人違いだと気がついて
忘れられない悲しさに
君を慕って歌っています
街の根雪に雨降りしきる
冬のさなかの朝でした
一月九日
田舎の雪が恋しい。東京は人間の住むところではない。殺伐として寒風が、今日もガラス窓を軋ませる。夏は夏で、吉田旺の『東京砂漠』になる。
田舎には従姉妹の墓がある。雪が深かったので、墓参にはゆけなかった。サルビアの花が好きな女性だった。そこで、木下龍太郎の『忘れな草をあなたに』のような歌が生まれる。
なつかしい なつかしい
君を尋ねて
もう一度 もう一度
逢いに来たけれど
想い出ばかりが
涙を誘う
あの窓辺に
サルビアの花が一輪
風に揺れていた
さあどうぞ さあどうぞ
お逢いください
あたたかな あたたかな
君のお母さん
微笑んだ写真に
お線香かおる
白い花瓶に
サルビアの花が一輪
赤く咲いていた
さようなら さようなら
過ぎし昔よ
もう二度と もう二度と
逢えないまなざし
いとおしさばかりが
心に熱く
あふれてきて
サルビアの花の優しさ
君に似て見えた
冬の田舎は深雪に抱かれ、白い頭巾を被った小人たちが寒風の中を繚乱する。藁の香りのする納屋に杉の薪柴を取りに行けば、ぷすりぷすりと藁沓の跡。白い頭巾を被った小人たちは、意地悪な木枯らしに白い道の表を這い駆け回る。積雪は雪の中にのめりこんだ後ろ足を引っぱり、急いでも、急いでも進まない藁沓。白い吐息、赤い頬、ひりひりする耳朶、感覚の失せた爪先。畑も小石も段々も、みんなみんなホンワリと、痘痕の化粧のように、白い白い衣を纏い、冷え冷えと嫋やかにうねる雪の表。さらさらと粉雪の吹雪く。ああ、かかる日のノスタルジア。そこで、バーバラ・ストレイザンドの『追憶』のような歌が生まれる。
白い手が見えなかった
お風呂上がりに巫山戯て着込んだ
白地にロゴのセーター
少し長すぎたから
悔しさが分からなかった
長いセーター袖口折り上げ
バドミントンの羽根を毟って
ブックエンドに並べたときの
心の扉のチャイム
鳴らし続けていたけれど
心の鎧はいつも
固く冷たく閉ざされていた
白い追憶
優しさが想い出される
雪の季節にいつ果てるともない
白い追憶 あなたの愛しさ
街には雪が わたしにはみぞれ
あなたが心のポケットベルを
鳴らし続けていたけれど
わたしの心は留守番電話
テープ戻して伝言を聞く
苦い追憶
あなたが今でも望むのならば
愛し続けているならば
わたしの心は電子のメール
すぐに駆けてくどんなとこでも
愛の追跡
冬の田舎は掘り炬燵を囲み、カタカタと木枯らしになる板戸に耳を傾け、春を待つのが日々の営み。掘り炬燵は田舎の社交場。虚飾も嘘もない全裸の会話。いま、一人の来訪者。コトコトと板戸を開け、パタパタと体に纏い付く雪を叩き落す。ポッポッと燃える燠の火。口笛を吹く火鉢の鉄瓶。ああ、かかる日のノスタルジア。
冬の田舎は風呂場の湯気が、窓の外の雪景色を背景に、ユラリユラリとフラダンスをする所。竈に投げ込む湿った杉の薪木、その吐く溜息が目に染みる。燃えろ、燃えろ、みんな燃えろ。赤く、赤く、灰燼になるまで。どんどんくべろ、薪木をくべろ。みんな、みんな燃え尽せ。寒い寒い冬を追い払うため、わたしの代わりに燃えとくれ。わたしのこの冷たい命。わたしのこの冷ややかな体。炎となってメラメラと燃え上がることを知らないこの唇。心の冬に冷やされて、硬い蕾の儘のこの胸。決して溶けることのない万年雪のようなこの心。みんな、みんな、燃えてしまえ。こんな体なんか、燃えてしまえ!ああ、かかる日のノスタルジア。
ああ、パリの空の下で身も心も焦がしつくすような、いずみあきらの『フランシーヌの場合』のような命が激しく燃え上がるような恋をしたい。ルネ・クレマン監督が『パリは燃えているか』を1966年に撮った後、1969年にフランシーヌは焼身自殺した。そこで、トム・ジョーンズの『ラヴ・ミー・トゥナイト』のような歌が生まれる。
あなたの瞳に燃える愛の野獣
わたしの涙に濡れる夜のしとね
そうよ ふたりの愛は今
熱く密かに燃え上がる
今宵こそは唇合わせ
ああ この髪に指を絡ませ
愛して あなた この胸に頬埋めて
愛して あなた 夜の帷 開くまで
夜の続く限りは抱き締めて 離さないで
あなた 愛して
あなたの 素振りに翳る愛の不安
わたしの 想いは揺れる恋の期待
早く 暖めてわたしを今
熱く口づけ 抱きすくめ
今宵こそは 愛の証を
ああ その指でしなう項を
愛して あなた この肌を掻きむしって
愛して あなた 朝焼けに染まるまで
夜の明けぬ限りは痺らせて 眠らないで
あなた 愛して
ふたりの 惑いを溶かす汗の滴
ふたりの 暦は流れ去って消える
なにも 言わずに愛は今
過ぎて静かに消えかかる
今宵だけは尽きぬ想いを
ああ この闇を燃やし尽くして
愛して あなた この胸の寒さ消して
愛して あなた 胸の傷 癒えるまで
心褪めぬ限りはここにいて 帰らないで
あなた 愛して
心褪めぬ限りはここにいて 帰らないで
あなた 愛して
あなた 愛して
二月十一日
憂鬱な試験が終わって陰鬱な彼と、ロートレック展に行った。アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥールーズ=ロートレック=モンファといえばバズ・ラーマン監督の『ムーラン・ルージュ』とジョン・ヒューストン監督の『赤い風車』を思い出す。わたしは後者の方が、主題歌ともども好き。考え方によっては、不具者は五体満足な人間よりも精神的に平静であるかも知れない。『五体不満足』の乙武洋匡はどう言うだろう。わたしのように、見方によっては、ある角度から見ると美人に見え、別の角度から見ると十人並みに見え、また他の角度から見ると不美人に見えるような顔の女は、相手がどの角度から見た自分を本当の自分と思っているのだろうかと、つまらないことで思い悩む。ところが、不具者は、だれが見ても不具者だ。誰も健常な人間とは見てくれない。だから、他人が自分のことをどのように見ているかと、推察して余計なことに頭を巡らせる必要はない。ジャン・ポール・サルトルは誰が見たってシモーヌ・ド・ボーヴォワールよりロンパリだし、だれが見たって彼女より小さい醜男だ。だから彼は他人の視線をあまり気にする必要はなかった。間違ったって、『制服の処女』のロミー・シュナイダーや『シェルブールの雨傘』のカトリーヌ・ドヌーブが彼にほのかに思いを寄せるなどと言うことありえないのだから。彼が文筆に専心できたのは、そのためかも知れない。彼が、『太陽がいっぱい』のアラン・ドロン(同じフランス人でも、何と異なることか!)のような美男子だったら、ジャコモ・カサノバのように、長い長い回想録をしたためていたかもしれない。あるいは、ジャン・ポール・ベルモントやスティーブ・マックウィーンのように気さくないい男だったら人生そのものを活動的に楽しんでいたかもしれない。アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥールーズ=ロートレック=モンファは、そういう心境で絵やポスターを描いていたに相違ない。いや、そういう心境だったからこそ、絵を描かずにはいられなかったのだ。
わたしの彼は、いつものように、腕も組まずにバラバラで鑑賞することを望んだ。彼と一緒にいても、わたしは少しも楽しくない。ウキウキするはずのこの種の出会いに特有な、胸の沸き立つ様なものがない。知り合った頃は、それでも、好意を持っていたけれど、矢張りフィーリングが合致しないとダメ。彼は、籠の中のゴールデン・ハムスターのように、回転するリンクの中で円運動をしているだけ。絵画の話にしてもそう。彼は予め回答を用意して、それから唐突にわたしに聞く。
「この絵のどこを見ている?」
熟考する余裕のないわたしが、時として支離滅裂なしどろもどろの返答をするのは当然のこと。それを彼は、
「違うな、そうじゃないよ」
と言って、わたしを蔑むように、自分の屁理屈を得意げに敷衍する。ところが、彼の話は、下手な役者の死んだセリフのように、聞き手の心に全然染みてこない。
「僕は絵の視点、光源を見る」
あなたの言の葉は、まるでわたしの心の琴線をつま弾かない。あなたは、国立西洋美術館の前庭にうずくまっているロダンの考える人と同じように「もの」でしかない。ジャン・ポール・サルトルの『嘔吐』のアントワーヌ・ロカンタンが見つめたマロニエの木の根っこのように、あなたは、そこに醜く存在するだけ。わたしの心を乱すこともしないし、わたしの体に触れることもしない。
あなたは、あなたの生命を賭すような理想を持っていない。あなたはただ、既成の、定年退職まで定められているエリート・コースを歩くだけ。あなたは、世間の選ぶものしか選ばない。本当は、あなたは、わたしが欲しいのでしょう?わたしの全てが。できれば手軽に。
でも、わたしは、あなたに心を許さない。だから、あなたはイライラしている。もし、そうでないとしたら、あなたは何故わたしとデートを重ねるの?あなたは、手を握ることすらしない。恰も不潔なことをするかのように。でも。あなたも結婚すれば、あなたの奥様と、きっと閨房を共にすることでしょうね。
あなたはだめ。あなたは失格。あなたには嘘が多すぎるのよ。あなたは、あなたではなくて、フランツ・カフカの『変身』のグレゴール・ザムザのように社会によってつくられた化け物なのよ。他人の目を気にし、『城』にたどり着くこともできずに、自分の生活に囚われている。さようなら。もう、別れる時が来たようね。あなたにこの歌を贈る。
俺は 俺はムシキング
毎日 毎日 虫かごの中
段々利口になってきた
無批判 無思想 無責任
サラリーマンに似てきたよ
ある日 ある朝 起きてみたら
どういう訳か変身してた
助けておくれと叫んだら
子供たちがやって来て
俺を箒で追い出した
なんと 俺は油虫
楕円の背中に 真っ黒い腹
目のない代わりに髭がある
トイレや台所 縁の下
人目をしのび こそこそと
何で変身したんだろう
この身に覚えが何にもないよ
この世に神様 仏様
いるのならばお願いだ
もとの姿に変えてくれ
俺は 俺はゴキブリだ
毎晩 毎晩ゴミ箱あさり
段々利口になってきた
身の丈 相応 分を知る
ホームレスに慣れてきた
ある日 ある晩 夜の散歩
いきなりあたりが騒がしくなり
誰かが叫んだゴキブリと
子供たちがやって来て
俺を箒で潰したよ
三月三日
彼と有楽町で映画を見る。腐れ縁とはこのこと。わたしはもう彼と一緒にいることに、何の感興も覚えない。だけどわたしは、他人が羨むようなブルジョアの娘で、何もすることがないし、他に誘ってくれる人もいないし、アルバイトの口もなければ、彼と会う以外に仕方がない。つまり暇つぶし。
スイスという西洋レストランは、なんて汚いのだろう。ビルとビルの間に挟まれて、改築のできなくなった陋屋だ。銀座にこんなお店があるなんて。床も板の間だし、二階なんか、窓枠もテーブルも傾斜している。でも、レストラン・オリンピックより安くて(と言っても銀座ではと言うこと)美味しい点だけ上等。その安いということも、いつも払うのは彼だから、わたしには関係ない。彼は、度外れた浪費家。そこを出てから、又、喫茶店マロン。彼は、コーヒー茶碗を傾けながら、こんなことを言っていた。
「僕は映画を見るといつもイライラする。何故って、映画の制作者は、ダブルベッドの中の男と女の心理を同時に分析する近世のフランスの三人称の心理小説(『失われた時を求めて』のプルーストは除く)と同じように、最後まで、その映像や画面がどのような角度から、どのような理由で、どのような統一性を持って撮られたものなのかが、一切説明されないから。ギリシャ劇場の舞台上の芝居を見ているという前提が二千年も続いている。僕が好きなのは、江戸川乱歩原作の『屋根裏の散歩者』という映画。あの映画では、主人公の目が、そのまま画面を構成していた。『椅子人間』もそうだ。カメラで映像を撮るのだから舞台上という制約を惰性で継承する必要はない」
彼の精神は少し、アブノオマルな気がする。皆がそうしているから、それでいいのではないのかという同調圧力を一切感じない神経のようだ。
喫茶店マロンを十時に追い出された。銀座といえども、この頃になると流石に殆どの大通りの店は、ネオンのみ残して、夜の帳のナイトガウンを纏う。それでも街路には、数時間前まで往来していた人々の吐息の残滓のせいか、人々の魂の空蝉のようなものを感じる。この雰囲気も、翌朝、遺失物横領の住所不定の人々が来るまでには、すっかり冷え切ってしまうだろう。そして、全ては一夜の濾過によって、過去の烙印を押される。そんな何の滋養もない所、昼は過密で夜は過疎の、都会という平和そうで少しも平和ではない虚構の上に構築されたマッチ棒の城。現代の寂莫たるカラコルム砂漠。心の潤いを求めて、北山修の『コブのない駱駝』のような人々は、阿部公房の作品群のように、様々な事物の意味性が次第に薄れて行くという、背筋が戦慄に打ち震えるような人間の過失に気付かない。例えば、際限のない欲望を満たそうとし、自動車がある限り隠滅するはずの無い自動車事故を皆無にしようとし、癌や動脈硬化が無くなったら、益々無為徒食の老人人口が増加すのに、寛解を求めて、それらの病気を治療し、完治し、征服する方法を探そうとしている。そんな中に、わたしと彼の一輪の財津和夫の『サボテンの花』が咲く。何もかも人工の物の中で育まれたわたしと彼の惨憺たる泥沼の様な心にもちっぽけなくすんだ色の花が一夜限りの月下美人の様に開く。恢廓たる現代とういう荒寥たる砂丘の庭に咲く一輪の花。一人の男と女とが花になると、それと同時に砂漠に生きていたことを忘れ、そこに差し込まれた香港の造花であること知らないだけに、客観的に見れば、憐憫の情に値する。砒素入りの粉ミルクを飲み、ゼンマイ仕掛けの玩具と戯れ、ユニクロの既成服を着て育ち、恋人ができると、金儲けのために建てられた映画館で、宣伝と内容の微妙に異なる映画を見て、金を搾り取るために作られた煌びやかなだけの店の前を闊歩し、自動車に道を譲らされ、恋人との語らいの場をコーヒー一杯で提供する喫茶店に入り、原価三十円のコーヒーを五百円で飲み、誰かさんの税金で舗装された道路を散策する。みんな他人が自分のために造ったもの。その中で男と女は愛を育てようとする。わたしの彼の愛はちっとも生育しない。担任の思う壺に嵌って、わたしたちはありもしない物を創ろうとし、他人の造った物に依存してまで育つ可能性のないものを育てようとして、時間を恰も無尽蔵の再生可
能エネルギーか何かのように無駄に浪費している。この映画を見れば、あの街角を散策すれば、あの喫茶店で語りあえば・・・、そういう常に一縷の望みを托して、わたしと彼は空しい出会いを繰り返す。そうやって、もう一年近くになろうとしている。気まぐれな私は、今日の気分では、小さな幸せが欲しい。明日はどうなるかわからない。今日というこの日は欲張らない。そこで、つつましやかな歌が生まれる。
暖かな春の道が好き
涼しげな夏の道も好き
だけど一番好きなのは
あなたとともに歩く道
この仕合せの小径
枯れ葉散る秋の街が好き
雪の舞う冬の街も好き
だけどなにより好きなのは
あなたと愛を語る街
この仕合せの小町
優しさが不意に絶えるとき
思いやる胸に風が吹く
だけどいつかは雪も融け
あなたとともにこもる小屋
この暖かな暖炉
一人ずつ生きる道がある
いつかまた逢える道もある
だけど私はただひとつ
二人でともに歩く道
この仕合せの小径