「なあ、ディフェランスの秘宝って何なんだ?」
元気の無さそうな感じで戻ってきたルアにそう声を掛けた。その途端、彼女は不機嫌そうに顔を歪めた。
横のイーファは、俺が彼女に直に訊いたことを驚いている様子だったが、訊かないで変な態度を取り続けられるのも嫌だった。
ルアは俺の隣に座って、しばらく俯いたまま何も喋らなかった。
ややあって、彼女は大きなため息を付く。
「まあ、キリルさんとイーファさん以外にエクリの言葉は分からなさそうですし。話しますか。私の家名がディフェランスであるのは知っていますね」
「あ、ああ、ルア・ディフェランスだろ?」
「そうです。ディフェランス家は実は貴族家の一つでして、古来からその家宝である秘宝を守る役目を果たしてきました」
「それがディフェランスの秘宝ってわけか」
ルアはこくりと頷く。
「ディフェランス家の人間は、魔法の腕を期待されます。しかし、私は神託の儀で平凡な治癒師だったことが分かったんです」
「あっ……」
イーファが何かを察したような声を漏らす。
エクリチュールの子供は15歳になると、「神託の儀」と呼ばれる儀式を受ける。そこで自分のクラス適正を知らされて、ほとんどの人間はその神託に従って戦士、治癒師、錬金術師などなどの専門的な鍛錬を積む。
ルアはまた大きなため息をついて、先を続けた。
「家は次女でもあり、クラス適正も普通の私に期待しませんでした。あからさまに酷い目にあったわけじゃないですけど、家族や親戚の見る目は明らかに兄に向けられるものと違ったんです」
テーブルの上に置かれた手が握りしめられる。
兄――その言葉を聞いた瞬間、馬車で聞いた彼女の寂しそうな寝言を思い出した。そこから察せることは余りあるほどだった。
「だからこそ、私は宮廷魔導師さえ解決できなかった翻訳魔法の復活を成し遂げたい。そのために家出したんです。自分を認めさせて、家の人間を見返してやりたい一心で」
「そうだったのか……」
ふと出た言葉はそんな呟きだった。
いつもは元気な彼女がこんな裏面を持っていたなんて、思いもよらなかった。イーファもなんと答えればいいのか、困ってバツが悪そうに俯いている。
ルアは依然不機嫌そうな顔をしていた。
「こんなところに秘宝があるなんて、おかしいんですよ。秘宝はちゃんと家の奥底に保管されているはずなんです」
「その秘宝ってのは、なんでそんなに厳重に守られているんだ?」
「秘宝というのは、アーティファクトの一種なんです」
ルアはすらすらと暗記した内容を答えるように話し始める。
アーティファクト、というのは魔法の発動を補助したり、特定の魔法を引き起こすように設計された魔道具のことだ。本来は魔術のセンスの無い人間が簡単に魔法を発動するために使われることが多い。
イーファはその点に疑問を抱いたのか、首を傾げる。
「でも、ディフェランス家の方々は魔術師の家系なんですよね?」
「ええ、このアーティファクトは並大抵の魔術師では出来ないことを引き起こすとされているんです。それこそ、死んだ人間を生き返らせたり、大虐殺を起こしたり――そういった類のことです」
「禁術じゃないですか……」
「禁術?」
イーファは目を伏せながら、俺の疑問に答える。
「禁止術式の略です。魔術師の間では幾つかの魔法は名指しで禁じられていて、行使しようとすれば宮廷魔導師や騎士団総出で止めに行くよう定められているんです。特に大規模に人命に関わるようなものは……」
「ええ、イーファさんの言うとおり禁術です。だからこそ、ディフェランス家はこの秘宝がとんでもない人間に渡る前に家に封じ込めてしまおうと考えたんです」
「なるほどな」
それで先のルアの言葉とこの奇妙な状況に合点が行った。ヤバいアーティファクトがこの町に出回っている可能性がある。そして、その噂を聞いた冒険者達が集まってきている。そのアーティファクトとルアの家には強い関係があって、この町にアーティファクトがあることはおかしい。何らかの異常事態が起こっているということになる。
その真相を放置して、彼女が旅に集中できるとは思えなかった。
「よし、秘宝について調べるぞ」
「良いんですか? こんな個人的なことに巻き込んでしまって……?」
心配そうな表情のルアは上目遣いでこちらを見上げてくる。彼女の手元にある料理は既に冷めてしまっていた。
「何を今更、お前らしくないぞ」
「わ、わたしもお手伝いできることがあれば協力します……」
首を伸ばして、イーファがそう言った。
ルアは二人の顔を交互に見てから、少し悩むような表情をして、何かに納得したように頷いた。
「まずは秘宝の情報がどこから漏れたのか、からですね」
「ディフェランス家は存在を秘密にしていたのか?」
「まあ、古文書とかで調べればすぐに分かることですから、隠しても無駄なことではあるんですけど、あまり表沙汰にはしないものですから知っている人間のほうが少ないはずです。ましてや、言葉の通じない今、ブレイズの人間が知っているのはおかしいんですよ」
「なるほどな、適当な冒険者でも捕まえて訊いてみるか」
パンの切れ端を口に突っ込んでから、背後を見やる。
屈強そうな冒険者達の一団の中に、見るからに初心者らしいパーティーが見えた。
装備は安っぽく、リーダー格だろう剣を佩いた青年、腰に複数のポーションを掛けた補助術士らしき狐耳の女、壁役らしき小太りの男という様相だ。剣士らしきリーダーを除けば、パーティーメンバーは皆、周りの冒険者のゴツさに不景気そうな顔をしている。
風のうわさを訊くには、最適の奴らだと思った。共に席を立とうとするルアとイーファをハンドサインで留めて、俺一人で彼らに近づく。
『よう、お前達冒険者か?』
『そうだが……オッサン、エクリ人なのにブレイズの言葉が話せるのか?』
オッサンじゃねえよ、まだ若いわ!――という叫びを心に秘めつつ、俺は咳払いを一つして話を続ける。
『お前らもディフェランスの秘宝を求めてきたのか?』
剣士の青年と小太りの男、狐耳の女はお互いを見合わせた。いきなりこんなことを訊いてくるこの異国の男は何なんだと言わんばかりの様子だ。
もう少し押しが必要かもしれない。
『どこでその話を聞いたんだ?』
『どこでって……そこら中のギルドで噂になってるゾ。大図書館でディフェランスの秘宝を巡った大武道会が開かれるって話ダゾ』
口を開いた小太りの男を剣士の青年が睨みつけて黙らせた。怪訝そうな視線を俺に向けつつ、剣士は口を開いた。
『オッサン、そんなこと訊いてどうするつもりなんだよ?』
『ディフェランスの秘宝がどんなものか、知っているか?』
質問に質問で返す。あまり行儀の良いやり方ではないが、こちら側の情報を与えずに出来るだけ多くの相手の情報を引き出すのが賢いやり方だ。
自分の質問に答えられず剣士はしばらくむっとしていたが、その向かいに座っていた狐耳が今度は口を割った。
『どんなものかって、人の願いを叶えてくれる素敵な魔道具じゃないのかい?』
『はあ、そんな道具なのか』
大量殺人兵器にもなりかねない魔道具になんとも綺麗な用途を貼り付けたものだと思った。
今度は剣士は呆れた様子になるだけで、糾弾することはなかった。女には甘いらしい。席を座り直して、気を取り直したような表情になった彼は俺に再び疑問の表情を向ける。
『そんなことも知らずにエクリからこの町に来たのかよ? 怪しいな』
『そんなことはない。俺は本商人だからな』
適当な嘘をついてごまかす。本商人というものはどこでも胡散な者だと言われている。貴族でも平民でもないのに本を読みながら、それを売る。下手な知識だけが思考の脇に寄り付いて、他人からしてみれば言うこと為すこと全てが得体の知れないもののように思えてくる。
剣士はそれを聞いて納得したような顔になった。
『ところで、その大武道会ってのはいつ行われるんだ?』
『今日の昼頃だ。俺達もそろそろ行かないと』
剣士は席から立ち上がって、食堂の出口へと早足で向かった。
『ああ、待ってゾ!』
『頑張ってねー、おじさーん』
焦った様子で小太りの男がそれを追いかける。狐耳の女も腰に手を当て、何か可愛げなものを見るような感じで後をついていった。
情報を収集して、二人の席に戻ってきたとき、何故かそこにはいたたまれないような空気感があった。
ルアとイーファは互いを見て、どちらが話を切り出そうかと迷っている様子だ。ルアは視線を合わせないように店内を見回し、イーファはバツが悪そうに俯いている。
情報量のない譲り合いのうちに得も言われぬ不快感を感じて、声が出た。
「おい、何か言いたいなら、さっさと言え」
「いやあ……ええっとぉ……」
ルアが拭き掃除の布を絞ったような声で答えた。
その横でイーファは申し訳無さそうな顔をしながら、やっとのこと顔を上げてこちらを見た。
「わ、わたしはキリルさんのこと、まだ若いと思ってますよ……?」
「……は?」
「そうそう、あいつらキリルさんのこと、オッサンオッサンって言ってたらしいじゃないですか。今じゃオスマシしてますが、イーファさん、さっきまでぷんぷんでしたよ」
ルアはニヤケ顔でイーファの脇腹を突く。彼女はくすぐったそうに反応しながら、慌てて手をわたわたさせて何かを否定しようとしていた。
「ち、違うんですよ。ただ、わたしは初対面の人にデリカシーが無いと思って……」
「デリカシー?」
「幾ら年増に見えても、初対面の男性にあの呼びかけ方はいけないかと……」
真面目な顔でイーファは言う。
残念だが、そういうのは掘り返されたほうがダメージを食らうというものだ。彼女たちの心意気だけは認めたいが、逆効果だった。
俺は悪い空気を吐き出すように長く息を吹いてから、話を切り替えた。
「変なこと言ってないで、大図書館に向かうぞ」
「何か分かったんですか?」
不思議そうに首を傾げるルアはさっきの話の内容を全て理解している訳ではないらしかった。
イーファよ、話の内容が聞こえたならオッサンにだけ注目してないでそっちも説明してやってくれ……。
そんなことを思いながら、先程の初心者パーティーとの会話を噛み砕いて説明していく。ルアは最後まで聞き終わると腕を組んで、無い胸を張った。
「じゃあ、腹ごしらえも終えたことですし、早速その大図書館とやらに向かいましょう!」
「場所は分かるかい、ルア卿よ」
少し冗談めかして言うと、ルアは目をぱちぱちさせながら黙ってしまった。そんな彼女の様子を見て、イーファはふふっと清楚な笑いをこぼす。
「あっ……ごめんなさい、ついおかしくて……」
「そういえば、イーファさんはこの町によく来るんでしたっけ?」
「はい、道案内はわたしにお任せください」
一行は会計を済ませてから、食堂を発つのであった。
アーザスの大図書館。
天まで届く高層建造物はあまり目に見られるものではない。しかもそれが要塞のように横幅をもってそびえ立っているのが現実感の無さを引き立てていた。
ここまでくると行き交う人の手に抱える本の量は、町に入ったときの倍にもなっていた。台車で大量の本を運ぶ人も居る。
そんな壮観な光景に混じった違和感は拭えないものだった。
「やっぱり、冒険者が集まってますね……」
イーファが少し引き気味にいう。
本来は落ち着いた雰囲気の図書館の前に、冒険者という荒くれ者が集まれば違和感の塊の出来上がりだった。
大図書館に到着して、早速入ろうとしたところ、入り口には冒険者がごった返していた。図書館員なのか、人混みの奥から入るのを制止する声が聞こえてくる。
彼らにしてみれば、予想もできなかった出来事ということになる。そうなれば大武道会を開いたのは一体何者なのだろう。ただの噂ということも考えられるが、これだけ大規模ともなると何か作為的なものを感じる。
「そもそも、大武道会を図書館で開くって時点でおかしいとは思っていたが……」
「それはそうとして、どうするんです、これ? 中に入れそうもないですけど」
「それなら、任せてください」
そういって、イーファは俺達を先導した。
大図書館の外縁部を大回りして、裏路地のような場所に出る。その一角にあった寂れた鉄の扉にイーファは手を触れる。彼女の力では到底開けられないような扉が光とともに自ずから開いた。
「これは……」
「宮廷魔導師用の通用路ですよ。表が混雑しているときはこちらが使えるんです。魔法で鍵が掛かっているので、決まった個人しか開けられないようになっているんです」
「宮廷魔導師の特権って凄いですね……」
「えへへ、使いこなせているかは分かりませんが、十分すぎるほどに優遇されていると思います」
そういって、俺達は通用路を通って図書館へと入っていった。通用路は図書館の司書達の作業場に繋がっているらしく、閲覧室に出てくるまで彼らの作業がチラチラと視線に入ってきた。古文書を丁寧に修正する者、破損したテクストを新しい羊皮紙に書き写す者、本を整理し帳簿を付ける者。司書達一人ひとりの仕事は丁寧かつ完璧で彼ら全員が職人のような感触を受けた。
果たしてこんなところで大武道会など開くのか――大図書館の裏側を見て、その思いが増幅していくがままになっていた。
壁の一面にびっしりと詰められた本。開いているスペースには所狭しと本棚が置かれており、その中にも数え切れないほどの本が詰められていた。
大図書館の閲覧室に俺達は来ていた。
「こんなところで本当に大武道会なんかやるのか?」
「誰かのいたずらかもしれませんね」
イーファが本棚の端を懐かしげに撫でながら、そう呟く。しかし、ルアはといえばそうは思っていない様子だった。
「ただの悪戯だったら、ここまで大規模な騒ぎにはならないはずです」
「そりゃそうかもしれないが、こんな狭苦しい場所で武道会なんて出来ないだろ」
周りを見渡す。
本棚とびっしり詰められた本、お世辞にも広々とした空間とはいえない。そのうえ、貴重な本さえありそうなこの図書館の中で戦闘を繰り広げるなど、贅沢にも程があった。
しかし、いくら疑うようなことを言ってもルアの姿勢が換わることはなかった。
「しかし、ここからどう調べていきましょうか……」
イーファが思案顔になる。ルアも歩き回りたくてうずうずしているようだったが、あてもなく調べても答えが出ないのは明白だった。
「とりあえず、図書館の人間に聞いてみたらどうだ」
「では早速司書さんを捕まえて――」
頷いて続けたルアの言葉がそこで途切れた。イーファと俺は不思議に思って、彼女の視線に目をやる。
本棚の間、その何もない空間を彼女はじっくりと見つめていた。
「どうした?」
「いえ、兄が居たような気がして……」
ルアは何かに取り憑かれたかのように本棚の間に早足で向かってゆく。俺はそれを追いかけるほかなかった。本棚の間を抜けて向こう側の通行路に出る。そこで彼女は必死に首を振って誰かを探していた。
そして、また。
「あっちです」
「おい、ルア……!」
兄、とやらを追っているのだろうが何か悪い予感がしていた。イーファも同じことを思っているらしく、無言ながらも気味の悪いものを見ているかのような視線をルアの背に向けていた。
通行路を突き当たりまで行って左折、壁沿いに進んでいってルアはいきなり立ち止まった。
「今度はどっちだ?」
俺は呆れ気味の口調で尋ねる。ルアの方はそれが快く聞こえなかったのか、ぎゅっと小さな拳を握りしめた。
「私の兄が居たんです。ここを曲がって……」
「間違いないのか?」
「家族のことははっきりと覚えてます。確かに兄でした」
しかし周りには全く人の気配が感じられなかった。静かな図書館ならどんなに小さくても響くであろう足音でさえも聞こえなかった。本を引き抜く音も、人の静かな呼吸の音も聞き逃すはずのない静寂。
それなのにルアはそこに人が居たのだという。それは疑わざるを得ないことだった。
「何かの見間違えじゃないのか?」
「そんなことは……!」
「はっきりしないことに時間を使ってる余裕は無いと思うがな」
背後で何かが決壊したような音が聞こえた。横目に見ると、ぞろぞろと冒険者達が図書館の中に入ってきていた。イーファは連中の迫力に怯えたのか、ほぼ無意識の動作で俺の上着を掴んだ。
「で、でも、秘宝を持ち出せるのは守り主である兄で……」
「とりあえず、こっちに来い」
ルアとイーファを引っ張って、冒険者たちの死角になっている本棚の間へと連れて行く。オレンジと青の目立つ髪色の髪が双眸の脇で揺れた。
冒険者たちは図書館員たちに止められて、フラストレーションが溜まっているはずだ。そんな状態で居るのが珍しいエクリ人である俺とルアが見つかったりすれば、秘宝の国出身の人間として根掘り葉掘り尋問されることだろう。そうなれば、生半可な嘘や話術では切り抜けられない状況になる。
俺はルアに顔を詰める。それも息が掛かる程の距離で。
彼女は一瞬それに怯えて仰け反った。
「おい、確かに見たのか」
「え、あ、はい……」
「じゃあ、どっち行ったか分かるか?」
「ごめんなさい、あそこから見失ってしまって」
ルアはバツが悪そうに俯いた。
俺はその肩を横から叩く。元気のない姿は彼女のらしくない。
「イーファ、なにか方法は無いか」
「ひゃぃ!? ほ、方法ででしゅか……?」
静かに様子を眺めていたイーファはいきなり名前を呼ばれたせいで、驚いて舌を噛んだようだった。片手で口を押さえながら、彼女は何かを検索するように考え込んでいたが、ややあってお手上げとばかりにため息をついた。
「位置に係る魔法はあまり専門ではなくて……」
「ダメか、じゃあ別の方法を――」
「ごめんなさい、私ってやっぱりダメな魔導師で、ううううう……」
悲壮感たっぷりに自虐し始めるイーファ。
焦りとともにイラつきが増していく。そのせいで思わず声が大きくなった。
「おい、しっかりしろ! 今は時間がないんだぞ!!」
「ひっ……!」
いきなりの大声に驚いたイーファは本能的な動作で後退りした。その先には本棚があって、勢いよくそれにぶつかる。
その瞬間、本棚の遥か上から物が落ちてきて、ルアの額にクリーンヒットした。
「ぁまびぇっ」
「どんな断末魔だよ……」
どうやらイーファがぶつかった本棚から、落ちてきた本らしい。ルアは額を押さえながら、ガクガク震えていた。あの高さから落ちてきたのだ。相当痛かっただろう。
床に落ちた本は見開きを見せていた。そこに書かれているのは魔法陣と古代語らしき読めない言語。イーファは後頭部を押さえながら、何かに魅入られるようにそれをじっと見つめていた。
頭を打っておかしくなってしまったのか? しばらく無言で本を直視する彼女が末恐ろしくなり、つい声を掛けてしまった。
「イーファ? 大丈――」
「そうか、そうすれば……」
イーファは腰につけていたポケットの一つを開いて、中からチョークを取り出した。そして、いきなり床にぺたんと座って、何かを書き出し始めた。
やっと痛みが引いたのか、ルアが顔を上げる。そうするやいなや、イーファの突然の行動を怪訝そうに眺めた。
「な、何なんですか……?」
「位置に関わる魔法は術者本人への現象の処理を中心とした負荷の高いもので、専門性が強いものなんです。だから、私には正確に再現できる自身がありません。ですが、術者中心の現象の処理を生力反応で分散的にシミュレートできれば、私にもある程度の再現性を実現できるはずなんです」
「つまり……どういうことなんだ……」
さっぱり分からないことを言われて、頭の中が混乱する。
イーファはそんな俺に返答せずに黙々と地面に魔法陣を書いていった。俺には魔法は分からないが、素人が見様見真似で書いたものとは違うことだけは分かる。
「勝手にこんな魔法陣を書いていいのか?」
「まあ、今は緊急時ですし」
確かに。
いきり立った冒険者達が秘宝を手にすれば、何をしでかすか分からない。容易に大量虐殺を起こせるような魔道具なのだ。人は身の丈を越えた力を持つとおかしくなるもので、悪い結果になるのは目に見えていた。
魔法陣を書き終わったのかイーファは手を止めて、再確認して聞き手を魔法陣の中心に置いた。
「我が精霊に命じる、人を追いなさい」
イーファの命令と共に魔法陣は光りだす。イーファは目をつむって何かを読み上げている。入ってくる情報を目蓋の裏で読んでいるようだった。
ややあって、彼女は目を見開いた。俺の方を見て、そして言う。
「確かにあの場所には人がいました」
「今はどこにいる?」
「閲覧室の一番奥に続く部屋――第三閲覧室です」
三人の視線が回覧室の奥へと向かう。そこには古めかしい扉があり、異様な雰囲気を醸し出していた。
「いくぞ」
早足で歩き出す俺の背を座っていたイーファが慌てて追おうとする。ルアもあせあせと俺の後を追うのであった。
――第三閲覧室
古びたドアの先はアンティークな調度品で満ちていた。その部屋の壁は埋込み型の本棚になっており、ここにも本が隙間なく入っていた。
その広い空間の奥にソファチェアがあり、一人の男が収まっていた。オレンジ色の髪は端正に切りそろえられていて、顔立ちはどことなく誰かに似ているような気がする。服装は貴族の正装で、落ち着いたワインレッドの上着が上品さを醸し出している。
その男を目の前にしたルアは完全に立ち尽くした状態で、しばらく何も言えないままに口を開けたり閉じたりと繰り返していた。
「ルア、ここに居たのか」
「お前がこの騒ぎの首謀者か」
男は俺の声に見向きもせず、ただルアのことを見つめていた。見られているルアはややあってはっと我に返る。
「なんでここにルイ兄様が……?」
「家出した君を見つけるためだよ」
「でも、兄様は家で秘宝の守り人として……」
「その秘宝ってのはこれかい?」
ルイと呼ばれた男は手元にあるガラス玉のような物を持ち上げる。窓から差し込む光がその透明度を示すようにガラス玉を貫通していた。
ルアはそれを見て、身を震わせた。
「何故それを外に持ち出したんですか……!」
「僕は可愛い妹が心配で心配でたまらなくて、それで追いかけてきたのさ」
「それが他人に渡れば、どうなるか知っているでしょう。兄様」
「ああ、知ってるさ。だから、この力は僕が僕の望みを達成するために使う」
ルアは顔に絶望を湛えて、後ずさる。
「今……なんて……?」
「単純なことさ、翻訳魔法を復活させるために外に居る冒険者連中を生贄に捧げる」
「何だと……!」
思わず声が出てしまった。そこでやっとルイの視線がこちらに向いた。
初めて俺とイーファの存在に気づいたような、そんな感じだった。
「君たちがルアと今まで居たのか。まあ、もう用済みだがな」
そういって、ルイが手をこちらに向けた瞬間、同時にルアが彼に向かって飛び出した。剣戟の音。ルアの片手にはいつの間に持っていたのか、銀色に光るダガーが握られていた。
その切っ先が彼の喉元に突き刺さろうという刹那、彼の姿は消えた。ソファチェアに突っ込んだルアは体を打って、床を転がり、痛々しげに立ち上がりながら声を張った。
「人の命と引き換えに翻訳魔法を復活させるなんて、そんなこと許されるはずがない……!」
「僕はただ君を愛していたから……」
「そんなの詭弁です! 私から守り人の立場まで奪っておいて、私が達成すべき目的まで奪うんですか……!!」
「そんな、僕は奪ったわけじゃ……」
「私は人形じゃない!」
ルイの目の色はその瞬間全く違うものになっていた。何かを覚悟したような、そんな気迫がルアの次の判断を遅らせた。
「僕の人形にならないのなら、殺すしかないな」
耳を塞ぎたくなるような不快な重低音が鳴り響いた。ルイの周囲にシールドが張られており、それが攻撃を受け止めた音だった。
彼ら二人の間に手を向けているのは、イーファだ。額から大量の汗が流れていた。
「一時撤退です。長くは持たないので早く……!」
「イーファさん、邪魔しないでください。これは私達家族の問題です」
二人がシリアスな表情で向き合っている間にも、ルイを囲むシールドはメキメキと耐久を減らしていく音を上げていた。
「言い合ってる場合かよ! 早く離れ――」
俺が叫んだ瞬間、陶器の割れるような音とともにシールドが消滅した。ルイの目尻には狂気の笑みが含まれていた。
「残念だが、可愛い妹が僕のものにならない以上、君は僕に不要の存在だ――消えろ」
「クソッ!」
速度の話をすれば、ルイの方が早く動けた。だからこそ細かいことを一つも考えずに咄嗟の判断で動いた。勝つか負けるかを度外視したアイデア勝負。
本棚から本を一冊抜き取ってルイに投げつける。空中を浮遊した本をルイは反応せざるを得なかった。瞬時の反応で飛来物を回避する魔法――それは簡易的で低レベルの魔法以外にはありえない。風属性系のウィンドカッター、火属性系のファイアボール……いずれにせよ、本すべてを消滅するには至らない魔法だ。そこに勝機があるはず。
全部、翻訳者として昔聞きかじっただけの魔法知識だった。しかし、ルイは愚直とも言っていいほどに俺の予想に沿った動きをした。
ウィンドカッターで本が切り刻まれる。舞い上がった紙切れで、ルイの視界は一時的に塞がれる。
そして、俺の意図を理解した背後のイーファは瞬時に魔法を撃った。こちらも空気の矢を撃ち出す低レベルの魔法――エアスピアー。しかし、さすがは宮廷魔導師。無詠唱で高威力のものを瞬時に撃ち出していた。
「なっ――」
ガラスの割れるような音とともに、ルイの手元にあった秘宝は割れる。それに気を取られたルイはもう素人でもどうにかできるような大きな隙を作っていた。
その隙に飛び込むように俺はタックルをかます。ルイは避けることもままならずに床に叩きつけられる。
「ぐわっ!? き、貴様……っ!!」
「観念しな、秘宝は無くなった。もう終わりだ」
「くっ……!!」
一度は反抗しようとして、上体を起こそうとするも貴族で魔術師の貧弱な身体では俺の押さえつけに抵抗できないようだった。魔法を撃とうにも俺が手首を押さえている以上、マトモな魔法は撃ちようがない。
そのまま観念したように彼は脱力した。
「兄様……」
茫然自失と言った様子でルアは呟く。
床の上に割れた秘宝の残骸が散乱していた。アーティファクトは繊細な魔道具だ。もはや使い物にはならないだろう。
そんな無残な姿になったそれをイーファは名残惜しそうに見つめていた。
ルイは俺達の手によって騎士隊に引き渡された。
大量生贄魔法はイーファによれば禁呪の一つらしく、宮廷評議会の門前に出されて彼は裁判を受け、罪を償うことになる。
捕縛されたルイはうなだれながら、別れの言葉を騎士に促されてルアはそれを静かに聞いていた。
「僕は本当の家族が欲しかっただけだ。ルア、君の旅の目的さえ無くなれば、僕のもとに戻ってきてくれると思って……」
「バカですね」
ルイはその言葉に顔を上げる。
「そんなことしなくても、私は兄様のことが好きでしたよ」
「ルア……」
「秘宝の守り人は私達の間を引き裂いていたんです。それももう無くなった。でも、私には残された役目があるんです」
「残された……役目……?」
ルアは頷きを返す。そして、ルイを指差して仁王立ちで宣言した。
「この旅で翻訳魔法を復活させます。それで過去の兄様を越えてみせる。兄様が罪を償って、再会したときには私は兄様の真の家族にふさわしい人間になっているはずです」
「真の……家族……?」
両腕を騎士に掴まれたルイは、そう呟きながら涙を流していた。
彼は嗚咽に溺れながら、必死に言葉を紡ごうとしていく。
「今から……でも……本当の家族になれるのか……?」
「ええ、罪を償い、私が目的を達成したときには必ず」
「約束してくれ」
「誓いましょう」
そういって、ルアはルイに背を向けて何処かへ歩き始めた。
一連の儀式を静かに見ていた俺はルイの希望とも恐怖とも絶望とも取れぬ微妙な顔を一瞥してから、イーファの肩を叩いてルアの後に続いた。
日が落ちて、大図書館の町はもう暗がりに落ち込んでいた。哀愁漂うルイが騎士たちに連れて行かれるのを、俺達は背後から聞こえる甲冑の擦れる音を聞きながら背中で見送るのであった。
早朝の薄明を落ち着いた気持ちで見ていた。そこには面白さも何もないが、ただ緩みきった心地よさだけが残っている。
俺が座る横ではイーファとルアがすやすやと可愛らしく寝ている。ルアはペールトーンな赤色の、イーファは透き通った青色のネグリジェワンピースを着ている。早朝の黎明がそのシースルーの胸元を照らし出す。幼児体型に欲情しない俺でも何か危険なものを感じてゆっくりと目を逸らした。
完全に疲れ切ってしまったルアのことを鑑みて、俺達はアーザスの宿で一泊することになった。
ルアはすぐにでもこの町を出て、少しでも旅路を進めたいと言っていたが、イーファが大図書館で資料収集をする間だけはこの町に残っていたいと言ってきたため、ルアは不承不承ながらもこの町に居ることを認めてくれた。
それ以上に彼女がふらついていたのが気になっていた。
ルイとの戦闘でルアは相当な無理をしていた。それが祟って体調を壊されてしまっては、とてもじゃないが困る。
「ふへぇ……もうたべられないですぅ……」
ルアは幸せそうな顔で寝言を漏らす。俺がこれだけ心配したというのにこの寝言である。少し憤りを感じるが、彼女はこれくらいくだらない人間で居てくれたほうが俺には安心できる。ルアが秘宝に取り憑かれていた間、こっちまで神経が立ってしょうがなかった。
一体夢の中で何を食べているのだろうか。想像は膨らむばかりだ。
「んにゅ……ほんでいっぱいでしわわせぇ……」
こっちの寝言はイーファだ。あの後、大図書館に一人で残って翻訳魔法に関する資料を集めていたらしい。ルアは自分がやらねば意味がないと一緒に残ると言い張ったが、イーファになだめすかされて宿に収まってくれた。彼女が居なかったらルイに俺は消されていただけではなく、大量虐殺が行われていただろう。そう思うと背筋が寒くなる。
本人はそこまで重大なことだと考えていなかったのかもしれない。現に夢の中でも現実でも本に囲まれるのが幸せらしいのだから、その場所を守り汚されないために動いただけとも言える。
そんな良く分からない考えを巡らせることが出来るのは、薄明の魔力なのだと感じた。
そんなとき、戸を叩く音がした。緩みきった体に力が入る。リラックスで得られていた癒やしが中断されて、我に返る。
宿の主人だろうか? それとも隣の部屋の人間か? 立ち上がって、ドアに近づくとまた戸が叩かれた。
「ごめんくださいませ、こちらにルアお嬢さ――ルア・ディフェランス様はいらっしゃいますでしょうか……?」
「エクリ人だと……?」
エクリ語で話しているから、エクリ人だと判断するのは早計だがルアのことを知っている口ぶりからそっちの人間である可能性のほうが高かった。
声は初老の男、小声で周りに配慮した話し方は彼が少なくとも粗暴な冒険者ではないことを示していた。
戸を開けて、人物を確認する。
痩せ気味の爺さんだった。よく仕立てられた給仕服をぴっちりと着ており、その表面にはホコリ一つ付いていない。立ち姿すら気品を感じさせるような人間がこんな辺鄙な宿に居ることに俺は数秒言葉を失う。
相手方も予想していたのとは違うのが出てきて、目をパチパチさせる。
俺達はお互い驚き、言葉を失い、数秒のあいだ、次の言葉を探した。傍から見たらさぞシュールだったことだろう。
「あの……」
最初に切り出したのは爺さんの方だった。
「こちらにルア・ディフェランスという方はいらっしゃいませんでしょうか……?」
「ルアなら俺の後ろのベッドで寝てるが」
「ね、寝てるですって……!」
事実を言ったつもりが、爺さんは目を見開いて驚く。そして、俺の服の襟を掴んで揺さぶり始めた。
「ワタクシはお嬢様を無傷で連れてこいと本家に命じられてきたのですぞ!! それが着いたときには傷物になっていたなんて……ワタクシはどう報告すれば良いのです!!」
「おい、騒ぐなよ。気持ちよく寝てたところなんだぞ」
「なんですとォ!!」
事実を言っているだけなのに、爺さんのテンションは更に高まっていく。力こそ弱いが、襟を掴まれて前後に振られるのは不愉快極まりなかった。
爺さんの胸元を突き飛ばすと、簡単に拘束は解けた。
「何か勘違いしてないか、ジジイ」
「勘違い……でございますか?」
突き飛ばされて冷静になったのか、爺さんは目を丸くしてこちらを見た。
しかし、その後が続けられない。さっきまでぼやぼやしてたからか、言葉が上手く出てこない。ただ事実をそのまま描写するだけになっていた。
「そうだ、俺はボン・キュッ・ボンが好きであって、幼児体型に欲情する男じゃ……」
「なんですとォォオォ!?!?!?」
近隣住民の方々、本当に申し訳ありません――そんな言葉が思わず脳裏に浮かぶ状況だった。
「貴方様はルアお嬢様のことを幼児体型……つまり、その清廉な体をつまびらかに見たということに」
「なんでそうなる」
「好きでもない女と寝るフシダラな男!!」
「いい加減にしろ……!!」
「爺や、何やってるんですか、こんなところで?」
手が出かけたところで、背後から声がした。振り向くとそこにはネグリジェワンピース姿のルアとイーファが立っていた。
「お休みのところ、申し訳ございません。この男が異常性癖者でして、取り調べを――」
「おい」
全部、お前の勘違いだろうが――そう叫びたいほどだったが、喉元で抑える。
「こいつは一体何なんだ」
「うちの執事ですよ。私が生まれたときから、本家で私の身の回りのお世話をしてくれているんです」
「それは……素敵ですね」
ふぁぁ、とあくびをしながらイーファが口を挟む。宮廷魔導師になるほどの人間でも、生まれてからずっと付き添ってきた使用人というのは大切なものに見えるらしい。
俺にはそんなことよりも気になることがあった。
「おい、本家がどうたらとか言ってたな」
「ああ! そうでした、ルアお嬢様!!」
爺さんはルアの前に一歩踏み出す。
「家長様がお嬢様を見直して、秘宝の守り人になって欲しいと仰っているのです」
ルアはその言葉を聞いて、直立不動のまま目をきょろきょろさせた。相当、動揺しているらしい。
しかし、その言葉で俺にはもう一つの疑問が生まれた。
「待て、秘宝ってのはルイが持ってたやつじゃねえのか? あれは破壊されたはずだ」
「違うんです、キリルさん。秘宝は一つだけではないんです」
「なんだと……?」
大量殺人兵器レベルの魔道具がまだこの世に幾つもあると聞いて、ぞっとする。元々守り人だったルイが居なくなったことで、本家が焦っているのも理解出来た。
だが。
「ルア、お前行くつもりじゃないだろうな」
「お嬢様、本家は貴方の能力をお認めになりました。どうぞ帰りましょう」
爺さんは俺の言葉に被せるようにルアへ説得の言葉を掛ける。ルアは苦しそうに考え込んでいた。答えを俺とイーファ、そして爺さんまでもが静かに待っていた。否、待つことしか出来なかった。
そして、ルアは小さい唇を動かして、息を吸った。
「私、メルローにある本家に帰ります」
「ルア……!!」
思わず彼女の腕を掴んでしまった。
「お前、もうルイとの約束を忘れちまったのかよ!」
「……」
「なんとか言えよ!!」
彼女は顔を背けたままだった。そして、掴んでいた腕は思ったよりも簡単に振りほどかれてしまった。
「ごめんなさい」
一体誰に謝っているのか、分からないような顔で彼女はそう呟いた。
そして、爺さんと伴だって俺達の前から去っていったのであった。俺にはそれが衝撃的すぎて、しばらくただ立ち尽くすことしか出来なかった。
「クソッ……」
毒づきながら、目の前の肉をガツガツと食う。
エールでそれを流し込んで、次の皿に手を付ける。まさに暴飲暴食という表現が正しく当てはまる状況だった。
俺とイーファはルアが去った後、最初に訪れた食堂に来ていた。イーファは自分で注文することは無く、俺が注文した肉の切れ端一口分で満足していた。
「お前、それ以上食べないのか?」
「え? ええ……」
いきなり食べる手を止めた俺をイーファは困惑した目で見てきた。
「こういうところ、一人で来たことが無くて……食事は自分で作れますし、あまり食べない方なので……」
「そうか」
俺はまた肉とエールに手を伸ばした。
手を伸ばして、ため息を付いた。
「はあ、訳分かんねえよ」
「……でも、わたし、彼女の気持ちもわかりますよ」
イーファは何処か遠くを見るような目で言った。
「誰かに認められたい、自分を認めたいって気持ちは誰にでもあると思うんです。わたしも花火を楽しんでくれた町の人達を見て、とても嬉しかった。だからこそ、彼女はそっちを選んでしまったんだと思います」
「あァ?」
酔いが回った頭は紳士的な対応を良しとしなかった。ついつい出てしまった悪態にイーファはびくっと体を震わせて反応する。
「あうっ……ご、ごめんなさい……! でも、わたしが言いたいのはそれで良いってことじゃなくて……」
手をわたわたさせながら、否定するイーファ。
「ルアさんは吟味して決断したんじゃないんです。一時の気分の流れで本家に戻った。それでお兄様との約束を果たさないとなると、彼女はきっと後悔すると思います」
「……だろうな」
少しは思考がクリアになったような気がした。やるべきことが見えてきた。
俺はエールの残りを飲み干してから、立ち上がる。イーファもそれに釣られて、席を立った。その顔は俺の次の言葉を心待ちにしているようだった。
「よし、ルアのところに行って、説得するぞ」
「はい……っ!」
待ってましたとばかりにイーファは明るい顔を見せる。
馬車を呼び付けて、行き先を伝える。確か、ルアは去り際に本家がメルローの町にあると言っていた。そう伝えると馬車主は少し不安げな表情を浮かべた。
しかし、エクリ人の容姿の俺がブレイズ語もエクリ語も話せることや宮廷魔導師が居ることに安心したのか、馬車は問題なくアーザスを出発した。
「それにしても」
馬車に揺られてうとうとしていたイーファが俺の言葉ではっと顔を上げる。
酔いの冷めた頭が現実的な問題を想起させていた。
「説得するとは言ったが、どう説得するか何も考えてなかったな」
「あ、それなら、一案ありまして……」
「一案?」
イーファはこくりと頷いた。
「ルアさんは、本家に能力を認められたんですよね?」
俺は首肯する。ルアの目的は自分の能力を認めさせて、本家を見返すこと。その目的が実現されてしまった今だからこそ、彼女はメルローに帰ったのである。
「じゃあ、私達の手でルアさんを無能に見せかければ良いのです!」
「は、はあ……」
筋は通っていたが、それは説得というより作戦のようなものだ。それ以上に驚いたのは思ったより酷いことを言っているということだった。
俺の反応にイーファは不安げな表情を見せる。
「もしかして、ダメでしたか? やっぱり、私の考えることなんて……」
「い、いや、続きを聞かせてくれ」
「続きですか……その、えっとぉ……」
「どうした?」
イーファほどの人間なのだから、もう少し細かい作戦を立てていると思ったが、どうやらそうでもないらしい。俺のアイデア勝負のクセが彼女にも移ったのだろうか。そんな下らないことを考えているうちに彼女は再び口を開いた。
「た、例えば、廊下にバナナの皮を置いてルアさんを転ばせたりとか……ですか?」
「はあ、お前可愛いな」
「か、可愛いっ!?」
らしくもなく、感想が率直に出てしまった。
イーファはといえば両頬を押さえながら、顔を赤くしていた。ややあって、何かを否定するように顔を左右に振り始めた。後頭部のポニーテールも一緒に左右に振れる。
「と、と、と、とにかくっ、どうにかしてルアさんを本家の人たちに無能だと思わせないといけませんっ!」
顔を真赤にしながら、イーファは叫ぶ。だが、その瞬間何かに気づいたようにはっとして顔を上げた。今度は慌てた様子で、肩を尖らせ、また手をわたわたさせる。
「あ、いや、その、別に私がルアさんのことを無能だと言ってるわけじゃないですよ! わたしなんかがルアさんを無能呼ばわりなんて、あ、あ、あ、ありえませんからっ!」
「お前忙しい人間だな」
今度は普段どおりの俺の反応だった。
それを聞いたイーファは動きが固まり、ゆるゆると手を膝の上に置いて、恥ずかしげに俯いてしまった。「ううぅ……」と羞恥に嘆く小さな声が聞こえてくる。
俺は咳払いを一つした。
「何はともあれ、今のところ思いつくのは、本人に直接説得を掛けるか、お前の案くらいだろう。手伝ってくれ、イーファ」
彼女の肩を叩いていう。イーファの体は瘧に罹ったかのように震えた。
「は、はい……わたしに出来ることなら何でも……」
答えは尻すぼみしていたが、もう一度旅のメンツに戻ってもらうということは俺達の間で共通の目的になっていた。
メルローの町に到着したのは、その日の夕暮れ頃だった。移動する馬車の上は日中の朗らかな陽光に当てられて、最高の昼寝環境だった。俺とイーファはいつの間にか寝てしまっていたが、俺は到着の直前に起きていた。イーファが俺のほうにもたれかかって、肩の上に頭を載せていたからだ。
年頃の娘と密着しているというだけで自動的に緊張状態になってしまう。これは何度でもいうが、幼児体型は好みではないのだ。
「イーファ、着いたぞ」
「うぅ……ここは……?」
俺の肩の上に頭を載せたまま、イーファは目をしょぼしょぼさせていた。ややあって、俺にべったりだったことに気づいたのか、白雪のように真っ白な顔が瞬時に真っ赤に染まった。
「ひぁっ!! ご、ごめんなさい!」
「大丈夫だ」
「よ、寄っかかってしまって、重くなかったですか!?」
「簡単にお姫様抱っこ出来るくらいだからな。軽いものさ」
ぼんっ、と湯気が上がるような感じがした。
「は、はうぅ……その……」
「むしろ、暖かくで心地よかったぞ」
「ううぅ……恥ずかしいよぉ……」
イーファは顔を覆って、座席の上で丸まってしまった。この姿も可愛いが、何かいけないことをしてしまったような気もしていた。
少しからかい過ぎたか、と心の中で反省する。イーファはしばらく馬車の中に籠もっていた。
馬車を降りると風光明媚な景色が広がっていた。二人でその風景を見て、息を呑んだ。
凝った趣向の建物が道に並び、その道は味のある石畳で舗装されている。町の背を支えるようにそびえ立つ山は青々しい木々が彩っている。他の街とは異なり、人が行き交っていないというのもさっぱりした風景を感じさせる要因であった。
ディフェランス家がここに居を構えている名家だというのも納得できるものだった。
「来たは良いものの、日が暮れてきたな。今日は宿に入って、明日から行動開始するか?」
「いえ、今すぐ行きましょう」
イーファはまっすぐ前を見据えて言った。
「暗がりの方が、ルアさんのお宅にお邪魔するには適していると思います」
「結構大胆なこと考えてるんだな……」
呆れつつ、周りを見渡す。
知っている情報はメルローに居るということだけだ。動けるものなら動きたかったが、この町の中をルアが見つかるまで探すのは非効率すぎる。
そう思って暮れる空を眺めていると、静寂の中に足音が聞こえた。
その方を向くと、ルアが路地を曲がっていくのが見えた。
「追うぞ」
「は、はい……!」
「うわっ……」
思わず呆れと驚きが混ざったような声が出た。
目の前にはきらびやかな邸宅が現れていた。薔薇の細工が施された門にはエクリ語の文字でディフェランスと書かれている。まさかここまで分かりやすいとは思わなかった。
イーファもまた驚いた様子で邸宅の中の温かい灯火を見つめていた。
「で、では、入りますか……?」
「そうするか」
ルアを無能だと思わせるには、彼女の近くでことを起こさねばならない。秘宝の守り人としては、秘宝から離れることが難しいはずだからだ。無断で家に侵入するのは少し気が引けたが、これも彼女のためだ。
そう思って、鉄の門に手を掛けたが擦れるような音が鳴るだけでびくともしない。
「動かないぞ、この門……」
「普通の門に見えますが……?」
イーファも小さな手で押してみる。非力な彼女が押しても多少の手応えはあるはずだが、それすらもない。門は不自然なほどに不動を保っていた。
イーファは無駄だと分かったのか、力むのをやめて息をついた。
「これは、おそらく魔術式のロックですね」
「どうにか出来ないのか?」
「えっと、時間さえあれば解錠は出来ます」
「どれくらい掛かる」
イーファは頬に手を当てながら、うーんと唸りだす。
「さ、三時間くらい……ですかね」
「はあ」
門の前で三時間も居座っていたら、不審者としてお縄に付くことになりそうだ。他に入れるところが無いかと、周りを見回していたところ、門の奥の方から人影が現れた。
片手にランタンを持ち、腰には長剣を佩いている。警備兵のようだ。
「おい、そこで何をやっている!」
「マズいぞ、イーファ、ズラがるぞ」
「は、はいっ――って、わわっ!?」
慌てて逃げ出そうとしたイーファの足がもつれて、彼女は両手を上げながら正面に倒れる。彼女が両手をついて、起き上がったときには警備兵は門の前にまで来ていた。
「痛ったぁい……」
「大丈夫か、早く立て!」
「待て、逃げるんじゃない!」
警備兵は逃げようとする俺達を追いかけようと、門に手を翳す。その瞬間かちゃりと何かが解錠されたような音が聞こえた。逃げなければ、警備に捕まる。だが、イーファを置き去りにすることはできない。
葛藤しているうちにも警備兵はこちらに迫ってくる。
荒事は苦手だが、一か八かやってみるしかない!
「おらっ――!!」
未だ剣を抜いてない警備兵の懐に飛び込んで、押し倒す。頭を打った警備兵はそのまま気を失ってしまった。思ったよりあっけない警備だと思った。
イーファが背後から心配そうに覗き込んでくる。
「キリルさん……もしかして……」
「大丈夫だ、殺してない。頭を打ってノビてるだけだ」
「はあっ……」
安心したように吐息を漏らすイーファ。警備兵のほうには何も非がない以上、命まで頂戴するつもりはもちろん最初から無かった。だが、それ以外のものは侵入に役立ちそうだ。
俺は警備兵の装備を手早く外して、衣服も脱がせていく。
「あ、あのぅ、キリルさん……?」
「なんだ」
イーファの声色は何か奇妙なものを近しい人の中に見たというような引きを感じさせた。
「えっと、そういう趣味だったりしますか」
「男色なんて珍しいもんじゃないだろ」
エクリの貴族たちのうちには男色趣味が流行っていた時期があったという。今では、どっこいどっこいらしいが男好きは珍しいものではない。
地面の砂が擦れる音が聞こえた。背後でイーファがもじもじしているのだろう。
「あうっ……こんなときに、破廉恥です……」
「冗談だ」
「えっ」
「変装したほうが侵入者だってバレにくいだろ」
イーファが驚きに固まっているうちに衣服を瞬時に着替え、装備である長剣を佩く。戦いには長けていない文士には少し重量のあるものだったが、気にするほどではない。着終わってから、警備兵の体を見えづらい暗がりの方に移動する。
息をついたところで、奥の方からもうひとりの警備兵が現れた。こちらはさっきの若い警備兵とは違い何処か中年のオッサンのような顔をしていた。どうやら、俺のことを巡回していたさっきの警備兵――つまり、仲間だと思っているらしい。
「おい、門が開いてるじゃないか。何やってるんだ?」
近づいてきた警備兵は俺の横にいるイーファの姿を見て、目を細めた。
「誰だ、そいつ?」
「門の前でしゃがんでたから、不審だと思ってな」
「えっ」
一気に不安そうな表情になるイーファを視線だけで威圧する。彼女は気圧されて、黙ってうつむいてしまった。
新しく現れた警備兵はイーファを舐め回すような視線でじっくりと見て、にんまりと嫌悪感を催す悪い笑みを浮かべた。
「そうか、じゃあ奥の部屋で取り調べするか」
「得体が知れないから二人で行こう」
「良いから、お前は門を締めておけ。取り調べは俺に任せて、お前は当直をやってろ」
中年警備兵は俺の背後の門を指差した。イーファが捨てられた子犬のような目でこちらを見つめている。
大丈夫だ、あんな変態にお前を引き渡しはしない。
「それが困ったことに門が施錠されないんだよ」
「何? それは奇妙だな」
「魔導式のロックに異常でも起きたのかもしれない。ちょっと調べてくれよ」
口からでまかせだ。だが、中年警備兵はまんまとこの嘘を信じ込んで門に近づいていった。無防備に背後を晒したそいつの首元を抜いた剣の柄で殴る。
意識を失った中年警備兵はその場にどさっと倒れ込んだ。
「猿真似でもやってみるもんだな」
首元に一発、気絶して倒れるというのは小説や演劇における暗殺の描写で良く見る。実際に効くとは思わなかった。
倒れた警備兵から視線を離せないまま、イーファは瘧に罹ったように振るえていた。
「大丈夫か、イーファ」
「は、はい、私は大丈夫です……」
「しかし、面倒なことになってきたな」
「最初はルアさんを無能に見せかけるだけだったのに……」
「これじゃ暗殺者の強襲だ」
ため息を付きつつ、今更帰ることなど考えていなかった。
邸宅の方を仰ぎ見る。この調子だと他にも警備兵が居ることだろう。倒れた警備兵を一々暗がりに隠しても、いずれ不自然な状況はバレるに違いない。であれば、早急にルアの居場所を見つけ出すほかない。
「行くぞ、イーファ」
「だ、大丈夫なんですか……わたしたち……」
「荒事は苦手だが、俺がどうにかする。お前は魔法でサポートしてくれ、良いな?」
イーファの表情は不安で満ちていたが、無言で彼女は頷いてくれた。
かくして、邸宅の中に入り込むことが出来た。シックな内装、ふんわりと落ち着いた照明は火によるものではなく魔法でこしらえられたものらしい。ここに居ると自然と気分が緩んでしまう。しかし、いつ何が起こるか分かったものではない今、リラックスしてる場合ではなかった。
慎重に通路を探索していくと一室から話し声が聞こえてきた。背後に続くイーファにハンドサインで止まれと指示して、耳をそばだてる。
「警備が二人やられただと? 侵入者が居るということか」
「はっ、可及的速やかに発見し、捕らえます」
どうやら家長と警備の長が話しているようだ。
「もちろんだ、早くやれ。まったく、ルアを家に戻したというのに、やはり翻訳魔法には関わらせるべきではなかった」
「翻訳魔法の復活など、無理なことですからね……あっ」
「お前は無駄話をしてないで、警備を増強してこい」
「は、はっ、今すぐに!」
警備の長らしき人物が部屋から出てくる。俺達は慌てて、通路の影になっている死角にしゃがんで隠れた。警備の長は俺達の存在には気づかずにそのまま通り過ぎていった。
俺はイーファの方に振り向いて、囁いた。
「聞いたか?」
「え、あ、はい……」
「これは怪しい匂いがしてきたぜ」
顎をさすりながら考える。翻訳魔法の消滅にディフェランス家が関わっていたとすれば、俺達は敵陣に何も考えずに突っ込んでいることになる。バカも同然だった。
「と、とにかく、まずはルアさんを見つけましょう」
「そうだな」
通路に人が居ないことを確認して、俺は立ち上がる。再び探索が始まった。
メイドや執事、家の人間、警備に見つかりそうになりながらもギリギリのところで回避しながら、ルア探しは続いていた。
もっとも役に立ったのはイーファの姿を消す魔法で、持続時間が短いものの発動している間は他の人間から姿を隠すことが出来た。何度か見つかりかけたところをこの魔法で切り抜けたのだ。
疲れで緊張の糸が途切れそうになっていたところ、二階の奥の方の部屋で彼女を発見することが出来た。
彼女は座って机に脱力した様子で両手を投げ出していた。机には幾つか小難しそうな題のついた本が並んでいる。綺麗に加工されたガラス窓から、日が落ちた町に顔を向けてたそがれていた。
「ルア」
先に声を掛けたのは俺だった。ルアはこちらに振り向く。
居るはずもない俺らに驚いて、声も出ないようだった。しかし、ややあって彼女の顔は強ばる。
「警備を気絶させたのは、キリルさんたちだったんですね」
「まあ、不可抗力でな」
「わたし達はルアさんにもう一度考え直して欲しいと思ってきたんです」
「ルイとの約束をふいにすれば、あいつは何をしでかすか分からないぞ」
ルアは俯いて、ただ黙っているだけだった。
ルイとの約束を引き合いに出すのは卑怯にも思えた。確かにルアのために説得しに来たという面はあるが、俺にとってもフラフラただ単に生きているだけよりもルア達と共に翻訳魔法を復活させるための長い旅をしていたほうが生きている意味を感じられた。
だからこそ、ルアには自分たちのもとに帰ってきて欲しい。
「ルア、決断するのはお前だ」
「私は――」
ルアが俺の言葉に答えようとした瞬間、鉄の棒が何本も床から生えてきた。鉄の棒は複雑に絡み合って、俺とイーファを鳥籠のように囲ってしまった。
こんなことは魔法以外ではありえないことだ。背後に振り返る。そこには眼帯を付けた男が一人立っていた。
「お父様……」
「本当は穏便に済ませるはずだったが、こうなるとはな」
ルアの顔はみるみるうちに青ざめていった。
鉄の棒に触れても、鳥籠はびくともしない。男を睨みつけて、俺はドスの利いた声を低く響かせた。
「お前、ルアを翻訳魔法から遠ざけてどうするつもりだ」
「君たちには関係ないことだ」
「関係ないわけあるか! 今まで一緒に旅をしていた仲間なんだぞ」
「そうか」
お父様と呼ばれた眼帯男は俺の言葉に些かの興味もない様子で、部屋から出ていく。
後に残ったのはバツの悪い雰囲気だけだった。
ルアは青ざめた顔で俯き、イーファはこの先どうなるのか不安を懐きながらもなんと声を掛けたら良いのか分からず、俺は疲れで頭が鈍っていた。
鉄の棒でできた壁に寄っかかる形で座り込む。角度的にしたからルアの顔を覗き込む形になる。
彼女は俺の視線を避けるように顔を背けた。
「……ごめんなさい」
ルアがやっとのことで絞り出したような声で、そう呟く。
いつも元気な彼女がこんなふうになっているのを見ると居たたまれない気持ちになってくる。今は彼女を責める気持ちにはなれなかった。
「まあ、お前の気持ちも分かるから良いけどよ」
この際だから、ルアには聞いておいて欲しいことが一つあった。
息を整え、顔を見せてくれないルアをまっすぐ見据えて、先を続ける。
「実は俺、昔は通訳者だったんだ」
ルアとイーファが同時に驚いた様子で顔を上げた。やっと顔を見せてくれた。
「で、でも、キリルさん、前は本商人だって」
「嘘だ。俺は元翻訳者で、翻訳魔法が出回って職を失った」
「なんで……」
ルアは困惑した様子で、視線を巡らせた。
「翻訳魔法が無くなれば、キリルさんの仕事だって戻ってくるかもしれなかったんですよ」
「ああ、そうだな」
「じゃあ、なんで……なんで、私の旅に協力してくれたんですか……?」
「なんでだろうな」
俺は最初にルアに出会ったときのことを思い出す。彼女はブレイズ語が話せないにも関わらず、エクリからブレイズへと旅をしていた。言葉に無頓着な方今の人らしいやり方だった。
だが、言葉が通じないからといって自分たちと彼らを断絶する人々とはルアは違っていた。通じないながらに挑戦しようとする彼女のパッションに俺はいつの間にか見惚れていたのかもしれない。
だからこそ――
「お前が危なっかしくて見てられなかったから、かもな」
「な、なんですかそれ……」
「そもそもな、ダサいじゃねえか」
「ダサい?」
ルアはきょとんとして首を傾げる。
「翻訳者や通訳者が人の叡智なら、同じ人に作られた翻訳魔法だって人の叡智だ。自分の能力を上回られて、仕事を取られて、文句を言うなんて職人としてダサい」
「キリルさん……」
「それにお前みたいな奴なら、翻訳魔法と通訳者・翻訳者を両立できる何かを考えられるだろうと思ったから」
確証はなかった。彼女のパッションに当てられただけで、ルア自身もそんなことは考えていなかったかも知れない。だが、無意識にそう感じていたことは事実だった。
ルアの横顔は少しずつ色を取り戻していた。つうっと彼女の頬を涙が伝っていった。彼女はイスから立ち上がって、鉄柵を力強く掴んだ。
「……そこまで期待されてるんだったら、やってみせますよ!」
涙を流しながら、ルアは叫んで宣言する。
「翻訳魔法だって、翻訳者だって、通訳者だって、なんだって私の手でどうにかしてみせます!」
「ルアさん……!」
イーファが胸の前で手を組んで、華やかな表情を見せる。
もう彼女に迷いは無かった。
どうにかしてこの鉄の檻を壊す方法は無いか、俺達三人は試行錯誤を繰り返していた。
掴んで揺すっても、タックルしても鳥籠は相変わらず歪む様子もない。イーファが熱を与える魔法や衝撃を加える魔法を試してみたが、これも効果なし。ルアはその間、再びイスに座り、何かを考え込んでいた。
「ルア、なんか良いアイデアでも出たか?」
侵入したときの疲れも相まって、俺は満身創痍という感じだった。イーファもこの状況で出来ることを全部試して、疲れ切ってしまっていた。魔法を使う際に消費するMPの減少は、すなわち精神力に直結している。魔法を使えば使うほど精神的に疲れてしまうのだ。
ヘタっている俺達の前で考え続けていたルアは何か思いついたようで「よし」と呟いてイスから立ち上がった。
親子だから何か分かるだろうと俺達は期待していたが、始まったのは鉄柵への全力タックルだった。
「うおりゃぁ!」
ガシャン! 鉄の棒はルアの三回目のタックルで歪んだ。
一体どういうことだろう。内側から力を加えたときはびくともしなかったというのに。
「ああ、そういえばそうでしたね……」
「なんだ?」
分かった様子のイーファに掛けた疑問はルア自身がその身で答えてくれていた。
「内側からだと力を加えても壊しづらい構造なんですよ、この檻っ!」
数回のタックルで、檻には人一人が通れるくらいの歪みが出来た。全力タックルを繰り返したルアは俺達が檻を脱出できたのを確認すると長く息をはいた。そして、膝に手をついて肩で息をする。
「大丈夫か、ルア?」
「だいじょう……ぶです……」
「あ、ありがとうございます」
イーファはおずおずとお礼を言って、ぺこりと腰を折った。
そんなとき、部屋の中へと入ってくる複数の人影が見えた。その先頭には先程の眼帯男、後ろに警備兵を連れている。
「さすがはルアだ。私の牢獄魔法を破壊するなんて、力が有り余っているようだ」
「さて、聞かせてもらおうか。ルアをここに閉じ込めておく本当の理由を」
眼帯男はため息をついて、続けた。
「あれほどの魔術的知の集合体である翻訳魔法の消滅の裏に何があったのか、君たちは知らないだろう」
「誰もしらないからこそ、旅の中でそれを知ろうと――」
「ああ、そうだろう。だが、私はこれを大きな陰謀だと考えている」
眼帯男はルアの言葉に被せるようにいう。彼女の表情がまた固くなった。
俺は翻訳魔法が作られた経緯を思い出していた。各国の魔術の重鎮が集まって作られた翻訳魔法は、当時の魔法技術の最高傑作だと言われた。そんな翻訳魔法を誰にでも使えるように整備した高位魔術師達は大衆から大いに評価され、英雄視された。
その翻訳魔法がいきなり使えなくなり、高位魔導師達も原因を解明できていないという現状に陰謀を感じるのも無理はなかった。
眼帯男は腕を組んで、ルアに視線を向ける。その眼差しは優しい親のものであった。
「ルア、私が大いなる陰謀に没頭する愛娘を気にしないとでも思っているのかね」
「しかし、お父様、それは――」
「心配なのだよ、君のことが。ルイが居なくなってこれ以上無い良い時機だった」
「私の話を聞いてください!」
ルアは机を叩いて、立ち上がった。そして、眼帯男に迫る。
俺とイーファはそんな彼女の背中を静かに、しかし応援の眼差しで見つめた。
「私は元々家出人です。それでも心配してくれる親に生意気なことをいう資格はない。でも、私を追って大量虐殺をしようとしたルイお兄様と約束をしました。お互いに為すべきことを成してから、家族として相まみえましょうと。それにもう一人じゃないんです。キリルさんとイーファさんという素敵な仲間がいる。一人は元翻訳者で、もう一人は宮廷魔術師です。素人じゃない。仲間と一緒に旅をしてきたんです。その中で目的以上に大事な絆を育んできたんです」
眼帯男は口を半開きにしながら、ルアの言葉を聞いていた。言葉の意味は理解出来ていても、受け入れるのが難しいときの顔だった。
「だから、行かせてください。翻訳魔法を復活させて、必ずここに戻ってきてみせます。私はあなたの娘ですから!」
ルアの声はいつもの元気なものに戻っていた。
眼帯男はその声に唸りながら、しばらく考えていた。ルアは答えが出るのをゆっくりと待った。
彼は大きなため息をついて、それから言った。
「ルアらしい答えだ」
「ま、私ですから」
「良いだろう。家出したときも私にはルアを止められなかった。君の溌剌さには完敗だ」
ルアはこちらを振り返って、ニッコリと笑顔を見せる。イーファはこくこく頷いてそれに答えた。
「再出発の準備をしよう。馬車と荷物を用意させるよ」
そういって、眼帯男は部屋を去っていく。ルアは脱力して、その場にへたり込んだ。
「おつかれさん」
俺は彼女の肩をたたいて、廊下に出る。新鮮な空気が吸いたかった。
背後でイーファとルアがキャッキャと何やら騒いでいた。再び旅を続けられる。最初は面倒だと思っていたことが、今では完全に捨てきれない物となっていた。
人は変わるものだ。廊下の端でぼやける魔法灯を見ながら、俺はそう思った。
「あのぅ、これいつまで歩くんですー?」
ルアがイライラしてそうな声色で不平をいう。茶色の道が俺達三人の前に延々と続いていた。道は周囲から少し盛り上がった場所にあった。雨季に近くの川でも氾濫するのだろう。そのために整備したと見える。
出発したは良いものの、翻訳魔法に関わる手掛かりを見つけられていない俺達は途中までディフェランス家長の用意してくれた馬車で隣町に向けて走っていた。
しかし、馬車は途中でぬかるみに足を取られて動けなくなり、馭者がこれ以上は勘弁してくださいと泣き顔で懇願してきたので、あとの道は歩きでいいとつい言ってしまったのであった。
ただ歩くのは俺の専売特許だったが、元気の有り余っているルアには退屈だったようで事あるごとにぶーぶー不満をぶちまけていた。
「はあ、退屈なら歌でも歌ってろよ」
「良いんですか、私、幼い頃はメルローの教会の聖歌団やってたんですよ」
「家出娘が清楚の皮を被ったこと言ってら」
「何か言いました?」
けっ、といってルアの追求をかわす。彼女もそれ以上気にせず、何やら歌らしきものを歌い始めた。
歌らしきものと言ったのは、それが大分酷いものだったからだ。音程は外す、歌詞は抜ける、リズム感もグダグダで、聞いててイライラしてくるものだった。
「お前、本当に聖歌団に居たのか?」
「え、そうですけど……」
「そこのシスター、歌下手だったんだな」
ルアはよく意味が分からないという様子できょとんとしてから、また歌を歌い始めた。今度はエクリの民であれば誰もが知っているような、よく聞く民謡だ。ルアの音痴ぶりはここに来て、はっきりした。
最初は聞き流していたが、段々と神経が苛立ってきた。
「おい、黙れ」
「えっ」
「下手な歌を歌うな。神経に障る」
「酷っ!?」
「お前、絶対自己紹介するときに聖歌団に居たとかいうなよ。後悔することになるからな」
「ほんっとうに酷いですね!? ていうか、歌でも歌えって言ったのキリルさんじゃないですかぁ!」
「下手な歌を歌えとは言ってない」
ぷんすか怒り出すルアを横目に背後についてきているイーファの様子を確認した。彼女は道中で摘んだ可愛らしい花を手のひらに収めて、それを愛でながら俺達二人について来ていた。どうやら俺達の話は聞いていないらしい。
俺は首を回して、彼女の方を向く。
「おい、イーファ」
「は、はい?」
自分の世界に没頭していたのか、イーファはいきなり呼ばれてびっくりした様子で答える。
「お前、歌は得意か?」
「う、歌ですか……?」
「こいつの歌が下手すぎて困ってたところだ」
「きーりーるーさーんー、そろそろ擦るのやめてくれますぅ?」
腕を組んでルアが抗議してくる。イーファはしばらく何かに迷っているような顔をしていたが、ややあって、人差し指を立ててそれを振り始めた。
それに同調するように空中に様々な色の光が散ってゆく。光が散るたびに木琴を叩いたような音が鳴った。それが連なって、旋律を作り上げていく。俺とルアはその光と音の絡み合いにしばらく目を奪われていた。
「歌は苦手だけど、これくらいなら出来るかな……」
「凄いじゃないですか! どうやってるんですか、それ!?」
ルアがイーファに抱きつかんが如くの勢いで迫る。イーファは少し困った顔になる。
「えーっと、説明すると長いんですけど……」
「教えて下さいよぉ、私も一端の魔術師ですから出来るかもしれません」
「お前、魔術師と言っても治癒師じゃねえか」
「錬金術師クラスじゃないから少しくらい詠唱魔法も使えるんですぅーべーっだ!」
舌を出して煽ってくるルア。いずれにせよ魔法を使う素質が無い俺にとっては関係のない話だった。
イーファは頭の中を整理できたのか、頬に手を当てながら順序立てて説明を始めた。専門的な内容は理解出来なかったが、彼女自身は分かっている口ぶりだった。
しかし、話が進むにつれてルアの表情は家の中でカナブンでも踏み潰した時のような顔になっていった。これは見ていて面白い。
「……というわけで、シュルディー分布のうち、先の式のx2、xプライムの魔導係数がインスピダール値を超えることによって起こるのが先程の魔法の原理的な説明となります。えっと、わかりましたか?」
「わ、分からんです……」
「困りましたね、これでも初等魔法学だけで分かるように解説したつもりなんですが……」
「とにかく簡単そうに見えて凄い魔法なんだってことはわかりました、はあ」
ルアは残念そうに大きなため息をつく。傍から静かに見ていったが、良い気付きだと思った。
専門家は簡単にこなしているように見えて、それを簡単に出来るようになるのに時間と苦労を消費して相当の訓練をしている。翻訳者もそうだ。一人の翻訳者が生まれるのには、彼の一生分の努力が必要になる。過去に「飛竜母艦」を「飛行トカゲ運搬用の船」と訳した翻訳者が居たが、そういうことである。
まともな翻訳は一人の人生を消費して得るものだった。本来は。
「キリルさん?」
現に戻ってくる。イーファが心配そうな表情で俺の顔を覗き込むように見ていた。
「なんだ」
「いや、難しい顔をして黙り込んでたので気になって……」
「なんでもない」
「お手洗いにでも行きたくなったんですかぁ? ここでするなら開放感ありそうですね。新しい趣味に目覚めそう!」
ルアがニマニマしながら、悪い冗談をいう。
『新しい趣味を? ルアー、冗談はそこまでにせにゃ。つまらないかもだ。腐った卵になるので?』
「え? 今のってなんて言ったんですか?」
「なんでもない」
「ブレイズ語ですよね、イーファさん分かります!?」
「いや……」
イーファも良く分からないといった顔になる。そりゃそうだ。先の言葉はブレイズ語ではない。伝説の誤訳者ナッチ・トーダーの言語だ。誰もわからないかもだぜ。こいつはコトだ!
そんなことを言っていると、ドタドタと地面の揺れる音が聞こえてきた。地響きは確実に自分たちの方へと近づいてきている。
イーファは不安そうな顔で、周りを見回す。
「何でしょう、この音……?」
「なんだあれ……」
振り返った俺の目に見えたのは大量の騎士だった。馬を駆って土埃を上げながら、こちらに疾走してくる。あっけにとられているうちに彼我の距離は縮まっていた。
轢かれる寸前でルアとイーファを掴んで道の脇に転がり込んだ。地面にぶつかって、そして一瞬意識が途切れる。意識を取り戻すと、何か柔らかいものが顔の上に乗っかっていた。しかも、体の上に伸し掛かられているようだ。
「いてて……」
「おい、退いてくれないか」
「ひゃあっ!?」
イーファは悲鳴を上げて、俺の上から離れた。小さなお尻がやっと頭の上から退き、重圧から解放される。彼女は赤面しつつ、「ごめんなさい」と連呼しながら何回も腰を曲げている。
ルアはそれを見つつ、ニヤニヤし始めた。
「良いんですよ。男の人にとって尻に敷かれるというのはご褒美で――」
「お前は馬に轢かれたほうが良かったようだな」
「……助けてくれて、ありがとうございます」
「しかし、一体何だったんだ」
離れていく騎士たちの背中を見る。あれだけ多くの騎士が国境に向けて疾走していくのは珍しいことだった。
「あれは多分エクリの貴族評議会付き連合騎士隊ですね」
「分かるのか?」
ルアは頷く。
「ディフェランス家からもお家に付いている騎士を連合騎士隊に送っているんです。旗持ちが居るので、間違いないはずです」
「しかし、何故そんなのが動いてるんだ?」
「分かりませんけど……何か並々ならない事態が起こっているということだけは確実ですね」
遠くに去っていく騎士たち。俺達は道の先を不安とともに見つめるのであった。