【偽 装】

  

 あの御方(おかた)凛々(りり)しい姿が忽然(こつぜん)と夢の中に浮かんだ翌朝は、たいてい雨になった。すぐに()む夕立のような雨のときもあったし、じめじめとしと降ることもある。
 たとえ降らずとも、ひたひたと忍び来る湿り気を含んだ雨足のけだるい気配だけが、いつまでもどこまでも脳裡に焼き付いて離れない。

 ……いま、わたしが男装しているのは、あの御方……義兄、すなわち廃太子のもとから何者かによって拉致(らち)された長姉、渢姫(ふうき)の行方を探すためであった。
 父、(かつ)(もう)の厳命である。

 もともとわたしは、物心ついた頃より、葛家伝承の剣技修得を義務づけられていた。それが帝国の丞相(じょうしょう)を務めてきた葛家の使命の(いつ)であって、姉は後宮に入り、妃となった姉を護るのが末妹の役割なのである。ちなみに、妃には三種あって、正確には姉は(ひん)と慣例上呼ばれるのだが、煩雑(はんざつ)になるので、たんに、()としておこう。また、渢姫(ふうき)といえば、この帝国では姉一人(いちにん)を指す呼称といってよく、〈渢姫〉のままで叙述しておくのがより適切だとおもうが、〈渢妃〉と記す場合は舞台が後宮のときである。

 葛王剣(かつおうけん)……と名づけられた神聖なる剣技の奥義(おうぎ)修得は、初潮前の女人にしか為しえず、わたしは姉たちから離れて暮らし、父から直接に、ときには熟練の老剣士たちから入れ替わり立ち代り教え込まれた。
 ここで断っておかねばならないことがある。
 剣技は、体を鍛えるのが目的ではなく、また終着ではない。いくら鍛錬しても意味はないのだ。そこそこの基本だけを体得すればよく、最後は剣それ自身が、ふさわしき人物を選ぶ(・・・・・・・・・・・・・・・・・)のである。

 ……つまりは、葛王剣に選ばれなければ、葛王剣を(つか)いこなすことはできない。
 さらに言えば、ひとたび選ばれれば、たとえわたしのように剣技に未熟であったとしても、剣それ自体が選んだわたしに驚くべき力を与え、剣と一体となって、常人の域を超えた技を身にまとうことができるのだった。

 幸い、わたしは初潮前に葛王剣から新たな持ち主として選ばれた。

 ……このとき、その吉報を伝え聴いた王子、(よう)(てい)様はわたしの剣さばきを見るため葛府をひそかに訪れた。〈府〉というのは、家、邸のことだ。主に高官の邸宅にのみ使う呼称で、職掌(しょくしょう)(がら)自邸内で職務をすることが多く、役宅という意味も(あわ)せ持つ。
 小雨がぱらついていた。
 けれども不快な音ではなく、むしろ爽やかで、なにやら貴人の(おと)のいを()でているかのような、そんな雨だった。

 ……揚締様は、わたしの葛王剣を見に来られたというより、将来の賓たる長姉、渢姫(ふうき)と最初の密会(婚姻前の顔合わせのことを指す。蜜会ともいった)が主目的であった。そのことは重々承知していたものの、揚締様の風貌(ようし)がわたしの視界を襲ったとき、からだの芯が打ち震えた。
 それは一度も経験したことのない、そうして形容し難い悪寒と恍惚がないまぜ合わさった、奇妙で、あたたかみがあるのかないのかすら判別できない感情の(たば)のなかにとらわれてしまった。
 どちらかといえば。
 揚締様の背丈はそれほど高くはない。首が異様に太く、その上に小さな顔がのっていた。そんなふうにわたしは感じたはずである。
 やや左右にのびた細い眉毛と向かって左側の瞼は二重、右側は一重……これは高貴なる後嗣(こうし)(ちょう)であって、おそらく遠からず皇太子として勅任(ちょくにん)されるであろうことをこのときわたしは察した。
 顎はややしゃくれ気味に上向きにあるのも、それは天を迎える吉姿(きっし)というものであって、耳朶が人並みに大きいのも吉相にほかならない。人心を聴くことができる者こそ、すなわち帝位に就く必須条件であって、五王子の一人である揚締様は、事実、その翌年、立太子の儀をおえ、渢姫(ふうき)は妃の一人として後宮に入った。
 そうして、揚締様と会ったその夜、わたしは初潮を迎えた。
 ……その日からすでに六年が()っていた……。

         ⚪

(こう)()様、まもなく離宮ですが、砂嵐が襲ってきましょうぞ」

 わたしは老侍士(じし)(りょう)(せい)と二人で廃太子、揚締様が幽閉されている離宮をめざしていた。
 微砂が混じった横殴りの風が頬を叩くのは、道を急ぐわたしたちにとっては、むしろ幸先(さいさき)のよいことであった。
 吹く風には、四種の色が含まれている。

 (はん)
 (こん)
 (しゃく)
 (げん)

 いま、吹いているのは、おそらく癪の風であったろう。

 すばやくそう判断し、わたしと遼翁(りょうおう)の二人は、先刻(さっき)通り過ぎたばかりの洞窟をめざしていた。いまのうちに引き返さなければやがて風に癪と叛の色が混ざって、暴れ砂となった天変のなかへ呑み込まれかねない。
 
 砂塵が視界を遮らなければ、わたしの眼下には離宮がみえるはずであった。
 ……離宮とはいえ、かつてそこがこの杞游(きゆう)帝国の国都であった。
 離宮の三辺を山々が覆っているが、峻険な山ではない。といってもとより人にやさしい山でもない。古代、この地は吉相の最たるものであって、杞游(きゆう)国、四百余年の歴史が刻まれている……。

 遷都(せんと)の後、幾分(さび)れてはいたものの、依然として副都としての機能は十二分に保持されていたようだ。
 副都駐留軍最高司令、(よう)至元(しげん)は、現皇帝の末弟にして、この帝国の実力者の一人である。そのような厳貴なる者をして離宮を守らしめている事実にこそ、この一帯に帝国にとっては放ち難い秘めたる理由(ひみつ)が潜んでいたのであったろう……。
 むろん、わたしはその詳細を知らない。
 けれども、眼下に広がる軒並みを一望するだけで、隠潜せる秘力(ひりき)がこの離宮全域を覆い、(まも)っていることは凡人にも容易に察せられるであろう。
 すぐに砂塵に埋もれた視界のなかに、わたしは何を視ていたのか、いなかったのか……。

「ついに、きましたな……」

 ふいに遼翁が感慨深げにつぶやいた。かれは葛家の家宰(かさい)の一人であり、名だたる侍士(じし)であった。
 この時代、名家に(つか)える剣士を、侍士と呼ぶ。尊称といっていい。
 すでに葛王剣と強く結ばれている(・・・・・・)このわたしには、おそらくは向かうところ敵なし……ともいえたのだろうけれど、父の配慮(はからい)で遼翁がわたしに付き添ってくれることになった。もっとも翁自身、久方ぶりの旅を楽しみにも思っていたはずである。
 ちなみに、遼翁が(つか)う剣は、遼海剣である……。

「や、鑛姫(こうき)様……いや、主君、洞窟には先客がおりますぞ」
 
 遼翁の表情が急変した。わたしを〈主君〉と呼ぶのは、第三者がそばに居るとき、男装しているわたしの正体を知られないための符牒(ふちょう)のようなもので、おそらくはかれ自身が気を引き締める意味合いも含まれていたにちがいない。

「老僧か……」

 思わずわたしも声色(こわいろ)を変えて、窟内へ足を踏み入れた。
 (なか)には、老僧の一行が総勢七名いた。(だん)を組み、なかに小枝をいれ火をつけ鉄鍋を置いてある。張った水は、おそらく携えてきた革袋から注いだものであったろうか。
 儀式用のものか、悪障を(はら)うものか、それは種類によって異なるらしいことは学んでいたけれど、そのどちらかは判じ難い。

「失礼いたす」

 言ったのはわたしである。
 剣士らしく(・・・・・)、なにものにも動じない言動というものが求められている。その規則慣行に従うのも、また、偽装には必要なのだった。

「おお、剣士どのか……さ、こちらへ、奥へござそうらえ」

 老僧の付き人のなかで年長者の修行僧が手招きしてわたしらを迎えてくれた。
 僧、とは宗教家ではない……学僧のことを指す。官に仕えない学者、元吏士(りし)、文人、書人らの総称である。
 網代笠(あじろがさ)に杖。丸ぐけの帯を締め、持っているのは頭陀袋(ずだぶくろ)托鉢(たくはつ)の必需品、鉄鉢(てつばち)一つ。
 僧の特権として、家々を回って食糧や水、酒を無償で手に入れることができた。
 鉄鉢(てつばち)は、(おおやけ)に支給された、いわば、通行手形を兼ねたものである。
 僧は別称〈鉄鉢僧〉ともいった。
 老僧の姿態は、まぎれもないその鉄鉢僧であって、同じ姿がもう二人いた。
 一人はわたしに声をかけてきた僧で、もう一人は十、十一ばかりの小僧だ。
 そして剣士が二人。
 残りの二人は……顔が瓜二つの女。

「ひ、ひゃあ」

 叫んだのは、遼翁である。

「ふ、渢姫(ふうき)様……」
「いや、待て」と、わたしが止めた。

 長姉の渢姫と瓜ふたつ、そっくりだとしても、姉ではない。
 わたしには分かる。
 葛王剣を()しているわたしには、正邪、真偽の区別は容易につく。剣がわたしに与えてくれた異能の一種であるといっていい。

 ところが。
 〈渢姫〉と呼びかけた遼翁の声が、一行の剣士の耳に届いて、わたしの前に二人の剣士が両の手を拡げて佇んだ。

「あやしき奴らめ」

 二人は剣の(つか)に手をかけたままわたしを一瞥(いちべつ)し叫んだ。

太子妃(たいしひ)を存じおるとは………おまえたちは、妃を拉致した一味の片割れかっ!」

 はて、とわたしは胸の中でおもった。
 いまや渢姫は廃太子妃である。それをいまだ〈太子妃〉と呼ぶのは、それだけで相手の立ち位置というものがわかる。
 いや早とちりということもある。それにあえておのが立場というものを煙に巻こうとしている謀略とも考えられる……。

「ほほう」
と、わたしは薄笑いを浮かべてみせた。
 男装してから、こういう芝居めいた所作(しょさ)言動(げんどう)が得意にすらなってきていた。

「……ことさら、廃太子妃をあがめているような物言いをするとは、これまた、いささか面妖(めんよう)だ……そちらのほうこそ、あやしきものと言わねばなるまい」

 わざと大げさにわたしが言い放つと、シャキッと相手の剣がわたしの胸を撃ってきた。それを横から止めたのは、遼翁の遼海剣であった。

「おおっ、そ、その剣は……」

 向き合う相手の二人が同時に声をあげた。
 そのとき、洞窟の(なか)へ突風が刺し込んできた。
 砂が舞い、さながら炎が噴き出す黒煙のように拡がって洞窟の入り口を覆い包んだ。
 風の色は、突如として〈叛〉に変わった。 

【洞 窟】



 ……すると老僧が(とも)の剣士を叱りつけた。
「これ、無体(むたい)なまねをするでないわ」
「や!」と、遼翁が目を()いた。老僧は右の掌にのせた鉄鉢をわたしらに差し出すようになにやら呪文を唱え出した……。

「こ、これは┅┅」

 わたしがつぶやいた。老僧はわたしを敵視したのではなく、洞窟の入り口に結界を張ろうとしていた……ようである。
 老僧の腰に両手を添えていたのは、小さき僧であった。二人が一身となって、窟内(くつない)に砂塵が流入するのを止めようとしていたのだ。

「こちらも加勢せよ」

 わたしが言うと、遼翁は剣を逆手(さかて)に握り返し、老僧の鉄鉢に剣先を添えた。
 ぶつくさと口だけを動かしているのは、おそらく遼家に伝承されてきた呪文であったろう。それぞれの家に伝承されている、悪障祓いの家呪があるのだ。

 すばやく老僧の背側に回り込んだわたしは、葛王剣の(つか)(がしら)をかれの肩に当てた。

 シャキシャッシャキ……

 音が響くと、戸が閉じられるように洞窟の入り口に結界が張られた。これで数日は砂塵の流入を食い止めることができるだろう。

 力を使い過ぎたせいか、一歩二歩よろけた老僧をかばいながら、小さき僧が老僧をしゃがませた。
 渢姫に瓜ふたつの女人らが、老僧を囲んだ。かれらの供の剣士は、剣を納めて丁寧な辞儀(じぎ)で、わたしと遼翁を迎えた。

「失礼申した……敵か味方か分からなかった」

 どうやらこの二人は、まだ〈剣〉に選ばれてはいないようで、とうてい遼翁の敵ではない。それに年齢もわたしとさほど違わないようであった。

(こん)と申します。拙者が長兄、こいつは弟……」

 いきなり両人は片膝をついた。
 挨拶の基本である。
 とはいえ、なにもこちらに臣従を誓ったのではない。おのが無礼を詫びる一時の姿態にすぎない。

 すかさず、わたしは琿兄弟の兄の腕に手を添えた。立たれよ……という合図であって、これも一連の作法であった。

琿伯(こんはく)どの」

 わたしが言った。〈伯〉は長兄に対する尊称である。
「そなたらはこの一行とは無縁の者だな」
 重ねてわたしが問うた。

「よくおわかりで……至元(しげん)めに殺された父と弟の(かたき)を討とうと、離宮に忍び込んだとき、御僧(おんそう)にたすけられたのです……」

 話がみえない。
 揚至元(ようしげん)……皇帝の末弟のいのちを狙うとは、どういうことなのだろう。

「これ、余計なことを述べ立てて、修行旅の剣士どのを迷わせるでないわっ」

 供の琿兄弟を叱りつけたのは老僧である。

「お二方、ともの者のご無礼、(ひら)にゆるされよ。明日夕には砂塵も()せようほどに、しばし、ご一緒つかまつる」
「して、そちら様の名は……」
 わたしが問う。おそらくは名のある僧にちがいない……。

「その()もご容赦あれ。そちら様もお名乗りなさらずともよろしかろう。洞窟で一夜を過ごすだけの(えにし)心得(こころえ)なされるがよろしかろう……さもなくば……」
「さもなくば?」
「……皇弟、揚至元どのに生涯追われることになりまするぞ」
「ほほう、皇弟に狙われる、と申されるのか」
「さよう……あるいは、皇弟の敵からも狙われるやもしれませぬゆえに、の」
「はて……よくわかりませぬ……皇弟の敵ならば、皇弟に狙われるそちら様は、むしろ味方となるのでは?」
「ほっほほ、世の中、そう単純ではございませぬぞ」
 急に艶のある色合いを語調に含ませた老僧は、意味ありげなまなざしでわたしを射った。

「そちらも、触れられたくはない……ものをお持ちのようじゃ……ここは互いに、旅の中途でのすれ違い、ということで納めておいたほうがよろしかろうて」

 あるいはこの老僧は、わたしの正体に気づいていたのかもしれない。
 いや、とすぐにそんな思いつきを否定した。葛王剣を身に()びている以上、わたしの意に反して、第三者に素性を悟らせるようなことは〈剣〉がしない。剣と同体ということは、そういうことなのだ。

「ならば、これ以上、問うことは差し控えましょう」

 わたしが折れた。
 けれど、これだけは(ただ)しておかなければならない……。

「……一つだけ、釈明願えまいか……渢姫(ふうき)様とそっくりな女人を(とも)にしているその理由(わけ)を知らずんば、このまま洞窟をお出しするわけにはゆきませぬぞ」
「な、なんと……?」と、老僧は顔をしかめた。
「わたしは……」と、わたしは続ける。
「……(かつ)家には返せない恩をもつ身……渢姫様もよく存じ上げております」

 真っ赤な嘘である。
 けれど、ここは、それなりに相手を得心させるだけの経緯(いきさつ)というものが必要だった。

「……先帝に後宮を追われたわたしの母を匿ってくださったのが、葛丞相様でした……」
「な、なんと申された……?」
「葛家にはそれほどの御恩があります。渢姫様と実の姉妹のごとく育てられた弟のごとき(・・・・・)わたしには、目の前の瓜ふたつの女人をどうしようとしているのか……問い(ただ)ずば、この先、丞相に顔を合わせられませぬゆえ」

 そうわたしは言ってみせた。
 嘘ではあるものの、幾分かの真実が含まれている。
 実は、先帝の後宮から逃れてきた廃妃と父との間に産まれたのが、わたしの姉、葛家三姉妹の次姉であった。
 この時代。
 兄弟姉妹は、異母兄弟、異母姉妹がほとんどで、長姉渢姫も異母姉である。
 次姉は生来病弱で、隣州にある葛家別邸で療養していて、わたしですら二度しかお会いしていない。このとき次姉の出生の物語を借用したのは、やはり、尋常ならざる相手の信頼を勝ち得るためであった。
 と、遼翁がすかさずわたしの作り話を肯定してみせた。

「……いかにも、いま、主君が申されたこと、天に誓って嘘偽りではござらぬぞ。それがし、若き頃、先帝の後宮侍衛を務めており申した……」
「な、なんと……ま、まさか……」

 しげしげとわたしらを眺めた老僧は、それでもまだ首肯(しゅこう)できてはいないようで、やや語調を改めて、
「ならば」
と、続けた。

「……黙秘するつもりは毛頭ござらぬ。したが、先ほど申したとおり、災いがそちらに及ぶことを懸念したまでのこと。さほど知りたいと申されるならば、隠し立てをすることもあるまい……ここにおられる渢姫様瓜ふたつの女人は、まさしく、渢姫様の髪と齒から生まれた傀儡(くぐつ)でござる」

 ひゃあ、と声を立てたのは遼翁のほうで、つられてわたしも叫びそうになった……。
 
【離 宮】



 ……老僧の説明というものは、わたしには得心できないどころか、むしろ相手に対する大いなる警戒心を芽生えさせたにすぎない。
 ところが。
 なんということだろう、遼翁は傀儡渢姫にひざまずいて、両の手を地につけたのだ。
 手を地につける……とは、臣従を誓う儀礼にほかならず、それはとりもなおさず、このわたしとの訣別《けつべつ》を意味していた。
「……先の主君……」と、遼翁はわたしに詫《わ》びた。

「……傀儡《くぐつ》とはいえ、それをあやつるは渢姫様御自(おんみずか)らのご意思でありましょう。二傀儡姫がおわせば、必ずや、渢姫様の御元《おんもと》へと馳せ参じることができましょうほどに、それがしは、これよりのち、ニ傀儡姫をお護《まも》りし、渢姫様との再会を果たす所存……どうか、爺めのわがままをおゆるしくだされぃ」

 そこまで解《と》かれれば、その頑強なまでの決意に否《いな》を告げることはできない。こくんと頷いたわたしは、
「くれぐれも気を締めよ」
と、だけ伝えた。気を締める相手は、まさに老僧が対象である。そのことを遼翁は察し得たかどうか……。


 翌夕。
 砂嵐が止むと、一行に別れを告げた。
 離宮に忍び込み、廃太子に謁見して指示を授かるのが、そもそものわたしの役割である。これは父からの厳命であった。そののちに長姉・渢姫《ふうき》を捜すことになるだろう。
 ……洞窟を出たとき、わたしは望まない供《とも》を得た。若き剣士、琿《こん》兄弟の弟のほうである。

「琿季《こんき》どの……とお呼びすればいいのか」

 わたしがたずねた。〈季〉は、末弟の尊称である。

「敬称は無用に願います……季と、お呼び捨てくださいませ。ニ傀儡姫の供に加わってくだされた遼様の代わりにはなりませぬが、雑用であれ使い走りであれ、なんでもこなす覚悟です」

 琿季は言う。
 ……いかにも殊勝げにみえるが、さて、どうであろう。もっとも、すでに広大な離宮に忍び入ったその見聞は、なにかのときに役立たないともかぎらない。
 そう判断し、ついてくるというのならば、拒否する理由もなかった。

「……太子様が幽閉されている牢は、十日に一度、替わります。すべての牢の配置は頭に納めておりますゆえ、ご安心ください」

 琿季は語る。
 果たしてそれは本心かどうか、わたしには分からない。けれど、〈葛王剣《かつおうけん》〉が我が身を護ってくれているからには、さほど懸念の情を拡げるには及ばない。そうわたしは判断していた。

 市《いち》がたっているのは、都城とさほど変わらない。
 またこの地は、八方に道がつながり、交通の要衝であることはいまだ副都として機能していることを物語っていた。

「お気をつけられませ……商人に扮した至元《しげん》の密偵が潜んでおりますゆえ」

 意外にも琿奇は要領というものを心得ているようで、口数は少なく、こちらがたずねようとすることを察して、口に出す。 
 おそらくわたしより数歳は歳下とおもえるが、この時代、年齢というものはそれほどの意味は持たない。なぜなら、あの遼翁を見よ。わたしの父よりもかなり年嵩《としかさ》にもかかわらず、若き剣士のごとき熱さを有している。つまるところ、それは〈遼海剣〉とともに在《あ》るからで、ことに剣士、侍士の場合には年齢は当人を規定するものではないのだ。

「そなた……」

 と、わたしは言った。

「……わざわざ離宮に引き返してきたのは、そなたは〈剣〉を捜しているのだな」
「ひゃあ……見透かされておりましたか」
「《《ここに》》あるというのか?」
「はい、おそらく」
「察したのか? 剣がそなたに告げたのか?」
「まさしく……過日、ちょうど、太子様の牢の配置を探っていたおり……拙者の体躯《からだ》が突如として宙に浮き……」

 ……熱が走った、そうである。

「なるほど……そのとき、琿伯どのはなにも感じなかったというのか?」
「まさしく」
「では、剣は、琿家の兄ではなく、そなたを選んだということか……そうと知って、ようやく得心がいった」
「兄は……このことに気づいておりませぬ」
「言わぬがいい……告げるのは、選ばれた剣と一体となってからでいいのではないか」
「やはり、あなた様も……剣に選ばれた御方だったのですね……葛《かつ》……様……いや、なんと、お呼び申し上げればよろしいのか……」

 琿季は戸惑いつつわたしをそろりと見上げた。

「……遼……青《せい》……遼青……」

 わたしは遼翁の一族の名を借りて、口に出した。
「遼青さま……では、これよりのち、青曹司《せいぞうし》とお呼びさせていただきます」

 曹司《ぞうし》とは、もともと役所や皇宮高官の部屋のことである。名に“曹司”をつけるだけで、若旦那……程度の意味になるだろう。青曹司なら、“青家の若旦那”というあたりさわりのない呼び名になる。高貴な家の若者は、御曹司《おんぞうし》と呼ばれもする……。

「おお、青曹司《せいぞうし》……か、ふうむ、よき名じゃ」

 久方ぶりにわたしは笑った。
 どうやら、琿季にはまだ純な部分が残されているようにおもわれた。あるいは、一刻も早く〈剣〉との初見をこそ願っているようであって、わたしの存在などはさして重きものではなかったろう。
 そのことを想像するだけで、なにやら愉快な心持ちにさせてくれもした。
 城壁の外にある道沿いの宿に泊まり、琿季なじみの者らが頻繁に訪れては去っていった。琿家ゆかりのものか、それとも《《あの》》老僧に連なる者らなのかは判らない。けれどわたしの予想をはるかに超えた手際よい人と物の流れ、情報の伝達の手順に驚かされた。
 またたく間に数日が過ぎたが……わたしはなにも口をはさまなかった。わたし一人ならば、数か月はかかるとおもわれる準備を、この短期間にやってくれたことを感謝せねばならないだろう。
 琿季の真意はどうあれ、わたしはかれの助力を愛《め》でた。
 
「青曹司《せいぞうし》……今宵、潜入いたします」

 ついにときが来た。
 琿季を支える一群が、廃太子の今夜の牢の位置を突き止めたのだ。

「……牢へ続く手前、宝物殿への廻廊で別れ、拙者は〈剣〉を手にしてから、青曹司のあとを追います……」

 肩で息をするように昂奮《こうふん》している琿奇を前にして、わたしにできることは〈葛王剣〉の気をほんの少しだけ与えてあげることだった。驚いて琿季はわたしを見た。そして、ハッと気づいて、深々とこうべを垂れた……。
【恋 慕】



 目の前に佇む廃太子……揚締(ようてい)殿下は、こちらをチラリと見てもなにも発しなかった。
 名乗らないままにひざまずいたわたしは、
「殿下……」
と、繰り返すしかない。
 牢というのは名だけで、鍵もない。
 定期的に巡回衛士たちが行進しているだけである。
 それは、油断してるのではなく、殿下が〈剣〉を奪われていたからだろう。なにも当人を捕縛監禁せずとも、“一体〈剣〉”のみを別所に保管しておけばいいのだ。
 だからこそ、あの老僧や琿兄弟も廃太子だけを連れ出すことを避けたのだろう。むやみに当人を〈剣〉から遠ざけることは廃人化を促すことにもなりかねない。剣と、剣に選ばれた個人との間には、それほどの絆がある。


 わたしは吐息すら出なかった。
 六年余の歳月というものが、わたしと殿下の間に横たわっている……。
 しかも、相手はわたしの正体を知らない、気づくはずもなかった。

 ……しゃくれた顎先には、無精髭がまばらに散っていた。頬はさほど()けているようにはみえない。冠をつけないため髪は総髪で流し、(もとどり)はない。
 ハッと胸を()かれたのは、殿下の腹回りがぽっこりと膨らんでいたのを見たからだった。〈剣〉を取り上げられて鍛錬の機会を(いっ)したのであろう。
 このとき、六年前にわたしのからだを貫いたあの衝撃的な()らぎが襲ってきた。
 おもわず目頭が熱くなる……。

揚締(ようてい)様……」

 わたしは偽装をはずし、身にまとったさまざまな余計な無意味な装飾を()ぎ取り去って、揚締殿下のまえにわが(もと)(さら)し、殿下の胸に飛び込んでいきたかった。
 ああ。
 一瞬なりとも、そのような(みだ)らなことを想像するだけで、わたしの芯は濡れそぼってきているように感じた。胸押さえの薄鋼(うすはがね)腹巻を取り去り、わが乳房を、わが(もと)のすべてを見てほしいとすらおもった。願った。哀願した……。

 ごくん。
 生唾を呑んだとき、殿下はようやく口を開いた。

「おまえの剣……みせてくれぬか」 

 なんとも間の抜けた問いかけ、というしかない。わたしの心より、背負っている剣に目がいくとは……。
 ごくん。
 もう一度、空唾を呑んで、わたしは、ゆったりとした口調で答えた。

(おそ)れながら、殿下……この剣は……すでにわたしを選びしもの……殿下が触れられますと、御手が、炎に焼かれるほどの痛みを……」

 最後まで言わなかった。言えなかった。
 まことにそうなるかなど、わたしは知らない、分からない。

「おまえは誰ぞ……牢番士には見えぬが……」
青曹司(せいぞうし)……と申します」
「新しき護衛の者か?」
「はっ、さようにございます」
「ならば、(せい)よ、渢妃(ふうき)()せ」
「は? ふ、渢妃様は……」
()よう、召せと申すに……」
「……………」

 困り果てたわたしは返答に(きゅう)したまま身じろぎもできない。
 このまま殿下を気絶させ、背負って外に出ようかとも考えたけれど、それは無謀というものだろう。いや気絶させるのはいともたやすいことだった。
 ただ背負うのは難がある。
 琿季を待つべきか……それとも……。
 迷っていると、給餌(きゅうじ)の準備をしているらしい女官らがばたばたとやってきた。わたしを見て、一様に表情を強張(こわば)らせた。
 ゆっくりと立ち上がり、女官らをみて、口を開いた。威圧感のある声色(こわいろ)で、
「……殿下が、渢妃様をお召しじゃ。早く告げよ」
と、言ってみた。

 すると、慌てて奥へ戻っていった。残った女官は、わたしを避けるように配膳をしている。いつもの繰り返しなのだろう、あらかじめ決められた位置に膳と器を並べ……ていた。
 さて、どうしたものか……ここは、新任の侍衛かなにかに扮し続けねばならないだろう。
 ざわざわとした気が舞うと、奥からしずしずと近寄ってきた女人を見て、
「や!」
と、声を立ててしまった。
 渢姫……わたしの長姉が目の前に佇んでいた。
 いや、そんなことはないだろう……これも傀儡姫かと察したが、すばやく拝礼した。

「剣……剣の師となるよう、帝都の丞相に命ぜられました……(せい)と申します」
「なに? 丞相とな?」
 つぶやいたのは、渢姫あるいはその傀儡(くぐつ)である。

「はっ」
「それは異なことを聴いたぞよ……わが父は、丞相の任を解かれ、いまは空席ぞ」

 渢姫が答えた。
 ……初耳であった。
 まさかいまそんな情況下にあるとは、露ほども知らなかった……。
 

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