翻訳魔法はしゅーりょーしました。


 メイドや執事、家の人間、警備に見つかりそうになりながらもギリギリのところで回避しながら、ルア探しは続いていた。

 もっとも役に立ったのはイーファの姿を消す魔法で、持続時間が短いものの発動している間は他の人間から姿を隠すことが出来た。何度か見つかりかけたところをこの魔法で切り抜けたのだ。
 疲れで緊張の糸が途切れそうになっていたところ、二階の奥の方の部屋で彼女を発見することが出来た。
 彼女は座って机に脱力した様子で両手を投げ出していた。机には幾つか小難しそうな題のついた本が並んでいる。綺麗に加工されたガラス窓から、日が落ちた町に顔を向けてたそがれていた。

「ルア」

 先に声を掛けたのは俺だった。ルアはこちらに振り向く。
 居るはずもない俺らに驚いて、声も出ないようだった。しかし、ややあって彼女の顔は強ばる。

「警備を気絶させたのは、キリルさんたちだったんですね」
「まあ、不可抗力でな」
「わたし達はルアさんにもう一度考え直して欲しいと思ってきたんです」
「ルイとの約束をふいにすれば、あいつは何をしでかすか分からないぞ」

 ルアは俯いて、ただ黙っているだけだった。
 ルイとの約束を引き合いに出すのは卑怯にも思えた。確かにルアのために説得しに来たという面はあるが、俺にとってもフラフラただ単に生きているだけよりもルア達と共に翻訳魔法を復活させるための長い旅をしていたほうが生きている意味を感じられた。
 だからこそ、ルアには自分たちのもとに帰ってきて欲しい。

「ルア、決断するのはお前だ」
「私は――」

 ルアが俺の言葉に答えようとした瞬間、鉄の棒が何本も床から生えてきた。鉄の棒は複雑に絡み合って、俺とイーファを鳥籠のように囲ってしまった。
 こんなことは魔法以外ではありえないことだ。背後に振り返る。そこには眼帯を付けた男が一人立っていた。

「お父様……」
「本当は穏便に済ませるはずだったが、こうなるとはな」

 ルアの顔はみるみるうちに青ざめていった。
 鉄の棒に触れても、鳥籠はびくともしない。男を睨みつけて、俺はドスの利いた声を低く響かせた。

「お前、ルアを翻訳魔法から遠ざけてどうするつもりだ」
「君たちには関係ないことだ」
「関係ないわけあるか! 今まで一緒に旅をしていた仲間なんだぞ」
「そうか」

 お父様と呼ばれた眼帯男は俺の言葉に些かの興味もない様子で、部屋から出ていく。
 後に残ったのはバツの悪い雰囲気だけだった。
 ルアは青ざめた顔で俯き、イーファはこの先どうなるのか不安を懐きながらもなんと声を掛けたら良いのか分からず、俺は疲れで頭が鈍っていた。
 鉄の棒でできた壁に寄っかかる形で座り込む。角度的にしたからルアの顔を覗き込む形になる。
 彼女は俺の視線を避けるように顔を背けた。

「……ごめんなさい」

 ルアがやっとのことで絞り出したような声で、そう呟く。
 いつも元気な彼女がこんなふうになっているのを見ると居たたまれない気持ちになってくる。今は彼女を責める気持ちにはなれなかった。

「まあ、お前の気持ちも分かるから良いけどよ」

 この際だから、ルアには聞いておいて欲しいことが一つあった。
 息を整え、顔を見せてくれないルアをまっすぐ見据えて、先を続ける。

「実は俺、昔は通訳者だったんだ」

 ルアとイーファが同時に驚いた様子で顔を上げた。やっと顔を見せてくれた。

「で、でも、キリルさん、前は本商人だって」
「嘘だ。俺は元翻訳者で、翻訳魔法が出回って職を失った」
「なんで……」

 ルアは困惑した様子で、視線を巡らせた。

「翻訳魔法が無くなれば、キリルさんの仕事だって戻ってくるかもしれなかったんですよ」
「ああ、そうだな」
「じゃあ、なんで……なんで、私の旅に協力してくれたんですか……?」
「なんでだろうな」

 俺は最初にルアに出会ったときのことを思い出す。彼女はブレイズ語が話せないにも関わらず、エクリからブレイズへと旅をしていた。言葉に無頓着な方今の人らしいやり方だった。
 だが、言葉が通じないからといって自分たちと彼らを断絶する人々とはルアは違っていた。通じないながらに挑戦しようとする彼女のパッションに俺はいつの間にか見惚れていたのかもしれない。
 だからこそ――

「お前が危なっかしくて見てられなかったから、かもな」
「な、なんですかそれ……」
「そもそもな、ダサいじゃねえか」
「ダサい?」

 ルアはきょとんとして首を傾げる。

「翻訳者や通訳者が人の叡智なら、同じ人に作られた翻訳魔法だって人の叡智だ。自分の能力を上回られて、仕事を取られて、文句を言うなんて職人としてダサい」
「キリルさん……」
「それにお前みたいな奴なら、翻訳魔法と通訳者・翻訳者を両立できる何かを考えられるだろうと思ったから」

 確証はなかった。彼女のパッションに当てられただけで、ルア自身もそんなことは考えていなかったかも知れない。だが、無意識にそう感じていたことは事実だった。
 ルアの横顔は少しずつ色を取り戻していた。つうっと彼女の頬を涙が伝っていった。彼女はイスから立ち上がって、鉄柵を力強く掴んだ。

「……そこまで期待されてるんだったら、やってみせますよ!」

 涙を流しながら、ルアは叫んで宣言する。

「翻訳魔法だって、翻訳者だって、通訳者だって、なんだって私の手でどうにかしてみせます!」
「ルアさん……!」

 イーファが胸の前で手を組んで、華やかな表情を見せる。
 もう彼女に迷いは無かった。

 どうにかしてこの鉄の檻を壊す方法は無いか、俺達三人は試行錯誤を繰り返していた。
 掴んで揺すっても、タックルしても鳥籠は相変わらず歪む様子もない。イーファが熱を与える魔法や衝撃を加える魔法を試してみたが、これも効果なし。ルアはその間、再びイスに座り、何かを考え込んでいた。

「ルア、なんか良いアイデアでも出たか?」

 侵入したときの疲れも相まって、俺は満身創痍という感じだった。イーファもこの状況で出来ることを全部試して、疲れ切ってしまっていた。魔法を使う際に消費するMPの減少は、すなわち精神力に直結している。魔法を使えば使うほど精神的に疲れてしまうのだ。
 ヘタっている俺達の前で考え続けていたルアは何か思いついたようで「よし」と呟いてイスから立ち上がった。
 親子だから何か分かるだろうと俺達は期待していたが、始まったのは鉄柵への全力タックルだった。

「うおりゃぁ!」

 ガシャン! 鉄の棒はルアの三回目のタックルで歪んだ。
 一体どういうことだろう。内側から力を加えたときはびくともしなかったというのに。

「ああ、そういえばそうでしたね……」
「なんだ?」

 分かった様子のイーファに掛けた疑問はルア自身がその身で答えてくれていた。

「内側からだと力を加えても壊しづらい構造なんですよ、この檻っ!」

 数回のタックルで、檻には人一人が通れるくらいの歪みが出来た。全力タックルを繰り返したルアは俺達が檻を脱出できたのを確認すると長く息をはいた。そして、膝に手をついて肩で息をする。

「大丈夫か、ルア?」
「だいじょう……ぶです……」
「あ、ありがとうございます」

 イーファはおずおずとお礼を言って、ぺこりと腰を折った。
 そんなとき、部屋の中へと入ってくる複数の人影が見えた。その先頭には先程の眼帯男、後ろに警備兵を連れている。

「さすがはルアだ。私の牢獄魔法を破壊するなんて、力が有り余っているようだ」
「さて、聞かせてもらおうか。ルアをここに閉じ込めておく本当の理由を」

 眼帯男はため息をついて、続けた。

「あれほどの魔術的知の集合体である翻訳魔法の消滅の裏に何があったのか、君たちは知らないだろう」
「誰もしらないからこそ、旅の中でそれを知ろうと――」
「ああ、そうだろう。だが、私はこれを大きな陰謀だと考えている」

 眼帯男はルアの言葉に被せるようにいう。彼女の表情がまた固くなった。
 俺は翻訳魔法が作られた経緯を思い出していた。各国の魔術の重鎮が集まって作られた翻訳魔法は、当時の魔法技術の最高傑作だと言われた。そんな翻訳魔法を誰にでも使えるように整備した高位魔術師達は大衆から大いに評価され、英雄視された。
 その翻訳魔法がいきなり使えなくなり、高位魔導師達も原因を解明できていないという現状に陰謀を感じるのも無理はなかった。
 眼帯男は腕を組んで、ルアに視線を向ける。その眼差しは優しい親のものであった。

「ルア、私が大いなる陰謀に没頭する愛娘を気にしないとでも思っているのかね」
「しかし、お父様、それは――」
「心配なのだよ、君のことが。ルイが居なくなってこれ以上無い良い時機だった」
「私の話を聞いてください!」

 ルアは机を叩いて、立ち上がった。そして、眼帯男に迫る。
 俺とイーファはそんな彼女の背中を静かに、しかし応援の眼差しで見つめた。

「私は元々家出人です。それでも心配してくれる親に生意気なことをいう資格はない。でも、私を追って大量虐殺をしようとしたルイお兄様と約束をしました。お互いに為すべきことを成してから、家族として相まみえましょうと。それにもう一人じゃないんです。キリルさんとイーファさんという素敵な仲間がいる。一人は元翻訳者で、もう一人は宮廷魔術師です。素人じゃない。仲間と一緒に旅をしてきたんです。その中で目的以上に大事な絆を育んできたんです」

 眼帯男は口を半開きにしながら、ルアの言葉を聞いていた。言葉の意味は理解出来ていても、受け入れるのが難しいときの顔だった。

「だから、行かせてください。翻訳魔法を復活させて、必ずここに戻ってきてみせます。私はあなたの娘ですから!」

 ルアの声はいつもの元気なものに戻っていた。
 眼帯男はその声に唸りながら、しばらく考えていた。ルアは答えが出るのをゆっくりと待った。
 彼は大きなため息をついて、それから言った。

「ルアらしい答えだ」
「ま、私ですから」
「良いだろう。家出したときも私にはルアを止められなかった。君の溌剌さには完敗だ」

 ルアはこちらを振り返って、ニッコリと笑顔を見せる。イーファはこくこく頷いてそれに答えた。

「再出発の準備をしよう。馬車と荷物を用意させるよ」

 そういって、眼帯男は部屋を去っていく。ルアは脱力して、その場にへたり込んだ。

「おつかれさん」

 俺は彼女の肩をたたいて、廊下に出る。新鮮な空気が吸いたかった。
 背後でイーファとルアがキャッキャと何やら騒いでいた。再び旅を続けられる。最初は面倒だと思っていたことが、今では完全に捨てきれない物となっていた。
 人は変わるものだ。廊下の端でぼやける魔法灯を見ながら、俺はそう思った。

「あのぅ、これいつまで歩くんですー?」

 ルアがイライラしてそうな声色で不平をいう。茶色の道が俺達三人の前に延々と続いていた。道は周囲から少し盛り上がった場所にあった。雨季に近くの川でも氾濫するのだろう。そのために整備したと見える。

 出発したは良いものの、翻訳魔法に関わる手掛かりを見つけられていない俺達は途中までディフェランス家長の用意してくれた馬車で隣町に向けて走っていた。
 しかし、馬車は途中でぬかるみに足を取られて動けなくなり、馭者がこれ以上は勘弁してくださいと泣き顔で懇願してきたので、あとの道は歩きでいいとつい言ってしまったのであった。

 ただ歩くのは俺の専売特許だったが、元気の有り余っているルアには退屈だったようで事あるごとにぶーぶー不満をぶちまけていた。

「はあ、退屈なら歌でも歌ってろよ」
「良いんですか、私、幼い頃はメルローの教会の聖歌団やってたんですよ」
「家出娘が清楚の皮を被ったこと言ってら」
「何か言いました?」

 けっ、といってルアの追求をかわす。彼女もそれ以上気にせず、何やら歌らしきものを歌い始めた。
 歌らしきもの(・・・・・)と言ったのは、それが大分酷いものだったからだ。音程は外す、歌詞は抜ける、リズム感もグダグダで、聞いててイライラしてくるものだった。

「お前、本当に聖歌団に居たのか?」
「え、そうですけど……」
「そこのシスター、歌下手だったんだな」

 ルアはよく意味が分からないという様子できょとんとしてから、また歌を歌い始めた。今度はエクリの民であれば誰もが知っているような、よく聞く民謡だ。ルアの音痴ぶりはここに来て、はっきりした。
 最初は聞き流していたが、段々と神経が苛立ってきた。

「おい、黙れ」
「えっ」
「下手な歌を歌うな。神経に障る」
「酷っ!?」
「お前、絶対自己紹介するときに聖歌団に居たとかいうなよ。後悔することになるからな」
「ほんっとうに酷いですね!? ていうか、歌でも歌えって言ったのキリルさんじゃないですかぁ!」
「下手な歌を歌えとは言ってない」

 ぷんすか怒り出すルアを横目に背後についてきているイーファの様子を確認した。彼女は道中で摘んだ可愛らしい花を手のひらに収めて、それを愛でながら俺達二人について来ていた。どうやら俺達の話は聞いていないらしい。
 俺は首を回して、彼女の方を向く。

「おい、イーファ」
「は、はい?」

 自分の世界に没頭していたのか、イーファはいきなり呼ばれてびっくりした様子で答える。

「お前、歌は得意か?」
「う、歌ですか……?」
「こいつの歌が下手すぎて困ってたところだ」
「きーりーるーさーんー、そろそろ擦るのやめてくれますぅ?」

 腕を組んでルアが抗議してくる。イーファはしばらく何かに迷っているような顔をしていたが、ややあって、人差し指を立ててそれを振り始めた。
 それに同調するように空中に様々な色の光が散ってゆく。光が散るたびに木琴を叩いたような音が鳴った。それが連なって、旋律を作り上げていく。俺とルアはその光と音の絡み合いにしばらく目を奪われていた。

「歌は苦手だけど、これくらいなら出来るかな……」
「凄いじゃないですか! どうやってるんですか、それ!?」

 ルアがイーファに抱きつかんが如くの勢いで迫る。イーファは少し困った顔になる。

「えーっと、説明すると長いんですけど……」
「教えて下さいよぉ、私も一端の魔術師ですから出来るかもしれません」
「お前、魔術師と言っても治癒師(ヒーラー)じゃねえか」
「錬金術師クラスじゃないから少しくらい詠唱魔法も使えるんですぅーべーっだ!」

 舌を出して煽ってくるルア。いずれにせよ魔法を使う素質が無い俺にとっては関係のない話だった。
 イーファは頭の中を整理できたのか、頬に手を当てながら順序立てて説明を始めた。専門的な内容は理解出来なかったが、彼女自身は分かっている口ぶりだった。
 しかし、話が進むにつれてルアの表情は家の中でカナブンでも踏み潰した時のような顔になっていった。これは見ていて面白い。

「……というわけで、シュルディー分布のうち、先の式のx2、xプライムの魔導係数がインスピダール値を超えることによって起こるのが先程の魔法の原理的な説明となります。えっと、わかりましたか?」
「わ、分からんです……」
「困りましたね、これでも初等魔法学だけで分かるように解説したつもりなんですが……」
「とにかく簡単そうに見えて凄い魔法なんだってことはわかりました、はあ」

 ルアは残念そうに大きなため息をつく。傍から静かに見ていったが、良い気付きだと思った。
 専門家は簡単にこなしているように見えて、それを簡単に出来るようになるのに時間と苦労を消費して相当の訓練をしている。翻訳者もそうだ。一人の翻訳者が生まれるのには、彼の一生分の努力が必要になる。過去に「飛竜母艦(ドラゴンキャリアー)」を「飛行トカゲ運搬用の船」と訳した翻訳者が居たが、そういうことである。
 まともな翻訳は一人の人生を消費して得るものだった。本来は。

「キリルさん?」

 (うつつ)に戻ってくる。イーファが心配そうな表情で俺の顔を覗き込むように見ていた。

「なんだ」
「いや、難しい顔をして黙り込んでたので気になって……」
「なんでもない」
「お手洗いにでも行きたくなったんですかぁ? ここでするなら開放感ありそうですね。新しい趣味に目覚めそう!」

 ルアがニマニマしながら、悪い冗談をいう。

『新しい趣味を? ルアー、冗談はそこまでにせにゃ。つまらないかもだ。腐った卵になるので?』
「え? 今のってなんて言ったんですか?」
「なんでもない」
「ブレイズ語ですよね、イーファさん分かります!?」
「いや……」

 イーファも良く分からないといった顔になる。そりゃそうだ。先の言葉はブレイズ語ではない。伝説の誤訳(・・)者ナッチ・トーダーの言語だ。誰もわからないかもだぜ。こいつはコトだ!
 そんなことを言っていると、ドタドタと地面の揺れる音が聞こえてきた。地響きは確実に自分たちの方へと近づいてきている。
 イーファは不安そうな顔で、周りを見回す。

「何でしょう、この音……?」
「なんだあれ……」

 振り返った俺の目に見えたのは大量の騎士だった。馬を駆って土埃を上げながら、こちらに疾走してくる。あっけにとられているうちに彼我の距離は縮まっていた。
 轢かれる寸前でルアとイーファを掴んで道の脇に転がり込んだ。地面にぶつかって、そして一瞬意識が途切れる。意識を取り戻すと、何か柔らかいものが顔の上に乗っかっていた。しかも、体の上に伸し掛かられているようだ。

「いてて……」
「おい、退いてくれないか」
「ひゃあっ!?」

 イーファは悲鳴を上げて、俺の上から離れた。小さなお尻がやっと頭の上から退き、重圧から解放される。彼女は赤面しつつ、「ごめんなさい」と連呼しながら何回も腰を曲げている。
 ルアはそれを見つつ、ニヤニヤし始めた。

「良いんですよ。男の人にとって尻に敷かれるというのはご褒美で――」
「お前は馬に轢かれたほうが良かったようだな」
「……助けてくれて、ありがとうございます」
「しかし、一体何だったんだ」

 離れていく騎士たちの背中を見る。あれだけ多くの騎士が国境(くにざかい)に向けて疾走していくのは珍しいことだった。

「あれは多分エクリの貴族評議会付き連合騎士隊ですね」
「分かるのか?」

 ルアは頷く。

「ディフェランス家からもお家に付いている騎士を連合騎士隊に送っているんです。旗持ちが居るので、間違いないはずです」
「しかし、何故そんなのが動いてるんだ?」
「分かりませんけど……何か並々ならない事態が起こっているということだけは確実ですね」

 遠くに去っていく騎士たち。俺達は道の先を不安とともに見つめるのであった。

 ついでのことだから、道の端でしばらく休憩をとっていた。ルアもイーファもくたびれてしまって、すぐには動けない様子だったからだ。俺は腰につけていた革袋の水筒を開けて、一口飲んだ。ルアが物欲しそうな顔でこちらを見ている。

「やらんぞ」
「一口だけでも……」
「出てくる前に準備しなかったお前が悪い」
「あー! もしかしてキリルさん、間接キスになるのが恥ずかしいんですかぁ?」

 飲み込んだはずの水を吹いた。
 ルアは得意げな顔で先を続ける。

「良いじゃないですか、間接キスくらい! 一緒に寝た仲でしょぉ?」
「い、一緒に寝た!? キリルさんとルアさんって、既にそういう関係だったんだ……」

 イーファは頬に手を当て、顔を赤くしながら言った。完全に勘違いしている。

「紛らわしいことをいうんじゃねえよ」
「なーにが、紛らわしいんですかぁ?」
「ふん」
「――ごふっ」

 投げつけた水の革袋がルアの腹にクリーンヒットした。彼女はお腹を抱えながら、数秒間ぷるぷると震えていた。

 再び出発しようと思い、ふと立ち上がったところで先のと同じような地響きが聞こえてきた。音のする方に目を向けると、騎士たちがまた馬に乗って疾走していた。しかし、先程よりも規模が小さい。どうやら出遅れ組のようだった。
 それを視界に入れたルアは何か思いついたのか、ぽんと手を叩いた。

「そうだ、良いことを思いつきました」
「おい!」

 言ったそばから道に飛び出すルアの背中に叫ぶ。道に出た彼女は仁王立ちで両手を大きく振った。疾風のような速さで迫る馬の迫力に彼女は全く怖じけなかった。誰かが「そこを退け!」と言った。騎士だろうか。被っているヘルムのせいで口元が見えず、誰が言ったのかは分からなかった。

「止まってくださーい♪」

 ルアは朗らかな顔で、甘い声を出した。騎士たちの先頭の馬が横につけて止まる。後続もそれに従って徐々に速度を落として、止まった。
 先頭の騎士がヘルムを開けて、ルアをキッと睨みつけた。

「クソッ! こっちは急いでるんだぞ、冒険者崩れに構ってる暇はない!」
「本隊はもう行っちゃったから急いでるんでしょう?」
「そ、それはそうだが」
「私達もこの先にいくんですよ。何が起こってるのか知りたいんです」
「エクリとブレイズの国境(くにざかい)で戦争が勃発しそうなんだ。分かったら、そこを退け!」

 騎士は焦りで余裕のない様子だった。俺とイーファはお互いの顔を見合わせた。
 エクリとブレイズが戦争寸前? そんな話は聞いたことがない――二人の顔は何も言わなくても、それを表していた。

「もし良かったら、連れて行ってくれませんか?」
「おい、ルア……!」

 俺は土手のようになっている道の上に登り、ルアを困惑する騎士の前から引き離して二人で背を向ける。イーファも慌てて、俺の後を付いてきた。

「わざわざ荒事に関わる必要はない」
「そうですよ、せんそうですよ。怖いじゃないですか」

 イーファの「戦争」の言い方は口足らずの子供のようなものだった。それで、この二人が本当の「戦争」を知らないことが分かる。一人は小競り合いの喧嘩だと思っている、もう一人は暴走する自然のようなものだと思っている。どっちもこの世界における「戦争」の本当の姿からはかけ離れている。
 二人に責められたルアはそれでも引こうとはしなかった。

「翻訳魔法に関わりのあることかもしれませんよ」
「そんな上手くことが運ぶわけがないだろ」
「でも、まだ戦争は起こってないんですよ。見に行くだけ見て、危なそうだったら離れる。それで良いじゃないですか」
「しかし、なあ――」

 背後で馬のゆっくりとした足音と甲冑の擦れるような音がした。振り返ると騎士が迫ってきていた。その表情は先程までの焦りではなく、治安を守る誇り高き尖兵のそれだった。

「そこを退け、お前らを戦場にまで連れて行きたくはない」
「野営地にはブレイズ語が分かる人が居るんですか?」
「は?」

 ルアのいきなりの質問の意味を騎士はすぐに取ることが出来なかった。

「ブレイズ語が分からなかったら尋問も交渉も出来ない。何のために戦争しているのか分からなくなるじゃないですか。殺すために戦ってるんですか、あなたたちは?」
「うっ……じゃあ、そっちはブレイズ語が分かる人間が居るというのか?」
「二人ほどは居ますけどぉ。元翻訳者と」
「翻訳者だと?」

 驚くのも無理はない。このご時世に翻訳者という職業の者は本当に少ないからだ。粗悪な通訳者だけが増える理由は、コミュニケーション能力さえあればどうにでも誤訳をごまかせるからだ。翻訳者はそういったごまかしが効かない。翻訳の間違いは記録になって残り、無能の烙印を押すことは容易だ。
 だからこそ、翻訳魔法が生まれたときに真っ先に切り捨てられたのは翻訳者だった。翻訳魔法が無くなった今、翻訳者を自称する者はきっと自己の能力に自信のある誇り高い専門家に違いない。
 だが、そんな人間に俺は一回も会ったことが無かった。

「騎士様が戦場まで連れて行きたくないというのであればー」

 ルアはそーっとこちらに目を向ける。俺とイーファを交渉材料に使うつもりのようだ。先頭の騎士の後ろから部下の兵らしき甲冑男が彼の横に出てきて馬を止めた。

「翻訳者ならブレイズ人との交渉に使えるやも知れません」
「しかし、民草を戦場に連れて行くなんて聞いたこともない」
「一度戦争が起これば、交渉など出来なくなりますぞ。ご決断を」
「ううむ……」

 騎士は唸った。

「分かった。野営地まで案内する。あとは騎士隊長に会ってどうするか決めろ。いいな?」
「はあい!」

 ルアの明るい返事に騎士は大きなため息をついた。
 後は完全に流れに飲み込まれてしまった。俺達三人は騎士たちの後ろに載せてもらい、騎士たちは野営地を目指して馬を爆走させた。目にも留まらぬ速さで景色が移り変わるのを見るのは新鮮なものだった。


 目的地の野営地に到着すると、ルアはフラフラしながら奇妙な鳴き声を上げていた。どうやら馬で酔ったらしい。直立することも出来ないらしく、そのまま何処かに行きそうな勢いだった。

「うぇ……っ」
「馬車で酔わないで、馬では酔うのか。珍しいな」
「速すぎんですよ、馬が……ぅえっ……」

 イーファが肩を支えながら、やっとのことで歩いていたが顔色がとても悪い。彼女はもう片方の手で、馬から降りた騎士の一人を捕まえた。

「あの、彼女を休ませることが出来る場所って……」
「野営地だから、泉か何かがあったはずだ。ほら、そっちの方に」

 騎士の指すほうには清い水が溜まっている池があった。行ってみると透明度が高くてそこまで透き通って見えた。
 ゲール川でもここまで綺麗な水場ではなかったので、俺はしばらく魅入られるように見つめてしまっていた。

「あの泉の水は戦傷を癒やすと言われている。その娘もしばらくここで休んでいくと良い」
「ありがとう……ございます……ぅぇ……」

 ルアは泉の脇の木の幹に腰掛ける。これは俺達に聞かずに勝手にことを進めた報いかもしれない。そうは思ったが、さすがに可哀想なので言うのは止めておいた。
 騎士たちの案内で、俺とイーファは騎士隊長の居るという営舎に連れられた。騎士隊長は甲冑を着ていない俺達を見て、怪訝そうな顔をした。

「何なんだ、こいつらは?」
「はっ、どうやら翻訳者の連中らしいのですが」
「ほう」

 騎士隊長は俺の顔を興味深そうに見上げた。

「なんか流れで、来ちまったが戦争が起こりそうなんだってな」
「そうだ、これも全部翻訳魔法が消えたせいで……」

 俺とイーファはまた顔を見合わせた。ルアの読みは当たっていたのだ。

「詳しく話を聞かせてくれ」

 騎士隊長は腕を組んで、重々しく頷いた。

「話は数日前に遡る」

 騎士隊長は思い出すようにして言った。

「翻訳魔法が無くなってから、ブレイズとエクリの間ではまともな会議が開けなくなったんだ。最初はブレイズの騎士が国境(くにざかい)で訓練を始め、辺境伯が不審に思って騎士を視察に行かせた。それ以降、お互いに警戒して兵士を国境(くにざかい)に集め続けている」
「それはヤバそうだな」
「うむ、このままだとなにかの拍子で衝突しかねない。だからといって、騎士が国境(くにざかい)を越えれば攻撃だと勘違いされかねない。我々も手をこまねいているんだ」

 難しい顔をした騎士隊長の前で、俺は過去を想起していた。
 魔王討伐戦争――あのときもこうだった。

「少し考えさせてくれ」

 そういって俺は騎士隊長に背を向けて、営舎の中から出た。相当暗い顔をしていたのだろう。いきなりその場を去った俺の背後に騎士たちは声を掛けられなかった。

 一足遅れてイーファが俺の後に続く。話しかけづらそうな顔で、俺の様子を見たあと、彼女は言った。

『どうかしたんですか?』

 いきなりのブレイズ語だった。会話を聞かれないように周りを憚ってのことだろうか。そんな優しさがすさんだ心をそっと撫でたような気がした。

『過去を思い出してな』

 返礼のようにブレイズ語で返すと、イーファは困ったような顔になって数秒言葉を探した。瞳がやっぱりそうだったと告げていた。

『数年前のことだ。魔王討伐戦争という戦争があったのは知ってるな?』
『え、ええ、人類を支配しようとした魔族とその支配を退けようとした人間の戦いでしたよね?』
『そう言われているな』

 イーファの答えは俺にとっては教科書的にしか聞こえなかった。彼女に罪はない。巷では人間が悪に勝利した偉大な勇士達による戦争だったと喧伝されているから、そう答えるのは当然だった。

『だが、そう簡単な話じゃなかった。もともと魔族が支配しようとしたのは全人類ではなく、領地の人類だけだった。それが幾重にも誤解されて、人間の敵である魔族という像が生まれた』
『それは……』
『魔族達は誇り高い種族だ。引くに引けなくなって、人間たちの像を引き受けてしまった。まやかしが現実になってしまったんだ。人間たちは魔族を悪と決めつけた。それで、戦争の中で魔族側も、人間側も必要のない犠牲を払うことになった』

 イーファは完全に黙りこくってしまった。衝撃だったことだろう。現実は市井に流れる噂ほど単純ではないということだ。

『魔族の言語を翻訳し、通訳した。通じ合えるなら戦争なんてしなくてもいいと訴えた。だが、止められなかった。しかも、魔王を殺したのは俺だった』
『で、でも、魔王を討伐したのは勇者じゃ』
『表面上はな。だが、俺は魔王討伐戦争で魔王を倒す方法を古文書から翻訳したんだ。勇者をそれを鵜呑みにして、実行しただけだ。結局は俺がとどめを刺したんだ』

 言っているうちに辛くなってきた。過去の自分の無能さをひけらかして、年端も行かない小娘に慈悲の言葉をもらおうとしている。そんな気がしたからだ。そんなことで許されることではない。膨大な罪過の前で自分を守ろうとする「本能的なもの」に吐き気がしてきた。

 あのとき、本当に無駄な殺し合いを止めたかったのであれば、魔王軍に下るなり、新しい勢力を作るなり、何でも出来た。結局、今も昔も自分が可愛かっただけなんじゃないか。

 ウェーアレスでアネッサに会ったとき、彼女は俺の過去を言おうとしていた。彼女にとって俺は「魔王討伐戦争の真のヒーロー」だった。それが世間の中に埋もれて、評価もされず消えていこうとしているのが残念に思えたのだろう。
 だが、違うのだ。翻訳魔法が生まれようが、生まれまいが、いずれにせよ俺は翻訳者を辞めていた。虐殺の片棒を背負った罪によって。

 言い切って、辛くなって、吐き気がして、自然に自分に問いかけていた。
 では、今ここで逃げるのか? 止められるかもしれないチャンスをみすみす逃して、再び悲劇の舞台裏を演じるのか? 自分は高みの見物で傷つかないでおいて、「あの時こうしておけば」と回顧して自分を慰め続けるのか?
 いや、それは贅沢すぎる。

 イーファは顔を伏せて、バツが悪そうにしていた。

『感情を繋げる人間の力……』
『……?』
『俺の師匠が言っていた言葉だ。翻訳も通訳も感情を繋げる人間の力だってな』
『その……素敵な言葉だと思います』
『俺もだ』

 また会話が途切れた。
 イーファも困っていることだろうと思って、彼女の顔に視線を向けた。しかし、彼女の顔は何か決意したような顔になっていた。

『キリルさんらしくありません』
『何だと?』
『キリルさんはもっとこう……ぱっとやるべきことをやって、問題をぱぱっと解決して、そういう人だと思います』
『そう……だったか?』

 自分の身の振り方を他人から聞くことなどあまり無かったから新鮮だった。単純な慰めでも失望の言葉でもない、彼女なりに掛けるべきと思った言葉だったのだろうか。

『今、感情を繋げる人間の力を持っているのは私達だけなんです。だから、止めに行きましょう。この戦争を』
『ああ』

 イーファの決心に満ちた笑顔に強い肯定の言葉を返す。もとからそのつもりだったが、イーファの激励が心の底に響いた。
 今度こそ止めてやる。全身が熱くなる感覚があった。決意が体を燃やしているようだった。

 騎士隊長にブレイズに渡ることを伝えて、馬を借りた。護衛に数人の騎士を連れて行けと言われたが、もしものことを考えてこれは断った。
 そもそもブレイズ人であるイーファを連れているのである。むやみに攻撃はしないだろうと踏んだ。
 泉まで戻って、ルアの様子を見に行った。ある程度顔色は改善していたが、彼女は馬を引き連れた俺たちをうんざりした目で見上げた。

「えぇ? もう馬には乗りたくないんですけど……」
「しょうがないな。調子の悪いやつを連れて行くわけにも行かないし、お前はここで待ってろ」
「はあい……」

 ルアはぐったりと木の幹にもたれた。俺は野営地の出口に向けて踵を返す。イーファはルアに憐れんだ目で見てから、付いてきたのであった。
 俺は国境(くにざかい)のほうを睨んで、馬に乗った。数年ぶりの騎乗だが、体は振り子の遊具(ブランコ)を遊ぶときのように覚えていた。

「イーファ、いくぞ」
「は、はい……」

 俺の手を掴んで、イーファは後ろに座った。背中にしがみつく彼女はいつにも増して、可愛らしく見える。
 しばらく馬を飛ばしていると、ブレイズ人の騎士と兵士が集まっている別の野営地が見つかった。ルアの言うとおり、旗持ちが居るためどちらに所属しているのかはひと目で分かる。
 予想していなかった馬の接近、それを駆る男――俺の容姿がエクリ人らしかったためか、兵士たちはざわつき始める。しかし、背後に居たイーファの顔を見て、彼らは安心というより困惑の顔立ちを見せた。
 見分を命じられたのか、一人の兵士がこちらに駆け寄ってきた。

『おい、止まれ! 何者だ!』
『通訳者だ! エクリの騎士隊長の命でこちらに来た』
『通訳が何のようだ!』
『エクリ側に攻撃の意図はない。交渉の上で、お互いに徐々に撤兵をしよう』

 兵士は怪訝そうな顔をしながら、戻っていった。話し合いをしているらしい。しばらくすると、またこちらに向かって走ってきた。

『いきなりそんなことを言われても信じられん、証拠を見せろ』
『俺の後ろに乗っているのは宮廷魔導師イーファ・レヴィナだぞ』
『なっ……宮廷魔導師が関わっているのか!?』
『そうだ、エクリの野営地まで案内するから、使者を出せ』

 兵士たちはまだ俺たちのことを信用しきっている様子ではなかったが、ややあって数十名が馬に乗って、こちらに近づいてきた。使者とその護衛らしい。
 イーファが背後から覗き込むように顔を出した。

「少し多すぎでは……?」
「まあ、いきなり来て『交渉しろ』という奴が怪しまれないわけがないからな」
『おい、交渉に乗ってやる。案内しろ!』

 強気の騎士を先頭に、兵士と他の騎士が集まってきていた。俺は肩をすくめつつ、その前を馬2頭分ほど開けて進んでいく。
 しばらくすると、エクリの方の野営地が見えてくる。数多くの軍勢はエクリの騎士を刺激したのか、警戒態勢を取らせた。一触即発の状況は彼らが俺を視認したことで多少は和らいだ。
 ここから実際の交渉が始まる。お互いが誤解していたことを理解すれば、緊張状態もほぐれるはずだ。
 そのはずだった。

 風を切るような音が聞こえた。
 その瞬間、エクリの騎士隊長の胸に細い木の棒が突き刺さる。同時にやってきたのは耐えきれないほどの静寂だった。
 騎士隊長は自分の胸をそっと確認する。大量の血が、手のひらにベッタリと付いていた。

「なんじゃあこりゃああ!?」
「クソッ、騙された!」
「寝返ったな!?」

 エクリの騎士、兵士たちは一斉に武器を抜いた。

「なっ――!?」
「待て! 弓兵など我々は連れてきていない!!」

 強気だったブレイズ側の使者は焦りながら、叫ぶ。しかし、信頼は既に決壊していた。
 馬を疾走させ、その場を離脱する。両者は俺には構わず、既に戦闘を始めていた。血しぶきが地面を染め、お互い何人もの兵士が倒れていく。

「どうしてこんなことに……?」

 背後でイーファが悲しげに小さく呟いた。
 ブレイズの使者が言ったとおり、護衛に弓兵は居なかった。それなのにエクリの騎士隊長は矢を撃たれて斃れた。

 騎士や兵士は基本的に高度な魔法は使えないはずだ。風属性魔法であるエアアローのように空気の矢を撃ち出すような初級魔法は使えるかも知れないが、それなら矢が胸に突き刺さっていたことを説明できない。
 
 完全に謎だった。一体誰が、何のために矢を騎士隊長に撃ったのか。
 農民や市民、冒険者が面白半分で撃ったとはとてもじゃないが考えられない。なぜなら、戦争が始まると騎士や兵士は道中の村や町で物資を巻き上げ、強奪しながら戦うからだ。
 騎士や兵士を雇う貴族は戦功に従って土地を渡すのであって、戦闘にまつわる補給は完全に当人任せなのである。だから、戦闘が起こるたびに道中の治安は悪化の一途をたどる。面白半分で撃った矢がそれを引き起こすことを、一般住民が予測できないはずもない。

 では、一体誰が?

 疑問とともに馬を止める。何処かにくくりつけておく余裕など無い。馬から降りるのに難儀しているイーファに両手を広げて飛び降りろと示す。彼女は逡巡の後に意を決して馬から身を投げた。彼女の軽い体を抱き止めてから、木陰に隠れた。
 兵士たちに見つからないようにルアの居る泉まで行くのは現状では難しい。しばらく様子を見ることにした。
 イーファもまじまじと目の前で起こっている戦闘を見ていた。俺は彼女の視線を遮るようにして、彼女の顔の前に手を出した。

「見るな」
「何故ですか……?」
「慣れるからだ」

 イーファは不思議そうな顔をしていた。その言葉の意味を説明する意欲は沸かなかった。人が殺されている前で何もしないでただ見ていることに慣れれば最後、俺のような虐殺の片棒を背負うことになる。彼女にはそうなってほしくはなかったのだ。

 新たな静寂が訪れた。地面には血が染み込んで黒くなっているところがあり、大量の兵士が斃れていた。
 顎に何か生暖かいものを感じた。手を触れると血が流れていた。いつの間にか唇を切れるほどに噛み締めていたらしい。悔しい。止められたのに誰かに邪魔をされた。今回も無駄な犠牲を生んだ。

「キリルさん、唇が……」

 イーファが心配そうに見上げてきた。はっとする。今は感傷に浸っている場合じゃない。袖で拭って、前を向いた。

「大丈夫だ」

 イーファは答えなかった。否、答えられなかったのだろう。
 その瞬間、がさっと茂みの方から音がした。出てきたのは軽装の若い兵士だった。まだ幼さが残る顔で俺たちを見た瞬間、怯えていた。
 彼我の距離はそれ以上縮まらなかった。お互いに見つけた瞬間、足が棒のようになってしまったからだ。

 色々な思考が頭の中を巡った。
 このたぐいの若い兵士が担当しているのは伝令だ。彼を見逃せば、エクリに戻ってこのことを伝えて、戦争に発展することだろう。そして、俺とイーファ、ルアは裏切って騙し討ちをさせた者として伝えられることになる。
 果たして、どうしたものか。説明したとしても理解してもらえるとは思えなかった。無為に時間が流れていた。

「――ぐぁっ!?」

 若い兵士がいきなり悲鳴を上げた。そのまま彼はうつ伏せに地面に倒れた。背中の布地に血が滲んでいた。後ろから刺されたのだ。
 倒れた兵士から視線を上げると、そこには血に濡れた刃物を持った老人が立っていた。目蓋に縦の傷が入ったスカーフェイス、白髪は整えられており、灰色のフォーマルな服装は落ち着いた印象を感じさせる。

 そして、何よりも驚いたことは、彼が俺の知っている人物であったことだった。老人は落ち着いた笑みを顔に浮かべながら、こちらを見た。

「キリル君、久しぶりだねぇ」

 俺の翻訳者としての師匠――アルト・フサールは何事もなかったかのようにそう言った。イーファは状況がよく分かっていない様子で、口をつぐんでいた。
 一方、俺は混乱していた。別の意味で状況への理解が追いついていなかった。

「師匠、何故こんなことを……?」
「何故かあ、不躾な質問だなあ」
「おい、騎士や兵士たちに同士討ちさせた挙げ句、俺たちまで殺すつもりか」
「まさか、君は人類の資産だ。僕は君を助けたかったんだよ」
「人の命を奪ってまでか! 他にも方法はあったはずだろ!!」

 俺の追求をアルトは無視した。俺に背を向けて、その場を去ろうとする。自然に体がその背中を追いかけた。

「おい、待て……!」
「そういえば」

 アルトは振り向かずに呟いた。

「ルア君は大丈夫なのかな?」

 アルトは去っていく。俺はそれ以上動けなかった。彼の姿は森の中へと消えていき、また新しい静寂が戻ってきた。
 俺は拳を握りながら、イーファの方に振り返った。

「泉に行くぞ」

 泉に着くと、ルアが木の幹に背中を預けているのが見つかった。慌てて近づくと、彼女は完全に脱力した様子でよだれを垂らしながら呑気に寝ていたのであった。

「おい、ルア」
「ふぇっ、ありぇ? キリルさん、もう終わったんですか?」
「まあ、色んな意味でな」
「……何かあったんですか?」

 疑問を呈するルアに事の経緯を説明する。言葉が通じ合わないことで誤解し、戦争が起こりかけていたこと。俺の過去。ブレイズ人を野営地にまで連れてきたとき、矢が騎士隊長の胸に何処からか撃たれたこと。そして、アルトが生き残りを始末したこと。
 アルトが出てきたところで、自分もやっと理解した。師匠は少なくとも俺やその仲間に危害を与えるつもりはなかった。ただ、俺に理由を聞かれたくはなかった。
 大きなため息が自然に口から漏れ出した。

「してやられた……」
「キリルさんはあのご老人のことを『師匠』と呼んでましたね。どういう関係なんですか?」

 イーファが不思議そうに聞いてきた。師匠の話は確かにあまりしたことがない。

「あの人はアルト・フサールって言うんだ。俺が翻訳者になろうとして師事した師匠で、ブレイズ語とエクリ語とアイゲントリヒ語が話せる」
「じゃあ、『感情を繋げる人間の力』っていうのも……」
「そうだ、あの人が言っていた言葉だ」

 だからこそ、不思議だった。何故、そんなことを言う人間が戦争のきっかけになるようなことをする?
 この野営地で隠れられるところは少ない。先に来ていなければ、見えないところから矢を撃ったり、気づかれずに生き残った兵士を始末するなんてことは難しい。とするならば、全ては計画されたことになる。

「キリルさん、そのおじいさんを追いかけましょう」
「何?」

 ルアは至って真面目な顔で続けた。

「翻訳魔法が無くなり、戦争が勃発しかけ、そこに翻訳者を育てた師匠が居た。これはもう翻訳魔法に関わっていると言わず、なんというんですか」
「それはそうだが……」

 手掛かりがない。アルトにルアの安否を言われてから、彼を追いかけることは実質不可能だった。今分かるのはアルトが森の奥へと消えていったという事実だけだ。
 言いよどんでいると、イーファが胸の前で手を組んで呟いた。

「そういえば、アルトとフサールも不思議な名前ですね」
「確かにそうです、エクリでも聞いたことが無い名前ですねえ……」

 二人が不思議に思うのも無理はない。
 エクリテュールとブレイズはそれぞれアマ・サペーレ大陸の中央部と西部にあり、陸続きである。このため、エクリ語とブレイズ語の名前はお互いに同一とは言えないが、よく似たものになっている。例えば、イーファはエクリ人の名前になるとエーヴァになる。

「師匠はアイゲントリッヒ人なんだ」

 イーファとルアは納得した顔になる。
 エクリテュールの東方に山脈を隔てて存在するアイゲントリッヒ帝国は他の二国とは文化的に大きく違う国である。名前も独特のものが多いために、こちらでは不思議な名前だと思われやすい。

「じゃあ、アイゲントリッヒに行けばいいじゃないですか?」
「手掛かりもなくか」
「まあ、今までだって明確な手掛かり無く旅してたじゃないですか」

 確かにそうだった。始めからこの旅は明確な手掛かり無く、憶測と希望で町を回っていた。

「分かった、俺もなんだか嫌な予感がするからな」
「嫌な予感ですか?」
「ああ」

 俺は短くそれだけで答えた。
 アルト・フサールは魔王討伐戦争のあと、俺の前から消えた。嫌な予感はきっとそこから湧いて出たものだろう。もう一度会いたい。
 何故あんなことをしたのか。何故失踪していたのか。その理由は本人以外知るところではないと思った。

「行こう、アイゲントリッヒへ」

 イーファとルアは首肯する。頭の中には過去の優しく、正しかった師匠の姿がちらついていた。

 辺りには潮の香りが充満していた。波が岸辺に当たって、砕ける音が規則的に聞こえてくる。穏やかな内湾は航海日和の凪だった。
 俺たちはブレイズの港に身を寄せていた。幸いあれから戦争が始まったということは伝えられていないが、ブレイズとエクリ双方の騎士や兵士たちの死体が同じ野営地で見つかって、面倒なことになるのは時間の問題だった。
 帝国への渡航は、戦乱の中に巻き込まれる前にアイゲントリッヒに逃げるという意味もあった。というわけで、一行は船に乗り込んだのであった。

「ダスザイン……っていう町でしたっけ?」

 ルアは行き先であるアイゲントリッヒの港町の名前を思い出すようにして言った。

「ああ、師匠の地元だ」
「楽しみですねえ、異国の港町っ!」

 そんな危機的な状況にも関わらず、ルアは船の上ではしゃいでいたのっであった。甲板の端に出て、海とその先に続く地平線を見ものにしている。
 一方、イーファはいつもより更に元気が無さそうな感じになっていた。
 彼女は下階に下るための階段へと足を向けた。この大型船には帝国に渡る冒険者達などを大量に輸送するために、個室が備え付けられている。今では翻訳魔法が無くなって、言語文化が大きく異なる帝国に行く人は少なくなったため、がら空きの個室を超安値で指定できた。

「海見ないんですかー? 綺麗ですよ!」
「はあ……」

 ルアに引き止められたイーファは不幸そうにため息をついた。ルアは「あらら……?」と不思議そうにそれに反応する。
 もしかして、こいつはこいつで船酔いするタイプだったのかもしれない。

「本当に船以外に行く道は無いんですか?」
「今更、何言ってるんだ」
「だって……」

 イーファは胸の前で手を組みながらしゅんとする。

「ルアの次はお前か……」
「あーっ、キリルさんまたそういうこと言って!」

 ルアが腕を組んで、ほっぺたを膨らませた。

「女の子には黙って優しくしたほうがいいですよ。だから、モテないんですよ、キリルさんは――あいたっ!?」

 後頭部をはたいてやった。ルアは怯んで縮こまる。そのやり取りを見ながら、イーファは首を振った。

「違うんですよ、実は船に乗るのが怖いんです」
「ああ、そうだったんですね! 大丈夫ですよ。このルアお姉ちゃんがハグしてあげますから、心配なことは何もありません!」
「あっ、えっと、ルアさん……その……」

 問答無用でハグされてしまうイーファ。彼女の表情はなんともいえない微妙なものになっていた。
 そういえば、確かに彼女の視線はずっと足元にあった。船酔いするなら遠くの風景を見ているはずなので、つまりそういうことなのだろう。
 急に申し訳ないような感情が湧き上がってきて、俺は二人をおいて甲板の先の方へと黙って去った。

 甲板の先の方には航海士や船長が居る。船の運行を司る頭脳がここに集まっている。若くて血色の良い航海士が近づいてくる俺の姿に気づいて、顔を向けた。
 その顔に声を掛ける。

『何の星を目印にダスザインまで行くんだ?』
『えっ?』
『どうせ、この大型船なら観星航行でいくんだろ?』
『観星航行を知っているんですか? あなたも航海士で?』

 航海士は驚いた様子だった。

『いや、遠くのことを学んだときに知識を得てな』

 翻訳者というのは多種多様な知識を要求する。一つの言語を紐解くのには、話す人々の歴史や環境、食事から何までの情報が欠かせない。そうでなければ、単語と文法だけ知っていてもカタコトになってしまうからだ。
 件の伝説の誤訳者――ナッチ・トーダーは、「ログデナシ」を表す「腐った卵」をそのまま直訳してしまったという。イディオムも文化の一つで? こりゃコトだ!
 航海士は俺の答えを聞いて、感心したように顎を撫でる。

『航海士でもないのに知っているとは……』
『それで星は?』
『ああ、そうですね。ええっと』

 航海士はそういってから、何か詩的な言葉を言い始めた。それは頭の中に書き留められていたものを読み上げるような言い方だった。
 航海の詩というやつだ。星を目印に航行する船を指揮するに当たって、ブレイズやエクリの航海士が星を見つけるために覚える歌だ。その歌を一通り詠み終えると、俺は航海士に背を向けた。

「ありがとう」

 つい、エクリ語が出てきてしまった。しかし、格好が悪いので言い直さない。
 黙って去る俺の背中に航海士は『物知りだ』とぼんやり呟いた。

 夜、俺は個室のドアをノックして中に入った。ここにはイーファとルアが居る。ルアはくかーっと粗野な寝息を立てながら寝ていたが、イーファは毛布に体をくるんで震えていた。

「き、キリルさん……?」
「イーファ、甲板の方まで出ようぜ」
「む、無理ですよ……」

 俺は震えるイーファの手をとって、無理やり毛布の中から引っ張り出した。イーファは足をもつれさせながら、引かれるがままに付いてきていた。

「ちょちょっと、キリルさん!」
「見てみろ」

 甲板まで出てきたところで、イーファの両肩を持って上を向かせる。夏祭り(あのとき)と同じだった。しかし、今度は空に輝きが散りばめられていた。イーファは満点の星空に息を呑んだ。

「この海域を通る船がある星を目印に航行するとき、綺麗な星空が見えるんだ」
「凄い……綺麗です……」

 イーファは自分が怖がっていたことも完全に忘れて、夜空を眺めていた。

「それだけじゃないぞ。これからが本番だ」
「えっ?」

 イーファの疑問の声と同時に天体ショーが始まる。光が夜空をなぞるように落ちてゆく。流れ星だ。幾つもの流れ星が空を通過してゆく。空で躍る星にイーファは完全に圧倒されていた。
 俺が彼女を無理やり連れてきたのは、時間に間に合わなくなるかもしれなかったからだった。この海域で流星は毎年見えるのだが、実は数分しか流れないのである。
 思ったとおり、流星は過ぎ去っていった。夜空は静かなきらめきに戻る。一つ咳払いをして、俺は話し始めた。

「俺も実は海が苦手でな」
「そ、そうだったんですか? いつもあんなに強そうなキリルさんに苦手なものがあるなんて……」
「誰にだって怖いものはある。人間だからな」

 イーファは静かにこくこくと頷く。

「昔、師匠と一緒にアイゲントリッヒに来ることがあった。アイゲントリッヒ語の実際に使って、習熟度を試すためだ。そのときの俺はお前みたいに部屋に引きこもってたんだ」
「想像できませんね……」
「ま、若かったからな。感情に敏感だったんだ。それで、師匠に個室から引っ張り出されて、星を見た。その時だけ、海の上に居ることが忘れられた。それ以来、夜通しで船に乗るときは星空を楽しみにしているんだ」

 イーファは感心したような顔をしていたが、ややあって少し心配そうな顔でこちらを見た。

「キリルさんのお師匠さんは、悪い人なのでしょうか」
「いや……」

 そんなはずはない。師匠と共に言葉を学び、その精神を学んだ。彼に師事できたのは学ぶべき人間性を感じたからだ。ただ、言葉を知っているだけでは翻訳者や通訳者にはなれない。
 剣士は剣を、魔術師は魔法を、貴族や王は権威を武器とする。では、翻訳者や通訳者の武器はなにか。すなわち、「感情を繋げる人間の力」であると師匠は言った。
 だが、目の前で師匠は人を殺した。戦争の端緒を産もうとした。俺を「
人類の資産」と呼んで、助けた。その端々に妙な違和感を感じる。
 過去の師匠とは違う。だから、即答できなかった。

「キリルさん……?」

 イーファが心配そうにいったその瞬間、後ろから足音がした。ルアだ。大きなあくびをしながらこちらに近づいてくる。

「ふぁあ……部屋に居ないと思ったら、ここに居たんですかあ」
「キリルさんが星が綺麗だって教えてくれたんです」
「良いですねえ、どれどれ」

 ルアは手でひさしをつくって、空を見上げた。そして、きゃっきゃと喜びながら、星を指差して結んだ。

「あそこらへんの星、ミートパイみたいじゃないですか?」
「お前はいつもそれだな」
「えへへぇ、それほどでもないですぅ」
「褒めてねえよ」

 なんだか気分が緩んでしまった。イーファもにっこりして、さっきまでの心配そうな表情は影を潜めていた。
 あまり深く思い悩むべきことじゃなかったのかもしれない。師匠が変わっていても、そうでなくても。本人に訊くまでは、わからないのである。

 師匠と見た星空と今見えている星空は変わっただろうか。そう思って、俺は頭をもたげて星空を見上げた。

「わあっ、異国って感じですねえ!」

 ダスザインの港町はとても賑わっていた。港町だからか、ここで店を営む幾らかの店主はエクリ語やブレイズ語が多少は分かるらしい。
 行き交う人々はエクリでは見たこともないような服を着て、様々なものがあっちこっちを通っている。そんな異国情緒に当てられたのか、ルアとイーファは完全に旅行気分だった。
 さっき感嘆していたルアは早速屋台の食べ物に目がくらみ、イーファに至っては積み上げられた古典魔導書によだれを垂らしている。

「お前ら……俺たちが何をしに来たのか覚えてるか?」
「旅行ですよね」
「ちげえよ……」

 呆れて物が言えない。大事な目的をすぐに失念するとは。
 しかし、女の子二人にすがるような視線を当てられると、そう硬いことばっかり考えていられなくなる。懐に突っ込んでいた通貨を幾らか二人に分けてやった。

「好きなものを買って満足したら戻ってこい」
「やったぁ!!」
「キリルさん、ありがとうございます!!」

 ルアは両手を上げて喜び、イーファはぺこりと丁寧にお辞儀をして去ってゆく。
 街の喧騒以上に騒がしい二人が各々の欲しい物を得るために去っていくと俺は疲れ切ったようにため息をついた。星空の下であれほど気持ちのいい睡眠を貪ったというのにだ。

「はぁ、まったく」

 まあいい。外国に来れば誰だってこんなものだろう。今のうちに英気を養って、アルトとの邂逅に備えてもらおう。
 そんなことを思いながら、ダスザインの町を見回すと見覚えのある人影が目に止まった。はちきれそうなプロポーションがギルド受付嬢のフォーマルな服装をパツパツにしている。銀色の髪飾りの付いた緑のショートヘアが汐風になびき、栗色の瞳は困ったようにへなっとした視線を目の前の男たちに向けていた。
 そう、アネッサだ。彼女は何故か三人のガラの悪そうな男に囲まれて困っていた。俺は男たちに近づいていく。三人の背後から、声を掛けた。

『俺の女に何かようか?』

 アネッサは俺の声に気づくと顔色を明るくして、こちらを見た。男たちも俺に気づいたようで、イライラしたような顔つきでこちらを見てきた。

『ちぇっ、連れが居たんなら言えよ』
『つまんね、行こうぜ』

 男たちが去っていくとアネッサは安心したのか息をはいた。

「こういう奴らあしらうの得意じゃなかったっけか」
「言葉が通じないとどうも、ね?」
「そんなもんか」

 背後から誰かが近づいてきた気配がしたので俺は後ろを見た。ルアとイーファだった。ルアはそれぞれの手と口に串焼きを咥えているし、イーファは両手に顔が隠れるほどの本を買ってきていた。

「あーあねっあさーいあうえうあー(ああ、アネッサさん居たんですかぁ)」
「お前は食べるか、喋るかどっちかにしろ」
「お知り合いがいるんですか?」

 イーファが本の山から顔を出した。二人を見たアネッサはなんだか怪訝な様子だ。

「あなたって、子供の引率をやるようなタチだったかしら」
「俺だって子守なんかしたくねえよ」

 ため息交じりに答える。すると、ルアが手に持った串焼きを振り回しながら、眉を吊り上げた。

「あーいいうあー! ああ、おおおっえいいあいあえー!!(あー、キリルさん! また、子供って言いましたね!!)」
「だから……」
「わ、私は確かに子供ですけど、お守りされるような年齢では……」
「はあ……」

 なんだかダルさまで感じてきた。異国の水に当たるとはよくいうが、汐風だけでも十分当たるものらしい。
 アネッサは腕を組みつつ、不思議そうに俺のことを指差した。

「そういえば、なんでアイゲントリッヒなんかに居るのよ?」
「こっちのセリフだ」

 アルトを追ってここまで来たとは言えなかった。過去の師匠のことはアネッサも良く知っている。若い頃は師匠の凄さをギルドの受付で彼女に語って、依頼を取りに来た冒険者に邪魔だと怒られたこともあった。
 だからこそ、目の前で師匠が殺人を犯したとは言いづらい。だが、俺が口をつぐんでいても、他人の口を縫い付けることはできなかった。

「キリルさんのお師匠様に会いに来たんですよ」
「え? キリルの師匠って……フサールさんのことよね」

 答えたくないと思いつつも首肯する。アネッサも魔王討伐戦争の後に彼が失踪したことを知っている。不思議そうに思うのも無理はなかった。
 そんなことよりも俺は話を変えたかった。

「そっちはどうなんだ。アイゲントリッヒなんかに遠出する用事があるのか?」
「そうなのよ、冒険者が一人失踪したのよ!」
「はあ」

 心底どうでもいいというような声が出てきてしまった。まあ、ギルドの関係者なら分かることだが、冒険者の失踪なぞ珍しくないことなのだ。年に数人は無茶な依頼の遂行や事故で失踪する。

「そんなことでわざわざアイゲントリッヒまで来たのか」
「その失踪した冒険者がミシェルだって言っても、『そんなこと』なんて言ってられる?」
「ミシェルって、ミシェル・ドゥ・ルーズのことか?」
「そうよ」

 イーファが首を傾げた。

「その方もお知り合いなんですか?」
「あ、ああ……まあな……」

 ミシェル・ドゥ・ルーズ――ディセミナシオンギルドに所属する斥候(スカウト)職の冒険者だ。それだけなら、何でも無い何処にでも居るギルドメンバーだ。しかし、ミシェルの特別なところは彼が魔王討伐戦争の時の勇者パーティーに所属していたということにある。
 ミシェルは、俺のことを特に気にかけてくれていた。他の連中は翻訳者など眼中にないという様子だったのに彼だけは親身に接してくれたのだ。だからこそ、彼のことはよく覚えていた。

「そんな玄人がいきなり失踪するなんておかしいでしょ。だから、ギルドマスターに調査を依頼されたのよ」

 アネッサの言うとおり、失踪する冒険者は自分の力を理解していない初心者であることが多い。中ランク帯以上に属する冒険者にもなってくると引き時というものが分かるようになるからだ。致命的で無駄な受傷を避けて、有益で効率的な戦い方が出来るようになった彼らのなかには失踪する者が少ないのだ。

「それは確かに気になるな……」
「ごめん、今度も手伝ってくれない?」

 アネッサが手を合わせて申し訳無さそうにこちらの様子を伺う。アルトを追いたいが、かといってミシェルのことは気になるし、アイゲントリッヒ語の分からないアネッサをここに置いていくのも心が痛む。
 俺は隙を見て、ルアの手から一本串焼きを取って、一口食べる。エクリにはあまり無い素朴な味付けが口に広がった。

「しょうがないな、俺も気になるし手伝ってやるよ」
「ありがとっ! さすがキリルね!」

 ルアとイーファは何か面白そうなことが始まる前触れを感じていたのか、興味深そうな視線で静かにこちらを観察していた。

「で、ミシェルはこっちで何やってたんだよ?」
「それがこの町――ダスザインの岩山の中のダンジョンを探索する依頼なんだけど、うちの見立てだと最低レベルのダンジョンだったのよね」
「最低レベル? なんでまたそんなものを」
「癒やしが欲しかったんだとか」

 アネッサは肩をすくめて言った。

「ミシェルくらいにもなれば、上級依頼で稼ぎ放題だろ」
「それが、上級ばっかりやってると息が詰まるから、最低レベルの任務をやって初心を思い出してほんわかしたかったんだって」
「なんか、冒険者の人って特殊な感性を持ってるんですね……」

 イーファが少し呆れ混じりに呟いた。確かに冒険者の中には変わり者が多いのかもしれない。

「まあ、奇妙なのは依頼主が書いてなかったことなんだけど」
「初級の依頼だったら良くあることだろ」

 ギルドに集まってくる依頼のうち、上級依頼が冒険者と相場、条件を理解している依頼者によるものが多いのに対して、初級の依頼は有象無象の人間が依頼してきている事が多い。ゆえにトラブルも多く、冒険者を始めたての人間は苦労しながら、ランクの階段を上がっていくという。

「まあ、そうだけど報酬が貰えないかもしれないじゃない」
「報酬が目的じゃないんだろ、ミシェルは」
「うーん……」

 アネッサはなんだか腑に落ちないというような顔だった。確かに素人冒険者は色々と苦労をするのに対して、玄人冒険者は業界のためにタダでは仕事をしないのが普通だ。ミシェルがそこのところを弁えずにこの依頼に行ってしまったのは奇妙なことだった。
 俺は咳払いをして先を続けた。

「岩山のダンジョンって言ってたか? 具体的にはどこなんだ」
「それがね、えーっと」

 そう言いながら、アネッサは胸の谷間から手元に地図を取り出す。

「お前、出先くらいポシェットでも持って出かけろよ」
「こっちのほうが手軽だからいーの」

 アネッサがそう言いながら地図を開く横で、イーファとルアはまた顔を合わせていた。あれがオトナの女の人ですか。凄いです、わたし達も今度やってみましょう。馬鹿なことを。その幼児体型の何処に挟むというのだ。ルアならまだしも、イーファならすとんと地面行きだ。
 そんなアホなことを考えていると、こほんと今度はアネッサが咳払いをした。目を細めてこちらを見ている。無意識に二人の胸を見ていただろうかと思ってしまう。

「やっぱりそういう趣味?」
「……で、どこなんだよ結局」
「はいはい、この地図のここよ」
「ダスザインの外れなんだな、とりあえず行ってみるか」

 ぼそっと言った言葉にルアが反応する。

「ダンジョンなんて、素人が行って良いものなんです?」
「まあ、注意していれば問題はないと思うわ」
「ギルド受付嬢のお墨付きだな」

 ルアを除けば、そもそも素人は少ないのだ。現役ギルド受付嬢と元翻訳者と宮廷魔術師、専門家集団といっても過言ではない。
 そんな俺の心の声を代弁するようにイーファが無い胸を張った。彼女にしては珍しい自信の発露だった。

「これだけ魔導書が得られたので大丈夫なのですっ」
「投擲でもするのか?」
「魔術書は投げるものではなーい!!」

 いきなりルアが叫びだした。それに呼応するようにイーファも身を乗り出して、講義するように人差し指を振った。

「魔術書はですね、読むタイプと術式回路を内蔵して魔術を強化するタイプの二種類があるんです。あの古書店には、後者の特にシュルディー分布の開ルーデルドルフ曲線近傍間における任意の魔導圧力係数を再現できるこの本! 薄いながら素晴らしいです!」
「は、はあ……」

 専門的なことは分からないが、とにかくイーファは魔導書で興奮しているということだけはわかった。
 アネッサは頬に手を当てながら、興味深そうに彼女に視線を向ける。

「相当、魔法学に詳しいのね……」
「え、いやあ、それほどでも……」

 イーファは照れて赤くなってしまう。

「シュルディーの開ルーデルドルフ曲線の近似で任意の魔導圧力係数を再現できる魔術書、うちにあった気がするわ」
「えっ、近似でですか!?」
「そうそう、珍しいわよね。近似でやると閉塞が亢進して、圧力がユメルに――」
「お前、そのなんとかかんとかがどうとかこうとかって分かって話しているのか?」
「そうだけど」

 アネッサは不思議そうに答えていた。さも誰もが分かって当然とでも言いたげだ。俺はルアと顔を見合わせた。人は見た目によらないものだ。
 俺とルアはしばらくアネッサとイーファの高度な魔法学の雑談を聞かされた。二人が満足したところで、俺はダンジョンへ行こうぜと切り出し、やっとのことでダンジョンに向かうことになった。これだけで大分疲れが溜まった気がする。
 ダンジョンへ向かっている間も二人は楽しそうに魔法学の話をしていたのだった。


「ミシェルさーん!」

 ルアが呼びかけた声は反響し、奥へと響いてゆく。一行はミシェルが失踪したというダンジョンを歩いていた。中は坑道のようになっており、薄暗くて足元も見えづらい。そこらへんに放置されたのであろう剣が錆まみれで、刃こぼれしたまま放置されている。

「歩きづらいんだが」
「だ、だってぇ、怖いんですもの……」

 そう言いながら俺の腕にしがみついているのはイーファだ。あれほど威勢があったというのにダンジョンに入ってからはずっとこんな調子だった。アネッサはそんな俺とイーファを「あらあら」という感じで微笑ましげに見ていた。

 グレートリザードの影から出てきたのは、中性的な容姿の人物であった。髪は後頭部で一本にまとめている。そして、長年使い続けているのだろう短剣。その風貌は見紛うこともないミシェル・ドゥ・ルーズだった。

「ミシェルさん、やっぱりここに居たんですね!」
「……」
「皆、お前を探しにここまで来てるんだぞ」
「まったく、人騒がせね……まあ、無事なら良かったのだけど」
「……」

 俺たちの呼びかけにミシェルは答えなかった。それと同時に違和感が増幅していく。ミシェルの瞳には光がなく、その視線は俺たちに焦点が合っていなかった。何かに取りつかれたような雰囲気が、不気味な状況を作り出していた。

「おい、ミシェル……体調でも悪いのか?」
「……」
「なら、ポーション持ってきたからこれでも飲みなさいよ」

 ミシェルは依然黙ったままだった。俺たちはその異常な無反応にお互いに顔を見合わせた。アネッサはポーションを取り出しつつ、ミシェルに近づいていく。
 その瞬間、脳内で警告が鳴り響いたような気がした。具体的には説明できないような本能的な警告。次の瞬間、俺は思わず叫んでいた。

「アネッサ、避けろ!」

 ミシェルが一歩踏み込んだ刹那、その恐れは現実のものだと確定した。アネッサは咄嗟に体を捻って、彼が突っ込んできたのをすんでのところで避けたのであった。ミシェルは狂ったように何度も懐に入ろうと試みるが、アネッサは軽やかにそれを躱してゆく。
 一体何が起こっているのか。良く見ると、ミシェルは何かに取りつかれたかのような顔をしていた。

「凄い身のこなし……!」

 ルアはアネッサの動きを見ながら、目を輝かせていた。ギルドの職員なんてのは冒険者崩れ殆どだ。ある程度は勘を持ってるやつも多い。
 しかし、状況はそんな説明を許してくれそうになかった。

「逃げるぞ!」

 呆気にとられていたルアとイーファに大声で呼びかけると、ふたりとも瘧に掛かったかのように身を震わした。後に付いてくることを願いつつ、ミシェルとの距離を取るために一足先に走り出す。
 しかし、背後から聞こえてきたのは地面を擦るような音だった。
 振り向くとイーファが「いてて……」と腕を付きながら、立ち上がろうとしている姿が見えた。足元にはスライム――これに足を引っ掛けて、転んだのだろう――が居た。

「イーファ!!」

 いつの間にミシェルはアネッサを無視して、イーファの背後に躍り出ていた。ミシェルは彼女を仕留めるつもりらしかった。今からイーファが立ち上がっても、逃れることは出来なそうだ。
 しかし、彼女を救う方法は一つだけある。成功するかは分からない。だが、一か八かやるしかない……!

「……!」

 ミシェルの方に走り出して、突っ込んでいく。それに気づいたミシェルの方は、こちらに気を取られて足がもつれる。斥候(スカウト)の走り方は強襲に適正化されている。そのため、対象への接近を始めた後に修正を求められると上手く応答できない事が多い。しかし、ミシェルは最高レベルの冒険者。足を()()()もつれさせることで、姿勢を微調整しようとしたのだ。
 しかし、それは同時にイーファへの接近が阻害されることをも意味する。

「うらぁぁぁあっ!!」

 突っ込んだ勢いのまま、ミシェルの左肩を押す。元々の走法が不安定であったのも相まって、彼の体はバランスを崩して突き飛ばされる。
 しかし、ミシェルもただでは突き飛ばされまいと肩を縮めて右腕を突き出してくる。その手元には短剣がある。イーファを庇おうと背を向けたのが仇となった。

「ぐっ……!」
「キリル……!」

 アネッサの悲鳴がダンジョンにこだました。背中を切りつけられたのだ。骨まで届いた衝撃でしばらく立ち上がれそうにはなかった。
 目の前のイーファは手負いの俺を見て絶望したような顔になっていた。

「キリルさん……なんで私なんかのために……なんで……っ!」
「お、俺は大丈夫だ。さっさと逃げるんだ」
「キリルさんを見捨てて、逃げるなんて出来ません……!」

 痛みに顔を歪め、冷や汗を流しながら言う強がりに説得力は無かったようだ。イーファはその場から動こうとしなかった。
 俺は息を整えて、極めて冷静であることを装って先を続けた。

「アイツはただの冒険者じゃねえ。魔王討伐パーティーの元メンバーだ。宮廷魔道士のお前ならある程度は善戦できるとでも思ってるんだろうが、レベルが違いすぎる。一旦引け」
「でも……!!」

 頼むから言うことを聞いてくれ――そう願った瞬間に目の間からイーファの姿が消える。周囲を見渡すとアネッサが彼女の腰を脇に抱えていた。
 イーファはバタバタ暴れて抵抗しようとするが、非力な彼女はアネッサに抗うことが出来なかった。

「離して下さい!! キリルさんを見捨てるつもりですか!」
「二人一気は無理よ」

 アネッサは凍りつくような声でそういった。彼女たちのためにわざとそうしているのだろうと思った。
 俺は信頼する仲間の顔を見上げた。

「頼んだぞ」
「この娘たちを置いてきたら、戻ってくるからそれまで生きててよね」
「ああ」

 依然イーファは暴れていた。

「キリルさん!!」
「時間を無駄にするな! 行け!」

 アネッサは俺の怒号に頷いて、ダンジョンの出口へと駆けてゆく。ルアも黙って、それについて行っていた。
 聞き分けの良い人間が半分以上で良かった――そう思いつつ、背後を確認する。ミシェルは地面からゆっくりと立ち上がり息を整えていた。

「おい、一体どういう風の吹き回しだ」
「……」
「俺を忘れたとは言わせねえぞ、ミシェル」
「……」
「なんとか言ったらどうなんだ」

 ため息をつく。予想していたことではあるが、全く応答する様子はない。
 ややあって、ミシェルは短剣を構え、こちらに飛びかかろうという姿勢になる。ダメだったか。仲間を逃せただけ良かったが、謎の真相にはたどり着けなかった。そんな悔しさの念が湧き上がってくる。
 しかし、ミシェルの構えはその背後――ダンジョンの奥から聞こえてきた声によって解かれたのであった。

「やめなさい、ミヒェル。彼は我々の仲間だ」

 ミシェルの後ろから聞こえる聞き覚えのある声に俺の耳は思わずひくついた。まさか、こんなところで偶然出会うとは思いもよらなかった。
 ゆっくりと顔を上げる。そこには目蓋に縦の傷が入ったスカーフェイス、白髪は整えられており、灰色のフォーマルな服装を着た老人が立っていた。そう、アルトだ。
 しかし、前と違うのはその片耳にイヤリングが付いていることだった。

「ミシェルを狂わせたり、初級ダンジョンに居るはずもないモンスターを引き寄せたりしたのは師匠だったのか」
「目的のために必要だったからな。しかしまあ、君たちがアイゲントリッヒに居るとは思わなかったよ」

 純粋にそう思っているのか、しらばっくれているのか。その澄ました顔からは読み取れなかった。話している間は時間が稼げる、そう思った。

「俺はその目的が知りたくて、ここまで来たんだよ」
「ほう」

 アルトの澄ました顔が変化する。興味を引かれたのか、眉を少し上げていた。

「僕の目的はあのときから全く変わっていないよ。()()だ」
「何だと……?」
「僕の教え子は先の戦争の魔族との戦いで活躍してきた。人類の平和を取り戻すために死んでいったものも居る。それにも関わらず、魔王を討伐したときに彼らは報われなかった。手柄は全て勇者と冒険者のクズ共のものとなり、戦争の底力となった通訳者や翻訳者は歴史の闇に消えていった」

 アルトの顔にシワが増える。彼は下唇を噛み締めていた。

「キリル君――君のように生き残った文士達も翻訳魔法によって仕事を奪われた。翻訳者や通訳者は時代遅れの長物と見做され、世間は出来損ないとして見下した。このどこかに正義があったか!」
「それは……」
「魔王討伐戦争で救われた人類は心根の濁った連中ばかりだ。そんな奴らは救われて然るべき人間ではない。僕は奴らを粛清する」
「師匠。感情を繋げる人間の力はどこに行ったんだ。粛清なんて師匠らしくないじゃないか」
「昔は僕も若かった。だから、感情を通じ合わせればなんとでもなると青いことが言えた。しかし、現実はそうじゃなかったんだよ。キリル君」

 二人共、押し黙ってしまった。
 ダンジョンの中で静寂の時間が流れていく。そんななか、俺の頭は痛みを訴えていた。これまでの価値観を、与えてくれた恩人自身が否定する。それは強い痛みとして映った。
 だからこそ、アルトを睨めつけて言った。

「俺は『感情を繋げる人間の力』以外の武器を持たない自分を受け入れられない。それで今まで世間を渡り歩いてきたからな」
「……」
「世間は俺達のことを認めてくれないかもしれないが、俺自身はこの力は不滅のものだと思っている。これまでの旅で仲間が増え、苦境を乗り越えてきたことがその証明だ」
「綺麗事で僕を騙そうとしても無駄――」
「綺麗事じゃない。事実だ」

 話に割り込まれたアルトの顔は更にくしゃっと崩れた。

「師匠の弟子達は復讐なんか望んじゃいない。生き残っている奴らはあいつらなりに自分の能力に誇りを持って生きている。師匠がやろうとしていることはそいつらの顔に泥を塗ることだ」
「黙れっ! そんなのは君が考えた幻想だ!」
「もし、幻想なら今頃師匠がこんなことをしなくても蜂起してるはずだがな」

 また静寂が訪れた。
 アルトの顔は負の感情で満ち満ちていたが、ややあってそれも漂白されたような表情を見せた。

「残念だ、キリル君。僕の計画に賛同してくれないとはね」

 俺の反応を伺う様子もなく片手を上げる。アルトの視線は俺を完全に見下していた。

「ミヒェル、殺せ」

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