あの夜から、ペガサスに乗れなくなった

 ノキルは、アルス様に教授を受けていた記憶を思い出していた。

剣技の訓練の小休憩のひと時。

ノキルは、くったくたになった体をどさっと地面に下ろして、尻をついた。

両足をだらんと前に伸ばしている。

両腕を背後に伸ばし、地面に手をつく。

背をのけ反り、空を見上げた。

空に鱗雲が広がり、乾いた風がそよかに通り過ぎる。

その風は、むわっとした湿気が充満する鎧の隙間を通り過ぎ、汗に濡れた肌を心地よく冷やす。

ノキルは、兜を取った。

「そう言えば、アルスさんは、どうして、この国に仕えようと思ったのですか? アルスさんなら、皇国に仕えられるのでは」

アルスは、ノキルの隣に座る。

アルスも兜を取った。

短い髪から、汗が、きらきらと飛び散る。

「こちらの国の領地に、故郷があるんです」

アルスは答える。

「ああ、こんなに何度も剣を交えているのに、故郷も知らなかった。どこの生まれです?」

「西方に在る森の奥地の小さな集落です」

「あの森か。国境の上に在る森だから、王族は立ち入ってはいけないって言われています」

「どうしてですか?」

「森の中だと、どこからが隣国の領土になるかがわかりづらいからです」

「森に線を引く事もできませんからね」

「うん。例え間違いでも、王族が隣国の領土に踏み入れたら、国同士の大事になってしまうと、国王様が注意喚起してます」
「森は、領土など関係なく、どんな人でも受け入れてくれるのに」

アレスは答えた。

「うん。どんな所なのですか?」

ノキルは訊ねる。

「とても自然が豊かな場所です。馬のひずめの音も荷車の車輪の音も無い。動物の楽園です」

「ふーん、行ってみたいな。アレスさんの故郷に」

ノキルの表情に儚さが映る。

「いつか、行ける時が来たら、一緒に行きましょう」

「うん、行きましょう!」

アレスの返信に、ノキルは、表情をぱあっと明るくして答える。

「さて、練習を再開しましょうか」

アレスは立ち上がる。

「はい!」

ノキルも立ち上がる。

「今度は、演舞ではなく、実戦練習を行います。この練習場の敷地内を全て使い、木刀を相手の鎧に当てたら勝ちとします」

「はい!」

ノキルとアレスは兜を被り、木刀を構える。

「始め!」

アレスの掛け声と共に、ノキルは、すかさず、右足を踏み込み、アレスに攻撃する。

アレスは、その攻撃をするりと避ける。

「昨日も同じ戦術でしたよ。周囲に目を配り、ありとあらゆる物を利用するのです」

ノキルは、苦味を奥歯で噛み締めて、再び、アレスに立ち向かう。

ノキルは、右足を踏み込み、アレスの間合いの内側に入る。

そして、木刀を下段に持ち替えて、下から上へ木刀を斬り上げる。

アレスは、速やかにノキルの右側に入り込む。

そして、ノキルの右足に足をかけて、右肩を押して、上体を倒した。

ノキルは体勢を崩して、地面へ転倒する。

転倒する瞬間、視界に地面が迫る恐怖心から目を瞑る。

「目を閉じてはいけません。倒れる事が敗北ではなく、それをチャンスにするのです」

アレスは言う。

ノキルはアレスの言葉を聞いて、木刀を固く握り、転倒したまま、アレスの足首に木刀を斬りかかった。

アレスはさっと片足を上げて、ノキルの攻撃を避ける。

ノキルの木刀の先端が地面についている。

アレスはノキルの木刀と地面の間に木刀を入れ込み、すくい上げるようにふるい上げた。

その力に耐えられず、ノキルの手から木刀が離れた。

木刀が空中で回る。

木刀がノキルの真上に落ちていく。

ノキルは、痛みを避けようと、両腕で顔を覆い、身構える。

それを見た、アレスは、素早く木刀の刃をノキルの木刀に向ける。

そして、ノキルの木刀に、木刀を当てて、弾き飛ばした。

ノキルは、胸を撫で下ろした。

「刀はどんな事があっても、手から離してはいけません。敵に刀が渡ったら、自らの刀で殺されます」

アレスは、ノキルに手を差し伸べる。

ノキルは、そのアレスの手を取る事なく、自力で立ち上がる。

「もう一度、お願いします」

ノキルは、木刀を持ち、真剣な眼差しで対峙した。
「では、いきますよ」

アレスは、そう言う。

ノキルの真剣な眼差しが、兜をすり抜けて、アレスの目を捉える。

アレスは木刀の刃先をノキルに向けた。

アレスは、木刀を一振りして、攻撃をした。

ノキルは、間一髪で、その木刀を受け止める。

アレスとノキルの木刀の刃が交わる。

木刀を持つ、ノキルの両手に、アレスの攻撃の重さが、じーんと伝わる。

アレスは、ノキルが受け止めきれるより早くに、次の攻撃を繰り出す。

その攻撃も、ノキルは全力で受け止めた。

ノキルは、受け止めた勢いを逃すように、一歩、後ずさりする。

アレスは、一歩前進し、その離れた一歩の距離を縮めた。

また一つ、アレスはノキルに攻撃を繰り出す。

ノキルに呼吸を整える間を与えない。

そのアレスの攻撃も、ノキルは歯を食いしばり受け止める。

刃を交える度に、ノキルは後ずさりする。

アレスの猛攻は速度を変えずに繰り返される。

気が付けば、練習場の端まで、ノキルは追い込まれていた。

ノキルの背後には、練習場の敷地内に在る小さな林が在った。

ノキルは、太い幹の木に背を預けた。

次のアレスの攻撃がくる。

ノキルは、アレスの攻撃から逃れるように太い幹を盾にして、木の裏側に身を潜めた。

高鳴る鼓動が、荒い吐息と共鳴して、ノキルの耳の奥で脈打つ。

口呼吸の吐息が兜の内側に充満する。

口の中が乾燥して、喉が貼り付く。

心臓が口から出てしまいそうで、ごくりと唾液を飲み込む。

飲み込んだ唾液で、貼り付いた喉が潤いを取り戻す。

再び、口呼吸で循環して、息を整えていく。
 回り込まれたら終わりだ。

ノキルは、一つ大きく呼吸を取り込み、林の中へ一目散に走った。

林の中は走りづらい。

はらり、はらりと少しずつ、落ち葉が落ちゆく。

木々の太い根が地表面に姿を現して、不規則な凹凸が作られている。

時折、その根に足を取られる。

落ち葉を踏むと、ぱりっとした高音が鳴り、私の居場所を教える。

伸びた小枝が、駆けゆく先々に在る。

しかし、走る速度は緩めない。

腕で顔を守り、走っていく。

体に小枝が当たる度に、ぱきっと折れる音が鳴る。

小鳥達は、ぱたぱたぱたと林から空へ飛んでいく。

ある太い幹の裏に隠れた。

ノキルの高鳴る緊張感に息が詰まる。

ちらりと、林の中を見渡す。

アレスの姿が無い。

耳に集中する。

林の中は静まり返っていた。

アレスの歩く音も聞こえない。

鎧の擦れる音も聞こえない。

ノキルの囃し立てる鼓動だけが、耳を急かす。

アレスを探すべきか、じっと待ち、好機をうかがうべきか。

その時、近くの木の裏側で、ざざっと音がした。

きっと、その木の裏側にアレスが居る。

この距離で、攻撃をしてこないという事は、まだ、見つかっていないはず。

ここからなら、飛びかかれば、奇襲できる間合いだ。

ノキルは、木刀を上段に構えて、足の指で地面を掴み、飛びかかった。
踏み込んだ拍子に、ざさっと、靴と地面の擦れる音が鳴った。

これで勝敗を決めると意気込んで、木刀を振り下ろした。

しかし、そこには、アレスの姿は無かった。

当てる相手のない木刀は、空気を斬る。

振り下ろす勢いを両手で止められず、そのまま、地面を打つ。

地面には、拳くらいの大きさの石が落ちていた。

はっ! と気が付いた時には遅かった。

アレスは、私の真後ろに立っていた。

アレスは、木刀を下段から上段に振り上げる。

ノキルは、身をのけ反り、かろうじて避けた。

アレスの木刀の先端が、ノキルの胸当てを僅かに削る。

ノキルは、木刀を構えて、アレスと対峙した。

「ノキルさん。音で惑わされてはいけません。音は、目で見なくても、耳で捉える事ができます。耳で音を捉えて、音の無い場所に目を向けるのです」

疲労困憊したノキルの腕は、ぷるぷると震えていた。

木刀を構えるのも、やっとだった。

アレスは、ノキルに休む隙を与えず、再び攻撃を始めた。

アレスは、容赦なく、攻撃を繰り返す。

アレスの猛攻に、ノキルは、ひたすら耐え忍ぶ。

アレスの攻撃を木刀で受け止めるだけで、精一杯だった。

私は、骨盤から下に重心を集中させて、足で地面を掴み、踏ん張る。

しかし、踏ん張る靴先で地面を掘りながら、じりじりと後方へ圧されていく。
ノキルの脳裏に葛藤が現れる。

それは、ノキルの心を惑わせた。

木刀を手放せば、アレスの攻撃を受ける。

そうすれば、この実戦練習も終わるのだろう。

ふと、木刀を持つ握力を緩める言い訳を探し始める。

走馬灯のように現れては消える言い訳。

その言い訳の数々は、視界を横切り、目の前のアレスを見えづらくする。

この実戦練習も、いつかは終わる。

言い訳に帯びたノキルは、まるで、打ち捨てられるサンドバッグのようだった。

しかし、それでは駄目だ。

王族に生まれた以上、国を守り、国王様を守り、エシア王女様を守ると決めた。

エシア王女様に、親兵になると告げた夜の事を今も鮮明に思い出す。

月明かりが朧げに庭を照らし、虫の音が陽気に囃し立てる中。

ノキルは、エシア王女様に親兵になると告げた。

エシア王女様は、ぴょんぴょんと小さく跳ねて、満面な笑みで喜んだ。

ノキルを抱擁し、その溢れそうな程にきらきらとした笑みを分かち合った。

エシア王女様の温もりと優美な香りを感じた、あの時、心に誓った。

エシア王女様をお守りすると。

その笑みを裏切る訳にはいかない。

その為には、アレスにも負けられない。

握力に意志が通い、木刀をきゅっと握り直す。

視界を邪魔していた言い訳も、瞬く間に払拭して、アレスが鮮明に見える。
アレスの木刀の動きに集中する。

一つ一つの斬りつける木刀を確実に受け止め、外へ払い除ける。

それに気がついたアレスは、突然、木刀の先端をノキルに向け、胸を突いた。

鎧に守られて、刺し傷にはならないものの、凄まじい圧痛が走る。

ノキルは、不意な圧痛に悶えながら、林の外へと突き飛ばされた。

空気を吸い込もうとしても、肺が吸ってくれない。

ノキルは、目は丸くして、呼吸ができない事に恐れる。

自然と涙が込み上がる。

しかし、息ができない助けて欲しいと求める甘えの涙だと気がついた。

涙がぼろぼろと溢れ、兜を濡らす。

ノキルは、涙を溢しながら、立ち上がった。

アレスは、そのノキルの涙を構う事なく、攻撃を繰り出す。

段々と足が痺れ、手先が痺れ、胸の上部が痺れてきた。

頭の中が膨張するかのように、ぼわんと虚ろになる。

それと同時に、視界の外側が、じわじわと暗転し始める。

アレスの攻撃を受け止めるので精一杯だった。

呼吸のできない恐れが、私をどんどん追い詰める。

少しでも空気を取り込もうと、細かく呼吸を試みる。

僅かに肺が膨らんだのを胸が感じた。

その瞬間、恐怖が、すうっと消えて無くなった。

涙の水界にアレスの姿が見える。

ノキルは、瞬間的に、目を強く瞑り、涙を追いやった。

水も漏らさぬ態勢で、アレスをはっきりと見る。
ほんの少ししか、呼吸ができないけど、まだ、戦える。

ノキルは、アレスの攻撃を受けながら、反撃の時を見計った。

アレスとノキルの周りには、人だかりができていた。

発熱した実戦練習を見に、練習生や教官が集まっていた。

毎回の事だ。

本日の練習時間も過ぎて、余暇を楽しむ練習生や教官の一つの催しのようになっていた。

「今日は、いつにも増して、ノキル、ぼろぼろだな」

練習生の一人が言う。

「今日も、木刀を飛ばされて負けんだろ」

もう一人の練習生が答える。

その練習生は、そう言うと腕を組んだ。

勝敗がどちらに傾くか、わくわくした表情で見ている。

教官が、その練習生の横に立った。

「いや、よく見ろ。今日のノキルはいつもと違う。あいつ、守るべき者をはっきりとさせたか」

ノキルは、アレスの攻撃に圧されて、練習場の真ん中まで、追い込まれる。

ざわざわとした声で練習場が賑わう。

太陽は傾き、真っ赤な夕陽が、ノキルとアレスを横から照らす。

影が何倍もの大きさに伸びている。

影も同様に、アレスの攻撃を耐え凌いでいた。

どうする。

どうしたら、反撃ができる。

考えた。

ノキルは、もう数分も、もたない事を理解していた。

全身が疲弊に叫び、筋肉も緊張して、思うように動かない。

どうする。

その時だった。
アレスの鎧に、きらっと夕陽の光が反射した。

これだ!

しかし、ノキルの思考が、アレスになんて効かないと否定する。

ただ、もう、体力がもたない。

勇気を出して、その策を実行するしか、無かった。

一瞬、脳裏に、エリス王女様の姿が浮かぶ。

そのエリス王女様は、ひらひらと舞う蝶を見て、天真爛漫で柔らかな笑みを溢している。

いくぞ!

ノキルは、心の中で、全身に声を掛けた。

一気に体勢低くして、右足で左に踏み込んだ。

アレスの攻撃を避ける事に成功した。

まだだ、この策はこれからが本番だ。

ノキルは、アレスを中心に、円を描くように走る。

息もまともにできないまま、とにかく走った。

「夕陽、夕陽はどこ」

疲弊した息に、声が混ざる。

ノキルは、目線を左右に向けて、探す。

あった!

ノキルは、夕陽を背にして、アレスに突進した。

僅かな時間も隙も与える訳にはいかない。

どうなっても構わない。

「あー!」

ノキルの口から、無意識のうちに大声が出る。

無我夢中で、アレスに突進した。

ノキルの木刀の先端が、アレスに向いている。

そのノキルの決死の覚悟が周囲に伝わる。

人だかりは、息を呑み、静まり返る。

アレスは、ノキルを見る。

しかし、夕陽の強い陽光に、目が眩む。

夕陽の逆光で、ノキルの姿が見えない。

ノキルの烈々とした気迫が、アレスの気概へ押し詰まる。