まーた奇行が始まっちゃった。
 新木舞香は我ながら呆れた。

 高校に入学してはや一ヶ月。
 今日も友達ができなかった。
 それはまあいい。
 今日も一言しか喋れなかった。
 それもまあいい。
 けれど、いくら居場所がないからって昼休みに学校から飛び出すことはないんじゃない? 
 ……いやいや、これには深いワケがある。
 
 弁当食べた後のあの無為な時間。
 それは、突然、煮えたぎった。
 走ろうと思った。
 走らなければならないと思った。
 だから膝が跳ね上がり、机を蹴倒した。
 教科書をぶちまけながら机は轟音たてた。 
 クラスメートらの無数の不審な目が、舞香の心臓を射抜いた。
 まずは教室から飛び出そうと思った。
 その後はなりふり構わず走ろうと思った。
 
 しかし、イスの足が自分の足に絡んで転倒した。
 その時だ! 
 膝を擦って「痛い」と言うべきところを「熱っつぅ」と言ってしまった。
 これが今日の一言だった。
 これは完全に奇行だろうなぁ。

 おまけに胸ポケットから小銭がこぼれた。
 100円が3枚。50円が2枚。10円が7枚。5円が1枚。1円が3枚。
 合計、16枚の金銀銅の花びらが湿った教室の床の上で華やいだ。
 この絵はいくらするんだろう。
 見惚れてたらよだれがぬるっと垂れた。
 みんな悲鳴をあげやがった。
 ……もう明日から自分の居場所ないかも。



 外は雨が降っている。どしゃぶりだ。
 舞香は、ずぶ濡れになりながらも、人がまばらな商店街の一本道を突っ走っていた。
 学校を出て通学路ではない道を選び、走った。
 走る。とにかく走る。
 まして、こんな雨の中で、走る。
 脚がうずいたから、しかたない。

 閉じ込めていた惨めな記憶が発作的に出てきそうになるとき、人はそれをごまかすために衝動的に何か行動を起こす。叫んでみたり、頭を振ってみたり、白目を剥いてみたり。その行動はなんら意味を成さず、客観的に見たら奇行そのものだ。舞香の場合、それは走り出すことだった。

 雨の日は古傷が痛むんだ、なんてクサいことを一度は言ってみたいか? 
 傷の痛みが回想のスイッチとして機能する以上は、雨の日の走り込みは欠かせないものになるんだぞ?
 もし今日が晴れていたら、教科書も古傷も心臓も、平穏でいられただろうか?

  走りながらの自問自答は、記憶の蓋である。しかし、日を追うごとに自分への問いかけは意味不明を極め、徒労に終わった。今すぐにでも「決別したい記憶」が足から心臓へ、そして脳裏へとふつふつと湧き上がった。息があがる。汗がでる。雨に流す。涙、隠せず。
 ……あの日、痛くもないのに泣いたのは「スポーツの残酷さ」を知ったからだ。



 時は少しさかのぼって舞香が北岬中学校の二年生だった頃。季節は二月の冬。もうじき三年生にあがり、半年後には夏の最後の大会を控えていた時期だった。
 副キャプテンだった舞香は凡ミスを連発していた。原因は自分の身長のせいではないかとひそかに怯えていた。
 そんな舞香を気にかけて、女子バスケ部の顧問が「むしろ小柄である方がその強みを活かせるのだ」と力強く言ってくれた。これは「希望」だった。この言葉を信じて厳しい練習にも食らいついてきたし、最後の試合までバスケを続けてきた。
 しかし、先生は平等だった。
 「小柄なプレイヤーの強みを、潰す、テクニック」も背の高い部員たちに詳細に(そひて念入りに)伝授した。これは言うまでもなく「絶望」に該当した。

 学年が上がる時期になると、新しいチーム編成にどの部員も神経質になるものだ。二年生10人、一年生13人、合計23人で、たった5人のレギュラー枠を競う。さらには4月から入ってくる新入生の中に、ミニバスの強豪チームの何人かが入部してくるという噂もあった。
 三年生が中心となる夏の大会で、一年生がレギュラーとして活躍するのは何も珍しい話ではない。万年ベンチの三年生、三ヶ月でレギュラー入りの一年生の構図は、夏の風物詩だ。その光景を目の当たりにする二年生はしばしば戦慄する。自分も来年ああなるのだろうか。自分は来年レギュラーに選ばれるだろうか。そこで絶望を感じて辞めてしまう二年生は少なくない。継続を選んだ二年生はもう後には引けないため、死に物狂いでレギュラーを獲りにくる。新一年生という見えない味方の敵に震えながら、不確定要素の多いレギュラー争いは激化していく。

 部員たちが部活に没頭する理由はレギュラー争いだけではなかった。舞香の通う中学校は、二年連続、夏の都大会でベスト16を記録した。いずれも舞香が一年生の時と二年生の時の大会で、舞香は三年生と混じって試合出場した。どちらの試合も勝てる試合を落としての結果だった。 
 シュートの数やボールの支配では優勢だったが、レイアップシュートや2Pシュートなどの基礎のミスが多かった。正確なシュートができていなかったのに、それを勢いでごまかしたのが仇となり負けたのだ。
 練習で当たり前にできたことが本番ではできなかった。いや、練習でできた気になっていたのだ。その甘さが本試合で露呈した。だったらやるべきことは単純明快。練習を確実に丁寧にこなすだけ。

 次の夏の都大会ではベスト8に入れる確信が各々の部員にあった。だから、部員のみんなは自分がレギュラー入りして、前年の記録更新の立役者になるべく、練習に明け暮れていた。
 誰もがレイアップシュートを磨いた。誰もがレイアップシュートの妨害手口を磨いた。他の部員のレイアップシュートを許せば自分のレギュラーの座が遠のいてしまう。その攻防に相乗効果があった。
 舞香にとってレイアップは朝飯前だ。5歳からバスケを始めたため、中二の時点でバスケ歴は10年目だった。



 舞香の兄が所属するミニバスチームの練習場に遊びに行ったことがきっかけだった。

「ドリブルしてごらん」

 舞香はその時、初めてバスケットボールを触った。グレープフルーツを膨張させたような手触り。ずっしりと重く、汗とゴムのにおいがたちのぼってくる。
 すると自分の上半身ほどの大きいボールを両手で抱えながら、ゆっくり走り出した。

「あはは、舞香、それはラグビーだよ」

 6つ年上の兄のプレーは迫力があった。自分より一回り二回り大きい男性がぶつかりあいながらボールを追いかける。シュートする瞬間だけ脱力と鮮やかさが生まれる。そのコントラストに魅了された。
 ゴールリングへ向かう大きく弧を描いたボールの軌道は、どんな上手い人であっても、下手な人であっても、見守るほかにないのだ。
 最初は応援していた舞香だったが、やがて「声が出てなかった」「プレーが固かった」「あの場面では自分からいくべき」「そこは仲間を頼るべき」など鋭い指摘を飛ばした。



 レイアップはミニバスの頃から幾度となくこなしてきた。得意中の得意のプレーだ。バスケ部に入部してまもなく顧問や先輩たちにその安定した実力を買われた。
 舞香は一年生にして唯一、三年生に混じって試合出場した経験がある。ポジションはポイントガード。小柄なプレイヤーは大抵このポジションを任される。
 ポイントガードは、相手の特徴や穴を瞬時に見抜くこと、味方の強みと弱みを日頃から把握し試合で的確な指示をだすこと、その他様々な臨機応変な対応が求められる。
 他のポジションと特に異なるのは、リーダーシップが求められる点だ。つまり、一年生でありながら三年生に積極的に指示を出さなければならない。
 つい半年前まで小学生のバスケチームでプレーしていた舞香が、身長差は大人と子供、力の差は男と女ほどある中学三年生と混じって、バスケの試合をする。ぶつかり合いの可能性もあるだろう。
 普通の一年生だったら、初試合の緊張で基礎的なプレーさえ不安だ。それなのに舞香はポイントガードとして試合を常に概観し、三年生に指示を出し、チームの司令塔になることが求められる。新人を試すにも限度があるだろう。
 ……が、舞香はさも当然かのように、普段の部活から練習試合まで、三年生に対してどんどん指示を出していた。
「山内さん、もっとコンタクトしながら前に出たり、相手との距離を外したりしないとパス回せないですよ」
「鈴木さん、ディフェンスは横につくんじゃなくて、相手の前で待ち構えるようにやってください。だからさっきからファウル取られるんですよ」
「先生、倉田さんベンチに引っ込めてください。バテちゃって全然ダメです」
「吉田キャプテン。今日、体調悪いんですか?」

 一年生の舞香がコートに上がった時、相手チームから「可愛い」などと言われた。完全に舐められている。
 ジャンプボールで試合は始まった。相手が優しく譲ってくれた、といった感じでボールが舞香に回った。
 相手のディフェンスは、群れからはぐれたクラゲのようにゆらゆら動き、余裕をかましている。

 展開は舞香のワンプレーから始まった。
 ボールが弾んだ。その一閃。"ボード"に跳ね返ったボールがゴールリングへと落ちていった。すばやいドリブルであっという間にレイアップを決めた。2点、獲得。
 相手のディフェンス5人は、一年のチビに翻弄され、緊張と動揺の息が上がり始めた。

 舞香のオフェンスは低いところでの戦いだった。150cmに届かない身長で、自分の膝下くらいの高さで、ドリブルを高速に打ちつけ、前後左右に動き回る。
 160センチ台の三年生が舞香のドリブルについていこうとすると、より体勢を低くしないといけない。前屈みになって腰に負荷をかけながら、脚はコートの往復を繰り返し、足首は小回りに奔走する。甚だしい体力の消耗を強いられた。まるで素手で野生のネズミを捕まえにいく気分だった。
 相手は背の高さをまったく活かせない。なぜなら舞香は低いところで勝負を仕掛けてくるからだ。
 誰も舞香に追いつけない。無理に横からブロックしようとするとファウルを取られる。
 でもこれは舞香が攻める側の話。

 舞香がディフェンスに回ったとき、相手選手は舞香の身長合わせてプレーする必要はない。つまり、高さを活かした勝負を仕掛けることができる。
 ディフェンスとしてのポイントガードの役割は、相手の攻勢をチームの先頭で迎え撃つこと。責任は重い。しかしそのディフェンスプレーは"脱力"に満ちていた。
 大袈裟にディフェンスに回るふりしては、相手にすり抜かせたり、シュートを打たせたり、パス回しを許したり、舞香のディフェンスはどんどん相手に出し抜かれた。つまり、"ザルディフェンス"だ。
 ……チビだし、ディフェンスは下手なのだろうか。と相手チームは感じとった。
 試合の流れがだいたい見えてきた頃、ディフェンスに回った舞香は、またしても相手のオフェンスに抜かれた。 
 しかしそのすれ違いざまに、大きい声でハッキリと言った。
「その子、クロスオーバーしかできないからよゆーよゆー。多分、それしかできないよ」
 クロスオーバーというのは、ドリブルで相手を抜き去る時に使う技で、右に行くと見せかけて左に走り去り(左右逆の場合もある)、相手を置き去りにする。初心者からNBAの一流選手までもが愛用する、シンプルにして奥深い技だ。
「パターン、見えてる、見えてる。……ほらね、予想通り。アッハハハ!」
 手を叩きながら、煽り文句を響かせた。
「相手、ワンパターン! ワンパターン!」
 レイアップを決めた相手選手は仏頂面で舞香を睨んだ。

ここで第一クォーター終了。

 相手のベンチから警戒の雰囲気が濃厚に漂ってきた。
 ひょっとしたら、「あのチビ」が序盤で見せた脱力気味のディフェンスは実はフェイントで、気付かぬうちに個々のプレイヤーの弱点を分析されているのではないか?
 自由にドリブル、パス、シュートさせたのはデータ収集のためではないか?
 そもそも一年生が夏の大会にレギュラーとして出場している時点で只者じゃない。もっと警戒しておくべきだったか? 
 相手チームの顧問が口を開いた。
「このまま一辺倒じゃだめだ。"多彩な"技を織り交ぜながら攻める。そして『あの一年』は得点力があってすばしっこいけど背が低い。守りをきちんと固めろ。高さを活かせ」

 第二クォーター、開始。

 依然として、舞香の煽りは続く。やがて相手チームは得点でリードしてるにも関わらず躍起になり、力み出した。
 舞香を相手に"慣れない"ドリブルやフェイントを仕掛けては、ボールを蹴飛ばしたり、落としたり、変なところからシュート打ったりなどミスが連発した。ミスは個人の気力もチームの士気も奪ってゆく。
 舞香はこぼれたボールをひろって軽快にシュートを決めた。脱力していた分だけ体力が温存できた。
 レイアップだけでなく、バックシュート、ターンシュート、フックシュート、そして鮮やかなジャンプシュートを決めた。

 舞香の多彩なシュートを目の当たりにした相手チームは新たなディフェンスを見せた。
 舞香がボールを持つと相手チームの全員が、ゴール下へと引き下がり、スクラムを組むように、立ちはだかった。
 デクの棒がまばらに5本突っ立っても怖くないけど、さすがにゴール下で密集されると、五重の壁に見える、と舞香は思った。
 チビはここで潰す、といった具合に相手チームはゴール下で隙間なくディフェンスを固めている。

 ドリブルではまず無理だろう。パスもあまり意味なさそう。
 さてどうしましょうと悩んでいると、大きく半円を描いた白線の手前で、自分が立っていることに気がついた。
 なぜだか笑ってしまった。
 ここから6.75m離れたゴールがガラ空きだ。相手はあのリングにボールを入れまいとを必死だけど、あのゴールを直接守れる人は誰もいない。
 自分しか届かない。
 自分だけが届けられる。
 自信が確信へと変わった。
 リングが呼んでるのだ。
 股関節をすっと落とす。
 ぐっと溜めをつくる。
 瞬間、ふわっと飛ぶ。
 足首から膝へ、腰から胸へ、腕から手へ、力がしなやかに連動して、ボールが手のひらから離れた。
 いつのまにか周囲は無音になる。大きな弧を描いて、リングの中へ吸い込まれていくバスケットボール。その背中を舞香は確信に満ちたまなこで見送った。
 さわやかな摩擦音が、沈黙のコート上に響いた。ゴールネットがゆらめく。歓声があがった。
 【3Pシュート】だ。

 オーディエンスには、他校のレギュラー部員やらベンチメンバーやら男女問わず、あるいは部員顧問を問わず集まった。
 ……生意気な一年がいる
 生意気というのは嫉妬にまみれた褒め言葉だ。先輩が中心となる試合に出て結果を求めるなら、一年生は生意気じゃないとやってられない。
 相手の三年生は「体格差」や「力の差」でやっかいだけれども、味方の三年生は「気遣い」という点でやっかいだ。
 だけど、舞香は生意気だ。
 ゴール前までせっせとボールを運んで寸前で先輩にパスをするといった接待もしないし、先輩のミスをきっちり指摘したし、自分の活躍の場を誰にも譲らなかった。
 舞香のデビュー戦は快勝で飾った。
 それは、兄とまったく同じ始まりだった。
 舞香は初戦で得点を確実に稼ぎ、次戦への弾みをつけた。三年生の主力メンバーの体力を十分に温存させつつ、この日の勝利が次の勝利を導いた。

 しかし、ベスト8の懸かった試合では三年生を優先的に出場させた。舞香は一年生でベンチで声援を送っていた。早々に、応援する気がなくなった。先輩達、まるで基本ができていない。
 まずディフェンスがザル。敵に抜かれるわファウルを取られわ、もう散々。敵のドリブルに張り付くには、サイドステップとクロスステップを織り交ぜ、状況に応じて使い分けなければいけない。ただ、なんとなくボールを叩こうとするから相手の腕や手を叩いてファウルを取られる。いいディフェンスってのは相手に下手なシュートを打たせること。つまり、ミスを誘うこと。ハエ叩きみたいにボールを奪うことじゃない。目的意識が無い。
 次にオフェンスが雑。ドリブルが根本的に下手。そんな胸の高さでボールをバウンドさせたら敵に取られやすいに決まってる。基本は自分の腰よりも低いところで、より低く! より細かく! より強く! バウンドさせなきゃ意味ない。そもそも利き手でしかドリブルできない奴はコートに立つなよ。
 ある先輩はレイアップを決めようとしたが諸々のタイミングに失敗し、ボードの角に跳ね返ったボールが自分の頭にぶつかっていた。周囲には笑いが起きた。舞香はベンチで冷めた目で見ていた。笑えるというより惨め。中三にもなってこのプレーはない。

 負けて笑顔の三年生を見て、一年生の舞香はヌルいなと思った。三年生を腑抜けにさせてるのは、仮に負けたとしても都大会ベスト16という実績を残せるからだ。この年の都大会ベスト16という記録は、北岬中学校の女子バスケ部にとって数年ぶりの好成績だった。
 だから何の緊張感もない。リラックスして試合に臨むのと、緊張感なく試合に臨むのはまったく別物だということをわかってない。
 中学校最後の大会で思い入れがあるのはわかる。でも基本プレーをミスって敗北して、最後の夏が終わって、それがなぜ楽しい思い出になるのかまったく理解できない。
 自分を出せばこんなへぼいチームに負けることはなかった。都大会ベスト16なんてどうでもいい。勝てる試合を落としたのかたまらなく悔しくなった。向こう一年はこのへぼいチームの格下扱いになる。三年生は勝利よりも思い出を選んだ。
 一体、この人たちは何のためにスポーツをやってきたんだろう。
 それが二年連続と続いたことが舞香を苛立たせた。都大会のちゃちな功績が部員を緩ませ弱体化を招く。本末転倒っぷりに舞香はしばしば呆れた。

 舞香は確信した。
 コイツらのやり方は、間違っている。
 自分のやり方が、絶対、正しい。

 舞香が二年生の時に、三年生の先輩が前年の反省もなく引退試合前に言ったこと。
『最後の試合なんだし気楽に楽しんでいこう』
『思い出に残るようにがんばろう』
 ……いやいや、勝負に負けて楽しい感情なんてありえないですから。そもそも気楽に臨む試合ってなんだよ。ゆるんだ態度でシュート外して、ヘラヘラやって、それが中学生活最後のバスケの思い出とか最低最悪ですから。
 寸前のところまで出かかった言葉を無理やり飲み込んだが、ギラついた目からは本音が筒抜けだった。
 先輩たちは、背中を刺してくる一人の尖った視線を柔和な笑顔で受け流していたが、その不満に満ちて煮えたぎった独善的な心中を、決して見逃しはしなかった。

 夏の最後の大会のあと、三年生は次期キャプテンを発表することになっていた。三年生は話し合いと多数決で次期キャプテンを選ぶが、満場一致で決まっていた。舞香は選ばれなかった。
 三年生は8人いたが、誰一人舞香を指名しなかったのだ。キャプテンに選ばれたのは舞香と同じ二年生で、その年の夏にようやく試合に出れたレベルの部員で、舞香よりも一年も出遅れていた部員だった。声を枯らして三年生を応援していた健気な後輩が、キャプテン。名前は、えっと、上原……なんちゃらという子。
 顧問の提案で舞香は副キャプテンに選ばれた。立場じゃなくて実力と結果で"正しさ"を証明してやろうと思った。
 「バスケ歴10年目」「一年生の頃からレギュラー」「二年連続都大会ベスト16の立役者」という経験と功績が舞香の自己肯定感を揺るぎないものにした。

 自分が一番、バスケをわかってる。勝ち方を知っている。
 勝てる試合を落とすことを「夏の思い出」などとは言わない。
 そんな腑抜けた意識は自分の代で決別する。

 さっそく三年生が引退してから、チビの副キャプテンが独裁者のごとく自分の部活方針を部員らに押し付けた。
 独裁者には確固たる考えがあった。
 あらゆるプレーは機械的、反射的であるべきだ、というもの。
 試合というのは必ず、緊張する。体は萎縮し、ミスの頻発を誘う。
 しかし、緊張そのものは悪いものじゃない。
 緊張感のある試合中のプレーは、あらゆる油断や隙を潰してくれる。
 いくら、得点でリードしてても警戒心を忘れずにいさせてくれる。
 普段から積極的に緊張感と付き合って上手く手懐ければいいのだ。
 だから練習中からヘラヘラやってた三年は本試合でミスを連発していた。
 シュートの確実性を担保するのは安い慰めじゃない。日々の反復的な練習だ。
 正確なフォームを何回も繰り返し、反射的にできるように体に馴染ませる。
 たとえ得点がリードされて焦っていても、試合の終盤で疲れていても、疲労がたまって調子悪くても、いつなんどきも機械的に発動できる確実なシュート。これが理想だ。

 まずは目的意識のない練習をやめた。意味のない声出し、だらだらドリブルで往復、惰性のレイアップなど。
 声出しの意味は二つ。シャウト効果を狙ってより強く力を発揮すること。情報伝達によりボール運びを円滑に進めること。
 ドリブルの位置は腰より低く、体全体を使って高低に緩急つけ、攻守の切替を徹底する。
 レイアップは、一に速さ、二に速さ、三にやっと正確性。速さと正確性はどちらも必須。でも、いくら正確性を身につけてもリングの下までドリブルするのが遅いと、レイアップシュートの機会がない。経験が積めない。必然的に正確性が落ちるのは明らかだ。
 次にミニバスレベルの基本の内容からのやり直し。バスケのプレーをまずオフェンスとディフェンスに分けて理解させる。これにより試合やバスケの全体の目的と個々のプレーの意味をハッキリさせる。
 重点すべき個々のプレーを五つに限定した。ドリブル、パス、シュート、リバウンド、コンタクト。
 そして何がファウルになるかを今一度きっちり把握させる。ファウルにはオフェンスとディフェンスどちらにもある。プレー中に選手同士が激突してどちら側のファウルかの判断はベテランの審判でも難しい。でも基準は明確にある。ファウルの仕組みをわかってないといつまでも下手なディフェンスで、相手にフリースローを許すことになり、つまらない失点を重ねる。

 舞香がいつも思っていたのは、部員一同(すでに卒業した先輩や引退した先輩も含めて)、試合中の基本的な心構えがそもそもなってないな、ということだった。
 バスケの試合というのは基本、コート内で陣地争いを繰り返すものだ。パスをもらう位置、シュートを打つ位置、ドリブルの切口や道筋など、自分の理想とする陣地は積極的に相手とぶつかりながら取りに行かないといけない。このぶつかる行為を「フィジカルコンタクト」という。
 強豪校ほどこのフィジカルコンタクトに慣れている。弱小校はシュートやドリブルなどボールをキャッチした"後"のことしか考えていないため、フィジカルコンタクトの対策を怠り、試合当日になって敵チームの激しい競り合いに泣かされ、心を折られる。強いチームはボールを持つ"前"から戦略的に動いている。
 しかし、いたずらに相手にぶつかるとファウルを取られる。フィジカルコンタクトとファウルは密接な関係にある。だからこそファウルを取られないフィジカルコンタクトのためにバスケの基本的な概念(シリンダー、リーガルガーディングポジションなど)を舞香は熱心に伝えた。
 しかし、これが部員にわかってもらえなかった。練習中に同じチームメイトにわざわざぶつかって陣地を奪うのは、みんな気が引けるからだ。ケガさせるリスクを負ってボールを支配しようとする人はかなり野蛮に見える。舞香は一人これをやった。何人かをケガさせ、当然のごとく嫌われた。

 けれど、辞めていく部員は少なかった。
 北岬中学校は、バスケに限らず、運動部は全国大会から都大会まで好成績を残すバリバリのスポーツ強豪校だった。こういう気合の入った体育会系の中学において、一年生は先輩の指示に従うか辞めるかの二択を迫られる。反論、というのはない。なぜなら先輩は経験と実績において圧倒的に一年生より勝ってるからだ。先輩にやり方が間違ってるとわからせるには、実力と結果で見返すことが求められる。
 その点、舞香は立派だった。ミニバスで全国大会準優勝の時の記念写真を一枚、部室に置いた。一年生にして反論も異論も自由に認められた。
 そして舞香は副キャプテンとして君臨し、一年生に指示をだす。
 一年生は大人しく従うものが多かった。まだ実績はないが根性があった。

 三年生が引退して新体制で部活が再始動すると、秋から年末にかけてあっという間に時が過ぎた。
 舞香のやり方でサボる人、ケガ人は増えた。
 一年生を中心に不満が募った。
 一方で、努力の成果が如実に現れた。
 しばしば一年生が舞香のプレーを出し抜いたのだ。
 ここで一年生を始めとするルーキーたちは努力の味を覚えた。
 バスケ一筋10年の選手をわずか一年未満の努力で自分が勝る瞬間は、さすがに例えようのない興奮を覚えた。
 努力はやがて中毒になった。
 厳しいトレーニングであるほど報われた時、とてつもない快感をもたらしてくれた。
 例えば、練習試合で初めて三人抜いてレイアップを決めた時、ディフェンスでたやすく相手のオフェンスをブロックしその勢いでシュートを決めた時、本試合で逆転3Pシュートを決めた時、練習中に小うるさい先輩(舞香)のシュートを妨害成功した時、突き飛ばした時など。
試合は連戦連勝、時々強豪校に接戦の末、ギリ負けるくらいまで成長した。
 周囲はとにかく実力をあげていた。ところが舞香だけはなぜか凡ミスが続いた。
一年生の間で「イキった先輩が思ってたより大したことなかった感」の雰囲気が漂った。

 舞香が一方的に押し付けた部活方針や練習メニューはある意味、静かに歓迎されたものの、部員たちが舞香を支持することはなかった。これは、先輩のフォローやアシストのおかげで活躍した試合を、自分の功績と信じて疑わなかった舞香の心理と同じ原理だった。成長したのは自分が努力したから、と言わんばかりの態度だ。現に練習をサボった部員は下手のままだった。努力の差は如実に表れていた。

 ここで評価が高まったのは、部活を辞めてしまわないように積極的に一年生のケアに回ったキャプテンである上原由依だった。みんなから慕われる人望派のキャプテンと、実力主義の疎ましい副キャプテンの構図が鮮やかに浮かび上がっていた。
 しかも、その実力主義の副キャプテンとやらが自分で掲げた方針に一番忠実なくせに凡ミスを連発している。しかもチビときている。よくよく考えてみれば、好戦的なだけで体幹はそんなに強くない。ただバスケに慣れてるだけ。……あれ? ラクに潰せるかも。
 この静かな高揚が一年生を飽くなき努力へと駆り立てた。

 舞香はミスの連発が止まらなかった。パスを出した先に仲間がいない。3Pシュートが入らない。レイアップは弾かれる。ディフェンスはたやすく抜かれる。司令塔としての役割だけが元気だった。なぜなんだろうと自問自答を繰り返すうちに、底の見えない不安に陥った。
 よく周囲を観察した。身長だ。でも、それだけのことでこの10年の努力が帳消しになるのだろうか? いや、そんなはずはない。そんなのは認めない。受け入れられない。同学年はすでに頭一つ分、舞香より身長は高く、一年生の中でも舞香の身長は低めの部類だった。

 次第に頭角を表してきた一年生の中で、舞香にとってもっとも嫉妬に駆られる存在がいた。
 森沢だ。中一にしてすでに身長は160センチに届くところ。小1から小6まで剣道をやっていて体が強く度胸もある。舞香の厳しい口調にもなんら動じる気配はない。
 舞香を嫉妬させたのは、森沢の飲み込みの早さでもなく、冷静でタフなメンタルでもない。その長身だった。
 無意識のうちに森沢との接触を避けている自分に気がついた。きっと、白黒つくからだ。どっちが上か下か。自分の才能はうぬぼれだったのかどうか。
 それは何気ない日常の練習の最中に起きた。

 部員の誰もが止められない森沢のドリブルを、舞香は睨みつけていた。オフェンスの森沢がいよいよ眼前に迫ってくる。
 舞香のポジションはポイントガードだ。森沢の攻めに対して先頭について対処する。
 ベテラン舞香とルーキー森沢の一対一が始まる。
 ディフェンスとして舞香が立ち塞がった。自分の選択肢は二つ。森沢に下手なシュートを打たせるための基本のディフェンスに徹するか、格の違いを見せつけるためにボールを奪い取るディフェンスにでるか。その答えは考える前から明らかだ。
 ……ボールを奪い取ってやる。
 かかとをわずかにうかせて俊敏性を高める。右腕をぶらりと垂らし指先を森沢の膝の方へ向ける。
 オフェンスが相手を抜き去るときは、たいてい右手のドリブルから左手のドリブル(またはその逆)に切り替える時だ。この時、ボールは「横にVの字」の軌道を描く。だから舞香はVの字の"鋭角"を狙う。つまり"ボールが地に着く瞬間"だ。なぜなら、すでにボールは手から離れてオフェンスのコントロール下にはなく、ファウルを取られる可能性も低いからだ。
 左のアウトサイドから右に切り込んで森沢はシュートを狙うだろう。舞香はそう思った。森沢の利き手は右手。"格上のディフェンス"に切り込むなら利き手でボールに小回り利かせて突破したい、はず。
 案の定、森沢は舞香と対峙すると右手から左手へ切り替える動きを見せた。ここだ、と舞香は右手を伸ばすと同時に右足も出した。
 しかし空を切った。ボールが消えたのだ。舞香は踏み出した足に急いでブレーキをかける。動きが鈍った。
 森沢が見せたのは、舞香の想定した「横のVの字」ではなく、「前後のVの字」だった。森沢は瞬時の動きでボールを背中に回したため、舞香にはボールが消えて見えた。すでにリングの方向へと走り出しているボールを森沢は手懐けた。
 森沢がこの技を使えることは想定外だった。でも俊敏性では負けない。ディフェンスは一回やって終わりじゃない。必死に食らいついた。
 唯一の救いは森沢のドリブルにはかろうじて甘いところがあった点だ。慣れない切り返しのプレーによってわずかに減速したのだ。すぐに舞香は追いついた。次の森沢の展開を読んだ。ゴールまで近い。2Pシュートか? いや、レイアップだ。
 二人はゴール下までべったりくっついて疾走した。舞香は意地になった結果、森沢のドリブルをスライドステップで進路を阻んでしまった。この時、舞香は自分のディフェンスがファールに該当する自覚があった。
……ぶつかる。
 森沢の凄まじいドリブルは、舞香の存在をコートの外へと弾くも、勢いは止まることなく、鮮やかなレイアップを決めた。
激しく転倒した舞香を横目に森沢は「ビッグプレー」を決めた。
 【バスケットカウント】相手からファールを受けながらもシュートを決めると、そのシュートの得点に加えてフリースローの機会が与えられる。つまり森沢のレイアップシュート二点とその後のフリースローを決めれば、もう一点加算され、合計三点が与えられる。
 舞香は転倒しながらも"格上のオフェンス"鮮やかなレイアップシュートを見ていた。しつこいディフェンスをものともせず、お手本のようなレイアップを見せつけた。本試合ならこの後フリースローの機会が与えられる。きっと森沢はきっちりシュートを決める。森沢がフリースローを外すのは練習でも試合でも、あまり見たことがない。本番に強いタイプだ。
 それに比べて地べたに横たわっている自分は一体なんなんだろう。ファールまがいのプレー、失敗に終わったディフェンス、あたり負けした肉体。

 ……完全、敗北。

 ネットから落ちたバウンドの音が、コートの床にへばりついて離れない耳を通じて、鼓膜を痛く響かせると、涙がこぼれた。
 突然、兄がバスケを辞めた日の記憶が浮かんだ。
 ……あぁ、今になってわかったよ。
 なぜ、あなたがバスケを辞めたのか。



 兄の翔太が高校生だった頃、小学生の舞香に複雑な思いを抱いていた。どうやら妹は中学生になってもバスケをやりたいという……。
 妹には自分と同じ境遇にあってほしくなかった。だけれども妹にバスケを勧めたのは自分だし、その妹は今日も熱心にバスケの練習に明け暮れて努力している。そんな妹にこれから直面する不条理をわざわざ語ってなんになる? 好きなことに懸命に努力する妹にわざわざ水を差してどうする? 「スポーツは体格がものを言う。特にバスケは高身長が圧倒的に有利。チビにプロは無理。大学ですら厳しい。だからバスケは遊び程度に、ほどほどに頑張れ」なんて言う方が兄としての優しさなのだろうか。
 NBAの動画を何回も見たり、プロバスケ選手らのプレー中の写真集を何度も眺めたり、バスケの教本をしつこく熟読したり、負けたりミスすると本気で悔しがって泣く妹に、やはりそんな言葉はふさわしくない。
 でも何か方法はあるはず……。舞香に映画、漫画、音楽、人気YouTuberなど、それとなく勧めた。その中にバスケの類のものは入念に排除されていた。中学で新しく夢中になれる何かに出会って欲しかった。

 舞香にとって、正直、鬱陶しかった。バスケに夢中になってるのにテニスだのバトミントンだの卓球だのどうでもいい。人気俳優らによる実写化で話題の漫画だのバズったYouTube動画だのどうでもいい。
 ……でも今思えば、あれは兄・翔太なりの優しさだったんだ。その優しさの中に苦しさがあったんだ。
 翔太はバスケの練習や試合で負ったケガを家族や友達にひけらかして笑うところがあった。スリ傷や打撲を見せていかにド派手なプレーをやったかを舞香に聞かせた。舞香はその生々しい傷と翔太の盛りに盛った武勇伝を、苦笑しながら聞いていた。
 しかし気がつけばいつからか翔太はケガを語らなくなった。むしろ、隠すようになった。きっと恥ずかしくなってきたのだろう。ケガのもとになる下手なプレーがだんだん笑えないほど深刻なものになったのだろう。自分のバスケ人生がじわじわと否定されていく感覚になったんだ。

 その日、舞香はミニバスから帰宅すると、リビングから兄と母が喧嘩してる声が聞こえた。カバンを下ろす間もなく音の方へ足を進めると、泣き崩れてる母と何かをせっせと捨てる兄がいた。あまりの光景に立ち尽くす他なかった。
 兄の足元には、ビリビリに破かれた賞状、折れたトロフィーなどが転がっていた。
 なんで? 何が起きたの? と思ったが兄の無言の怒りを見ると、すぐに状況を聞けそうになかった。
 母がすすり泣いている。もともと小柄だった背中がより縮んでいるように見えた。
 兄はなんのためらいもなくバッシュやスポーツウェアなどを生ゴミと一緒のゴミ箱に眠らせた。段ボールのふちから突き出たトロフィーの先端は、棺桶からはみ出た生首のように冷めている。
 舞香に一瞥もくれず自室へと移動した。妹の不審に怯えた視線に気がつけば何か語ってくれるのではないかと思って、静かに後をついていった。兄の部屋はほとんど空っぽだった。大量に何かを買い込んだ紙袋が二つ並んでいた。バスケボールや教本やNBA写真集が部屋の隅に置かれている。机の上には何枚かの写真があった。
 兄がミニバスで優勝した時の写真。舞香がバスケを始めて間もない頃だ。
 兄が中一でレギュラー取って初めて勝った試合。そばで妹がガッツポーズしてる。
 兄が中学三年で全国ベスト4の記録を残した写真。悔し泣きする妹と笑う兄。
 兄がバスケ強豪の高校に入学した頃の写真。
 ……しかし写真はそこで止まっていた。
 無言のまま二人の思い出の写真を舞香に渡した。
 兄はこちらに顔を見せることもなく言った。
「次に進むためだよ。俺な大学に行くんだ。新しいこと始めるために。だから古いものはもう捨てないとって思ってさ」
 バスケ関連の本や雑誌で埋まっていた本棚は、受験勉強の参考書に置き換わっていった。
 まだ高二の夏前だった。部活を辞めるには不自然な時期だ。
 そして、ミニバス帰りの舞香に背を向けて言った。
「舞香。ごめんな……俺、ダメだったわ……」
 その時の表情を決して見せようとはしなかったけれど、震える肩や背中で言葉以上の悲しみや無念さが痛いほど伝わった。
 バスケへの熱量はかつての兄には負けてない。だからこそ、きっと、いつか兄と同じ境遇に陥ることを知ってたんだ。バスケなんて楽しければいいじゃんなどとはとても割り切れない兄妹だから。
 自宅にいたらバスケに夢中の妹がいる。それはかつての自分と重なるのだろう。正直、鬱陶しくて苦しいに違いない。でも妹の邪魔はしたくない。だから東京に住んでいながら、わざわざ地方の公立大学を受験し、格安の学生寮がついてる大学に進学したんだ。これまで勉強してるところなんて見たことがなかったというのに。兄は高校卒業と同時に家を出ていった。
 挫折、諦め、そして自分への配慮。
 ……あの頃の兄の心境を思うと泣けてきた。



「新木先輩、すいません。だ、大丈夫ですか」
 部員達は騒然とした。時が止まったように動きは制止され、ボールのバウンドの音だけが聞こえた。
「ほら練習しろ! お前ら!」
 顧問の田口が大声を上げた。
 部員たちは横目で事のゆくえを追いつつ練習を再開した。

 田口は静かに口を開いた。
「森沢」
「は、はい!」
「何も謝ることはない。今のは新木のミス。ディフェンスファールだ。お前はきっちりオフェンスの役割を果たしただけだ」
「あ、いや、でも……」
「練習に戻れ!」
「は、はい……」

 ……体はどこも痛くないっていうのに、メソメソ泣いている。これは甘えだ。舞香も続いて練習を再開しようとした。
 すると田口が呼び止めた。
「新木、少しは休め。今の転倒は、練習不足じゃなくて、疲労からくるものだ」
 振り向くことなく声を絞り出した。
「下手くそで足手まといの部員にそんな甘い言葉は入りませんよ」
「何言ってんだ。お前はよくやってるよ。誰よりも努力家じゃないか」
「先生……あたしの努力を褒めないでください。成長ともなってない努力家なんて……惨めなだけです」



 顧問の田口にとって新木舞香の存在は部員の中でもっとも頭を悩ます存在だった。練習をサボる部員、部活に来なくなる部員、部活を辞める部員への指導や対応の方がよっぽど簡単だった。それは毎年の通常業務だからだ。
 新木はストイックすぎる。最後の夏の大会で5歳から始めたバスケ歴が10年という節目を迎える。今よりも成長していたい。これまでの止まっていた記録を更新したい。自分の力で結果を残したい。その目標がすぐ目の前まできている。保護者面談で知った兄の事情も加わって、いろんな要因が絡んで新木がいびつな努力中毒者になっていることが、長年の経験者の目から見て明らかだった。
 田口には夏の結果が目に見えていた。新木をだせば結果は惨敗。新木を出さなかったら都ベスト8の記録更新は狙える。バスケはチーム戦。ベテラン選手の個人スキルよりも、チームとしてのルーキーらの伸び代の方がはるかに期待できる。それがもっとも勝利に貢献する。

 そもそも新木の役割と自分の役割がバッティングしている。嫌われ役を用意してチームの結束力を高めるならば、その役割は顧問が率先して努めなければならない。なのに、一番嫌われてるのが舞香で二番目に顧問ときている。顧問として田口は、孤立したストイックな部員に、いまさら厳しい言葉をかけようなんて思わない。むしろ肯定する方に行くのが自然だろう。
 しかし、新木にとって顧問の存在は自分を甘やかす存在で、他の部員にとってはベテラン贔屓しているように見えるのだ。

 田口は43歳の男だ。新木の年頃の女子がどれほど繊細でどれほど頑丈なのか、皆目見当もつかない。このバスケには不向きな小柄の少女に「バスケは高身長が有利だ。これは間違いない。高校、大学に進むにつれてより顕著になるだろう」と厳しい現実をぶつけてみたところで、どれほどの意味があるのかわからない。
 このまま無責任に夢や希望を語って努力させて、ひとりの中学生が挫折してしまう可能性を思うやり切れない。スポーツへの失望、自分への失望、人生への失望を感じて、潰れてしまうのではないか、もう立ち直れないのではないかと不安がよぎる。
 バスケしかしらない。一つの尺度しか知らない。今日より明日の成長。すべての努力は勝利のため。未来の結果のために今の自分を徹底的に消費する。こういう歪んだ体育会系は昭和に蔓延し、平成になっても根深く尾を引いた。壊れる寸前までやる過剰さ。
 その末路は、たいてい不遇な結果や報われない努力に心が折れ、スポーツそのものから撤退だ。怪我とともに。

 だからこそ、結果よりもプロセスの大事さを教えたい。けれど今目の前にいる中二のバスケ少女は成長と結果を欲している。このストイックなベテラン中学生になんと声をかけていいかわからなかった。



 部活が終わり、職員室へ戻ったところ、すぐ後ろに新木がいた。みんなが更衣室へ向かうところ、一人でこっちへ向かったのだろう。汗に濡れた髪や火照った頬などは、職員室の生ぬるい暖房がまったく似合わない。

「先生、あたしに足りないものって何でしょうか」
 新木は真剣な眼差しで問いかけた。

「一年の時から夏の大会に出て場数を踏んで、その経験を活かして自分の成長だけでなく、チームとしのプレー技術もあがってる。これはまぎれもなく新木のおかけだ。ほんと、よく頑張ってるよ。何も言うことはない」

「先生……もう自分にはそんなにも、伸び代がありませんか? 遠慮なくハッキリ言ってもらえると助かります」

 もはや、これまでと思い田口はありのままに語る決心をした。自分の本音と現実を言おう。聞き逃すことを期待して一気にまくしたてた。

「チームの結束力はこれ以上ないくらい高まってる。新木を除いてな。夏までの伸び代や今のチームワークを考えたら、残念ながら、新木の出る幕はない。結局、バスケはチーム戦なんだよ。もう君のシュートをアシストしてくれたりミスをフォローをしてくれる先輩はいない。過去の活躍は努力と技術の賜物だったんけどその活躍は先輩ありきだったんだ。そこにもう少し早く気がついてればなあ、と思わなくもない。……だけどな俺が望んでるのはレギュラー獲得だとか、他のチームに勝つだとか、大会で実績残すとか、そんなことじゃない。努力だ。たとえ報われなかったとしても望みが薄かったとしても、努力するその姿勢だ。どんな困難にもめげずに努力してる姿勢さえ貫けば、"バスケ以外"にも役に立つだろう。先生がもっとも評価してるのは新木のそういうところだ。だから……」

「先生……」

「どうした?」

「あたしからバスケを取り上げないでください……」
 鼻をすすり始めた。ところどころ黒くすすけた両手を顔に押しつけて涙を拭った。擦り傷を負った脚や打撲跡のある膝が今にも崩れそう。フォローとして言ったつもりが仇になった。

「あたしにはバスケしかないんです。バスケのためならどんな厳しい試練にも耐えて、絶対、実力上げることを約束するので、あたしの足りないところを教えてください……」

 田口先生はしばらく沈黙した。腕を組んでしばらく熟考の表情を見せた後、口を開いた。

「わかった。夏の最後の大会、お前をレギュラーに選抜する。自分の口から交代を申し出るまで試合に出続けてもらう。ポジションはポイントガードだ。新木の足りないところは俺の見えないところにある。自分で探してこい。もう俺にはそのきっかけと場所を与えることしかできない。そして現実を見てこい。最初で最後の俺からの試練だ」



 時刻は18時をまわった。部活後、舞香は一人くつ箱へと向かった。登下校用のくつを取り出し床に落とすと、ぱんっと音を鳴らし砂ぼこりがわずかにたちのぼった。一緒に帰る友達はいない。他の部員はみんなでマックに行くらしい。賑やかな声を背に校舎から出た。
 正門をくぐり抜けると舞香はすぐさまその視線を察知した。森沢だ。正門のすぐそばの花壇に腰掛け、緊張した面持ちで舞香に視線を送っていた。舞香と目が合うと森沢はすぐに立ち上がり、肩掛けのエナメルのカバンをゆさゆさと揺らしながら、舞香のもとへ駆けよってきた。

 森沢は舞香に深く頭をさげた。
「新木先輩、さっきはすみませんでした」
 
 舞香は冷めた鋭い目を森沢のつむじに向けて言った。
「どういう意味?」

「えっ」

「なんで頭下げるの?」

「えっと……」

「『あなたよりバスケの才能にめぐまれてすみません』ってこと?」

「いや、そんな、違います。新木先輩がその……泣いてしまったので」

「へえ。何であたしが泣いたら謝るの?」

「悲しい気持ちに……させたから」

「じゃあなんであたしが悲しんだと思う?」

 森沢は口ごもった。

「あなたの性格が悪いからとか、あなたが嫌がらしたからとか、そんなんじゃないよ?」

 森沢は黙ったまま、舞香のことを見つめていた。

「泣いたのは、あたしに才能がなかったから」

 森沢の目は急に力んだ。そして舞香に詰め寄った。

「新木先輩、バスケは才能じゃないと思います。"努力"だと思います。先生もそういってました」

 新木は頭ひとつ分大きい森沢の顔を見上げてながら言った。

「あなたはいつからバスケ初めてどれくらいなの?」

「中学から始めたのでもうすぐ一年くらいです」

「あたしは5歳からはじめて今年でバスケ歴は10年。これでも"努力"が足りないかな?」

 すみません、と森沢は小さく謝り続けた。

「本当に申し訳なく思うならさ……」

 森沢は怯えながらも言葉を待ち切れず舞香の口元を見た。

「もうぺこぺこ謝るのはやめてくれないかな? あんたの謝罪、ぜんぶズレてるから」

 舞香のツンっとした言葉を生身で受けるのは辛かった。
 森沢にとって謝罪の言葉は、舞香とのコミュニケーションを取る上でのクッションのような役割を果たしていた。だから、またしても口からこぼれてしまった。

「す、すい……」

 謝罪に代わる言葉を探していたら森沢の目から涙が落ちた。まっすぐな涙だった。しゃもじをこねくりまわすように涙を拭った。
 舞香は森沢の肩を両手でしっかり掴んだ。
「森沢、よく聞いて、森沢!」

「はい……」

「これまで通りプレーして。レギュラー獲ること、試合に勝つことだけ考えて。……あんたはバスケに向いてるんだから」

 森沢は何度も腰を折りながら絞り出すように言った。
「あ、ありがとうございます、新木先輩……」

「……泣きたいのはこっちだよ」
 舞香は自分のおデコの高さにあった森沢の肩をぽんっと叩いてその場を去った。



 後輩たちはその光景を固唾をのんで見ていた。舞香が遠ざかると、森沢のもとへ駆けつけた。
「大丈夫? 何かひどいこと言われたんじゃないの?」
「いや、違うの。私がぜんぶ悪くて」
「気にしなくていいよ。あの人、無駄に厳しいから」
「自分のプレーが上手くいかないのを後輩のせいにしてるんでしょ」
「だから、キャプテンに選ばれなかったの気づいてないんじゃない? あの人いるだけで息がつまるっていうか、雰囲気悪くなるよね」
 小さくなっていく舞香の背中を一年生はうとましそうに見続けた。



 夏。三年生最後の大会はあっというまに始まり、同日、終わった。
 舞香は、脱水症状と転倒による膝の負傷により、即、救急車で搬送された。退院後にバスケ部に顔出しすることは一度もなく、卒業を迎えた。

 高校は推薦入試で受かった。内申書には「女子バスケ部の副キャプテンとしてリーダーシップを存分に発揮しチームをまとめ上げた」と記載された。「一年生と二年生の頃のベスト16」という実績と「バスケ歴10年」の文言がいやに輝いていた。

 卒業するまで舞香を悩ませたのは、他人からの陰口なのか自分の被害妄想か定かではない言霊が、耳鳴りのように突如現れては消えていく、幻聴だった。

『あの三年入れるくらいなら二年の森沢入れたほうがよかったんじゃね?』

『あの子、顧問のお気に入りだったからしょうがないよ』

『人よりバスケ歴が長いだけで優遇されてもね。上手い人が可哀想だよ』

『10年? 糞ベテランじゃん』

『転倒してばっか。ファール狙いなのかな。マジでダサい』

『ボール触れないくせにいっぱしの司令塔気取りかよ』

『見て、またずっこけたよ。あぁ、泣いちゃって』

『初戦、敗退。最後の夏の大会でこのザマ。思い出に残るだろうね、トラウマとして。おつかれさん』

『もうバスケやめた方がいいよ。背が低いってマジでバスケ向いてないから』



 だから努力は嫌い。大っ嫌い。
 努力は毒だ。努力は酒だ。努力は薬物だ。
 人に努力をむやみに勧める奴は本当の努力の怖さを知らないんだ。
 向いてもいないことに半端に夢を見させる。
 夢から覚めて、何も残らない。

 今日も努力に励む子供たちは美しい。
 無邪気に努力を信奉して戯れる。
 しかし真に受けちゃあいけません。
 程よい努力、程よい夢中、程よい諦め。
 それが肝心です。
 ……みんなどうしてそんな器用に生きられるんだろう。

 自分の両手にあったもの、両腕で抱きしめていたもの、体全体でしがみついてたものが、ある日突然消える。その悔しさ、悲しさ、怖さをさらっと受け流せるのはなんでだろう。みんなが強いのか、自分が弱いのか、わからない。部活の挫折あるあるだよね、で笑って回収。到底できそうにない。

 もちろん、わかってる。スポーツごときに全人生かけて没頭してた自分が馬鹿だった。全人生というわりに全国レベルでさえないバスケの実力。地区予選敗退レベル。

 笑えるのが身長だよなあ。才能はたいてい目に見えないけど、身長は明らかじゃん。こんな鮮やかに視界に入る「非・才能」を見落としてバスケに没頭してたとか、ほんと泣けるほど笑える。

 10年費やして培った筋力やら体力やらもてあまし、ことあるごとにうずきだし、たびたび奇行に走らせる。何かにぶつかって止まりたい。だけど、他人も自分も、お互い器用に避けていく。幽霊の如き疾走。一体このスキル、どこに向かってんだろ。高校生活、ずっとこのままヘンテコなことして、終わるのだろうか。



 走ってたら疲れた。もう何も考えられない。やっと頭は空っぽになる。煮えたぎった衝動はいつのまにかどしゃぶりの雨の中で冷めていた。
 その時だ! 奇行の言い訳が思いついた。
 ……これでひとまず学校に戻れるに違いない。

『忘れる努力。そのおつかいに行ってきたんだ。雨の中、ひとっ走りね』
 
 気がついたらゴミゴミしていた商店街をとっくに駆け抜けていた。
 すでに雨上がりだった。静けさの漂う小道に入ったらひんやりした空気に触れた。
 ほてった頬のニキビがいち早く感じ取った。
 きっと近くに川がある。緑の斜面。土手が見えた。
 さて、小銭をひろいに行こうか。

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