「カイル、目線こっち! もうちょいアンニュイな感じで。そうそう! いいね!」
都内某所。撮影スタジオにカメラマンの声が響き渡る。こんな大きなスタジオで、大勢に囲まれて写真撮影をするのは初めてのことだ。お偉方も見に来るから気合入れろよ、と撮影前、小柴に言われた。小柴は俺のマネージャーであり、兄貴のようでもある。一回り以上歳が離れているからだろう。こんな弱小事務所じゃなく、もっと活躍できそうな大手へ移ればいいのに、何故かずっと留まっている。社長は内心ありがたいだろうが、時々彼の将来が心配になる。
「他人の将来を心配してる場合か? お前、デビューして何年になる?」
そんな話をすると、小柴は呆れたように、決まってそう言った。
デビュー、というのが正確にどの時点を意味するのか、俺にはよくわからない。この業界に足を踏み入れたのは、七歳の時だった。両親が、地元の児童劇団に俺を入れたのが始まりだ。初めは嫌で仕方なかった。大きな鏡の前で踊る自分を見た時、あまりの恥ずかしさに逃げだしたこともある。
十歳の時、子役の一人として小さな舞台に上がった。それまであんなに恥ずかしいと思っていたのに、大勢の観客の前で役を演じると、不思議な高揚感があった。本当の自分を消して、役になりきる。それがとても気持ち良く感じた。
中学に上がる頃、偶然舞台を観に来ていた今の事務所の社長にスカウトされた。社長の大らかな人柄にも惹かれ、俺は児童劇団を退団すると彼の事務所へ移った。十三歳の時だった。小柴は(当時は小柴さんと呼んでいたが)その当時から俺の一番近くにいて、面倒を見てくれた。そこからかれこれ六年、俺は十九歳になってもまだ、鳴かず飛ばずの自称・俳優止まりなのだった。
「お疲れ。良かったよ」
撮影が終わり、楽屋で着替えていると小柴が入って来た。きっといろんな人たちのところへ挨拶をしに行っていたのだろう。その手には大量の名刺がある。
返事をする代わりに、俺はペットボトルの水を一口飲むと小柴を睨んだ。
「何だ、お前まだ怒ってんのか?」
呆れた顔をしながら小柴が椅子に腰を下ろす。
「……当たり前だ!」
俺は、怒っていた。勝手に撮影の仕事を入れられたことをじゃない。
先週、リオと約束をしていた。朝六時に高校の校門前。必ず行くと約束した。
でも、俺は行くことができなかった。
「そんな怒るなよ。勝手に動画をアップしたのは悪かったけどさ、彼女の顔はちゃんと隠したし。それに、結果的に仕事に繋がったんだから良かったじゃないか」
七月二十日。俺は小柴と数人のスタッフと共に、通っていた高校を訪れた。目的は、イメージ動画の撮影。都内でもいろいろと撮影してみたものの、小柴曰くどれも表情が硬くて自然じゃなかった。もっと、自然な表情を引き出したい。そんなスタッフたちの思惑で、俺は渋々地元へ帰ってきた。学校側の許可を取って、かつての学び舎での撮影会は始まった。
「構えるだろうから、お前にわからないように隠れて撮影するよ」
そう言われた俺は、一人で学校中を歩いた。久しぶりに袖を通した制服はまだサイズがぴったりで、「高校生でも全然イケるぞ」と小柴は笑った。グラウンドや廊下、音楽室に図書館、屋上。最後に、三年の時に使っていた教室へ向かった。自分の席は確か、あそこだったか。記憶を頼りに席に座ると、窓から心地よい風が吹いてきた。小柴たちは一体、どこに隠れて、どうやって撮影しているのだろうか? まるで気配が無い。確かにこれなら、自然な表情が撮れるかもしれないな――。そんなことを思いながら、俺は机に突っ伏して目を閉じた。
そうしていると、懐かしい日々が蘇ってくるようだった。俺は、いつまで経っても売れない自分が不甲斐なくて、次第に学校をさぼるようになっていた。芸能活動をしていることは、友人にも言わなかった。ちっとも活躍していないことがバレてしまうのが、怖かったからだ。この町は良い場所には違いないが、何でも筒抜けになってしまうのは、やっぱり嫌だ。子供の頃から、俺は周囲の声に怯えていた。知らなくてもいいことまで、知ってしまいたくなかった。
どのくらいの時間、そうしていたのだろう。
何かの物音で、俺は目を覚ました。小柴たちが入ってきたのかと思い顔を上げると、目の前には知らない女の子の顔があった。
ぼんやりしながら彼女の顔を見た。スタッフが用意した女生徒役、だろうか?
「そこ、私の席」
ちょっと怒ったように彼女は言った。彼女に促され、机の側面に貼られたネームシールを確認すると、そこには「大澤理央」と書かれてあった。そうか。俺の席じゃない。俺が卒業してからもう二年が経っている。ようやく頭がはっきりしてきた。それよりも。
俺は、彼女の名前に目を奪われた。「リオ」は、ポルトガル語で「川」を意味する言葉だ。ほら、また見つけてしまった――ポルトガルの欠片を。
教室でリオと話をしている間も、小柴たちは姿を見せなかった。この状況も、もしかするとどこかで撮影されているのかもしれない。そう思ったが、俺は思いのほか彼女との時間を楽しんでいた。あの頃、真面目に高校へ通っていたら、こんな青春があったのかもしれない。リオのような可愛い彼女が隣にいて、その瞬間を目一杯楽しむことができたのかもしれない。
高校生活でやり残したことをやろう、とリオに提案したのは俺だった。それはもちろん彼女の為だったが、半分は自分の為でもあった。リオはどうやら俺のことを同級生か何かだと勘違いをしているようだった。本当は十九歳の売れないタレントだなどと伝えて、距離を取られるのもせつない。俺は、黙っていることにした。どうせこの撮影が終わってしまえば、俺はこの町から出て行くのだから。
リオと別れてからしばらくすると、どこに隠れていたのか小柴とスタッフたちが現れた。一体、いつからいつまで撮影されていたのか、さっぱりわからない。
「カイル。すげえ良かったよ。何て言うか、本当に高校生みたいで、自然だった。――ところで、あの子は知り合いか?」
「え? 女子生徒役のタレント……とかじゃないの?」
リオは、役者でも何でもない、本物の女子高生だった。
それからの日々は、本当に楽しかった。どこかで小柴たちに撮影されていると思うと滅多なことはできなかったが、俺はそんなことも忘れて純粋にリオとの夏を楽しんでいた。笑ったり怒ったりする彼女は可愛くて、自分が本当にリオの同級生だったらどんなに良いだろう、と何度も思った。
完全に誤算だったのは、俺がリオに恋をしてしまったこと。
彼女は両親の都合で昔から引越しを繰り返していて、来週にはこの町を去るとのことだった。それを知って、胸がざわついた。正体がバレてしまう前に、お互い町を出て行くのならむしろ好都合なのに、俺は激しく動揺した。離れたくない、と思った。
リオと懐かしい商店街を訪れた日の夜、俺は急いで飛行機のチケットを二枚取った。行先はポルトガル、リスボン。成田からドイツのフランクフルトを経由するルートだ。まだ一度も行ったことはないが、心ではもう何度も旅した道程。ポルトガルに、リオを連れて行く。リオはきっと驚くだろう。でも、きっと喜んでもくれるはずだ。
まさか、前日に小柴がアップした俺の動画が世間でバズっていたなんて、その時の俺は知る由もなかったんだ。
動画は、教室のシーンと海のシーンが使われていた。そばに映っているリオは、もちろん顔がわからないよう上手く編集されていた。本当にこれは自分なのかと驚く程、俺は良い表情をしていた。「カイル」という役を演じていない、ありのままの「那智海路」がそこにいた。
僅か五分程の短い動画は、耳馴染みの良い音楽と相まって美しい作品に仕上がっていた。動画サイトにアップすると、すぐに反響があった。瞬く間に動画はSNS上で拡散され、驚きの再生回数を叩き出した。誰にも認知されていなかった自称・俳優のカイルは、一夜にして「謎のイケメン俳優」となったのだった。
小柴が言うには、芸能界ではスピードが大事なのだそうだ。
まだ夜も明けきらない時間帯から、小柴の元には動画に関する問い合わせの連絡が殺到した。この俳優を是非取材したい。インタビューをしたい。コメント動画を撮らせてもらえないか。ミュージックビデオに出演してほしい――。何がウケるか、世の中本当にわからない。何年もくすぶっていたのに。何度オーディションを受けても駄目だったのに。たった五分の動画で、俺の人生はガラリと変わってしまった。
「カイル! お前、自分が何言ってるかわかってんのか⁉ こんなチャンス、もう二度とないかもしれないんだぞ⁉」
約束の日。俺は、飛行機のチケットと青いシャープペンが入ったバッグを肩に掛け、滞在先の部屋を出ようとした。もちろん、リオに会う為だ。
「わかってるよ。いいんだ、別に。俺は有名になろうだなんて思ってない。ポルトガルで父親を探す金さえ出来れば、仕事なんか何だって良かったんだから」
「お前……! そんなこと本気で言ってんのか⁉ 事務所や社長がどれだけお前のことを思っているかわかってて言ってんだろうな⁉」
「……社長や、小柴たちには感謝してるよ」
「それならお前の取るべき行動は一つだ! 今すぐ東京へ戻って、取材を受けろ!」
「嫌だ。俺は、このままポルトガルへ行く」
「海路! いい加減にしろ! いつまでそんな馬鹿なこと言ってるんだ⁉ お前の父親はポルトガルになんかいないだろ⁉︎ お前の父親は、とっくに亡くなってーー」
「黙れ――!」
小柴に掴みかかった俺を引き剝がすように、スタッフが俺たちの間に割って入った。
その後のことは、あまり良く覚えていない。俺が投げたスマホが壁にぶつかって粉々に割れたことだけは覚えているが。
こうして俺は、リオとポルトガルへ行くことを諦めてしまったんだ。
夏休みが終わり、二学期が始まった。
私は決心した通り、初日から学校へ通った。転校してきてからほとんど顔を出していなかったから、教室に入るのにはずいぶん勇気が必要だった。藤本先生に背中を押され、私は恐る恐るその扉に手を掛けた。
転校したはずの私が現れて、クラスメイトたちは驚いた。と同時に、喜んでもくれた。「本当はずっと大澤さんとしゃべってみたかったんだ」と言ってくれる人もいた。転校してから一年以上経って、ようやく私はクラスの一員になれた気がした。
「りーおっ! 一緒に帰ろ」
「奈央ちゃん。楓。うん、帰ろう」
私は初めて、念願の女友達ができた。奈央ちゃんと楓はずっと私のことを気にかけてくれていたらしく、すぐに打ち解けることができた。卒業まではあと少しだけど、この二人とは卒業してからも仲良くしたいと思っている。
「理央ん家でたこ焼き買ってから公園行こっ」
「さんせー!」
私が担任の藤本先生の実家に居候している、という事実を二人には話した。今ではすっかり澄子さんのたこ焼きのファンとなり、休みの日でもよく買いに来てくれる。可愛い女の子たちが来てくれるようになったと言って、澄子さんは喜んでいる。
「ねえ、理央と楓は卒業したらどうするの?」
最後のたこ焼きを頬張りながら、奈央ちゃんが聞いた。商店街の近くにある児童公園のベンチは、私たち三人のお気に入りの場所となっている。
「あたしは美容師の専門学校に行こうかと思ってるよ。やっぱ手に職があったほうがいいかなあって。奈央ちゃんは?」
「私は親が大学行けってうるさくて。やりたいこととか特にないから、とりあえず大学入って考えようかな」
理央は? と二人から視線が向けられる。
「私は……外大に行こうと思ってるよ」
先日、父に電話でそう伝えると、応援すると言ってくれた。雪国の夏は想像よりも涼しくはないらしい。温暖化の影響だな、と父は言っていた。
「そうなんだ! じゃあ将来は外国語を使った仕事に就きたい感じ?」
奈央ちゃんに聞かれ、私は首を振る。
「ううん、将来のことは正直まだ何も……。ただ、ポルトガルに行きたいと思ってて。だからポルトガル語を勉強したいの」
「ポルトガル?」
二人がハモったので、思わず笑ってしまった。
「何でまたポルトガル? え、てかポルトガルってどこ?」
「あたしもわかんない」
「ポルトガルは、スペインの隣にある国だよ。南ヨーロッパにある、ユーラシア大陸最西端の国なんだって」
那智からポルトガルの話を聞いた日の夜、私はそれを自分で調べて知った。ポルトガルのことなんて一つも知らなかったのに、那智の故郷だというだけで興味が湧いた。
奈央ちゃんと楓は、へええっと頷く。
「でも何でポルトガル? スペインの方がメジャーじゃない?」
確かに。この間まで、私も同じことを思っていた。「リオ」がスペイン語だとは知っていたけれど、ポルトガル語でもあるとは知らなかったくらいだ。
「……一緒に、行く約束をしたの。ある人と」
思い出すのは、那智の顔。夏の太陽が良く似合う、眩しい男の子。
「もしかして彼氏?」
楓が目を輝かせて聞いた。
「ううん……でも、すごく特別な人」
そう。誰よりも特別な人だった。そう気が付いたのは、那智に会えなくなったあの日からだ。もっと早く気が付けたら、彼に伝えられたかもしれない。
那智がこの学校にいないとわかったのは、町へ戻ってすぐのことだった。
那智海路とは、一体誰だったんだろうか。どうして彼は、本当のことを言ってくれなかったんだろうか。
「そっかあ……。ねえ、理央。今フリーなら、藤本先生とかどうよ?」
「あー、あたしもそれ思ってたー」
奈央ちゃんと楓が顔を見合わせてニヤニヤしている。どうして周りは先生と私をくっつけたがるのだろう?
「どうって言われても……先生は先生だし……」
「でも先生の実家で暮らしてるんでしょ?」
「先生のお母さんと住んでるだけで、先生とは住んでないって。……毎晩一緒にご飯は食べてるけど……」
二人が、ひゃーと黄色い声を上げる。
「それって、絶対理央目当てだって! じゃなきゃ四十手前の男が毎日実家には帰らないでしょー」
「そうそう。絶対そう」
嫁に来ないかだなんて冗談で言われた話は、二人には絶対に黙っておこう。卒業までずっといじられそうだ。
「でもぶっちゃけさ、藤本先生と結婚したら将来安泰じゃない?」
「安泰って、何が?」
「だって教師って公務員でしょ? お給料も安定してるじゃない。それにお母さんは優しい。嫁姑問題に悩むことも無い」
「楓……あんたって結構現実的よね」
奈央ちゃんが苦笑する。私も同感だ。可愛い顔して、ちゃんといろいろ計算できる子だ。
「まあ、でも良いお父さんにはなりそうよね。先生って」
「あ。それは私も思ってた」
奈央ちゃんの言葉に私も同調し、三人で笑った。きっと今頃、先生はくしゃみをしているに違いない。
那智。私、友達とおしゃべりできてるよ? すごく、すごく楽しいよ。あなたに直接そう伝えられたら良かったのに。
私たちは日が暮れるまで、公園でガールズトークを楽しんだ。将来のことなんてまだわからないけれど、今しかないこの時間を、今は大切にしたいと思った。
それを目にしたのは、ほんの偶然だった。
朝、教室へ入ると、クラスの女子達が黄色い声を上げて何やら盛り上がっていた。その集団の中には、奈央ちゃんと楓の姿もある。
「理央、おはよう! ねえ、見て見てコレ!」
机の上に置かれていたのは一冊の雑誌。どこにでもある、女性向けのファッション雑誌だ。私はファッション誌を買ったことがないし、あまり興味も無い。
「何かすごいものでも載ってるの?」
「すごいっていうか、ほら、これ! この人っ! めっちゃカッコよくない⁉︎」
何だ、イケメンの話か。あまり興味は無いものの、楓に渡された雑誌を手に取る。
誌面に大きく載った顔に、私は固まった。
何かの間違いかと思った。そう思いながらも、私は食い入るようにその顔を見つめる。
「あー、やっぱ理央もタイプ? だよねだよね、かっこいいもんねえ!」
楓が頬を緩めながら私に同意を求めてくる。違う。タイプとか、そんな次元の話じゃない。
「はー、超カッコいいんだけど! あたし、この動画見たことあるよ!」
「私も! 動画も素敵だけど、この写真の顔もヤバくない?」
「ねえ、この動画に映ってる女の子ってさ、リアル彼女かなあ? 演技にしてはすっごいナチュラルじゃない? ホントに付き合ってるみたい」
――動画? 女の子?
私は、居ても立っても居られなくなった。
朝の休み時間を終えるチャイムが鳴って、藤本先生が教室に入ってきた。その横をすり抜けるようにして、私は教室から飛び出す。
「えっ、ちょっと理央? どこ行くの?」
楓が慌てて追いかけてくる。
「ごめんっ! 私、帰る!」
「はっ⁉ 大澤⁉ 授業始まるぞ!」
「先生ごめん! お腹痛いから帰る!」
見え透いた嘘をついて、私は廊下を走って校門を目指した。
確かめなければ。
ちゃんと、もっと、この目で。
駅前に唯一あるコンビニエンスストアのラックに、先程と同じファッション誌はあった。ドキドキしながら、私はそれをレジまで持っていく。この中に写っているのは、本当に彼なのだろうか。
こんな時間に帰ったら澄子さんが心配するだろうと思い、私は那智と行ったあの児童公園で足を止めた。ベンチに座り、先程買ったばかりの雑誌を膝に乗せる。大きく深呼吸をして、ページを開いた。
そこに載っていたのは、「今、人気急上昇! 俳優・KYLEの素顔」と踊る見出しと共に、物憂げな表情をした男性——那智海路だった。
やっぱり見間違いじゃなかった。でも、本当にこれは彼なんだろうか? 四ページに渡っている特集の、どの写真にも私の知っているあの那智はいなかった。
記事によれば、彼はある一本の動画によって注目をされ始めたという。私はスマートフォンを取り出すと、「KYLE 動画」と検索した。その動画は、すぐにヒットした。
那智と過ごしたあの夏が、そこには映されていた。
出会った教室。寝起きの顔。黒板に文字を書く姿。シャープペンを返してくれないいたずらな顔。あの日の海。シートを追いかけ、波打ち際に走っていく背中。ムキになって勝負したビーチフラッグ。膨らませてくれたビーチボール。きらきら光る海と、那智の笑顔。大好きな笑顔。私だけに向けられた、優しい眼差し。ポルトガルへ行こうと言った、真っ直ぐな瞳。
先程のクラスの女子たちの声が頭の中を駆け巡る。
この女の子は、私だ。
那智と二人だけで過ごしたはずのあの時間は、誰かにずっと見られていた。そればかりか撮影までされていた。もちろん、私だとはわからないように、顔は見えないよう上手く編集されてはいる。でも。
那智は、あの動画を撮る為にここへ来たんだ。隣のクラスでも、同級生でも何でもない、彼は俳優だった。自分のイメージ動画を撮る為だけに、世間に注目される為に、私を利用したんだ。——それじゃ、那智の話は全部嘘だった? この町で育ったというのは? ご両親のことは? 本当のお父さんを探したいというあの話は? ポルトガルに行きたいという夢は? 私に、一緒に来てほしいと言ったあの言葉は……?
何もかも、嘘だったの?
ねえ那智。教えてよ。
気が付いたら海にいた。那智と行った海。頭の中を整理をしようとしたけれど、できなかった。一つだけわかったのは、那智はもう私なんかの手の届かないところにいて、二人でポルトガルに行くという私の夢は、永遠に叶わないということだった。
俺のところに帰ってきたらいい、だなんて。ファンサービスか何かのつもりだったんだろうか。
「大澤!」
私は波打ち際で膝を抱えたまま、眠ってしまっていた。空は茜に変わっている。背後から呼ばれ振り返ると、そこには藤本先生の姿があった。
「あ、先生。こんばんは」
私は先生に向かって無理矢理笑顔を作る。
「お前なあ……。突然学校飛び出して何やってるんだよ……。お腹痛いとか嘘だろ? てっきり家に帰ったのかと思ったのに、母さんからお前が帰って来ないってさっき連絡があって、ずっと探してたんだぞ?」
海は盲点だった、と言いながら先生は大きなため息を吐くと、膝を曲げる格好で私の隣に屈んだ。
「心配させるな、頼むから」
「……ごめんなさい」
ポン、と先生の大きな手が私の頭に置かれた。温かくて、泣きそうになる。
「——那智海路か?」
不意に那智の名前を出され、私は思わず先生を見た。この人の前で、那智の話をしたことは一度もない。
「どうして……」
「母さんから聞いた。その、お前と海路が付き合ってるって。驚いたよ。お前たちには接点が無いから、いつどこで知り合ったんだろうって。でも思い返してみたら、あの日だったんだな」
付き合ってなんかいない。でも、否定はしなかった。
「海路は、俺の生徒だったんだ。一、二年の時の」
「え? 那智は、本当にあの学校の生徒だったの……?」
先生は頷いた。
「あいつは昔から芸能活動をしていて、卒業後に東京へ行ったんだ。あの日は、学校で撮影をしたいから、って久しぶりに顔を見せたんだよ」
そうか。だからあの日、教室は開いていたんだ。
「あいつ、俳優としてはかなり燻っててさ。オーディションも落ちてばかりだ、って高校の頃はかなり自暴自棄だったよ。学校もよくサボってたしな」
昔を懐かしむように、先生は話を続ける。
「あの動画、俺も見たよ。一緒に映ってる女の子は、大澤だよな?」
私は首を縦に振った。
「良い顔してたな、あいつ。大澤の前だとあんな顔するんだな」
「でも……あれは演技だから」
二人で過ごした時間は、撮影の為に用意されていたシナリオ通りだったのだろう。あれは、カイルという俳優が演じたシーンにすぎない。
「いや、あれはありのままの海路だよ。雑誌見たろ? あっちがKYLEの顔。まるで別人だろ。お前と一緒にいた時のあの笑顔こそが、何も演じていない、本当のあいつだよ」
先生は力強く言った。
本当にそうなら、どんなにいいだろう? あの楽しかった時間が、作り物じゃなかったとしたら——。
「ねえ、先生。那智の『本当の』ご両親のこと、何か知ってますか?」
先生は驚いた顔をした。
「聞いたのか。よっぽど大澤には心を許したんだな、あいつ」
寄せては返す、規則正しい波の音がする。
「海路の本当のご両親は、もう亡くなっているんだ」
「え……? お父さんも……?」
先生は無言で頷いた。
「海路の母親は、当時横行していた外国人詐欺の被害に遭ったんだ。恋愛関係に持ち込んで、心も金も奪ってしまう、悪質な手口だった。海路を授かった時にはもう、相手は逮捕されてな。その後亡くなったよ。当時、ちょっとしたニュースにもなったんだ。海路の母親は、その後を追うように亡くなったそうだ」
「そんな……。那智のお父さんは、ポルトガルのサッカー選手じゃ……」
「ああ、あいつはずっとそう信じてる。今のご両親も困り果ててたよ。海路は未だに、死んだ母親の言葉を信じ続けているって」
キラキラした目で、ポルトガルの話を聞かせてくれた那智を思い出す。
「その方があいつにとって幸せなら、そう思わせてやったほうがいいのかもしれない。だけど、いつか真実と向き合わないといけない時が来たら……。それを思うと、どうしてやるのがあいつにとって一番良いのかわからなくてさ」
那智は、本当は全部わかっているのかもしれない。私はそんな気がした。
いつかの那智の言葉が聞こえる。
——俺にはポルトガルの血が流れてる。だから、あの国は俺の故郷なんだよ。
——俺がリオの海になる。
——どんなに遠くへ行ったとしても、最後は俺のとこに帰ってきたらいい。
そうだ。
那智の言葉は、全部本当の言葉だったんだ。誰も信じなくたっていい。私が、彼を信じていればそれでいい。
どうして一瞬でも、那智に騙されただなんて思ってしまったんだろう?
那智に会いたい。今すぐに。
私は、一言だけ彼にラインを送信した。
もう、見てはもらえないかもしれない。
でも、どうしても彼に伝えたいことがあった。
帰る場所を探していた。
いつも見る同じ夢。空はいつも青く、水彩画のような白い雲があちこちに散らばっている。そばに枝垂れているのは、名前もわからない紫色の花。オレンジ色をした家々の屋根が見えると決まって場面は変わり、石畳の坂道を下っている。転ばないように気を付けろよ、と優しく声をかけてくれるその人は、背の高い男の人だ。外国語なのに、その言葉の意味は不思議とわかった。
眼下の海を目指して、一歩一歩進む。近づくにつれ、あれは海じゃない、と気が付く。
あれは——川だ。
ああ、そうだ。ここが俺の故郷。俺の生まれた国。やっと帰って来られた——。
二〇二三年、三月。
懐かしい学び舎は、ひっそりと静まり返っている。誰もいない教室。かつて座っていた席。机の側面に貼られた名前に、指でそっと触れる。
俺としたことが、最後のイベントである「卒業式」をすっかり忘れていた。これがなくては、高校生活は終われない。でも、あの夏の体育祭や文化祭のように、俺がそれを体験させてやる必要はもうない。彼女は今、友人たちと共にその最後のイベントを味わっている最中だからだ。自分の境遇を諦め、高校生活さえも諦めようとしていた彼女が、ようやく前を向いている。それが、とても嬉しく思えた。
藤本先生に話をし、教室に入らせてもらった。最近は学校の警備も厳しくなっているから、無断で入り込むことなどできない。
空っぽの机の中に、そっと封筒を忍ばせる。中身は、あの日返しそびれたシャープペン。それと、約束の場所へ行く為のチケットだ。
父親の幻影を探しに行く為じゃない。
彼女と、「修学旅行」へ行く為だ。
小柴はきっと怒るだろう。それでも、俺は前を向くと決めたんだ。もう、過去に囚われるのはやめだ。
わかったから。俺が夢の中で探し続けていたのは、父でも母でもなく、川だった、と。彼女が川ならば、自分はその先で待つ海になろう。そして、彼女がいつでも帰ってこられる場所になろう。
本当に帰りたい場所を、ようやく見つけたんだ。
「卒業おめでとう、理央」
誰もいない教室を後にすると、俺は一足先にいつもの待ち合わせ場所へと向かった。