数日後、訪れた高橋さんの表情は、先日とは違ってとても晴れやかなものだった。
カウンタに掛けておてふきで手を拭いた高橋さんは、ふぅと小さな息を吐いて、口を開いた。
「あの、私、昨日の晩、渡部さんに辞退の電話を入れました」
「渡部さんと言うことは、スカウトされたお話ですね?」
佳鳴が確認する様に言うと、高橋さんは「はい」と大きく頷く。
「あれからも考えたんです。でも、店長さんが言ってくれた「目くらまし」って言葉が胸に刺さってしもうて。私、芸人になりたい訳でも、歌手になりたい訳でも無いんです。お芝居が好きやから劇団に入ったんです。なので「女優になりませんか?」やったら、目くらましにやられていたかも知れません。もちろん迷いに迷うとは思うんですけど。なので今回はありがたいですし申し訳も無いんですけど、お断りしました」
「そうですか」
佳鳴は応え、にっこりと微笑む。
「高橋さんが出された結論なら、それが今のベストなんやと思います。ご納得されているなら、良かったな、と思います」
「はい!」
高橋さんは満足げに微笑んで頷いた。
「あ、注文ええですか? まずはお酒で。あとでご飯とお味噌汁ください」
「はい、かしこまりました」
佳鳴たちは料理を整える。今日のメインは鶏の水炊き風だ。
処理した鶏がらと白ねぎの青い部分、生姜と日本酒と塩を使って出汁を取り、それで骨付き鶏肉と白ねぎの白い部分、白菜、椎茸、木綿豆腐をことことと煮込み、お客さまに提供する寸前に春菊に火を通して盛り付ける。
出汁にしっかりと鶏の味が出ているので、そのままでも食べていただけるが、お客さまのご希望でポン酢をお出しする。
さすがに西の地の名物には敵わないだろうが、千隼なりに丁寧に作らせていただいた自信作だ。
小鉢は水菜の刻みわさび和えと、ひじきとちくわの白和えだ。
水菜はさっと塩茹でし、刻みわさびと和えたぴりっとした一品。ご飯にもお酒にも合う。
白和えは豆の味を感じて欲しいので木綿豆腐を使っている。水切りして崩して、隠し味程度に昆布茶とかつおの粉末を入れ、お砂糖とお醤油、白すりごまで味を整えている。
白すりごまの香ばしさはもちろん、お出汁の旨味も感じられる一品に仕上がっている。
「鶏のお出汁美味しい〜。置いといて、あとでご飯に掛けて食べよ。絶対美味しいやつや!」
出来たら鶏だしも味わって欲しかったので、スプーンをこっそり添えている。高橋さんは具を食べる前に鶏だしを口に含み、うっとりと目を細めた。
スプーンはその役割をしっかりと果たしていて、ほとんどのお客さまが見事に鶏だしを飲み干してくれていた。
お客さまによっては器を傾けて直接飲み干してくださった。
そうしていつものカナディアンクラブのハイボールとともに食事を進められていると、また常連さんが訪れる。岩永さんだった。
「こんばんは。お酒でお願いします。ビール、スーパードライで。あ、高橋さん」
入ってくるなり注文をし、高橋さんに気付いて笑みを浮かべる。
「公演、ほんまに良かったで。次も行かせてもらうな」
岩永さんの言葉に、高橋さんは「ありがとうございます!」と満面の笑みを浮かべた。
岩永さんは高橋さんのふたつ離れた席に掛ける。おしぼりを受け取り、続けてビールを受け取って、美味しそうにグラス半分をぐいと煽っては、はぁ〜と心地良さそうな溜め息を吐いた。
続けて料理を受け取り、ゆったりと食べ始める。
そうしていると、またお客さまが訪れる。
「いらっしゃいま、せ」
迎えた千隼が一瞬戸惑ったのは、そのお客さまが渡部さんだったからだ。高橋さんをスカウトした方だ。
高橋さんもドアが開く音に反応したのか首をひねり、「あ」とそのまま固まった。
渡部さんはせかせかと店内に入って来て、高橋さんの隣に腰掛けた。
「高橋さん! 押し掛けてごめんやで!」
渡部さんが叫ぶ様に言うと、それまでくつろいでいた他のお客さまが「何や?」「何や?」とざわつき、次にはなだらかに静かになる。
「電話でのお話は分かったわ。でもやっぱり直接会って話がしたかってん。なんで駄目やったん?」
高橋さんはうろたえて、「あ、あの」と言い淀む。それを見て渡部さんは詰め寄る様に前のめりになっていた姿勢を正した。
「ごめんやで。電話ではあまりちゃんと話ができひんかったから。きちんと話がしたいなって思ってん」
渡部さんの言葉に、高橋さんは「ん」と喉を鳴らし、気合いを入れる様にハイボールをひと口飲んだ。
「あの、お申し出はほんまにありがたいと思っています。ですが、私は歌手になりたい訳でも、芸人さんになりたい訳でも無いんです」
「ええ、そうやね。そう言ってたね。でも今は歌手スタート、芸人スタートで、ドラマに出て俳優活動をする人もたくさんおるで」
「でもそれは、売れてなんぼ、ですよね」
高橋さんが言うと、渡部さんは窮した様に口を閉じる。
「その段階に行けるまで耐えられるかどうかが判りません。それに女優さんとしてお声掛けいただいた訳や無いってことは、まだそのレベルに達していないってことですよね。私にはその覚悟がありません。1番好きじゃないことをしながら、芸能界に居続けられる覚悟が。なのでお断りしました」
高橋さんがそうはっきりと言うと、渡部さんは困った様に小さく息を吐いた。
「そんなあなたを守るんが、マネージャーである私たちの仕事や。それでも?」
「はい。もうこんなチャンスは無いと思います。ですけど、もし、もし将来、渡部さんが私の演技を認めてくださって、女優としてスカウトしたいって思ってくださったら、その時にはお声を掛けてくださったら、多分私は喜んで受け入れると思います。親は反対するでしょうけど、バトルも厭いません」
「……そうか」
渡部さんはそう言い、また小さく息を吐いた。
「解ったわ。今回は引き下がるわ。でも完全に諦めた訳や無い。私は地元がここやから、次の公演も見させてもらうで。次の予定は決まってるんやろか。おおまかでも」
「来年やと思います。うちは年に1度の公演なので」
「そんなに先なんか! でもそうやね、1年また研鑽を重ねてもらって、また力を付けてもろたら、来年の私の評価もまた変わるかも知れへんね」
高橋さんは曖昧に笑みを浮かべる。劇団員は真剣であるものの、週に1度の練習でどこまで伸びるか。それは高橋さん次第なのだろうが。
「じゃあ私はこれで失礼するわね」
そう言って立ち上がり掛けた渡部さんに、ひとつ離れた席にいる岩永さんが「おいおい」と咎める。
「何も注文しないで行くんか? ここ飲食店やで」
「あ!」
渡部さんはそう声を上げて口を押さえる。高橋さんと話をすることに夢中で、すっかりと忘れていた様だった。渡部さんは慌てて座り直した。
「ごめんなさい、うっかりしてたわ。ええとゆっくりしてる時間は無いねん。ウーロン茶と、何か軽くつまめるもん……」
そう言って渡部さんはきょろきょろとカウンタに目を走らす。そこで岩永さんがこの煮物屋さんのシステムを簡潔に説明した。
「そうなん? じゃあほんまにごめんなさい、ウーロン茶だけってええかしら」
「はい、大丈夫ですよ」
佳鳴がにっこりと応える横で、千隼がウーロン茶を用意する。氷を適度に入れたグラスに、冷たいウーロン茶を8分目に注ぎ、台に上げる。
「お待たせしました」
「ありがとう」
渡部さんはウーロン茶を受け取ると、ごっごっと喉を鳴らしながら一気に飲み干してしまった。グラスにはほとんど溶けていない氷がしっかりと残される。
「慌ただしくてごめんなさい。今度プライベートで帰って来た時に、ゆっくり寄らせてもらいますね。岩永くん、来年の高橋さんの公演が決まったら真っ先に連絡ちょうだいよ」
「解った解った」
岩永さんが苦笑しながら応え、渡部さんは今度こそ立ち上がる。
「お邪魔しました。高橋さん、また!」
渡部さんはそう言い残して、会計を済ませてばたばたと店を出て行った。
そんな渡部さんを高橋さんはやや呆然と、そして岩永さんは苦笑いしながら見送った。他のお客さまもことの成り行きが気になったのか、静かに見守ってくれていた。
「ごめんやで、高橋さん。渡部がどうしても高橋さんと直接話がしたいって言うから、俺が連絡してん。嫌な思いさせてもうたな」
岩永さんが言うと、高橋さんは「いいえ」と首を振る。
「私も直接お話が出来て良かったです。電話じゃ確かにちゃんと思っていることを伝えられないですもんね。渡部さんが聞いてくださって、良かったです」
「そう言うてもらえたらほっとするわ」
「はい」
高橋さんは言って、安心した様に笑みを浮かべた。
高橋さんはこれからも、クラブ活動の延長の様な劇団で活動を続けるのだろう。だがその心中は今までとは違うかも知れない。自分の成長によっては、それで身を立てられるかも。そう思えば、取り組み方も変わって来るだろうか。
将来、芸能界で活躍する高橋さんを、テレビや舞台などで見られる様になるのだろうか。それはまた、とても楽しみではあるのだった。
カウンタに掛けておてふきで手を拭いた高橋さんは、ふぅと小さな息を吐いて、口を開いた。
「あの、私、昨日の晩、渡部さんに辞退の電話を入れました」
「渡部さんと言うことは、スカウトされたお話ですね?」
佳鳴が確認する様に言うと、高橋さんは「はい」と大きく頷く。
「あれからも考えたんです。でも、店長さんが言ってくれた「目くらまし」って言葉が胸に刺さってしもうて。私、芸人になりたい訳でも、歌手になりたい訳でも無いんです。お芝居が好きやから劇団に入ったんです。なので「女優になりませんか?」やったら、目くらましにやられていたかも知れません。もちろん迷いに迷うとは思うんですけど。なので今回はありがたいですし申し訳も無いんですけど、お断りしました」
「そうですか」
佳鳴は応え、にっこりと微笑む。
「高橋さんが出された結論なら、それが今のベストなんやと思います。ご納得されているなら、良かったな、と思います」
「はい!」
高橋さんは満足げに微笑んで頷いた。
「あ、注文ええですか? まずはお酒で。あとでご飯とお味噌汁ください」
「はい、かしこまりました」
佳鳴たちは料理を整える。今日のメインは鶏の水炊き風だ。
処理した鶏がらと白ねぎの青い部分、生姜と日本酒と塩を使って出汁を取り、それで骨付き鶏肉と白ねぎの白い部分、白菜、椎茸、木綿豆腐をことことと煮込み、お客さまに提供する寸前に春菊に火を通して盛り付ける。
出汁にしっかりと鶏の味が出ているので、そのままでも食べていただけるが、お客さまのご希望でポン酢をお出しする。
さすがに西の地の名物には敵わないだろうが、千隼なりに丁寧に作らせていただいた自信作だ。
小鉢は水菜の刻みわさび和えと、ひじきとちくわの白和えだ。
水菜はさっと塩茹でし、刻みわさびと和えたぴりっとした一品。ご飯にもお酒にも合う。
白和えは豆の味を感じて欲しいので木綿豆腐を使っている。水切りして崩して、隠し味程度に昆布茶とかつおの粉末を入れ、お砂糖とお醤油、白すりごまで味を整えている。
白すりごまの香ばしさはもちろん、お出汁の旨味も感じられる一品に仕上がっている。
「鶏のお出汁美味しい〜。置いといて、あとでご飯に掛けて食べよ。絶対美味しいやつや!」
出来たら鶏だしも味わって欲しかったので、スプーンをこっそり添えている。高橋さんは具を食べる前に鶏だしを口に含み、うっとりと目を細めた。
スプーンはその役割をしっかりと果たしていて、ほとんどのお客さまが見事に鶏だしを飲み干してくれていた。
お客さまによっては器を傾けて直接飲み干してくださった。
そうしていつものカナディアンクラブのハイボールとともに食事を進められていると、また常連さんが訪れる。岩永さんだった。
「こんばんは。お酒でお願いします。ビール、スーパードライで。あ、高橋さん」
入ってくるなり注文をし、高橋さんに気付いて笑みを浮かべる。
「公演、ほんまに良かったで。次も行かせてもらうな」
岩永さんの言葉に、高橋さんは「ありがとうございます!」と満面の笑みを浮かべた。
岩永さんは高橋さんのふたつ離れた席に掛ける。おしぼりを受け取り、続けてビールを受け取って、美味しそうにグラス半分をぐいと煽っては、はぁ〜と心地良さそうな溜め息を吐いた。
続けて料理を受け取り、ゆったりと食べ始める。
そうしていると、またお客さまが訪れる。
「いらっしゃいま、せ」
迎えた千隼が一瞬戸惑ったのは、そのお客さまが渡部さんだったからだ。高橋さんをスカウトした方だ。
高橋さんもドアが開く音に反応したのか首をひねり、「あ」とそのまま固まった。
渡部さんはせかせかと店内に入って来て、高橋さんの隣に腰掛けた。
「高橋さん! 押し掛けてごめんやで!」
渡部さんが叫ぶ様に言うと、それまでくつろいでいた他のお客さまが「何や?」「何や?」とざわつき、次にはなだらかに静かになる。
「電話でのお話は分かったわ。でもやっぱり直接会って話がしたかってん。なんで駄目やったん?」
高橋さんはうろたえて、「あ、あの」と言い淀む。それを見て渡部さんは詰め寄る様に前のめりになっていた姿勢を正した。
「ごめんやで。電話ではあまりちゃんと話ができひんかったから。きちんと話がしたいなって思ってん」
渡部さんの言葉に、高橋さんは「ん」と喉を鳴らし、気合いを入れる様にハイボールをひと口飲んだ。
「あの、お申し出はほんまにありがたいと思っています。ですが、私は歌手になりたい訳でも、芸人さんになりたい訳でも無いんです」
「ええ、そうやね。そう言ってたね。でも今は歌手スタート、芸人スタートで、ドラマに出て俳優活動をする人もたくさんおるで」
「でもそれは、売れてなんぼ、ですよね」
高橋さんが言うと、渡部さんは窮した様に口を閉じる。
「その段階に行けるまで耐えられるかどうかが判りません。それに女優さんとしてお声掛けいただいた訳や無いってことは、まだそのレベルに達していないってことですよね。私にはその覚悟がありません。1番好きじゃないことをしながら、芸能界に居続けられる覚悟が。なのでお断りしました」
高橋さんがそうはっきりと言うと、渡部さんは困った様に小さく息を吐いた。
「そんなあなたを守るんが、マネージャーである私たちの仕事や。それでも?」
「はい。もうこんなチャンスは無いと思います。ですけど、もし、もし将来、渡部さんが私の演技を認めてくださって、女優としてスカウトしたいって思ってくださったら、その時にはお声を掛けてくださったら、多分私は喜んで受け入れると思います。親は反対するでしょうけど、バトルも厭いません」
「……そうか」
渡部さんはそう言い、また小さく息を吐いた。
「解ったわ。今回は引き下がるわ。でも完全に諦めた訳や無い。私は地元がここやから、次の公演も見させてもらうで。次の予定は決まってるんやろか。おおまかでも」
「来年やと思います。うちは年に1度の公演なので」
「そんなに先なんか! でもそうやね、1年また研鑽を重ねてもらって、また力を付けてもろたら、来年の私の評価もまた変わるかも知れへんね」
高橋さんは曖昧に笑みを浮かべる。劇団員は真剣であるものの、週に1度の練習でどこまで伸びるか。それは高橋さん次第なのだろうが。
「じゃあ私はこれで失礼するわね」
そう言って立ち上がり掛けた渡部さんに、ひとつ離れた席にいる岩永さんが「おいおい」と咎める。
「何も注文しないで行くんか? ここ飲食店やで」
「あ!」
渡部さんはそう声を上げて口を押さえる。高橋さんと話をすることに夢中で、すっかりと忘れていた様だった。渡部さんは慌てて座り直した。
「ごめんなさい、うっかりしてたわ。ええとゆっくりしてる時間は無いねん。ウーロン茶と、何か軽くつまめるもん……」
そう言って渡部さんはきょろきょろとカウンタに目を走らす。そこで岩永さんがこの煮物屋さんのシステムを簡潔に説明した。
「そうなん? じゃあほんまにごめんなさい、ウーロン茶だけってええかしら」
「はい、大丈夫ですよ」
佳鳴がにっこりと応える横で、千隼がウーロン茶を用意する。氷を適度に入れたグラスに、冷たいウーロン茶を8分目に注ぎ、台に上げる。
「お待たせしました」
「ありがとう」
渡部さんはウーロン茶を受け取ると、ごっごっと喉を鳴らしながら一気に飲み干してしまった。グラスにはほとんど溶けていない氷がしっかりと残される。
「慌ただしくてごめんなさい。今度プライベートで帰って来た時に、ゆっくり寄らせてもらいますね。岩永くん、来年の高橋さんの公演が決まったら真っ先に連絡ちょうだいよ」
「解った解った」
岩永さんが苦笑しながら応え、渡部さんは今度こそ立ち上がる。
「お邪魔しました。高橋さん、また!」
渡部さんはそう言い残して、会計を済ませてばたばたと店を出て行った。
そんな渡部さんを高橋さんはやや呆然と、そして岩永さんは苦笑いしながら見送った。他のお客さまもことの成り行きが気になったのか、静かに見守ってくれていた。
「ごめんやで、高橋さん。渡部がどうしても高橋さんと直接話がしたいって言うから、俺が連絡してん。嫌な思いさせてもうたな」
岩永さんが言うと、高橋さんは「いいえ」と首を振る。
「私も直接お話が出来て良かったです。電話じゃ確かにちゃんと思っていることを伝えられないですもんね。渡部さんが聞いてくださって、良かったです」
「そう言うてもらえたらほっとするわ」
「はい」
高橋さんは言って、安心した様に笑みを浮かべた。
高橋さんはこれからも、クラブ活動の延長の様な劇団で活動を続けるのだろう。だがその心中は今までとは違うかも知れない。自分の成長によっては、それで身を立てられるかも。そう思えば、取り組み方も変わって来るだろうか。
将来、芸能界で活躍する高橋さんを、テレビや舞台などで見られる様になるのだろうか。それはまた、とても楽しみではあるのだった。