その頃、園町ではちょっとしたうわさが流れていたそうだ。
私は知らなかったけど。
そう、それはご推察の通り、例の、園町で制服姿のうちの学校の生徒がウロウロしていた件なんだけど。
私たちが住んでいるとこに一番近い大きな繁華街であるJR園町駅は、東京の郊外みたいなところで、新宿と同じくらいのデパート数やショップやモールの数がある。私たちが住んでいる桜駅からは3駅目。急行で10分、各駅で16分なので、とても便利。
ここにはJR以外にも複数の私鉄、バスが乗り入れているし、大きな企業の支社もたくさんあるし、かなりの大都市って行ってもいいような気がする。実際、必要なものは何でも揃うし、流行っているおしゃれなものもたくさんあるし、ネットなんかで話題になるたいていのお店と品物は揃ってる。
ただ、その繁華街エリアは、都心などに比べるとかなり狭いので、ショッピングモールや塾や予備校などと一緒に大人向けのお店も園町の中で一緒に揃っているわけ。
うちの学校の生徒で電車通学をしてくる子は、一旦、園町で乗り換えするので、多くの生徒は、園町にある塾なんかに通ってる。だから、聖レイジス学園では、在学中、18時以降に園町を制服で歩くときには、学校からの証明書が必要なの。
例えば、塾や予備校の18~20時の授業を受けていて、帰宅経路はこうですっていうようなことを証明するための届けを学校に出していない場合か、保護者が一緒にいない場合は、すぐに呼び出しで、割と厳しめの処分を受けることになっているの。
これは小学校~高校を卒業するまで同じで、ルールはルールっていうのがうちの学校のルールなわけ。
ちょっと厳しい気もするけど、このルールが徹底しているおかげで「聖レイジスはしつけが良い」って周りの大人に思われて、その結果、やっぱり良い家の子が幼稚園から入学して来るわけだから、これは学校にとっても、生徒にとっても、名門私立であるが故の、絶対の掟のようなものなのね。
何度か話してるけど、レイジスは不良もいないし、良い子が多いので、そもそも校則やぶりをするような子がほとんどいないのよね。実際、ケイのママがケイをレイジスに入れたのも、これが理由だった。
もっと忙しくなって夜間に家にいられないことになっても大丈夫な学校ということで、少し無理をしてレイジスに入れたらしいって、前に、うちのママとパパが、話していたことがある。
そんなわけで、うちの学校は夜に制服でうろついていると問題なわけ。それで、前に紅子事件で問題になった、うちの生徒がかなりの遅い時間に園町にいたって話が、実はいまだに父兄の間ではうわさになっていて。
その生徒がケイと紗々であることはわかっていないんだけど、保護者たちからすれば気になることなので、いろいろ探りを入れてくる暇な大人は多いってことなんだよね。
学校からは一応、プリントされたものが父兄に配られてて、どこの誰かは書いてないし、無問題であることは強調されてた。(袋を開けて、私たちが中身を見たから間違いない)
うちの親も、このことは気になるみたいで、私にもその話を聞いてきたけど、私は教室で先生が話した通りのことしか話さなかった。
で、ある日。
ママがパパの会社の用事に顔を出さなきゃならないことがあって、パパの会社がある隣の市まで行くことになった。午後はママがお買い物に行くって言っていたので、私も買って欲しい靴があったので、一緒に朝からついていくことにした。
午後は、パパと一緒にランチをした後に、昔の友達にちょっと会ったり、ママはママで昔のママ友に会ったりなどをして、そのあと、お買い物をして晩御飯を食べてから、電車に乗って園町まで戻ってきた。
夜10時近くに駅について、これから桜駅まで電車でいくか、それとも園町からタクシーで帰るかって話になったんだけど、タクシー乗り場が結構な人数並んでたの。
帰りの電車は混んでたから30分くらい立ちっぱなしだったし、荷物もあるから、電車に乗るとしても、まずはちょっとどこかに座りたいねってことになったのね。
だけど、お店もそろそろ閉店時間だし、どこか、座れるところっていうので、仕方がないからスタバでラテを買って、バスターミナルの真ん中あたりに噴水と花壇があるベンチがいくつかあるから、そこでちょっと休憩して、タクシーが空くまで待とうって話になった。
ママと一緒にベンチに座って、夜の園町を眺めながら、ショッピングモールの「70%OFFセール開催中」の垂れ幕が風にゆれているのを見て、ママと秋口に欲しいお洋服の話なんかをしていた。
園町から遠くに行くバスの何本かは、行き先を示すバス正面のところに赤いランプが灯って、最終であることを知らせていた。
私は、こんな遅い時間に園町にいたのが初めてだったので、なにもかもが珍しくて、そしてなんかすごく興奮してしまっていた。それをママに悟られないようにしながら、内心、かなり浮かれてた。
だって、見渡す限りどぎつい色のネオンがたくさんついているし、電灯以外は全部暗闇の中に沈んでいるのがちょっと怖くてドキドキする。昼間のお日様の光が何でも平等に照らしている時とは違う、ネオンをつける意志のあるものしか存在できない暗い強さの感じが、とても異様で、興味を引き付けられた。
ママのスマホにパパがから電話があった。座っている花壇とバスターミナルのある場所は、園町の複数の乗り入れ線の改札のために、いくつもにつながった歩道橋と遊歩道、それからデパート同士を結ぶ空中遊歩道なんかが交差した下に埋もれるような形で作られてるから、電波が悪くて、よく聞こえないらしい。
私はママに、歩道橋の上を指さして「あそこがいいんじゃない?」って感じで教えてあげた。ママがオッケーてして、そして私の横に置いてあるいくつもの紙袋なんかを「見ててね」って意味で指さしながら、早足で小さな横断歩道を渡って、歩道橋を上っていった。
私は、今、もし、ここでレイジスの生徒指導の先生なんかに見つかったら、なんて説明すればいいんだろうなんて思いながら、残り少なくなって飲みにくくなったラテのふたをあけて、中身を見て、底にたまっている黒っぽい粉をクルクル回しながら飲みほした。
私が座っている背後から、女性のクスクス声と男の人の低い声が聞こえてきた。こんな時間だから恋人同士がじゃれあってのかなあ………と思いながら、飲み終わったラテのカップにふたをしていたら、「ねえ、ケイ、まだ帰らないでしょ?」という甘ったるい女性の声がして、私はケイという単語に反応して、思わず振り向いた。
男性だと思っていた低い声の主は、手足が長く、スラっとした若い男の子のような感じだった。そして、その腕に、自分の腕と体をしなやかに巻きつけている女の人がいた。
ここは、たくさんの照明があって明るいけど、ちょうどそこだけ、照明と照明の谷間みたいに暗く影になっている場所があって、2人の顔が良く見えない。
「くっつくなよ、こういうところで」すごくドライな声色で、かといって、女性を自分からは振りほどくことはなく、ただ、言葉だけで制していた。
女性は、かなり身なりの良い女性で、私みたいな非モテの非オシャレ系女子であっても、その服は高級ブランドものであろうと判断できるほど、高そうな服を着ていた。
ベージュのVネックのサマーセーターと、黒のタイトスカートというシンプルな服装が、細いけど女性らしい凹凸のある整った身体にぴったりとはりついていて、とてもセクシー。大人の女っていう感じで、ステキだなと思った。
セーターのベージュ色がもう絶対に高いとしか例えようのない色をしている。スカートの黒も、高級品だけが醸し出す、細い糸で出来た、艶のあるきれいな黒い色だった。手元には線の細い時計のような革のアクセサリーをしていて、同じ革でできている小さな黒いハンドバックを持っていた。
男の子は、皴のない白い細身のパンツに、上は青と明るい水色でチェック柄を絵筆でデザインしたようなシャツを羽織っている。多分これは、この女性がこの男の子に買ってあげたものだと思った。
「今日はまだ遊び足りないし、もう夏休みなんでしょ」と今にも男の子の首っ玉に抱きつきそうな勢いで、女性は身体をクルンと男の子のほうに向けた。その途端、男の子がスッと身体を後ろに引いたので、ちょうど照明が当たる場所に出てきた。
ケイ!
思わず、ラテのコップをギュッと強く握ってしまった。多分、私、目をまん丸にして、見ていたと思う。
光の中に出てきたケイは、いつもの不機嫌でダルそうな表情をしながら、上手に女性と距離を取っていたが、ふと、私の強い視線に気づいてこっちを見て、まん丸の私の左右の目と、ケイの左右の瞳の焦点がぴったし合った。
「ケイ、なにしてんの」
とりあえず、聞いてみる。さっきラテ飲んだばかりだけど、扁桃腺がのどに張り付きそう。
「お前こそ何してんだよ、こんな時間に」
気まずそうな表情を一瞬だけして、すぐにいつもの感じで答えてきたケイ。
「いや、ママと、パパの会社行ってきた帰りなんだけど」
「おばさんは?」
「電波悪くて、あっちの歩道橋の上でパパと話してる」と、顔と顎で、自分たちのかなり後ろのほうにある歩道橋の上のあたりを示した。それを聞いてホッとした表情に戻り、「そっか」とだけ呟いた。
多分、この間、数秒しか経ってないんだけど、すごい気まずい空気が流れた。私は見てはいけないものを見たのかもしれない。いや、別に見てもいいのだろうか、どっちなんだ。
そしたら、その空気を察したのか、一緒にいた女性がとんでもないことを言い出した。
「あら、ケイと同じ学校の子? こんばんわ、ケイの母です」
これはケイも想定外だったらしく、女の人と私を見比べて、呆然としていた。私は、この人がケイのママじゃないのは百も承知だったけど、
「あ、こんばんわー。はじめましてー」
とだけ返しておいた。前にも自分で思ったけど、私は咄嗟のウソがとてもスラっと出てくるタイプらしい。
「ちょっと、待ってて」
と言って、女性の鼻先で手の平で犬に待て!をするみたいにして、ちょっと離れた場所にスタスタ歩いていき、そこからちょっと怖い顔で、チョイチョイと私に手招きした。
私は、あんまりこの荷物から離れたくないんだけどな、と思いながら、行こうかどうしようか荷物を見てたら、その女性が
「どうぞ。私がこの荷物みててあげるわ」
とニコニコしながらいったので、「よろしくお願いしまーす」と笑顔で答えて、ケイのところに行った。
「ちょっと。何よあれ!」
「お前こそ、何だよ。何だってこんな時間に、あんなとこに1人で座ってんだよ。魂飛び出るかと思ったわ」
「だって、タクシー混んでたから、少し空くまでここで時間つぶそうってことになったんだもん。っていうか、私はいいよ、さっきのあれ、なによ、あ・れ!!!」
「いや、俺のことはいいんだ。放っておいてくれ。お前には関係のないことなんだから」
「関係ないってなによ、なんであの人がケイの母ですー、なのよ」
「そんなことは、俺が聞きたいよ」
そう言って、少し泣きそうな表情になりながら、ケイは片手で顔の半分を覆った。
「ねえ、ケイ、家でなにかあったの?」
「何もねえよ。とにかく、俺はすぐこの場所を離れるから、おばさんには俺に会ったこと、絶対に言うなよ、絶対だぞ」
「言われなくったって、言えないよ!」
2人とも、ささやくような声で怒鳴ってる感じだった。今、何が起きてるんだかわからないけど、絶対に変なことが起きている。
ケイは本当にすぐに女性の腰に手をまわして、園町の人込みの中に消えていってしまった。そこに取り残された私は、ノロノロとさっき座っていたところに戻り、荷物を自分の方に引き寄せて、カラになったドリンクのカップをペコペコさせて、ママが戻ってくるまで、その音と指の感触に集中していた。
ママがパパとの話が終わって小走りに戻ってきて、手を振りながら「タクシー空いたから、もう大丈夫そうよー、帰りましょー」って歌うように言いながら、ガサガサっと紙袋を両腕に全部かけて、ニコニコしながら元気よく歩き出した。
うちって平和だなって思いながら、こないだの担任の首振扇風機が言っていたことを、もう一回よく思い出していた。
家に帰ってから30分もしないうちに、パパも車で帰ってきた。なんだー、じゃあ、会社で待ってれば良かったわねーなんてママがキャッキャしながらパパと話してて、今日のお買い物のお披露目をしている。
パパは「ママは何でも似合うねー」なんて言いながら、ダイニングに座って、ママの戦利品を見ながら美味しそうにビールを自分でコップに注いで飲んでいる。そんなの見てると、なんかさっきのバスターミナルでの出来事が、全て私の空想だったような気さえしてきた。
リビングを振り返ると、修人が青い大きなバランスボールで腹筋をフンフン言いながらやってて、学人が白いソファに座って、iPadで静かに本を読んでいた。全然、いつものわたしんちだ。
今、この家で、私だけがいつもの私ではない。
そう思ったらなんか、疲れちゃったので、先にお風呂に入って早くリラックスしたいと思った。お風呂にお湯をためてる間に洗面所の下の台にある、良い香りのするバスバブルなんかがしまってある箱に手を突っ込んで、手にあたったものを出して、袋を破って湯舟に放り投げた。ラベンダーだったらしく、クールな香りと共に、お湯が薄紫に変わっていく。
あっという間に変わるな。
そんなことを思いながら、シャワーで頭と体と顔を洗い、お風呂に浸かった。
あの人、誰なんだろう。
そんなことが頭の中をグルグル回った。でも、あの人に関して私が知ってることは何もない。今夜、私がひとつだけ分かったのは、あの園町のうわさは、全くの嘘ではなかったってことだ。
明日は、紗々が紗々ママの会社に用事があって、3人では集まれないのがわかっていたので、明日、ケイに聞いてみようかなって思った。
でも、聞かないほうがいいのかな。
こういう時ってどうするのが正しいんだろう。
そんなことを思いながら、風呂場で頭をガシガシ洗い、シャワーの水量を最強にして、全身に力を入れながらお湯を浴びた。
部屋に戻って、ベッドに寝っ転がったら、LINEが入った。いつものグループではなく、私への個人的なLINEがケイから来ていて、「明日、話がある」ってだけ書いてあった。
「りょうかい」と書いて送った。で、すぐに、私は別に怒ってるわけじゃないから、という意味で、機嫌の良さそうな猫のスタンプをつけておいた。あ、またヘアパックするの忘れた。もう!
翌日、いつもみたいにケイが普通にお昼ごろ、家に遊びに来た。修人は朝からサッカーの練習でいないけど、学人が家にいたので、ママと学人とケイと私で、ママの作った冷やし担々麺を食べて、テレビで流れている通販商品の話なんかをしていた。
昨晩のケイを思い出しながら今のケイを見てて思ったけど、ケイは私よりもずっと大人だということに気が付いた。今のケイの少年らしい態度からは、昨晩のケイは全く想像がつかない。
学人だって、子供のころのケイのままでケイを見ている。それは私だってそうだった、昨日までは。そんなことを思ってたら、なんか、自分だけが永遠に成長のないのガキみたいで、少し恥ずかしくなった。
学人は午後はパパの会社に手伝いに行くし、ママはパン教室に行ったあと、お友達とごはんを食べる予定があるらしいから、夜は私とケイだけでカレーということになった。
ママが、レンジでチンしたらすぐ食べられるようにお皿に入れたカレーライスを冷蔵庫にいれておいてくれて、サラダと冷たいスープを2人分、わかりやすく並べておいてくれた。
「修人の分はこっちだからー、チンしてあげてね」って言われたから確認したら、一番下の段に修人のカレー皿が3個並んでる。毎日の、こんな何でもないことが、今、とても人生では重要なことのような気がしてくる。
2人で、玄関で学人とママにいってらっしゃーいってしてから、ドアに鍵をかけ、2人が通りに面した玄関門がガチャンとしめた音を確認してから、2人で顔を見合わせ、急いで2人でリビングに戻る。
リビングのローテーブルの上には、ママが氷カフェオレを作っておいてくれたものが、ガラスコップに汗をかくくらい、少し溶けかかっていた。とりあえず、それを飲みながら話そうってことっで、2人でソファにドサっと腰掛けた。
「で、話ってなによ」
片手でカフェオレ、ケイの方の片足でケイの足を軽く蹴りながら聞く。
「何ってお前………」
ストローでコップの中身をグルグルかき回しながら、気まずそうな表情でケイが答える。
「まず、あの女の人、誰?」
「あの人の話は、とりあえず置いといて、だ」
「なんで置いとくのよ、ケイの母親だとか名乗ってる知らない女の人なのに?」
「うーん」
「え?もしかして本当に母親なの?」
「それは、断じて違う」
「じゃ、誰?」
「お前に説明してもなあ………」
「じゃあ、話があるってなんなのよ!もう!」
なんかムカつくので、クッションでケイの後ろ頭を殴ってみた。
「そう怒るなよ。まあ、整理して話すとだな。あの人は俺の母親ではないんだが、この前、ほら、紅子事件の時にあった話あったろ?あの時に、俺、あの人に助けてもらったんだよ」
「じゃあ、あの時、遅い時間に園町にいたのは本当だったんだ」
「うん、それは本当」
「なんで、そんな時間にいたの?」
「それは、まあ、いろいろ、だ」
「なによそれ、全然分かんないんですけど」
「話せることと、話せねえことがあるの」
カフェオレをチューッと吸いながら、ケイが困った表情で言う。
「じゃあ、何なら話せんのよう!秘密守らせるなら、私にもわかるように説明してよ」
「んー。だから、あの日は、って紅子事件の前の話な。あの日は、俺は、塾の下見に行ってて、そんでそのまま帰る予定だったんだよ。だから制服のままだったの。だけど、ちょっと知り合いに見つかってさ」
「うん」
「その人は大人だからさ。だから一応保護者ってことで、制服でも大丈夫だろうってことになって、一緒に晩飯食ってたんだよ」
「それって、あの女の人のこと?」
「うん、もう一人いたけどね。だから3人ね」
「ふうん」
「で、まあ、飯も食ったし、帰ろうかってことになったんだけどさ」
「うんうん」
「まあ、ちょっと、そのまま帰れないような雰囲気になってね。でも、俺は制服だからどうしても帰りたかったわけよ」
「うんうん」
「そんで、帰る帰らないで、ちょっと揉めたっていうか。俺が揉めたんじゃなくて、その2人が揉めたんだけどね、俺はその2人をなだめる係ね」
「ちょっと分かんなくなってきたけど、まあ、うんうん、それで?」
「そんでまあ、俺は、面倒くさくなってきて、もうこのまま放っておいて帰ろうかなって感じになってた時にさ。目の前でちょっとしたトラブルがあってさ」
「トラブル?ってなに?」
「………うーん」
ここにきて、また、ケイが口ごもりはじめる。
「なによう。なんで言わないのよ」
「言わないというよりもだ、むしろ、言えないというか、だな。お前にこんなこと言ってもいいのかと考え込んでるわけですよ、俺はね」
両手であんまり減ってないカフェオレのガラスコップを持ったまま、頭を両腕の真ん中にガクンと垂らして低い声でボソボソと答える。
「私のこと、信用してないってこと?」
「いや、そういうことじゃなく。お前に言ってもわかるかなってことだよ」
「なによ、子供扱いして」
なんか、さっきも自分で自分のことガキだなって思ったばかりだったから、余計に図星な感じでちょっとショックだった。
私が多分、みるみるションボリしてきたんだと思う。ケイは慌てて
「いや、お前が子供だとか、そういうこと思ってバカにしてるとかじゃないんだよ」
とフォローを入れてきた。
しばらく、ケイが、コップの底をストローでグリグリ押しながら、じーっと考え事をしてるのを、私は飼い犬がご主人様の命令を待ってるかのような気持ちで待ってた。
「………紗々がさ」
ケイがしばらく考え込んでから、口を開いたら、急に紗々の話が出たので、私はちょっとびっくりした。この話に紗々が出てくるって想定してなかったから。
「え?紗々?」
「え、いや。ほら、2人で警察に捕まったみたいな話になってたろ?」
「え?警察?警察に捕まったの?」
「あ、ヤベ………」
咄嗟に口を押えて、失敗したって顔をした。
「え?2人とも警察で補導されてたの?」
「………。」
ケイがコップをテーブルに置いた手を自分の手元に戻す途中で、仏像の様に空中に手の平を置いたまま、動かなくなった。
「ちょっとお、ケイ、どういうことなのよ」
思わず、ゆさゆさとケイの肩を持って揺らす私。
「うわあああああ」
ケイはそう言いながら、ソファのひじ掛けがある、クッションが置いてあるほうに、倒れこんだ。
「いやー、ちょっと待って、マイマイ。俺の神経が持たねえわ」
ケイはそう言いながら、クッションを自分の胸に抱きかかえ、足を空中でバタバタさせた。
ケイは割といつも、慌てたりとかしなくって、ええと、なんて言ったかな、この前、3人で本の遊びしたとき出てきた言葉、あ、そうそう、「超然」とした感じなんだけど、こんな風にうろたえているケイは初めて見た。
その時、私とケイのスマホが同時に鳴る。
「紗々だ」
「うん、紗々だ」
LINEはこうだった。
『2人ともいる?』
『いるよ、私んちにいる』
『どした』
『ちょっと、いろいろ』
って来て、そのあと、返事がなくなった。ケイがしばらくじっと画面を見ていたが、急に
「おい、マイマイ。駅まで行くぞ、なんか上に着ろよ」って言って、そのままケイがLINE電話を紗々にかけた。
「紗々、今どこ?」
電話の向こうの紗々は、自分がいる場所なんかを返事しているんだと思う。
「じゃあ、すぐ乗れ」
って、結構な強い口調で言って電話を切った。もたもたUVパーカーを着ていた私の腕をつかみ「はい、早く着なさい。駅まで紗々を迎えに行くぞ」って言いながら、私を玄関まで引っ張って行く。
「紗々を迎えに行くの?なんで急いでんの?」
「いいから、早く、靴を履け」
そう言って、玄関のドア横にある私が鍵をかけておく場所から鍵をとり、2人で家を出た。こういうの見てると、ケイってほとんどうちの子なんじゃないかって思う。
すぐに中央通りまで出てタクシーを拾い、桜駅まで行くことになった。
「なんでタクシーなの?お金ないよ、私」
「俺があるから大丈夫」
って言いながら出したケイの財布には10,000円札がギッシリ入っていた。
「何これ、ケイ、なんでこん………」
「シッ」
って言って私の口を手のひらで押さえた。ケイの手があんまりにも大きくて、顔の半分以上がケイの手になってびっくりした。ケイの手のひらから、財布の革のにおいがして、ケイがもう私が知っている子供のころのケイはないことがわかり、ドキっとした。
駅前のバスターミナルのところでタクシーを降りると、ちょうど紗々が階段を駆け下りて改札を通ってくるところだった。
「麻衣!ケイ!」
紗々がすごくホッとした顔して、私たちの名前を呼んだ。紗々はいつもの色白ではなく、明らかに顔色が悪かった。
「今日、会えないかと思ったから、嬉しい」
そういって、私が両手のひらを紗々のほうに向けて出したら、紗々がニコニコしてハイタッチしてきたんだけど、その手は氷のように冷たかった。
「大丈夫か、紗々」
「うん、何とか」
後ろを振り返って、紗々は何度もうなづいた。
「とりあえず、夜までマイマイの家にいようぜ。紗々のおばさんは?」
「あー、ママは多分、今日帰らないと思うよ」
「そっか。じゃあ、今日は、みんなで、紗々んちでお泊りキャンプにするか?」
そういって、ケイは私の頭に手を置いた。私は3人でキャンプお泊りできるのが嬉しくて、軽く舞い上がった。
「え、ほんと?じゃ、ママに言っておかなきゃ」
私はいそいそとママにLINEで、晩御飯食べたら、紗々の山小屋に行ってくるという連絡だけした。すぐにOK!というスタンプが帰ってきて、冷凍庫にあるアイスクリームを持って行ってもいいって返事が来た。
帰りは30分くらいかかる駅からの道を、3人で並んで歩いて帰る。紗々は駅に着いたときには少し弱っていた感じだったけど、だんだん元気になってきた。
家についたら17時過ぎくらいだったから、3人で2人分のカレーの晩御飯を食べて、修人が帰ってきてから、修人の晩御飯のカレーをチンして出してあげて、紗々の家に行くよって言ってから出かけた。
ケイが、紗々の家に行く前に、スーパーでBBQで焼くソーセージを買うというので、聖レイジスの幼稚園校舎の正門の方にあるスーパーエミリオまで行った。園町街道に面した車で乗り入れができる割には小さめのスーパーなんだけど、とりあえず必要なものが揃うので、いつもここを使っている。
ケイが慣れた感じでスイっと買い物かごを持って、目的のケースまでとっとと行ってしまったので、私と紗々はきれいに並んでいる野菜などを見ながら、カワイイ色のトマトが詰まったパックや、知らない名前のハーブなんかを手に取って、面白がっていた。
すると、通りすがりの人から「あの子じゃない?美人だし。園町にいたっていう………」という声が向けられた。私たちはパッと振り返ったんだけど、中年の女性は何人もいて、それぞれが買い物をしているので、誰がそんなことを言ったのかがわからなかった。
美人だからって、というからには、確実に私にではなく紗々に向けて吐き捨てられた言葉だ。すごく嫌な気持ちになった。
紗々が一瞬、沈んだ表情をしたが、すぐに気を取り直して肉や魚があるところにスーッと移動していった。私もあとをついていったら、ケイが少し離れたところでシャウエッセンと薫香を両手に持って、どっちを買おうか真剣に悩んでいる。
「どっち買うの?」
ケイの手元を除きこんで、ケイに聞く。薫香は298円、シャウエッセンは398円って書いてある。
「100円違うわけよ。俺はさ、シャウエッセンは特別な日って決めてんだ。でも今日はキャンプだから特別って言えば特別なんだけど、でも、もう何回もやっちゃってるから、そこまでスペシャルじゃないじゃん?だから、やはり薫香なのかと………」
「変なの、ケイ。あんなにお金持ちなのに」
「バーカ。金なんてパッパと使っていたら、あっという間に消えちまうんだぞ」
なんか、ケイのおじさんが言いそうなセリフをケイが言う。私は面白がって、えい!ってシャウエッセンを5袋もカゴに放り込んだ。
紗々がニコニコしながら肉のパックを持ってやってきた。
「すごいもの見つけちゃった、ほら見て。今日食べれば大丈夫だよね、きっと」
ステーキ肉の7割引き、650gの厚切りなのにたったの298円になってるやつだった。
買おう買おうってことになり、焼肉のたれも買おうってはしゃいでいたら、また
「あら新婚ごっこ?やらしい。どういう躾けしてるのかしら」という言葉が聞こえてきた。
ケイが反射的に「んだとババア」と言って振り向いたが、やっぱり誰が言っているのかはわからない。私はケイが人を殴ったりしないように、ケイの買い物かごを持っていないほうの腕を、咄嗟に掴んだ。
明らかに、私たち、というか、正確には紗々に向けて投げられた言葉だったのがわかる。
「麻衣、ケイ、いいよ。行こ」
紗々はそう言って、棚にあった焼肉のたれを1個だけカゴに放り投げて、レジにスタスタと歩いて行ってしまった。仕方がないから、私とケイも、紗々の後に続いてレジに並んだ。
紗々の家について、一旦、荷物を山小屋の冷蔵庫にしまってから、家政婦の小曾根さんが用意しておいてくれたおかずなどを取りに、紗々が母屋に戻った。
「ケイ、さっきの。何だろう」
「ああ………。ここんとこ、よくあるらしいぞ、紗々が言ってた」
「私、あんなこと通りすがりに大人に言われたら傷つく」
「そりゃそうだろ、同級生でも普通にムカつくわ」
「だね。学校でも言われてるし、紗々」
「まあな」
「紗々、悪くないのにね」
「だな」
「どうにかできないのかな」
「わからん。まあでも、紗々には一生ついて回るかもな」
「どして?」
「目立つからさ」
「ああ、そんな。私なんて、憧れしかないけどな、紗々」
「そんな風に思えるのは、お前が素直にまっすぐ育った証拠だよ。学校のやつらだって、そう思いたくても思えないからねじれちゃうんだろ。あのババアどもが何が理由であんなことすんのかはわからんが」
「今日の多分、学校の父兄だと思う。パパとママにも聞かれたんだけど、保護者の間で噂になってるらしいんだよね、この間の………あっ、ちょっと、よく考えたら昼間の話、途中で終わってて、あのまんまじゃないの」
「あ、ヤバい、思い出しちゃった?」
竹串にシャウエッセンと、ポッケに入れてあるビクトリノックスのナイフで半分に切ったピーマンを刺し、塩コショウを振りながら、おかしそうにケイが笑った。
突然のお泊りキャンプと紗々に会えたことがうれしくて、あのことが頭から完全に消えていたことに腹が立つ。私ってどうしてこうなんだろう。
紗々が犬と一緒に、たくさんのお皿を乗せて、カチャカチャ言わせながら戻ってきた。「すごい作ってあった!」って言いながら、煮物、酢の物、ポテトサラダ、ひじき、小松菜と油揚げの煮びたしなんかのラップを次々に外した。
犬が2匹、ケイのそばまで来てシャウエッセンのニオイを嗅いでいる。でも訓練されているらしくて、ケイが食うか?と聞いても、そっぽを向いて、紗々の近くまで戻ってしまった。
ソーセージグリルと和風のお惣菜と、厚切りステーキ肉という、なんかよくわからないメニューをつまみながら、3人では少し足りなかったカレーの晩御飯のスキマを埋めた。
ケイが、消えかかるBBQコンロにチャコールを袋から出して足しながら、紗々に
「今日、どうした」
と聞いた。なんかそれが、2人の間ではよく話されている会話みたいな感じに聞こえた。すぐに紗々が
「あ、うん。前と同じ」
「またかよ、懲りねえな、あのオッサン」
「うん」
「そっか」
という会話があって、私は紗々とケイを交互に見ながら、きょとんとしてしまった。2人は完全に理解しあってるけど、私には全然会話が見えない。
「オッサンって誰?そうだ、そういえば紗々、今日なんかあったの?」
「あ、そうだった、マイマイに説明」
「ケイ、麻衣に言ってなかったの?」
「いや、なんて言ったらいいのかわかんなくて」
「ケイ、私に気を使わないで。別に、大丈夫だよ」
そういって、紗々は前の学校であったことを話してくれた。
紗々が言うには、聖レイジスに転校してきたのは、東京にある似たようなエスカレーター式の私立で、ちょっとした問題が起きてしまったからなんだって。紗々が言うには「私は問題児ってことになっている」って言い方をしていた。
紗々は中学2年生からそこに編入してきて、その前はお父さんの仕事の関係で、香港・シンガポール、アメリカ・スペインなど転々としていたので、あまり落ち着いて1か所にいたことがなかったんだって。
紗々のお父さんがしばらく日本を拠点に仕事をすることになったので、東京でも有名な私立の名門学校に入ったの。きっと、名前だけならだれでも知ってると思う。私でも知ってた。
そこは似たような生活環境の子も多いし、芸能人の娘や息子も多いから、他にも目立つ子がたくさんいて、今の学校みたいに注目されたりすることはなくて、どっちかっていうと地味で目立たないほうだったんだってさ。
紗々が目立たないなんて、一体どんな学校なんだろうと、そっちが気になってしまった。
それで、編入したはいいけど、外国生活と転校の多さで学校にうまく溶け込めなくて、何となく学校では静かに過ごしていたんだって。これは、私にもわかる。
周りも悪気はないけど、やっぱり、いろいろゼロから関係性作るのって面倒くさいんだよね。もっとうんと子供の時のほうが、友達って作りやすい。
編入するときに他にも何人かいればいいけど、そうじゃないと、新しくグループに入るのって入れるほうも、入る方も気を使うもの。だから、それは誰のせいでもないと思う。
そうやって1人で静かに学校生活を送っていたんだけど、紗々が言うには
「すごく気にかけて、親切にしてくれてる先生がいたの」
その先生は、まだとても若くて、先生っていうよりも、お兄さんみたいな感じだったんだそう。紗々が日常生活で困っていないか、家ではどんな感じで過ごしているのか、お友達が出来なくてさみしくないかなどを、いつも気にかけてくれて、放課後は先生と2人でたくさん話をしながら過ごしたんだって。
先生は紗々が外国で暮らしてきたことにも興味を持ってくれて、海外での生活の話や、紗々が英語がある程度はできることがわかると、洋書がある本屋さんや、学校の図書室の中でも、洋書コーナーなどを案内してくれていた。
生徒指導の先生だったのかもしれないし、単に先生として、親切でしてくれてたのかもしれない。結局、そういう細かいことを誰もその学校では紗々に教えてくれなかったので、紗々にはよくわからないままだったんだって。
学校の校風は自由で、いかにも都会にある名門私立って感じだった。制服はあるけど私服で来てもよいし、上下関係もあまり厳しくない。バイトも部活動も自由だったから、どの生徒も、あまり規則にしばられないで、思ったようにやるっていうのが、校風といえば校風っていう言い方をしていた。
紗々は何度か、部活でもしようかなって思ったんだけど、自分の母親のことを考えてやめたって言ってた。紗々のママはちょっと気まぐれなところがあり、突然紗々を誘って学校を休ませて一緒に3週間くらいの旅行に出かけたり、
海外の高級ホテルに連泊するようなことがあるから、仮にクラブ入っても、突然休んで周りに迷惑かけるのも、ママにクラブ活動の説明をするのもどっちも面倒だから、やめたって言ってた。
だから、放課後は一人で家に帰るか、学校がある渋谷の街をプラプラするか、学校の図書室で本を読むか、先生が声をかけてくれた時には、先生とお話をするっていうのが、丸2年くらい続いていたんだって。
その先生は元は国語の先生なんだけど、その学校では主に作文の授業を専門にしている先生で、国語の中でも文学を専門に教える、ちょっと特殊な授業の先生だったの。海外で暮らしてきた紗々に、小学校くらいから触れる日本文学に関したことを教えてくれていた。
半分、紗々の家庭教師みたいな感じになっていたんだけど、先生の教えてくれることが面白いから、すごい勢いで日本文学と海外の文学を読んでいったんだって。
だけど、1年くらいしてから、先生の様子がだんだんと変になってきたんだそう。紗々が言うには
「多分、私のことを日々、熱心に考えるあまり、私に恋をしてしまったんだと思う」
って言っていた。そんなことってあるの?って聞いたら、紗々は、
「だって、私たちってほとんど毎日、自分の考えや、自分たちの生い立ちや、昨日食べたものや、好きな文学や音楽や映画の話をしていくんだよ?
だから、先生と生徒なんだけど、ほぼデートなのよ。その上、私たちは気が合ってるっていうのか、好きなものや物事への感じ方が似ていたんだよね。だから先生は、だんだん私のこと1人の女の人として見るようになってきたんだと思うのね」
って言っていた。なんか、それは、わかるような気がする。
紗々は、先生と一緒に、すごくたくさんの純文学と言われる名著を読破していたから、恋愛に垣根はないっていうのは、自分が恋をしたことがなくても理解は出来ていた。だから、先生の変化はすんなり受け入れてしまったんだって。
「受け入れたって言っても、先生の考えてることを理解したって程度だけどね。そもそも、私たちって学校の中でしか会えないから、別に何も起きないんだけどね。でも、先生の内側で私への愛情が濃く熱くなっていくのが、手に取るようにわかる」
先生の教師としての愛情は受け止められるけど、男の人としての愛情はよくわからないから答えようがないんだけど、でも先生のそばを離れるの嫌だった、って紗々は言ってた。
それを聞きながら、大人でも恋すると、いろんなことがわからなくなるものなのかな?って思った。そんなにも、理性が吹っ飛んでしまうものなのだろうか。
それとも、それは紗々が相手だからなのだろうか。私には、まだわからないやって思いながら聞いてた。紗々が、続ける。
「それでね。ある時から、先生が文学の話などをし終わった後に、本当にたまにだけど、私のことを抱きしめてくれることがあったの。変な意味じゃないよ?ハグだよね」
「紗々は、その間、どうしてたの?」
「ん?ただ、ジーっとハグされて、黙って抱きしめられてた。少しも嫌じゃなかった。それに、私の周りで信頼できる大人って、その先生だけだったから。その頃って、家の中はもめ事が多くて居心地が悪いし、学校もうまく馴染めなかったから、私にとっての安心できる場所って、この世で先生のそばだけだったし」
ハグされていると、大事にされていることが伝わってくる。先生が言葉には出さなくても、私を大事に思っていることはわかったって、紗々はそう言った。
だけどある日、その様子を保護者の一人に見られてしまって、問題になった。もちろん、先生は、生徒に対する教師としての友愛であることを説明したし、紗々も、あれはいわゆるハグであるということも伝えたんだけど、うまくいかなかったみたい。
私は多分、先生の紗々に対する激しい恋の気持ちが、隠していても、周りに伝わってしまうんだと思った。
「あの学校は割と放任っていうか、何に対しても自由なところがあったから、他の先生たちも大して気にも留めてなかったの、最初は。先生が生徒指導に熱心なのも知っていたから、日本にも学校にもなじめない私に、少し親切にし過ぎた程度にしか受け取らなかったんだけどね。でも、保護者代表の中には、私が誘ったんじゃないかって言い出す人も出てきてね」
「そんなのひどい!何その人たち!」
それで、仕方がないから、学校側は紗々と先生に、精神鑑定を受けさせ、それぞれにカウンセリングを数回受けさせることで、保護者代表は納得したんだって。さらに、先生と紗々が学校内で接触出来ないようにするために、先生は表向きは病気療養の無期謹慎、そして紗々はなぜか、一時期、校長室で自習を命じられるようになった。
「そんなことをしたら、同級生は、何故、あの子は校長室で勉強してるんだってことになるじゃない?学校も対応がバカなのよ」
と吐き捨てるように紗々が言う。
「それは、俺も聞いてそう思ったわ」
ずっと黙っていたケイが、口を開いた。
「学校はさ、先生に問題があるってなると採用してる学校側に問題があることになるから、とりあえず、紗々に問題が多いことにして、隔離したってことだよ」
「そんなのひどいよ、あんまりだよ」
「ひどくても仕方がないのよ。そうなっちゃったし。それに、うちのママもパパにも問題があるっていうか………」
紗々のパパとママは本当に変わっていて、紗々のもめごとを一切に気にしていなかった。何度も繰り返される会議に、ある日、とうとう紗々のママが呼ばれることになった。その会議で、紗々が先生に迫り、先生が女生徒に一定以上の感情を抱いている疑いがあるという話になった時でも、紗々のママは
「あら、うちの紗々はそれはそれは美しいですから。どんな殿方が心酔しましても、少しも不思議はございませんわ。紗々は誘ったのではなく、きっと、ただ見つめただけですわ。でも私の娘ですもの、その先生の態度は、殿方としては実に正常ですわよ」
という感じで、全然、話がかみ合わなくて、これには逆に先生たちが頭を抱えたという。
紗々のママは若いときにデビューした世間知らずな元女優さんということもあり、人生の価値基準が「美」に集約されているせいか、紗々の美の価値に加算されるような出来事は、どんなことでも、プラスと捉えてしまうという特徴があるんだそうな。「ママにとって私が美しいことは、翻って、ママが美しいってことになるの」って、紗々があきれ顔で言っていた。
それに当時は、紗々のママは、紗々のパパの前妻との離婚問題でもめていて、正直、娘の学校での出来事なんてどうでもよかったように見えたと、紗々が言ってた。
「私は、ママとパパの子なんだけど。ママ、パパの愛人だったの」
だから、3人で暮らすために、紗々のパパは海外を転々としながら会社を大きくして、前の家庭が破綻しているという既成事実を作って、東京で落ち着いて仕事を出来るようにしてから前妻さんとの離婚調停に入ったんだって。
それを聞きながら、ケイがニヤニヤして
「紗々のオヤジさん、実にデキルよなあ」
って感心していた。
それで、話の通じない紗々ママの代わりに、今後は紗々のパパが呼び出されたんだけど、このパパも、これまた変わり者で。
その先生が、娘を危険な目に合わせているならともかく、学校で1人さみしくしていた娘を守ってくれようとして一生懸命に愛情をかけてくれているのに、その先生を処罰するなんてケシカラン!娘を先生と引き離すなんてケシカラン!と職員室で先生と父兄代表に怒鳴り散らすありさまで、この件に関しては、とにかく紗々の両親は、普通の親としての対応は出来てなかったんだって。
そんなわけで、学校はどうしていいかわからず、とりあえず事態を鎮圧するために、先生は無期限の謹慎、紗々を一時的に校長室において監視をするって形で、父兄代表に納得させたってことみたいなの。
「先生は、自分のせいで私が校長室にいるようになったり、私に会えなくなってしまったことが苦しくなってしまったみたい。すごく自分を責めてた」
「え、紗々、それはなんでわかったの?」
「ん?先生が分厚いラブレター毎日家に送ってくるから」
表情一つ変えずに、紗々がそう答えた。
「毎日?それはすごい。紗々は読んでたの?」
「うん、もちろん。だって、私を心配する内容と、私が日々どうしているか、先生がどういう風に心配しているかだけが切々と書いてあるんだもの。それに、作文の先生だというだけあってね、それがもう、純文学みたいにきれいな文章なの。だから、むしろ、私だけに届く特別な文芸書みたいな感じで、毎日ポストを開けるのを楽しみにしてた」
「その先生も淫行をしたわけではないんだから、処罰をされる理由もないんだよな。その先生の話、どうやって聞いても、単に紗々を学校の中で庇っていただけじゃないかよ」
とケイが口を開く。
「インコーって?なに?」
「あ、うーん、大人が子供にエッチなことをすることだよ」
「ああ。それはしないでしょ、大人だから」
「まあな。普通はな。しかし世の中には未成年相手にそういうことをする人たちも、実際にいるからな」
「へ? そなの?」
「マイマイ、お前は、そんなこと知らなくていいんだ」
そういって、ケイが私のおでこに手のひらを置いて、グリグリ頭を動かした。なんかバカにされたような気がしてケイをグーで打とうと思ったんだけど、ケイのほうがリーチが長くて全然届かなかった。
そんな感じで、学校の中でさらに居場所が微妙になった紗々は、今度は教室に戻ってからが本当に大変だったという。
生徒たちには、先生と紗々とのことは伝わっていないので、生徒たちには、紗々が突然、校長先生からひいきをされるようになったと、完全に曲解されてしまっていた。
「もともと仲良い子もいないから、ますます仲良くしてくれる人はいなくなるよね。普通に話していた子さえ、もう互いに挨拶しかしなくなったよ。彼らは小さいころから一緒にいる子たちだから、途中で入った私のことはよく知らないし、知らない子のことって、そもそも庇いようも無いんだと思うよ」
そう言いながら、諦めきった表情を、紗々はした。
だから、病気だったんじゃなくて、その後、学校行かない1年があったってことなの………と紗々が、少し間をおいてからそう言った。
「もう全然、行かなかったの?」
「うん、そう。別にいやなことされるわけじゃないから、行ってもよかったんだけど。行くほどの理由が見つからないから。特に会いたい友達とかいないから、モチベーションがわかないよね」
「うん、それはわかる」
「かといって、学校変えたって、全員が初対面の入学式レベルで入るんじゃないと、どこ行っても、あまり状況は変わらないでしょ?うちの両親も、別に行きたくないなら行かないでもいいって考え方だったし、学校も、成績良ければ問題ないってスタンスだったから」
「勉強はどうしてたの?」
「家庭教師と通信で、試験の時だけ登校してた」
「そっかあ」
私は、東京での紗々の学校生活が自分が想像していた事をはるかに超えてきたので、紗々に起きたことは、そのまま、私も、ありのままを受け入れる以外はできないのだとわかった。
もしかして、どんなことでも、本当はそうなのかも。
こういうのを、ええと、翻弄。人生に翻弄されるっていうのかもしれないけど、生きてると子供でもこういうことはあるんだな。もしそうなったら、その波の中で泳いでいくしかないっていうことか。
紗々は、その波の中で、自分なりに出した答えに沿ってやってきたんだなって、思って、私は紗々の出した答えを、どんなことがあっても支持しようと思った。
ふと、気になったことがあったので聞いてみた。
「もしかして、あの本遊びって、その作文の先生が教えてくれたの?」
「あ、うん。そう。よくわかったね」
「いや、あれ、私、面白かったっていうか。あの本の遊びで、私、少しはものを考えるようになったと思う。それまでって、本当に、何ていうか、全てにおいて、自分が思っていた以上に受け身で、自分のことも他のこともよく見ないで生きていたことを思い知らされたっていうか」
「あの本の遊びは、私と先生は『Harvest』って呼んでたの、収穫って意味ね。図書館や本屋で本をバアーッと選んで、その中から一冊を見つけるのが、なんか収穫するって感じに似てたから」
ああ、わかる。感動できるものに出会えた時の、あの達成感って、収穫の喜びだったのかって思いながら聞いていた。
「あれは、先生が、私が1人の時間を価値あるものにできるように、1人の時間が長くても、退屈で心が死んでしまわないようにって教えてくれたの。人ってね、退屈すると内側から滅びていくんだって」
それを聞きながら、私は、つい数か月前までの自分の、白黒で、退屈で、人生のリストが何も出てこなかった自分のことを思い出して、ドキっとした。
「先生と一緒に図書館で選んだ本で、先生と2人であれやって遊んでた。今思うと、もしかしたら、先生にもそんな、内側から腐ってしまいそうな退屈な時期があったのかもね」
「どうしてそう思った、紗々」
ケイが、顔を上げて紗々を見て、聞いた。
「先生がさ、人は、人生で1人ぼっちになってしまう時期が必ずあるって言ってた。自分の人生にはそういうのがないって言い張る人もいるけど、それが真実かどうかはわからない。なんでかっていうと、そういう人はもしかしたら、先回りしてそういう時間をうまいこと避けて歩いているだけかもしれないって。
そうやって、うまいことやって、上手に切り抜けたつもりでいても、それだと生涯、自分にも巡り合えないから、結局、誰にも巡り合えないままだって、さ」
「なんか、難しいけど、それは、なんか、うん。わかる気がする」
私が答えて、紗々が続ける。ゆっくりと赤と黒を繰り返すチャコールを見つめながら、ケイは黙って腕組をして聞いていた。
「この世に生まれてきて、人間が本当に1人になれる時間っていうのは、実は、普通に生きていたらすごく難しくて、本来ならば1人でいられる時間っていうのは人生とか、宇宙からの贈り物みたいな、本当に素晴らしく貴重なものなんだけど………」
紗々はここで、少し、間をおいて、先生の言葉を一つ一つ、正確に思い出していたんだと思う。それから、少し震える声で、
「それが人生のとても早い段階で来てしまうと、贈り物の意味がわからなくて、混乱してしまうことがあるんだって。でも、そういう子は、早くから人生の意味を理解するから、結局は、贈り物の大きさに等しい成長をする。だから、本来、1人の時間とは、恐れの対象になるべきものではないって、そう言っていた」
「なんか、良く理解しきれないけど、でもなんか、紗々、私、今、泣きそうなんだけど」
「俺も、わからないけど、わかる」
「うん、私も、そうだった。すっごいパワーがあった。私も、全部がわからないけど、本当にそうなんだっていうのだけは伝わってきた。だから、家に1人でいるときも、これはその贈り物の時間なんだと思って、本のあそびをひとりでもやってた。それで、延々と1人でやってたから、わかったこともある」
「何がわかったの?紗々」
「たくさん本を読んでいくと、伝えたいことが生まれる本と、そうではない本っていうのがあるじゃない?」
「確かに」
ケイが胡坐をかいて、自分の足の裏のあたりを見つめたまま、深くうなずいてそう答えた。
「でもたぶん、私が面白くないって思った本も、他の人には伝えたいことが出てくる本なのかもしれないのね」
「確かに。それに、実際、そうだったよね」
うんうん、と私がうなづく。
「だから、自分にとって価値がないことでも、それをバカにしたり、反対に、価値を感じたことをやけに持ち上げたりすることって、そのこと自体にはあまり意味がないっていうか。本当に大切なのって、それに触れて自分から出てきたことだけが本当のことっていうか」
「ほお………」
ケイがすごく真剣な表情で聞いていた。
「何かに触れて、生まれ出てきてしまった感情や感覚の中にだけ、本当の自分がいるのよ。でもそれは、自分が変わるとスグに消えていくの。だから、いいと思ったものだけをやたらと集めて並べても、それって砂で何かを積み上げてるだけっていうか」
「すごい紗々。でも、それって、そうかも」
「なるほどね。すぐ消えるものをどれだけかき集めても、それは一生、自分にはならないってことだな」
「そう。でも、これをわかるためには、自分の中から出てくるものをちゃんと見る力が必要なの。でもそれって、人の間で忙しくもみくちゃにされているときには育たない力なのかも。人の感情と意見と情報の中で溺れながら生きているときにはわかりようもないの。だから、本当の本当に、1人の時間は貴重な贈り物なんだよ」
私たち3人は、しばらく黙った。2匹の犬が、耳をピクって動かして、茂みの中をクンクン嗅いで、また丸くなって眠るのを、私たちは眺めていた。
「紗々、先生に、本のあそびを書いて送ればよかったのに」
「ううん。先生、私に何かあるといけないからって、返送先住所書いてきてなかったから。だから、先生から一方的に手紙が来てるだけ。たまに、先生のが書かれていることがあるから、そしたら、私も、その本を読んでみたりはしたけどね」
「少なくとも、俺が今わかるのは、その先生は、紗々を死ぬほど大切にしてたってことだ」
「うん、私もそれはわかる。紗々のこと、心から大好きっていうか………」
きっと、愛しているというのが正しい言葉なんだろうけど、私には、よくわからないので、口にするのをためらった。ケイは、どう思ったのか気になって、ケイを盗み見したけど、表情がよくわからなかった。
「うん。私もそう思う」
少し間をおいて、ぽつり、と紗々が答えた。
「ねえ、とろこで、その先生って、今、どこにいるの?」
転校もしたんだし、紗々って、もう先生と一緒に会ったりしても問題ないって思ったんだけど。紗々と、ケイが顔を見合わせて、ちょっと困った顔をした。
「先生には、この前、会ったの」
「え?どこで?」
「園町で。って、今日もだけど」
「え?いついつ?どゆこと?」
「紗々、俺が話すよ、やっぱ」
そういって、今度はケイが話し始めた。
「マイマイに、昼間に言ってたことの続きになるけどさ。警察にいたって言ったろ?あれ、本当なんだ。補導されたんじゃなくて、警察で事情を聞かれただけなんだけど」
「どういうこと?」
「まあ、ちょと、先生がテンション・ハイになってたっていうか」
「麻衣、あのね、その日、私、先生に会えたのがうれしくて、腕を組んだり、手をつないだりしちゃったの。私はまだ、先生の生徒気分でいたから。私は、懐かしい先生のつもりでいたんだけど」
「でも、そうはいかなかったってこと。学校も変わって、先生はもう紗々の先生ではなくなっているから、普通に1人の男の人として紗々に会いに来たんだよ」
「え?それの何がダメなの?」
「ダメじゃないよ?別に。紗々が良いならね。でも紗々には、先生は先生のままだったんだよ。そこに溝があるっていうか、こういうのって、男女じゃないから、男と女の溝とは言わないんだろうけど」
「あー。なるほど、なんとなくわかった」
「だけど、先生は気持ちが爆発しちゃってるから、紗々をそのー、うーん」
「いいよいいよ、ケイ。私が話すって」そういってゲラゲラ笑いながら、ケイの言葉を引き取って、紗々が話してくれた。
「麻衣、要するにね、先生は私のことを自分の恋人にしたかったから、ホテルでエッチなことをしたかったのよ」
「え!!」
「うん。そういうことなの」
「うーん、それはー、うーん、よくわからないんだけど、ダメなことなの?」
正直にいうと、私は紗々とケイの言う、エッチなことっていうのが、具体的にはどういうことなのかがわからなかったわけ。
いや、理論上は知ってるよ?でも、友達がいない時間が長ければ、恋愛の話にも触れることがないし、自分だって誰かのことをステキとか思ってないから、そういうことのリアルな情報は私の人生には今日まで、一切流れてこなかったんだもの。
検索すれば良いっていうけど、本当のこと知らない人が何検索したって、何が真実かなんてわからないものなのよ。
だけど、先生がしようとしていることは、わかった。この件に関してはあとで、自分で詳しく調べてみようと思う。
「うーん、ダメじゃないんだけど。私には、もう少し時間が必要っていうか。でも、お互いに会ってはいたいの。だから互いに自分の意見を言ってただけなんだけど、でもそれって、はたから見ると恋人同士が痴話げんかしているみたいに見えてたんだよね、きっと」
「でさ、マイマイ。俺が、女の人2人と一緒にいて、その人たちが道端で揉めちゃたって話したろ?あんな狭い街だからさ、大人が言い合いとかしてれば目立つんだよ。んで、制服も来ているしさ、アレ?って思ったらお互い、同じところに立ってたってわけ」
「はー、それを父兄に見られてたのか」
「そういうことです」
「じゃあ、ケイは、先生と言い合いしてた紗々を助けてあげたってこと?」
「いや、むしろ助けられたというか、助けてほしかったのは俺っていうか」
「もー、何よそれ」
「だってさ。ほぼ夜中だし、2人とも制服だし、街中で大人がギャーギャーやってるから、酔っぱらった大人はなんだなんだっていっぱい集まってきちゃうしで。その場から逃げ出したい一心で、逃げろ!って2人で逃げちゃったんだ」
「そうそう、なんであんなことしちゃったんだろうね」そういいながら、紗々が実におかしそうに思い出して笑ってた。「でも、あの時って、走って逃げるしか選択肢がなかったよね、あはははは」そういって、地面をバンバン叩いていた。
「で、逃げたはいいんだけどさ、家に帰るには駅の改札いくしかないじゃん?そしたら、そこに警官いて2人ともつかまった」
「え、なんで2人が捕まる必要があるの?」
「それは、俺も紗々も、レイジスの制服でいたからだよ。多分、だれか父兄が通報したんだよ。一応、警察の人も改札のところで事情だけ聴くって形で、見張ってたんだとさ」
「毎回思うんだけどさ、うちの学校のこのルールって、なんか陰湿だよね。なんでいつも父兄が首突っ込んでくるんだろうね」
その場で注意してあげればいいだけなのに、わざわざ学校に通報するのって、なんか気持ち悪いなって思った。
「ま、一応、おまわりさんも気を使ってくれてさ、派出所じゃないところでことの顛末を説明してさ。それでも、レイジスの校則があるからさ、仕方ないから保護者ってことで、俺はあの女の人、紗々は先生を電話でまた呼び出して、その場まで迎えに来てもらったの」
「あー、それであの女の人に助けてもらったなわけね」
「そういうこと」
「保護者といれば無問題だからな」
「あの若いおまわりさん、話のわかる人で助かったよね」
紗々がニヤニヤ笑いながら、ケイにそう言った。
「オフクロに知らされたらマズイから、変な汗出たよ。で、今日は、先生が紗々に会いたくてウロウロしてるんだよ」
「やっと紗々に会えたんだもんね、先生からしたら」
「そうかもだけど、紗々がもっと大人になるまで待てっつうの」
「先生と会うのはかまわないんだけど、私、もう少し時間が欲しい。前の学校はさ、学校自体に興味なかったからどうでもよかったけど、今は学校が楽しいから、問題起きて居づらくなるのは嫌だなあ。だから、何となく、今日も逃げちゃった」
「先生は、追いかけてきたの?」
紗々は黙って首を振った。
「そんなことはしないだろ。このあいだの誤解を解きたいだけだよ、きっと」
「なんで、そんなことケイにわかるのよ」
なんか、さも当然みたいな言い方するケイが気になる。
「そりゃだって。ここまで待って、紗々に嫌われたくはないだろ、先生は」
そういって、テントの中に置いてある未開封のチャコールの袋を持って、砂場のBBQセットのところまで歩く。
「私が、ちょっと子供なのよ、まだ」
そういって、紗々が、美しい横顔を夜空に向けて月の光を浴びていた。紗々が子供なら、私なんて本当の本物のガキだわ、小学生レベルよ。
「急いで大人になる必要なんかないんだ、紗々。俺たち、まだ16なんだから」
ケイがそう言って、小さく砕けたチャコールの上に地面に落ちている枯れ葉を乗せて、シュっと燃やしていた。
「今日ってさ、怖くなって2人に連絡しちゃったんだけどさ。落ち着いて、こうしてよく考えてみると、私は、先生が怖かったんじゃないってことが、今、わかった」
紗々は、膝を抱えて、自分の膝に顎を乗せ、遠い空の向こうを見るような瞳になった。
「そっかあ」
正直言って、私はどういう返事が正しいのかわからないんだけど、紗々の感じていることには賛成したかったので、こう答えてみた。恋愛の「れ」の字もわからない、野暮ったい自分が歯がゆい。
ケイは「そうかもな」と言って、袋を開けて、チャコールを数本、コンロの中に新しくくべて、火種をかき回した。ケイは、何だか、いろんなことがわかっている風に見えた。
ケイも誰かに恋をして、こんな風に遠い目をすることがあったのかなと思って、何となく胸の奥が落ち着かなくなった。
少し風が出てきたので、1人ずつ母屋でお風呂に入って温まって、汗も流してこようってことになり、先に紗々が母屋に戻った。
私はさっきの紗々の話が、結構なカルチャーショックだったというか、ほとんど同い年の女の子が、こんないろんな体験をしてるってことに軽い衝撃を受けていた。
紗々みたいなきれいな子なら、モテるのは当然なんだけど、そういう上っ面なことではなく、先生からの静かで深い愛のようなものに包まれている姿を見て、見かけだけではなく、本当に綺麗だなって感じた。
いつか私も、あんな風に、誰かが心の中に住んでしまったり、あんな風な柔らかな空気に包まれた表情をするほど、家族以外の誰かを信じたり、自分のすべてを預けることがあるのだろうか、と不思議に思った。
ケイはコンロに新品のケトルを置いて、お湯を沸かしていた。ここんところ、ケイが、今まで私とケイがいた世界とは違う世界で生きていることを見せつけられているので、何となく、さみしい気がする。
ケイはいつ、私と一緒にいた世界とは違うところに行っていたんだろう。全然気が付かなかった。
いつまでも、子供の時みたいに、ずっと一緒に遊んでいたかったな、と思った。いつか、ケイも、誰かのために、例えば、さっき話していた紗々の先生のように、1人の女性のために自分のことも顧みずに、その人を守ろうとしたりするのかな、って思ったら、すごく寂しい気持ちになった。
急に、昨日のバスターミナルで会った女性のことを思い出した。
「そういえば、ケイ。あの女の人って、誰?」
「ん?さっき言ったろ?助けてもらったって」
「そういうことじゃないよ、聞いてるのは。彼女なの?ケイの」
「いや。彼女ではない」
「じゃあ、なに?友達ではないよね」
「うん。友達ではないね」
「じゃあ、なに?なんで、ケイの母親だって名乗るの?」
「それは………あの時、保護者役してもらったから、学校の子には保護者だってことでアピールしてくれたんじゃないのかな」
「ふうん」
「なんだよ」
「別に」
「あの人なりに、気をまわしてくれたんだろ。ま、今回のはお前だったから、大丈夫だったけどさ。バッタリあったのが父兄や先輩なら、俺も助かっただろうし。悪気はないよ」
「そうかもね」
その通りなんだけど、なんか、私は、面白くなかった。
紗々が戻ってきて、次は私が母屋に戻ってバスルームに行く番。紗々がシャンプーの良いにおいさせているのが落ち着かない。
早く戻ってきたくて、母屋まで早足で歩くけど、サンダルだから思うように走れなくて、それが余計にイライラして、泣きたくなった。
1階にある来客用のバスルームに入って、紗々が使いやすく並べておいてくれた私とケイ用のフカフカのバスタオルや、何種類もの中から選べる香りのボディシャンプーなんかを横目で見ながら、乱暴に服を脱いだ。
いつもなら面白がって全部開けて香りを確認するんだけど、今日は、そんなことをしている気持ちの余裕が生まれなかった。適当に手にあたったものを持って浴室に入った。
来客用のお風呂場は、濃い緑色の大理石が敷かれた豪華なバスルームで、お風呂はピカピカに磨き上げられて、たっぷりとお湯が張ってある。
分厚いガラスの向こうには、竹垣で囲われた、お風呂から眺める用に作られた小さな苔と笹で作ってあるガーデンがあった。お風呂の湯気がガーデンに排気されるせいなのか、なんとなく、ガーデンはしっとりと煙っていて、幻想的。キャンドルの光で、この庭をのんびり眺めながらお風呂に入ったら、すごくリラックスするだろうな。
ここのシャワーは天井から雨みたいに降ってくるタイプなんだけど、私は、いまだに使い方が良くわからない。今日もお湯の温度とコックのひねるところを間違えて、思いっきり水というか大雨を頭からかぶってしまった。
おそるおそるコックを右に左にひねったら、とりあえず大丈夫な温度のお湯が出てきた。その温水を浴びながら、紗々が私のために買っておいてくれたカワイイリボンの形をしたスポンジも使わないで、直接、ボディーシャンプーを髪と顔とに振りかけ、髪をガシガシと洗った。
わからないことを、私が一人で考えてもバカみたいなことは、わかってる。
あの女の人が誰かなんて、本当なら、私には関係のないことだ。
でも、目を閉じると、ケイが腰を抱いて街に消えていった後ろ姿が浮かんできて、すごく腹が立つ。何となく、ケイに一杯食わされたような、してやられたような、不意打ちを食わされたような気分になるのは何故なんだろう。
だいたい、彼女でもなくて友達でもなくてって、じゃあ、なに?何なの?
私自身も、ケイに何を聞きたいのかわからなくて、そのことがすごくイライラする。なのに、ケイにうまくはぐらかされてる気がして、それもすごく腹が立つ。
そう思いながら、シャワーの水量を最強にして、痛いくらいのお湯の雨粒を天井から降らせてみた。泡が流れ切ったのを確認してから、お湯に飛び込んだ。
暖かいや。
手足が伸ばせるほどの大きさがあるお風呂っていいなあ。お湯の中に頭まで潜って、限界の長さまで息を止めてみた。
身体のすべてを優しいお湯が包み込んで、気持ちいい。水の中で息ができるなら、このままここでお湯に包まれて眠ってしまいたいと思った。
数えてないんだけど、1分くらいが限界だったと思う。ぶはあ!ってお湯から顔を出し、思いっきり息を吸い込む。
たくさん入ってきた空気の力で、たくさん息を吐くと、さっきからの変な感覚が、一緒に自分の中から出ていくみたいで、気持ちよかった。
繰り返せば、もっと気持ちがラクになるかもって思って、何回もやってたら、8回目には頭がクラクラして、それどころじゃなくなった。
お風呂を出てから(身体が冷えていたのかも)と思って、髪の毛をドライヤーでよく乾かしておいた。ボディシャンプーで洗った上に、何回も潜水してたから、髪の毛がいつもよりもさらにバサバサだ。
だけど、もうトリートメントしに戻る体力がないや。
紗々が着替え用に揃えておいてくれた何枚かのパーカーや、トレーナーなどの中から、灰色の大きめのパーカーを羽織った。
100円ショップで紗々と一緒に買った、もこもこした靴下も紗々がトレーナーの横に置いといてくれた。紗々は優しくて、気が利くんだな。
それをはいて、サンダルに足を突っ込んで山小屋に戻る道を歩いていたら、ケイがちょうど母屋と山小屋の半分くらいの距離まで、なんか歌を口ずさみながら歩いてきていた。私に気が付くと
「なんだよ、マイマイ。遅っせえから、風呂入ってんの覗いてやろうかと思ってたのに」って言いながらニヤニヤしてたから、「バーカ」と言って、走って逃げた。ずっと、このまま、一生こうならいいのに、って本当にそう思った。
今、私は、猛烈に後悔している。なんてことをしてしまったんだろう、本当に。自分のことを本当にバカなんじゃないかって思っています、今。
私は今、園町の繁華街近くに1人でいるの。時間は20時近い。もう本来ならば、家にいる時間なんだけど、こんなとこにいます。
ええと、なんでこんなことになったかというと。あの山小屋での話から数日経ってから、また3人で遊んでたら、紗々がやっぱり先生とちゃんと話してみることにしたって言い出したの。
それでね、先生に連絡を取って会う約束をしたんだけど、あんなことがあった後だし、いろいろ自分の気持ちに気づいてしまって、ちょっと勇気が足りない感じだから、園町の待ち合わせのところまで一緒に行って欲しいって言われたの。
私とケイはもちろん!一緒に来たわけですよ。それで、先生の前には行かずに、私とケイは、ちょっと離れたところで見てるから、もしまた怖くなったらすぐ戻っておいでって約束して、デパートの入り口のところの柱の陰に隠れて、2人で紗々を見守っていたわけ。
それで、結局大丈夫だったから、先生と一緒に歩き始めた紗々が、振り返って私たちに小さくバイバイって手を振ったから、私とケイは、ホッとしてハイタッチした。
ケイはそのあと、塾の申込をするっていうから、私も一緒についてって、それで、そのあとは何もすることがないから、2人で園町の新しく出来た店をプラプラ見てたの。
ケイと一緒に2人で出かけるのなんて久しぶりだったし、山小屋で紗々の話を聞いて以来、私には恋愛がとてもリアルなものに感じられるようになったせいか、なんとなく、こんなのが、もしかしたら、デートなんだろうかって思ってしまった。
ケイは園町の店を良く知っていて、新しい店を見つけてはチェックしていた。私は、たまに1人で来ることもあるけど、自分が知っている店にしかいかないから、どこに何があったかなんて気にしたこともなかったので、今日は少し園町に詳しくなったと思う。
それで、歩き疲れて、園町にすごく古くからあるコーヒー専門店のカフェに入ってお茶していたら、ケイのスマホになにかメッセージが入った。ケイはトトトっと返信をして、スマホの画面を伏せた。
「マイマイ、お前、今日は晩飯どうすんの?」
「ん?ママは今日はフラダンスのお稽古だけど、晩御飯はなんか作ってあるみたい」
「そっか。俺、今日、夜はちょっと用事できたから、もう少ししたら駅まで送ってやるから、明るいうちに家に帰っとけよ」
「どこいくの?」
「ちょっとな。大した用事じゃないけど」
「ふうん」
そういいながら、ケイがなんとなく少し怖い表情になったのを、アイスカフェオレを飲みながら盗み見した。
「シチューとかでも、ケイの分とっとかなくてもいい?修人に全部食べられちゃうよ?」
「あー、うん。今日はたぶん、晩飯も外だからいいよ」
「わかった。紗々も今日は外だろうし、なんか今夜は退屈だな~」
「お前もなんか、おばさん見習って、習い事とかしろよ」
「何にもやりたくないんだもん。私も、塾行こうかな」
「塾って、行ってどうすんの?お前、このまま普通に上に行くんだろ?」
「うん、そのつもりだけど。え?ケイは違うの?」
「俺は、別の大学も受けるよ。レイジスはどこもだめだったら続ける」
「ふうん………」
なんかまた、自分だけ置いてきぼりを食った気分になって、少し落ち込んだ。
別に、ケイにはケイの人生があるし、紗々には紗々の好きな人との時間があるのは普通のことだと思う。そうだってわかってるけど。
「マイマイ、お前は自分の速度で進んでいけばいいの。俺にはやりたいことがあるから、いろいろやらなきゃならないことがあるの。それに、俺にはオヤジはいるけど、一応、片親だろ?だからいろいろ準備をしておかなきゃならないことが、たくさんあんだよ」
私が少しどんよりしたのがわかったのか、ケイが私をフォローしてくれた。気持ちはうれしいけど、全然気分は上がらない。そうだよねって言えない自分がなんか、嫌だ。
「お前は、先のことを心配しないでもいいっていう幸せを、もっと大切にしろ」
そういって、私の飲んでいた残り少なくなったカフェオレに、ケイのグラスに入っていた、ほとんど飲んでいない濃いアイスコーヒーを足して、ミルクピッチャーのミルクを全部入れてくれた。
わーい、増えたーと思って飲んでみたら、すごい苦い。ケイっていつもこんなの飲んでんの?まだ少し時間があるからって、ケイが私にホイップクリーム一杯のパンケーキを頼んでくれて、ケイが1/4くらい食べた。
そろそろ解散の時間になったから、ケイが園町の改札まで送ってくれて、私が階段上っていくのを見てる。あと2分くらいで17:02発の急行がくるから、その電車が出るまで、ケイはきっと改札に立ってるだろう。
私は一旦、ホームまで上って、急行が来て出ていくのを確認してから、くるりとホームに背を向けて、階段を駆け下り、ケイが園町の繁華街へ歩いていく後ろ姿を確認してから、私も同じ方向へ向かった。
そうなんです。
私、今、ケイを尾行してるの。
いや、だから、なんだってこんなことしてるのか、自分でもわからないのよ。でも、改札でケイが手を振った後、私が帰るのをちゃんと見届けてるケイを見ていたら、ケイはこの後どこに行くのかがものすごく気になっちゃって。
気が付いたら、こうなっちゃってたわけ。一応、さっき来ていた服の上に、バッグに丸めて入れていた薄いパーカーを来たのでパッとみても私だとはわからないと思う。
ケイはすぐには用事が始まらないらしく、昼間、私と一緒にいたときみたいに、いろんな店を見てはチェックをしてた。私は、途中で見つけた雑貨屋で1,000円の伊達メガネを買って、さらに変装をすることにした。
18時近くなってから、ケイは20代くらいのお兄さんと道でハイタッチして、立ち飲みの店に入った。しばらく、お店の中でお兄さんや、顔見知りっぽい大人の人たちと楽しそうに話をしながら、何か飲んでいた。
私は、お店の角や、柱の陰に隠れながらそれを見ていた。あまり同じ場所にいると目立っかもしれないと思って、少しずつ場所を移動しながらやってるけど、こういうのって、以外とバレないもんだわ。
ケイは30分くらいそこにいて、そのあと、お店を出てから、小さな飲食店が続く道を大通りに向かって歩き、角に東急ハンズがある坂のある道まで来た。
ちょっとフラフラしてるから、お酒でも飲んだか、それか、機嫌がいいんだと思う。ケイは、子供のころから機嫌がいいとああいう歩き方をする。
ハンズのある角の坂をあがって4件目くらいに、BARと書いてあるけど、見た目が古い喫茶店みたいな店があり、そこの店の窓をケイが覗いてガラス窓をコンコンと叩いた。しばらくすると、お店の中から女の人が出てた。
………あの人だ。
この前、園町のバスターミナルで会ったあの人。
ケイの表情は見えないけど、女の人は嬉しそう。ケイの腕に自分の腕をスルリと白いサテンのリボンのように巻きつけて、2人は坂を上がっていく。
それを見て、私は自分でもびっくりするくらい、身体が寒くなった。一瞬で風邪でも引いたのかと思うくらい、寒くなって、冷えたのかと思って自分の身体を触ってみたけど、腕なんかは暖かかった。
足裏が地面に張り付いたのかと思うぐらい重たくて、足が前に出ていかないんだけど、ケイたちを見失うほうが嫌だったので、頑張って反対側の道路に渡って、私も歩き始めた。
ケイはいつものダルイ感じの雰囲気を出して、普段よりもゆっくりした歩幅で歩いているから、割とすぐに追いつけた。だけど、ケイがゆっくり歩いている理由が、その女の人の速度に合わせてあげているからだと気づいて、視界が暗くなり、一気に夜が進んだように感じる。
何となくなんだけど、ケイは、帰りたそうに見えた。女の人を嫌がっているわけではないけども、その人が話している内容には、全然、興味が無さそうだった。
ケイたちが歩いている道も、私が歩いている道にも、カップルや1人歩きの人たちが頻繁に行き来しているので、私が一人でこうして歩いていることも、別に変ではない。
ただ、ケイみたいな若い男の子を連れているカップルはいないので、ケイとあの人は、目立つといえば目立つな。
この女の人はいくつくらいなんだろう。かなり年上だけど、私のママよりは若い。大学3年の学人よりは上。だから、つまり、全然、見当が付かない。
この前の服装とは違うけど、今日もまた、ステキな洋服を着ていた。そう、この人のはファッションだ。
今日は黒のひざ下までのワンピースで、その生地にはヒラヒラしたフレアのような細いレースと、同じ素材でできているフリンジとが、左側の膝少し上位から斜めにスリットが入った、目立たないけどステキなデコレーションがしてあった。
フリンジ生地の一部には、ゴージャスな花模様や、黒のチェック模様が入ったものが入っていて、キリっとしててステキだ。足元は裸足に、細い鎖でできているかのようなバンドが幾重にも重なっていて、エレガントだけどちょっとだけワイルドな雰囲気。ヒールは、これでよく歩けるなっていうほど細いものだった。
足元とフレアでプラスのおしゃれをしているから、今日のアクセサリは、黒のストーンがついた大ぶりの中指の指輪だけ。
小さな強い艶のあるエナメルのバッグは、ケイに持たせていた。
当たり前なんだけど、私にはとてもこんなものは着こなせない。仮に、私が大人になっても、この人の年齢になっても、きっとこんなものは着こなせないだろうなって思った。
2人は、坂を上がり切り、デパート2階にある高級ブランドEっていう小さなお店に入った。一緒に入ることは出来なかったので、少し離れた場所でソファに座り、携帯を見てるお客さんのふりをしながらしばらく待っていたら、
ケイが買い物袋をたくさん持たされて、一緒に出てきた。ケイは、さっきまで私と一緒に居たときの黒パンツの上に、グランジっぽいデザインの黒いカットソーに着替え、その上に真っ白なGジャンみたいなのを袖まくりして羽織っていた。
袖まくりしている内側には綺麗な濃い緑色のアラビア模様の裏地があって、ステキだ。ケイには、とても似合っていて、この女の人は、ケイのことをとても良くわかっているって思った。
この前の水色のシャツもそうだったけど、こういう服着ると、ケイはもう大学生か、若い社会人に見える。カメラ越しにケイと女の人がエレベーターで下に降りるのを確認して、私も下に降りた。
もう、帰りたい。
何してるんだろう、私、バカみたい。
でも、私の足が、勝手にケイの後をついて行ってしまう。後をついていけば、自分が傷つくってわかっているのに。
そういえば、どうして傷つくんだろう。なんで、私、こんなに気持ちが重たいんだろう。
でも、泣いてしまったら、尾行ができない。足も疲れたし、のども乾いた。もう、このまま見失ってもいいやと思って、一旦、スタバに入って何かドリンクを買うことにした。
グランデサイズ、氷一杯のオーダーをしたアイスカフェラテを飲みながら、ガラスに沿って作られている浅いテーブルの小さな丸椅子に座った。ちょうどよく、ここから2人が観察できる。これだけじっと見ていても、外にあるお店のランプで私のことは見えないだろう。
2人は、お店の前の、ローマの円形劇場を真似た広場で立ち話をしていた。荷物が多いから、ケイが右手を自分の右肩にかけて、3つくらいの紙袋を背中側にぶら下げ、左手は女の人の小さなバッグ、足元に一番大きな紙袋を置いていた。
女の人は、ケイの手首あたりに軽く触れながら、なにか話している。ケイは黙って聞いているんだと思う。これから、ごはん食べに行くのかな。
ケイと女の人は、もうかれこれ15分くらいそこから全然動かない。誰かを待っているわけでもなく、ただ、そこに突っ立って話をしてるって感じだった。
おかげで休めたので、探偵ごっこはやめて家に帰ろうかな。おなか空いたな………なんて考えていた。
この後、高級レストランとか行かれちゃったら、私はもうどうにもできないし、それ以上のことになった場合(あれから、少しはネットで調べた。kindle本も何冊か買った)、私にできることはなにもないので、結局、帰ることになるわけだし。
と思って、買った伊達メガネを鞄にしまい、カップを片付けようとしていたら、すごいものを見てしまった。
私が今座っているところから斜め左が、円形劇場広場っていう丸い形をしたイタリアっぽいデザインの広場。これは駅から一番近いショッピングモールの入り口に続いている。
そして右側は小さな噴水があるイタリアの街角を模した待ち合わせ広場になっていて、そこには小さなアイスクリームやクレープやタピオカのお店なんかがいくつか並んで入っている。
噴水は直径2Mもない小さい、トレビの泉とギリシャ神殿を足したような感じのものなんだけど、観光なんかできてる人は、普通に後ろ向きに10円玉とか投げているので、それなりに名所らしい。噴水の四隅には、石灰みたいな白さの飾り柱が四本建てられている。
そして、その噴水の柱の影に、紅子がいた。
紅子は、サングラスをかけ、つばの広い帽子に大きなピンクの巨大な花飾りがついたものをかぶって、上下黒の服を着て、ケイと女の人がいる方向をチラチラ振り返って見ながら、彼らとは反対側になる柱に背中を預けていた。
サングラスしてるから顔まではわからないけども、あの帽子は絶対に紅子のだ。だから、あれは紅子です。
なんで私が断定できるかっていうと、前に友達つくりのためのインスタデビューでもしようかと思って、学校の同級生数人のアカウントを次々見ていたら、偶然、紅子のページを見つけた。
そこには、自分の独自メイク方法と髪の巻き方なんかのどうでもいい情報が延々とアップされた「あの子と差をつけるための顔回りアレンジ術 Happy Rouge」っていうタイトルの紅子の個人ページだった。
正直、どれもこれも見るに堪えないようなクソダサイものばかりだったが、その中でもひときわ目立ってひどかったのが、まさに今かぶっているお花の帽子だった。
なんでも自分で作ったコサージュと手芸用品店で買ってきた高級リボンを使ってアレンジしたものだそう。
死んでも使いたくないような代物だったが、アップされた動画やメイキング動画なんかには多くのいいね!がついていた。こんなしょうもないネタにフォロワーがたくさんついて、互いに褒めあいコメントをしているような歪んだ世界に、激しい吐き気がしたのを、今、鮮明に思い出せる。
私はスタイルにも自信ないし、そもそも非オシャレだから、人の服装小物などをどうのこうの言える立場ではないのは自覚している。
しかし、かなり好意的に考えたとしても、私は、あれはあくまでインスタでポチをたくさん得るためのものであり、まさか、実生活でも使っているなんて想像だにしなかったんだよ。
つまり、あんなもの頭に乗っけて外歩けるのは、作った本人以外にはいない。つまり、あれは、絶対に紅子だ。
で。
こんなところで柱の陰に隠れて紅子が何してるかっていうと、ケイを尾行してるってことに気が付いて、私は全身から血の気が引いていくような感覚になった。
あの紅子事件の後、大人しくなったと思っていたら、こうやってあいつ、ケイをストーカーしてたんだ。ってことは、ケイが話していてくれていた園町で紗々と逃げたときのも、どうやら紅子は本当に全部見ていたってことになる。
こっわ。
って、私も今、同じことしてるけど。
キモ。
………私も同じことしてるけどね。
私が座る席は、紅子がちょうどケイたちを振り返ってみるときに、紅子が一番よく見える。チラチラと振り返りながら、持っているタピオカドリンクを吸って、口をもぐもぐさせながら、また振り返る。
行動自体は慣れた感じだけど、ポジション取りが悪いから、こうして冷静に見ていると、彼女のしていることはすごく目につくな。尾行されているほうも、気が付けって思う。
そろそろ夕焼けも終わりかけ、多分、サングラスではケイ達のことが確認しづらくなったんだろう。紅子はサングラスを外して、大きなピンクの鞄の中に放り込んで、また振り返った。
うん、紅子だ。
こうなるともう、紅子を観察しているほうが面白いので、全員がどっかいくまでここで見てようかなって思って、一旦、席を立ちかけたけど、ちょっと気になって、また座った。私のすぐ横で、私が座る席に移動しようと準備してた人が、舌打ちした。
失礼、こっちも仕事なんでね。
いや、仕事じゃないけど。
しかし、そろそろケイたちも30分近く広場にいるし、もし食事の予約をしているなら、そろそろ移動する時間だ。紅子がこれから何をどうするつもりなのかは知らないけど、様子は見ていたほうがいいような気がして、座ってぼんやり眺めていた。
ああして、細かい表情まではわからないけど、ケイを目で追って、実際に行く先も追って、こんなことしてもどうにもならないのに、こんなことをしてしまうほど、紅子はケイが好きなんだなって思った。
あれだけみんなの前でハッキリ断られたのに。もう望みがないのに。本当に何回もこんなことしてるなら、当然、あの女の人の存在も知っているだろう。
紅子は2人のことをどこまで知ってるんだろうか。
紅子がスマホを出して、2人の方に向けた。そのあと、スマホを見て、中を確認している。
うーわ、写真、撮ってるよ。
そう思って、軽くあくびしながら見ていたんだけど、すぐに重大なことに気が付いた。
ヤバい、あれを学校に出されたらマズイ。
ケイのおばさんに知られると、さらにマズイ。
自分のスマホのインスタを開き、紅子のアカウントを確認したけど、隠し撮り的なものはアップされていないらしいので、ホッとする。
ケイは、持っていた荷物を地面に下ろし、手のひらをヒラヒラ振りながら、しびれをとってるしぐさをし、両手をうーんと空に向かって伸びをしていた。女の人は、ケイの手から受け取ったバッグからスマホを出して確認している。
円形広場は、まだ待ち合わせの人たちで結構人数がいて、中には缶のドリンクを持ったまま立ち飲みしているような人たちもいる。町にはボサノバみたいな音楽が流れて、なんか、騒がしいけどいかにも繁華街って感じで、私は嫌いじゃなかった。
紅子が柱の陰から、そろりそろりとスマホを持ったまま、ケイと女の人がいる方向へと移動しようとしている。遠くからの写真ならごまかせるけど、接写されるとケイのママじゃないことが完全にバレるな、と思った。
これはマズイなと思っていると、紅子が少しずつ、ケイたちとの間合いを詰め始めていた。人に見つからないようにと気を付けているせいなんだろうけど、完全に泥棒の「抜き足・差し足・忍び足」の歩き方になっていた。
それが、町に流れているボサノバの音楽とうまいこと合っていて、こんな状況じゃなかったら、指さして笑ってるところだ。
さて、どうしようか迷ったけど、これは多分、紅子に思うようにさせてはいけないんだと思う。何も対策なんて無いんだけど、とりあえず座っていたところにトレイ残したまま、私は氷だけになってるカップを持って慌てて店を出た。
スタバを出た私は、さっきまで私が座っていた席の前のガラス窓を通過しながら、ケイたちの背後に回るように、早足で歩き、その位置から紅子が何をするのか確認しようとしたんだけど、そろりそろりと近づいた紅子が、とうとうケイたちの前に立ちはだかってしまった。
ケイが上げていた腕を下ろしながらぎょっとした肩の動きをし、女の人が、スマホを持ったまま、珍しいものでも見るような横顔で、紅子を見てる。紅子は、自作の帽子の中で、半泣きの表情をしていた。
「ケイ………」
そのあと、言葉に詰まってしまって、必死で涙をこらえている紅子の表情には、この何週間かでうんと傷ついて、うんと悲しい思いをしてきたのが見て取れた。
だいぶイカレてはいるけど、紅子が本当にケイが好きなんだな、というのだけはわかる。多分、そうだと知っているのに、ケイが長いこと思わせぶりなことしたのかもしれないな、と思った。
「ケイ、その人がケイの彼女なの?だから、だから、私とは付き合ってくれないの?」
我慢してた涙が出てしまって、身体が熱くなったんだろう、紅子はヘンテコな帽子を両手で取って、ついでに腕で涙を押さえながら、耳下でツインテールにしてる髪をあらわにした。
長時間、帽子で頭蓋骨の形に添ってぺったんこにされた上に汗で蒸されているので、頭部が黒光りして、触角が下がった元気のない巨大な黒アリみたいに見えた。
いつもなら多分、ケイは「付き合ってねえよ」とか「知らねえよ」って言い方で突っぱねているんだろうけども、今日はその女の人が目の前にいるから、さすがにそれは言えない。
ケイがその人の前ではそういうことを言わないという事実に、一瞬、気分が落ち込む。でも、今は、目の前の事態を解決しなきゃ、私。
「あの………」って女の人が、紅子に何か言いかけたけど、そのタイミングで、私は、紅子とケイたちの間に「お待たせ―!」って言いながら飛び込んでいった。