、ミネラルウォータに浸しておく。
その間に食材の下ごしらえだ。使う根菜は新ごぼうと人参。普通のごぼうより細い新ごぼうは斜め薄切りにし、人参はごぼうのサイズに合わせた短冊切りにしておく。
椎茸は石づきを取り、軸と傘を切り離してから、軸は裂いて、傘はスライスしておく。
お揚げは油抜きをし、人参と同じぐらいの大きさの短冊切りに。
これからが旬の新ごぼうはあくが少なく柔らかい。炊き込みご飯にたっぷり使おうと買い込んで来た。
人参は冬が時期と言われ、甘みもぐっと増すが、春にも春人参と言われる美味しい人参が出回るのだ。
材料の支度が終わったら、浸水したお米の水を切って炊飯器の釜に移す。そこに酒とみりん、醤油を入れ、お出汁を分量まで注ぐ。
全体をさっとまんべんなく混ぜたら食材を米に被せる様に入れ、炊飯スイッチをオン。あとは炊飯器にお任せである。
炊き上がったらふたを開けて余分な湯気と水分を飛ばし、しゃもじを使って底から混ぜ起こして行く。すると程よく色付いたおこげが顔を出した。
「うん、美味しそうに炊けてる。おこげええなぁ!」
香りもとても良い。千隼は満足げに目を細めた。そうして切る様に混ぜ合わせたら再びふたをして蒸らして行く。
その間に最後の食材の準備だ。フライパンを温めて米油を引き、豚のひき肉をぽろぽろになる様に炒めて行く。途中で出た余分な油はペーパーでていねいに拭う。
味付けは日本酒と醤油と軽い塩で付ける。
そうして出来上がった豚そぼろを、炊き上がったご飯と混ぜ合わせると、豚ひき肉と根菜の炊き込みご飯の完成だ。
茶碗によそってから仕上げに白ごまを振り、彩りに小口切りの青ねぎをちょこんと盛る。
また夕飯の前におしながき用の写真を撮る。いつもは料理3品のみだが、今回は炊き込みご飯とお味噌汁も一緒に。
ホワイトボードには大きく「肉の日の炊き込みご飯」と書くことにしよう。
その日、炊き込みご飯を付けた定食は飛ぶ様に出た。常連さんは肉の日は炊き込みご飯だということをご存知なので、それを目当てに来店される。
いつもはお酒を頼まれるお客さまも、この日ばかりは酒量を控えて炊き込みご飯に舌鼓を打たれる。やはり炊き込みご飯は皆大好きなのだ。
量は普通とハーフを設定した。お酒も飲みたいが炊き込みご飯も食べたいお客さまには好評だ。
もちろんいつもの様にお米を頼まれずお酒を飲むお客さまもおられる。
生々しい話をすると、酒を出す店では酒の売り上げが収益を左右するのである。酒は利益率が高いのだ。
なので肉の日はいつも以上に仕込みに手間が掛かる割りに、実は売り上げは少し落ちてしまう。
だが佳鳴と千隼は毎月29日には、せっせと炊き込みご飯を据えた献立を仕込む。
特に千隼は炊き込みご飯の様な味の付いたご飯に、少しこだわりがあるのだった。
千隼は白米が食べられない子どもだった。今でこそその美味しさをしみじみと喜べるが、幼いころはその甘みを気持ち悪く感じたのだ。
甘いものが嫌いだった訳では無い。砂糖を多く使用している菓子などは好んで食べていた。単に白米の美味しさが判らない子ども舌だったのだ。
なので、親は苦労したことだろう。
普段はふりかけをたっぷり振ったり、海苔を巻いて食べていた。それでもあまり食が進むことは無く、おかずばかり食べていた様に思う。
だからお米そのものに味が付いているご飯が出た時は本当に嬉しかった。炒飯やオムライス、炊き込みご飯などがそうだ。ルーがたっぷりのカレーライスやハヤシライスも好きだった。
佳鳴いわく「うちは多分、他のお家より白いご飯少なかったと思うで」とのこと。
よそと比べたことなど無いが、子どもが苦手で食べられないのなら、親は工夫してくれると思うので、そうだったのだろう。
今ではふりかけも海苔も無しで美味しく食べられる。むしろほかほかつやつやふわふわの白米を食むたびに「日本人で良かった」と思う。
いつ食べられる様になったのかははっきりとは覚えていないが、高校時代、食堂で食べる定食に付いていた白米を何も思わずそのまま食べていたので、大きくなるにつれて気付かぬうちに味覚も変わって行ったのだろう。
ではどうして炊き込みご飯にこだわる様になったのか。
千隼にとって、親が作ってくれる炊き込みご飯などの味の付いたご飯は、親の愛情の証だったのだ。
佳鳴と千隼の両親は共働きだった。なので学校が終わって家に帰ったら姉弟で過ごしていた。保育園の頃には残業をせずに迎えに来てくれていた記憶がある。
そんな忙しい中で、手間の掛かる炊き込みご飯などを頻繁に作ってくれていたのだ。
それに加えておかずも作ってくれたのだから、本当に感謝しか無い。
味の付いたご飯だと、おかずが1品少ないこともある。だがそんなことは気にならなかった。千隼はただただ美味しくご飯が食べられることが嬉しかった。
なので、千隼は今日も感謝を込めて炊き込みご飯を作る。今はお客さまに感謝して。千隼の心が届きますようにと。
「あ〜優しい味! 炊き込みご飯美味しいわぁ」
「ほんまに。噛み締めると味がじゅわっと沁みるやんね。美味し〜い」
お客さまは皆そう言いながら、顔を綻ばせて炊き込みご飯をかっこんでいる。
「香ばしいのはおこげ?」
「それもですけど、豚のひき肉を炒めてから混ぜ込んでますので、それもあると思いますよ」
「あ、なるほど。全部入れて炊いてるわけや無いんや。へぇ、そんな作り方もあるんかぁ」
「それだけ手間暇掛けて作ってくれてるってことやんね。家じゃ面倒でなかなかできひんかも。洗い物が増えるんは嫌やぁ〜」
好評の様で、千隼は嬉しくなる。ていねいに仕込んだ甲斐があるというものだ。
そして、炊き込みご飯は22時ごろに無くなってしまった。いつもより早い時間だ。
最後の定食を食べられたお客さまが帰られた23時ごろ。店内にお客さまはいなくなってしまった。
「どうしよか。おかずがまだ少しあるけどご飯無くなってもうたし、閉店する?」
「そうやねぇ、もうこの時間やし、お客さまはもう来はれへんかなぁ」
「俺ちょっと人通り見てくるわ」
千隼は言うと表に回って外に出る。もう遅い時間なのでやはり人通りはほとんど無く、これならもう閉店してしまっても構わない様な気もしてしまうが。
すると駅の方から人影が現れる。走って来るその人は常連の田淵さんだった。
「あ、ハヤさんこんばんは! まだお店やってますか?」
「こんばんは。残業ですか? お疲れさまです。炊き込みご飯は無くなってしもたんですけどおかずはありますよ。よろしければどうぞ」
「ありがとう。助かるわ」
田淵さんはほっとした様に表情を緩め、千隼が開けたドアから店内に入って行く。千隼も後に続いた。
「田淵さん、いらっしゃいませ」
佳鳴の出迎えに、田淵さんは小さく頭を下げた。
「こんばんは。すっかり遅くなってしもうて」
「ご飯が無くなってしもたんですよ。おかずだけなんですが良いですか?」
「らしいですね。今日は肉の日で炊き込みご飯ですもんね。早く無くなっちゃうだろうなぁとは思ってたんですよ」
「申し訳ありません」
「いえいえ、こっちが遅くなってしもたんですから。じゃあ一番搾りください」
「はい、お待ちくださいませ」
佳鳴が田淵さんにおしぼりを渡し、横で千隼がビールを用意する。
「お待たせしました」
グラスをお渡しすると、田淵さんは「ありがとう」と受け取り、さっそく千隼がお注ぎした1杯を喉に流し込む。
「あ〜美味しい! やっぱり仕事の後の1杯は格別ですね」
「そうですね。僕たちもお店を閉めた後に飲むこともありますけど、やっぱりそう思いますねぇ」
そして料理を整える。少しボリュームが足りないだろうか。しかしもう遅い時間なので、軽いめの方が良いだろうか。
「田淵さん、今日は炊き込みご飯やったんでおかずに肉っ気が無いんです。何かお作りしましょうか?」
「いえいえ、もう遅い時間なのでさっぱりの方が嬉しいです」
「では煮物を少し多めにしておきましょうか」
「それは嬉しいです」
そうして千隼は器に盛った料理を田淵さんにお出しする。
「健康的ですねぇ。ビール飲みながら言うせりふや無いですけど」
「でも酒は百薬の長なんて言いますから、飲み過ぎなければ健康的って言うてもええかも知れません。それにビールはストレスを緩和してくれるって聞いたことがありますよ」
佳鳴の言葉に田淵さんは「へぇ」と小さく笑う。
「それはなんだか凄いですね。ビールを飲む罪悪感が薄れます。つっても、幸い元々そうあるわけや無いんですけど」
「そうそう、炊き込みご飯と言えば、僕、小さい頃は白いご飯があまり食べられなくて、ご飯が炊き込みご飯とか丼ぶりの時は嬉しかったなぁ」
「あ、それ僕と一緒です。僕も子どもの頃は白米苦手でした」
「ふふ。なのでうちのご飯は炊き込みご飯とか多かった覚えがあるんですよ」
「それは羨ましいですねぇ。うちはふりかけしかくれなくて。それも掛けすぎると怒られてました」
「うちも普段はふりかけとか海苔でしたよ。味のあるご飯はご馳走でした。あ」
千隼はふと思い立ち、声を上げる。
「田淵さん、味のあるご飯一緒に食べませんか?」
「え?」
「ちょっとお待ちくださいね。姉ちゃん、悪いけど卵2個で炒り卵作っとって。多めのごま油で」
「分かった」
千隼はそう言い残すと、上の居住スペースへと上がる。乾物などを入れてある棚を開け、パックのご飯を取り出す。レンジで温めるだけで食べられるものだ。
それをふたつ蓋を一部開け、まとめてレンジに放り込む。ひとつなら3分ほどだがふたつだと4分半ぐらいだろうか。
待つ間にボウルとしゃもじを用意しておく。どちらもご飯がくっつかない様に水にくぐらせた。
やがてレンジが仕上がりの合図を鳴らす。千隼はレンジを開け、火傷をしない様にパックを取り出し、中身をボウルに移して、しゃもじで切る様に混ぜ合わせた。
「よっしゃ」
千隼は電気を消し、慌てて、だが慎重に下に降りて行った。
「姉ちゃん、パックのご飯使ったで」
「うん。卵焼けたで」
見るとコンロの上の小さなフライパンに、綺麗な炒り卵ができあがっていた。
「ありがとう」
千隼はご飯に塩昆布とかつお節を入れてさくさくと混ぜ込んで行く。そこに炒り卵と白ごま、青ねぎの小口切りを入れてさらに混ぜ、小振りな茶碗に盛った。
「簡単な混ぜご飯ですけど。サービスです」
「え、ええの?」
「はい。お話をしていたら食べて欲しなってしもうて。おせっかいですけど」
「ううん、嬉しいです。話をしていたら僕も食べたなって来てもたですもん。明日にでも家で作ろうかなて思ったぐらいで。ありがとうございます」
田淵さんはグラスに入っているビールをぐいと飲み干すと、茶碗を手にし、あらためて「いただきます」と言ってお箸を動かした。
「あ、ええなぁ、塩昆布とかつお節でしっかりと味が付いてて、でも濃くなくて、卵とごまとすごく合う。素朴で美味しいですね!」
そう言って嬉しそうに目を細めた。
「良かったです。はい、姉ちゃんも」
「ありがとう」
佳鳴も千隼から受け取った混ぜご飯を口に放り込み、「うんうん、美味しい」と頷く。
千隼も茶碗に盛った混ぜご飯を口に運び、「うん、上出来上出来」と満足げに頷いた。
「これ、明日にでも沙苗さんに作ってあげようかなぁ」
「ほんまに簡単なんで、よろしければ作ってみてください。メモですけどレシピをお渡ししますね。これにオイルを切ったツナ缶を入れても良いですよ」
「なるほど。それも美味しそうですね」
「あ、田淵さん、混ぜご飯サービスさせていただいたことは内緒ですよ」
佳鳴が言って人差し指を唇に当てると、田淵さんは「あはは」とおかしそうに笑う。
「解りました。沙苗さんには話の流れで作り方教えてもらったって言いますね」
「お願いします」
また嬉しそうに混ぜご飯を食べる田淵さんを見て千隼も嬉しくなる。
千隼が親から愛情を注がれた様に、お客さまに情をもって寄り添い、美味しいものを食べてもらいたいとしみじみ思った。
そろそろ春の気配も濃くなり、桜もちらほらと開き始める。空を見上げればまだらな淡いピンクの光景が見えた。
金曜日、煮物屋さんの営業が始まって20時ごろ、またひとりの常連さんが訪れる。
「こんばんは〜」
そう言いながら入って来たのは、片桐さんと言う若い女性だ。晴れ晴れとした表情である。まるで鼻歌でも飛び出しそうだ。
「いらっしゃいませ。ご機嫌ですねぇ」
なので佳鳴はつい言ってしまう。すると片桐さんはにこにこと「判ります?」と笑う。
「ふふ、原稿が完成したんです!」
この片桐さんは漫画家志望なのだ。会社に勤めながら毎日こつこつと漫画を書いては、数週間、数ヶ月を掛けてひとつの漫画を完成させているのだ。
「どうしても今日中に仕上げたぁて有給取ってまいました。明日推敲して、明後日見てもらうんです」
片桐さんは佳鳴が渡したおしぼりで手を拭きながら言った。
「見てもらう? そういうイベントみたいなんがあるんですか?」
「そうそう、イベントです。そこに漫画雑誌の編集者さんが来はって、見てくれはるんですよ」
「それは凄いですね。そこで認められたらデビューですか?」
「あはは、そう上手くは行かんでしょうけど、まずは見て欲しいなって。プロの人から見て、私の漫画はどうなんやろかって。これでもプロになりたいって思ってるんで、今の自分の力をちゃんと知っておかなって思ってるんです」
「それは大事なことですね。楽しみの様な、怖い様な、って、私が思うことじゃ無いですが」
佳鳴が言うと、片桐さんは「そうなんですよねぇ〜」と苦笑を浮かべる。
「少しだけ、少しだけは自信があるんです。とりあえず話を考えて漫画を完成させるだけの力はあるんで。漫画家になりたいって言っている人の中には、あまり練習とかせぇへんで、せやからちゃんと描けなくて、でも漫画家になりたいって気持ちだけが大きくなってもうてる人もおるので」
「そうなんですね。だったらやっぱり片桐さんは凄いですね!」
千隼が言うと、片桐さんは嬉しそうに「ふふ」と笑みをこぼす。
「あ、注文遅くなってごめんなさい。お酒でお願いします。えっと、酎ハイのレモンで」
「はい。かしこまりました」
まずは酎ハイを作る。おお振りのグラスに氷を入れ、そこにキンミヤ焼酎を入れ、レモン果汁を垂らし、炭酸水を注いてステアする。
提供したそれを、片桐さんはさっそく傾ける。
「美味しい! 原稿上がりだから一段と美味しい! もう今日は何もせえへんから、ゆっくりお酒がいただけます。シャワーも浴びて来てやりました」
「それは贅沢ですねぇ。はい、お料理お待たせしました」
今日のメインは、鶏肉と筍と人参と厚揚げの煮物。塩茹でしたアスパラガスで彩りを添えてある。
生の筍は春にだけ食べられる贅沢品だ。人参も春人参が美味しい。アスパラガスも時期のものだ。
筍の下ごしらえは手間が掛かるが、だからこそこうしてお店で食べていただきたい。
皮目を香ばしく焼き付けた鶏肉と筍と人参、厚揚げをお出汁でことこと煮て、お酒とお醤油などでシンプルに味を整えている。
小鉢、まずは小松菜とえのきのごま炒め。ごま油で炒めた小松菜とえのきに、味醂と日本酒、醤油で調味をして、白すりごまをたっぷりとまぶしてある。しゃきっとした風味の良いお野菜の中にごまが香る一品だ。
旬が過ぎたばかりの春菊だが、まだまだ肉厚で美味しくいただける。
もう1品はクレソンとわかめとかにかまの酢の物である。他の料理が甘めなので、酢は少し酸味を強めにした。
片桐さんはまず酢の物を口にし、「んん」と嬉しそうな声を上げた。
「さっぱりしていてええですねぇ。こっちのごまのが甘くて、バランスがええなぁ。煮物は相変わらず優しい味で嬉しいです。こういうのってどうやって考えはるんですか?」
「仕入れの時に考えることが多いですねぇ。甘いとか辛いとか酸っぱいとか、そういうバランスはできるだけ考える様にしていますけど。味に変化がある方が楽しんでいただけるかなとも思いますし」
「なるほどです。それは漫画にも通じるものがあるかもです。淡々と話が続くより、緩急がある方がおもしろいと言うか。もちろん淡々と読ませる漫画もあるんですけど、それをおもしろくするのは難しくて。あ、グルメ漫画の参考になりそうです。でもご飯を美味しそうに描くんも難しいんですよねぇ」
「そうなんですね。あ、でもグルメ漫画とかちょっと読んでみたいかも。私たちには勉強にもなるでしょうし」
「そうですね。レシピが載ってる漫画もぎょうさんあるんですよ。せやのでお料理が好きな人とかは楽しめると思います」
「そうなんですね。おすすめとかありますか?」
「そうですねぇ〜」
片桐さんは楽しそうに小首を傾げた。
翌日になり、佳鳴たちはまた仕入れの為に家を出る。いつもと違うのは、車に乗らず、歩いて駅方面に向かう。だがたどり着いた改札は素通りし、高架沿いをそのまま進み、到着したのは本屋だった。
明るい清潔な店内だ。佳鳴たちが本を見る時には必ずと言って良いほど足を運ぶので、慣れたお店でもあった。ふたりは迷うこと無くコミック売り場に向かう。
「えっと、片桐さんが言うてはったんのは、あ、これやな」
大きな棚にずらりと並べられた漫画本。その棚さしの中から1冊を抜き出した。それは昨夜、片桐さんに教えてもらったグルメ漫画の1巻である。
居酒屋を舞台にした、店員と客の触れ合いが描かれた漫画とのことで、居酒屋では無いが、酒なども提供する飲食店を経営する佳鳴と千隼は、ぜひ読んでみたいと思ったのだ。
また、片桐さんとの話のねたにもなるので一石二鳥だ。片桐さんは今からでも買いやすい様にと、現在3巻まで出ているものをおすすめしてくださった。
「今夜読んでみようっと」
「その後俺も貸してや。気に入ったら2巻は俺が買うで」
「ええで〜。交互に買ってって、リビングに置いていつでも読める様にしておこうか」
「そうやな」
佳鳴はシュリンクされた1巻を手に、レジへと向かった。
翌朝、起き出してキッチンに顔を出した佳鳴は、「ふわぁ」と大きなあくびをした。
「姉ちゃん、夜ふかししたか」
「まぁねぇ〜。でも少しやで。漫画1冊読み込むぐらい」
まだ寝惚けたぼんやりとした声で言うと、千隼からすかさず突っ込みが入る。
「読み込んだんかい」
「おもしろかったで。優しいお話やったぁ。うちもお客さまがそんな気持ちになってくれはったらええんやけどなぁ」
「なるほどな。俺も読んで勉強しよ。明日は店も休みやから、少しぐらい夜ふかししても平気やし。あ、ビールでも飲みながら読むかな」
「それええなぁ。よし、今日3巻まで買って、私も飲みながら読もうっと」
「その前に家事やな。店もあるんやし」
「分かってるって」
佳鳴は笑い、またふわぁとおおきなあくびをした。
定休日の月曜日が過ぎ、火曜日になりまた煮物屋さんの営業が始まる。
「こんばんは!」
19時を過ぎた頃、元気にそう言って入って来たのは片桐さんだ。またにこにこと笑顔を浮かべている。
「こんばんは、いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
片桐さんは空いていた奥の方の席に掛け、千隼から受け取ったおしぼりで手を拭いた。
「お酒でお願いします。今日はええっと、カルピス酎ハイで」
「はい。お待ちください」
まずはカルピス酎ハイを作って提供し、続けて料理を整える。
今日のメインはかんぱち大根だ。絹さやで彩りを添えている。
冬ならぶりでぶり大根を作るが、春だとかんぱちが旬だ。ぶりと負けず劣らずの仕上がりになる。
お塩と日本酒で臭み抜きをしたかんぱちは、さらにさっと霜降りし、お米の研ぎ汁で下茹でした大根と煮込む。味付けは生姜と日本酒、お砂糖にみりん、お醤油。
さっぱりとしつつも脂のりの良いかんぱちはほろっとほぐれ、口に入れるとじゅわっと甘みと旨味が広がる。煮汁もしっかりと蓄えていて、大根にもしみしみだ。
小鉢はしらたきと三つ葉の酢味噌和えと、厚揚げときのこの煮浸しだ。
さっと茹でたしらたきと三つ葉はそれぞれざく切りにし、酢味噌で和えた。ぴりっとしつつも爽やかな一品だ。
煮浸しは日本酒とみりん、薄口醤油で優しい味付けにし、厚揚げとしめじとえのきをさっと煮て、火を落として冷ましながら余熱で火を通す。
手軽に作れる一品ながらも、素材の旨味がしっかりと感じられる調理法だと思っている。
片桐さんはさっそく箸を手にし、料理に舌鼓を打つ。嬉しそうに「かんぱち美味しい〜」と目を閉じた。
「片桐さん、先日教えていただいた漫画読みました。おもしろかったですよ」
佳鳴が言うと、片桐さんはぱあっと顔を輝かせる。
「嬉しいです! 私もいつも続きが楽しみで。連載分を電書で読んでるんですけど、コミックが出たら買ってまいますわ。こっちも電書でなんですけど」
「うちは紙の本ですねぇ、ものにもよりますけど。あの漫画は千隼と共用ですから」
「ああ、電書やと共用は難しいですもんね。私、あの漫画読んだ時にこの煮物屋さんのことを思い出したんですよ。ここは正確には居酒屋とは違うんですけど、優しいお店っていうのが共通してるなぁって」
「あらぁ」
佳鳴と千隼にとって、それはとても嬉しい言葉だった。
「そうおっしゃっていただけて嬉しいです。もっと精進しますね」
「今で充分ですって。あ、もののついでに聞いてください。この前、日曜日。描いた漫画を雑誌の編集さんに見てもろたんですけど」
「あ、先週おっしゃっていたのですね。どうだったのかお伺いしても?」
「はい。ええと、良いところ悪いところ、半々と言った感じでした〜」
それは決して良い結果では無いだろうに、片桐さんは楽しそうにからからと笑った。
片桐さんは笑いながら口を開く。
「絵は悪う無いんですって。でもコマ割りが細こすぎてくどいて言われました」
「コマ割りって、ええっと、あの枠で区切っていくことですよね?」
「そうです。そのひとつひとつをコマって言うて、それを1ページに構成していくことをコマ割りて言うんです。だいたい1ページ6コマ前後が読みやすいと思うんですけど、私は余白がもったいないて思うて、つい詰め込んでしまうんで」
片桐さんは言って、だが楽しそうに笑う。酷評されたわけでは無い様だし、良いところも言ってもらえた様だ。片桐さんにとってはおそらく手応えがあったのだろう。
「そういうのもバランスなんでしょうか」
「そうですね。大きなコマと小さなコマ、コマから飛び出させる工夫とか見開きとか。そういうのをもっと勉強せんとです」
「そういうんてどうやってやるもんなんですか? 僕たち漫画は読むばっかりで、全然詳しなくて」
「読んで勉強するしか無いんだと思います。そう思うと凄いお手本が世の中には溢れてますもんね。家にもたくさんあるんですけど、また新規開拓もしようかな」
「それはまた楽しみですねぇ」
「はい」
片桐さんは嬉しそうに言って、かんぱちの切り身を頬張った。
それから数週間が経ち、煮物屋さんはいつもの様に営業を始める。
「店長さん、ハヤさん、聞いてください!」
そう言いながら息急き切った片桐さんが飛び込んで来た。佳鳴も千隼も驚いて目を見開く。お客さまも「なんだなんだ」と一様に顔を上げた。
「あっ、お騒がせしてごめんなさい。あ、あの!」
そう興奮した面持ちで片桐さんは胸元で拳を握る。
「片桐さん、落ち着いてください。いらっしゃいませ」
「ごめんなさい。あの、あの」
片桐さんはもどかしそうに手近な空いている椅子に掛ける。
「私、漫画家デビューが決まりました!」
片桐さんがそう叫ぶ様に言う。すると一瞬店内がしんと静かになり、次には「わぁっ!」と歓声が上がった。
「凄いやないか!」「おめでとう!」
常連さんたちからそう称賛の声が次々と上がる。常連さんは片桐さんが漫画家を目指して邁進されていることを知っていた。佳鳴と千隼も驚きつつ嬉しくなって「おめでとうございます!」と笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます! あ、まずは注文ですよね。酎ハイの、今日はライムで」
「かしこまりました」
佳鳴と千隼が飲み物や料理の用意をしている間にも、片桐さんは口を開く。
「実はイベントで見てもらうんとは別に、投稿用も描いていたんです」
「投稿って、編集部に送るやつですか?」
「そうです。定期的になんとか賞みたいなんをやってて、そこに送ったんが目に止めてもらえたんです」
「じゃあそれがデビュー作になるんですか? はい、酎ハイお待たせしました」
「ありがとうございます。いえ、それが」
片桐さんは少し沈んだ声で言うと、酎ハイをひとくち飲んで息を吐き、ほんの少し眉尻を下げて苦笑の様な顔を見せた。
「実は原作とネーム、あ、コマ割りとか構成とかそういうのなんですけど、それは別の作家さんなんです」
「そういうことってあるんですか?」
「原作と作画が別の作家さんて言うんは、そう珍しいことや無いんです。なのでそれでデビューでも全然おかしくは無いんですよ」
「そうなんですね」
「賞に応募していたんですけど、その賞とは全然関係無いところで話が進んだそうで。コマ割りとか構成は、前にも編集さんに言われたんと似たことを言われました。細こうてくどいて。でも表紙の1枚絵とか、絵柄そのものをとても気に入ってくれはったそうで」
「それは喜ばしいことでは無いんですか? はい、お待たせしました」
今日のメインは豚だんごと春きゃべつと人参と焼き豆腐の味噌煮だ。彩りは絹さやで添えた。
お味噌や日本酒などの味付けでことことと煮た豚だんごはふくよかで、しんなりしたきゃべつや人参にも優しい煮汁が良く絡み、焼き豆腐にもしっかりと染み込んでいる。
小鉢はクレソンとじゃこのおひたしと、豆もやしとにらの酢の物。煮物が少しだが強いめの味なので、小鉢はあっさりとしたもので整えた。
「それはもちろん。それが無かったら引っかかりもせんかったんですから。なんでその会社が出してるライトノベルとかの絵師、ええっと表紙とか挿絵とか、要はイラストレーターとしてのデビューはどうかて言われたんです。でも私はやっぱり漫画が描きたかったんで返事に困っていたら、じゃあ原作とネームを用意するから作画しないかって」
「それは、私たちは素人なのでとても良いお話に聞こえるんですけど」
「そうですよねぇ」
片桐さんは唸る。そして豚団子にかぶり付き「あ、美味しい。豚と味噌すごく合う」と嬉しそうに口角を上げた。
「私なんてデビューもできていないひよっこです。なのにそこまで絵柄を見てくれるて凄いことなんやと思います。でも私は自分で考えた世界も含めて漫画が描きたいんです。でもデビューできることは凄い嬉しいんで、提案してくれたことに了解したんですけど、私の漫画、世界そのものを否定されたみたいで、そこは少しへこんでまいました。漫画の才能が無いんかなて。あ、何度も言いますけどデビューは本当に嬉しいんですよ。親にもですけど、これまで話を聞いてくれた店長さんとハヤさんにも早よ聞いて欲しくて、お店まで走って来てまいました」
「複雑なお気持ちなんですね」
「そうなんです! 複雑なんです〜」
片桐さんは嘆く様に言ってうなだれた。
「じゃあ片桐さん、お勉強して見返しちゃいましょうよ」
「え?」
佳鳴の言葉に片桐さんはきょとんと声をもらす。
「言うてしまえば、授業料を払わずに、むしろ原稿料って言うんですか? そういうのをいただきながら、コマ割りとかのお勉強させてもらえるってことになりませんか?」
「あ、はい、そうですね。確かに勉強にはなると思います。プロの方のコマ割りを見て実際に描くことができるんですから」
「それで今以上にスキルを上げて、編集さんに片桐さんがいちから全部描いた漫画を突き付けちゃいましょう。お話はもちろんコマ割りや構成も、こんなに巧なったんやでって」
すると片桐さんはほのかに頬を紅潮させる。その目は輝いていた。
「私にできるでしょうか」
「継続は力なり、努力は裏切らない、なんて言いますよね。何もせんと発展は無いですが、まずは始めることやと思います。プロの方のもんを見て描くのでも、ただ描き写すだけや無く、自分の勉強のためにて思えばまた違って来るんやないやろかて思います」
「そう、ですね。そうですよね。私やってみます。今よりもっとおもしろい漫画を描ける様になりたいです!」
片桐さんは力強く言って、両手で拳を作った。
「描けたら、自信作が描けたら読んでくれますか?」
「もちろんです。楽しみにしていますね」
「はい!」
片桐さんは笑顔になると酎ハイをぐいとあおり、「がんばります!」と明るい声を上げた。
数ヶ月後、移り変わった季節は初夏を映し出していた。また今年も猛暑になりそうな気配だ。
買い出しから帰って来た佳鳴と千隼は、買って来た食材などを煮物屋さんの冷蔵庫に手早く放り込み、並んでカウンタに掛けると1冊の雑誌を広げた。市場に行く前に、いつもの本屋で買って来たものである。
「どこやどこや」
「姉ちゃん待って。目次どこや」
普段あまりこの手の雑誌を読まないふたりは慣れていない。前から後ろからとぱらぱらとめくって、巻末に目次を見付けたふたりは、目的のものを探し出す。
「えっと、苗字は本名なんよな」
「そうそう。あ、あった!」
佳鳴が指を差したページを開く。すると現れたのはふたりの若いエプロン姿の男性の立ち姿が描かれたカラーページだった。中頃にタイトルが大きく書かれており、その下には手掛けた作家の名前が記されている。
「わ、きれい。イケメン」
「ほんまや。こりゃ確かに巧い」
これは片桐さんのデビュー作なのだ。原作は佳鳴たちでも知っている小説家が書く文芸書籍で、定食屋が舞台のお話だ。
片桐さんによる作画での新連載が、この女性向け月間漫画雑誌で始まったのだ。
今や電子書籍のみでの連載も多い中、片桐さんは紙の本でデビューした。
掲載号が決まった時に片桐さんが嬉しそうに教えてくれた。作画も順調だとその時に言っていた。だが料理の描写に四苦八苦しているとも言っていた。
「雑誌が発売したら持って来ますね!」
片桐さんはそう言ってくれたが、佳鳴たちは待ち切れなくて買ってしまったのだった。
煮物屋さんの仕込みの時間もあるので、しっかりと読み込むのは夜にするとして、今はざっと流れる様に読んで行く。そして最後のページまで進むと、佳鳴たちは「はぁ〜」と大きな息を吐いた。
「さすが原作が有名なだけあっておもしろい。片桐さんの絵ももちろん凄いな! 華があって表情も豊かで、デッサンって言うん? そういうのがしっかりしてるんかな、スタイルとかのバランスが凄く良く見える。ご飯も美味しそうに描かれとったね」
「ああ。俺ら片桐さんの完全オリジナルを読んだことあれへんけど、絵柄がええって言う編集さんの言葉も解る気がする。これ、片桐さんがいろいろ勉強してもっと巧なったら凄いんちゃう?」
「そうやね。オリジナル読ませてもらえるんがますます楽しみになってもた」
佳鳴は楽しそうにそう言うと、「あ、そうそう」と口を開く。
「お持ちいただく前に読んでもたことは、片桐さんに内緒な」
「もちろん。俺の演技力が試される時やな」
「大根なんや無いの〜?」
「アカデミー賞ものやっての」
そんな軽口を叩きながら、佳鳴は漫画雑誌を大切に胸元に抱いた。
「あとでちゃんと読むん楽しみ。さ、仕込み始めようか」
「おう」
そしてふたりは立ち上がる。千隼は厨房に入り、佳鳴は漫画雑誌をリビングに置きに上がった。