闇深い冬空の下、綿毛のような雪がはらはらと降っている。
積もるほどでもないが、寒さを感じるには十分だろう。
その雪を時折見上げながら、吉野小春は向島にある花街の中を、あてもなくとぼとぼと歩いていた。
「はあ……寒い」
小柄な痩せた体を守るのは、着古された木綿の着物一枚。剥き出しの肌は刺すような冷たさに襲われている。
風呂敷で包んだ荷物は最低限しかないはずなのに、体が悲鳴をあげているせいか、ズシリと重くのしかかっているようだった。
加えて、夕飯のまかないに預かる前に追い出されたので、腹もひどく空いている。
「これからどうしよう……」
途方に暮れた呟きが、白い吐息と共に消えた。
一時間ほど前まで小春は、この花街に店を構える老舗料亭『蝶乃屋』で、いつも通り下働きとして仕事に励んでいた。
――それがどうして、こんなことになったのか。
小春は寒さに震えながらも、数ヶ月前の稀有な出会いから遡って、ぼんやりと思い返してみた。
※
(ああ、急がなくちゃっ!)
障子の向こうからは三味線の音に乗って、伸びやかな唄が聞こえてくる。
今宵の蝶乃屋には、踊りが上手いと評判の芸者も呼ばれており、お座敷はたいそうな盛り上がりを見せていた。
気前のいい宴を開いているのは、今の大戦景気で一気に業績を伸ばしたという、どこぞの会社の社長だ。世に言う成金である。他にも今夜は数組の太客が来ていて、店は大忙しだった。
景気の恩恵を受けているのはごく一部で、庶民の生活は依然として苦しいままだ。
金を落としてくれる者は皆、大切なお客様である。
(また叱られないように、静かに静かに……でも急いで!)
板張りの廊下を、小春は足音に気を付けながら走り抜ける。荒れた手に握るのは、指先をひんやりとさせる氷嚢だ。
(これを頭に当てて、少しは楽になるといいんだけど……)
齢十三になる小春は、物心ついた頃からこの料亭にいた。
母は小春を生んでからほどなくして病にかかり、亡くなる前に昔馴染みである、ここの大女将に娘を預けたそうだ。
母のことは断片的にしか覚えていない。
父の存在は最初からなかったように知らない。
そのような状況は特別なことではなく、親と縁の薄い子供など花街ではありふれていた。
ここでの小春は、〝雑に扱っていい居候のようなもの〟という立ち位置で、尋常小学校にもろくに通わせてもらえなかったし、朝から晩までお給料ももらわず、あくせくと働かされている。
大女将は怖くて、毎日つらいことも多く大変だ。
だけど環境ばかりを嘆いていても仕方ないと、小春は思っている。粗雑でも衣食住がそろっているだけで、自分はまだまだ恵まれているのだ。
遠い記憶の中で、母も小春に言い聞かせていた。
『いつだって胸を張って、前向きな生き方をなさい。心に住まう鬼に負けないように……そうしたら小春の素敵なところを、必ず見つけてくれる人が現れるから』
母の言葉を胸に、これまで小春は懸命に生きてきた。
……だがそんな人が現れる兆しはなく、代わりに今宵の小春のもとに現れたのは、ずいぶんと具合の悪そうな人だった。
「遅くなってごめんなさい! よかったらこの布巾で、痛むところを冷やしてください」
「ああ……悪いな。助かる」
賑やかなお座敷から離れた、人目につきにくい柱の影。
そこに片膝を立てて座り込んでいるのは、身形のいい美少年だ。
サラリとした黒髪に、眼鏡をかけていてもわかる整った顔立ち。歳は小春より、三つか四つ上だろう。紺の久留米絣の着物を纏って、帯には丸型の中に小花模様が描かれた、女物の蒔絵根付がついている。少女と見紛う少年には、その根付がまた小粋だった。
だがその麗容も半減するほど、今は顔色が最悪だ。
少年は太客のひとりである社長子息で、今宵の宴には社会勉強として連れてこられたらしい。
障子の隙間から偶然目が合った時、彼は涼しい表情を装ってはいるものの、小春にはその不調がすぐにわかった。
でも他には誰も気づいていないようで、父親も芸者たちと投扇興というお座敷遊びにかまけていた。
小春が心配でソワソワしていたところ、彼が席を立ってそっと廊下に出てきたため、思わず「休むならこちらへどうぞ!」と声をかけたのだ。
少年は冷たい氷嚢を側頭部に当てながら、「ふう」と息を吐く。
「こういう瘴気の多いところは苦手だ……空気が悪くて、吐気と頭痛がする」
「しょうき? ですか?」
「こっちの話だ」
なんのことかまったくわからなかったが、小春が詮索していいことではないのだろう。お客の事情に深追いしないのは、花街の暗黙の了解だ。
「少しは楽になりました?」
「ああ。体調が回復したら、すぐに座敷に戻る」
「えっ? さ、先に帰らせてもらった方がいいですよ。今にも倒れそうじゃないですか!」
「父には弱みを見せたくない」
「弱みって……」
お金持ちの子供は子供で、小春とは別種の苦難があるのかもしれない。
放ってもおけず悩んだ小春は、それならば……と、彼の隣で正座をしてポンポンと膝を叩いた。
「どうしてもお座敷に戻るなら、せめて数分でも横になった方がいいです。よかったら私の膝を枕に使ってください」
「は……」
その申し出に少年は狼狽え、「そんなことまではいい」と当然のように辞退しようとする。だが、くらりと眩暈がしたようで、小さく呻き声を漏らした。
「ほら、このままだと座敷に戻ることもできないですよ。今日はこちらに人は来ませんし、私も少しくらいなら仕事を抜けても大丈夫ですから!」
「そういう問題ではないだろう……」
「早く戻りたいんですよね?」
「それはそうだが……わかった、失礼する」
観念して彼は眼鏡を外し、形のいい頭を小春の膝に乗っけた。
眼鏡がない方が、整った容姿がよく映える。
この時小春は初めて、彼の切れ長の瞳を近くで覗いたが、よくよく見たら、色がなんと黒ではなく金だった。異国の血でも引いているのだろうか、それが息を吞むほどに美しい。
(キラキラしたおはじきみたい……)
宝石などは見たことがない小春には、母と昔遊んだ、おはじきに例えることくらいが関の山だった。
もしかしたら彼の眼鏡は、この特徴的な目を隠すためだったのかもしれない。
見惚れているうちに、少年はスッと瞼を落とす。「ホッとするな……」と呟く彼に、小春は「人の体温がそばにあると安心しますよね」と笑う。
しばし穏やかな空気が流れたが、不意に少年は小春に声をかけた。
「……このままだと本格的に寝入りそうだが、それはさすがにまずい。なにか話していてくれないか」
どうやら開き直って、小春にとことん甘えることにしたらしい。
気位の高い猫に懐かれたようで、小春は嬉しくなる。
「いいですよ。でも私、学がないのでは話は得意じゃ……そうだ! 流行(はや)りの唄でも歌いましょうか」
長唄や清元は散々お座敷で聞いただろうが、流行歌なら気軽に耳を傾けられるのではないかと思った。松井須磨子の『カチューシャの唄』が大ヒットしたことは記憶に新しく、世の中には次々といろんな唄があふれている。
小春の母も、たまに口遊んでいたが上手かった。だから娘である自分も上手いはずと自負する小春に、少年が「それでいい」と頼む。
そして小春は、なるべく声の大きさは抑えて、一曲披露したのだが……。
「ふっ、くくっ! お前の唄、なんというか……ははっ、独創的だな」
「え、よかったですか?」
「くくっ……ああ、最高だった」
なぜか少年は、横になりながら腹を抱えて笑っている。
有り体に言ってしまえば、小春はものすごい音痴なのだが、ここで間違った自信をつけてしまった。ひとつの悲劇の誕生である。
少年はひとしきり笑うと、ゆっくりと体を起こした。
「もう行かれるんですか?」
「笑ったら気分も治ったからな。お前の周りは瘴気もなくて、そばにいると休まった。礼をしなくてはいけないな……」
彼は着物の懐から、キャラメルの箱を取り出した。
小春に「手を出せ」と命じ、かさつく荒れた手の上に、キャラメルをコロリと二粒転がす。
「ここに来る前に、知人から押し付けられたものだ。さっきの唄を含め、お前の時間を使わせた花代として受け取れ。後で好きに食べるといい」
「こ、これ、高価なものですよね!? 大人が食べる……いただけません!」
芸者に支払う代金を〝花代〟と言う。
ここが花街ゆえの軽口だとわかっていても、小春は芸者ではないのに、こんなお代をいただくなんて申し訳なさすぎた。キャラメルは本当に高価な甘味なのだ。
しかし返そうとする小春の手に、少年は自分の手を重ね、ぎゅっとキャラメルを握り込ませる。
「返される方が、俺の矜持に傷がつく」
「……わかりました」
そこまで言われてしまえば、受け取らないわけにはいかない。
しぶしぶ引き下がった小春に、少年は満足そうに口角を上げていた。
その夜、初めて食べたキャラメルの美味しさは、小春にとって一生忘れられないものとなった。一粒だけで天にも昇れるほど幸せになれる。
彼のおはじきのような玲瓏たる金の瞳も、鮮烈な印象を残して消えなかった。
(また会いたいな……。住む世界が違うし、きっと無理だろうけど)
小春は叶わぬ望みを抱いて、粗末な布団で眠りについた。
――けれど、再会は意外にも近いうちに訪れる。
少年の父が蝶乃屋を気に入ったようで、頻繁に訪れるようになったのだ。店にとってもありがたいことである。
乗り気ではなかったはずの少年も、いつも眼鏡と女物の蒔絵根付をつけて、必ず父についてきていた。そして宴の最中に抜け出しては、こっそり小春に声をかけてくれた。
「今日も忙しそうだな、小春。ちゃんと休めているのか?」
「おはじきさん!」
三度目くらいに会った時、名を尋ねられたので小春は正直に答えた。
だが少年の方は、あまり名乗りたくないようだった。
接客はあまりせず、皿洗いなどの裏方作業が中心の小春は、お客様の名前をひとりひとり把握しているわけでもない。だから彼のことを、勝手にあだ名をつけて呼んでいた。
そのあだ名に、また少年は腹を抱えて笑った。
一見すると冷たい雰囲気の彼は、小春の前ではよく笑うし感情豊かだった。
ささやかなやり取りだけだったが、ふたりはどんどん仲良くなって、おはじきさんは真剣な顔でこんなことも言ってくれた。
「こんな鬼がじきに生まれるだろう場所に、お前を置いておけない。俺がいずれ、必ず小春を改めて迎えに行く」
鬼とはあの、妖怪の類いの鬼だろうか。
おはじきさんはたまに変わった表現を使う。
母も〝心に住まう鬼〟がどうのと話していたが、彼が言うのは素行の悪いお客のことかなと、小春はひとりで解釈した。
「えっと、おはじきさんが私を迎えに来てくださるんですか?」
「ああ。だからもう少し待っていろ」
まるで告白のような言葉に、小春は胸が躍ったが、本気にはしていなかった。
彼と自分では、立場もなにもかもがつり合わない。
きっとこれは社交辞令というやつだ。でも否定するようなことも言いたくなくて、ただ笑顔で「はい」と頷いた。
そんな交流が半年ほど続いた頃。
おはじきさんは突然、ピタリと来なくなった。
(お父様の方も来ていないみたいだし……うちに飽きちゃったのかな)
厳しい話、ここ最近の蝶乃屋は、角を曲がったとこにある蜂須屋にお客を根こそぎ取られていた。
もともと同業のライバル店ではあったが、やり手の若女将が仕切るようになってから、あちらは客入りも評判も上々。こちらは下降の一途を辿っている。
そのせいで大女将の機嫌がたいそう悪く、それこそ日に日に、鬼のような形相になっていっていた。
小春が当たられることもしばしばで、昨晩も理不尽に喚かれて頬を叩かれた。
(おはじきさんに会って、元気をもらいたかったのにな……)
しょんぼり肩を落としていたところ、まるで追い打ちをかけるように「ちょっと来な、小春」と、大女将から呼び出しがかかる。
仁王立ちする大女将に、小春はまた叩かれるのかとビクビクした。
実際、叩かれる方がマシな事態ではあったのだけれど……。
「い、今すぐ荷物をまとめて出ていけって……待ってください! 私、なにか粗相でもしましたかっ?」
大女将の部屋で告げられた解雇通告に、小春は唖然とした。いくらなんでも、それは急だし横暴すぎる。
だが抗議など受け付ける間もなく、大女将は「うるさい! さっさと言うことを聞きな!」と怒鳴った。
「お前の他にも何人か辞めさせたんだ。うちにはもう、今いる従業員を雇う余裕はないんだよ! 昔馴染みの子供だからって面倒見てきたがね、こっちが限界なんだから仕方ないだろう!」
なんと、小春が想像していたよりも、蝶乃屋の経営は危うかったらしい。
それにしたって雪の夜にわざわざ放り出すのは、大女将の当てつけに違いなかった。
そうして小春はあれよあれよという間に、天涯孤独な上に働く場所も、住む場所も失くしてしまったのだった。
※
「もう、どのくらい外にいるんだろう……」
現実に戻ってきて、小春は青ざめた唇で独り言ちる。
少ない所持金では泊まれる宿もなく、適当な店に入って温まることもできない。もう一時間近くは雪降る花街の中を、ぐるぐると彷徨い歩いている。
「あっ! あの屋根の下で少し休ませ……きゃっ!」
雪をしのげそうな空き家を見つけて、反射的に走り寄ろうとしたところ、かじかんだ足が邪魔をした。
ズサッと、小春は無様にも倒れ込む。
その拍子に足首も捻ってしまったようで、じんわり鈍い痛みが襲った。
(ダメだ……起き上がることも、もう……)
ようやく休めそうなところがあったというのに、小春の方が力尽きた。助けを求めたくても、運悪く近くには人もいない。
体はどんどん、凍り付いたように温度を失っていく。
(このまま死んじゃうのかな、私)
それならもう一度、最期におはじきさんに会いたかった。
たとえ彼の言葉が本気じゃなかったとしても、小春は約束した通りに、彼が迎えに来るのを夢見て待っていたかった。
(おはじきさん……)
そこでふと、遠くから足音が聞こえた。
閉ざされかけていた小春の視界に、走ってくる誰かの姿が映り込む。
まさか死ぬ前の幻覚で、おはじきさんが迎えに来てくれたのかと、小春はなけなしの力を振り絞って顔を上げた。
「ああっ、大変だ。これは相当弱っているね」
「ど、なた……ですか……」
そこにいたのは、待ち侘びた彼ではなかった。インバネスコートを着て帽子を被った、二十代半ばくらいの若い紳士だ。優しげな面立ちは、こちらを心配そうに見つめている。
小春の問いに、紳士は答える間もなく、大きく声を張り上げる。
「盛太郎、早くこちらに来ておくれ! この子を家に運んで、まずは体を温めないと!」
紳士はコートが濡れることも厭わず、小春の体を丁寧に抱き上げてくれた。頬に張り付く髪も払ってくれ、「もう大丈夫だよ。君はどこか少し、妹の小さい頃に似ているね」と表情を和らげた。
そのどこかホッとする笑みに、小春はいよいよ全身を弛緩させて瞼を下ろす。
雪舞う夜のこの出会いが、またひとつ彼女の運命を変えるわけだが……今はただ、命あることに安堵したのだった。
「うん、とってもいいお天気!」
晴れ渡った帝都の空を見上げて、小春は清々しい空気を吸い込んだ。
広い庭の地面に籠を置き、溜まった洗い物を手際よく、物干し竿に背伸びしながら干していく。まさに洗濯日和である。
途中で後ろから、バタバタとふくよかな中年女性が走ってきた。この家で小春と同じく、女中として雇われている加代だ。
「小春ちゃん! ごめんなさいねえ、お洗濯物を任せちゃって! 私が寝坊したせいで……」
「いいですよ、加代さんもお疲れだと思うので」
「本当に、小春ちゃんが来てから助かっているわあ……働き者だし、いい子だし。でも、残りは私に任せて! 明子お嬢様が小春ちゃんを朝からお呼びよ」
「え、明子様が? すぐ向かいます!」
申し訳ないけど、お言葉に甘えて残りの洗濯物は任せ、小春は薄紅の着物を翻して家の中へと入った。
時は大正――。
新しい文化が花開き、人々の生活も目まぐるしく変化するこの時代。
小春が本郷にある、この珠小路子爵家に来てから、あっという間に三度目の春が訪れた。
なんとあの雪の夜、小春を助けてくれたのは、子爵家を継いだばかりのご当主・珠小路有文様だったのだ。
なぜ華族様があんなところにいたのかというと、なにも芸者遊びに来たのではなく、父親の借金を返しに行った帰りだというのだから、なおさら驚きである。
小春の中で華族といえば殿上人。
毎日綺麗なお着物やお洋服を着て、パーティーやらに洒落込んでいるのかと思っていた。
しかし現実は、華族といっても全員が全員裕福ではないらしく、もとより珠小路子爵家は資産に恵まれていない公家華族。前当主の有文父には商才などもなく、にもかかわらず放蕩三昧したいせいで、方々で借金まで作っていたという。
有文は苦笑しながら言ったものだ。『一年ほど前に父が亡くなるまで、苦労ばかりさせられた』と。
母親は父より先に亡くなっていて、親戚も信用に足る者はいない。妹の明子とふたりきりで、有文はまだ若くして家を背負うこととなった。
だが彼は父の借金にも負けず、家財を売って返し切り、商売も一から始めてなんとか軌道に乗せ、たった一年で見事家を立て直した。景気の後押しもあるとはいえ、父を反面教師にした相当の努力家である。
とはいえ、彼の会社はまだまだ小さく、懐も潤っているとは言い難い。この日本家屋も大きく立派ではあるが、生活は質素倹約だ。
それなのに行き場のない小春を女中として置いてくれて、小春は毎日感謝してもしきれない。
(私が明子様の幼い頃に似ているから、放っておけないとおっしゃっていたけど……ただ有文様たちがお優しいだけだと思うんだよね)
助けてもらってからの顛末を思い、簡単に束ねた長い髪を振ってうんうん頷きながら、小春は縁側を通り抜ける。
ちなみに幼いといっても、小春と明子は同い年の十六歳だ。
小春が幼く見えたのは、もとから小柄な体がさらに痩せ細っていたせいだった。今はちゃんとした食事にありつけるおかげで、体も年齢相応にふっくら肉付きがよくなっている。
この家にいる使用人は、女中の佳代と小春、それから下男の盛太郎のみだが、有文たちは手厚く扱ってくれている。
小春はいまだにふかふかのお布団で目覚めると、夢の続きなのではないかと疑うくらいだ。
料亭にいた頃よりも破格の待遇に、ずっと恐縮しきりである。
(たくさんたくさん働いて、おふたりに恩返ししないと!)
小春は気合いを入れて、辿り着いた部屋の障子戸に向かって声をかけた。
「明子様、失礼いたします。小春です」
入るよう言われて戸を開ければ、ひとりの少女が鏡台の前に座っていた。「おはよう、小春。呼びつけてごめんなさいね」と控え目に微笑む様は、清らかなハナミズキの花のようだ。
ハナミズキは大正の初め頃、日本が米国に桜を寄贈した返礼に、米国から贈られたという歴史がある。
小春はいそいそと入室した後、彼女の顔色を確認する。
「今日は起きていても大丈夫なんですか? お体の調子よさそうですね」
「ええ。薬が効いたのか、気分がよくて……久方ぶりに学校にも行こうと思うの。髪を小春に結ってほしくて」
「かしこまりました! お友達に負けないくらい可愛くします!」
明子は生まれつき病弱で、通っている女学校も休みがちだ。だけど成績のよい才女であり、体調のいい時は小春に読み書きなども教えてくれた。
小春は櫛を取り、明子の長い髪を梳いていく。
「ふふっ……いっそ小春が、私の替わりに通ってくれてもいいのよ? 顔立ちが似ているのだから、入れ替わっても誰も気付かないんじゃないかしら」
「な、なにを言っているんですか!」
とんでもない提案に、小春は手にしたリボンを落としかける。
ふたりは顔の造りも体格も、有文が評するように似通っていた。どちらも丸顔で瞳が大きく、美人とまではいかないが可憐な愛嬌がある。
だが当然、細かい違いは多く、そもそもたおやかで儚げな明子と、雑草根性丸出しのたくましい小春とでは、印象に大きな差があるだろう。
しかしながら、明子はバレない自信があるようだ。
「小春が私の真似をすれば、きっと問題なくできるわ。あなたは器用な上に頭もいいもの。私が教えたこと、全部すぐに覚えたでしょう」
「それは明子様の教え方が上手いから……」
「小春は謙虚ね。お友達は騙せなくとも、私をあまり知らない同級生や先生なら騙せそう……本当に私のふりして行ってみる?」
「か、勘弁してください……!」
全力で拒否する小春に、明子は口許に手を添えてクスクスと笑う。
彼女は大袈裟な反応をする小春が面白いらしく、時折こういう冗談でからかってくるのだ。
そんなやり取りをしているうちに、明子の髪は整った。三つ編みを折りたたんで幅広のリボンをつけた束髪は、流行のマガレイトだ。上品な小豆色のリボンは明子にとても似合っている。
「さすが小春ね。佳代より上手いわ」
体を傾けて鏡で確認し、明子も満足げに頷いた。佳代はなにかと大雑把なので、こういった作業には向かないのだ。
ふと小春は思いついて、先ほどのからかいのささやかな仕返しに、「実近さんに見せたら可愛いって褒めてくれますよ」と囁いた。途端、明子の頬にサッと朱が差す。
実近は、明子が昔から世話になっている医者の家で、書生をしている二十一歳の青年だ。
帝大で医学を学んでおり、将来有望な上に真面目で人当たりもいい。医者と共に珠小路子爵家にも何度か訪れていて、明子と惹かれ合っていることは小春にもすぐに察せられた。
「お、おかしなことを言うのはよしさない、小春!」
「おかしくないですよ、絶対に褒めてくれますもん」
体は弱くとも心は凛としている明子が、彼の話題になるとたちまちただの乙女になる。そんな明子が可愛らしく、小春はニコニコしてしまう。
(おふたりの恋が叶うといいなあ)
片や華族のご令嬢、片や一学生。
立場の違いから成就は困難で、しがらみや障害ばかりであろう。それでもふたりが結ばれるようにと、小春は願わざるを得ない。
そして色恋の話になると、どうしても頭をよぎるのは金色の瞳だ。
(おはじきさん……元気かな。今はどこでなにをしていらっしゃるのだろう)
それこそ明子と実近よりも身分違いだったかもしれない、小春の淡い初恋の相手。今でも時折彼のことを想っては、小春の胸はきゅっと締めつけられる。
料亭の下働き娘など忘れて、良家の綺麗なお嫁さんをもらって幸せでいてくれたら……。
だけどその考えに反して、一生小春のことを忘れないでほしいとも願う。
少なくとも小春の方はこの先も一生、忘れることなどできそうにないのだから。
(私の分も、明子様には幸せになってほしい……)
身形も完璧に仕上げた明子を前に、小春は感傷を隠して笑う。
明子は青い矢絣の銘仙に海老茶袴を穿き、髪は小春が整えたマガレイトで、巷であふれる女学生らしい格好になった。
そのまま部屋から出る彼女を、小春も見送ろう……としたのだが、先に戸の向こうで「明子はいるかい?」と声がする。
早朝には仕事に出たはずの有文の声に、明子と小春は驚いて顔を見合わせた。
「お兄様、どうなされたの? お仕事で問題でも?」
「いや、そういうわけではないんだが……」
戸を開けてやれば、有文は硬い顔をして立っていた。煮えきらない態度で口をまごつかせている。
「その、もしかして、これから学校だったかい?」
「ええ、久方ぶりに……」
「そうか。早く伝えた方がいいかと、仕事を抜けてきたんだけれど……明子が学校から帰ってきてからにしようか」
「いいえ、今聞かせてくださいまし。気になって勉学も身に入りませんわ」
「……お前がいいなら、今ここで話そう」
明子は部屋に有文を招き、向かい合って腰を下ろす。
小春は退出するべきか悩んだが、明子が不安そうに小春の着物の袖を掴んでおり、有文も出ていくよう言わなかったため、気配を消して同席することにした。
ひっそりと、小春は明子の後ろに控える。
一呼吸おいて、有文は意を決したように口を開いた。
「――明子に縁談が来た」
ヒュッと、明子が息を呑む。
小春も大いに動揺したが、もとより十分あり得ることだ。明子は平静を取り繕い、「どなたからですか」と問いかけた。
「お相手は、貿易商を営む樋上商会の御子息だ」
「樋上商会ってあの……? 貿易の他にも手広く事業をされていて、成功を収めていらっしゃる……」
「ああ。もとより大きな会社だが、ここ数年でさらに勢いをつけているね。社長は派手好きの遊び人だと噂されているが、経営の腕は確かだ。ひとり息子がいて、ぜひに……とお話をいただいた」
明子に読み書きを習ったおかげで、最近では新聞も少し目を通すようになった小春は、一応その樋上商会の名前は知っていた。どうやら明子のお相手は大企業の御曹司らしい。
現時点では、話自体はそう悪くなさそうに聞こえる。
だが有文の顔つきは相変わらず硬い。
「この縁談には、実は先方の特殊な事情があってね……すぐに結婚を進めるというわけではないんだ。むしろ、成立しない可能性の方が高いかもしれない」
「おっしゃっている意味がよく……?」
うろたえる明子に、有文は順を追って説明する。
まず樋上社長の方は、息子を華族の令嬢と体よく結婚させて、箔をつけたいという目論見があるようだ。
言ってしまえば、華族であるなら誰でもいい。相手側も写真でくらいしか、明子のことを知らないだろう。地位や名誉を手に入れんと、華族との繋がりを求める縁談は珍しいものでもなかった。
しかし当の御子息が、結婚に乗り気ではないという。
「この話を私のところに持ってきたのは、その御子息の専属秘書を名乗る男でね。御子息は頑なに縁談を跳ね除けていて、すでに何件か破談になっているそうだ。そこで困り果てた樋上社長が、息子と交渉した上で、お試しの結婚期間を設けることになったんだよ」
「お試しの結婚期間? どういうことですか」
「こちらはただ、樋上の家に三ヶ月ほど住んで、御子息とそれらしく過ごしてくれたらいいと。要は疑似結婚で、籍を入れる必要もない。樋上社長としては、そうすれば息子も相手に情が移って、さすがに折れるだろうとの見立てだが……」
強引に結婚させてしまわないあたり、社長はその息子に強く出られないと見た。小春はふわっと、親に甘やかされたお坊ちゃんを想像する。
それにしたって、とんでもない話だ。
「つまり先方のワガママに、私がお付き合いしろと? そんな話、聞いたこともありませんわ」
普段は穏やかな明子の声に、明らかな険がこもる。
それもそうだろう。由緒正しき華族のご令嬢に対して、なんとも失礼な申し出だ。その秘書いわく、『我が主には簡単に結婚できない、切実な理由があるのですよ』とのことだが、それはこちらが考慮すべきことではない。
(でも、結婚できない切実な理由ってなんだろう……?)
密かに疑問に思う小春の横で、明子は「お断りはできないの?」と不愉快そうに尋ねる。
「それが……私たちの父が……」
気まずそうに言いかける有文。
その言葉で、ハッと明子は勘づいたようだ。
「……まさかお父様、樋上社長にも借金をされていたの」
「察しの通りだよ。父はどこで知り合ったのか、樋上社長と友人関係を築いていたそうでね」
「どうせ遊び人同士、ろくでもない付き合いに決まっているわ!」
「まあ、そうだろうね。方々で作ったツケを、樋上社長に工面してもらっていたらしい。利子も含めて相当額あった」
明子は絶句する。
借金から解放されて数年、やっと平和な暮らしを取り戻していたのに、まだ父の陰が子供たちにつきまとうようだ。
有文も疲れた顔で額を押さえている。
「今まで催促などしてこなかったのに、明後日までに娘を寄越せないなら、借金は一括で返せと……。逆にお試し結婚に応じれば、たとえ正式な婚姻が成立せずとも、借金はなかったことにしてやると言われた」
「む、無茶苦茶です! しかも明後日なんて急すぎますよ!」
あまりにも珠小路子爵家を、延いては明子を、軽々しく扱う内容の数々だ。たまらない憤りを感じ、小春は立ち上がって叫ぶ。
「まずその息子さんはどんな方なんですか? 明子様は無理の効かないお体です! お試しとはいえ、安心して預けられる方なんですかっ?」
「私も身近な者に聞いて、情報は集めたんだ。ただ……」
御子息はまだ二十歳と若いながらも、会社の一部の経営を任されるほど、すこぶる優秀な男ではあるそうだ。
だがやり方が手段を選ばず、慈悲など一切ない冷酷さから〝鬼の若様〟などと呼ばれているとか。
破談になったご令嬢方は、取り付く島もないほど冷たくされたそうで、『あんな恐ろしい方のところ、こちらから願い下げだわ』やら『鬼の名にふさわしく人間ではないのよ』やら、散々な言われようらしい。
小春が想像していた、甘やかされたお坊ちゃんより何倍も手に負えなさそうだ。
「そんな方のところに……明子様を……」
しん……と、部屋に重たい沈黙が落ちる。
小刻みに震えながら、口火を切ったのは明子だ。
「お兄様……私、樋上家に参ります」
「明子……!」
「束の間の結婚相手に徹するだけで、借金が帳消しになるのですもの。悪くない条件でしょう」
明子は気丈にもそう言うが、その顔からはすっかり血の気が引いていた。もともと陽に当たらないせいで白い肌が、透けそうなほどになっている。
病弱な彼女にとって、過度の重圧や緊張は体を蝕む毒だ。深窓の令嬢といっても差し支えない明子が、不穏な噂しかない男のもとで体調を崩さない保証はまるでなかった。
それに万が一のこともある。万が一、御子息が明子との結婚をよしとすれば、彼女はそのまま〝鬼〟の妻だ。どんな扱いが待っているかわからない。
(なにより……明子様には実近さんが)
きゅっと、小春は唇を噛む。
ただでさえ、慕う者がいる身で他の男のもとへ行くのは、貞淑な彼女には耐え難いものだろう。
有文は「本当にすまない!」と、明子に向かって畳に額をつけた。
「私が当主として不甲斐ないばかりに、お前にまたいらぬ苦労を……!」
「なにをおっしゃるの、お兄様!? 家を継いでから、私のせいで苦労しているのはお兄様の方よ! この弱い体のことで、いつも心配かけて……っ」
「そんなことはない! 私はただ、妹のお前に幸せになってほしいだけなんだ! やはり、今回の話は断ろう。借金のことは私がなんとかしてみせるから……!」
「それこそ無茶よ! 私が素直に従えば……うっ」
「明子様っ!?」
くらりと口元を押さえて倒れ込んだ明子を、とっさに小春は支える。息が荒く、どうやら微熱が出ているらしかった。
心身共に負荷がかかっていたところ、急に興奮したせいだろう。
「しっかりしてください、明子様!」
「急いで安静にさせるんだ!」
小春は有文とふたりがかりで、まだ片付けていなかった布団に明子を寝かせた。
せっかく整えた髪も解いてしまい、もう今日は女学校にも行けやしない。
騒ぎを聞いて「どうされたんですか!?」と駆けつけた佳代に看病を頼み、有文と小春はいったん部屋を出る。
戸の向こうで苦しそうに寝込む明子と、己の無力さにうちひしがれる有文。
そんなふたりを見比べて、小春は小さな拳を握りしめた。
(私は……命を救ってくれて、居場所まで与えてくださった珠小路家のためなら、なんだってできる)
決意を固め、くるりと有文に向き直る。
「有文様……私が、明子様の身代わりを務めます」
「小春?」
「私が珠小路明子として、樋上家に嫁ぐんです!」
「なっ……!?」
突拍子もない小春の提案に、有文は驚愕の目を向ける。「なにを馬鹿なことを」とすげなく返されるも、小春とて馬鹿は承知だ。
だけどこの状況を打破するには、もうこれしかないと訴える。
「写真で見たくらいなら、私が明子様のふりをしてもごまかせるはずです! 有文様が来られる前に、ちょうど明子様とそんなお話をしていました」
「無謀すぎる……バレるに決まっている! バレたら小春も、うちもただでは……」
「バレません! たった三ヶ月、騙しきればいいだけです!」
それに顔立ちは似ていても、所詮色気も女らしさもない自分なら、御子息に気に入られることもなく破談にできるだろうと、小春はどんと胸を張った。
明子にはあれほど否定していた身代わり役を、頑として押し進める。
「明子様にこれ以上、ご心労を与えるわけにはいきません! ここであの、雪の夜の恩返しをさせてください」
「け、けれど、縁談に焦る樋上社長もどう出るか……」
「その時はその時で、私がなんとかします!」
またもし、この企みがバレた場合……優しい有文を前にあえて口にはしないが、小春はすべての咎を背負う腹積もりだった。
(その場合は、私が独断でやったことにすればいい。珠小路家は、拾った使用人の浅はかな計略に騙されただけとか、いくらでも私のせいにしてしまえるはず!)
自分のことをあまり重視していない小春の、それは最後の予防線である。
だがもちろん、バレずにことを穏便に終わらせるのが第一使命だ。
「小春……君という子は……」
有文は眉を寄せた複雑な表情で、立ち竦んだままたっぷりと考え込んだ。その間、小春は大きな瞳を有文から逸らさなかった。
やがて深い深い息を吐いて、有文は「本当にこんなことを頼んでいいのかい?」と、小春の提案に乗ってくれた。
「はい! お任せください!」
「君はどうにも不思議な子だ……とんでもないことをしようとしているはずなのに、君なら大丈夫だと思わされてしまうよ」
有文は小さく苦笑し、次いで表情を引きしめる。
「ただ、心配なことには変わりない。いざとなったら私の名前を出しなさい、責任は当主の私がすべて持つ」
「……ありがとうございます」
小春は責任の所在に関しては、礼は述べても『はい』とは頷かなかった。幸いにして、有文にはその胸の内までは悟られていないようだ。
小春は彼に向け、今日の春空のような曇りのない笑みを浮かべる。
その裏で当然ながら、小春に不安がないわけではない。
むしろ不安でいっぱいいっぱいだ。
(恐ろしいと評判の〝鬼の若様〟……騙すのは心苦しいけど、実際お会いしたらどんな方なんだろう)
まだ見ぬ相手を想い、小春は震える手が有文の目に留まらぬよう、そっと着物の袖に隠したのだった。
樋上家のひとり息子・樋上高良は、個人に与えられた執務室で、黙々と仕事の書類に目を通していた。すっきりとした輪郭の端正な顔に、艶やかな黒髪がかかる。
神田にある樋上邸は、近年人気の和洋折衷な建物だ。
二階建ての洋館と和館を組み合わせており、広い庭では一際立派な沈丁花が香り高く咲いている。
だが現在、和館はわけあって立ち入り禁止となっていた。そのため高良が使っているのはもっぱら洋館で、この左右の壁が書架で埋められた執務室も、窓枠の装飾や調度品は豪奢なルネサンス風だ。
「ふう……」
区切りのいいところで机に書類を置いて、革張りの椅子に背を沈める。
ノックの音がした後、上質な三つ揃えに身を包み、モノクルをつけた青年が颯爽と入ってきた。
高良は「まだ入室許可はしていないぞ」と眉間に皺を寄せる。
「おや、これは失敬。でも私と高良様の仲ですからね。許可など些末な問題じゃないですか」
「はあ……もういい。お前と話すと頭が痛くなる」
タレ目がちの柔和な顔立ちながら、慇懃無礼な態度の真白涼介は、高良の専属秘書だ。
昔から付き合いのある幼馴染でもあり、高良にとっては兄弟のように共に育った相手である。
真白はなにやら資料を片手に机の前まで来て、やれやれと肩を竦めた。
「稀有な〝血〟をお持ちの方は大変ですね」
「今の頭痛はお前のせいで、俺の体質とは関係ないがな。それに体調不良を起こしていたのは昔の話だ。瘴気だって許容量を超えなければ問題ない」
厄介な特異体質だって、今やビジネスにさえ利用している。
高良も大人になって成長したのだ。
にもかかわらず、真白は「か弱い高良坊ちゃんだったおかげで〝運命の君〟と出会えたんですよね」なんて嘯いている。
真白は秘書としての能力は非常に高いが、無駄口が多いのが難点だ。高良はさっさと用件を話すよう促す。
「朗報、と言えばよろしいでしょうか? お父上と交渉された上で決まった、例のお試し結婚。あの話を、お相手の家のご当主にお伝えしまして、本日了承が得られました。明日にはうちにいらっしゃいますよ」
「……まさか本気で、あんな結婚ごっこを父が実行に移させるとはな」
飛び出したのは辟易している縁談話で、朗報というよりは悲報だ。高良の頭痛は増すばかりである。
おかしな提案を持ちかけてきたのは父だが、落としどころとして、高良もしぶしぶ首を縦には振った。しかし、お試しで娘を嫁がせろなどという、一方的な要求を呑む華族の家があるとも考えていなかった。
「大方、父に弱みでも握られたか……今度はどこの令嬢だ」
「珠小路子爵家の御息女、珠小路明子嬢ですね。お歳は十六。写真もありますよ、ご覧になりますか?」
机にペラリと置かれたのは、どこかの写真館で数年前に撮られた一枚だろう。品のいい藤色の着物を纏ったお嬢様が、澄まし顔で写っている。
高良は一瞥しただけで、「興味ない」と突き返した。
「華族の令嬢など、どうせ今までの女たちと同じだ。見栄っぱりで傲慢で……どいつもこいつも瘴気まみれで、気分が悪くなる」
「高良様がそうやって邪険に扱うから、破談になったご令嬢方に〝冷血漢の鬼〟だなんて言い触らされるんですよ。〝鬼〟は本当ですけれど」
「どうとでも言え。なにを言い触らされようと、仕事に障りはない」
「ですが今回ばかりは、最低限でも優しくしてあげてくださいね? 今までの縁談とは勝手が違って、親の借金のカタに来られるわけですし」
「なるほど、借金か。では悲壮な顔をした女が来るかもな」
それはそれで、とてつもなく面倒だと感じてしまう。
高良とて、親の尻拭いをさせられる羽目になった女性に、同情しないわけではない。華族といえど、財がない家が多いことも知っている。けれども、己は不幸だ、可哀想だと主張するようなら、優しく接するなど到底無理な話だった。
高良だってこの〝血〟さえなければ、もっと普通に生きられるのにと、何度思ったことか。
母のことを考えると余計にそう思う。けれども、そのたびに悲嘆に暮れず、己で道を切り開いてきたつもりだ。
(それにアイツなら、どんな時でも笑おうとするんだろうな)
郷愁にも似た愛しさが、ふと高良の胸に湧く。
三年前に出会った、枯れ木のような手足の幼げな少女。
彼女には瘴気による淀んだ空気がまったくなく、それどころか高良にとって、どこか心休まる気配がした。
過酷な環境下にいても損なわれない、明るさと純粋さがそうさせるのか。
どれだけ仕事が慌ただしくなろうとも、彼女のことだけは片時も忘れたことはない。
どこにいるのか探している、今もずっと。
「まあ、一途な高良様のお気持ちは、明子嬢がどんな方だろうと変わらないのでしょうけれど」
「そうだな。海の向こうにいる父に、今回も破談だと手紙で伝えておけ。三ヶ月共に過ごそうが結果は最初から決まっている」
淡々と無感動に言う高良に、真白は「いっそお父上に、ハッキリ申し上げればよいのでは?」と囁く。
「……なんと」
「『俺には心に決めた相手がいる』とね。高良様に甘いあの方なら、それで納得するかもしれませんよ? 体質のこともありますしね」
モノクルをカチャリと指先で上げて、真白はニヤリと笑った。
高良はげんなりとする。
「体質のことを引き合いに出すつもりはない。〝こちら側〟の話を、父はことさら嫌がるだろう。父が俺に甘いというのも違うな……俺にしか罪滅ぼしができないんだ」
その暗く重い呟きに、さすがの真白も軽い口を閉じた。
高良は亡くなった母のことで、父を恨んでいる。
父もそれについては負い目を感じていて、時には親らしいことをしようとするも、余計に父子がすれ違う現状を、真白は間近で見てきていた。
「口が過ぎました。申し訳ございません、高良様」
「いい……もうこの話題は終わりだ」
綿の輸出額の話に移れば、自然と真白も切り替える。
多忙な高良にはやることが山積みだ。
細かい数字を言い合う頃には、高良の頭からは写真の令嬢のことなど、すっかり抜け落ちていた。
珠小路家の庭に立つ桜の木が、美しく見頃を迎えたこの日。
楽しみにしていた開花を慈しむ間もなく、小春は珠小路家を発つことになった。
いまだ体調の戻らぬ明子は、最後まで「やっぱり私が……!」「小春にこんなことをさせるなんて」「私のせいでごめんなさい」と引き留めようとしたが、小春は「大丈夫ですから!」と何度も言い聞かせ、半ば無理やり珠小路の家を飛び出した。
「君はうちの大切な働き手だ。必ず帰ってきなさい」
去りゆく小春の背に、そう言葉を贈ってくれたのは有文だ。
思わず泣きそうになりながらもふたりと別れて、門の前で待つこと数分。樋上家から車で迎えが来た。
自動車を間近で見るのも乗るのも、小春は初めてだった。
明治の世に保有者は数えるほどしかおらず、大正の世になって関心が高まってきたとはいえ、まだまだ珍しい乗り物だ。
おそるおそる乗り込んで、慣れない揺れに縮こまっていると、音を立ててやっと車が停止する。
(ここが樋上家……!?)
かろうじてみっともない声はあげなかったが、現れた邸宅に小春は度肝を抜かれた。
珠小路家ですら大きさに圧倒されたのに、その二倍は大きい。見慣れない洋館の白壁には、ハーフティンバーと呼ばれる、柱や梁などの骨組みが剥き出しのデザインが施され、それがとりわけ洒脱で目を惹いた。
運転手も兼ねていた無口な使用人は、迷うことなく和館ではなくその洒脱な洋館を目指すので、小春はつんのめりながらついていく。
(ど、どうしよう……緊張してきた。私はちゃんとお嬢様に見えているよね?)
廊下を彩る、枠の彫りが見事なガラス窓で、チラリと自分の身形を確認する。
灰がかった桜色の地に、うっすら花菱の紋が入った着物は、明子から借りた御召だ。その大人びた品のいい色合いに、藍色の袋帯を合わせている。
髪はひさし髪に結うつもりであったが、着物選びに時間をかけすぎて髪まで手が回らず、半結びの下げ髪に紫のリボンをつけた。
小春自身の子供っぽさは隠せないものの、見た目はそれなりにお嬢様のはずだ。三日しかなかったが、所作や言葉遣いも叩き込んできた。
かといって、自信があるかといえばまた別である。
(とにかく背筋を伸ばして……品位だけは落とさないように……)
頭の中で自分に言い聞かせていたら、使用人が二階の一室の前で立ち止まった。
てっきり応接室あたりに通されるのかと思いきや、お相手は仕事中なのか執務室らしい。
(ううん、歓迎する気なしっていうか……)
お試しとはいえ、建前上は結婚相手。しかも華族のご令嬢にする対応ではない。
やはり明子と代わって正解であったと、小春は再確認する。
「高良様、珠小路子爵家の珠小路明子様がいらっしゃいました」
使用人が扉越しにそう述べれば、温度のない低い声で「入れ」と返ってくる。
(鬼の顔を拝んでやる……!)
そう勇む心とは反対に、小春はしずしずと入室した。