【離 宮】



 ……老僧の説明というものは、わたしには得心できないどころか、むしろ相手に対する大いなる警戒心を芽生えさせたにすぎない。
 ところが。
 なんということだろう、遼翁は傀儡渢姫にひざまずいて、両の手を地につけたのだ。
 手を地につける……とは、臣従を誓う儀礼にほかならず、それはとりもなおさず、このわたしとの訣別《けつべつ》を意味していた。
「……先の主君……」と、遼翁はわたしに詫《わ》びた。

「……傀儡《くぐつ》とはいえ、それをあやつるは渢姫様御自(おんみずか)らのご意思でありましょう。二傀儡姫がおわせば、必ずや、渢姫様の御元《おんもと》へと馳せ参じることができましょうほどに、それがしは、これよりのち、ニ傀儡姫をお護《まも》りし、渢姫様との再会を果たす所存……どうか、爺めのわがままをおゆるしくだされぃ」

 そこまで解《と》かれれば、その頑強なまでの決意に否《いな》を告げることはできない。こくんと頷いたわたしは、
「くれぐれも気を締めよ」
と、だけ伝えた。気を締める相手は、まさに老僧が対象である。そのことを遼翁は察し得たかどうか……。


 翌夕。
 砂嵐が止むと、一行に別れを告げた。
 離宮に忍び込み、廃太子に謁見して指示を授かるのが、そもそものわたしの役割である。これは父からの厳命であった。そののちに長姉・渢姫《ふうき》を捜すことになるだろう。
 ……洞窟を出たとき、わたしは望まない供《とも》を得た。若き剣士、琿《こん》兄弟の弟のほうである。

「琿季《こんき》どの……とお呼びすればいいのか」

 わたしがたずねた。〈季〉は、末弟の尊称である。

「敬称は無用に願います……季と、お呼び捨てくださいませ。ニ傀儡姫の供に加わってくだされた遼様の代わりにはなりませぬが、雑用であれ使い走りであれ、なんでもこなす覚悟です」

 琿季は言う。
 ……いかにも殊勝げにみえるが、さて、どうであろう。もっとも、すでに広大な離宮に忍び入ったその見聞は、なにかのときに役立たないともかぎらない。
 そう判断し、ついてくるというのならば、拒否する理由もなかった。

「……太子様が幽閉されている牢は、十日に一度、替わります。すべての牢の配置は頭に納めておりますゆえ、ご安心ください」

 琿季は語る。
 果たしてそれは本心かどうか、わたしには分からない。けれど、〈葛王剣《かつおうけん》〉が我が身を護ってくれているからには、さほど懸念の情を拡げるには及ばない。そうわたしは判断していた。

 市《いち》がたっているのは、都城とさほど変わらない。
 またこの地は、八方に道がつながり、交通の要衝であることはいまだ副都として機能していることを物語っていた。

「お気をつけられませ……商人に扮した至元《しげん》の密偵が潜んでおりますゆえ」

 意外にも琿奇は要領というものを心得ているようで、口数は少なく、こちらがたずねようとすることを察して、口に出す。 
 おそらくわたしより数歳は歳下とおもえるが、この時代、年齢というものはそれほどの意味は持たない。なぜなら、あの遼翁を見よ。わたしの父よりもかなり年嵩《としかさ》にもかかわらず、若き剣士のごとき熱さを有している。つまるところ、それは〈遼海剣〉とともに在《あ》るからで、ことに剣士、侍士の場合には年齢は当人を規定するものではないのだ。

「そなた……」

 と、わたしは言った。

「……わざわざ離宮に引き返してきたのは、そなたは〈剣〉を捜しているのだな」
「ひゃあ……見透かされておりましたか」
「《《ここに》》あるというのか?」
「はい、おそらく」
「察したのか? 剣がそなたに告げたのか?」
「まさしく……過日、ちょうど、太子様の牢の配置を探っていたおり……拙者の体躯《からだ》が突如として宙に浮き……」

 ……熱が走った、そうである。

「なるほど……そのとき、琿伯どのはなにも感じなかったというのか?」
「まさしく」
「では、剣は、琿家の兄ではなく、そなたを選んだということか……そうと知って、ようやく得心がいった」
「兄は……このことに気づいておりませぬ」
「言わぬがいい……告げるのは、選ばれた剣と一体となってからでいいのではないか」
「やはり、あなた様も……剣に選ばれた御方だったのですね……葛《かつ》……様……いや、なんと、お呼び申し上げればよろしいのか……」

 琿季は戸惑いつつわたしをそろりと見上げた。

「……遼……青《せい》……遼青……」

 わたしは遼翁の一族の名を借りて、口に出した。
「遼青さま……では、これよりのち、青曹司《せいぞうし》とお呼びさせていただきます」

 曹司《ぞうし》とは、もともと役所や皇宮高官の部屋のことである。名に“曹司”をつけるだけで、若旦那……程度の意味になるだろう。青曹司なら、“青家の若旦那”というあたりさわりのない呼び名になる。高貴な家の若者は、御曹司《おんぞうし》と呼ばれもする……。

「おお、青曹司《せいぞうし》……か、ふうむ、よき名じゃ」

 久方ぶりにわたしは笑った。
 どうやら、琿季にはまだ純な部分が残されているようにおもわれた。あるいは、一刻も早く〈剣〉との初見をこそ願っているようであって、わたしの存在などはさして重きものではなかったろう。
 そのことを想像するだけで、なにやら愉快な心持ちにさせてくれもした。
 城壁の外にある道沿いの宿に泊まり、琿季なじみの者らが頻繁に訪れては去っていった。琿家ゆかりのものか、それとも《《あの》》老僧に連なる者らなのかは判らない。けれどわたしの予想をはるかに超えた手際よい人と物の流れ、情報の伝達の手順に驚かされた。
 またたく間に数日が過ぎたが……わたしはなにも口をはさまなかった。わたし一人ならば、数か月はかかるとおもわれる準備を、この短期間にやってくれたことを感謝せねばならないだろう。
 琿季の真意はどうあれ、わたしはかれの助力を愛《め》でた。
 
「青曹司《せいぞうし》……今宵、潜入いたします」

 ついにときが来た。
 琿季を支える一群が、廃太子の今夜の牢の位置を突き止めたのだ。

「……牢へ続く手前、宝物殿への廻廊で別れ、拙者は〈剣〉を手にしてから、青曹司のあとを追います……」

 肩で息をするように昂奮《こうふん》している琿奇を前にして、わたしにできることは〈葛王剣〉の気をほんの少しだけ与えてあげることだった。驚いて琿季はわたしを見た。そして、ハッと気づいて、深々とこうべを垂れた……。