大阪・煮物屋さんの暖かくて優しい食卓

 翌週の終わり頃、また仲間(なかま)さんはやって来た。今回はお客さまとしてだ。

「この前はほんまにありがとうね」

「いえ、とんでもありません。作ってみましたか?」

 聞くと、仲間さんは少し興奮気味に口を開く。

「うん! 計量カップとスプーンとタイマー、キャン・ドゥで買うてね。レシピ通りにちゃんと計って、時間も測って作ったら、ちゃんと美味しいのができた。感動してしもた。ほんまに計量の大切さをしみじみと思い知ったで〜」

「それは良かったです」

 佳鳴(かなる)が言って微笑むと、仲間さんは「ふふ」と笑みを浮かべた後、小さく溜め息を吐く。

「でね、彼氏の妹さんに教えるの、今週末に決まってん。明日やね。ちゃんとできるか不安やで」

「大丈夫ですよ。でもそうですね、それまでに何回か作って、もっと慣れておくと良いかも知れませんね。あ、でも明日ですか」

「やっぱりそうやんね。だから平日しんどいけど、できるだけ作る様にしとった。今日はちょっと休憩。さすがに疲れたわ〜」

「さすがです。何を作るんですか?」

「妹さんのリクエストは煮込みハンバーグやねん。持ってる本の中に美味しそうなレシピがあったから、それにしようと思って。ソースはデミグラス缶とトマト缶をアレンジするから、これやったら私でも作れるかなって」

「作ってみたんですか?」

「うん、聞いた日にさっそくね。玉ねぎのみじん切りなんかは元から出来るから、そこはどうにかなったし、味付けはちゃんと計って作ったから、ちゃんと美味しくできた。ほっとしたわ」

 仲間さんは言って、またほぅと息を吐いた。

「ほんまに良かったです。慣れたらアレンジも出来ると思いますよ。ハンバーグの中にチーズを入れたり、ソースにきのこやグリンピースなんかを入れたり」

 佳鳴のせりふに、仲間さんはごくりと喉を鳴らす。

「それ絶対に美味しい! 野菜もたくさん摂れるし。ううん、でも明日は変な冒険はせえへん。失敗してまう方が怖いもんな。野菜はサラダとか食べてもらおう」

「そうですね。明日はそれが良いかも知れませんね」

「巧く出来たらええな。あ、注文良いかな。お酒で」

「はい、かしこまりました」

 今日のメインは治部煮だ。鶏肉とたっぷりの根菜ときのこを使ってある。彩りは塩茹でした小松菜で添える。

 鶏肉に小麦粉をはたいて煮込んでいるので、煮汁にほのかなとろみが付き、それがお野菜にたっぷりと絡むのだ。お出汁を効かせた優しい味である。

 小鉢はふろふき大根とコールスローだ。

 ふろふき大根はお米の研ぎ汁で下茹でした輪切り大根を、お出汁でじっくりと炊いたので、中まで豊かな味が沁みている。それに辛さ控えめのからし味噌が良く合うのだ。

 コールスローの和え衣は、マヨネーズにレモン汁を混ぜて、さっぱりとなる様にしてある。太め千切りのきゃべつを塩揉みして水分を絞ったら、短冊切りのハムと合わせて和え衣と混ぜ、器に盛ったら黒こしょうを掛けた。

 きゃべつは冬きゃべつがそろそろ出回る。切るとじわりと水分が出て来て、なんともみずみずしい。

「ねぇ店長さん、ここのご飯って味とかのバランスもええっていつも思ってるんやけど、そういうのも慣れたらできる様になるやろか」

「ええ。こういうのも慣れですから」

「そっか、頑張ろ。ん、この煮汁、とろっとしてて野菜とかにしっかりと絡みついてくる。美味しいな〜。ふろふき大根も辛さ控えめで優しいなぁ。コールスローもちょっとした酸味がええよね。こういうんもバランスやんね。しかもどれも美味しいんやもんなぁ〜」

「ありがとうございます」

 仲間さんは全ての皿をひと口ずつ食べ、満足げにサマーゴッデスのソーダ割りを傾けた。



 さて翌週。月曜日は定休日なので、火曜日。煮物屋さんが開店してぼちぼちと席が埋まり始めたころ。仲間さんが元気な姿を現した。

「店長、ハヤさん、巧くできた!」

 ドアを開けるなりそう言って、コートを脱ぐのもそこそこに、空いている席に慌ただしく掛ける。そして「お酒でね」と注文をする。

「いらっしゃいませ。彼氏さんの妹さんへのお料理ですか?」

 佳鳴がおしぼりを渡しながら言うと、仲間さんは「そうそう」と嬉しそうに頷く。

「その日のお昼にも作ってみてん。晩ご飯と続いてまうけど、不安になってもて。連続して作ったからやろか、リラックスして作れたって言うかね。ふふ、妹さんとちゃんと計りながら楽しく作れたで。で、美味しくできた!」

「ほんまに良かったです。じゃあ彼氏さんの妹さん、喜ばはったでしょう」

「うん。でね、ちゃんと妹さんにも「計量は大事」って言っておいた。ハヤさんの受け売りやけど、私も今回のことでしみじみと思い知ったからね〜」

「そうですね。慣れるまではそれが良いと思いますよ」

 千隼(ちはや)が言うと、仲間さんは「うん。でね」とまた頷く。

「目標は計量無しで、目分量で作れる様になること!」

 そう言ってぐっと拳を握った。

「ならもっと料理をしないとですね」

「うん。平日はやっぱり凝ったん難しいけど、休みの日とか頑張ってみるわ。彼氏も食べに来るしな。結婚もしたいし。ちゃんと自分の手で胃袋(つか)むねん! あ、日本酒のソーダ割りお願いね」

「はい、かしこまりました」

 そうして整えた料理を出して行くと、仲間さんが「あ」と少しばかり驚いた様な声を上げた。

「煮込みハンバーグ!」

 勢い込んで飛び込んで来られたからか、表のおしながきをご覧になっていなかった様だ。

「はい。仲間さんのお話を聞いていたら作りたくなってしまって。仲間さんにはハンバーグが続いてしまいましたね。すいません」

 千隼が言うと、仲間さんは「ううん」と首を振る。

「ソースも私が作ったのと色が少し違うし、きのことグリンピース入ってる。これ、マッシュルームとしめじとエリンギ? 美味しそう! じゃあもしかして中にチーズ入ってる? ろくにメニューも見ずに入ったからびっくりしてしもた。じゃあお酒、ワインとかにすれば良かった。後で頼もう」

「はい。チーズ入れちゃいました」

「やったぁ! チーズハンバーグ美味しいやんね! ソースはこの色ってことはデミグラスソース?」

「はい。家庭でも作れる様に改良したレシピで。さすがに洋食屋では無いので、いちから作ることは難しすぎて」

「いただきます!」

 仲間さんはまずサマーゴッデスのソーダ割りをぐいと半分ぐらい飲んでしまうと、いそいそとお(はし)を取る。

 豪快に真ん中から割ると、透明な肉汁がじゅわりと、そして溶けた黄金色のチーズがとろりと流れ出て来た。仲間さんは「ああん」と嬉しそうな声を上げる。

「これこれ! 私でも作れる様になるやろか」

「ハンバーグが美味しく作れるんですから大丈夫ですよ。今度試してみてください」

「うん」

 そうしてチーズとソースをたっぷりと絡めて口に放り込む。そして「んん〜」と満足げな声を上げた。

「美味しい……やだもうほんまに美味しい……すごい美味しい……チーズがとろっとろでお肉がふわっふわで」

 そう言ってうっとりと目を細めた。

 メインにボリュームがあるので、今日の小鉢はひとつ。カリフラワととうもろこしのピクルスだ。玉ねぎも使ってあるので、デミグラスソースをさっぱりとさせてくれる。

 とうもろこしは缶のものを使った。夏の旬の生もとても美味しいが、缶のとうもろこしも捨て難い旨味が詰まっている。

 サマーゴッデスのソーダ割りを挟みつつそのピクルスを口に入れ、「これお酒にも合うね」と言って、残りのソーダ割りを飲み干してしまった仲間さん。さすがのハイペースだ。

「次赤ワインで。ちょっとこれはゆっくりと楽しみたいなぁ」

「かしこまりました」

 そうして仲間さんはワイングラスに用意した赤ワイン「イエローテイル」のピノ・ノワールをゆったりと口に含み、はぁ〜と満足そうに息を吐いた。

 イエローテイルはオーストラリア産の赤ワインである。様々なぶどう品種の展開があるが、このピノ・ノワールはベリーの様な酸味が感じられ、やわらかに旨味が広がる赤ワインである。

「あとは、彼氏と妹さんのお母さまが喜んでくれたらええなぁ」

「大丈夫ですよ。まずは娘さんの手作り料理ですもの」

「そうやね。味はもちろんやけど、そういうのええよね。本当にええ子なんよねぇ、妹さん。私、将来良いお義姉(ねえ)ちゃんになれるやろか、なりたいな〜」

 仲間さんはまたちびりとワイングラスを傾けて、幸せな未来にふうわりと思いを()せた。
 冬の気配もすっかり濃くなり始め、息もそろそろ白くなるだろうか。朝ベッドから出るのが嫌になるだろうかというころ。

 煮物屋さんの常連さんで、毎週日曜日の遅めの時間に来るお客さまがいる。いつもはつらつとしていて、大きな声で笑う、とても気持ちの良い女性だ。

 今日は日曜日。そろそろ21時になるだろうか。佳鳴(かなる)は厨房に置いてある小さな置き時計に目を走らす。

 そのタイミングで、煮物屋さんのドアが開かれた。

「こんばんは!」

 鼻を赤くして元気な挨拶とともに入って来たのは、先述の女性の常連さん、高橋(たかはし)さんだ。

「こんばんは、いらっしゃいませ」

「いらっしゃいませー」

 高橋さんはせかせかとコートを脱いで椅子に掛け、千隼(ちはや)からおしぼりを受け取った。

「あ〜お腹ぺっこぺこやぁ。ハヤさん、まずはハイボールください! お米とお味噌汁はいつも通り締めにいただきますね」

「はい。かしこまりました」

 この高橋さん、とても良く召し上がるお客さまで、まずはお酒を飲みながら料理を食べ、その後に白米と味噌汁を召し上がられるのだ。

 カナディアンクラブという銘柄のカナディアンウイスキーでハイボールを作ってお渡しし、続けて料理を整える。今日のメインは豚肉と長芋の煮物。彩りはほうれん草だ。

 豚肉はロースの塊肉を買うことができたので、贅沢に厚めに切り、軽くお塩を振ってフライパンで香ばしく焼き付ける。

 長芋は半月切りにし、こちらも厚めに切ってある。火を通すとほくほくになる長芋のお陰で煮汁にほのかにとろみが付き、豚肉に良く絡む。味沁みも良く、柔らかな旨味が口に広がる。

 小鉢はタラモサラダと青ねぎたっぷりの卵焼きだ。

 タラモサラダは明太子を使った。マヨネーズは控えめに、明太子のぷちぷちとふくよかな辛みを活かす。

 荒く潰したじゃがいもに和えるので、和え衣は少し強い味でも大丈夫なのだ。隠し味に、じゃがいもが熱いうちにバターを落としている。

 少しぴりっとしつつもしっかりとした甘さと旨味が感じられる一品だ。

 青ねぎの卵焼きにはお出汁を加えてあるので、青ねぎの爽やかなアクセントがありながらも優しい味わいである。

「あ〜っ、ハイボールが沁みるぅ。この煮物、白いのが長芋ですよね?」

「そうですよ」

「長芋のこんな食べ方、私初めてです!」

 高橋さんはさっそく長芋をお(はし)で割り、口に入れる。そして「へぇ〜」と目を丸めた。

「ほっくほくやぁ。あ、でもそっか、串かつの長芋もほくほくですもんね。長芋って火を通すとこうなるんですよね。美味しいです! 豚肉も美味しいです!」

「ありがとうございます」

「タラモサラダとか卵焼きとか、こういうのも作るんって地味に面倒やったりしますもんね。だから嬉しいです! ここで食べたら確実に美味しいの判ってますから!」

「ふふ、ありがとうございます」

 高橋さんの称賛に、佳鳴は笑みをこぼす。こんなことを言ってもらえて、嬉しく無い訳が無い。

「あ、高橋さん、お預かりしていたフライヤー、終わりましたよ」

「ほんまですか!? ありがとうございます!」

 千隼のせりふに、高橋さんはぱぁっと満面の笑みを浮かべた。

「ほんまに助かりました! そう数を刷った訳や無いので、ノルマも多くは無かったんですけど、実際問題、いつもどこに配ったらええんやって話で。会社で配っても限度がありましたから」

 高橋さんが心底ほっとした様に笑みを浮かべると、少し離れた席から声が上がった。常連の男性、赤森(あかもり)さんだ。

「高橋さん、俺もフライヤーもらったで。絶対に観に行くからな!」

「わぁ赤森さん、ありがとうございます!」

 赤森さんの活きの良いせりふに、高橋さんは笑顔を投げた。

 この煮物屋さんで、高橋さんが所属する小劇団の公演のフライヤーを預かっていたのだ。それを会計の時にお客さまに手渡ししていた。

 ハガキサイズなので店内で場所を取ることも無く、お客さまも受け取りやすかった様だ。

 劇団員のおひとりがデザイナーで、その方が制作を手掛けたのだと言う。確かに素人臭さのまるで無い、格好良いフライヤーだった。

「もう来週なんですねぇ。練習はどうですか?」

 佳鳴が聞くと、高橋さんは「順調です!」と元気に応える。

「まだまだ(つたな)いって解ってはいるんですけど、皆一生懸命です。少しでもええもんを観てもらうんやって。お話そのものは著作権の切れた名作の現代版アレンジですから、オリジナル脚本よりは馴染んでいただけるかなって思うんですけど」

「そうですね。取っ掛かりがあれば、ご覧いただきやすいでしょうしね」

「それはそれで、ご覧いただく方との解釈違いとかもあるかと思うんですけど、そこは違いを楽しんでいただきたいです」

「奥が深いんですねぇ」

 高橋さんは舞台女優さんなのだ。ご本人は「そんな大げさなものじゃ無いですよ」と謙遜(けんそん)されるが、1度舞台に立てば、そしてそれを継続されているのなら、もう立派な女優さんだと佳鳴たちは思っている。

 高橋さんいわく、これは「クラブ活動」の延長の様なものなのだと言う。毎週日曜日の夜の2時間ほど、梅田のスタジオを借りてストレッチや発声練習をしているのだ。

 そして本番は1年に1度。発表会の様な感覚らしい。舞台と客席の境があまり無い様な小さな劇場をレンタルする。

 お客さまからいくばくかの入場料をいただくが、それは全て経費に消える。

 気楽に活動をしてはいるが、決してふざけていたり手抜きをしている訳では無い。皆さん、楽しみながら真剣なのだ。それは高橋さんの話からも伝わって来る。

 年に1回の本番前、その週だけは毎日練習をするのだと言う。

「来週は毎日練習です。せりふを覚えたりは個人で家でも出来ますけど、合わせるのはそうも行かへんですからね。本番まで少しでもええもんにしたいですから」

「私たちも拝見したいんですけど、お店がありますからねぇ」

 公演日は来週末の日曜の晩、1回公演である。

「思い切って休みにしてまえば? あ、高橋さん、私たちも観に行くからねー」

 門又(かどまた)さんが言い、(さかき)さんと並んで高橋さんに手を振った。

「ありがとうございます!」

 高橋さんは門又さんたちにがばっと頭を下げる。

「そうですねぇ」

 佳鳴はふわりと笑う。

「ふふ、そんなことを言われたら揺らいじゃいますねぇ。前の時も拝見出来ませんでしたからねぇ」

 高橋さんがこの煮物屋さんの常連になってから、今回が2回目の公演なのだ。前回の時もフライヤーをお預かりした。

 まだ煮物屋さんに来始めたころの高橋さんが、フライヤーの束を手に大きな溜め息を吐かれていたものだから、佳鳴がつい声を掛けてしまったのだ。

 するとフライヤーの配り先に困っていると言うので、煮物屋さんでお預かりすることにしたのだった。

「でも店長さぁん、まだ1週間もあるからぁ、今からやったらお休みするって言っても大丈夫や無ぁい?」

 榊さんの言葉に佳鳴は「そうですねぇ……」と(うな)ってしまう。

 高橋さんの公演を見たいのは本心なのである。劇団のことを話す高橋さんは本当に楽しそうできらきらしていて、そんなにも打ち込めるものがあるのが羨ましい、そして素晴らしいと、微笑ましく思っているのだ。

 そんな佳鳴の気持ちを千隼も知っているので、千隼は「たまにはええんや無いか? 姉ちゃん」と軽く声を掛ける。

「ここ始めてから月曜以外の休みって無かったやん。今からチラシとか貼って周知したら大丈夫やって。たまには2連休しようや」

 千隼にも言われ、佳鳴は心を決めた。

「じゃあそうさせていただこうかな。申し訳ありません皆さま、来週末の日曜日はお休みをいただきますね」

 佳鳴が言ってカウンタの向こうに頭を下げると、お客さま方は「はーい」「楽しんで来てね〜」と暖かい言葉を掛けてくださった。

「店長さんとハヤさんにも来ていただけるなんて、本当に嬉しいです! がんばりますね!」

 高橋さんは本当に嬉しそうに満面の笑みを浮かべ、佳鳴と千隼も笑顔を返した。
 翌週末の日曜日、煮物屋さんを休みにした佳鳴(かなる)千隼(ちはや)は、阪急電車宝塚線と大阪メトロ御堂筋線を乗り継ぎ、なんばに出て来ていた。高橋さんの小劇団の公演がある小劇場のある街だ。

 正確には小劇場は日本橋にあるので、最寄り駅は大阪メトロ堺筋線の恵美須町駅である。だが堺筋線に乗るには梅田からだと2回の乗り換えが必要なのである。ならなんばから歩いた方が面倒が少ないのだ。

 まず改札すぐ近くのなんばなんなんに入り、花屋に立ち寄る。高橋さんにお祝いの品を用意するのだ。あまり大きいと荷物になるので、気持ちだけになってしまうが、小さなブーケを(あつら)えてもらう。

 赤と黄色のスプレーマムをメインに、緑色のかすみ草をあしらったブーケ。持ちやすい様にナイロン袋に入れてもらった。

 そうして地下のまま大阪高島屋の前を通り、ブティックなどがひしめくなんばシティを通り抜け、南館から外に出た。ふたりともコートを着込み、マフラーをしっかりと巻いている。はぁと息を吐けば、ふわりと白いものが見えそうになる。

 そんな気候でありながらも、休日なのでかなりの人出だ。外国人観光客も多い。

 この日本橋界隈にはオタロードがあり、おたくショップが所狭しとひしめき合っている。東京で言うところの秋葉原だ。規模はずっと小さいが。

 一昔前は電気街と呼ばれ、電化製品や電子部品を置く店舗が所狭しと並んでいた。大阪で安く家電を買うなら日本橋と言われていたのだ。だが今は電気屋さんの半分以上がおたくショップに取って代わられた。

 今ではコスプレイベントなども行われる、立派なおたくの街になった。今の若い子などは電気街だったころの日本橋を知らないのでは無いだろうか。

 佳鳴たちでさえそのころの日本橋はほとんど記憶に無かった。北摂地域で育ったこともあり、梅田から南に行くことはあまり無かったことも影響しているのだろう。

 佳鳴たちは劇場に行く前に軽く腹ごしらえをしておこうと、中華料理店「一芳亭(いっぽうてい)」に入る。公演は17時なのだ。

 歴史を感じさせる内装だ。店内は明るく、いわゆる街中華店の様な趣きである。

 佳鳴たちは店員さんにしゅうまい2人前と春巻きを注文し、おしぼりを広げてほっとひと心地吐いた。この一芳亭は特にしゅうまいが評判なのである。

 やがてお料理が運ばれて来た。最近来れていなかったので久々の味だ。

 このお店のしゅうまい並びに春巻の皮は卵で作られている。そのため加わる旨味が強いのだ。しゅうまいはふわふわで優しい味で、からし醤油を少し付けていただくと格別だ。春巻も具沢山で食べ応えがあった。味は言わずもがなだ。

 そしてこうなるとビールは外せない。ふたりは瓶ビールを1本注文していた。観劇を控えているが、ふたりで中瓶1本ぐらい、なんてこと無いのである。

「あ〜、優しい味〜」

「ほんま旨いわ。たまらん」

 佳鳴と千隼はそれらの逸品を、うっとりしながら大いに堪能(たんのう)した。



 食器もグラスも空になるころ、腕時計を見ると、そろそろ良い時間になろうとしていた。

 佳鳴たちは一芳亭を出て、小劇場に向かう。

「楽しみやな。観劇とか久しぶりや」

「そうやね。お店始めてから休みが月曜やから、行けるタイミングそう無かったもんねぇ。こういうのって週末が多いから。私も楽しみやで」

「おう。特に知ってる人が出てるって言うんもな。高橋さんは主役や無いけど、重要な役どころやねんな」

「そうそう。ミステリーやろ、それで重要な役回りって、犯人とかワトソンとか」

「だったらすごいやんな」

 佳鳴と千隼は堺筋方面へと歩き、おたロードに差し掛かる。左右にはアニメやゲームのフィギュアにグッズが売られている店舗が続く。普段あまり味わうことの無い独特な雰囲気を感じながら、通りを行った。

 この界隈にはメイドカフェも多く、この寒空の下、ミニスカートタイプのメイド服を着たメイドさんたちがお客さまを案内している。ニーハイのお嬢さんばかりなのは、やはり季節柄なのだろう。

 そして到着する。ポルックスシアターという小劇場である。1階部分が小劇場になっている、2階建ての建物だ。普段は演劇の他、漫才やアイドルライブなども行われている様だ。

 佳鳴たちは高橋さんから直接買ったチケットを出しながら、劇場の出入り口に向かう。16時をとうに回り、すでに入場は始まっていたので、チケットをもぎってもらい、パンフレット代わりのちらしを受け取って中へ。

 コンパクトながらもエントランスーがあり、さっと見渡してみると、常連さんの姿を見つけた。門又(かどまた)さんと(さかき)さん、赤森(あかもり)さんだ。円を囲む様に談笑している。

 そこで赤森さんが佳鳴たちに気付いてくれ、「あ、店長さん、ハヤさん!」と軽く手を上げた。

「こんにちは」

「こんにちは」

 佳鳴たちはぺこりと挨拶をしながら、赤森さんたちの元へ。赤森さんたちは少し輪を広げて佳鳴たちを迎えてくれた。

「こんちは。今日は楽しみやな」

 そうわくわくした様な表情で言う赤森さん。佳鳴は「はい、ほんまに」と笑顔で頷いた。

「店長さんたちお店あるから、観劇なんて久しぶりなんや無い?」

「そうやんねぇ。と言ってもぉ、私も久々なんやけどねぇ」

 門又さんと榊さんのせりふに、赤森さんは「うんうん」と頷く。

「店長さんたちで無くても、観劇の機会なんてなかなか無いやんなぁ」

 そんな話をしていると、後ろから「こんにちは」と声が掛かる。振り向くと、こちらも常連の岩永(いわなが)さんがふらりと近付いて来た。

「皆さんお揃いですねぇ」

「岩永さんこんにちは」

「こんにちは」

 佳鳴たちは口々に挨拶を返す。すると岩永さんの後ろで、岩永さんとそう歳の変わらないであろう女性が、佳鳴たちにぺこりと頭を下げた。

「あ、彼女ね、僕の幼なじみの渡部(わたべ)。普段は仕事で大阪離れてるんやけど、出張でこっちに戻って来たから飲もうかって話になってな、じゃあ知り合いが小劇場に出るからその前に一緒にどう? って。渡部、結構観劇してんねん」

「あら、ご趣味なんですか?」

 門又さんが聞くと、渡部さんは「ええまぁ、そんな感じです」と曖昧に、しかしにこやかに応えた。

「ああでも皆さん、そろそろ中に入らんと」

 岩永さんが腕時計を見ながら言う。

「あらぁ、もうそんな時間やのねぇ」

 門又さんと榊さん、そして赤森さん、続いて岩永さんと渡部さん、最後に佳鳴と千隼が中へ。

 入ると、高橋さんから聞いた通り、座席は即席だった。客席フロアの前半分には簡素な椅子が置かれ、後ろ半分にはベンチが並べられている。

 そこからほんの少し高いステージの奥には、黒い布が垂れ下がっていた。間も無く始まるのだから、それが舞台の完成形なのだろう。

 狭い客席だがそこそこ埋まっていて、佳鳴たちは後方の空いているベンチ席に適当に腰を下ろす。門又さんと榊さんなどはぐいぐいと前へと進んで行っていた。

 マフラーとコートを外し、バッグと重ねて膝の上に置く。厚みがあるのでちょうど良い高さの腕置きの様になった。背もたれが無いこともあって地味に楽だ。

 まだ客席も明るいので、あちらこちらから小さな話し声が聞こえる。佳鳴と千隼は並んでちらしに目を走らせ、そのプロ級の出来栄えに「へぇ」と佳鳴が小さく声をもらす。そして数分後、女声のアナウンスが響いた。

「皆さま、本日はお越しくださり誠にありがとうございます。間も無く開演でございます。どうぞごゆっくりとお楽しみください」

 すると客席の照明がふっと落とされ、そう派手では無いライトが舞台を照らす。

 ほんの少しの間を置いて、袖からベージュのグレンチェックのスーツをまとった男性役者がゆったりと舞台の中央へ。男性はゆっくりと口を開くと、高らかに告げた。

「皆さま、今からご覧いただきますのは、名探偵である私が体験し、そして解決した、世にも奇怪な事件の記録でございます!」



 およそ1時間30分の舞台が終わり、客席が再び明るくなったその時、佳鳴と千隼は揃って溜め息を吐いた。

「おもしろかった! 高橋さんご謙遜(けんそん)されてたけど、私はすごく楽しかった!」

 佳鳴が興奮の面持ちで言うと、千隼も「やな」と頷く。

「高橋さんも他の役者さんも良かったと俺も思う。俺らそんな詳しい訳でも目が()えとるわけでも無いから、基準が判らへんけど」

「基準なんてどうでもええよ。見た人がおもしろいと思ったのが1番や」

「そうやな」

 周りがちらほらと立ち上がり、佳鳴たちもゆっくりと腰を上げる。

「高橋さんにお会いできるやろか。ブーケもお渡ししたいし」

「会えんかったらスタッフとか捕まえたらええと思うんやけど」

 すると客席の前の方から、こちらもまた満足げな門又さんと榊さん、にこにこと笑顔の赤森さん、なぜかほっとした様な岩永さんと渡部さんが合流した。

「おもしろかったね。去年より上手になってたと思う」

 門又さんは昨年の公演も観に来ていたのだ。

「そうねぇ〜。来て良かったわぁ。私は去年来られへんかったからぁ」

「ああ。良かったと思うわ」

 赤森さんもそう言って頷いた。

 その時、舞台袖からばらばらと役者たちが舞台衣装のまま姿を現した。佳鳴はその中に高橋さんの姿を見付け、「あ、高橋さん」と呟く。

 そのタイミングで高橋さんも佳鳴たちを見付け、衣装のありさまと打って変わって元気な笑顔で、ちょこちょこと椅子と椅子の間の通路を駆け寄って来た。

「こんばんは! 来てくださってありがとうございます!」

「こちらこそ、本当に楽しませていただきました。すごかったです。まさか被害者役やったなんて」

 佳鳴たちが次々に賞賛を表すと、高橋さんは嬉しそうに、照れた様な笑みを浮かべた。

 被害者役の高橋さんが着ているチュニックには、血痕に見立てた赤いインクが散っていた。途中生きていた時の回想があるので、その時は綺麗なチュニックを着ていたのだが、今はインク付きの服である。解決編で必要だったのだ。

「そう言っていただけて嬉しいです。今の精一杯でがんばりました!」

 高橋さんはにこにこと笑顔だ。手応えがあったのだろう、満足げだ。

 そこで、用意していたブーケを渡す。「あらためて、おめでとうございます」と佳鳴が言うと、高橋さんは「わ、ありがとうございます!」と嬉しそうな表情で受け取ってくれた。

「うわぁ、可愛いブーケですね! 店長さんとハヤさん、センス良いんですねぇ。すごいです!」

 高橋さんはそう言って、ふわりと笑みを浮かべる。

 すると、それまで静かに佳鳴たちの様子を眺めていた渡部さんが、ぐいと前に出て来て、高橋さんに両手を差し出す。その手には名刺があった。

「高橋さん、私、こう言う者です。渡部と申します」

 高橋さんは渡部さんに引っ張られる様に名刺を受け取ると、それに目を落とす。

「芸能事務所の、マネージャー……?」

 大きな目をさらに見開き呟く高橋さんに、渡部さんは言った。

「あなた、芸人か歌手になる気はあれへん?」

 そのせりふに、その場にいた全員が「は?」と間抜けな声を上げた。
 高橋(たかはし)さんが舞台で披露(ひろう)したのは、漫才でもコントでも無い。演劇だ。なのになぜ渡部(わたべ)さんは高橋さんにこの様なスカウトをしたのか。

「芸人か歌手になる気はあれへん?」

 実は、歌は歌っていたのだ。高橋さんが(ふん)した被害者は歌手という設定だったので、回想シーンでその歌声を聞かせたのだった。

 高橋さんは歌が達者で、この配役もそのためだったらしい。

 もともと綺麗な声の人ではあったが、その歌声も見事なもので、音程の正確さや絶妙な抑揚(よくよう)は、佳鳴たち観客を見事に引き込んだ。

 だから、歌手へのスカウトは解らなくも無い。では芸人は?

 渡部さんいわく「間の取り方が絶妙」だったのだと言う。

 確かにお笑いに「間」は重要だ。ボケはもちろんツッコミのタイミングなど、ほんの1秒、それ以下のコンマの「間」で、その面白さは大きく変わって来る。

 もちろんネタそのものの面白さも重要だ。しかしその完成度は「間」によって大きく左右されるのだ。

 大阪人はふたり揃えば漫才が始まる、なんて言われることがある。だが大阪人全員が「おもろい」わけでは無いのだ。辛辣(しんらつ)だが、なかなか日の目を見ない大阪出身の芸人さんが存在することがその証拠だと言える。

 そして何より渡部さんが力説したのはこれだった。

「あなたには華があんねん!」

 確かに高橋さんは可愛らしく華やかなイメージがある。人を()きつけると言うのか。それは確かに表舞台に出るのに重要な要素だろう。

 佳鳴(かなる)千隼(ちはや)もその場にいたので、話は一部始終聞いていた。なので呆然とした高橋さんが、呟く様に「少し……考えさせてください……」と返事をしたことも知っている。

 そしてその高橋さんは今、佳鳴と千隼の真ん前、煮物屋さんのカウンタで、お馴染みカナディアンクラブのハイボール片手に突っ伏していた。

「日曜の晩から火曜の今日までずっと考え通しですよぉ〜。そもそも私、芝居をしてたはずやのに、なんで歌かお笑いなんでしょうかぁ〜……」

 いつも元気な高橋さんがすっかりと弱ってしまっている。テーブルが高橋さん自身で埋まってしまっていて、佳鳴たちは料理を提供するタイミングを掴めず、今整えている料理も、他のお客さまの分だ。

 今日のメインは豚肉と玉こんにゃくの味噌煮込みだ。ごま油で炒めたちんげん菜で彩りを添えている。

 お塩と日本酒で下味を付けた豚肉をごま油で炒め、玉こんにゃくを加えてさっと炒めてお出汁を張り、味付けはお味噌とお砂糖、日本酒、少しのお醤油に、風味漬けのたまり醤油。

 お味噌をしっかり効かせながらも、お出汁の風味もしっかりとあり優しい味に仕上がっている。

 小鉢はきのこの黒こしょう炒めと、カリフラワのからしマヨネーズ和えだ。

 秋に美味しいきのこは、今では1年中いただける。旬としてはそろそろ終わりだろうか。

 きのこは椎茸としめじとえりんぎ。オリーブオイルでソテーして、塩と、粒の黒こしょうを強めに効かせてある。

 オイルを程よく吸ってとろっとしたきのこの癖と、ぴりっとした黒こしょうがとても合う一品だ。

 今時が旬のカリフラワのからしマヨネーズ和えは、文字通り塩茹でしたカリフラワをからしマヨネーズで和えたシンプルなものだ。

 こちらはからしを控えめにして、辛さを和らげてある。だが軽くまとうぐらいにしてあるので、カリフラワの甘さが引き立つ味わいだ。

 汁物は麩と三つ葉のすまし汁だ。

「お待たせしました」

 そう言って料理をお渡ししたお客さまは赤森(あかもり)さん。どうやら高橋さんのことが気になっていた様で、高橋さんが来ているかどうか判らないのに訪れた様だった。

 現に先に来店していた高橋さんを見た途端に、「決めたんか?」とお声を掛けていた。

 そうして伏せたままの高橋さんに続けて口を開く。

「そりゃあ悩むわな。俺としちゃ、高橋さんをテレビなんかで見るってのもおもろいかなって思うけど、そんな簡単なもんや無いやんなぁ」

 赤森さんは大口を開けて白米を放り込む。赤森さんは下戸なので、いつも定食なのだ。

「親御さんにご相談とかされたんですか?」

 千隼が聞くと、高橋さんは「いいえ〜」と(うなる)る様な声を上げた。

「私の気持ちとは関係無く、まず反対されると思いますから。相談も何も無いんですよ」

 そう言いながら、高橋さんはゆっくりと頭を上げる。そして千隼に「うだうだすいません。お料理お願いします」と注文した。

「親は、私が本格的に芝居をするのは反対なんです。芸能界デビューなんて以ての外だと思います」

「あら、確か親御さんも応援しているってお話、以前されてませんでした?」

 佳鳴はそう記憶している。高橋さんが小劇団に所属されていると聞いた時に、確かそんな話も出たと思う。

「はい。それはあの劇団が、本格的や無いからです。ええと、本格的や無いって言うんは、プロとかそういうのを目指してへんって言う意味で。練習も週に1度ですし、日曜の晩なので来れへん人もいますし。公演も年に1度ですしね。会社で働いとって、習い事の範疇(はんちゅう)やから応援してくれるんです。最初、親に「劇団に入った」って言ったら早とちりされてしもうて、「女優になるなんて、そんな食って行けるかどうか判らん仕事なんて許さん」って怒鳴られました。保守的って言うのもあるとは思うんですけど、私の心配をしてくれてるんやと思います」

「ああ。確かに女優さんでも芸人さんでも、それだけで生活出来るって言うのは一握りだって聞きますからねぇ」

 アルバイトをしながら舞台に立たれている芸能人も大勢いるのだと聞く。佳鳴と千隼は整えた料理を順に高橋さんにお渡しする。高橋さんは「ありがとうございます」と受け取った。

「だから相談にはならないと思います。まだ全然考えがまとまらへんのですけど、もし渡部さんのお話を受けるとしたら、親とのバトルは避けられないと思います。ん、カリフラワとからしマヨってすごく合うんですね。美味しいです!」

「ありがとうございます。ですがそれは難しいですねぇ……」

 佳鳴は高橋さんを案じる。中には親との確執(かくしつ)を生んでも芸能人になりたいと言う人も存在すると思うが、高橋さんはそうでは無さそうだ。それに話を聞いていると、親御さんは関係無く、悩んでいる様子である。

「そもそも女優や無く、歌手か芸人ですからね。スカウトされること事態はすごいことなんやと思うんですけど。まさか私にそんな可能性があるんやろかって」

 高橋さんは言うと、次には苦笑を浮かべる。

「芸能界って言うきらびやかな世界に、憧れが無い訳じゃ無いんです、実は。だから悩んでしもうて」

 その気持ちは解らないでは無い。今高橋さんの前には、芸能界への道が開かれている。

 その前途(ぜんと)が洋々なのかそうで無いかは、入ってみないと判らない。だからこそ、慎重にならなければならない。そんなことは高橋さんだって解っているだろう。しかし。

 高橋さんは難しい顔をしながらきのこを頬張り、しかしぱっと顔を輝かせて「黒こしょう効いてて美味しいです!」と声を上げた。

「高橋さん、高橋さんが本当にしたいことって何ですか?」

 佳鳴が聞くと、煮物に箸を付けようとした高橋さんの動きがはたと止まる。そしてぽかんと口を開く。

「やりたい、ことですか?」

「はい。確かに芸能界と言うのは輝かしく思えて、()かれてしまうのだと思います。ですが、ご自分が本当にやりたいことを見失ってしもうたら、続かへんのかな、って思ってしもうて」

「それは」

「はい。高橋さんは今会社に勤めてらっしゃって、それはご自分でお選びになった会社ですよね。やりたかったお仕事、ですよね?」

「あ、はい。そうですね。入社当時は全員営業に放り込まれてしんどかったですけど、今は異動願いを聞いてもらえて、やりたかった仕事ができてます」

「だから例えば苦手な方とお仕事をすることになっても、愚痴をこぼせば我慢できる、なんてことありません?」

「ああ、そうですね。好きな仕事やし、同僚とぎゃあぎゃあ言いながら乗り切れます」

「では、好きでは無い仕事だった時はどうでした?」

「何度も辞めようと思って、でも移動に望みを掛けてがんばりました」

「それは、芸能界でも同じだと思うんです。芸能界では、もしかしたらやりたいことは一般の会社よりできないかも知れません。その入り口が、本当にやりたいことで無かったら尚更かも知れません。その時に支えになるものが無いと、しんどいと思うんですよね」

 佳鳴が差し出がましいと思いながらもゆっくりと言うと、高橋さんは納得した様に目を見開く。

「そっか、そうですよね」

「はい。芸能界と言う明るいか暗いか判らない世界の目くらましに、言い方は良く無いですけど、(だま)されない様にしていただきたいとも思います。私たちは高橋さんが絶対に人気者になるって信じてますけども、それは時の運でしょうから」

 千隼も横で大きく頷く。

「そうですよね。目くらまし、かぁ……私、確かに今それに当てられているんかも知れません。もっと良く考えますね。あの、心配してくださってありがとうございます」

 高橋さんはやっと笑顔になってぺこりと頭を下げる。そしてあらためてお箸を動かすと、煮物をすくい上げて口へ運ぶ。

「ああ〜、お味噌の優しい味が嬉しいです。豚肉とろっとろで美味しいですね!」

 そう言って頬をほころばす高橋さんに、佳鳴は「ありがとうございます」と笑みを浮かべた。
 数日後、訪れた高橋(たかはし)さんの表情は、先日とは違ってとても晴れやかなものだった。

 カウンタに掛けておてふきで手を拭いた高橋さんは、ふぅと小さな息を吐いて、口を開いた。

「あの、私、昨日の晩、渡部(わたべ)さんに辞退の電話を入れました」

「渡部さんと言うことは、スカウトされたお話ですね?」

 佳鳴(かなる)が確認する様に言うと、高橋さんは「はい」と大きく頷く。

「あれからも考えたんです。でも、店長さんが言ってくれた「目くらまし」って言葉が胸に刺さってしもうて。私、芸人になりたい訳でも、歌手になりたい訳でも無いんです。お芝居が好きやから劇団に入ったんです。なので「女優になりませんか?」やったら、目くらましにやられていたかも知れません。もちろん迷いに迷うとは思うんですけど。なので今回はありがたいですし申し訳も無いんですけど、お断りしました」

「そうですか」

 佳鳴は応え、にっこりと微笑む。

「高橋さんが出された結論なら、それが今のベストなんやと思います。ご納得されているなら、良かったな、と思います」

「はい!」

 高橋さんは満足げに微笑んで頷いた。

「あ、注文ええですか? まずはお酒で。あとでご飯とお味噌汁ください」

「はい、かしこまりました」

 佳鳴たちは料理を整える。今日のメインは鶏の水炊き風だ。

 処理した鶏がらと白ねぎの青い部分、生姜(しょうが)と日本酒と塩を使って出汁を取り、それで骨付き鶏肉と白ねぎの白い部分、白菜、椎茸、木綿豆腐をことことと煮込み、お客さまに提供する寸前に春菊に火を通して盛り付ける。

 出汁にしっかりと鶏の味が出ているので、そのままでも食べていただけるが、お客さまのご希望でポン酢をお出しする。

 さすがに西の地の名物には敵わないだろうが、千隼なりに丁寧に作らせていただいた自信作だ。

 小鉢は水菜の刻みわさび和えと、ひじきとちくわの白和えだ。

 水菜はさっと塩茹でし、刻みわさびと和えたぴりっとした一品。ご飯にもお酒にも合う。

 白和えは豆の味を感じて欲しいので木綿豆腐を使っている。水切りして崩して、隠し味程度に昆布茶とかつおの粉末を入れ、お砂糖とお醤油、白すりごまで味を整えている。

 白すりごまの香ばしさはもちろん、お出汁の旨味も感じられる一品に仕上がっている。

「鶏のお出汁美味しい〜。置いといて、あとでご飯に掛けて食べよ。絶対美味しいやつや!」

 出来たら鶏だしも味わって欲しかったので、スプーンをこっそり添えている。高橋さんは具を食べる前に鶏だしを口に含み、うっとりと目を細めた。

 スプーンはその役割をしっかりと果たしていて、ほとんどのお客さまが見事に鶏だしを飲み干してくれていた。

 お客さまによっては器を傾けて直接飲み干してくださった。

 そうしていつものカナディアンクラブのハイボールとともに食事を進められていると、また常連さんが訪れる。岩永(いわなが)さんだった。

「こんばんは。お酒でお願いします。ビール、スーパードライで。あ、高橋さん」

 入ってくるなり注文をし、高橋さんに気付いて笑みを浮かべる。

「公演、ほんまに良かったで。次も行かせてもらうな」

 岩永さんの言葉に、高橋さんは「ありがとうございます!」と満面の笑みを浮かべた。

 岩永さんは高橋さんのふたつ離れた席に掛ける。おしぼりを受け取り、続けてビールを受け取って、美味しそうにグラス半分をぐいと(あお)っては、はぁ〜と心地良さそうな溜め息を吐いた。

 続けて料理を受け取り、ゆったりと食べ始める。

 そうしていると、またお客さまが訪れる。

「いらっしゃいま、せ」

 迎えた千隼(ちはや)が一瞬戸惑ったのは、そのお客さまが渡部さんだったからだ。高橋さんをスカウトした方だ。

 高橋さんもドアが開く音に反応したのか首をひねり、「あ」とそのまま固まった。

 渡部さんはせかせかと店内に入って来て、高橋さんの隣に腰掛けた。

「高橋さん! 押し掛けてごめんやで!」

 渡部さんが叫ぶ様に言うと、それまでくつろいでいた他のお客さまが「何や?」「何や?」とざわつき、次にはなだらかに静かになる。

「電話でのお話は分かったわ。でもやっぱり直接会って話がしたかってん。なんで駄目やったん?」

 高橋さんはうろたえて、「あ、あの」と言い淀む。それを見て渡部さんは詰め寄る様に前のめりになっていた姿勢を正した。

「ごめんやで。電話ではあまりちゃんと話ができひんかったから。きちんと話がしたいなって思ってん」

 渡部さんの言葉に、高橋さんは「ん」と喉を鳴らし、気合いを入れる様にハイボールをひと口飲んだ。

「あの、お申し出はほんまにありがたいと思っています。ですが、私は歌手になりたい訳でも、芸人さんになりたい訳でも無いんです」

「ええ、そうやね。そう言ってたね。でも今は歌手スタート、芸人スタートで、ドラマに出て俳優活動をする人もたくさんおるで」

「でもそれは、売れてなんぼ、ですよね」

 高橋さんが言うと、渡部さんは(きゅう)した様に口を閉じる。

「その段階に行けるまで耐えられるかどうかが判りません。それに女優さんとしてお声掛けいただいた訳や無いってことは、まだそのレベルに達していないってことですよね。私にはその覚悟がありません。1番好きじゃないことをしながら、芸能界に居続けられる覚悟が。なのでお断りしました」

 高橋さんがそうはっきりと言うと、渡部さんは困った様に小さく息を吐いた。

「そんなあなたを守るんが、マネージャーである私たちの仕事や。それでも?」

「はい。もうこんなチャンスは無いと思います。ですけど、もし、もし将来、渡部さんが私の演技を認めてくださって、女優としてスカウトしたいって思ってくださったら、その時にはお声を掛けてくださったら、多分私は喜んで受け入れると思います。親は反対するでしょうけど、バトルも(いと)いません」

「……そうか」

 渡部さんはそう言い、また小さく息を吐いた。

「解ったわ。今回は引き下がるわ。でも完全に諦めた訳や無い。私は地元がここやから、次の公演も見させてもらうで。次の予定は決まってるんやろか。おおまかでも」

「来年やと思います。うちは年に1度の公演なので」

「そんなに先なんか! でもそうやね、1年また研鑽(けんさん)を重ねてもらって、また力を付けてもろたら、来年の私の評価もまた変わるかも知れへんね」

 高橋さんは曖昧に笑みを浮かべる。劇団員は真剣であるものの、週に1度の練習でどこまで伸びるか。それは高橋さん次第なのだろうが。

「じゃあ私はこれで失礼するわね」

 そう言って立ち上がり掛けた渡部さんに、ひとつ離れた席にいる岩永さんが「おいおい」と(とが)める。

「何も注文しないで行くんか? ここ飲食店やで」

「あ!」

 渡部さんはそう声を上げて口を押さえる。高橋さんと話をすることに夢中で、すっかりと忘れていた様だった。渡部さんは慌てて座り直した。

「ごめんなさい、うっかりしてたわ。ええとゆっくりしてる時間は無いねん。ウーロン茶と、何か軽くつまめるもん……」

 そう言って渡部さんはきょろきょろとカウンタに目を走らす。そこで岩永さんがこの煮物屋さんのシステムを簡潔に説明した。

「そうなん? じゃあほんまにごめんなさい、ウーロン茶だけってええかしら」

「はい、大丈夫ですよ」

 佳鳴がにっこりと応える横で、千隼がウーロン茶を用意する。氷を適度に入れたグラスに、冷たいウーロン茶を8分目に注ぎ、台に上げる。

「お待たせしました」

「ありがとう」

 渡部さんはウーロン茶を受け取ると、ごっごっと喉を鳴らしながら一気に飲み干してしまった。グラスにはほとんど溶けていない氷がしっかりと残される。

「慌ただしくてごめんなさい。今度プライベートで帰って来た時に、ゆっくり寄らせてもらいますね。岩永くん、来年の高橋さんの公演が決まったら真っ先に連絡ちょうだいよ」

「解った解った」

 岩永さんが苦笑しながら応え、渡部さんは今度こそ立ち上がる。

「お邪魔しました。高橋さん、また!」

 渡部さんはそう言い残して、会計を済ませてばたばたと店を出て行った。

 そんな渡部さんを高橋さんはやや呆然と、そして岩永さんは苦笑いしながら見送った。他のお客さまもことの成り行きが気になったのか、静かに見守ってくれていた。

「ごめんやで、高橋さん。渡部がどうしても高橋さんと直接話がしたいって言うから、俺が連絡してん。嫌な思いさせてもうたな」

 岩永さんが言うと、高橋さんは「いいえ」と首を振る。

「私も直接お話が出来て良かったです。電話じゃ確かにちゃんと思っていることを伝えられないですもんね。渡部さんが聞いてくださって、良かったです」

「そう言うてもらえたらほっとするわ」

「はい」

 高橋さんは言って、安心した様に笑みを浮かべた。

 高橋さんはこれからも、クラブ活動の延長の様な劇団で活動を続けるのだろう。だがその心中は今までとは違うかも知れない。自分の成長によっては、それで身を立てられるかも。そう思えば、取り組み方も変わって来るだろうか。

 将来、芸能界で活躍する高橋さんを、テレビや舞台などで見られる様になるのだろうか。それはまた、とても楽しみではあるのだった。
 冬の気配はますます色を濃くし、吹き荒ぶ風が身体に辛くなってきたころ。

「そう言えば」

 小鉢に使う蒸かしたじゃがいもを、マッシャーで荒く潰していた佳鳴(かなる)が、思い出した様に声を上げる。

「最近あのお客さん来られてへんよね。春日(かすが)さん」

「ああ、そう言えば」

 春日さんは壮年の男性で、以前はしょっちゅう煮物屋さんに来てくれていた常連さんだ。

 ポテトサラダが好きなお客さまで、それが小鉢になると、「煮物ともうひとつの小鉢の量を減らしてくれても良いから、ポテトサラダを多くしてくれないかな」とおっしゃっていた。佳鳴たちは「ええですよ」と、その願いを叶えていた。

 春日さんは大阪出身では無い。転勤で千葉から引っ越して来られたのである。実は曽根を含む豊中市は、他県から転勤などで引っ越して来られた方も多いのである。

 そんな春日さんが、ここしばらく姿を見せていなかった。引っ越しでもしたのか、それともここの味に飽きてしまったのか。

 気掛かりではあったが、今の佳鳴たちに、それを確かめる術は無かった。



 それは数年前のこと。佳鳴と千隼(ちはや)が煮物屋さんをオープンさせた頃。

 何せ(かたよ)っているとも言える営業形態なので、スタートから好調と言う訳では無かった。

 それでも珍しがって来てくれるお客さまはいて、春日さんもそのひとりだった。

 その日のメニューは、メインに鶏肉とれんこんの煮物、彩りに茹でたほうれん草を添えたものを据えて、小鉢がポテトサラダときのこのマリネだった。

 その時のポテトサラダは塩もみ玉ねぎと塩もみきゅうり、炒めたベーコンと炒り卵を入れたなかなか凝ったもので、煮物を控えめに盛り付けてポテトサラダを多めにしていた。

「私は独身でひとり暮らしだから、なかなかこういう食事にありつけなくてね。特にこのポテトサラダが良いなぁ。いつもの小鉢より多いのもありがたいねぇ。いや、私はポテトサラダが大好きなんだけど、ほら、スーパーの惣菜とかね、あまり好みの味に当たらなくて」

 佳鳴が作るポテトサラダの味付けは、マヨネーズをメインに、隠し味にからしとバターを使っている。塩はもちろん白こしょうを少し強めに効かせている。

 小鉢を作るのは佳鳴の役目だが、その下ごしらえの量によっては千隼が手伝いに入る。今日は小鉢に使っている素材が多いので、姉弟は並んでせっせと材料を切った。

「お口に合ったのでしたら良かったです」

 佳鳴が笑顔で言うと、春日さんも嬉しそうに笑みを浮かべ、グラスに入った冷酒「呉春(ごしゅん)」を片手に食事を進めて行った。



 そうしているうちに、常連さんのお陰もあって煮物屋さんもどうにか軌道に乗って来た。カウンタだけのささやかな店内はあらかた埋まる様になる。

 その日のメインの煮物は、牛肉のしぐれ煮だ。ごぼうの他に椎茸と糸こんにゃくも入れている。彩りは塩茹でした絹さやだ。

 牛肉は香ばしさを出すために先に炒め、ごぼうと椎茸、糸こんにゃくを入れてオイルを回したら、お水や日本酒、お醤油などを入れて煮込む。生姜は千切りにして加えた。

 甘辛い煮物だが、煮物屋さんでは少し柔らかめに仕上げ、素材の旨味と生姜の爽やかさが活きる様にしてある。

 しぐれ煮は基本牛肉のみ、もしくは牛肉とごぼうだけで作ることが多いと思うが、椎茸を入れるとまた旨味が加わる。

 それらから出た味わいが糸こんにゃくに絡んで、見た目よりもあっさりといただけるのだ。

 小鉢は、まずは小松菜と厚揚げの煮浸し。

 厚揚げは小松菜と一緒に食べやすい様に棒状に切って、小松菜とさっと煮る。小松菜はあまり煮てしまうと色も悪くなってしまうし、煮汁に大切なビタミンが出てしまうので、しんなりする程度に火通しして、常温に冷ましておく。

 しゃきっとした歯ごたえを残し、厚揚げからでる旨味でふくよかな味わいになる。

 もう一品はじゃがいもとグリンピースのサラダだ。

 大きめのさいの目切りにして、蒸かしたじゃがいもは粉吹きにして潰さずに、塩茹でしたグリンピースと和えて、マヨネーズなどで味付けして行く。こちらは少しさっぱりとさせるために、隠し味にお酢を使っている。

 お手軽なポテトサラダと言ったところだが、ねっとりとしたじゃがいもとぷちっとしたグリンピースが良く合うのだ。

「こんばんは」

 19時を過ぎたころ、そう言いながら春日さんはやって来た。結構な頻度で来てくれるのだが、小鉢にじゃがいもを使ったサラダを用意すると、必ず来店される。表に出してあるお品書きをご覧になるのだろう。

 春日さんはまた呉春を手に、じゃがいもとグリンピースのサラダを食べて、ほぅと満足げに息を吐いた。

 呉春はこの大阪府の池田(いけだ)市にある呉春株式会社が(かも)す日本酒である。曽根のある豊中市の隣の市になる。

 柔らかな口当たりにしっかりと感じられる旨味。辛口では無いのだがすっきりとした後味のお酒である。

 春日さんはこの呉春がお気に入りの様で、煮物屋さんで必ず注文されるのだ。

「僕はどうやら、じゃがいもとマヨネーズの組み合わせが好きみたいなんだよね。だからこのサラダもとても美味しいよ。具はシンプルなのに、味付けが良いのかなぁ」

「そう凝ったことはしてへんのですよ。でもそうですね、調味料は弟とふたりでいろいろ味を見て、気に入ったものを使うてます。なのでご家庭でお作りになられるものとは少し違うかも知れませんね」

「そうなんだ。僕はお店経営のいろはなんてほとんど判らないけど、それだったらコストとか掛かっているんじゃ無いの?」

「いえいえ、そう高価な調味料を使っているわけでは無いんですよ。でもスーパーではあまりお取り扱いの無いメーカーさんのものが多いかも知れません」

「なるほどねぇ。そういうのもこだわりって言うんだろうね。僕は自炊もするけど、確かにマヨネーズひとつ取っても、メーカーごとに味が違ったりするもんね。あそこのはこってりしてる、あそこのは少しさっぱりしてる、とか。ほら、欲しい時に安売りしているものを買うから。特にこだわりがある訳でも無いしね」

「そうですね。マヨネーズに使う卵の産地とか鶏の品種とか、お酢でもオイルでも、使うもんによって味は変わって来るでしょうからね」

「それにしても、ポテトサラダってきゅうりとか具沢山のものって固定概念があったんだけど、このサラダみたいにグリンピースだけでも充分に美味しく作れるんだねぇ。これなら僕でも家で作れそうだ。何かコツみたいなのがあるのかな」

「特にこれって言うのがあるわけや無いんですけど、うちではマヨネーズはそう多く使わず、そうですねぇ、少し白こしょうを効かせる様にしていますね」

「白こしょう? それってスーパーで瓶に入って売っているものとは違うの?」

「春日さんがおっしゃっているこしょうは、黒いこしょうと白いこしょうのブレンドのものでしょうか。一般的な粒の細かい、粉の様なテーブルこしょうはそうやって作られています。白こしょうは黒こしょうより辛みが穏やかなんです。なのでポテトサラダのちょっとしたアクセントにええんです。スーパーのスパイスハーブの棚にあると思いますよ。今はスーパーでもいろいろなスパイスなんかが買えますからね」

「スパイスなんて難しそうなもの、僕には使えそうに無いからまともに見たこと無かったよ。でも今度見てみるね。それでもしかしたら自炊の幅も広がるかも知れないなぁ」

「例えば鶏肉を塩こしょうで焼いて、仕上げに皮の部分に乾燥バジルを掛けて、その皮部分を少し焼いたらバジルの風味が出て、いつもの鶏肉と違う味わいになりますよ。タイムやローズマリーなんかもええですね」

「え、え、え」

 佳鳴の話を聞いて、春日さんは目を白黒させる。

「バジルって言うのは聞いたことがあるけど、た、た、なんだって?」

「タイムとローズマリーです。これも乾燥させているもんがありますよ。生もありますけど、乾燥のものの方が使い勝手がええですし、何より保存がききますからね。機会がありましたら、試してみてください」

 タイム、ローズマリー、タイム、と、春日さんは何度も声を出さずに、口を動かして繰り返す。

「タイムとローズマリーね。うん、覚えた。今度見てみるよ。僕、鶏肉と言ったら塩こしょうだけで焼いたりとか、ああ、照り焼きも作るね」

「あらぁ、照り焼きが作れるやなんてすごいですねぇ」

「いやいや、酒と砂糖と醤油を適当に入れるだけでね。でもそのハーブで焼いた鶏とじゃがいものサラダで、なんだかおしゃれな食卓になりそうだねぇ」

「そうですね。それにお酒か、お食事にされるならパンやスープなどを添えると、立派な洋食のお食事になりますね」

「良いねぇ。楽しみになって来たよ」

 春日さんはそう言って、わくわくした様な笑みを浮かべた。



 春日さんとのかつての会話を思い出し、佳鳴はくすりと笑みを浮かべ、塩を振っておいたきゅうりの輪切りをぎゅっと揉んだ。
 営業が始まって数時間、お陰さまで料理は完売となった。まだ店内ではお客さまが寛いでおられるが、千隼(ちはや)はお品書きを回収し、営業中と書かれたプレートを支度中にするために表に出る。

 すっかりと寒くなって、空気が澄んでいる。街中なので星は見えないが、きっと高台に上がれば綺麗な星空が広がるのだろう。

 千隼は寒さに首をすくめながらプレートを返し、ドアからお品書きのホワイトボードを外した時、駅の方からふらふらと歩いて来る人影があった。

 その気配に千隼がそちらを見ると、それは春日(かすが)さんだった。

「春日さん。こんばんは、お久し振りですね」

 千隼が明るくそう声を掛けると、春日さんは力の無い笑みを浮かべる。

「ああ、ハヤさん。こんばんは。本当にすっかりとご無沙汰しちゃって」

 千隼の前で春日さんの足が止まる。店内から漏れ出て来る光を頼りにあらためて春日さんを見ると、その頬はすっかりと()けてしまっていて、色艶も良く無く、かなり疲れが表れていた。

 春日さんはもともとふっくらとされていた方だったので、その変貌(へんぼう)に千隼は驚きを隠せない。

「どうしはったんですか、春日さん。かなりお疲れみたいですけど」

「ええまぁ、ここしばらくかなりの激務でね」

 春日さんは言って苦笑する。

「いろいろあって勤務形態が変わってしまって、毎日帰宅は日をまたいでしまうんだ。今日はこれでも少し早いぐらいでね。食欲もすっかり落ちてしまって、ろくな食事も出来ていなくて。でも帰って来る時にはもう煮物屋さんは閉まっているから」

 春日さんはうなだれてしまう。

「ああ、またここのポテトサラダが食べたいなぁ」

 そう言って春日さんははぁと切なげな溜め息を吐いた。

「あ、あの、春日さん、少し、少しだけ待っていてもらえますか?」

「うん?」

 千隼は言い置くと、ホワイトボードを手に慌てて店内に戻る。厨房に入って隅にボードを放り投げる様に置くと、冷蔵庫から小鉢の料理を入れたタッパを出し、その中身を詰められるだけ、小鉢用の持ち帰り用使い捨て容器に詰める。

 途中で佳鳴(かなる)が首を傾げて「どうしたの?」と声を掛けて来るが、応える時間が惜しい。千隼は「あとで」と言いおき、容器を取っ手付きのナイロン袋に入れて、飛び出す様に外に出た。

 春日さんは表で静かに待っていてくれた。千隼は用意したそれを両手で持って、春日さんに差し出した。

「これ、良ければお持ちください。今日の小鉢はシンプルなもんですがポテトサラダやったんです」

 仕込みの時、佳鳴がマッシャーで潰していたじゃがいもだ。今回は塩もみきゅうりとハムだけのシンプルなものだったが、味付けは佳鳴が丁寧にほどこしたいつものものだ。

 煮物は品切れていたが、小鉢はいつも少し多めに作るのだ。閉店後に余った分は、千隼たちの夜食になる。

 春日さんはナイロン袋に入れられた容器を見て、「わぁ……」と顔を輝かせた。

「良いのかい?」

「はい、もちろん。お代も結構ですよ。陣中見舞いやと思っていただけたら。ほんまにお疲れの様ですから」

 千隼が言うと、春日さんは「いやいや」と首を振る。

「ちゃんとし払わせて欲しいな。お願いするよ」

 そう言われ、しかし千隼は「いえ、こちらが押し付けたんですから」と返すが、春日さんは首を縦に振ってはくれなかった。

「解りました。では……」

 と、千隼は小鉢分に相当する金額を挙げた。それを小銭でちょうどを受け取り、ポテトサラダを春日さんに渡す。

「本当にありがとう。嬉しいよ。落ち着いたらまた寄らせてもらうね」

 春日さんは先ほどとは打って変わって嬉しそうな笑顔で言い、今度はしっかりとした足取りで帰って行った。

 店に入り厨房に戻ると、不思議そうな顔で千隼を見る佳鳴に「悪い」と短く詫びる。

「表で春日さんに会うたんや」

「あら、お久し振りやね。お元気にしてはった?」

「いや、それが仕事で激務が続いてるらしいて、帰って来る時間にはこの店も閉まってるんやって。だからせめてポテトサラダ食べて欲しいて思って」

「あらぁ、そうなんや」

 佳鳴は言うと、かすかに顔をしかめる。

「え、春日さんが来られへんくなって、もう2ヶ月ぐらいにはなるやんね。その間、ずっと帰りがその時間やったってこと? お休みはちゃんと取れてるんやろか」

「そんな話はしてへんかったけど、平日そんだけ働いてたら、休めたらもう家から出たく無いやろ。睡眠不足やろうし。びっくりしたわ、すっかりとやつれてはって」

「そうなん? それは心配やね……」

 佳鳴の眉がまた歪んでしまう。

「じゃあご飯もまともに食べれてへんってこと? なんでそんなことになってもたんやろ」

「そこまでは判らへんけど、落ち着いたらまた来てくれはるってさ」

「じゃあその時を待つしか無いんやね。何か差し入れとかしたくなってまうけど……、逆にお気を(つか)わせてまうやろうしね」

「多分な。ポテトサラダもお代支払われたし」

「あんた、押し付けたのにお金いただいたん?」

 佳鳴がやや呆れた様に目を見開くと、千隼は少し焦って「いやいや」と手を振る。

「俺はもちろんいらへんって言うたで。けど払わせてくれって。そこで押し付けてまうと、春日さん気を遣うやろうから、小鉢分もらった」

 そう言って開いた千隼の(てのひら)には、数枚の硬貨が乗せられていた。

「まぁ、確かに春日さんはそう言う方やんねぇ……」

 佳鳴は納得した様に、小さく息を吐いた。

 久しぶりにお会い出来た春日さん。様変わりしてしまった春日さんに、千隼は大いに驚いたのだ。最近煮物屋さんに来られなくなった原因に合点はいったが、それが原因でああなってしまうとは。

 今日春日さんがいつもより少し早く帰れたこと、そしてその日の小鉢がポテトサラダだったのは、そういう縁だったのだろう。

 食べて、少しでも元気になってくれたら良いのだが。
 まだ寒さは続くが、そろそろ梅が蕾を付け始め、そろそろ春の気配を覗かせるころ。

 蒸し器で皮ごと蒸かしたじゃがいも。熱々のそれの皮をふきんを使って皮を()いて行く。

 それをボウルに入れ、マッシャーでざくざくと潰す。まだ熱いうちにバターを落とし、混ぜながら潰して行く。

 適度に潰れたらゴムべらに持ち替える。まだ温かなそれの熱を逃す様に、底から返しながら混ぜて。

 あら熱が取れるまで具材の準備。スライスした玉ねぎと輪切りにしたきゅうりに塩を振り、しんなりするまで置いておく。

 ハムはさいの目切りにする。缶詰のスイートコーンはざるで汁気を切っておく。

 じゃがいもが適度に冷めたので、用意した具材を入れて行く。しんなりした玉ねぎときゅうりは揉んでしんなりさせて、流水で水洗いをしたらぎゅっとしっかり水気を絞る。

 それにハムとスイートコーンも追加して、全体を混ぜて行く。

 次に味付け。マヨネーズ、少量のマスタード、塩、白こしょう。今日は少しのヨーグルトも入れる。

「姉ちゃん、今日もポテトサラダ?」

 最近は使う具材こそ違えど、ポテトサラダの小鉢が増えていた。もちろんメインの煮物を見てバランスは考えるので、そちらに芋類が使われたら作らないが。

「うん。春日(かすが)さんがいつ来はってもええ様に。他のお客さまに飽きられへん様に、具はいろいろ変えてるけどね。今日はちょっと凝ったバージョンで」

「へぇ、とうもろこし入れてるんや」

「うん。彩りが綺麗やろ? 同じ黄色やったら卵でもええんやけど、今日はコーンで。これも甘みがあって美味しいからね」

 そんな今日のメインは、鶏団子ときゃべつともやしの塩味の煮物だ。素材を昆布とかつおの出汁で煮て、味付けは酒と塩だけと言うシンプルなものである。それがまた素材の旨味を引き立てる。

 鶏団子には小口切りにした青ねぎとみじん切りにした椎茸も入っている。もやしはせっせとひげ根を取ったので、見た目も綺麗で食感も良い一品である。

 小鉢のもうひとつは、こちらは手軽に冷やっこにした。薬味はごま油としょうゆ、一味唐辛子で炒めたじゃこだ。

 炒めることでおじゃこのかりかり感が増し、香ばしさも加わる。ほんの少しピリ辛にして、煮物やポテトサラダとの対比を出した。

「毎日ポテトサラダはお店的に難しいけど、出来る限りはね。また春日さんに美味しいって食べていただきたいな」

「そうやな」

 そうしてふたりは、開店準備を進めて行った。



 時間になって煮物屋さんが開店し、小さな店内がぽつりぽつりと埋まり始めた頃。またドアが開いてお客さまが訪れる。

「こんばんは。すっかりとご無沙汰しちゃって。3ヶ月振りかなぁ」

「春日さん!」

 少し照れた様な笑顔で入って来た春日さんに、千隼(ちはや)はぱあっと笑顔を浮かべる。

「春日さん、本当にお久し振りです」

 佳鳴も笑顔になると、春日さんは少しほっとした様な表情になる。

「この前ハヤさんには少し話したんだけど、仕事が忙しくなってしまってね。でもどうにか落ち着いたよ」

「それはほんまに良かったです」

 春日さんは「うん。ありがとう。あ、呉春をよろしくね」とにっこり頷いてカウンタに掛ける。千隼からおしぼりを受け取り手を拭いて、ようやく落ち着いた様に「ふぅ」と息を吐いた。

 ()けてしまっていた頬は、少し戻りつつあるだろうか。少なくとも顔色は良くなっていて、佳鳴(かなる)も千隼も安堵する。

「実はね、3ヶ月前に会社の社長が変わったんだよ。当時の社長が隠居(いんきょ)するって言ってね。社会経験のためによその会社に勤めていた息子さんを呼び戻して新社長に()えたんだけど、これがまぁ、なかなかね」

 春日さんは苦笑しながら言うが、先にお出しした呉春をちびりとやると、心地良さそうにふぅと息を吐いた。

「僕が言うのもなんなんだけど、どうもその息子さん、新社長、あまり良い会社に就職できて無かったみたいで、その影響をもろに受けてしまってたんだよ」

 いわゆるブラックと呼ばれる不良企業だった様で、従業員だけではこなせない仕事量、無茶なノルマ、理不尽な経費削減、夜遅くまでのサービス残業は当たり前だった。

 かたや社長として就任した会社は、従業員に見合った業務量、残業もほぼ無し、あっても時間単位での残業手当が出る優良企業。

 だがそれが、新社長にとって「ぬるい」と感じられた様だった。新社長には就職した会社での働き方が常識になっていたのである。

「そんなに従業員はいらない、なら経費削減も兼ねてリストラしようとなってね」

「それやと従業員の方々も反発しはったんや無いですか? はい、お待たせいたしました」

 佳鳴は言いながら、千隼と整えた料理を春日さんに提供する。春日さんは「ありがとう」とそれを受け取り、続けて「そうなんだけどね」と口を開く。

「大役を任せられて浮かれちゃったのかなぁ、のぼせたって言うのかな、新社長が他の経営陣、取締役の話もまるで聞かないワンマンになっちゃったんだよね」

「ああ……」

「ああ〜……」

 佳鳴と千隼は揃って声を上げた。

「僕の会社は毎日業務日報を出すんだけど、新社長がそれを見てリストラする人間を決めちゃったんだよ。まぁ営業なら売上げ成績とかで判断出来ないわけじゃ無いけど、内勤の人間には特に理不尽だったよ。新社長、業務の内容もろくに知らずに、仕事の数だけで判断しちゃったからね。優秀かどうかなんて判らずにやったから、ばんばん辞めさせられた。私は対象にはならなかったけどね。リストラされなくても、その状況じゃ離職率も上がってしまって、本当に大変なことになってしまってたんだよ」

「それは大変でしたね。今は改善された、でええんですよね?」

「そう。とにかくお客さまとか取引先の兼ね合いなんかもあって、穴を空けられないことも多いから、皆必死で、死に物狂いで働いてたよ。でももう先が見えなくてね。で、どうしたら良いんだろうって考えて、まずは極端だけど、新社長退任の署名を、新社長に知られない様にこっそりアナログで始めたんだ」

「それを元に新社長に直談判を?」

「いや、前社長に持ち込むことにしたんだ。何せ誰の話も聞かないから、直談判は署名が無駄になるかも知れないからね。新社長は実家を出ていたから良かったよ。それも社会勉強のひとつだったらしいけど。休みの日に前社長の家に行って、署名を見せて社長に現状を話した。本当に驚かれてしまってね。まさかそんなことになっているなんてって。新社長は前社長の父親に今の会社の状態を詳しくは言ってなかったみたいだから。ただ聞かれても「巧くやってるよ」としか返って来なかったって。もともと信用している取締役もいるんだから、前社長も問題無いって思ってらした」

「そうですね。問題無いって言われれば、これまで通り、もしくはさらに良うなっているって思われますよねぇ」

 佳鳴が言うと、春日さんは「だよねぇ」と息を吐く。

「だから前社長も安心していたって。でね、現状を知った前社長は、さっそく週明けに会社に来られて、そりゃあもう時間を掛けて現社長に話をされたよ。その結果、新社長は社長じゃ無くなった。いちから勉強をし直すことになったよ。次の新社長は取締役のひとり。これで会社は元に戻ったんだ。リストラされて再就職先が決まっていなかった人を呼び戻したりもしてね。その時に出された退職金やらなんやらでちょっとごたごたしたけど、それはそれとして」

「それで、またこの煮物屋さんに来ていただける様になったんですね。ほんまに良かったです」

「ありがとう。本当に店長とハヤさんのお陰だよ」

 そう笑顔を浮かべた春日さんに、佳鳴と千隼は「え?」と驚いて首を傾げる。佳鳴たちは何もしていない。正確には出来なかった。ポテトサラダの頻度を上げて、春日さんをお待ちすることしか出来なかった。

「疲れて帰って来たあの日、ハヤさんは僕にポテトサラダを持たせてくれた。家に着いてお茶を淹れてサラダをいただいた時にね、思ったんだよ。このままじゃいけない、なんとかしなければって。それまでいっぱいいっぱいだったんだけど、大好きなポテトサラダのお陰で少し余裕が出来たんだろうね。また元気に煮物屋さんで美味しいご飯を、ポテトサラダを食べたいって」

 春日さんはふっと目を細める。

「店長さんの心の込もったポテトサラダが、ハヤさんの心遣いで僕に届いた。あの時は本当にぼろぼろだったから、優しさもすごく()みたものだよ。あの時ハヤさんに会えなかったら、あの会社そのものの存続も危うかったかも知れない。あんな経営状態じゃ長続きしないだろうからね。だから店長さんとハヤさんには本当に感謝しているんだ。本当に、ありがとう」

 春日さんはそう言って、深々と頭を下げた。佳鳴たちは慌てて手を振る。

「春日さん、頭を上げてください! 私たちは何もしていませんよ」

「そうですよ。僕たちは本当に何も。春日さんが頑張らはったんですから」

「ううん、それもおふたりの心遣いが無かったら踏ん張れなかった。ありがとう」

 春日さんに笑顔で言われ、佳鳴たちは戸惑いながらも、笑みを返した。

「私たちはほんまに何もしてませんが、そうおっしゃっていただけるのは嬉しいです。こちらこそありがとうございます」

「こちらこそだよ。さ、お料理をいただこう。ポテトサラダ嬉しいなぁ」

 春日さんは箸を持つと、ポテトサラダをすくい、ぱくりと口に放り込むと、ゆっくりと咀嚼(そしゃく)する。

「ああ、やっぱり美味しいなぁ。こうしてここでゆっくりいただくポテトサラダが1番美味しいよ」

 春日さんは満足げに言って、うっとりと目を細めた。
 まだ肌寒さは残るが、春が顔を出し始める。そろそろ冬のコートもお役御免だ。

「こんばんは!」

 煮物屋さんが開店して少しした頃、ご機嫌な様子で現れたのは門又(かどまた)さんだった。

「こんばんは、いらっしゃいませ」

「いらっしゃいませ〜」

 佳鳴(かなる)千隼(ちはや)も笑顔で迎え、まずはおしぼりを用意する。門又さんは差し出されたそれを受け取りながら「お酒でお願い。兼八(かねはち)の、ええっと、今日は炭酸割りにしようかな」

「レモンとかお入れになります? 酎ハイのお値段になりますけど」

 この煮物屋さんでは焼酎はロックや水割り、お湯割りで提供することが多く、炭酸割りにするといわゆる酎ハイになる。プレーンな酎ハイは焼酎と同じ値段で、果汁などが入るレモン酎ハイなどは少し高くなる。

「あ、そっか。焼酎を炭酸で割ると酎ハイになるんや」

「はい。うちでは酎ハイはキンミヤ焼酎を炭酸水で割って作っていますから。焼酎の炭酸割りは酎ハイのプレーンです」

 「キンミヤ焼酎」の正式名称は「亀甲宮(きっこーみや)焼酎」と言う。三重県の宮崎本店で造られているものだ。

 癖が少なく割り材の邪魔をしないので、焼酎のベースとして広く使われている一品である。

「うーん、でも食事の時はあまり甘い飲み物好きやないしなぁ。プレーンで」

「かしこまりました」

 佳鳴はさっそく棚から兼八の瓶と、冷蔵庫から炭酸水の瓶を出す。おお振りのグラスに氷を半分ほど詰め、メジャーカップで焼酎を測ってグラスに入れ、そこに炭酸水をグラス8分目ほど注ぎ、マドラーでくるりと混ぜる。

「お待たせしました」

 出来上がった麦焼酎の炭酸割りをお出しすると、門又さんは「ありがとう」と受け取る。

「ねぇ、このお店って酎ハイとサワー両方あるけど、違いってなんなん?」

 門又さんが美味しそうにグラスを傾けながら問う。

「今の日本では明確な線引きは無いみたいですよ。でもうちでは酎ハイはキンミヤ焼酎、サワーはスミノフを使ってます。サワーは本来、ウォッカとかジンとかのスピリッツに、柑橘(かんきつ)とか果物で作ったお酒を合わせて作るんやそうです。炭酸では割らへんのですって。日本では割ったもんがなじみ深いので、この店でもそうしてますが。果物のお酒も、代わりに果汁で代用してますしねぇ」

「カクテルみたいやね」

「そうですね。うちではカクテルの取り扱いが無いんで、洋酒がお好きなお客さまにはサワーやウイスキーをおすすめしてます」

「なるほどね〜。このお店って煮物とかの和食を食べさしてくれるから、なんとなく焼酎とか和のお酒て思ってたけど、洋酒好きかておるよなそりゃあ」

「はい。あまり種類は多く無いですが、お好きなお酒で楽しんでいただけたら嬉しいです。はぁい、お待たせしました」

 そして整えたお料理をお出しする。メインは豚だんごと大根と厚揚げとししとうの煮物だ。スライスした玉ねぎも入っている。

 豚だんごはふっくらと仕上がる様に、豚挽き肉にお塩だけを入れて、もったりしろっぽくなるまでこねる。そこに卵を入れ、アクセントに青ねぎの小口切りを入れて、お醤油などで軽く調味をしてお団子にする。

 煮汁に甘みを出すために、ごま油で繊維に垂直にスライスした玉ねぎをしんなりと炒め、お出汁を張り、沸いたら豚だんごを落として行く。

 豚だんごから出るあくを丁寧に取り除き、お米の研ぎ汁で下茹でした大根、油抜きした厚揚げを入れて、ことこと煮込んで行く。

 味付けは日本酒とお砂糖、薄口醤油で付け、ししとうは色合いを生かすためにしんなりする程度の火通しにする。

 煮汁には玉ねぎから旨味が滲み出し、ふわっふわに仕上がった豚だんごに良く絡む。大根や厚揚げはその旨味を吸い、すっかりとろとろになった玉ねぎと一緒に口に運ぶと、ふくよかな味わいが広がる。

 小鉢はいんげんと舞茸のきんぴらと、たたき長芋ののり梅和えだ。

 きんぴらは日本酒とお砂糖、お醤油で味を付け、白すりごまをたっぷりとまぶす。ごま油でしゃきっと炒めた歯ごたえの良いいんげんと、しんなりとした舞茸の対比がおもしろい。味わいのある一品だ。

 長芋はジップバッグに入れて綿棒で叩き、ひと口大ぐらいになったら、叩いた梅干しを混ぜ込んだのりの佃煮と和える。

 のりの佃煮も煮物屋さんで作っている。のりはガスの直火に当てて香ばしさを出し、ちぎって日本酒とお醤油、お砂糖で煮詰めて作る。旨味を出すためにかつおの粉末も入れている。

 甘やかなのりの佃煮の中から顔を出す梅の爽やかな酸味が、さくさくの長芋に良く合うのだ。

「ありがとう。いただきます」

 門又さんはお(はし)を取って、小鉢から手を付ける。

「あ〜、こういうおばんざいみたいなんが食べられるんがほんまに嬉しいやんねぇ。家でひとりやとこんなん作れへんもん」

 そう言って嬉しそうに顔を綻ばせる。そしてまた兼八の炭酸割りをあおった。

「あ、そうや。店長さん、ハヤさん、これ見てこれ!」

 お箸を置いた門又さんが、開いた左手の甲をぐいと伸ばす。

 きらりと輝く綺麗な透明の石が埋め込まれ、それを挟んで赤い不透明の石がふたつ填め込まれた、デザインとしてはシンプルな指輪が門又さんの薬指を飾っていた。

 真ん中の透明の石がいちばん大きく、赤い石はやや小振り。土台になっている銀色の金属もほとんど傷など無く、石に負けじと光を放っていた。

「綺麗ですねぇ!」

 佳鳴が黄色い声を上げる。佳鳴だって女性だ。アクセサリーだって好きである。

「へへ。ちょっと奮発してん」

 門又さんは言って、嬉しそうに笑う。

「自分へのご褒美(ほうび)や無いけど、まぁ今まで独り身でがんばってきたやろかって。いや、自分で選んで独り身なんやけどな? 今はな? でも平日毎日有休もろくに取らんと仕事して、家事もやってって。そりゃあそんなんひとり暮らしやったら当たり前なんやし、結婚して仕事持ってたらもっと大変なんやろうけど、これまであんまりご褒美ってしてへんかったなぁって思って」

「ええですねぇ、ご褒美。若いお嬢さんは結構自分へのご褒美ってしているみたいですね。今週がんばったから、ちょっとお高めのスイーツとか」

「そうなんやってね。私も服とか買うけどそれは必要やからやし、アクセサリーはあんま興味が無かったから、冠婚葬祭に使う真珠ぐらいしか持ってへんかったんやけど、ついでがあって梅田の阪急百貨店のジュエリー売り場に行ったら綺麗なんたくさんあって。もしかしたら食わず嫌いやったんかもって。店員さんに相談して、これに決めてん。真ん中がダイヤで、赤い石が珊瑚。好きな色やねん」

「珊瑚が不透明なのがええですねぇ。真ん中のダイヤが際立って見えます」

「やろ? 余計に輝いて見えるやんね。赤いんが輝く系の石だったら、ちょっとうるさいかもて思って。もう私もそう若いわけや無いから、これぐらい落ち着いてるぐらいの方が長く使えるし」

「門又さんはまだまだお若いと思いますが。あ、でも薬指なんですね」

「そうやねん。在庫あるのが薬指にしか合わへんで。サイズ直し2週間掛かるって言うから待てへんなって、とりあえず落ち着くまで薬指に付けてる。ほぼ一目惚れみたいなもんやったからね〜。お店もサイズ直しいつでも受け付けてくれるて言うてくれてるから」

「解ります。気に入っちゃったらすぐにでも身に付けたいですよねぇ」

 佳鳴がうんうんと頷くと、門又さんは「あはは」とおかしそうに笑う。

「私に男っ気が無いんは皆知ってるし、変な誤解生むことも無いやろうしね。実際今日これで会社行ったら、男の同僚に「何見栄(みえ)はってんねん」って笑われてもた。失礼やんね〜」

「門又さん、そこは怒るところです」

 千隼が言うと、門又さんはまた「あはは」と笑う。

「もうそんなんいちいち気にしてられへんて。私って同期の中でも結構出世してるからなぁ。将来のこともあるからばりばり働いて貯金してって思ってるから、女扱いされてへんのかも知れんなぁ」

「そこも、怒るところですよ」

 千隼の少し呆れた様なせりふに、門又さんはまたまた「あはは」と笑顔。

「まぁ気にせんぐらいには図太くなったんかもね。この指輪は今の私の唯一の潤いかも。土台もプラチナやから、私にしては結構がんばって買うたんやで。できたら一生大事にできたらて思ってる」

「ええですねぇ、そういうの。私も何か見に行ってみようかな。お仕事中は着けられないですけど」

「やったらネックレスとかでもええんやない? 綺麗なんたくさんあったで」

「あ、そうですね。あまり派手なもので無かったら、お店でも着けられますもんね」

「もし買うたら見せてな〜」

「はい。もちろんです」

 佳鳴は言って、ふわりと微笑んだ。