対角線上に優香が座り、一緒に夕飯を食べている。向かいには父が、隣には母が座って会話をする。
こんな日が来るとは思いもしなかった。大学在学中に何度か実家に戻り、四人で食事を囲んだこともあったが、このような賑やかな食事は、この頃を境になくなってしまう。
「お兄ちゃん、サラダとって!」
優香は何も入っていない皿をこちらに突き出す。
「自分で取りなさいよ」と母は少し呆れて言う。
「だってお兄ちゃんのほうが近いじゃん!」
お皿を受け取り、サラダを盛り付ける。盛り付けたサラダにドレッシングを掛け、優香に再びその皿を渡した。
「ありがとう!」
そう言って、無邪気に優香は笑っている。
夕食を終え、父と話をした。所々二十六歳の僕の言葉遣いに驚くこともあったが、酔っていた為、なんとか誤魔化すことができた。優香は宿題があると、夕飯後にすぐに自分の部屋に戻っていった。母も夕飯の後片付けをしながら、たまに話に割って入る。改めてこんなにも騒がしい家庭であったことを実感した。
不意に、母が学校のことについて話題を変える。
「愛斗、学校明後日だけど、新学期の準備終わってるの?ギリギリになってあれがない、これがないって言っても買ってこれないよ!」
母は念を押していう。
「今日中に確認して、自分で買ってくるよ」
「あら素直じゃない。」
母は少し驚いた表情で言った。
「今日の愛斗は一味違うぞ!」
酔っ払った父が横から入ってくる。
「さっきも、人生楽しいかって聞いたら大人顔負けなこと言ってたからな。子供は遊んでればいいんだよ」
父は酔っていると面倒な人だったが、根は良い人だ。
十五年前の家族の一員として演じているが、これは本当に夢なのだろうか。疑問が頭をよぎる。
春の気候も、桜の匂いも、料理の味も繊細に表現されている。五感が夢であることを否定する。
ただ現実的に小学生になってしまうのは考えられないし、考えたくない。
今できることは、これが夢であることを望むことだけだった。
両親と話した後、自分の部屋に行った。部屋には自分が使っていた、当時の机やベッドがそのまま置いてあった。懐かしさが感じられるそのベッドの大きさは、大人のそれよりも少し小さいが、今の僕にとっては丁度いいサイズだった。
ベッドに横たわり、すぐに目を瞑った。
この世界が夢で、幸せを見せてくれる吉夢なら、明日には覚めてしまっているだろう。
そう願って僕は、現実に戻るために眠った。
恐ろしい夢を見た。内容は覚えていないけど。
目が覚めたのは、部屋の窓から強烈な日差しが差し込む頃だった。部屋の様子は何一つ変わっていない。どうやら、今日も一一歳のままらしい。
この時、夢であるという考えを捨て、この時代をもう一度生きる覚悟を決めた。
どうして僕が、もう一度人生を送ることを拒んでいるのか。どうしてこの素晴らしい光景が夢であることを望んだのか。
それはこれから先の人生で、僕には耐えられない苦痛が待っているからだった。
来年の夏、妹の優香はいじめられてしまう。
それを家族が知ることになったのは、いじめられてから一年半が経ったときだった。優香は誰にも相談することなく一年半もの間、一人でいじめと戦っていた。僕らはそれに気付くことも助けてあげることもできず、結果的に長期的ないじめに発展してしまった。
それでも優香は、家では平然を装い、元気な姿を見せ、家族の一員として演じていた。
僕を含めた当時の家族は、本当に何も気付けなかった訳ではないと思う。
「もしかしたら」と思うことは、いくつかあった気もする。だが、優香に限ってそんなことはないと高を括っていた。
その後、優香は私立の中学校に通うことになり、いじめていた同級生から離れることはできた。だが、優香の優しかった笑顔や明るい立ち振る舞いは、小学校に置いてきてしまったようだった。それ以来笑顔はなく、家族での会話も無くなった。
両親もそんな優香の姿を見て、自分達を責めた。だから、母が笑っているのも、父がお酒を飲んでいるのも何十年ぶりの光景だった。
皮肉にも、僕が現在教師になっている要因の一つだった。
優香のような生徒を守りたかった。近くで見ているはずの先生がどうして手を差し伸べなかったのか。僕にはその事実が許せなかった。
これは、救えなかったものを救うために神様がくれたチャンスなのかもしれない。もう二度とあんな目には合わせない。もう一度僕は、優香を救う覚悟を決めた。
昼食をとった後、出かける準備に取り掛かかる。
小学生の時に着ていたものの中から、ましなものを手に取り、急いで支度する。日頃の習慣で髭を剃ろうとしてしまったが、顔の下半分に毛は一本も生えていなかった。逆に眉毛は全く整えられていない。父が使う剃刀と小さい鋏を使い、少しだけ整える。髪にも整髪剤をつけセットして、家から飛び出した。
学校は明日からだ。この世界で生きていくなら準備も必要だろう。
今朝、母に貰った財布を握り、学校での必需品を買いに行くことにした。家から自転車で二十分ほどのところに、確かホームセンターがあったはずだ。真新しい自転車に乗り、目的地を目指す。
久しぶりに自転車に乗った。春の風が背中を押し上げてくれるような感覚があった。新しい自転車は、ペダルやチェーンの隙間から雑音を立てることなく、滑らかに進んでいく。
今から約四ヶ月前のクリスマスに、自転車を買ってもらったことを思い出した。過去に戻ってから今まで、僕の記憶とこの世界に食い違いは発生していない。本当に過去の世界であるということを確認するためにも、現状を覚えている範囲で調査する必要があった。
ホームセンターに到着し、学校で必要なものを探す。筆箱やノートはもちろん、雑巾や上履き、洗濯バサミに連絡帳も必要だ。生徒に持ってくるように頼んだものを自分が準備しているのは、不思議な気分だった。
プリントを見ながら順番に探していると、随分と懐かしい声で、自分の名前を呼ぶのが聞こえてくる。
「まなとー!」
振り返ると、当時仲の良かった山田拓哉と、隣にはその母親がいた。
拓哉は明るくて、女子からも人気のある少年だった。小学一年生からサッカーをやっていて、徒競走や持久走、運動会でもヒーローだった。そんな拓哉は、なぜだか僕といつも一緒にいてくれた。放課後はよく、フリーキックの練習に付き合わされて、何度も手を痛めたのを覚えている。拓哉も所属する地元のサッカークラブに何度か誘われたが、サッカーは得意ではなかったので、ずっと断り続けて入部することはなかった。
「拓哉!」
久しぶりの再会に心が弾む。
隣いた拓哉の母親に挨拶をして、拓哉に話しかける。
「久しぶりだなー、何年ぶりだよ」
喜びのあまり、迂闊なことを口にしてしまった。
「何年ぶり?この間遊んだばっかりじゃん」
この頃の拓哉の姿を見るのも、当然何十年ぶりなのだが、元いた世界の僕らも、高校を卒業してからは一度も会っていない。実に九年ぶりと言ったところか。
「いやー、ごめんごめん。春休み長くてさ、時間感覚狂っちゃて」
慌てて惚けたふりをする。
横にいた拓哉の母親と会うのは、それこそ何十年ぶりだ。
「愛斗君は今日一人できたの?」
心配そうに拓哉の母親は言った。
「あ、はい。明日の準備の買い出しです!」
「危ないから、気をつけて帰りなさいね。事故したら学校に通報いっちゃうわよ」
困った顔をしていたが心配してくれた。
「はい、気をつけて帰ります」
その後、拓哉達とはすぐに別れた。
別れ際に、「明日学校で」と伝えると、拓哉は不安な表情を浮かべていた。
ホームセンターから出て、街の様子を確認しに行った。大学時代に見た時とは、少しだけ違う景色が映る。コンビニや大型のスーパーなどは、まだ建てられていない。逆に商店街や八百屋が活気よく残っていて、空き地や公園なんかも当時のままだった。
しかし、最後に訪れた時と一五年前のこの時代の雰囲気は、僕にはあまり変わらないように感じる。人は存外、自分が思っている以上に周りの状況に興味がないのだろう。ここの商店街も、いずれ多くの人で賑わうスーパーに代わり、あちこちにコンビニができる。だが今日、この街を見るまで、僕はここに商店街があったことをすっかりと忘れてしまっていた。
全体をぐるりと見渡しながら、そんなことを考えていた。僕が覚えている限り、街や風景は当時のままだ。
拓哉に会えたことは好都合だった。明日はこの頃の友人や知人に会える。小学校の頃の旧友に会うことは、なんだかとても楽しみだった。
少し不思議な同窓会に、僕は心が弾んでいた。
やってしまった。
目を覚ますと、時計の針は八時を回っていた。昨日入念な準備を行い、中身は二十六歳の社会人なのだが、あろうことか寝過ごしてしまった。
今朝は同じ登校班の五年生の生徒のインターホンで目が覚めた。
「安全第一」と表記されている黄色い班長旗をその子に渡し、先に行くように促す。小学生は近くに住んでいる生徒達で班を組み学校へ登校しなくてはならない。最上級生になる僕は、その班の班長だった。
先生だった時は、朝早く集合し、クラス分けの掲示など、新学期の準備で大騒ぎだった。この時間には、既に昇降口に今年のクラスの名簿が張り出されているだろう。
ふと、優香と母親が起きてないことに気がつく。和室を覗くと、そこには並んでぐっすりと眠っている親子がいた。優香はこの頃、まだ甘えん坊だった。自分の部屋とベッドが用意されているのに、両親と一緒に寝ていた。
「起きてー、遅刻確定しますよ」
雨戸を開け、日差しを入れる。親子揃って朝が弱かったことを思い出した。
優香は反応しないが、母は窓から入る光に晒されると、焦って飛び起きた。
「え、まって、今何時?」
「八時十分。」
八時と聞いた途端、洗面所へ駆けて行った。
「ほあ、くうまで行くよ。ゆうかおおしてっ!もうなんでおおしてくれないのあの人は!」
歯を磨きながら母は、おそらく二時間ほど前に仕事に向かった父に文句を言っていた。
優香を起こし、急いで準備をさせる。朝ごはんを食べている暇がなかったので、その工程を飛ばし、着替えと歯磨きを済ませる。そうして僕らが車に乗り込んだのは、登校時刻の八時半だった。
学校へ向かい、校門が視界に入らないギリギリのところで優香と僕は車から降ろされた。
「あんまり近いとバレちゃうから」と母はそのまま笑顔で帰っていく。
優香と二人で校門へ向かう。曲がり角から顔を覗かせ、辺りを確認する。校庭や校門に人の気配はなかったので、急いで校門を通過する。
過去に来てから、今日は二回目の学校になる。
優香は今年から三年生、僕は六年生になった。
六年生と三年生の昇降口は、少し離れた場所に位置していた。僕がこっちの世界に来た時に立っていた場所に、一年生から四年生が使う昇降口がある。そこを超えて奥に行くと、高学年の生徒が使う昇降口があるはずだ。
優香と共に、先に三年生の昇降口に行った。
クラス分けの名簿が張り出され、優香が自分のクラスを確認している。
毎年、新学期に登校すると、昇降口の前には人で溢れかえっていた記憶がある。それを思い出すと同時に、自分達が遅刻していることを思い出した。
優香は何も気にせず、名簿を見て目を輝かせていた。
「お兄ちゃん。るかちゃんとまた同じクラスだった!」
優香は飛び跳ねて喜んでいた。
「そうか、良かったな」
優香はこんなに喜んでいるが、この「瑠夏」という少女は、いじめに加担する。
来年の夏の終わり、優香が四年生、僕が中学一年生の頃に、優香へのいじめは始まってしまう。だが、そこから一年半後に僕らが事実を知ることになるのも、この瑠夏という少女のおかげだった。
「てか、もうみんな教室にいるぞ」
教室に行くことを優香に促す。
「うん。お兄ちゃんもクラス当たりだといいね!」
優香は笑顔でそう言い、階段を駆け上がって行った。
まずい。
多分もうみんな席に座って待機している。確か予定では、九時から体育館に移動だったので、全校朝会には間に合うと思うのだが、遅刻は遅刻だ。
仮にも未来では教師をやっているのだが。教師の頃に遅刻していたらと思うと、一年生のクラスに、揶揄されるのが目に浮かぶ。
下級生が使う玄関を飛び出し、学校の裏側へ回る。うさぎ小屋やお玉杓子が蠢いている池を越え、学校で管理されている小さな畑の脇道を通る。一昨日訪れた時には、高学年の昇降口がある、学校の裏側を見ていなかったので、すごく物懐かしく感じた。
昇降口に着くと、こちらにもクラス名簿が貼り出されていた。その紙には目もくれず、校舎に入る。
一つだけ空いている下駄箱に靴を入れ、家から持ってきた上履きに履き替えてから、急いで六年二組の教室を目指した。
六年二組。これから一年間、僕らはこの教室で過ごす。
下駄箱を左に曲がると、突き当たりに「6−2」の学級表札がすぐに見つかった。教室の後ろのドアの小窓から恐る恐る室内を確認する。
教卓には先生の姿はなく、黒板には乱雑に「五十分になったら体育館へ移動」と書かれていた。まだ今年の担任は発表されていない。この後の全校朝会で、各クラスの担任発表が行われることになっている。
後ろのドアを静かに開ける。教室内には先生はいないが、どの子も自分の席に座り、深閑としていた。
ドアを開ける少しの物音に生徒たちは反応し、全員が怯えた目つきでこちらに振り返った。その中には、ホームセンターで会った拓哉の目も確認できた。
全体を見渡し、同級生の顔を凝視した。顔と名前が頭の中でしっかりと一致し、この頃の同級生を覚えていることに安堵する。
自分の席に座り、持ち物を準備した。雑巾を洗濯バサミで椅子の下に吊るし、引き出しに筆箱と連絡帳を入れる。ランドセルは後方のロッカーに入れに行き、もう一度席に戻った。その時の時刻は八時四十五分を指している。
教室はお葬式のような雰囲気で、誰一人口を開けていなかった。机の上はまっさらな状態で、全員が黙って時計を見るか、下を向いているだけだった。
この光景も本当に懐かしいものだ。
「おい、体育館移動だって!早くいこう」
十分ほど経って、隣のクラスから五年生の移動が終わったことを伝えられる。すると全員が立ち上がり、素早く後方に一列に並んだ。その光景はまるで、訓練された軍隊のようだった。
並び終えると体育館へ向かう。一組の後に続いて二組が並び、出席番号が三番の僕は、二組の先頭に位置していた。
二組でのその光景は、一組の列の後ろの方でも起こっていた。声も出さず、列も乱さない。生徒の中には、歩きながら手を合わせて拝んでいる子もいた。
体育館に入ると、既に一年生から五年生までが並んでいた。集会の時、この学校では下級生から順番に移動する。
体育館に入った後も一言も話さずに、すぐに並び列を整えた。六年生の僕らが並び終えると同時に集会が始まった。
新学期の全校朝会は、どこの学校も似たようなものだった。一昨日まで教師だった僕が、列に並んでいるのが不思議に思えてくる。
校歌を歌い、校長先生の話が始まる。何歳になっても、相変わらず校長先生の話とは退屈な時間だった。春休みの話や、行事の予定を話し終えると、校長先生は壇上から降りる。
その後は、PTA会長の話に移り、司会進行役の教頭先生が、生徒たちに着席を促す。他学年の生徒は少し騒ついていたが、六年生は誰一人として声を出してはいない。
教頭先生の注意がアナウンスされ、PTA会長が話し始める。PTA会長は、校長先生の話の半分ほどの時間で終え、壇上から後退した。
いよいよ、担任の先生の発表に移った。ここでは学校全体がざわつき始めたが、教頭先生は注意をしなかった。
一年生から順番に発表される。名前を呼ばれた先生は、そのクラスの列の前に立ち、一言挨拶をしてから次に移る。一年生は、当たりの先生かハズレの先生かわからないので、そんなに盛り上がることもなく、形式的な拍手だけが起こっていた。
二年生からは、一層騒がしくなった。評判の良い先生は、拍手喝采で喜ばれる。とはいえ、あまり人気のない教師が担任になった場合でも、生徒たちは空気を読んで盛り立てていた。
今年の僕は一年生の担任だったので、この子供達からの評価を受けずに済み、そっと胸を撫で下ろしたことをよく覚えている。
教頭先生は、生徒たちが落ち着くのを待ち、良いタイミングで次々にアナウンスしていく。
そうして、最終学年である六年生の担任発表に移った。
「続いて、六年生の担任を発表します。」
六年生全員が息を呑むのがわかった。
「六年一組。宮本佳苗先生」
その瞬間右側に並んでいる隣のクラスが、大きな歓声をあげた。
「よっしゃー!」
中には泣いている女の子もいた。反対に、二組の生徒たちは全員が項垂れていた。
宮本先生は一組の前に立ち、「よろしくお願いします」と微笑んでいる。
その後は中々静まるまでに時間がかかった。一組の前の列の子たちは、先生に座りながらハイタッチをしている。
ようやく一組が静かになった時に、僕らの担任が発表された。
「えー、続いて六年二組。石神櫂先生」
その瞬間体育館全体が、一斉に静まり返った。六年生はもちろん、下の学年の子達も黙っている。一年生は何が起きたかわからないのか、不思議そうにしている。
そんな静寂に包まれた体育館に、足音だけが響いている。その足音は徐々に近くなり、目の前で止まった。
「どうぞよろしく。」
顔をあげ、その姿を久しぶりに目で捉えた。そこには、長身の不健康そうな男が立っていた。目の下には隈があり、マスク越しでもやつれた顔をしているのがわかる。
過去に来たことが夢であることを望んだのは、優香がいじめられるのをもう二度と見たくないからではない。優香を守るために過去に戻れたのであれば、全力で阻止したいと思っていた。
では、どうして拒んだのか。夢であることを望んだのか。
それはこの「石神櫂」という一人の教師の存在に他ならなかった。
「石神櫂」は、この年の僕らの担任だ。
五、六年次の二年間、僕らの学年の担任を務めた男だ。五年生の頃は、隣のクラスの担任で、僕のクラスは、今の一組の担任の宮本先生だった。
石神は生徒に恐れられていた。それは体罰が原因だ。石神は生徒を過剰に指導していた。
暗い空き教室に生徒を連れていき、長い時では授業を放棄し一日中生徒を叱っていた。指導のように見えるが、実際は違った。こいつは生徒を鬱憤晴らしの道具として扱っている。
当然そんな先生が好かれることもなく、全員が嫌っていた。だが、十一歳の僕らには、立ち向かう術もなく、自分にその牙が向かないよう耐えることしかできなかった。
石神は、暴力を振るわなかった。怒号や罵倒といった精神的な体罰で文字通り生徒を支配していたのだ。
こいつは教師なんかではない。
いじめは何も生徒同士だけで引き起こされるわけではない。二組の生徒はこの一年間、石神によっていじめられる。優香だけでなく、僕らもいじめられるのだ。
それに石神は、今後『最悪』を引き起こすことになっている。
「それでは、六年生から順番に退出してください」
考え事をしていると、新学期の全校朝会か閉式していた。
教頭先生のアナウンスと共に、今度は六年生から順番に退出していく。他の学年の生徒は、周りの友達や担任の先生と愉快に会話をしながら待機していた。
すると、退出していく六年生に向かって石神がマイクでアナウンスをする。
「えー、すみません。六年生。今日九時集合ですよね。なんで遅れたの?」
そういえば、体育館に入ったときには九時を回っていた。
「まあいいや、下級生待たせてるし。考えといて」
後ろのドアに向かっていた生徒たちは、その場で固まってしまっている。
新学期初日、ここから悪夢が始まる。
教室に戻ると、朝と同じように全員がすぐに席につく。黒板に書かれた文字は、その恐怖を物語っていた。
石神はすぐに教室に入り、改めて挨拶をした。
「今年もどうぞよろしく」
これまでの生い立ちや先生の趣味などの雑談をすることなく、すぐに本題に入った。
「で、なんで遅れたの?」
中身が大人でも、この威圧に圧倒されてしまっていた。
「田中、去年学級委員だったよな。なんでだ?」
石神は優等生だった田中晃を名指しした。
晃はすぐにその場で立ち上がる。
「僕たちの行動が遅かったからです」
晃はクラスの中で最も身長が高い。そんな生徒がいきなり立ち上がると迫力があったが、それでもすぐ直角に腰を曲げて、頭を下げていた。
彼は優等生らしく、反発はしなかった。仮に僕が名指しされても反発なんかせず、ここは逃避するだろう。
「お前ら何様だよ」
怒鳴り声がフロア全体に響いている。
おそらく隣のクラスも、相当怯えているだろう。
理不尽だ。全てが六年生のせいではない。実際素早く列を作り、最速で体育館に向かっている。
「これからは、最上級生の自覚を持って行動しろ」
「はい!」
僕以外の生徒が口を揃えて返事をする。
すると、石神は一呼吸置いて、今度は別の人物を名指しした。
「おい、上田」
呼ばれたのは僕の名前だった。
「は、はい」
「今日何時に来た?」
どうしてか、遅刻したことを把握されていた。急いで立ち上がり頭を下げた。
「すみません…」
「何時に来たって聞いてんの」
ヤクザのような言い回しで、僕に詰め寄る。
「えっと、八時四十五分ごろです…」
「今日何時に集合ってプリントに書いてあった?」
「八時半です」
教室中に緊張感が走る。間違ったセリフや、正しくない選択をした瞬間、即ゲームオーバーの超難関のマルチエンディングのゲームをしているようだった。
「こういう奴がいるから、時間内に行動できないんじゃないの?」
全員が黙って話を聞く。
「まあ、今日は時間がないので、だらしない人は放っておいて、次に移ります。えー、まず…」
ようやく、説教タイムが終わった。こんなの僕らの時代にやったら、一発アウトで親御さんから避難とクレームの嵐になっているだろう。
僕は今日、何度も未来に帰りたいと思ってしまっている。
その後は、春休みの宿題提出を行った。当然四月五日より前の僕は、この宿題に手をつけていない。二日前に来た僕も、こっちの世界について調べていたり、家族と過ごす間に、すっかり忘れてしまっていた。だが石神は、すぐに確認はしなかったのでその場では事なきを得た。
クラスの係決めに移り、黒板に役職が書き出されていく。委員会や号令係のような目立つものではなく、あまり目立たないような役職を望んだが、「遅刻した奴に任せられる役職はない」と嫌味ったらしく言われた。
結果的に何の役職にもつくことはなく望み通りになった。しかし、クラスでは大いに目立つことになり、石神にも目をつけられてしまった。
午前中で今日の日程の全てが終了し、下校の時刻になる。帰りの会を行い、全員が逃げるように急いで下校した。
拓哉と一緒に帰ろうと思い、帰りの支度をしていると、石神が目の前にやって来た。
「おい、ちょっと来い」
石神は、朝からずっと変わらない表情で、僕を凝視していた。言われた通り石神について行くと、見慣れた空き教室に入るように言われた。
その場所は、石神がよく生徒たちを呼び出し、説教を行なっていた部屋だった。その部屋に入ると、思い出したくもない記憶がより鮮明に映し出される。
石神はカーテンを開け、日差しを入れる。教室の電気はつけられていない。
教室は、机と椅子が前方へと寄せられ、中央から後方にかけて大きな空間ができていた。二つの椅子を教室のちょうど中央に向かい合わせて設置し、そこに座るように促される。
「お前、調子乗ってんな」
目の前に座った石神が、喧騒な眼差しで僕を睨む。
「何がですか?」
恐怖心はあった。だが中身が二十六歳の今となっては、小学生のように怯えてるわけにはいかない。
「あ?」
少し驚いたように言う。
「そんなに怒ることですか?」
思い切って反発した。こいつは先生なんかじゃない。
石神は立ち上がり、近くの机を思い切り蹴飛ばした。ものに当たっている姿は初めて見た。
生徒の生意気な態度を見て、相当苛ついているのだろう。これまで子供に反発されたことがないのだろうか。
「まあいい」
意外だと思ったが、すぐに別の話題に移った。
「でだ。ここから山ほどあるんだが…」
「宿題出してない。あと春休み、学区外に一人で行ったなお前。それも自転車で」
宿題を出していないことは把握され、なぜだかホームセンターに出かけたことも先生の耳に入っているようだった。
小学生には一応、一人で自転車に乗って、学区外に行ってはいけないという決まりがある。今の僕の立場が小学生だということをすっかり忘れていた。
石神は、僕が考え込んでいるのを見て先に声を発した。
「え、聞いてんの?」
反発した僕に、勝ち誇った顔をしている。
「すみません…」
「今日宿題終わるまで、学校に残れ。あと自転車乗るの禁止」
怒鳴られると思ったが、先ほど反発したせいか、嫌がらせで終わった。
ふと、なぜ学区外に行ったことを知っているのか気になった。
「あの、なんで僕が自転車で出かけたこと知ってるんですか?」
「学校に通報が入って、特徴から上田だと思って、釜かけたんだ」
あんまり納得いかなかったので、なぜ僕だとわかったのか聞きたかったが、先に先生が口を開く。
「歯向かいたいなら明日から学校来ないでいいから。邪魔」
呆れた表情で威圧する。
だが、なぜかそれは一度目の六年生の頃の記憶の石神と齟齬があるかのように思えた。本当なら、怒鳴りまくって生徒が泣くまで続けるのだが、今回は僕に触れないようにしている。
それからすぐに振り返り教室を出た。
一度目の六年生の時は、学校へ行きたくないと思うほど石神が嫌いだった。だが二十六歳の今の僕には、あの頃のような恐怖心は軽減されていた。
教室に戻ると、拓哉が待っていた。
「まなと、大丈夫だった?」
拓哉はすぐに心配してくれた。
「大丈夫だよ、意外と怒ってなかった」
「心配すんな」と言わんばかりに笑って見せた。
「どうして残ってるの?」
「俺も先生に呼ばれてて、」
拓哉の顔は引き攣っていた。
「もしかして、宿題忘れた?」
「そ、そうなんだよ…」
拓哉は少し間を置いて答えた。ひどく怯えている。石神は誰であろうと容赦はしない。これから拓哉が泣くまで怒られるのかと思うと、気の毒に思った。
そのまま拓哉は、石神がいる教室へ歩いて行った。
拓哉と別れ、石神の言ったことを無視して帰宅した。宿題は家に置いてきているし、何よりも反発したかった。拓哉を待っていようとも思ったけど、石神に説教を受けた後の泣顔を、友達に見られたくはないだろう。
校門へ向かうと、朝と同じように学校には人気がなかった。もう生徒は帰ってしまっているのだろう。
帰り道に石神について考えた。春の日の気候はとても暖かく、午前中で学校が終わったため、通学路にも人はほとんどいなかった。一人で考え事をするにはちょうどいい。
今日の石神の態度を、頭の中で何度も思い返した。あんな人がなぜ先生になれるのか。学校側もあまり当てにできないと、正直思ってしまう。
石神は僕が小学校の頃に教師になりたいと思った要因の一つだ。それは決して憧れなんかではなく、蔑みの感情からだった。
一度目の六年生の頃、今のクラスは怯えた表情で過ごし、学校を楽しいものと思っている生徒は、一人もいなかっただろう。僕もその一人だ。皮肉にもそれが原動力となり、小学校の教員になった。六年間を楽しく過ごせる場所を自分と生徒によって作り出したいと、石神を見て思ったのだ。
石神によって植え付けられた恐怖より、今では憎悪が心の底に湧いていることに気がついた。同じ教師として、子ども達を泣かせているのは耐えられなかった。
恐れていないのであれば、石神に逆らえる。そうすれば、今後起こる『最悪』も阻止することができるかもしれない。
石神にはもう一つ問題があった。
石神は過去に、いやこれから先の未来に『最悪』を引き起こす。
この時代から七年後、石神櫂は自殺することになっている。
二〇一二年、十二月二十二日。とある小学校の生徒が遺体となって発見される。警察は、当時の状況から自殺と推定し、調査を行なっていた。
そうして、同年十二月二十四日。石神櫂の遺体が発見された。自殺してしまった小学生の担任だった石神に、調査をしにやってきた警察が発見したとのことだった。
当時の生徒やその親の証言から、石神が生徒に精神的な体罰を行っていることが発覚し、それが原因で自殺したとマスコミが発表した。
こんなにも早く、「先生によって生徒が自殺した」という事実が確定したのは、石神による遺書の内容が要因だった。
遺書には、謝罪の言葉と、醜い保身の文が並べられていた。
その後マスコミが、石神について詮索し、過去に石神のクラスから、自殺者がもう一人出ている事実が判明する。
このニュースは、クリスマスの話題そっちのけで日本中を騒がせることになった。
これが僕らの担任だ。
こんな先生の下で、もう一度人生をやり直すことを、誰が楽しみにできるであろうか。
改めて覚悟を決めなくてはならない。
クラスを救い、優香を救い、将来自殺する生徒を救う。小学生の僕が石神と戦わなくてはならないのだ。
ただ、教師になったのは、この三つの出来事があったからだ。僕が襲われて、触れて、見たものを、この世から排除するために、教師を選んだ。
なら、足掻くしかない。優香を救い、石神から全てを守るのが、僕の教師としての在り方だ。
それから四月の間、あの別室に連れていかれることはなかった。新学期とは打って変わり、目立たないように大人しく過ごしていた。
まだ一ヶ月も経っていないのに、クラスの半分以上が石神によって泣かされている。小学生らしい間違いやミスを犯した子はもちろん、全校朝会の時のように理不尽に呼び出されている子もいた。
この期間、どのように過去を良いものに変えるかを悩んでいた。
まずやらなくてはならないことは、クラスが石神による支配から逃れる方法を探ることだ。だが、小学生にできることなんて限られている。
未来では石神と同じ職業だ。だから「教員」としての弱点は知っているつもりだ。だがこの時代では、僕の知識が通用しないこともある。体罰や過剰な説教などは黙認されていて、正当に石神を裁けない。
確実に生徒を救うには、石神を免職させることだと思ったが、それはかなり難易度が高い。仮に石神を追い詰めて、問題を起こさせても、学校側に有耶無耶にされてしまうだろう。
そこで考えたのは、石神を辞職させることだった。
教師には、面倒に思う仕事や、辞めたいと思う仕事がいくらでもある。生徒たちで憂さ晴らしをしている石神なら、悩みや不満があるのだろう。そこを突いて自分から退職させるのが一番良い。それに、仮に石神が免職になった場合、今後の石神が何をしでかすかわからない。自分から、教師なんかやりたくないと思わせる事が重要だ。
教師が最も手を焼く問題。それは教室が無法地帯になったときだ。
新学期に呼び出された時、記憶の中の石神と齟齬があった。おそらくそれは、僕が反発したからだ。生徒で鬱憤を晴らす教師は、人を選んでいる。反発する生徒は、面倒に思い対象外なのだろう。なら二組の生徒全員で、石神に反発すればいい。従順な生徒がいなくなれば石神は何もできなくなる。
仮にも元教師の僕はそんなことを考えてしまっていた。
石神によって支配されていたクラスが、一斉に逆らっていく姿を想像し、少し笑ってしまう。
まずは「怖くない」とみんなに示さなくてはならない。そのために、石神に楯突こうじゃないか。
学校の問題児になれば、これは優香の抑止力にもつながる。わざわざ何をしでかすかわからない兄貴がいる妹に、手を出す奴なんていない。
タイミングを見計らい、クラス全員で反発する。一番絶好の機会は、最も先生が忙しい何かのイベントや行事の時だろう。
僕は近じか予定されている、理科のスケッチのための校外学習を目標にしていた。
この学校ではこの時期、六年生全体で理科の時間にスケッチを行う。春の昆虫や草花を、学校の外に出て観察し、図鑑のように描きまとめるのだ。
ゴールデンウィーク中、この日のために計画を立てていた。
理科のスケッチの授業は、班に分かれて行動する。班は自由に決めていいのだが、この計画に賛同してくれる人を選びたい。
人数は三十六人で、六人班六つで構成される。男女合同なので、全員仲の良かった男子にすることはできない。腕白な男子二人と、真面目な女子が二人。そして、少し気になっていた女の子一人で班を組みたい。
その気になっている女の子とは、中島美来という少女だ。
彼女は石神に呼び出されたことが、僕が知る限りでは一度もない。これまで石神に怒られたことがないのだ。最初は先生のお気に入りだと思ったのだが、どうやら少し違うらしい。中島美来は、おそらく石神を全く恐れていない。
一ヶ月に渡ってクラスを観察していたが、彼女は石神が怒鳴っている時も、返事を要求するときも、ほとんど反応していない。にもかかわらず、石神にいないもののように扱われている。運がいいというよりかは、石神が避けているようにすら思えた。今の僕と同じ、石神にとって都合の悪い生徒なのかもしれない。
そんな美来には、どうしても味方になってもらいたかった。
男子には小川理樹と、その友達の佐藤孝彦と同じ班がいい。
彼らは地元の野球チームに所属していて、当時の僕の友達だ。二人とも素行が良いとは言えない。石神が担任になる前は、悪戯や悪さをよくしていた。もちろん四月の間も、石神に何度か呼び出されている。もしかしたら背中を押せば勇気を出して、石神に逆らってくれるかもしれない。
そして女の子だが、二人には僕らが行ったことを、石神に伝えに行ってもらいたい。
今のところ石神に反発する内容は、校外学習に出かけ、時間内に学校に戻らないということだった。先生の監督不行き届きということにもなるし、僕らは恐れていないというアピールにもなる。当然、叱られるだろうが、僕が歯向かえば、素行の良くない二人なら乗ってくれるかもしれない。
これらの計画を立て、五月の理科の時間を待ち望んだ。
校外学習の前日、班を決めることになった。
真後ろの席に座る理樹の方へ振り返りすぐに誘った。
「理樹、一緒に班組もうぜ」
「いいよ。あ、孝彦も入れていい?」
予想通りだ。
拓哉の様子を見ると、すぐに近くの班の子と組んでいたので、やっぱり人気者だなと思った。
他の子たちも徐々に決まっていく。僕はクラスの中央で、だるそうに目を瞬しばたたかさせている女の子に声をかけた。
「美来さん。よかったら、同じ班になってくれない?」
小学校の頃なら、仲の良くない女子生徒に気軽に話すのは考えられないが、今の僕の中身は教師だ。
美来はこちらを向き、頭を下げる。
「ありがとう…」
小さな声でそう言った。
美来は、見た目も中身もすごく大人びている。身長はそんなに大きくはないが、顔立ちも整っていて小学生には見えない。立ち振る舞いなんかも他の子に比べてとても落ち着いた様子だった。クラスメイトと話しているところを見たことがないが、クラスに一人でいる事を全く気にしている様子はない。いつも外から全体を俯瞰しているようだった。
その後は、適当な女の子に声をかける。同じ班になったのは、今年の女子の学級委員の渡辺真美と、その友人の須藤明美だった。
二人は、真面目な性格で、とてもじゃないけど僕と一緒に石神に逆らうような子ではない。真美の方は、一度石神に怒られないように媚び諂っていた。しかし、そんな事が通用する先生でもなく、「性根が腐っている」と叱られていた。
明美の方は友達も多く、真美とも仲がいい。この二人なら揃って報告してくれるだろう。
明日が楽しみだった。未来の僕は残業で、目の前のことで精一杯だったが、目標に向かって計画を立てることは、なんだか楽しかった。それがたとえ、自分の担任の先生を辞めさせようと言う計画であっても。
明日の学校の準備をしていると、優香が部屋に入ってきた。
「お兄ちゃん。算数教えて!」
「いいぞー」
優香は三年生になってから、よく宿題を見せにくる。少し難しいのか、いつも空欄が二、三問ほど空いていた。
「三年生って難しいんだよ。お兄ちゃん、六年生ってすごいね!」
「優香も勉強すればなれるからね」
ふと、いじめが発覚した時を思い出した。
僕が中学校に上がり、助けてくれる人は誰もいなかったのだろう。事実を知ったのは、優香と一番仲の良かった、瑠花が家に訪ねてきたときだった。彼女は僕の家の前で泣いていて、誰かが帰ってくるのを待っていた。父も母も家を留守にしていたので、僕が応対した。
彼女も一緒になって優香を無視した。最初はそれを謝りに来たのだけど、事実を知った僕は、すぐに主犯の女の子の家を聞いていた。
その子の家に向かう途中、学校から帰ってきた優香に遭遇し、僕は引き留められた。
その時の優香の顔を忘れたことは、今まで一度もない。
「お兄ちゃん?」
優香が不思議そうにこちらを見ている。
「どーした?」
優香の頭を撫でた。
「お兄ちゃん最近楽しそうだったんだけど、今ちょっとかなしいお顔したでしょ。」
この頃の優香はよく僕を見ている。すぐに表情や異変に気づかれてしまう。
「してないよ」
「したよ!」
「してないって」
僕の頬を優香は摘む。
「じゃあ、最近楽しそうなお顔なのは、良いことあったから?」
「それは…、なんでそう思うの?」
「だって、前のお兄ちゃん、かなしいお顔よくしてたから…」
本当によく見ている。
僕は一年半もの間、優香がいじめられていることに気づけなかったのに。
「優香が楽しそうだからだよ」
「優香は楽しいよ!」
必ず優香は守らなくてはいけない。なんとしても。
学校から出られるからか、石神から離れられるからか、どちらだかわからなかったが、生徒たちは興奮している。石神は、隣のクラスの宮本先生と他の先生に、校外学習の付き添いを任せ、自分は教室で待機していると言った。
働けよと思ったが、これなら動きやすい。今回は怒られることが一番の目的だった。
スケッチブックと色鉛筆を持ち、校外学習へと出かけた。
理樹と孝彦。真美と明美。僕は美来と並んで歩いていた。
校舎を出て、校門を出る。近くの大きい公園に行けば、大概の人が集まっているだろう。大勢いれば、先生の目は僕らに向かないと考え、僕らの班も公園を目指した。
学校から僕の実家の方へ向かう途中、子供達がよく遊んでいる大きな公園があった。その公園は自然に囲まれていて、遊具があるエリアと、サッカー場くらいの広さの広場があるエリアに分かれている。
その公園に向かう途中、ずっと無言な美来に話しかけてみた。
「ね、美来さんは優等生だよね」
「そんな事ない。一人でいるだけ」
美来は小声でブツブツと言う。
「だけど、先生に怒られたところ、見た事ないよ。先生怖いからさー」
笑いながら聞いてみた。
すると美来は意外なことを呟いた。
「怖いと思ってないでしょ」
美来は僕の顔を下から覗き込み言った。
「え、怖いよ、僕なんかいつも怒られてるし」
少し焦ったが、笑って返す。
「美来さんはどうなの?」
「同じ、怖くない」
「怒られた事ないもんね。泣いちゃうよ、あれ」
もう一度笑ってそういうと、美来は小さく答えた。
「怒られたことあるよ」
美来が説教を受けていたのは意外だった。
「でも怖くないよ」
今度は美来が笑って返す。
やはり美来は石神を恐れていないのかもしれない。この年であれが怖くないのは、異常ではあるが、あまり深くは考えなかった。
公園に着くと、生徒の大半がそこにいた。春の生物や木々を観察するのに、この場所はうってつけなのだろう。
遊具の周りを木や花壇で囲むように自然が設置されている。それはどこか人工的だったが、一つの自然をピックアップする分には丁度いい。
班員は少し距離をとり、各々の描きたかった標的を探す。正直、スケッチはどうでも良かったので、美来が座った隣に腰を下ろした。
以前の僕には美来と話した記憶がない。小学校の頃は、決まった仲間としか打ち解けることができず、自分からは積極的に話すタイプではなかった。美来も僕と同じで、自分からは決して話さない。当然そんな二人が仲良くなることはなかった。
スケッチを一通り終わらせ、美来の描いているものに目を向ける。
「すごい上手だね」
「ありがとう」
美来が描いたのは桜の木だった。五月にもなると、花は枯れて、緑色の葉がついている。だが、美来の絵は、満開の桜よりも繊細で、僕の目には美しく映った。
「あのさ、ちょっと教室に帰らないで見ない?」
率直に聞いてみた。
「なんで?」
「なんか楽しそうじゃん」
断られるかと思ったが、美来は首を縦に振った。素直に応じてくれるようだ。
その場で僕らは立ち上がり、理樹と孝彦の方へと振り返る。だがその公園には、すでに理樹たちの姿はなかった。真美と明美は、スケッチに夢中でまだ気がついていない。
少し焦ったが、冷静にそのことを二人に知らせた。女の子達はすごく引き攣った表情になり、同時に理樹達に怒っていた。巻き添えを喰らうと思ったのだろう。
「先生に伝えて来て」と頼んだら、素直に「わかった」と二人は学校へ戻っていった。
理樹達が何をしているのか不思議に思った。石神が見ていないところで、彼らは勝手に悪さをしているのだろうか。教師だった時の自分で、彼らを考えてしまっていた。
どっちにしたって戻る予定ではなかったので、理樹と孝彦を探すことにした。
「やっぱり怖くないでしょ」
美来は少し笑いながら聞いてきた。
「まあ…」
美来の表情にも恐怖は感じられない。
「なんでこんなことするの?」
美来はもう一度聞いてきた。さっきの僕の発言に納得していないのだろう。
「うーん、先生が嫌いだから」
正直に美来に話すと、続けて質問をされる。
「なんで嫌いなの」
「生徒を二人も殺すから」とは言えず、別の解答を探す。
「先生として、間違ってるから」
「何が間違ってるの?」
美来は再び質問をしてきた。
「え、何って、必要以上な叱責だったり、指導だよ。みんな怖がってるから…」
そういうと美来は下を向いて、小さな声で呟いた。
「私は、怖いの、必要だと思う」
それから僕らは、無言で理樹と孝彦を探した。
美来の言っていることはわからなかった。怖いのが必要。何のために。石神はあの恐怖で人を殺すのだ。必要なわけがない。
何度考えても、美来の言っていることは理解できなかった。美来が石神のことを肯定しているのかと思うと、不思議に思えてしまう。
結局、理樹と孝彦を見つけられないまま、僕らは学校へ戻った。
教室に着くと、戻らなくてはいけない時間から三十分ほどが経過していた。黒板には先生の文字で、「戻ったら座って待っていなさい。」と書かれている。同じ班の真美と明美に、石神の行方を聞いた。だが二人が戻ってきた時にも、教室にはいなかったとのことだった。理樹と孝彦も、席にはいない。まだ帰ってきていないのかと思ったがその時、フロア中に聞き慣れた怒号が響く。どうやら理樹たちは石神に捕まったらしい。
席につき石神が来るのを待っていた。授業時間が終わる数分前に、石神が教室に入る。理樹と孝彦はまだ戻って来ていない。
「時間内に戻んなかったやつ」
クラスのみんなは下を向き、全員が怖がっていた。
「はーい」
僕は少し舐めた態度で返事をした。
「チッ」と舌打ちをし、呼び出される。
下を向いていた生徒が僕の方を見て、目を丸くしている。これで石神を恐れていないということが、みんなに伝わってくれていると、今後の計画にかなり作用すると思うのだけれど。
頭の後ろで両手を組み、ゆっくりと石神の方へ歩いていった。
すると、美来も右手を上げた。美来は生意気な僕の態度を見て、小さく笑っている。
これで美来が、石神を怖がっていないことが確定した。
こうして、僕らは二人揃って石神の後をついていった。
空き教室に入ると、理樹も孝彦もと泣いていた。
「ごめんなさい…」
それをずっと口にしている。
「帰りまで立ってろ」
理樹と孝彦はそう言われると、謝りながらその教室から出ていった。
下校の時間まで、あと三時間ほど残っている。こいつは本当に教師なのかと思ってしまう。
僕ら二人を椅子に座らせ、こっちを睨む。そうしてため息をついて、面倒くさそうに言う。
「上田、何考えてんだ?」
石神は少し疑問に思っているらしい。それに楯突き反撃する。
「いえ、何も!」
お退けた調子で言ってやった。美来はそんな僕を見て、またクスクスと笑っていた。
石神は驚いた顔で僕らを見ている。もう一度舌打ちをし、石神は口を開く。
「調子に乗るなよ。よし戻れ」
相当煩わしいのか、僕には何も言ってこない。従順な生徒にだけ強く当たる石神に、ますます腹が立った。
教室を出てから五分ほどして、美来も戻ってきた。廊下で待っていた僕が「どうだった?」って聞いたら「叱られた」と笑って答えた。
これ以降、美来と同じように石神に無視されるようになった。やはり僕らのような問題児を石神は避けている。