「あの、お凜さんは何をしている人なんですか? 毎日、ここで飲んでいるんですか?」
思い切ってそう訊いてみると、お凜さんは「あぁ」と短く笑う。
「あたしはバイオリンを教えているんだ」
「バイオリンですか?」
彼女が奏でるバッハはロックになってしまいそうだと目を丸くした。すると、それを見透かしたように、お凜さんが笑う。
「似合わないだろ?」
「え? いや、あの」
「よく言われるよ」
なんでも顔に出る性分を恨めしく思いながら、申し訳なさに小声になる。
「でも、あの、バイオリンで食っていけるなんて凄いじゃないですか。かっこいいですね」
何をしたらいいのかわからないなんて言っている自分とは月とすっぽんだと、彼は首をすぼめた。
彼女は自分の夢に向かって走り続けてきた人なのだろう。グラスを手にする凛々しい横顔も、その強い眼差しも揺るぎなくて、勇ましい。
小気味よい笑い声を上げ、彼女はウイスキーの入ったグラスをそっと両手で包むように呟いた。
「あんたの年の頃にはね、『夢や理想じゃ生活できない。世の中、天職を見つけられる奴なんてそうはいないんだから、女は黙って嫁に行って家庭を守れ』ってよく言われたよ」
幼なじみに言われた言葉そのままで、尊の顔が驚きに染まった。
お凜さんはふっと右の眉を下げて穏やかに言った。
「でも、あたしゃ、欲張りの負けず嫌いなんだ。夢を生活の糧にして、嫁にも行って、口うるさかった連中を黙らせてやったよ。確かに天職なんてそうそう見つからないけど、目の前にある仕事を天職にするのは気の持ちようさ。そういうマイナスなことを乗り越えるから夢は余計に輝くんだ」
「そういうものですか?」
呆然と呟く尊に、お凜さんが笑う。
「登山家がそこに山があるから登るように、誰に何を言われても、どんなに苦しくても、結局好きだからやらずにはいられない。問題は一歩を踏み出せるか、そして続けられるかどうかだ」
その言葉を噛みしめるほど、自分の幼稚さをまざまざと見せつけられた気がした。尊は周囲の目ばかり気にしている自分を恥ずかしく思い、うつむいた。
お凜さんは何も言わずにそんな尊を見つめると、ウイスキーを再び飲み出した。カランと氷が崩れる音が、やけに彼の中に響いた。
「……俺、甘ったれなんですね」
思わず呟いたのは、自分でもわかっていたけれど、認めたくない言葉だった。逃げているだけの自分を本当に認めてしまうと、なんだか全てが終わる気さえしていた。
だが、こういう悩みは尊だけの問題でもないことは百も承知だった。不景気なご時世と言われてはいるが、世代の問題でもない。ずっと年上のお凜さんも同じことを乗り越えてきたのだから。
「俺、今度こそ山を登ってみたいです。そこに意義を見いだせる人間になりたいです」
尊は『やり甲斐のある仕事じゃなきゃ嫌だ』と、仕事を選んでいたところがあった。
今になって思えば、どんな仕事にもきっとやり甲斐があるんだろう。それを見つけようとするかどうか、そして飛び込んでいけるかが問題だったのかもしれない。
何気なくお凜さんが問う。
「あんたは何の仕事をしてるんだい?」
彼は、彼女に今までの経緯を全て話した。彼女にはなんの見栄も意地もなく、ありのままに話せたのが不思議だった。それは彼女の魅力であり、年の功でもあるのだろうが、どんなに情けない話でも静かに聞いてくれるような気がしたのだった。
尊の話を聞き終えたお凜さんが「ふぅん」と唸った。
そのとき、呼び鈴が鳴り、誰かが入ってきた。
「まぁ、詩織じゃない」
真輝が嬉しそうに目を輝かせる。
店に入ってきたのは、大人しそうな女性だった。真輝とは旧知の仲らしく、くだけた挨拶を交わしている。
「久しぶり。来ちゃった」
「一人? どうぞ、こっちへ座って」
お凜さんはそんなやりとりを横目にハイライトに火をつけ、なにやら思案顔で紫煙をくゆらせ始めた。
尊は真輝と女性の会話に聞き耳を立てながら、ぎこちない手つきで氷が溶けて薄くなった竹鶴をちびちび飲んだ。
「久しぶりね。同窓会以来?」
真輝がおしぼりを出しながら言う。
どうやら二人は同級生らしい。詩織という女性客は決して老けているわけではなかったが、真輝は若々しく見えた。
尊は『俺より年上かな。真輝さんの苗字ってなんだろう』などとぼんやり考えながら、真輝の綺麗な横顔を見つめた。
ふと、詩織が満面の笑みを浮かべて、カウンターに肘をついた。
「私ね、結婚するの」
「まぁ、おめでとう! 同窓会のときに話していた彼氏?」
「うん。それでね、私たちの結婚式で真輝にカクテルを作ってほしくて、お願いに来たのよ」
真輝が満面の笑みで頷いた。
「もちろんよ。あなたのためだもの。あぁ、何を飲む?」
「そうね、おすすめで」
「かしこまりました」
真輝が何を出すのか、興味津々で彼女の手元を見つめた。
彼女はオレンジを取り出し、プレスで果汁を手際よく絞り出す。それから銀色に光るシェイカーとボトルがカウンターに登場した。尊はボトルに『GIN』という文字を見つけ、それが酒のジンだとわかるまで数秒かかった。
カクテルグラスに氷を入れ、バー・スプーンでくるくると回す。と思ったら、その氷を戻し、酒とオレンジジュースをシェイカーに注ぎだした。
不意に、お凜さんがそっと尊に囁く。
「ほら、いかにもバーテンダーって見せ場だよ」
その声が聞こえたのか、真輝がお凜さんに向かって苦笑した。だが、すぐに顔つきが引き締まり、蓋をしたシェイカーを構えてシェイクし始めた。
「うわぁ」
思わず感嘆の声が漏れる。目の前で八の字を描くようにシェイカーを振る姿は凛々しかった。
シェイクが終わると、蓋を取り、グラスの中にオレンジ色の酒が注がれる。
「オレンジ・ブロッサムです」
カクテルを見た詩織は顔を綻ばせ、歓声を上げた。真輝が彼女にこんな提案をした。
「オレンジの花言葉は『純潔』だから、結婚式の食前酒でよく飲まれるのよ。式ではこれを作ろうかと思うんだけど、どう?」
詩織は目を細め、うっとりとグラスを見つめた。一口飲むと、その顔がますます綻びる。
「美味しいわ。うん、是非お願いする。ありがとう、真輝」
その笑顔に、真輝は嬉しそうな顔をして応えた。
「すごいなぁ」
思わず、尊の呟きが漏れる。
彼は今、昂揚感というものを初めて味わっていた。シェイカーを振る姿もかっこよかったが、なによりそのグラスを差し出す仕草のほうが、尊を興奮させた。
すっと伸びた右手が、そして彼女の静かな笑みが、驕ることもなく嫌みでもなく、誇らしげで美しかった。
そして詩織の満面の笑みを見たとき、心から「あぁ、いいなぁ」と思えたのだ。誰かの笑顔を生む仕事は素晴らしいと思う一方で、真輝のカクテルの腕前や、咄嗟にどんな酒を選ぶか決める機知も経験が並々ならぬ努力の上にあるものだと感じて感嘆していた。
ほんの数分の出来事だというのに、そういうものが一気に尊の中になだれ込み、憧れという形となって彼の胸を熱くさせていた。
思い切ってそう訊いてみると、お凜さんは「あぁ」と短く笑う。
「あたしはバイオリンを教えているんだ」
「バイオリンですか?」
彼女が奏でるバッハはロックになってしまいそうだと目を丸くした。すると、それを見透かしたように、お凜さんが笑う。
「似合わないだろ?」
「え? いや、あの」
「よく言われるよ」
なんでも顔に出る性分を恨めしく思いながら、申し訳なさに小声になる。
「でも、あの、バイオリンで食っていけるなんて凄いじゃないですか。かっこいいですね」
何をしたらいいのかわからないなんて言っている自分とは月とすっぽんだと、彼は首をすぼめた。
彼女は自分の夢に向かって走り続けてきた人なのだろう。グラスを手にする凛々しい横顔も、その強い眼差しも揺るぎなくて、勇ましい。
小気味よい笑い声を上げ、彼女はウイスキーの入ったグラスをそっと両手で包むように呟いた。
「あんたの年の頃にはね、『夢や理想じゃ生活できない。世の中、天職を見つけられる奴なんてそうはいないんだから、女は黙って嫁に行って家庭を守れ』ってよく言われたよ」
幼なじみに言われた言葉そのままで、尊の顔が驚きに染まった。
お凜さんはふっと右の眉を下げて穏やかに言った。
「でも、あたしゃ、欲張りの負けず嫌いなんだ。夢を生活の糧にして、嫁にも行って、口うるさかった連中を黙らせてやったよ。確かに天職なんてそうそう見つからないけど、目の前にある仕事を天職にするのは気の持ちようさ。そういうマイナスなことを乗り越えるから夢は余計に輝くんだ」
「そういうものですか?」
呆然と呟く尊に、お凜さんが笑う。
「登山家がそこに山があるから登るように、誰に何を言われても、どんなに苦しくても、結局好きだからやらずにはいられない。問題は一歩を踏み出せるか、そして続けられるかどうかだ」
その言葉を噛みしめるほど、自分の幼稚さをまざまざと見せつけられた気がした。尊は周囲の目ばかり気にしている自分を恥ずかしく思い、うつむいた。
お凜さんは何も言わずにそんな尊を見つめると、ウイスキーを再び飲み出した。カランと氷が崩れる音が、やけに彼の中に響いた。
「……俺、甘ったれなんですね」
思わず呟いたのは、自分でもわかっていたけれど、認めたくない言葉だった。逃げているだけの自分を本当に認めてしまうと、なんだか全てが終わる気さえしていた。
だが、こういう悩みは尊だけの問題でもないことは百も承知だった。不景気なご時世と言われてはいるが、世代の問題でもない。ずっと年上のお凜さんも同じことを乗り越えてきたのだから。
「俺、今度こそ山を登ってみたいです。そこに意義を見いだせる人間になりたいです」
尊は『やり甲斐のある仕事じゃなきゃ嫌だ』と、仕事を選んでいたところがあった。
今になって思えば、どんな仕事にもきっとやり甲斐があるんだろう。それを見つけようとするかどうか、そして飛び込んでいけるかが問題だったのかもしれない。
何気なくお凜さんが問う。
「あんたは何の仕事をしてるんだい?」
彼は、彼女に今までの経緯を全て話した。彼女にはなんの見栄も意地もなく、ありのままに話せたのが不思議だった。それは彼女の魅力であり、年の功でもあるのだろうが、どんなに情けない話でも静かに聞いてくれるような気がしたのだった。
尊の話を聞き終えたお凜さんが「ふぅん」と唸った。
そのとき、呼び鈴が鳴り、誰かが入ってきた。
「まぁ、詩織じゃない」
真輝が嬉しそうに目を輝かせる。
店に入ってきたのは、大人しそうな女性だった。真輝とは旧知の仲らしく、くだけた挨拶を交わしている。
「久しぶり。来ちゃった」
「一人? どうぞ、こっちへ座って」
お凜さんはそんなやりとりを横目にハイライトに火をつけ、なにやら思案顔で紫煙をくゆらせ始めた。
尊は真輝と女性の会話に聞き耳を立てながら、ぎこちない手つきで氷が溶けて薄くなった竹鶴をちびちび飲んだ。
「久しぶりね。同窓会以来?」
真輝がおしぼりを出しながら言う。
どうやら二人は同級生らしい。詩織という女性客は決して老けているわけではなかったが、真輝は若々しく見えた。
尊は『俺より年上かな。真輝さんの苗字ってなんだろう』などとぼんやり考えながら、真輝の綺麗な横顔を見つめた。
ふと、詩織が満面の笑みを浮かべて、カウンターに肘をついた。
「私ね、結婚するの」
「まぁ、おめでとう! 同窓会のときに話していた彼氏?」
「うん。それでね、私たちの結婚式で真輝にカクテルを作ってほしくて、お願いに来たのよ」
真輝が満面の笑みで頷いた。
「もちろんよ。あなたのためだもの。あぁ、何を飲む?」
「そうね、おすすめで」
「かしこまりました」
真輝が何を出すのか、興味津々で彼女の手元を見つめた。
彼女はオレンジを取り出し、プレスで果汁を手際よく絞り出す。それから銀色に光るシェイカーとボトルがカウンターに登場した。尊はボトルに『GIN』という文字を見つけ、それが酒のジンだとわかるまで数秒かかった。
カクテルグラスに氷を入れ、バー・スプーンでくるくると回す。と思ったら、その氷を戻し、酒とオレンジジュースをシェイカーに注ぎだした。
不意に、お凜さんがそっと尊に囁く。
「ほら、いかにもバーテンダーって見せ場だよ」
その声が聞こえたのか、真輝がお凜さんに向かって苦笑した。だが、すぐに顔つきが引き締まり、蓋をしたシェイカーを構えてシェイクし始めた。
「うわぁ」
思わず感嘆の声が漏れる。目の前で八の字を描くようにシェイカーを振る姿は凛々しかった。
シェイクが終わると、蓋を取り、グラスの中にオレンジ色の酒が注がれる。
「オレンジ・ブロッサムです」
カクテルを見た詩織は顔を綻ばせ、歓声を上げた。真輝が彼女にこんな提案をした。
「オレンジの花言葉は『純潔』だから、結婚式の食前酒でよく飲まれるのよ。式ではこれを作ろうかと思うんだけど、どう?」
詩織は目を細め、うっとりとグラスを見つめた。一口飲むと、その顔がますます綻びる。
「美味しいわ。うん、是非お願いする。ありがとう、真輝」
その笑顔に、真輝は嬉しそうな顔をして応えた。
「すごいなぁ」
思わず、尊の呟きが漏れる。
彼は今、昂揚感というものを初めて味わっていた。シェイカーを振る姿もかっこよかったが、なによりそのグラスを差し出す仕草のほうが、尊を興奮させた。
すっと伸びた右手が、そして彼女の静かな笑みが、驕ることもなく嫌みでもなく、誇らしげで美しかった。
そして詩織の満面の笑みを見たとき、心から「あぁ、いいなぁ」と思えたのだ。誰かの笑顔を生む仕事は素晴らしいと思う一方で、真輝のカクテルの腕前や、咄嗟にどんな酒を選ぶか決める機知も経験が並々ならぬ努力の上にあるものだと感じて感嘆していた。
ほんの数分の出来事だというのに、そういうものが一気に尊の中になだれ込み、憧れという形となって彼の胸を熱くさせていた。