「話は数日前に遡る」

 騎士隊長は思い出すようにして言った。

「翻訳魔法が無くなってから、ブレイズとエクリの間ではまともな会議が開けなくなったんだ。最初はブレイズの騎士が国境(くにざかい)で訓練を始め、辺境伯が不審に思って騎士を視察に行かせた。それ以降、お互いに警戒して兵士を国境(くにざかい)に集め続けている」
「それはヤバそうだな」
「うむ、このままだとなにかの拍子で衝突しかねない。だからといって、騎士が国境(くにざかい)を越えれば攻撃だと勘違いされかねない。我々も手をこまねいているんだ」

 難しい顔をした騎士隊長の前で、俺は過去を想起していた。
 魔王討伐戦争――あのときもこうだった。

「少し考えさせてくれ」

 そういって俺は騎士隊長に背を向けて、営舎の中から出た。相当暗い顔をしていたのだろう。いきなりその場を去った俺の背後に騎士たちは声を掛けられなかった。

 一足遅れてイーファが俺の後に続く。話しかけづらそうな顔で、俺の様子を見たあと、彼女は言った。

『どうかしたんですか?』

 いきなりのブレイズ語だった。会話を聞かれないように周りを憚ってのことだろうか。そんな優しさがすさんだ心をそっと撫でたような気がした。

『過去を思い出してな』

 返礼のようにブレイズ語で返すと、イーファは困ったような顔になって数秒言葉を探した。瞳がやっぱりそうだったと告げていた。

『数年前のことだ。魔王討伐戦争という戦争があったのは知ってるな?』
『え、ええ、人類を支配しようとした魔族とその支配を退けようとした人間の戦いでしたよね?』
『そう言われているな』

 イーファの答えは俺にとっては教科書的にしか聞こえなかった。彼女に罪はない。巷では人間が悪に勝利した偉大な勇士達による戦争だったと喧伝されているから、そう答えるのは当然だった。

『だが、そう簡単な話じゃなかった。もともと魔族が支配しようとしたのは全人類ではなく、領地の人類だけだった。それが幾重にも誤解されて、人間の敵である魔族という像が生まれた』
『それは……』
『魔族達は誇り高い種族だ。引くに引けなくなって、人間たちの像を引き受けてしまった。まやかしが現実になってしまったんだ。人間たちは魔族を悪と決めつけた。それで、戦争の中で魔族側も、人間側も必要のない犠牲を払うことになった』

 イーファは完全に黙りこくってしまった。衝撃だったことだろう。現実は市井に流れる噂ほど単純ではないということだ。

『魔族の言語を翻訳し、通訳した。通じ合えるなら戦争なんてしなくてもいいと訴えた。だが、止められなかった。しかも、魔王を殺したのは俺だった』
『で、でも、魔王を討伐したのは勇者じゃ』
『表面上はな。だが、俺は魔王討伐戦争で魔王を倒す方法を古文書から翻訳したんだ。勇者をそれを鵜呑みにして、実行しただけだ。結局は俺がとどめを刺したんだ』

 言っているうちに辛くなってきた。過去の自分の無能さをひけらかして、年端も行かない小娘に慈悲の言葉をもらおうとしている。そんな気がしたからだ。そんなことで許されることではない。膨大な罪過の前で自分を守ろうとする「本能的なもの」に吐き気がしてきた。

 あのとき、本当に無駄な殺し合いを止めたかったのであれば、魔王軍に下るなり、新しい勢力を作るなり、何でも出来た。結局、今も昔も自分が可愛かっただけなんじゃないか。

 ウェーアレスでアネッサに会ったとき、彼女は俺の過去を言おうとしていた。彼女にとって俺は「魔王討伐戦争の真のヒーロー」だった。それが世間の中に埋もれて、評価もされず消えていこうとしているのが残念に思えたのだろう。
 だが、違うのだ。翻訳魔法が生まれようが、生まれまいが、いずれにせよ俺は翻訳者を辞めていた。虐殺の片棒を背負った罪によって。

 言い切って、辛くなって、吐き気がして、自然に自分に問いかけていた。
 では、今ここで逃げるのか? 止められるかもしれないチャンスをみすみす逃して、再び悲劇の舞台裏を演じるのか? 自分は高みの見物で傷つかないでおいて、「あの時こうしておけば」と回顧して自分を慰め続けるのか?
 いや、それは贅沢すぎる。

 イーファは顔を伏せて、バツが悪そうにしていた。

『感情を繋げる人間の力……』
『……?』
『俺の師匠が言っていた言葉だ。翻訳も通訳も感情を繋げる人間の力だってな』
『その……素敵な言葉だと思います』
『俺もだ』

 また会話が途切れた。
 イーファも困っていることだろうと思って、彼女の顔に視線を向けた。しかし、彼女の顔は何か決意したような顔になっていた。

『キリルさんらしくありません』
『何だと?』
『キリルさんはもっとこう……ぱっとやるべきことをやって、問題をぱぱっと解決して、そういう人だと思います』
『そう……だったか?』

 自分の身の振り方を他人から聞くことなどあまり無かったから新鮮だった。単純な慰めでも失望の言葉でもない、彼女なりに掛けるべきと思った言葉だったのだろうか。

『今、感情を繋げる人間の力を持っているのは私達だけなんです。だから、止めに行きましょう。この戦争を』
『ああ』

 イーファの決心に満ちた笑顔に強い肯定の言葉を返す。もとからそのつもりだったが、イーファの激励が心の底に響いた。
 今度こそ止めてやる。全身が熱くなる感覚があった。決意が体を燃やしているようだった。

 騎士隊長にブレイズに渡ることを伝えて、馬を借りた。護衛に数人の騎士を連れて行けと言われたが、もしものことを考えてこれは断った。
 そもそもブレイズ人であるイーファを連れているのである。むやみに攻撃はしないだろうと踏んだ。
 泉まで戻って、ルアの様子を見に行った。ある程度顔色は改善していたが、彼女は馬を引き連れた俺たちをうんざりした目で見上げた。

「えぇ? もう馬には乗りたくないんですけど……」
「しょうがないな。調子の悪いやつを連れて行くわけにも行かないし、お前はここで待ってろ」
「はあい……」

 ルアはぐったりと木の幹にもたれた。俺は野営地の出口に向けて踵を返す。イーファはルアに憐れんだ目で見てから、付いてきたのであった。
 俺は国境(くにざかい)のほうを睨んで、馬に乗った。数年ぶりの騎乗だが、体は振り子の遊具(ブランコ)を遊ぶときのように覚えていた。

「イーファ、いくぞ」
「は、はい……」

 俺の手を掴んで、イーファは後ろに座った。背中にしがみつく彼女はいつにも増して、可愛らしく見える。
 しばらく馬を飛ばしていると、ブレイズ人の騎士と兵士が集まっている別の野営地が見つかった。ルアの言うとおり、旗持ちが居るためどちらに所属しているのかはひと目で分かる。
 予想していなかった馬の接近、それを駆る男――俺の容姿がエクリ人らしかったためか、兵士たちはざわつき始める。しかし、背後に居たイーファの顔を見て、彼らは安心というより困惑の顔立ちを見せた。
 見分を命じられたのか、一人の兵士がこちらに駆け寄ってきた。

『おい、止まれ! 何者だ!』
『通訳者だ! エクリの騎士隊長の命でこちらに来た』
『通訳が何のようだ!』
『エクリ側に攻撃の意図はない。交渉の上で、お互いに徐々に撤兵をしよう』

 兵士は怪訝そうな顔をしながら、戻っていった。話し合いをしているらしい。しばらくすると、またこちらに向かって走ってきた。

『いきなりそんなことを言われても信じられん、証拠を見せろ』
『俺の後ろに乗っているのは宮廷魔導師イーファ・レヴィナだぞ』
『なっ……宮廷魔導師が関わっているのか!?』
『そうだ、エクリの野営地まで案内するから、使者を出せ』

 兵士たちはまだ俺たちのことを信用しきっている様子ではなかったが、ややあって数十名が馬に乗って、こちらに近づいてきた。使者とその護衛らしい。
 イーファが背後から覗き込むように顔を出した。

「少し多すぎでは……?」
「まあ、いきなり来て『交渉しろ』という奴が怪しまれないわけがないからな」
『おい、交渉に乗ってやる。案内しろ!』

 強気の騎士を先頭に、兵士と他の騎士が集まってきていた。俺は肩をすくめつつ、その前を馬2頭分ほど開けて進んでいく。
 しばらくすると、エクリの方の野営地が見えてくる。数多くの軍勢はエクリの騎士を刺激したのか、警戒態勢を取らせた。一触即発の状況は彼らが俺を視認したことで多少は和らいだ。
 ここから実際の交渉が始まる。お互いが誤解していたことを理解すれば、緊張状態もほぐれるはずだ。
 そのはずだった。