不器用なわたし達はそれでも先に



気分の悪い目覚めと共に、トラバーチン模様の天井と、カーテンレールに掛けられた白いカーテンが視界に入ってくる。

暖かくも寒くもなく、いかにも適切に管理されたであろう環境である匂いや音。すぐにここが病院だとわかった。

ーーそっか、たしか公式練習で転けたんだっけ。

頭を打つと、その時の記憶がなくなるなんて話はよく聞くけれど、わたしは打ち方が良かったのか、着地した瞬間にぐらりと視界が傾いたところまで鮮明に覚えている。

まだ頭がぼーっとしているから、ダメージはちゃんと残っていると思うけれど。

「彩叶。大丈夫か」

耳元から聞き慣れた声がする。

「京介……」

「よかった。お前、転倒してそのまま救急車で運ばれたんだぞ」

京介はよほど安心したのか、部屋中に聞こえる声ではーっと大きな溜息をついた。

「……ごめん」

「謝らなくて良いって。まずはゆっくり休まないとな」

休むったって、大袈裟な。

「もう大丈夫だよ。……っ!」

身体を起こそうとすると、右足首からズキッという感覚がした。

恐る恐る目をやると、右足首は包帯のようなものでぐるぐる巻きにされ、その上からは黒いサポーターのようなもので覆われている。

「え、うそ……もしかして……折れてる?」

血の気が引いた。折れていたら当分練習を再開できないどころか、当分スケートができない。全てが終わってしまう。

「いや、折れてはないよ。でも靭帯を伸ばしてしまってるみたいだからサポーターで固定してるんだってさ。病院の先生は二、三週間くらいで外れるって言ってた」

ーー終わった。

オリンピックを目指す私たちは、全日本選手権に出場することを目標にやっていた。その全日本選手権に出場するためには、東日本選手権で上位の成績を納めなければいけない。

わたしたちは高校二年生になって、やっとの思いで出場権を得た。

もちろん実力者がひしめく東日本選手権で上位になるのは簡単なことではない。けれど全日本選手権、そしてオリンピックを目指すわたしたちにとっては絶対に乗り越えなければいけない大会だった。

そんな大事な大会だったのに、本番を迎える前に病院に運ばれるって……

わたしは黙り込んでいると、京介もどんな声をかければ良いのかわからないのか。わたし達はしばらく黙り込んでしまった。


「彩叶!」

いきなりカーテンが勢いよく開いてびっくりしたら、お父さんとお母さんが血相を変えて入ってきた。

京介は椅子から立ち上がると、お母さん達に軽く会釈をしてから静かに病室を出ていった。

お父さんが「大丈夫か」と言っていたけれど、その声はお母さんの声にかき消されてしまった。

「もう……!なにやってんのよ!京介くんから救急車で運ばれたって連絡があって……お母さん達心配したんだからね!」

「ごめんなさい……」

「彩叶、もうわかったでしょ」

「わかったって……なにが?」

「もうこれ以上は限界なのよ。スケートはこれでもうおしまいにしなさい。あんたもう高二でしょ」

「……わたしまだまだやれるよ」

お母さんと考えが合わなくて反発するのが日課になっていたわたしの精一杯の強がりだった。

「またこうやってみんなに心配をかけるつもりなの?」

「それは……もちろん申し訳ないと思ってるよ」

膨れるわたしをよそに。お母さんは呆れたように大きな溜息を吐いてから、わたしにも理解できるようにと、ゆっくりした口調で話し始めた。

「大きな目標を持つのは悪いことじゃない。でも、いつまでも叶わない目標にしがみついていたら、何もかもが手遅れになるのよ。あんた来年受験生でしょ。そろそろ将来のことを考えなさい」

お母さんほど説得力のある人はいないと思う。だってお母さんはフィギュアスケートの日本代表候補にも選ばれるほどの実力の持ち主だったから。

でも、お母さんはスケートを続ける大変さを身に染みて感じているからか、わたしがスケートを続けることを快く思っていないみたい。

だけど今までわたしなりに頑張ってきたから意地だってある。

「お、お母さん達に迷惑かけてないんだから別にいいじゃん。スケートに必要なお金も自分でバイトして貯めたお金でやってるんだし」

「あんたまだオリンピック選手になるつもりでいるの?だったらそのやり方じゃ駄目なのよ」

オリンピックに出られる人は選ばれた才能ある人間だけだということは、耳にタコができるくらい聞かされてきた。

小さい頃からコーチに才能を見出された子は、毎日厳しい練習に励み、中学生くらいから全日本選手権の舞台に姿を現す。

しかも才能だけではだめだ。お金がいる。

リンクの使用量やコーチへの謝礼。衣装、遠征費……これら全てを自分達で賄わなければならないため、金銭的にも恵まれていなければいけない。

お父さんは小さな美容院を経営していて、お母さんは病院で事務の仕事をしている。妹の郁音(あやね)は今年から小学校になったばかりでまだ小さい。

でも、わたしはコーチもいなければ、毎日練習できるほどのお金もなかった。それに、うちはわたしが好きなだけスケートをするだけの金銭的余裕はなかった。

お母さんはスケートに関しては厳しく「自分でなんとかしなさい。でないとオリンピックはおろか、全日本選手権にも出られないわよ」

だからわたしは小さい頃はお小遣いやお年玉をためて近所の市営のスケートリンクに通っていた。

スケートをするためのお金は、学校の近くのカフェでバイトをして賄っている。練習メニューや演技の構成などは全部京介と一緒に考えながら作っている。

本気でやっている人からすればただのごっこ遊びのように見えるかもしれない。でもわたしたちは小さい頃から本気でオリンピックを目指してやってきた。

高校二年生にもなって地方の選手権からなかなか上に進めなかった。でも諦めずに続けて、今年ようやく東日本選手権に出場できるようになった。

「お母さん、彩叶が今まで頑張ってきたことはわかる。でも、これ以上は現実的に考えて無理なのよ。どこかで諦めないといけないの」

「でも、京介とも約束したし……」

「いつまでも京介くんが一緒にやってくれるとは限らないのよ」

いつものわたしならここで「なんでもお母さんと一緒にしないで!」って言い返すところなんだけど、完全に気力を使い果たしているのか、言い返す気になれなかった。

お母さんは久しぶりに見るわたしのシュンとした表情を見て少し驚いていたけど、納得していると思ったのか、下の売店に買い物に行くと言って部屋を出て行ってしまった。

「彩叶、お母さんはあんなこと言っているけど、毎日彩叶のことをすごく気に掛けているんだよ」

わたしが膨れていると、お父さんが慰めてくれた。

昔からわたしとお母さんが言い合いをしていると、必ず後からお父さんがフォローしてくれる。

正直なところお母さんとわたしは仲が悪いとは言えないかもしれない。

けれど、お父さんのおかげで家庭崩壊せずなんとか一緒に暮らしていけているんだと、たまに思う。

「わかってるよ……」

ベッドサイドからか細い声が聞こえてくる。

「……お姉ちゃん、転けちゃったの?」

郁音が泣きそうな顔をしてこっちを見ている。

「郁音。心配かけてごめんね。お姉ちゃん失敗しちゃった」

これ以上郁音を心配させたくなかったから、精一杯えへへと笑っておく。

一応郁音の前ではかっこいいお姉ちゃんとして振る舞っていたから、こんな姿のお姉ちゃんを見て相当大きなショックを受けているだろう。本当にごめんね。郁音。

そう。わたしは大事なところで失敗してしまった。ただそれだけ。

今まで大会本番では大きな転倒をしたことがなかった。というか、ありえなかった。もちろん今まで練習中には何度も転けていたし、競技中に細かいミスをしてしまうことはたくさんあった。

けど、本番になると持ち前の負けん気のおかげなのか、本番で失敗するなんてありえなかった。でも、今回は違った。

できることなら、もう一度やり直したい。


心配していた後遺症も無く、無事二日後に退院したわたしを待ち受けていたのは、やっぱりというか、大体は予想通りのものだった。

「緒環さん、大丈夫?」
「ありがとう、大丈夫だよ」

「無理しないでね」
「うん、ありがとう」

「残念だったね」
「そうだね……」

「元気出してね」
「うん……」

どうしてもその言葉についての余計な含みも想像してしまう。もちろん本人は励ましのつもりでかけてくれているのだとは思うけれど。

高校一年生になって徐々に地方の大会で結果が出てくると、新聞の地域情報や地元のニュース番組がわたしを取り上げてくれるようになった。

すると次第に他のクラスの先生や校長先生が声をかけてくれるようになる。

そして今回はわざわざ校舎に『2年3組 緒環 彩叶 フィギュアスケート東日本選手権出場!』の垂れ幕を飾ったり、校内新聞でも一面で紹介してくれたりするようにもなった。

もちろん注目されるといろんな人が応援してくれる。

でも、いろんな考え方を持つ人がいる学校では、必ずしも応援をしてくれる人たちばかりではない。

「まあお母さんが選手だったからね」とか「恵まれているからね」とか、そういう声をどんどん耳にする。

そして陰口を聞き流せるほどわたしは強くもなかった。

だから、この陰口に打ち勝つには結果で返すしかないと思って、ただがむしゃらにやってきた。

京介は「あまり周りを見返すとか考えながらやらないほうがいいよ」と言っていたけれど、この飛んでくる石のような言葉達を上手く原動力にしていかないとやっていけなかった。

そうやっているうちに、どんどんわたしは学校で浮いた存在になっていった。

「ほら、緒環さんってさ、最近先生にチヤホヤされて天狗になってたじゃん」

「オリンピック目指してるんだって?現実的に考えて無理なのわからないのかな」

ーー何も知らないくせに。

わたしが今までどんな思いでここまでやってきたのなんて知らないくせに。どれだけスケートに捧げてきたのかも知らないくせに。その言葉がどれだけわたしを苦しめているのかも知らないくせに。

いつもならお昼休みに京介のいる教室に行ってお弁当を食べながら動画で動きをチェックをするけれど、もうどうでもよくなった。

人通りの少ない中庭のベンチに行き、お弁当を広げる。一人でいると余計に虚しくなるけれど、教室にいるよりは数倍マシだ。


「彩叶、ここにいたのか」

わたしの行動なんてお見通しであるかのように、京介はわたしの前に現れる。

その声を聞いた瞬間ホッとしたような気持ちになったけれど、正直今はスケートのことを考えるのが怖かった。

「次の練習についてだけどさ、やっぱりーー」

「京介、もういいって」

「いいって、何がだよ?」

「もうスケートはおしまいにしよう」

「は?何言ってんだよ」

「ほら、わたしたちって来年受験生じゃん。お互いそろそろ進路も決めないといけないし」

「いや、冗談は良いから。ほら、この前の動画をチェックしーー」

「だからさ!もうおしまいだって言ってんの!」

京介は驚いた顔でわたしの顔を見ている。こうやってすぐ怒鳴ってしまうところがお母さんに似ている。わたしの悪い癖だ。

「……彩叶、どうした?いつものお前ならくっそーって言いながらすぐに練習しようとするのに」

「もうさ……わたしたちにはこれ以上は無理なんだよ」

「無理って……お前、やっとここまで来たのに。簡単に諦めんなよ」

「簡単にって……今まで必死に頑張ってやっとの思いで東日本選手権に出られたのに、転けてケガしてまた一からやり直し……もう出来っこないよ……」

「お前がそんなんでどうするんだよ。一緒にオリンピック行こうって約束したじゃん」

「もうさ……頑張れとか約束とかさ……いいよ。疲れちゃった……京介は良いよね。自分が滑るわけじゃないし」

言い過ぎてしまった。

京介は一瞬言葉を詰まらせたようだった。そして静かにノートを閉じて、小さく「ごめん」と言い残して行ってしまった。

風脚が強くなってきたのか、頬のあたりを冷たい風がぶつかった。


言うまでもなく、お昼休み以降は最悪の気分で、五、六時間目の授業中には何度も保健室に行こうと思った。

でも保健室に行くと、わたしのメンタルは地面に落ちて燃え尽きた線香花火のようになってしまうと思ったので、なんとか堪えた。

ようやく授業が終わると、誰とも話すわけでもなく、わたしは逃げるように学校を後にした。

「おい、お前!もしかして今から飛び降りるのか?」

歩道橋の真ん中でぼーっと車を眺めていたら、大学生くらいのお兄さんに声をかけられた。

癖毛が強いのか、ところどころ髪がぴょんとはねている。切長な目と整った鼻でいかにも美形と言った顔をしている。全身を真っ黒のマントで覆うあたりが残念な感じがするけれど。

「飛び降りると言ったらどうするんですか?」

「ちょうど良い!協力してくれ」

「……協力?」

「そうだ。心配すんな。俺の名前はハイデ。まあ悪いようにはしねえよ」

歩道橋下にあるチェーン店のカフェに入ると、店員さんに「お一人様ですね」って言われてカウンター席を案内された。

マントに覆われたどう見ても痛いコスプレをしているハイデさんに一切視線を向けていないのが不思議だ。痛すぎて眼中に入れないようにしているのだろうか。だったらその店員さんはなかなかの肝っ玉だ。

この人は異世界から来て時間を巻き戻せる力をもつ種族だと言っている。異世界では大人になるための通過儀礼で、一生に一度に限り人間界に送られる。

そして、死が身近に迫っている人間を一人見つけ、”巻き戻し”と呼ばれるタイムリープをさせる。その人間の人生が好転すれば儀礼の成功で、”大人”として認められる。

反対に、その人間が不幸になったり、タイプリープ前と状態が変わらなければ失敗とみなされ、一生”子供”として生きていくことになる。

もちろん人間にもペナルティはあるらしく、巻き戻しをした人間はハイデさんのいる異世界に送られ、一生あっちの世界で暮らすことになるんだとか。恐すぎ。

テレビとかで特集される神隠しにあった人は、儀礼に失敗して異世界に送られたからだということも教えてくれた。

ハイデさんの種族は古くからこの儀礼を行っていたらしく、歴史の授業で聞いたことがある偉人の名前も出てきて驚いた。有名人や偉人も人生をやり直していたんだね。

人間にとっては何とも理不尽極まりない儀礼だと思うけれど、人生をやり直せるチャンスがあるのなら、それに賭けたくなるのかもしれない。

「異世界の生活も大変なんだね」

「まあな。”巻き戻し”の能力を身に付けるには専門の施設で修行しなければならないしな」

「山籠りってこと?」

「まあそんなところだ」

「じゃあ時間もかかるんだね」

「”巻き戻し”の能力自体は、才能ある奴だと数年で身に付けられる。でも才能がない奴だと倍以上の時間がかかると言われている」

「ハイデさんはどれくらいかかったの?」

「俺は二年。師範には過去最短だと言われた」

「うげ……才能お化けじゃん……」

「ちょっと待て。俺はその分誰よりも訓練したし、暇さえあれば師範からもやり方を盗もうとしたし自分なりのやり方もずっと研究した。才能だけで片付けんな」

「……ごめんなさい」

ズシリと響いた。どうしてこんなことを言ってしまったのだろう。誰よりも努力の必要性がわかっていたつもりだったのに。

「そりゃ訓練はしんどいし習得には時間もかかるから、途中で投げ出す奴もたくさんいる。でもな、巻き戻しの能力自体は諦めなければ全員が習得できるんだ」

諦めなければ必ず習得できるんだ。なんて羨ましいんだろう。

「ただ、巻き戻しを習得できるのと大人になれるかは別問題だ」

「儀礼って、そんなに難しいものなの?」

「ああ。如何せん対象の人間が同じ過ちをしないように導かなければいけないからな」

失敗した人間の大体はプライドが邪魔をして上手く行かないことの方が多いらしい。

「せっかく戻ったのに、また同じ失敗をしてしまうってこと?」

「そうだ。人間ほど考え方が凝り固まっている生き物はいないからな。それを俺たちがどう導けるかどうかが、この儀礼の難しいところなんだ」

「大変だね……」

「だろ?だから最近は儀礼を拒否する奴や巻き戻し自体を習得しない奴が増えてきたんだ」

「あ、そうなの?じゃあ別にやんなくて良いじゃん」

「おいおい。儀礼を成功させなきゃ俺は一生子供のままだぞ」

「……成長できないってこと?」

「いや、正確には子供扱いされることになる」

「別に子供扱いされるくらいなら良いじゃん」

「いやいやいやいや!お前は全然わかってない!子供のままだと一生大人の言いなりなんだぞ!大人が間違っていても発言権がないから相手にされないし、おまけに結婚もできねえ!」

「結婚したいんだね……」

「そいつが子供のままで良いって思ってるんだったら別にそれで構わない。ただ生きていく分には困らないからな。でもな、子供のままじゃできないことだってたくさんあるんだ。俺は自分の好きなように生きるために大人になる」

「で、本題だ。俺が死にたがっているお前の時間を戻してやる」

「わたし、別に死にたいなんて思ってないよ」

「嘘つけ。俺は死が迫っている人間にしか見えないんだぞ」

やっぱりハイデさんの姿は他の人には見えていないんだ。それにしても、死が迫っている人間にしか見えないなんて、まるで死神みたいだ。

「え、でも失敗したらどうするの」

「説明したろ。俺は子供のままで、お前は俺たちの世界に送られるだけだ」

「ダメじゃん!わたし一生向こうの世界で奴隷なんてやだよ」

「おいおい、誰が奴隷扱いするって言った?」

「え……?」

向こうにはこの理不尽な儀礼に協力してくれた人間たちが暮らすもう一つの世界があって、人間界と何一つ変わらず生活ができるらしい。

しかも人間界にいた頃より少しお金持ちになったり、モテるようになったり、性格も良くなったり。境遇が良くなるようになっているんだとか。性格が良くなるって一体どういうこと?

ただし、儀礼に失敗してしまった人間は死神から恨まれることも少なくないから、会うことは許されない。

別にわたしは人生を後悔しているつもりはない。今までやってきたことが間違っていたとも思わない。

でも、失敗してしまった。周りの期待を裏切ってしまった。京介にあんなことを言ってしまった。もしやり直せるのならーー

「じゃ……じゃあさ。三日前に戻せたりする?」

「お、乗り気になったか。たった三日前で良いのか?」

「わたし、小さい頃からフィギュアスケートをしているんだけど、大事な大会前に転倒しちゃったんだ。だからその大会をもう一度やり直したい……」

「そうか。だから杖をついていたんだな」

「松葉杖ね……」

わたしはこれまでの経緯を説明した。

小さい頃からスケートをしていたこと。
お母さんがフィギュアスケートでオリンピックを目指していたこと。
才能もないしコーチを付けることもできなかったけど、京介とオリンピックを目指して一緒に頑張ってきたこと。
いつの間にかプレッシャーを感じ、滑るのが楽しくなくなってきたこと。
大会で頭が真っ白になって転倒してケガをしてしまったこと。
自分はもう限界だと思いはじめてきたこと。

「なるほど、それで死にたがってたんだな」

「だから死にたがってないって!ちょっと落ち込んでただけ」

「別に人間なんだから死にたくなることだってあるだろ。恥ずかしいことじゃねーよ」

「す……すごい偏見……」

「俺の世界ではそう習ったぞ。人間なんてのは弱っちいから、失敗したり思い詰められたりすると、すぐに死にたがるって」

「う……言い方雑だけど、わからなくもない……」

「ったく。俺たちはなんでそんな弱っちい人間を助けなければいけないのか理解できねえ」

ハイデさんは吐き捨てるように言った。

「お前は本当に三日で良いのか?人によっては何十年も前に戻して欲しいなんて言う奴もいるが」

「何十年も?︎」

「ああ、まあでもそんなこと言うのは大体良い年した人間で、若かりし頃に戻って全部やり直したいってのが多い」

「そ、そうなんだ……何十年も時間を戻すのはやっぱり大変なの?」

「そりゃな。でも何十年戻そうが三日だけ戻そうが、人生が好転するかどうかは別問題だ」
「どういうこと?」

「長い時間を巻き戻したからと言って状況をガラリと変えられるわけではない。逆にガッツリ時間を巻き戻したいと思っている人間ほど、考え方は凝り固まっているから失敗しやすい。おまけに好転したかどうかを見極めるのにも年単位の時間がかかるから効率も悪い」

「げ……」

「まあ俺達は人間の三倍は長生きするからな。その辺は心配すんな」

ビシッと親指を立てているけど、別にそんなに長生きしたいと思わないから羨ましくもなんともない。

「話を戻すぞ。お前は三日前の大会にもう一度チャレンジするつもりなんだな」

「うん」

「じゃあ成功条件は”大会で転倒せず演技を成功させる”になるな」

「優勝することじゃなくて?」

「優勝することは転倒せず演技を続けた先の結果だから関係ない。三日前に戻るくらいならそこまで高いハードルは設定されてないだろ。てか、転けなかったら優勝できるとか、随分自信があるんだな」

「う……」

「優勝を目指すのは悪くない。でも、その前にまず転倒せず最後まで自分の演技をやり切ることだけを考えるんだ。それだけで状況は大きく好転する」

「でも……それじゃ駄目……」

「欲張りすぎんな。お前はそれで失敗したんだろ」

「ご、ごもっともです……」

「それと、一つ忠告しておくことがある」

「な……なに?」

「時間は巻き戻るがお前の記憶は巻き戻らない。失敗した今の記憶もしっかり頭の中に残るわけだ。これがどういうことかわかるか」

「転け癖が付いているかもしれないってこと?」

「そうだ。失敗から上手く学んでやり直せば好転させることは難しいことじゃない。だがお前のパターンは、おそらく原因の大半がその豆腐メンタルのせいだから対策は相当難しいぞ」

豆腐メンタルで悪かったね。

「そんなに難しいの?」

「二回目だから単純に場慣れして成功できるかもしれない。だが、失敗した感覚を引きずって入れば、同じようなシチュエーションで再び転倒することもありえる。メンタルの問題は意外と馬鹿にできねえから今回の挑戦は意外と難しいぞ」

「そ、そんなに難しいんだったら、今からでも他の人に変わった方がーー」

「アホか。俺は一度決めたことは曲げねえ。それに、これくらい難しい案件の方が燃えるだろう。お前だって本気でスケートをしてきたんだったらこの気持ちが少しはわかるだろ」

ハイデさんはもともと細い吊り目をさらに細めてにやりとした。

ーーああ。その目は自分は絶対に成功すると確信している目だ。日本を代表するトップスケーターも同じような目をしていた。

「でも、意外だな」

「何が?」

「大抵の人間は巻き戻しの際に失敗する出来事自体を避けようとするらしい」

「無かったことにしてしまうの?」

「そのほうが楽だからな。でもお前は失敗したことにもう一度挑もうとしている。なかなかガッツあると思うぜ。豆腐メンタルでバカだけど」

「バカは余計……」

「お前、名前は?」

「緒環 彩叶」

「サイカ?ずいぶん才能に溢れた名前だな」

ーー才華じゃない。

「さ・い・か!漢字で書くとこう!」

わたしは指で空中に漢字を書いて訂正する。

「よくわかんねーけど、なかなか格好良い名前じゃん。よろしくな、彩叶」

ムカつくけど、ストレートに名前を褒められるとちょっと嬉しい。

「巻き戻しには一週間かかるから、その間にできることはやっておけ。俺は一旦元の世界に戻って儀礼開始の申請をしてくる」

「申請って……手続きがあるんだ」

「おう。向こうで誓約書を書かないといけないし、巻き戻しの計画書も提出しないといけない。お前に書いてもらう書類もあるからな」

「うえ……わたしも書類を書くの?」

「簡単なエントリーシートみたいなもんだ。それと、一応お前があっちの世界に行くためのチケットも予約しておくからな」

「ちょ……わたしはもう失敗しないって!」

「儀礼をするにはチケットの予約も必要なんだ。てか、俺が大人になれるかどうかがかかってんだぞ!失敗したら承知しねーからな!」

「わ、わかってるって!」

カフェを出るなりハイデさんはすぐに半透明になって消えてしまった。これはただの夢だったのではないか。でも仮に夢だとしたら、ここまで鮮明に覚えてはいないだろう。

正直勢いで言っちゃったのもある。そもそもあのプレッシャーの中でもう一度演技をすることなんてできるのだろうか。

しかも今回はハイデさんの人生も背負っていることになるんじゃ……ちょっと吐きそうになってきた。

でも約束したし、時間もそんなになさそう。迷っている場合ではない。


わたしはもう一度大会が行われた会場に行き、リンクの大きさや氷の質を改めて確認することにした。

こうして自分が滑る意外でリンクを訪れるのはいつぶりだろう。

いつもは競技前になると、スケート資金を貯めるためにバイトに追われているわたしに代わり、京介が会場に行って写真や動画を撮り、学校の休み時間に見せてくれていた。

一見すると、スケートリンクは限りなく平らに見える。でも実際に滑ってみると、所々凸凹していたり、傾斜があって、それを考慮して滑らなければならない。

これはかなり些細なもので、ただ滑る分には特に気にしなくても良い。

でも、演技をするとなると話は別だ。傾斜を利用してスピードを乗せることもあるし、反対にジャンプ時に些細な凹凸に足を取られ、バランスを崩してしまうことだってある。

もちろん競技の時はリンクが一度整備されるから、今の状態と同じとは言えない。

けれど傾斜の傾向や水が溜まりやすいところは大体同じだから、下見をしてリンクの特徴を掴んでおく必要がある。

ーーあいつ、こんなに細かいところまで見てたんだ。

まじまじとリンクを見つめてみると、京介が事前に教えてくれた情報がいかに正確であったのかがわかった。

一通り見て回ったら一番上の階のスタンドに行き、ベンチに腰掛ける。

休日の会場は一般開放されているようで、たくさんの人が滑っていた。

小さい子供がお母さんと手を繋ぎながら、滑っている。転んでもキャッキャと笑いながらすぐに起き上がっている。

その隣では、大学生くらいのカップルが、おっかなびっくりしながら滑っている。きっと今日初めて氷の上に立ったのだろう。

長年スケートを競技として続けていたからか、嫌でも上手い人と下手な人の区別が付いてしまう。でも、当の本人たちにとってはそんなことはお構いなしで、ただ滑ることを楽しんでいる。

「……良いなあ……楽しそう」

「お前は楽しくないのか?」

「わあ!びっくりした!」

突然隣後ろから声が聞こえてきたと思ったらハイデさんが座っていた。驚きのあまり隣のベンチに立てかけていた松葉杖を蹴飛ばしてしまった。

清掃員さんが不思議そうにこちらを見ていたからわたしはあははと笑ってごまかしておく。もう!登場する時はいつも突然なんだから!

「もう手続きは終わったの?」

「おう。巻き戻しの日程も決まったぞ。三日後だ」

「意外と早いね」

わたしの場合はあまりにも直近であるため、巻き戻し実行のための準備時間も短めに設定されたらしい。

「余裕なんてねーぞ。頑張れよ」

ハイデさんはまるで人ごとかのように笑いながら「へー!これがスケートリンクってやつか」と物珍しそうに眺めている。あなたの人生がかかっているんですけど……

「それで、何か収穫はあったか?」

「えっと、わたしが滑るルートの特徴は復習できたよ」

会場のお客さんはいないけど、その雰囲気はこの前経験したから大丈夫だろう。

「ふむ、悪くはないが、それは巻き戻しをしてからでも出来るんじゃないか?それよりもっと根本的な対策をした方が良くねー?」

「根本的なこと?」

「彩叶。お前は行動力や負けん気はある。もちろんそれは誇れることだが、肝心な自分自身のことを全然理解できていない」

「自分自身のこと?」

「そうだ。お前が転けたのはリンクのせいでもないし、スケート靴のせいでもないと思うぞ。話を聞く限りそもそもお前は珍しく緊張していたんだろ。その原因を探った方がいいぞ」

「うーん……どうしてだろう。色々重なったのがあると思う」

「その色々を解決した方がいいぞ」

「もうちょっとヒントをくれても良いじゃん」

「それじゃお前の為にならねえだろ。考えろ」

ハイデさんってわたし自身の問題に関しては自分で解決しろの一点張りだ。絶対に失敗できないのなら、もうちょっと助けてくれても良いじゃん。なんて言ったらまた怒るだろうけど。

「ハイデさんは緊張しないの?……失敗するのが怖くないの?」

そもそも巻き戻しは失敗したら人生が大きく変わってしまうほどの一大イベント。ハイデさんもわたしと似たような状況じゃないか。

「怖いぞ」

ーーえ……?

意外だった。

強気ですぐわたしのことをバカにするからてっきり「怖くなんてないだろバカ」とか言うと思ったのに。まさかハイデさんの口から怖いなんて言葉が出てくるなんて。

「なんだよ。その顔は」

「だって……」

「そりゃ怖いに決まってんだろ。しかもこの儀礼は俺の力じゃどうにもできない要素も含んでいるから、余計に怖えよ」

「わたし次第ってこと?」

「そうだ。お前自身がなんとかしないと成功できない」

「うう……これ以上プレッシャーかけないでよ」

「あのな。それはお前が勝手に感じてるだけだろ」

ハイデさんは大きくため息をついた。

「俺は誰よりも訓練したし、失敗もたくさん経験した。やれるだけのことはやってきたんだ。だから怖がっていてもしょうがない。あとはやるだけだ。だからお前も自分のやることに集中しろ」

一体どれだけやればハイデさんのように言い切れるんだろう。

わたしはどれだけ練習しても自信なんて付かないんですけど……

「安心しろ。仮にお前が失敗したとしても別に恨まねえよ。失敗した時は、単に俺の見る目がなかったってことだ」

「そんな簡単にわたしに任せちゃっていいの?ハイデさんだったらわたしが成功できるように導けるんじゃないの?」

「他人の問題に介入してもろくなことは起こらねえ。それに、もし仮にお前が俺の言う通りにして上手くいったとしても、お前自身の力で解決した訳じゃないからその先でまた躓く。それじゃ意味ねえだろ。それに、俺はお前なら上手くできると思ったから声をかけた」

「そ、それはどうも。ハイデさんって良い人だね」

「はあ?今頃気付いたのか」

「だってわたしのことをこんなにも考えてくれてるし」

ハイデさんに言い切ってもらえると、なんか本当に大丈夫な気がしてくるから不思議だ。

「お前、一番大事な奴を忘れてないか」

「え?誰?」

「誰って、お前には誰よりもお前のことを考えてくれる奴がいるじゃないか」

「……京介のこと?」

「そうだ。小さい頃からお前のことをずっと応援してくれてんだろ。一つ助言をするとすれば、京介とさっさと仲直りしておくことだ」

「え?どうして?巻き戻せるなら別に良いじゃん」

「あのな。お前が本当に豆腐メンタルだったら、そいつとの関係が拗れたまま巻き戻しても、京介を見たらいらん事考え始めるだろ。そんな状態で大会に挑んでもまた失敗をするぞ。もう一度言うが、時間は巻き戻るがお前の記憶は消えない。スッキリさせた状態で巻き戻した方が良いだろ」

「あ、そっか」

「おいおい、同じ失敗をしてもらっちゃ俺が迷惑被るんだ」

「うう……でも、ちょっと気まずいかも……どうすればいいの?」

「そんなもん自分で考えろ!バカ!」


京介とは喧嘩をした日以来一切連絡をしていなかった。どうしているのか気になって放課後にさりげなく京介のいる隣のクラスを覗いてみたけれど、京介の姿はなかった。

休んでいるのかと心配になったけど、窓から体育の授業をしているところや、お昼休みに購買で友達とパンを買いに行く姿を見ているから、どうやら学校には来ているみたい。

どこにいるんだろう。って、わたし京介のことめっちゃ見てるじゃん。

「話があるから放課待ってて」ってメッセージを送れば済む話なんだろうけど、時間が経てば経つほど送信ボタンが押せなくなってしまう病にかかったわたしはもう末期の状態だったから、この方法は使えない。何か別の方法を考えよう。

後をつけてみる?さすがにこれはストーカーになるのでは。でもどうせ時間を巻き戻してなかったことになるからまあいいか。うーん……松葉杖をついているわたしが京介を追いかけるのは大変そう。却下。

「いらっしゃ……あら、彩叶ちゃん。しばらくお休みするんじゃなかったの?」

「えへへ……今日はお客さんとして来ちゃいました」
学校は居心地が良い場所ではないし、家に帰る気分でもなかったから、わたしは結局いつものバイト先のカフェに行って作戦を立てることにした。

わたしはバイト先の先である安藤さんのお仕事の邪魔にならないように、一番端のカウンター席に座る。

「はい、いつもの秋風ブレンドね」

安藤さんは注文を聞く前にわたしのお気に入りメニューの秋風ブレンドを置いてくれた。

うちのお店はオリジナルのブレンドコーヒーに春風、夏空、秋風、冬空とそれぞれ名前が付けられていて、わたしがほんのり甘みがある秋風ブレンドがお気に入りだと言うことを知っているみたい。

「ありがとうございます」

「彩叶ちゃんの元気そうな顔が見られてよかったわ。ゆっくりしていってね」

足のことを聞かず、いつものように接してくれるのが嬉しい。

「そう言えば、最近京介くんがよくうちに来てくれるわよ」

「え?京介が?」

まあ、幼馴染の京介のことを逐一報告してくれるのもまた安藤さんらしいところでもある。

「最近の彼、たくさんノートを広げたり、熱心にパソコンで資料を作っていたりして忙しそう。学校の宿題かなにかかしら」

宿題?そんなのあったっけ?

「いらっしゃいませー。あら、京介くん」

「こんにちは」

噂をするとその人が現れるというのは本当らしい。お客さんが入ってきたと思ったら京介だった。気まず……

「京介くん!彩叶ちゃんが来てるわよ!」

わざわざ呼んでくれなくても……いや、安藤さんは悪くない。悪くない。

唇をひくつかせながら京介に「よ……よっ」って、なぜか男子みたいな挨拶をしたわたしを見た安藤さんは、数秒間目をしばたつかせてから、すぐに何か閃いたような顔をする。

「あれ、彩叶?……もうバイト再開してるのか?」

どんな反応をすればいいのかわからないわたしと対称的に、京介はいつもと変わらない反応をしてくれた。わたしを覆っている薄い膜のようなものが一枚剥がれたような気がした。

「あ、えっと、ただ単純にお客さんとして来ただけ」

「そっか」

とはいえ、ぎこちない空気はまだしっかり残っている。短い会話を終えると、京介は奥のテーブル席の方に行ってしまった。

あれほど一緒に過ごしてきたのに、一回の喧嘩でこんなにもぎこちなくなってしまうんだ。

せっかく京介を見つけたのだから、これは仲直りするチャンスなのではと思ったけれど、ここから先の攻略方法はわからない。

「ねえ彩叶ちゃん。これを1番卓に持って行ってくれる?」

「良いですけど……え?え?」

ちびちびと秋風ブレンドを啜っていると、安藤さんが香りでわかる。安藤さんの顔を見たら大きな瞳をパチンとして、「あたしが手が離せなくてお願いしたことにして良いから」と言って、お盆に置かれたコーヒーを渡してくれた。

高一の頃から働き始めているから、どのコーヒーなのかは香りでわかる。これは京介が好きな冬空ブレンドだ。

安藤さんにはわたし達の関係がお見通しのようだ。が、頑張ります。

「お、お待たせしました」

「あれ?彩叶、今日はお客さんじゃなかったのか」

「だって……安藤さんにお願いされたから……しょうがないじゃん」

「なんだそれ」

京介も気にしているのか、いつもに増して口数が少ない。けれど、「なんだそれ」が少し笑っていたように思う。

だから胸の内からじんわりと温かいものが湧いてきて、再びわたしを覆っている膜のようなものが一枚剥がれた。

机の上に無造作に散りばめられたノートやパソコンを隅に追いやって作ってくれたスペースに置く。京介はわたしの目を見て「ありがと」と言ってくれた。

「さ、最近は忙しいんだね」

「ああ、やることはたくさんあるからな」

「宿題が溜まってるの?」

「いや、宿題じゃない」

いつものわたしならじゃあなに?と問いただすのだけれど、これ以上を聞くのは違うなと思ったから、やめた。

「そっか……大変だね……じゃあ、また」

「ん。サンキューな」

会話が、終わってしまった。安藤さんが作ってくれたきっかけが無に帰してしまった。

「どうだった?」

「上手くいきませんでした……」

なんでか知らないけれどちょっと楽しそうな安藤さんに報告をする。

「そーお?京介くん、喜んでたと思うけどな」

しばらくして京介は電話が鳴ってきたらしく、安藤さんに「ちょっと電話で席を外します」と言って出て行ってしまった。

と思ったら、慌ててノートとパソコンをカバンに詰め込んで、すぐにお会計に向かってしまった。

「ごちそうさまでした。お会計お願いしまーす」

「はーい!」

「450円になります。いつもありがとね」

「こちらこそ」

「最近随分と忙しそうね」

安藤さんが京介に盗み聞きはいけないとわかっているのだけど、どうしても会話が耳に入ってきてしまう。

「来年のために色々準備をしているんです」

「来年?何かあるの?」

「はい。大事な大会がーー」

大会?京介って、何か大会に出ていたっけ?まさか、そんなわけ……

「そう、出られると良いわね!頑張って!」

安藤さんがわざとらしくわたしに聞こえるようにも言った。

「きっと大丈夫です」

淀みない京介の返事を聞いたら、わたしの心臓の鼓動が大きくなった。

ーー京介は待っている。

嬉しいのか、照れくさいのか、怖いのかわからない。

結局のところわたしはどうしたいのか、わからない。

「彩叶!コーヒーありがとな。じゃ!」

「ど、どういたしまして」

扉に取り付けられた鈴が鳴る。扉がばたりと閉まったら、安藤さんがニコリとしながら「ほらね」と言った。

「早くケガを治さなくちゃね。京介くん、待ってるわよ」

「安藤さん……わたし……」

突然声がつまって、言葉が出てこなくなった。

言葉の出てきたものが頬のあたりをすーっと流れて道ができた。やがてその一本の道を次々と流れ、やがて机の上にポタポタと滴り落ちる。

「彩叶ちゃん……」


勤務時間を終えた安藤さんは、私服に着替えてわたしが座っている隣の席に座る。

「……安藤さんも応援してくれてたのに、本当にすみません」

「いやね!彩叶ちゃんが謝ることないじゃない!」

「うう……わたし、なんかもう全部嫌になって、京介にスケートやめるって言っちゃったんです。それから全然話さなくなって……」

「そうだったの……」

「きっと京介くんは、あなたが今苦しんでいることはわかってるんじゃないかな。その上で、もし彩叶ちゃんがスケートを続けたいって行った時に、もう一度挑戦できるように準備してくれているんだと思う」

「最終的にどうするのかを決めるのは彩叶ちゃん自身。でも、彩叶ちゃんの周りには、敵じゃなくて、味方になってくれる人がたくさんいることを忘れないで」

「はい……」

「もし彩叶ちゃんがスケートを続けるなら、私は今よりもっと応援しちゃうかも!じゃあね!」

「安藤さん、聞いてくれてありがとうございます」


わたしは本当にもう一度やり直したほうがいいのだろうか。

京介はこの前の出来事から前を向こうとしているのに、わたしは過去に戻ってなかったことにしようとしている。

今のわたしは戻ることではなくて、ここから先に進むことではないのか。

「彩叶、準備できたぞ」

家に帰ってベッドに寝転んで天井を見上げていたら、ハイデさんが現れた。

「ハイデさん、やっぱりわたし、巻き戻しできない」

「は?今更何言ってんだ?ビビったのか」

「そうじゃなくて……わたし、やり直すんじゃなくて、今の状態から先に進まないといけない気がするの」

「は?ふざけんな!せっかく準備したのに、お前は全部台無しにするつもりか!」

「……ごめんなさい」

妬まれても良い、なじられても良い。だってハイデさんはわたしを信じて準備をしてくれていたから。それを裏切ってしまったから、当然その報いは受けるつもりだ。

でもハイデさんは、しばらくわたしの目をじーっと見たあと、

「あっそ。もういい。勝手にしろ」

とだけ言い残し、すぐに消えてしまった。

これだけあっさり消えてしまうなんて予想していなかったから、余計に罪悪感が湧いてきた。

でももう言っちゃったからやるしかない。明日京介に会って謝ろう。もう一度わたしとスケートをやって欲しいと伝えようーー


久しぶりに目覚めが良かったのか、いつもより頭がスッキリしている。

いつもより少し早めに学校へと向かう。

途中、少し離れたところで救急車のサイレンが止まった。近くで事故でも起きたのだろうか。大した事がなければ良いけど。

隣のクラスがざわついているのに気が付いた。京介のクラスだ。何かがおかしい。

そのおかしい感覚が段々と嫌な予感に変わっていくのに気が付いた。でも、その予感は、すぐに確信に変えられた。

「白妙くん、今朝学校に来る途中で事故に遭ったんだって」

「救急車で運ばれたみたいだけど、なんかヤバいらしいよ」

ーーえ?

通学途中に聞いたサイレンの音は、京介だったんだ。

「先生!白妙君って事故にあったんですか?」

ショートホームルームで畑中君が魚住先生に聞いた。誰もが気になっていたことだったから、教室は一気に静まり返った。

魚住先生は、ちょっと面倒臭そうに

「さあな。何も聞いていない」

と言っていたけど、畑中君はさらに畳み掛ける。

「でも荒牧さんが救急車で運ばれてたのを見たって言ってましたよ」

「あー。そうだ。通学途中で事故にあったみたいだ。今担任の斉藤先生が病院に行っている。詳しいことはまだ何も聞いていない。以上」

先生はそう言って、必要最低限の連絡事項だけ伝えると、まるでこれ以上聞かないでくれと言わんばかりにそそくさと教室を出て行った。

でも、生徒の情報収集能力を舐めてはいけない。例え職員室で話そうが、その話し声は生徒の誰かに必ず漏れている。

そしてお昼休みに、とうとう一番聞きたくない噂が入ってきた。

「白妙君、亡くなったんだって」

その後の学校の記憶はない。気が付くと、制服を着たまま、部屋のベッドの上にいた。

そしたらお父さんが部屋に入ってきて、あらためて京介が亡くなったことを教えてくれた。

そこからの記憶は、ない。


ようやく見つけた彩叶のコーチを引き受けてくれるかもしれないという人。今から会って話をしたいと電話がかかってきたから急いで行かないと。

なんて思っていたのに、突然全身を黒いマントで覆われた人に絡まれてしまった。

「おい、お前、確か京介だったな。俺が見えるか?」

「誰ですか?」

こっちは一分一秒も無駄にしたくないというのに。まったく勘弁してほしい。

「お前、俺が見えるんだな」

「は?何をいきなり……」

「京介。お前、近いうちに死ぬぞ」

いやいやいや、いきなり見えるかとか言ったと思ったら、今度は死の宣告ですか。

「あ、てか、今はそんなことを言いたいんじゃない。お前に聞きたいことがあるんだ。京介、お前はどうしてそこまでして彩叶を支えようとするんだ」

「あなたは彩叶の知り合いですか?」

「知り合いっちゃあ知り合いだな。あいつのことはよく知っている。教えてくれ。お前は何でそんなに彩叶のことを気にかけるんだ」

「……小さい頃に約束したんです」

どうして知らない人にここまで話さなくてはいけないのだろう。

でも、自分自身の心がポキっと折れてしまわないためにも、口にしておきたいと思った。


彩叶と僕は小さい頃に家の近くのスケートリンクで出会った。今思えば、近くに市営のスケートリンクがあるのは、なかなか珍しい環境だったかもしれない。

僕が物心付いた時には、既にお父さんがいなかった。

お母さんはお父さんのことを話したがらなかったから詳しいことは知らないけれど、どうやら僕が生まれてから仲が悪くなったみたい。

僕が赤ちゃんの時は働きに出るお母さんの代わりにおばあちゃんが僕の面倒をみてくれていた。

お母さんは、僕を育てるために朝から晩まで働き詰めの毎日を送っていた。

それでも土曜日には必ず休みを取って、近くのスケートリンクに連れて行ってくれた。それが何よりの楽しみだったのを覚えている。

休日のスケートリンクは一般開放されていて、スケート靴のレンタルもしている。市営だけあって、金額もさほど高くなく、家の近くで安全に楽しめる施設としてもってこいのところだった。

そこでは月に一回子供向けにスケート教室が開かれていた。

僕がスケート教室の方を見ていると、お母さんが「もしかして京介も教室に通いたいの?」と聞いてきた。でも、僕はスケート教室はお金がかかることを知っていたから「ううん、そんなことない」と言って、首を横に振り続けた。

その後も何度かお母さんは僕に訪ねてきたけれど、僕は頑なに首を振り続けた。

やがてお母さんは土曜日にも仕事が入ったと言って、一緒にスケートリンクに行くことはできなくなった。その辺りからだろう、僕とお母さんの間に距離ができてきたのは。

それでもお母さんは僕がスケートリンクに行くためのお金は欠かさず渡してくれた。

でもお母さんと滑るのが楽しかったから、一人で滑る気なんて起きない。次第に僕はスケートリンクには足を運ぶけれど、リンクサイドのベンチに座って、楽しそうに滑っている人達を眺め続けて過ごしていた。

たくさんの人の滑り方を見ていると、自然と次第に誰が上手いのかがわかるようになってくる。僕は自分が滑ることより、人が滑っているのを見るのが楽しいと思うようになった。

最初のうちはスケート教室に通っている同年代の子達を見るのが好きだった。

でも、次第に彼らは先生の言われることを忠実に守り、みんなで同じような動きをしているということに気が付くと、スケート教室の子供達を見るのはすぐに飽きてきた。

その辺りからだろう。同い年くらいの女の子が一人でフリースペースを滑っているのに気が付いたのは。

その子は、隣で行われているスケート教室の生徒がしているジャンプをそれっぽく飛んでみたり、見よう見まねでステップを真似たりしている。そしてよく盛大に転ぶ。

ステップもジャンプもあまりに不恰好で、見ているこっちが恥ずかしくなる。おまけに何度も盛大に転ぶから膝は真っ赤になっているし、服はベタベタになっている。

でも、その子は何度も転けては起き上がりを繰り返す。

しかも思い切りが良くて、偶然成功した時は、周りの人が「おおっ!」と叫んでしまうほど目立っていた。

その表情は、いつもスケート教室に通っている子達よりも真剣そのもの。

上手くいけば一人で「やった!」と言いながらガッツポーズをし、失敗すると「あーもう!」とか「くっそー!」とか言いながら小さい拳で地面をダンと叩き、何度も立ち上がる。

ちょっと引いている人もいたけれど、いつしか僕はその子をずっと目で追うようになっていた。

そして少しづつ隣のスケート教室に通っている子達よりも上手くなっているのにも気が付いた。