痛みには慣れないが、最近、あばらを痛めないための動きがわかったような気がする。そのおかげで呼吸もスムーズにできるようになったし、洗濯とか部屋掃除とかもゆっくりではあるができるようになってきた。
だから今、俺は隣に結城がいなくても、一人で登校できている。
赤染と放課後の勉強を始めてから三日が経過し、期末試験が今日から始まるはずなのだが、結城は今夜、明日の試験に備えての勉強はせず、学校の屋上で星空を眺めるらしい。星空を眺めたあとは、屋上で星を見ながら寝るらしく、そのための準備を朝に済ませるから、先に学校へ向かってくれ、と言われた。
英語のリスニングは聞かないで、周りに広がっている田んぼを眺めながら歩いていると、止まれの看板の下で赤染が膝に手をついて立っていた。汗を地面に垂らしながら、肺を大きく膨らませたり縮まらせたりしている赤染の姿は、登校中にシャトルランでもしてきたかのような息の上がり具合だ。
「ああ、白雪くん!」赤染は息が整わなくて苦しそうな顔から一転、久しぶりに再会した友だちに見せるような満面の笑みを浮かべると、「一緒に、学校、行こ!」と、途切れ途切れながらにも伝えてきた。
「別にいいけど……どうした。そんなに息切れして」
「クマに追いかけられて」
「ほんとかそれ」だとしたら、よく逃げ切れたものだ。
「冗談だよ、冗談! 寝坊しちゃってさ」赤染は上体を起こすと、両手を広げて深呼吸した。「やっぱり、朝の空気は気持ちがいいね」
「まだ始業時刻まで二時間ある。これが寝坊なのか」
「あっ。まだそんな時間だったの?」
あはははは、と赤染は、頭を掻いて苦笑いした。
「まだ息が整っていないけれど学校に向かおう。歩きながら息を整えた方が健康にいいって聞くしね」
「だな」
「あっ、そうだ白雪くん。昨日は家に入れた?」
「ああ。おかげさまで」
「それはよかったぁ」赤染は腕を空に向けて伸ばし、背伸びした。「明日から白雪くんも走る?」
「走るって」
「学校までだよ。登校するときに」「却下だ」
「えー、なんでよ。気持ちいいよ、朝から走るの」
「いや。それだけはない。汗をかいたら服が汚くなる」
「確かにそうだけど……」赤染は困ったように言うと、自分の服を触り始めた。「まあ、学校で洗うし大丈夫か」
「洗うって、どうやって。学校に洗濯機はないだろ」
「洗濯板で洗うんだよ。バッグのなかに洗濯に必要なものはぜんぶ入ってる」赤染は背負っていたバッグを前に持つと、チャックを開けてなかを見せようとしてきた。
「ストップ。赤染」
「んん? どうした?」
「チャックを開けるな」
もしも俺が寝ぼけていたら、会話の流れに沿って、なんの疑いもなく赤染のバックの中身を覗いていただろう。
ひょっとしたら、本人は気が付いていないのかもしれない。だとしたら抜けすぎだ。
「洗濯に必要なもの以外、バッグのなかには、なにが入ってる」
「えっとー。筆箱に、教科書に、弁当に……他になにか入れたっけ?」
「弁当箱も入れて走っていたのか…… まあいい。そこは——」
「ああ! 急いでたから一緒に入れちゃった。どうしよう白雪くん……」
「もう手遅れだ。今頃バッグのなかで白米が暴れているだろう」
「……もうだめだ」心底悲しんでいるような顔をした。今にも倒れてしまいそうなくらいに、気分が落ちている。
「追い打ちをかけるようで悪いが、着替えは大丈夫なのか」
俺はあのとき、赤染の下着を見る羽目になる可能性が十分にあったから、赤染にバッグを開けるな、と伝えた。これで俺が犯罪者になってしまったら、冤罪もいいところだ。
「…………」
赤染は黙り込んでしまった。
俺が予想していたのは、バッグのなかに下着を入れていたのを思い出して仰天するシナリオだった。けれども赤染は、それどころじゃないのか口が開かなくなってしまった。きっと、着替えの服も米粒で覆われているに違いない。
「……着替えの服も学校で洗えば、大丈夫だよね」赤染は落ち込んでいた。
「……」着替えの服も洗ったら、授業中に着られる服がなくなるだろ、と言いたくなったが止めておいた。
「……あ」
「どうした」
「もしかしたら私、いいこと思いついたかも」
そう言うと赤染は顔を上げた。
「いま何時かわかる?」
「えっと……」俺はポケットからスマホを取り出し画面を開いた。「七時だ」
「よし!」赤染はゲームで勝ったかのようにガッツポーズを決めた。
「赤染、これからなにしようとしてるんだ」
赤染は難問が解けたかのように嬉しそうな表情を浮かべると、「今から服を取りに帰るね!」と言い、「だから私のバッグ、持ってて欲しいな」と頼んできた。
「ああ。わかった。でも間に合うのか」
「うん! ここから往復すると、だいたいフルマラソンくらいの距離があるけど……普通に走れば間に合うよ!」
「……」変人だと思った。
「じゃあまたあとで!」
赤染はしゃがみ込むと靴ひもを結び直し、軽く準備運動してから走り出してしまった。
唖然としながら赤染の後ろ姿を見ていると、赤染がピタリとなにかを思い出したかのように立ち止まる。
「——白雪くん!」
「どうした?」
「この三日間、ほんとうにありがとね!」
赤染はやまびこをするように、大声でそう言った。
「こっちも世話になった」
赤染が手を振るのに応じ、俺も小さく手を振った。
思い返せばこの三日間、今までに体験したことがないような不思議な時間だった。
クラスメイトと一緒に勉強をしたことがなかったからだろうか。
これは違うような気がする。
感覚ではあるが、俺のなかで感情的ななにかが揺れ動いたような気がするのだ。
気が付いたら俺は、新幹線のように走り去ってゆく彼女の後姿を、目で追っていた。
この横断歩道で車に轢かれていたと思うと、ほんとうに運がよかったなと思う。あのときは確か、結城と一緒に登校する予定だったけれど、結城が屋上に行く準備が遅くなって、俺も登校時間が遅れてしまった。
まだ早朝だから人は少ないし車は一台も通っていない。さすが田舎だ。都会ならこの時間帯でも人の流れが激しいだろう。
「——白雪くん」
後ろから聞きなれない声がした。
俺は後ろに振り向きながら、
「なんでしょう」
と答える。
「……紅野」俺の首が、自然に傾げてしまった。
……珍しい。
というか、この三年間で一度も話した覚えがない。
「白雪くんはいつも、こんな朝早くからなにしているの?」
「勉強だけど」
「そう」紅野は腕を組み、視線を横にずらした。「さっきたまたま見かけたんだけど、誰と一緒に登校していたの?」
「ああ」俺は言葉を区切り、「赤染だよ。登校していたらたまたま会った」と答えた。
「そういうことか」
うんうん、と紅野は頷いた。なにを考えているのか、さっぱりわからない。
「そういうことかって、どういうことだ」
「そうね……」少しのあいだ考え込むと、「白雪くんの持っているそのバッグ。たぶんだけど赤染さんのでしょ?」
「そうだけど」
「じゃあ赤染は忘れものでもしたのかなって……」
どう? 正解? と、紅野は興味津々に訊いてきた。
「正解」
「ふふふ。やっぱり」
紅野は、無邪気に笑う赤染とは違って、大人びた笑い方をした。これをミステリアスな人だと表現するのだろうか。俺にはいまいち、紅野の考えていることが読めない。
青信号になり、俺と紅野は一緒に横断歩道を歩く。紅野の服から花束のような甘い香りがしてきた。香水でも付けているのだろうか。紅野は周りの生徒に比べてどうしても大人っぽく見えてしまう。スーツ姿の紅野を想像すると、どこかの会社の上司、というワードが第一に出てくるくらいだ。
「白雪くんは赤染さんと仲がいいんだね」
「仲がいいというか、三日前から一緒に勉強してただけの仲。さっきから赤染についての話が多いけど、なにか気になることでもあるのか」
俺はストレートに訊いてしまった。
紅野と会ってから赤染の話しかしていないような気がする。
俺と紅野ではあまり関係性がないから赤染を話題にしているのだろうか? だが、俺が今まで見ている限りだと、紅野が赤染と話している場面を見たことがない。もしかしたら紅野は、俺を経由して赤染と会話する切っ掛けを作ろうとしているのか。
紅野は空を見上げながら、「そうね……」と言うと、「赤染さんと話したくてさ」頬を緩ませながらそう答えた。
「そういうことか……」いつも紅野が赤染を遠くから見ている理由がわかった。難解な謎が解けたようでスッキリする。
「だから白雪くんに声をかけたんだけど」
「すまない。正直俺も、赤染のことはあまり知らない」
「そっか」紅野は俺を見ると微笑んだ。「ねえ、最後に訊きたいことがあるんだけどいい?」
「俺に答えられる範囲でならいくらでも」
ありがとね、と紅野は言うと、
「白雪くんって、赤染さんのこと、好き?」
と、訊いてきた。
「……好き?」
「そう。恋しているか、それとも、していないか」紅野は立ち止まって、俺の内心を見透かすような瞳で見つめてきた。その鋭い瞳に、心臓が握られたような感じがする。
「いや。していない」俺は正直に答えた。
「ならよかった」
ふふん、と。
紅野は微笑み、安心したような表情を浮かべた。
やっと期末試験の一日目が終わった。試験問題が例年と違い、大学入試に近い難易度の設問があって驚いた。が、なにより、俺にとっての一番の驚きは赤染が始業時刻に間に合ったことだ。朝からいったい、どれくらいの距離を走ったのだろうか。簡単に計算すると約三十キロになる。完全に人間離れした体力だ。登校でフルマラソンに近い距離を走るなんて、近代文明を完全に忘れている。
ホームルームを終えてから帰り支度を整えていると「白雪、飯に行こうぜ」と結城が誘ってきた。「昼飯、持っていないんだよな」
「わかった」そう言えば、冷蔵庫に食材が無かった。
「やっぱり今日も無理かって、え、いいの?」
「ああ」
「どうしたんだ白雪。お前は俺の知っている白雪じゃない」
「俺は白雪だ」
「結城はどこに行きたい」
「あー。そうだなぁ。まさか誘いに乗って来るとは思わなかったから」
「なら誘うなよ」
「理不尽過ぎるだろう。じゃあ、あそこの芹麵でいいか?」
「ああ。わかった」
久しく行っていなかった。初めて行ったのは、ここに入学した頃だろうか。
結城が担任に、どこか美味しい店はありますか? と訊いたら、その蕎麦屋の名前が出てきたらしい。店長の苗字である芹沢から店の名前ができたらしい。
「よし、じゃあ行くぞ!」
「だな」蕎麦屋でテンションが上がる学生を初めて見た。
「——ねえ。白雪くん」
「ん」
と、横を見ると、そこには赤染が立っていた。
「どうした、赤染」
「お願いしたいことがあるんだけど……」
赤染は俯き、なにか言い難そうな顔をすると、
「今日の放課後も、一緒に勉強、できない、かな?」
「すまない。このあと結城と飯に行くから」罪悪感があった。
「あっ。そうだよね。うん……わかった」
そう言うと赤染は、「じゃあね」と小さく手を振り、教室から出て行ってしまった。
「——この、バカ野郎!」
その言葉が聞こえたとき、俺の頭になにかが落ちてきた。
拳だ。
それもわざと、骨の部分を当ててきた。
「いって。なにするんだよ」
「なにするんだよって。俺からしたらお前こそなにしてるんだって言いたいね!」
「なんで急に……」なにか俺は、間違えたことでもしたのだろうか。結城との約束が先だったから守っただけなのに。
「まあいい。もう終わったことだしな。行くぞ、芹麵に。そこで説教だ」
結城は呆れたようにため息をつくと、颯爽に教室から出て行ってしまった。
学校から出て、四十分くらい歩いたところにある芹麵に到着した。
地元の人しか知らなそうな立地にある芹麺は木造建築で、なかには十五人くらいしか入れなさそうな小さな店だ。昼時から時間帯がズレているからか、俺ら以外の客は二人しかいなかった。
芹沢さんらしき人に、二人です、と伝えたあと、俺と結城は藍色の座布団に座った。
窓際にある風鈴の音を聞きながらメニュー表を見て、俺はこれといった特徴のない、せいろ蕎麦を、結城はボリュームのある鴨せいろを頼む。
結城は氷と水が入ったコップを手に取り、そのまま喉に流し込むと「もったいないことしたな、白雪」と言った。
「なにを」
「どう考えてもしただろ! お前が誘いを断った赤染は評判がいいんだぞ?」
どうして赤染が白雪を…… と、さりげなく、人が傷つく言葉を結城は付け足した。
「なんだよ、その言い方」
「だって今朝、赤染から俺宛に連絡が来たんだぜ?」
「赤染から結城にか」
「そうだ。『いつも何時に学校来てるの?』ってきたから、『七時半くらいかな』って送り返したんだよ。だから俺は期待したんだ。もしかしたら一緒に登校できるかもって。でもそのあと、『ありがとね!』、で終わったんだよ。なんのために赤染は、俺に時間を訊いてきたのか、さっぱりわからねえ」結城はお手上げとでも言いたげに頭を掻いた。
「……」
俺は今朝、赤染と鉢合わせた。で、赤染は俺に、一緒に学校へ行こう、と誘ってきた。
これだと話しの筋が合わないし、結城に時間帯を訊いた意味がない。
「まあ別にいいんだけどさ。俺はもう恋愛する気はないし」
「もう好きな人は作らないのか。前はお姉さんタイプが好きだとか言ってたけれど」
「あー、あれか。紅野が好きなわけじゃないよ。赤染か紅野なら紅野ってことだ」
「食堂にいたとき、じっと見つめてただろ。俺には好意があるようにしか見えなかったけど」
「ははははは!」
結城は可笑しそうに笑うと、「違うよ白雪。あれは昔にあったことを思い出してたんだよ」
「……あ、あれか」
「そう。だから俺は、恋愛する気はない」
と、目を澄まし、断言した。
なにを言われても意見は曲げない、そんな力を結城から感じた。
「……悪かった」
「おいおい、頭下げるなって。白雪はなにも悪くないだろ。悪いのは俺の方だ」
この場の雰囲気を和まそうとしているのか、結城は笑顔を作った。
あの日の結城に、俺はなにも言葉をかけてやれなかった。
あれは前々から予想はできていた出来事だった。結城が幸せな道を進めるだなんて思っていなかった。けれども俺は、止めなかった。結城の好きなようにやらせてしまった。
あれは友だちとして言うべきだったのか。
それともあれで、正解だったのか。
経験の少ない俺には、なにもわからなかった——
「お待たせしました。せいろ蕎麦に鴨せいろ蕎麦」
気まずくなった空気を裂くように、芹沢さんは横から蕎麦を持ってきた。
「ありがとうございます」結城は笑顔で応えると、「残り半年で、この学校ともおさらばだな」と言った。結城は箸を割り、いただきます、と言うと、蕎麦をすすり始める。俺も箸を割り、蕎麦を口のなかに運んだ。
「そうだな」
「楽しかったか、この三年間は」
「……ふつうだ」
「事情は知っているけど、真面目過ぎるのもほどほどにしておけよ? 俺の両親より真面目な人はお前くらいしかいないからな」
「なら俺は、教師に向いているのか」
「子供が可哀そうだからやめておけ」
「遠回しに傷つくことを言うな」
「はははは。悪い悪い。白雪を弄るのが楽しくてよ」結城が悪ふざけする子供にしか見えない。
「まあ。自分が後悔する選択だけはするなよ。いくら嘆いても、時間だけは戻らなかったからさ——」結城は白い歯を見せ、昔を懐かしむように笑った。
期末試験直前に、あばらにヒビが入ってしまう災難があったが、なんとかして乗り越えられた。今回の試験は、日頃からの復習が大事だと思い知らされた出来事だった。
「それじゃあ、期末試験の成績を返すよ」
教卓にいる担任は机の上に置いてある成績表を手に持つと、
「出席番号一番から取りに来て。えー、赤染さん」
「はい」
教室に会話が飛び交っているなか、赤染は立ち上がると担任のところへ行った。
担任から成績表を受け取った赤染の顔は渋かった。失敗したのだろう。まあ仕方がない。三日でマスターする方がおかしいのだ。でも、三日間で攻略するのは無理だとわかっていても、赤染の顔を見て悔しがっている自分がいた。
「どうしたんだ白雪。そんな顔しちゃって。なにかあったのか?」結城が俺の顔を覗いてきた。
「いや、なにもない」
「赤染はいつもあんな顔するよな。赤ちゃんがしょっぱい顔しているみたいだ」
あははは、と結城は笑った。可愛らしいって言いたいのだろう。
そこからの試験返しでは、自分の点数を見て一喜一憂する人もいれば、自分だけは無関係だと無表情に受け取る生徒もいた。成績表を受け取ったら、今日の授業は終わっているし、担任から帰っていいと指示が出ているが、クラスメイトたちはそれに従うことなく、友だち同士で集まり点数の見せ合いっこをしている。
数学の問題を解きながら先生に呼ばれるのを待っていると、「じゃあ次はー、白雪くん」と、声がした。
「はい」
席から立ち上がり教卓に向かう。
試験終了まで何度も見直しはした。でも、それでもどこかケアレスミスしていそうで緊張する。
「はい、今回もお疲れ様。頑張ったね」
担任は微笑むと成績表を渡してきた。
それぞれの教科の点数を確認する。百点は数学だけだった。あとの四教科は九十点台。
「ありがとうございます」
毎回これだ。
必ずどこか、間違えている。
試験の結果に呆れながら、俺は自分の席へと戻った。
バッグのなかに成績表を入れて帰宅する準備を整えていると、「今回の試験もぜんぶ九十点越えか?」と結城が話しかけてきた。「俺はぜんぶ赤点スレスレだったぜ」
「それは狙ってだろ」
「想像にお任せする。で、どうだったんだ?」
「いつも通りだよ」
「いつも通りってことは……平均九十は超えたか。やっぱすげーな、白雪は」
「まだまだだよ」
「期末試験は終わったし、どうだ? 山登りにでも——」
「行かない」
「相変わらず即答だな」
結城は誘うのを諦めて苦笑いすると、「さっきから気になってたんだけど、一つ訊いてもいいか?」と、俺の背後に目をやりながら言った。
「どうした」
「赤染はなんで、さっきからお前のことをちらちら見ているんだ?」
「ん、どういうことだ」
「わからないなら振り向いてみろよ。今も見ているから」
結城の言う通り、俺はさり気なく赤染の方を見る。
一瞬だけ目が合ったような気がしたが、瞬きした瞬間、赤染は自分の足元を見つめていた。
「嘘だろ」
「ほんとうだってば」言葉を区切ると結城は、「まあいっか。俺の想像が飛躍し過ぎているだけかもしれないし」
「どんな想像してるんだ」
「赤染がお前のことが好き」
「なわけないだろ。前にもそんなこと言ってなかったか」
前に言われたのは食堂で会話していたときだ。俺が赤染に、謝りに行くときに、結城はそう言った。その結論に辿り着いた理由は自分で考えろ、と言われたのを覚えている。
結城はなにかを思い出したかのように「あー、そんなのあったなー」と言うと、「あれは冗談で言ったつもりなんだけどな。でも仮に、赤染がお前のことを好きって思っている場合で考察すると、いろいろと納得できる部分があるんだよな」
「なんだそれ」
結城はミステリー作家にでもなったつもりなのだろうか。
下を向き、腕を組みながら考え込むと、「噂で聞いたんだけど、ここ一週間くらいか? 放課後、赤染と一緒に勉強していたのか?」
「ああ。そうだけど」
「お前から誘ったのか?」
「違う」
「そうだよな。お前から誘うわけないもんな」結城は口を広げて笑った。「で、俺の考察はここからだ」
「だからなんだ」
「女子とはまともに話さない白雪を赤染は助けた。それで期末試験前に一緒に勉強しようって誘ってきた。それも女子とはまともに話さない白雪に。俺から見たら、命を助けたのは白雪に近づくための口実で、勉強っていうワードでコミュニケーションを取っているようにしか見えないが。どうだ? ふだん女子とはあまり話さず、真面目で優等生の白雪。俺は理にかなってると思うがね」
「どうして女子と話さない部分をそこまで強調する」
結城の考察は一瞬だけ正しく思えてしまった。
そう、一瞬だけだ。
こんな考察、恋愛中毒者みたいなところが多々ある。
「俺からしたら命を懸けてまで口実を作るなんて想像できない。ファンタジーじゃあるまいし。だいたい、結城もさっきから言っているけど、女子と話さないようなやつに恋心を抱く機会なんてないだろ」
「やっぱりそうなるよなー。でも、白雪は学校でも有名だからな、生徒会長だし。少なからず認知はされているだろうよ」
結城は机に置いてあるバッグを背負うと、「悪いな、時間取って。ついつい口走ってしまった」
「気にしないでいい」
「じゃあ俺は、夜空眺めにでも行ってくるか」
「今日も夜中に忍び込んで屋上か」
「違う違う。今日は山の頂上さ」
そう言うと結城は、俺に背を向けて教室を出て行った。
最近、結城と話す内容が偏っている気がする。
ここ最近だ。赤染について話す機会が増えたのは。
前から女子について話す機会はあったが、そのほとんどがあの人って可愛いよな、あの人は奇麗だよな、みたいな、そんなレベルの話しだった。その会話の中心は結城で、ほとんど俺は口を開いていないが。
そんなことを思いながら俺は教室を出た。
そろそろ夏休みだ、と生徒たちが騒がしくしている廊下を一人で歩く。大きな足音を立てながら俺を追い抜いてゆく生徒を見て、曲がり角で人と衝突したらどう責任をとるのだろうか、と考えながら、今日も家に帰ったら大学入試に向けてなにをするかを考えていると。
「——待って! 白雪くん!」
後ろから声がした。
振り返り見てみると、そこには荒い呼吸をしている赤染がいた。
「どうした」
「…………」
時間が止まったかのように赤染は、俺をじっと見たまま動かなかった。
いつもと雰囲気が違う赤染。
なにか言いたそうだけど口を開かない赤染。
——俺を見て、なにを考えているんだ?
そう思った瞬間、赤染は真剣な表情で、
「今日、このあと、話したいことがあるの……」
だから六時に、屋上に来てくれる? 待っているから——
あと五分で六時になってしまう。
この考えている時間が速いようで遅くも感じた。
白雪くんになんて告白しようか。それでもしも失敗してしまったらどうしようか、と、考えがまとまらない。ただ好きだって伝えればいいのに、こんなにも難しいとは思わなかった。
今からでも逃げ出せるなら逃げ出したい。
けれども、それじゃ変わらないと私はわかっている。
願っているだけじゃ未来は変わらない。動かないと、変わらないんだ。
私はもっと、白雪くんを知りたい。
私はもっと、白雪くんと同じ時間を過ごしたい。
私の記憶が消えたとしても、白雪くんのなかで私は生きていて欲しいから。
ずっと、ずっと、残って欲しいから。
だから私は頑張らなくちゃ。
先の見えない未来が怖いものであろうと、立ち向かわなくちゃ——
私は椅子から立ち上がった。
そして、誰もいない教室を出て、白雪くんが待っている屋上へと向かった。
薄暗い廊下の端にある、屋上に繋がっている階段を昇り、さびたドアを開けた。茜色に染まる空が目に飛び込んでくる。その真ん中に彼は、私に背を向けて立っていた。彼から出ている影が、いつもより大きく見える。
「……白雪、くん」
速まる鼓動を必死に抑えながら私は彼の名を呼んだ。
彼は私の方に振り返ると、「どうした」、と言った。
宙に浮いているような感覚で、私は彼の方へと向かう。
試験勉強を一緒にしているときは彼の顔をちゃんと見られたのに、今はどうしてもそれができない。緊張しているのだ。彼の想いを聞きたいけれど、聞きたくない私がいる。
「話したいことってなんだ。さっきから下向いているけど」
「……」
言葉が詰まって息苦しい。
たった一言、
私はあなたのことが好き
と、伝えるだけなのに——
「もしかして青点だったのか」
彼は淡々とした口調で話しかけてくる。
息ができないほど、私は緊張しているのに。
「だったらこれ——」
「白雪くん」
私は顔を上げて彼の顔を見た。
驚いていた。
きっと、私の雰囲気がいつもと違うからだろう。
風が私たちのあいだを駆け抜ける——
「私……」
口が止まってしまう。
誰もいなくなった教室で、セリフをいろいろと考えたのに、そのセリフは風と一緒にどこかへ飛んで行ってしまった。
逃げたい。
今すぐにでも私は逃げ出したい。
これが切っ掛けで、彼との距離が遠くなってしまったらどうしよう。嫌われたらどうしよう。
そんなことばかり考えてしまう。
でも。
それでも私は、この、破裂してしまいそうな想いを彼に伝えたい。
もっと彼の傍に居たいから。
もっと彼のことを知りたいから。
私は行きたい未来へと進むために、この重くてつぶれてしまいそうな口を開いた。
「好きだよ……私……白雪くんのことが」
「……」
「だから……だから……付き合ってください」
……言えた。
やっとこの想いを彼に伝えられた。
ごめんね、白雪くん。
急に、こんなこと言っちゃって。
最初から自己満足だとわかっていた。
もっと、白雪くんと一緒に居たくて、白雪くんのことを知りたかったら、距離を縮める努力すればいいだけだった。でも、私にはそれができなかった。告白、という、距離を一気に縮めるための方法を使ってしまった。
怖かったのだ。
もしも私の記憶がなくなってしまったら、と考えると、動けずにはいられなかった。もちろん、他の人に取られてしまう可能性とか、友だち関係のままで終わってしまう可能性とかも怖かった。
私は誰かの記憶に残りたいのかもしれない。
特別な存在として、誰かの記憶で生き続けたいのかもしれない——
彼との沈黙の時間は、どんな時間よりも長く感じた。
でも、そんな時間は、突然に終わってしまった。
「…………悪い。赤染」
「……」
やっぱり、そうだよね。
彼の一言で、さっきまで重かった空気が、砂のように軽くなった気がした。
「俺は別に赤染のことが——」
「大丈夫だよ。大丈夫。大丈夫だから」
私は全力で笑顔になった。
彼に気持ちを悟られないためにも、彼をこれ以上、戸惑わせないためにも。
「ごめんね。なんだか急に。嫌だったよね」
「俺は嫌なんかじゃ——」
「じゃあね。ありがとね、今までほんとうに、楽しかったよ!」
私は後ろに振り返り、学校の外へ走り出した。
彼が私の名前を呼んでいる。
けれど私は振り返らずに走り続ける。
耐えられなかったのだ。彼に断られたのが。
あれだけ心の準備はしていたのに。まったく意味がなかった。
私の目を覆いつくすように涙が溢れてくる。
溢れ出た涙は頬を伝い、誰もいない廊下に落ちてゆく。
そして私は、抑えきれないこの気持ちを抱きながら、どこかへ行くあてもなく、走り続けた。
砂浜に座り込んでから、どれくらいの時間が経つのだろうか。周りには誰もいなくて、海の静かな音だけが聞こえてくる。日もなければ月もない空は真っ暗。でも、目が暗さに慣れてきたから、海の青さと砂浜の色はわかる。
体育座りで海の向こうを眺めていると、誰かが私の方に近づいてきた。
「……紅野さん」
「よく気が付いたわね」紅野さんは驚いたように言うと、私の横に座ってきた。「どうしたの。そんなに暗い顔して。なにかあった?」
「……」
「私でよければ、なんでも聞くよ」
「……あのね」
できれば誰にも話したくなかった。
告白して失敗した話だなんて、他の人には知られたくない。恥ずかしい。
けど、紅野さんにならいいかも、と不思議に思ってしまった。
「私、白雪くんに告白したの。期末試験が終わって、白雪くんと放課後、一緒にいられる理由がなくなったから、慌てちゃったの。どうすればいいのかわからなくなって。どうすれば、白雪くんと一緒に過ごせるのかなって。私ってバカだからさ。それで思いついたのが、恋人になることしかなくて。そうすれば、いつまでも一緒にいられるでしょ? ずっとではなくても、なにもない関係よりかは会いやすくなる……」
でも私は、失敗してしまった。
そのせいで、前よりも近づきにくくなった。
「それで赤染さんは、失敗して、ここで泣いてるわけね」紅野さんは言った。
「そうだよ……」
思い返すだけで、胸が締め付けられる。
こんな結末になるのを知っていたら、私は絶対に、告白しなかっただろう。
そうねー、と紅野さんは言うと、
「諦めたら、楽になれるんじゃないかな?」
と訊いてきた。
「諦める?」
「そう。赤染さんは諦めてないから辛いんでしょ。ずっと白雪くんの近くにいたいのに、その手段がなにもないから、苦しんでる。そうだよね? いくら考えてもないものはない。思いつかないものは思いつかないんだよ。だから——」
「それだけは嫌」
「……」
「諦めるのだけは、嫌なの」
子供みたいな理由だとわかっている。
今の私は、なにも策がないのに食らいつこうとしている。無理だとわかっているのに引き付けようとしている。ただでさえ白雪くんから、嫌われているかもしれないのに。このまま何回もアタックして、余計に距離を取られてしまったら、それこそ取り返しがつかなくなってしまう。
それでも私は、諦められない。
白雪くんは私に、人生で大事なことを教えてくれた。
自分の歩きたい道に向かって行動しろ。たとえその行動が、怖いものを引き寄せようと、臨む未来のために努力しろと。そう教えてくれた。
だから私は、あの日、白雪くんが私に謝りに来た日、勇気を出して白雪くんに勉強を教えて欲しい、とお願いした。
「なら、友達じゃダメなのかしら」紅野さんは、私に質問をぶつけてくる。「一緒にいたいだけなら友だちでもいいはず。今まで一緒に勉強してきたんだから、白雪くんのなかでも友だちくらいの認識にはなってるはずよ」
「……それもダメなの」
「ダメッて、どうして? 友だちのほうが気楽な部分もあると思うけど」
「白雪くんにとって、掛け替えのない存在になりたいから——」
これはきっと、私の高校生よりも前の記憶がなくなっているからだろう。
いつか人は死んでしまう。そして必ず、自分の記憶がなくなってしまうときがくる。
私の場合は、それが高校生のときにやってきた。どこで生まれたのか、誰に育てられたのか、なにもかもを忘れてしまった。みんなが教室で昔話をするなか、私はなにも話せなかった。それで気が付いた。私は、高校生よりも前の記憶がないんだって。
だから私は、その日から誰かの心のなかに生き続けられるようにと頑張ってきた。
そうすれば、いつかまた自分の記憶がなくなったとしても、誰かのなかで以前の自分が生き残り続けてくれるからと、一生懸命に生きてきた。
だから、ほんとうは誰でもいいのかもしれない。誰かのなかに、残り続けられればいいのかもしれない。でも私は、白雪くんに生き方を教えてもらえたから。怯えて生きているだけじゃダメだって教えてくれたから。そんな、私の人生で掛け替えのない人のなかで、生き続けたい——
「白雪くんにだけは、私を、忘れないで欲しい…… それだけだよ」
「…………そっか」
紅野さんは空に目をやると、
「私はなにをしたいんだろう」
と言い、立ち上がった。「じゃあね。赤染さん」
「う、うん。ばいばい」
紅野さんは私に背を向けて、「許してね、私のことを——」、と一人で呟くと、砂浜からいなくなってしまった。
紅野さんは、なにをしに私のところへ来たのだろうか。
私にはわからないけれど、紅野さんと話していて、やっぱり私は、白雪くんと一緒にいたいんだな、と思った。手段はなくても近くにいたい気持ちは強いな、と思った。
また行動を起こせば、告白したときみたいに失敗するかもしれない。
けど、それは未来の話であって、成功するか失敗するかなんて誰にもわからない。なのに私は、いつも失敗してしまう方に目が行ってしまう——
私は立ち上がり、スマホをポケットから取り出した。
白雪くんとのトーク画面を開き、文字を打ち込む。
『さっきはごめんね。迷惑かけちゃったね。でも私が白雪くんのことが好きなのは、ほんとうだから。そうそう、期末試験の結果、伝えてなかったね。点数よかったよ! でも名前を書き忘れてて減点されちゃった。バカだね、私。それでできたらなんだけど、もしも白雪くんがよかったら、これからも勉強教えてくれないかな…… こんど弁当作るから! お願いします!』
私は目を閉じながら送信ボタンを押した。
弁当なんて真面目に作った覚えがない。私の体は不思議で、ご飯を食べたからって満腹にならない。あのいちごのような飲みものじゃないと満足できない。でも、白雪くんのため、と思えば頑張って作れるような気がした。
ぐーっと、気持ちを切り替えるかのように、私は背伸びした。
そして、暗くてなにも見えない海の向こうをじっと見つめて、心のなかで叫んだ。
私は絶対に負けないと。
たとえそれが乗り越えられない壁だとしても、いつかは乗り超えて、その壁に私のことを認めさせてやるんだって。
「おっと、危ない危ない」
前を見ていたら、意識がぷつんと切れたような感じがした。
思えば最近、どこから送られてきているかわからない栄養ドリンクが届かなくなっている。 前は一週間に一度は送られてきたのに、今じゃ三週間に一回しか送られてこなくなっている。送ってきているメーカーがわかれば電話で問い合わせて数を増やせてもらえるんだろうけど、その場所の情報はネットで調べても出てこなかった。
私はスマホを開いて、彼から返信が来ているかを見る。まだ返信はなかった。もちろん既読も付いていない。
楽しみだ。もしも白雪くんが、いいよって言ってくれたら、嬉しくて気絶してしまうだろう。
そしていつかは、白雪くんにとっての特別な存在になるんだ——
そんな明るい未来を想像しながら、私は家へと帰った。
赤染が走り出したとき、俺は追いかけられなかった。赤染の足が速い、という理由もある。でも、それよりも、気持ちの問題の方が大きかったような気がする。
あの気持ちはどのように表現すればいいのか、自分でもわからない。磁石が離れようと、人の目には見えない力を発揮しているかのように、赤染の屋上から走り去る姿を見て、俺のなかのなにかが剥がされてゆくような感覚に陥った。
赤染の告白を断った帰り道。言葉にできない虚無感のようなものに襲われながら歩いていると、自転車に乗った結城に遭遇した。これから買いものでもするのだろうか。自転車のカゴに白いエコバッグが入っていた。辺りが薄暗くなっているから目立って見える。
「お、白雪。もしかしてこんな時間まで学校に居たのか? もう六時だぞ?」
「そうだ」
結城の言葉に、俺は、赤染とのやり取りを思い出す。
白雪くんが好き、と言われたとき、俺の頭は真っ白になった。
まさかあの赤染が、俺に好意を抱いているとは思わなかったからだ。この学校には俺よりも顔が整っている生徒なんていくらでもいるし、芸人みたいに面白い生徒だってたくさんいる。そのなかで、どうして赤染は俺を選んだのか。まったくわからない。
「ん? どうした? なにか考えごとしてるみたいだけど」
「……」
「ひょっとして、誰かに告白されたとか」結城は冗談めかして言った。「まあそんなわけないよな。女子から告白だなんて」
「された」
「え? あー。これはこれは。珍しいな、白雪が冗談を言うなんて」
「……いや、されたんだ」
「……」
はあ?
と、結城は顔を歪ませた。「じゃあ誰にだ?」
「……赤染だ」
「赤染か…… はあ」結城は力が抜けるような声を出すと、「なんでだ?」と首を傾げた。「告白のとき、なんで好きになったか言われたか?」
「いや、なにも。好きだから、としか言われてない」
「そうかそうか…… あ、一番肝心なところ忘れてた。それよりも告白はもちろんオーケーしただろ?」当然とでも言いたげな結城の顔に、俺は圧力を感じた。
「……断った」
「……はあ?! あの赤染の告白をか?!」
「そうだ」
「……」結城は放心すると、「どうやって断った?」と訊いてきた。
「理由を言おうとしたら、走ってどこかに行った」
「ははは。まさか断られるとは思ってなかったんだろう。あれだけ可愛い顔してるなら百発百中だろうからな」結城は笑いながら自転車に鍵をした。「で、どうしたらいいか迷ってるわけだ」
「……そういうことだ」
この件で結城には頼りたくなかった。
自分のプライドとか気持ちは関係ない。ただ単に、結城がこの話題を嫌がるかもしれないからだ。ふだんから恋愛の話はするがどれも真剣な話ではない。あの子は可愛いね、とか、あの子は奇麗だね、とかそんなレベルの話で止まっている。だが今回は違う。他愛もない話ではないのだ。
「しょうがないなー」結城は微笑むと、「白雪のことだから考えてるかもしれないけど、別にあの件は気にしなくていいよ。自分のなかでしっかり整理はできてるから」結城は俺を安心させるように微笑んだ。
「もしも結城が俺の立場ならどうする?」
「そうだな……」少しのあいだ結城は考え込むと、「相手の気持ちを汲むのが一番だから、今はなにもしなくていいと思う」冷静な顔で俺を見てきた。
「メールとかはいらないよな」
「いらない。赤染の態度を見て決めればいい。あっちが今まで通りにしたいならそれに合わせればいいさ。もちろん、自分の気持ちも踏まえた上でな」
「どういう意味だ。相手の気持ちを汲むことが第一優先なんだろ」
「そうだけどな」結城は手を上に伸ばして背伸びをすると、「でも、相手との接し方がどうであれ自分の人生だろ?」と言った。
「自分の人生か」
「そうだ。いくら告白されたからって、自分の気持ちを殺すようなことはしたらだめだ。相手の気持ちを汲む、というよりかは、相手の気持ちを踏まえる、のほうが正しかったかな? お互いの気持ちが考慮されているからこそ、恋愛は成り立つからな。そこに義理とか義務はいらないってことかな?」
頭を掻きながら結城は、「まあ、これは俺の意見だと思って聞いてくれ」、と笑いながら答えた。
「ありがとう。なんとなく理解できた」
「おう、それなら良かった」
話しに区切りがついたし、星でも見に行くか、と結城は呟くと、「じゃあまた明日な! 赤染正!」と、大声を上げた。
「まだ付き合ってもないのに、それはないだろ」自転車を走らせて遠ざかってゆく結城の後ろ姿に、俺は大声を上げた。
俺は今、英語のニュースを聞きながら湯に浸かっている。登下校しているあいだにリスニングができなくなったから、この隙間時間にやるしかないのだ。
逃げ出せるものなら逃げ出したい。
けれどもそれはできないのだ。してはいけないことなんだ。
母親は寝る間も惜しまず働いてくれた。
ならば俺は、それ以上の恩返しをしなければならない。
誰も文句を言えないような大学に行き、時間を持て余すくらいに金を稼いで、お世話になった母親を助ける。それで俺の人生は、父親とは違って、幸せな方向へと進むのだ。
だから今は、我慢しなければならない。
たとえどんなに苦しくても、辛くても、泣きたくても、我慢して我慢して、乗り越えなければならないのだ。これが俺の生きる理由で、頑張る理由で、存在価値なのだから——
頬を伝る汗を手で拭い、傍らに置いてあるペットボトルに入った水を飲むと通知音が鳴った。誰からだろうか。いったんニュースを止めてラインを開いた。
「……赤染?」
目を疑った。もう一度、見間違いではないかを確認するためにスマホの画面を凝視する。
間違いない。
赤染から連絡が来たのはほんとうだった。
内容は簡単なもので、これからも一緒に勉強しよう、というものだった。
まるで屋上での出来事がなかったような文章だ。
どう返信すればいいのだろうか。
このまま既読無視するわけにはいかない。
誰に相談すればいいのかわからず悩んでいると、帰り道で結城と話した内容が頭に浮かんできた。もしも告白を断ったなら相手の意見を汲み取ること。そこで忘れてはいけないのが自分の気持ちもしっかりと踏まえること。この矛盾した言葉はいったい、どこから生まれたのだろうか。相手の意見をしっかりと汲み取るなら、自分の意見を蔑ろにしないと前に進めない場面は必ずあるはずだ。頭が痛くなってくる。ぐるぐると、いろいろな言葉が頭の中を循環している。だから嫌いなのだ。答えのない問題は。
いったん赤染とのトーク画面から距離を置き、そのまま俺は、結城に電話をかけた。
「どうした? 珍しいな、お前から電話をかけてくるのは」
「助けて欲しい」
「ん? なにをだ?」
「赤染から連絡が来た」
「ほーほーほー、この学校の頭脳王でさえも人間関係を前にしたら困るんだな」
「当たり前だ。人生で初めての経験なんだから」
「それはそうか」スマホ越しに笑い声が聞こえた。「で、内容は? 簡単にしてくれ」
「今日はごめんね。でも好きなのはほんとう。話変わるけど、これからも勉強教えてくれない? だった」
「なるほどなぁ」
結城は、んー、と考え込み
「やっぱり俺にはわからないな」
と笑いながら言った。こっちは真剣なのにやめて欲しい。
「茶化さないでくれ。どう返答したらいいか教えてくれ」
「いや、ほんとうにわからないんだって」
「なにがだ」
結城は深くため息をつくと、「だからわからないんだって。お前の気持ちが」
結城が困惑している表情が容易に想像できる口調だった。
「……」
「お前は赤染をどう思ってる?」
「どう思ってるって……」
明るくて元気な子のイメージしか俺にはない。けれども今、結城が俺に訊いているのはもっと深い内容のような気がして、なにも答えられなかった。
「俺は白雪がしたいように返信して欲しいな」
「……俺がしたいように、か」
俺のしたいことはなんだろうか。
つい最近、誰かに俺は、あなたのしたいことはなに? と訊かれたような気がする。
そのときも俺は答えられなかった。俺はなにをしたいのか、したくないのか。自分でもわからないのだ。
「そう。自分のしたいように。赤染が好きなら一緒に勉強しようって誘えばいいし、嫌いなら誘いを断ればいい。一応言っておくけど、折角の誘いを断るのは申し訳ないからって引き受けるは辞めておいた方がいいぞ。それは申し訳ないじゃなくて失礼だからな。別にビジネスの世界じゃあるまいし」
結城はなにかをむしゃむしゃと食べながらそう言った。
「じゃあそろそろ電話切るぞ。俺は星を、ぼーっと眺めたいんだ」
「ああ。ありがとう」
「礼は時間で返せ」
「金ならまだしも時間は無理だ」
「ははは。相変わらず答え方が真面目だな。じゃあ、また明日」
「おう」
沈黙の時間が少し流れると、電話がぷつん、と切れた。
湯船にだらりと体重を預けて、俺は湯煙で見えない天井を見る。
さっきの話しをしたあとに見るこの天井は、自分自身でもわからない心の内を表しているような気がした。本心が、湯煙のような形のないものに包み隠されている。
だから俺は思い返した。
赤染と一緒にいるとき、俺はどんな感情を抱いていたのかを。
俺は赤染といて楽しかった。
どうしてなのかはまだ言葉にできないが、歳を取っても記憶から消えないような時間だった。
勉強を教えているときも、変顔を突然披露されたときも、不思議と気持ちが和むような時間だったのだ。
……それなら答えは既に決まっている。
意外に答えを見つけるのは簡単だったじゃないか。
自分に対して素直になれば、答えを見つけるのはあっという間だった。
俺はスマホの画面を開き、赤染とのトーク画面を開いた。
これで未来が決まる、と考えると、鼓動が速くなってきた。
『よろしく。これからも一緒に頑張ろうな』
文章は素っ気ないだろう。けれど、俺にとって、この文章は今までの人生で一番の重みがあるだろう。
だってこれが、自分に素直になれた瞬間であるかのような気がしたから——
「これでやっと一学期が終わる」
ドッチボールで当てられて、外野にきた結城は、ため息交じりにそう呟いた。
「だな」
「あばらのヒビで体育を見学できるのはいいな。俺も赤染に衝突してもらおうかなー」結城はあくびをした。「赤染は相変わらず無双してるし」
「あれは異常だ」
あの怪力はどこから生まれているのか。
男子柔道部の球より速いのは当たり前で、ひょっとしたら甲子園に出場しているピッチャーよりも速いかもしれない。投球の正しいフォームを知っているわけではないが、赤染のフォームは美しいと直感でわかる。
「あれじゃ、チーム戦になってないな」結城は苦笑した。
「赤染対クラス全員でもいい気がする」
柔道部の男子である飯田が投げた球を軽々とキャッチした赤染は飯田に向けて投球した。
「あーあ。赤染に向かって本気で投げるから、本気で返されちゃうんだよ。怖い怖い」結城は笑いながらそう言った。
「飯田は大丈夫なのか? 蹲っているけど」
「まあボールは柔らかいし、飯田は日頃から鍛えてるから大丈夫だろ。でも、俺たちみたいな一般人があんな球を受けたら、間違いなく病院送りだろうな」
「だな」
「可愛い顔してるのに肉体が凶器だからな。そんな赤染に好かれてるお前はもっとすごい」
「俺はなにもすごくない」
飯田は四つん這いで外野に出ると仰向けに倒れた。遠くからでも辛そうなのがわかる。国体に出場するような飯田を打ち負かす赤染の肉体はどうなっているのだろうか。あれだけのポテンシャルがありながら部活動に入っていないのだから、猫に小判もいいところだ。
「それにしてもこの学校の校庭は広いよな」
「東京ドームはすっぽり入るだろ」
「なんでだろうな」
「知らん。土地は安いだろうけど」
「でも広くする意味がないよな。ただでさえ本島の学校よりも人数は少ないのに」
「確かに……」
体育館もそうだ。
野球を支障なくプレイできるほど広い。ボールが窓に当たったら割れそうだが、強化ガラスだから心配はいらないらしい。壁も窓と同じで、壊れにくい素材でできているから、球技や格闘技しても大丈夫だと聞いたことがある。
「あ、そうだ。思い出した」
「なにを」
「赤染と白雪って、付き合ってるのか?」
「付き合ってない」
放課後、俺は赤染に勉強を教えてはいるが付き合ってはない。
「そうか。そうか。それならよかった」
「なにがよかった」
んー、と結城は考え込むと
「紅野が俺に訊いてきたからさ」
と言った。
「紅野、か。紅野は結城に、どんな質問をした」
「赤染と白雪は付き合ってるのかって」腕を組み結城は空を見た。「そもそも白雪って、紅野と接点あるのか?」
「いや。特になにも」
「だよな…… もしかしてモテ期の到来か?」
「それはない」
「だって赤染には告白されているわけだし、紅野には彼女持ちか訊かれているわけじゃん。どう考えても白雪史上、最高のモテ期だよな。しかもどっちも、顔面偏差値が日本一だし」
「それはない。他の理由で訊いてきたんだろ」
「でも、その他の理由ってなんだろうな。日陰で紅野は見学してるから訊いてみたら?」結城は木の下にあるベンチの方を見た。「毎回体育の授業は見学してるけど飽きないのかね」
「飽きるだろ。でも、義足だからドクターストップでもかかってるんじゃないか」
「だな。ボールが当たったら壊れるかもしれないしな」
紅野は今も、校庭で行われているドッチボールを眺めている。
野球観戦するみたいに、楽しそうに見ているわけでもなければ、つまらなそうに見ているわけでもない。ただただ、ロボットみたいに無表情でベンチに座っているのだ。
「あれで愛嬌がある人だったらさ、こっちから話しかけて座りながらキャッチボールでもできるんだろうけど、そうじゃないからな。赤染みたいに終始笑顔なら会話できるのに」
「だな…… あっ」
「どうした?」結城は紅野から視線をずらし俺の横顔を見てきた。
「そう言えば、前に俺、紅野に話しかけられた」
「え、そうなのか?!」予想外だったのか結城は驚くと、「ちなみに内容は?」
「内容は…… 紅野は赤染と話したいってことと、あとは赤染が好きかも訊かれたな」
「ふだん話さない相手に突然恋バナを持ちかけてくるのか…… うん、間違いない。お前は今、モテ期に突入しているぞ」
「それはない」
「ははははは」
結城が笑い声をあげると同時にチャイムが鳴った。
試合の結果は、赤染のいる、結城たちのチームが勝利した。
「よかったな。赤染のチームで」
「ああ。さすがにこの校庭のボール拾いは大変だからな」結城は安堵した。
整列して号令をかけたあと、負けたチームは校庭の奥の方までボール拾いするために走った。
「よし。あと二時間の授業が終わったら明日から短縮授業だ」
「そうだな」
体育の授業が終わり、俺と結城で教室に帰っていると、
「白雪くん」
と後ろから声をかけられた。
——紅野だ、この声は。
後ろに振り返りながら俺は、「どうした」と返事をした。
紅野は俺の顔を見て微笑むと、
「今日、一緒に帰らない?」
ここ最近、妙に俺は女子と会話する機会が増えている。その大半が赤染なわけだが、今日の体育の授業で話しかけてきた紅野だってそうだ。高校二年生のときも赤染と紅野は俺と同じクラスだった。なのに、会話する機会は一度もなかった。赤染と紅野は生徒会に入っていないから尚更、声を聞く場面さえもなかった。
人の縁は急に近づくものだな、と考えながらノートの上でペンを走らせていると、赤染が「今日は紅野さんと一緒に帰るんだよね?」と質問してきた。
「ああ。そうだ。俺らの勉強が終わるまで、外で待ってるらしい」
「なら早めに切り上げないとだね」
「そうだな」
「どうして紅野さんは、急に白雪くんと帰りたいって言ったんだろ」赤染はペンを置き、首を傾げた。「白雪くんって紅野さんと仲いいの? あまり話してるイメージがないけれど……」
「いや。あまり話さない。同じクラスなだけのイメージしかない」
「そうなんだ……」赤染は不安そうな顔をして俯いた。
「赤染は仲いいのか」
「ん? あー。たまに会話するくらい…… でも、ほとんど話さないよ」
「そうか」
紅野の意図が読めない。俺とも仲がいいわけではないし、赤染とも仲がいいわけではない。私は赤染と話したいの、と紅野は言っていたが、それなら、紅野と日常会話すらしない俺が一緒にいたところで気まずい空気が流れるだけなのに。
「そう言えば最近、ボトルに入ってるジュースはどうした」
「あー、あれね」と言うと、赤染は「最近届かないんだよね」と、深刻そうな顔をした。
「たぶん業者に苦情でも来たんだろう。宛先が間違えてますって」
「やっぱりそうなのかなぁ」
「今まで、買った覚えがないのに届いてたんだろ。それもどこの会社かわからないところから」
「うん…… あれ、美味しかったのに……」
あれがないと元気が出ないんだよね、と赤染は独り言をぼやいた。手放したくなかった、と顔に出ている。
「じゃあそろそろ行かないとね、紅野さんが待ってるし」
「そうだな」机の上に広がった教科書とノートを一つにまとめる。
赤染も勉強道具を片付け始めると、「どんな話しをしようかなぁ」
「ん、口調が嬉しそうだけど、赤染は紅野と帰るのが楽しみなのか」
「うん。まあね。どんな子なのかはあまりわからないけどさ、不安だな、不安だな、って思ってても、もったいないなって。どうせなら楽しんだ方がいいでしょ?」
「そうだな」
赤染は俺の顔を見ると、沈んでいた太陽が顔を出したかのように表情を明るくした。
「どうやって紅野さんを笑わせようかなぁ」
赤染は、んー、と喉を鳴らすと変顔の練習をやり始めた。俺と同じように、これで紅野を困らせてはならない。
「ふつうに会話すればいい」
「えー。みんなこれで笑ってくれるのに」
「……」
面白くないから辞めろ、とは言えなかった。赤染の変顔は一発芸でやるような類ではない。張り詰めた雰囲気を緩くする、の方が一発芸よりも的確だろうか。見ていてほっこりするのには間違いない。
帰り支度が終わり、俺と赤染はバッグを背負った。
「友だちが増えるって考えると楽しみだなぁ」今にも頬が床に落ちてしまいそうなくらいに、赤染は頬を緩くした。「まあ、あと二日で、しばらく会えなくなっちゃうけどね」
「確かに。そろそろ夏休みだからな」
「うん…… だね」声のトーンが落ちた。「まあ、帰ろ!」
「そうだな」
忘れものがないかを見て、俺と赤染は正門へと向かった。
正門近くにある街灯を見ると紅野が立っていた。
「待たせて悪かった」俺がそう言うと、赤染も、「ごめんね、待たせちゃって」と言った。
「いいよ。気にしないで。じゃ、帰ろう」紅野は手の平を振ると、背を向けて歩き出した。
少しのあいだ会話が飛び交うことなく歩いていると、「夜、こんなに遅くまで一緒に勉強って、もしかして二人は付き合ってるの?」と紅野が話を切り出してきた。会話のペースが飛躍し過ぎていて度肝を抜かれる。
「そ、そんなわけないよ?!」赤染は目を大きく開きながら答えた。慌てる場面はどこにもないのに。
ほんとうに? と紅野が疑いの顔を赤染に向けたが、赤染は、ほんとうだよ、と笑いながら返答した。完全にペースを紅野に掴まれている。教室にいるときは、どのようにしたら紅野を笑わせられるか、みたいなことを言っていたのに。
紅野は、ふーん、と悪巧みしていそうな顔を浮かべると、「あんまり赤染さんは勉強が好きなイメージなかったけどな。授業中は寝てるしね」と言った。
「それは、んー、疲れてるからだよ。だから放課後に頑張らないといけないの」
「真面目だね、赤染さんは。白雪くんみたいに」
「ぜんぜんだよ! 白雪くんに比べたら米粒だよ」
「あはは、米粒って。そんな例えしたら赤染さんが可哀そうじゃない」口を押えながら紅野は微笑んだ。「ごめんね、白雪くん。二人だけで話しちゃって」
「ああ。気にしなくていいよ」
「ありがとう」紅野はそう言うと、再び赤染と話し始めた。
これがふつうだろう。誘われたときから予想はできていた。嫌ではない。当たり前だからだ。
クラス内で男女のグループができるように、やはり話しやすい相手は同性の人。わざわざ女子のグループに飛び込む男子はいないし、その逆もあり得ない。もしもいるとしたら、それは業務連絡か、話しかけた相手に好意を持っているか、それとも性別を気にしない、幼くて純粋な心を持った人だけだろう。
しばらくのあいだ俺は、二人の会話を聞き続けた。
紅野はミステリアスなイメージが強かったが、案外ふつうの人だった。
雰囲気が他の生徒に比べて大人っぽいけれど、それ以外は特に目立っている部分はなく、中学生のころの話とか、趣味の話とか、何気ない会話をしていた。話の内容が面白ければ笑うし、怖い話をすれば顔を引きつらせるし、表情も俺が思っていたよりも豊かに見えた。
そんなことを思いながらラジオ感覚で二人の話しを聞いていると、「紅野さんはどんなテレビを見るの?」と赤染の声が聞こえた。「紅野さんってお笑い番組ばかり見てそう」
「正解! よくわかったね。お笑い見てたらいつの間にか時間が過ぎちゃってるよ。赤染さんはなにを見てるの?」
「私はね……」赤染は考えると、「番組よりかは、映画を見るかもしれない。ディズニーの映画がすごく好きなんだよね!」
「……ディズニーのどんなところが好きなの?」
「やっぱり綺麗に物語が終わるところかなー」
「あの世界って平和だよね、必ずハッピーエンドで終わる」
「そうそう! そこがいいの!」赤染は新しい話し相手を見つけられて嬉しそうだった。
「じゃあバッドエンドの映画は見ないの? 実は恋人が病気を患ってた、みたいな」
「んー、あまり見ないかなぁ。やっぱり幸せな形で終わるのが一番だよ」
「そうだよね」
うふふ、と紅野は笑うと
「白雪くんならどうする? もしも不幸な運命が決まっている相手に恋しちゃったら」
「お、俺か」急に話しを振られて驚いた。テレビで自分の名前を呼ばれたかのような気分だ。
「そう、白雪くんならどうする?」
「俺だったら恋したとしても付き合わないだろうな」
「たとえ彼女に告白されたとしても?」
「……断るだろう、な」
「そう、それならよかった」紅野はこの話しに区切りをつけると、再び赤染と会話を始めた。
断ると言ったが、実際のところはわからない。恋愛経験がない俺が答えられるような質問ではないから思い付きの意見で答えた。わざわざ救われない未来に向かう理由が、俺には理解できない。
再びラジオ感覚で二人の話を聞いていると、赤染と別れる看板が見えてきた。
看板の下で紅野は立ち止まると、「じゃあね、赤染さん。私は白雪くんと同じ方向だから」と微笑みながら言った。「ここからあとどのくらい、赤染さんは家までかかるの?」
「家からここまでだと十五キロだね」苦笑いしながら赤染は言った。「ここからはいつも走って帰ってるから、そこまではかからないよ」
「そんなに走るのってすごいね…… 体には気をつけて」
「うん!」
また明日ね。と、赤染は手を振ると、家に向かって走り出してしまった。一呼吸する頃には、赤染の後ろ姿は見えなくなっていた。
「速すぎるね」紅野は言った。
「ああ。そうだな」
赤染が進んだ道から視線をずらし、俺と紅野は家に向かって歩いた。
ついさっきまで、話し声が途絶えることがなかったのに、俺と紅野だけになった瞬間、虫の鳴き声しか聞こえなくなってしまった。道を照らす満月に視線が行く。珍しい。今日の月は、赤色だ。
「結構、帰り道が同じだな」
「……」
紅野が気まずく感じているかもしれない、と思い、俺は話しかけたが反応はなかった。
「山道だからバイクで登校していいはずなのに、どうして紅野は歩きなんだ」
「……」
俺は横を見た。
もしかしたらクマに襲われたのかもしれないと思ったからだ。
でも、紅野は俺の隣で歩いていた。それも、無表情に歩いていた。
「なにかあったのか。さっきまで楽しそうにしてたのに。もし一人で帰りたいなら俺は先に行くけど」
「白雪くん」
「どうした」
紅野は立ち止まると、「私の顔に、なにか付いてる?」と訊いてきた。
「なにも付いてないけど……」紅野の顔を見て、そう言ったときだった。
辺りが急に暗くなった。
友だちから目隠しをされたみたいに、なにも見えなくなってしまった。
どうして暗くなったのか。
それに気が付いたのは、紅野の顔が、俺の視界に映ったときだった。
「——どうだった? 突然のキスは」
紅野は口周りを舌で舐めると微笑んだ。
「…………」
なにも言葉が出てこなかった。
「ビックリした? それならごめんなさいね。でも、よかったでしょ?」
微笑みながら俺の様子を見ている紅野。
俺は無性に苛立ってしまった。
「……なんで、急に、キスをした」
「簡単だよ」
友だちに勉強を教えるかのような口調でそう言うと、紅野は、
「赤染さんじゃなくて、私に意識を向けさせるため」
と言い、目を鋭くして俺を見てきた。
「どうして俺が、赤染が好きみたいな言い方になって——」
「知ってるんだよ、私は」
紅野は俺の言葉を遮り、語気を強めた。
「白雪くん、私は知ってるんだよ。赤染さんが十三日前に、白雪くんに告白したこと。それで断ったこと。なのに、勉強の誘いは断らなかったこと」
「勉強に恋愛が関係してるわけがない」
「いや、ある。あるんだよ」
紅野は小さい子供を諭すように優しく言った。
「それも白雪くんならね。本来の真面目で交友関係をあまり持とうとしない白雪くんならあり得る話しなんだよ。私の知ってる白雪くんなら勉強がある、という理由で断っただろうに。でも、白雪くんはそうしなかった。一緒に勉強したかったんだよね? 赤染さんと」
「……」
反論できる余地はまだあった。
けれども俺は、他のことに気を取られてなにも言い返せなかったのだ。
あまり話したことがないのに、どうして紅野はここまでも情報を握っているのだろうか。赤染だって日頃から話をするような仲ではないと言っていたし、俺だって赤染と同じだ。なのに紅野は知っている。直接関係のない二人の情報を、細かく把握しているのだ。
「赤染さんと一緒に勉強がしたい、以外にも理由はあるのかな? 私には思いつかなかったけれども」
「紅野はなにがしたいんだ。俺の赤染に対する気持ちを知りたいのか?」
「違うよ。そんなことはどうでもいい」と言い、「私は、白雪くんに、赤染さんと距離を置いて欲しい。それだけよ」
疑問点が多すぎて、話しについていけない。
「さっきの映画の話、白雪くんはなんて答えた? 悲運とわかっているなら好きな人と付き合わないって言ったよね。ここまで言えばわかるかな? 赤染さんには未来がないのよ。私たちみたいに、当たり前の日常を送る未来が」
「おい。さっきからお前、なにを言ってるんだ」
頭に血が上っている。
赤染に未来はない、と言われて、我慢ができなかった。
「頭のいい白雪くんならわかるでしょ? 私の話が、なにを意味するかって」
「遠回しに伝えるな。俺にはお前の言うことが理解できない」
「じゃあ仕方ないわね。教えてあげる」
魔女のような不気味な笑みを浮かべると紅野は、
「彼女、赤染愛夜は人間じゃない。人の手で造られた、人造人間よ」
と言った。
「……」
初めて人を馬鹿だ、と思ったかもしれない。
宇宙人はほんとうにいる、と本気で演説されたような気分だ。
「ごめんね、話しすぎちゃって。これはクラスメイトからの忠告だよ。今ならまだ引き返せる、わかるわよね? 白雪くんなら」
「……」
「これは私と白雪くんだけの秘密。じゃあね、私は赤染さんと同じ方向だから」
そう言うと紅野は後ろに振り向き、
「愛が産むのは破滅だけなんだから——」
と、独り言のようにぼそっと呟くと、歩いてきた道とは反対の方向へ行った。
私と別れたあと、白雪くんと紅野さんが一緒に帰っている様子を想像すると、なんだか紅野さんに嫉妬してしまう。白雪くんが紅野さんに恋心を抱いてしまったら嫌だし、悲しくなる。紅野さんは胸が大きくて男子受けしそうな体形しているから、紅野さんが白雪くんに告白でもしたらどうなるかわからない。思えば、白雪くんは、どんな女性が好みなのかまったく知らなかった。
「あ」
ベッドに行こうとしたら、椅子に小指をぶつけてしまった。小指が当たった場所に穴が空いていないかを見る。大丈夫そうだ。前に一度、小指の爪が刺さって、椅子を傷つけてしまったことがある。
ベッドに行こうと立ち上がったとき、ふらっと、めまいがして私は倒れてしまった。
これは、ふらっと、ではなく、ぐあん、とでも表現すればいいのだろうか。一瞬、意識がどこかに飛んでしまった。
最近、一日に一回、必ず私は倒れてしまう。
学校では一度も倒れていないから安心できるけど、みんなの前で急に倒れてしまったら心配をかけてしまう。
それだけはしないように、と健康には気遣っているけれど、改善されているような気がしない。決まった時間に寝て起きて、一日三食、栄養バランスもしっかりと考えて食べている。でも治らない。むしろ日が経つごとに悪化してゆく感じだ。
放課後しか勉強しない私でもこれだけ辛いのだったら、学校の授業をしっかり受けている白雪くんはどれだけ疲労が溜まっているのだろうか。間違いない。トイレで寝てしまうくらい疲れているだろう。
いつも一緒に勉強するとき、白雪くんは苦しそうな顔をしている。
生きることが辛い、と嘆いているような顔で、白雪くんは勉強している。
……そうだ。
いいこと思いついた。
そろそろ夏休みが始まる。
夏休みのどこかで遊びに行けばいいのだ。
海でも山でも、気分が晴れるような場所に行けばいい。そうすれば、少しは気持ちが楽になるはずだ。いくら真面目な白雪くんだとしても、一日だけなら遊ぶに違いない。
もぞもぞと体を動かし、ポケットに入っているスマホを私は取り出した。
『夏休み中、どこかで会わない?』
ぼーっと寝転がりながら待っていると、
『わかった。会おう』
と返信が来た。思わず私は、「やった」と、握りこぶしを作って喜んだ。
『じゃああそこのカフェ集合にしよう』『どこだそれ』『ひよこマークのカフェ』『了解。再来週あたりにでも』『うん!』
そして私は、パンダのスタンプを送った。
楽しみだ。
白雪くんと遊べる夏休みなんて、想像したことがなかった。
スマホをぎゅっと、お腹で包み込むように握る。そして私は、ベッドに行くことなく、倒れた場所でそのまま寝てしまった。
赤染と会う約束をした日がとうとう来た。
俺はバッグに、筆記用具、数学の参考書、それからノートを入れ、軽く朝食を取ってから家を出た。夏休みに入って以来、誰にも会うことなく、夜に買いものするために出かける以外は家に引き籠って勉強していたから、日差しが一段と眩しく感じる。懐中電灯で直接、目を照らされているみたいだ。それに、セミの鳴き声が耳のなかで暴れまわっているが、嫌な感じはしなかった。
スマホのナビを頼りにしながら、軍基地の横を通り、点々と建っている住宅を抜けると、ひよこマークのカフェに出てきた。店前にはいくつか自転車がある。店の雰囲気は、集中して勉強できるような、落ち着いた感じだ。
日かげに入ったあと、俺はスマホの画面を開いて赤染に、『先に入ってる』と送った。
『あと三十秒で着く!』
まさか集合時間よりも二十分前なのに集まれるとは思わなかった。
辺りを見回し、赤染がどこにいるかを確認する。
店に入ることなく日かげで待っていると、「おはよう!」と、後ろから唐突に声をかけられた。
「お、おはよう……」
赤染の着てきた服に俺は驚いた。学校での制服姿しか見たことがなかったかもしれないが、赤染の服装がカフェでゆっくりとするような、類の服装ではないからだ。パッと見た感じ、勉強道具は持って来ていなさそうだし、なんならこれから海にでも行くかのような服装だ。
「じゃあ、いこ」赤染はカフェに背を向けると歩き出してしまった。
「ん、どこにだ」
「あれ? 海だよ、海。山登りでもいいけど」きょとんとした顔で言った。
「遊びに行く約束ってしてたか?」
「してたような気がするけど……」赤染はスマホをポケットから取り出した。「ほら。約束してるじゃん。『夏休み、どこかで会わない?』って」
「会うって、勉強の意味じゃなかったのか?」
「え、会うって遊ぶって意味じゃないの?」
「……」
「……」
沈黙が生まれた。
これが、思い込みの怖さ、と言うのだろうか。
「今日は」
たまたま同じタイミングで、俺と赤染は、今日は、と言ってしまった。
自然に俺と赤染は黙り込んでしまう。
「今日は遊びに行こう!」
赤染が俺よりも先に口を開いた。子供が遊園地で親を引きずり回すみたいに、赤染が俺に、遊びに行こうよ、と訴えている顔は必死だ。「たまには息抜きしないと危ないよ」
「そこまで俺には時間がない。一分一秒でも無駄にはしたくないんだ」
「遊びは無駄にならない! 息抜きも立派な勉強だよ!」
「息抜きも勉強なのか」
「そうだよ。だって白雪くん、いつも苦しそうな顔してるじゃん……」
「……」
次の言葉が出てこなかった。言い返す言葉が浮かばなかったわけではない。
赤染の表情が一変したからだ。
今にも泣き出しそう、とまでは行かないが、そこには、母親が子供を心配しているかのような顔があった。その顔に、俺の口が開かなくなってしまった。
「だから行こう! 今日だけだから!」
そう言うと赤染は、ばしっと、俺の右手を掴んできた。
「お願い…… します」
「……」
俺は赤染の顔を見て、遊びたくない、とは言えなかった。
「……わかった」
「いい、の?」
「ああ」
不思議だ。
今までの人生、遊びに誘われたら必ず断っていたのに、今回はなぜか、受け入れてしまった。でも、俺にはその理由がわからない。断りにくかったのもあるが、それ以外にも理由があるような気がした。
「じゃあ行こう!」満面の笑みを浮かべると、赤染は俺の手を引っ張り、走り出した。「思う存分、遊ぼうね!」
「ああ。そうだな」
このとき俺は、前を向いて走る彼女の姿が、この世界に代わりがいないような、唯一無二の存在に見えてきた。
少しのあいだ歩くと、人が楽しそうに遊んでいる声と共に海の音が聞こえてきた。
砂浜には、日焼けするためにサングラスして寝転んでいる人もいれば、数人でバレーボールしている人もいた。どこにもつまらなそうな顔をしている人はおらず、みんな笑顔で休みを謳歌している。
「白雪、くん」後ろから赤染の声が聞こえてきたから振り返ると、「どうかな、私の水着姿……」お披露目会みたいに、赤染は全身を俺に見せてきた。
「……似合うと思う」本音は違うが、似合っているのには変わりないからそうしておいた。
「ほんとに!」ご満悦の様子だ。さっきから妙に、周りの視線を感じるが気にしないでおくことにした。今日、俺は勉強をすると思っていたから、ここに来る途中で水着を買ったわけだが、赤染はもとから海で遊ぶ予定だったから準備万端のはずだ。それでこの水着なのだから、俺はなにも文句を言えない。
「おお! 海だ!」
赤染はそう叫ぶと、海に飛び込んでしまった。
「気持ちいよ! 白雪くんも来れば?」
「俺は大丈夫だ」赤染みたいに飛び込んだら、あばらにヒビが、再び入ってしまう可能性がある。「砂浜でゆっくりしてるから大丈夫だ」ほんとうの理由は、水に浮かべないから、なのだが。
「もしかして白雪くん、泳げない?」泳げない人なんているの? とでも聞きたそうな顔で俺を見てきた。「それなら教えてあげるけど……」
「泳げないわけじゃない。泳がないんだ」犬かきならできるから、嘘は言っていない。
「どうして?」
「あばらが怖いんだ」
「そっかー。それならしょうがないね!」
赤染は陸に上がって来ると、「じゃあ海で浮かぼうよ!」と言い、俺の腕を引っ張ってきた。
「遠慮しておく」「ずっと座ってたらつまらないじゃん」「そんなわけない。遊んでる姿を見るのも楽しいもんだ」「そんなの絶対に嘘!」
いいから!
と赤染は言い、強引に俺のことを海のなかに引きずり込んだ。
足が海に当たり、冷やりと瞬間、全身に鳥肌が立ってしまった。引き下がろうとしても赤染の力が強すぎて下がれない。蟻地獄にでもはまってしまったかのようだ。
「た、助けてくれ!」命の危険を感じた。
とうとう足が浮いてしまった。どれだけ足を延ばそうとしても届かない。
「ほら、ぜんぜん大丈夫だよ!」
沈まないようにと、足をどたばたさせながら俺は赤染の顔を見る。平然とした顔で赤染は浮いていた。「どう? 気持ちいい?」
「そんなわけないだろ! これのどこが気持ちいいんだよ!」
「怖かったら私の肩に捕まってもいいよ?」
「……くそ!」俺は赤染の肩を浮き輪代わりにした。
「ははは! もうちょっと奥に行こう!」無邪気な子供みたいに赤染は元気な声でそう言うと、海の奥側へと進み出してしまった。溺れるのではないか、と怯えすぎた俺は、これ以上進まないでくれ、とも頼めず、ただただ赤染の肩に捕まって、前に進み続ける赤染についてゆくことしかできなかった。
一時間くらい浮遊したあと、海から上がり、今度は砂浜でブルーシートを敷いた。その上にスイカを一つ置き、海に向かう途中で買った園芸用の支柱でスイカ割の棒を作った。百均でできるから安上がりだ。しかも数本でまとめれば結構固いから、スイカを割るには丁度いいだろう。
「スイカ割りって棒がなきゃできないの?」赤染は、つんつんと棒を触ると不思議そうに見つめた。
「棒がなければスイカ割りにならないだろ。逆にどうやって割るんだ」
「空手チョップで割るんじゃなかった?」
「それは無理だ」
「そうだったっけ……」空手チョップでスイカが割れると、赤染は本気で思っているのだろうか。そう疑ってしまうくらいに赤染は、真面目な顔をして思い出そうとしている。
「なら空手チョップしてみたらどうだ」あまりにも腑に落ちなさそうな顔をしていたから言ってみた。「割れないから」
「うん……わかったぁ」
赤染は右腕を振り上げて握り拳を作ると、
「ふん!」
と言い、力を込めてスイカに拳を当てた。
——びしゃり、と。
なにかがつぶれるかのような音がした。
「……」
「あー、つぶれちゃった…… やっぱり三個、買っておいてよかったね!」
赤染の笑い声が、右から左へ抜けてゆく。
つぶれてしまったのだ。スイカが。それも拳だけで。あまりの非現実的な出来事に、俺はスイカの残骸から目を離せなかった。「これ、どんな手品だ?」
「手品もなにも。ただグーで殴っただけだよ!」
グー、と言っている時点で空手チョップではない、と言い返したくなったが、それどころではなかった。
赤染はビニール袋に入っているスイカを一つ取り出すと、「はい。これ、二個目」
「もうつぶさないでくれ」
「今度は棒で割るから大丈夫!」誇らしげに赤染は言った。
きっと、赤染の力でスイカ割りをやってしまうと、一度の打撃だけで割れてしまう可能性がある。だから俺は、「じゃあ、俺からスイカ割りに挑戦する」、と言った。
「うん! わかった! 後ろから目隠しするよ」
目を瞑っていると、瞼の上にタオルの圧力がかかってきた。
後ろにいた赤染の気配がなくなり、結び終わったのかな? と思うと、強風が耳穴に吹き込んだ。
赤染が息を吹きかけてきたのだろう。
気が付いたころには全身に鳥肌が立ち、身震いしていた。
「ははは。すごいね、白雪くん。きゃ、とか言わないんだね」赤染が俺の横でクスクスと笑っている。「私だったら言っちゃうなぁ」
「言うわけないだろ」赤染の吐息の勢いがもう少し弱かったら、声を上げていたかもしれない。赤染の肺活力が強くて助かった。
「じゃあ一分間ぐるぐるしたあと割りに行って! よーい、始め!」
「お、おう。わかった」
俺は赤染の合図と共にその場で回り始めた。
二周したところで、胃からなにかが出てきそうになってしまう。
「こんなこと、一分もやるのか?」声を出しただけでも、食べ物が胃から出てきそうになる。
「うん! 多分ね。なんとなくだけど一分だと思う」
「なら五周にしてくれないか?」やっと四周目が終わった。そろそろ意識が飛んでしまう。
「うん! いいよ、五周で」
赤染からの許可が下りると同時に、なんとか回り切ることができた。
頭がふらふらとしていて、真っすぐに立つことすらままならない。
「頑張れ! 白雪くん!」応援団みたいに赤染は声を張り上げた。
「…………」
一歩前に踏み出すたびに体のバランスが崩れる。目隠しをされているせいで、自分が真っすぐなのかもわからないし、どこにいるのかもわからない。俺の知るスイカ割りだと、外にいる人はスイカを割る人に向かってアドバイスする、あるいは嘘を言うはずだったが、赤染はさっきから、頑張れ、頑張れ、としか言ってくれない。それに、歩く体力すら残っていない俺は、赤染に場所を教えてくれ、と頼むことすらできない。
……これではスイカ割りの意味がない。
時間の無駄だ。
そう思い至った俺は、あばらに気をつけながらも全身を脱力し、意識を失ったかのようにその場で倒れた。
「白雪くん?!」
赤染は大声を出すと、俺のもとに走ってきた。
「どうしたの?」赤染は、俺の視界を遮っていたタオルを解く。「もしかして気持ち悪くなった? 立ち上がれそう?」
「悪いな。体が貧弱で」目を開けると、赤染の顔が間近にあった。これから人工呼吸でも始まるかのようなポジションだ。「顔が近いぞ」
「ごめん」
「スイカ割りって、スイカのある場所を伝えないのか」
「んー、どうなんだろう。やっぱり伝えるのかな」
「伝えないと辿り着けない……」
「そんなに難しいの!」好奇心に満ちた顔を赤染は浮かべた。
「難しいに決まってる」
「じゃあ次、私の番だね」
赤染は立ち上がると、「起き上がれる?」と手を差し出してきた。
「なんとか大丈夫そうだ」
世界が回ってみえるせいか、気分が悪くなってくる。
赤染の手は借りず、自力で立ち上がったあと俺は、「はい、これ」と言い、右手に持っていた棒を赤染に渡した。「目隠しをするから海の方に体を向けてくれ」
「わかった!」と言うと赤染は、訓練兵みたいに、機敏に動いた。
「……なあ」
「んん? なに?」顔だけを俺の方に向けてきた。
「……やっぱりなにもない」
「なんだ」
そう言うと赤染は、前に向き直った。
今更だとは思うが、どうして赤染は、スクール水着なのだろうか。それも、名前が胸に入っているタイプの。しかもスイムキャップまで被っている。
確かに似合っている。が、ここは学校ではない。一般の人を見てみると、全員、学校とは無関係の水着を着ている。言おうか言わないか迷ったが、やっぱり辞めておいた。本人が気にしていないのなら、構わないだろう。
「目隠しされると、なんだかドキドキするね!」
「そうだな」
「うまく割れるかな?」
「赤染なら割れるだろ」
「ほんとに?!」
「ほんとだ」
よし! と赤染は喜ぶと、「じゃあスタートラインに連れてって」と子供が親にお願いするみたいな口調で言った。
「わかった」俺は赤染の手を掴み、先導しようとした。
「ひゃ」
「どうした」なにか変なものでも踏んでしまったのだろうか。
「いや…… なにもない」いつもの元気な声音が突然、弱弱しくなってしまった。
「じゃあ行くぞ」
「う、うん……」
そこまで力強く引っ張っているわけではないが、もしかしたら怪我している部位でも掴んでしまったのかもしれない。
「悪いな、急に手を掴んで。どこか痛めたか?」
「んん、大丈夫だよ。ちょっとビックリしただけ」赤染は嬉しそうに言った。
「よし、着いたぞ」俺は赤染の手を放した。
「ぐるぐる回ってスイカを割ればいいんだよね?」
「そう。回ってから真っすぐ歩いて、あとはスイカを割るだけだ」
「白雪くんはどれくらい回って欲しい?」
「回りたいだけ回ればいい。どれくらい回りたい」
「じゃあ……五十周くらい?」真顔で赤染は言った。
「そんなに回ったら吐くぞ」俺は二周しただけで吐きそうになってしまった。
「大丈夫だよ」
赤染は微笑むと、まるでここが、スケート場かのように回り出した。
ふつうなら棒を軸にして回ったり、足をちょこちょことさせながら回ったりするはずだが、赤染は右足で爪先立ちになると、左足で勢いをつけて一気に回り出した。コマみたいに回り続ける赤染は、楽しそうな声を上げている。
「あと四十周するから待ってて!」何事もないかのように言うと、赤染は再び左足で回転に勢いをつけた。赤染の体を支えている爪先がドリルみたいになっている。
「……あとどれくらいだ」回転が速すぎて、途中から数えられなくなってしまった。
「五、四、三、二、一、終わった!」
赤染はふらりともせずまっすぐに立つと、
「はあ!」
と言い、十メートルくらい先にあるスイカに向かって走り出してしまった。
体幹が少しもブレることなく赤染は、スイカのところまで辿り着くと、「いくよ!」と声を張り上げ、棒を頭の上に振り上げた。
「……」
——またスイカが悲惨な形になる。
そう思い、俺は手で目を塞いでしまった。
が、スイカの悲鳴が聞こえなかった。
おかしいな……
と思い、目を塞いでいた手を退かすと、赤染がスイカの前で倒れていた。もちろんスイカは傷跡一つもなく、無事に生存している。
「赤染」
きっと、回り過ぎて俺みたいに酔ってしまったのだろう。
アホなことしたな、と思いながら俺は、気を失ったかのように倒れている赤染の下に向かった。
「……赤染?」俺は赤染の目を覆っているタオルを解いた。「大丈夫か?」
「……」
反応がなかった。
目は閉じたままだ。
「おい、赤染。どうしたんだ?」
「……」
「おい、赤染」
体を揺すり、起こそうとしてみるが反応はなかった。
悪い予感がする。
呼吸はしているが、それ以外の動きがまったくない。熱中症だろうか。
そうなら迅速に対応しないと命に関わってくる。
迅速に対応するためにも、ライフセーバーを呼ぼうとすると、
「は!」
と、赤染は、悪い夢から目が覚ましたかのような声を出した。
目は開いているが、起き上がろうとはしてこない。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
よいしょ、と重そうに体を起こすと赤染は、「最近、多いんだよね。こういうの」と言った。
「急に倒れることがか」
「そう」俯きながら応えると、「充電が切れたみたいに、ぷつんって、倒れちゃうんだよね。いつもなら一瞬だけ、意識が飛んで終わりなんだけれど……」
悪化した。
と、赤染は言いたいのだろう。
でも赤染は、言わなかった。
「病院には行ったのか?」
「まだ。今まではめまいみたいな感じだったんだけどね。初めてだよ、気を失ったのは」
大丈夫だと自分に言い聞かすかのように、赤染は笑顔を作った。
「もしあれだったら、今からでも」
「それだけは大丈夫だよ。うん、大丈夫!」赤染はすっと立ち上がり俺の顔を見ると、「また泳ぎに行かない?」と誘ってきた。
「俺はもう限界だ。動けそうにない。泳ぎたかったら海に行っていい。休憩してるから」
「そっか…… うん、わかった! 少し遊んでくるね」
ついさっきまで意識を失っていたはずなのに、赤染は走ると、海のなかへ飛び込んでしまった。あの元気は、いったいどこから来るのだろうか。
赤染は元気そうに振舞っているが、ほんとうは病気を患っているのではないか、と思ってしまう。赤染が目を覚ましたとき、不安を誤魔化そうとして急に笑顔になったのが脳裏から離れない。そんなことを考えていると、あの日の帰り道、紅野に言われたことがふと蘇ってくる。
赤染は人間ではない、と。
人造人間だと。
紅野は言っていた。
——そんなことはありえない。
仮に人造人間だとしても作った目的が見えてこないし、それに紅野は、赤染と距離を置け、みたいなことを言っていた。つまり、紅野が言っていた、赤染は人造人間だ、と言ったのは、俺を単に驚かせるための作り話、となる。他に答えが見つからない。
俺は空を見上げたあと、赤染に目をやった。
赤染は楽しそうに遊んでいる。しかもなぜか、知らない人たちと打ち解けて遊んでいた。
「——はははは」
どうしてだろうか。
自然に笑みがこぼれてきた。
赤染が遊んでいる姿を見ているだけなのに、気分が高揚してしまう。
いつもの俺なら、誰かが遊んでいるのを見てもなにも感じないし、それがもしも無理矢理に見せられているのだとしたら、勉強したい、と思うことだろう。
けれども、それがない。
見続けていたい、と思ってしまうのだ。
心が癒されてゆくのを感じながら俺は、砂浜で一人座り、赤染が海で楽しそうに遊んでいる姿を眺めた。
気が付いたら日は沈みかけていた。海が茜色に染まっている。
海で泳いでいた人たちはいなくなり、砂浜で遊んでいた人も、いつの間にか指で数えられる程度の人数になっていた。
「あー、たくさん遊んだ」
水着から私服に着替えた赤染は、俺の隣にゆっくりと腰を下ろした。
「スイカ食べるか」どうせ家に持ち帰っても食べきれないだろうから切っておいた。
「うん! ありがとう!」
がぶり、と噛みつくと、赤染の頬が砂浜に落ちてしまいそうになった。たくさん動いたあとのスイカが美味しいのだろう。あっと言う間に一つ食べきると、紙皿の上に置いてあるスイカを素早く取った。
「水っぽくて美味しいね」顎が外れてしまうくらいに赤染は、口を大きく開けてスイカにかぶりつく。「うんうん、水っぽい」
「美味しいな」水っぽい、のニュアンスが違うような気がするが、そのまま流した。
「これ食べたら潜水してこようかな」
「もう着替えただろ」
「あっ、確かに。じゃあ辞めておくか」
赤染は苦笑すると、ブルーシートの上で寝転がった。
「ごめんね、今日。急に遊ぶ予定にしちゃって」
笑うこともなければ、申し訳なさそうな顔をするわけでもなく、赤染は空をぼーっと見ながら呟いた。
「気にするな。俺も楽しかった」
「え、ほんとうに?!」赤染は飛び起きると俺の顔をまじまじと見つめた。
「ほんとうだ」
「それならよかった」
赤染は嬉しそうに笑うと、足を伸ばし、手を後ろについて、夕日を全身で浴びるかのように座った。遊びすぎて疲れ切ったのか、赤染の表情がいつもよりもおっとりとしていた。
「明日から、また頑張らないとね」
「……そうだな」赤染は勉強のことを言っているのだろう。
「よし、やっぱり楽しまなくちゃね。もったいない」
赤染は、瞬く間に気持ちを切り替え、笑顔になった。
「…………」
「……んん? どうしたの白雪くん」
「……いや、なにもない」
だな、といつも通りに返せばいいのに、俺の口が開かなかった。
嫌なのだろう、日常に戻ることが。
夢が決まっていないのにもかかわらず、受験に向けて頑なに努力する毎日。
父親のようにはならないように、母親には恩を返すために、と努力する毎日。そんな日常に戻りたくない自分がここにいる。
けれども休むわけにはいかない。
でないと、俺の存在価値が、なくなってしまう。
「……なあ、赤染」
「んん?」
俺は、何事もないかのように笑っている赤染の顔を見た。
赤染だって日常に戻るのは嫌なはずだ。
それなのに赤染は、嫌な顔をせず、これから戻る日常を笑顔で迎えようとしている。
「どうして赤染は、そんなにも楽しそうに生活ができる」
一緒に勉強を始めたときからの疑問だった。
苦い顔するどころか楽しそうな顔をする理由が、俺は知りたかった。
「楽しそうか……」
赤染は辛い過去を思い出したように俯くと、
「私ね、高校生からの記憶しかないんだ」
と言った。
「高校生からの記憶しかない…… 事故にでも遭ったのか」
「違う。わからない。でも、気が付いたら私、家にいたの」
赤染は言葉を慎重に選びながら話し続けた。
「でも、学校に行かないといけないってことは覚えてたんだ。不思議だよね。それだけは覚えてるって…… だから私、怖かったんだよ。いつかまた、急に記憶がなくなるって思うと。そのせいで私は、学校生活を心の底から楽しく過ごせなかった……」
打って変わって、赤染は明るい表情になると、「それで会ったんだよ、白雪くんに」と、目を細めて嬉しそうに言った。
「ん、俺か」
「そう、白雪くんだよ」
赤染は俺から視線をずらし、海の方に顔を向けた。
「私、すごいなって思ったの。白雪くんが屋上で生徒を叱ってたの。白雪くんは怖くないのかなって。人って、自分のやりたいことを邪魔されたら怒るでしょ? でも白雪くんは生徒会長として注意した。相手は白雪くんよりも、すっごく体が大きかったのにね。そこで私、思ったの。未来に怯えて生きちゃいけないって。今を頑張って生きないと、てね」
赤染は立ち上がり、沈みかける夕日を見つめた。
「だから私、全力で生きてるの。叶えたい未来に向かって頑張ってるの。行きたくない未来から逃げるんじゃなくて、行きたい未来に向かって生きろって教えてくれたのは白雪くんなんだよ。そんな、私に大事なことを教えてくれた白雪くんが、私は好きなんだ」
海の方に向いていた赤染は、俺の方に振り向き、満面の笑みを見せた。
「あ、ごめんね、長々と話しちゃって。しかも白雪くんからしたら、どうでもいいことだし」
赤染は手を口で塞ぐと、顔を真っ赤にした。
「いや、うれしいよ。そう言ってもらえて」
赤染はそれを聞くと、「え、あ」と戸惑った。「ほんとに?」
「ああ。ほんとうだ。わからなかったことがわかったような気がする」
「……それならよかった」緊張が解けたみたいに、赤染の表情は緩くなった。
俺は今まで怯えて生きていた。
父親のようになってはいけない、と生きてきた。
でも、大事なことは違った。
自分がどうしたいかが大事なんだ。
歩みたい道はなにかを考えるのが大事で、辿り着きたくない道から避けられるような道を選ぶのは違う。進みたい未来があるから、それに向かって生きる、ということが大切なんだ。
前から俺は、赤染とはなにかが違う、と思っていた。
きっと、これが正体だったのだろう。
叶えたい未来のために生きるか、それとも、叶えたくない未来から逃げて生きるか。
だからいつも、赤染は楽しそうにしているのだ。
自分が望む未来に向かって生きているから、歩みたい道を進んでいるから、彼女は毎日が楽しいのだろう。
「……赤染」
「ん? どうした?」
「これからも、よろしくな——」
夕日に照らされている彼女は、誰よりもたくましく、そして、美しく見えた。先の見えない未来に、怯えず、立ち向かっているようにも見える、そんな彼女の姿に俺は、目が離せなかった。
「——うん! よろしくね!」
彼女は俺の顔を見て、笑った。
その笑顔に、俺の強張った表情が、解けてゆくのを感じた。
「あ、そろそろ帰らないとだね」
「だな」
自然と笑みがこぼれてくる。
彼女を見ていると、幸せな気持ちになれる。
これがもしも、恋、というのなら、俺は赤染に、出逢ったときから恋をしていたのかもしれない。
俺は立ち上がり、赤染と一緒にブルーシートを畳んだあと、砂浜を歩いた。
アスファルトの道が見えてきたとき、俺は、なにか鋭利なものを踏んでしまった。痛みが走った場所から血が溢れ出てくる。金を極力出さないためにも、ビーチサンダルはいらないだろう、と思ったが、こういうときに限って、尖ったものを踏んでしまうものだ。
「さすがにこれは、痛いな……」
「大丈夫?!」
赤染はしゃがみこみ、俺の足元を見ると、
「血がたくさん出てるね……」と言った。
珍しいものでも見るかのように、じっと赤染は血を眺めると、犬が匂いを嗅ぐみたいに、顔を傷口に近づけた。ボールペンが一本、入るか入らないかくらいの距離だ。
「あまり顔は近づけない方がいいぞ」
「……」
そう注意したが赤染は微動だにせず、俺の傷口を眺め続けた。
「どうしたんだ? 赤染」
「……」
なにをしたいのか、と思いながら見ていると、赤染は更に、ゆっくりと傷口に顔を近づけた。このまま止まらなかったら、赤染の唇が傷口に触れてしまいそうだ。
「おい」足を引っ込めながら、語気を強めて俺は赤染を止めた。
赤染は目を覚ましたかのようにぱっと顔を上げると、俺を見上げた。寝ているところを邪魔されたかのように、赤染は戸惑っていた。
「どうしたんだ? 赤染」
「あっ……」
赤染は黙り込み、誤魔化すような笑顔になると、「傷口が深いから、どれくらい深いのかなって」と言い、立ち上がった。「ごめんね。ジロジロ見ちゃって」
「そんなに傷口、深かったか?」
「う、うん。まあね。ばんそうこう、貼った方がいいかも」赤染はハンドバックを漁り、ばんそうこうの箱を取り出すと、俺に渡してきた。「全部、使って」
「全部は使わないけど、ありがたく貰うよ」
ばんそうこうを箱から一枚だし、足裏の傷口にぺたりと貼った。
「待たせて悪かったな。じゃあ帰るか」
「……うん」俯きながら赤染は返事した。声がいつもと違って、落ち込んでいた。
「どうした?」「いや、なにもないよ! うん、帰ろう……」
赤染は歩き出すと、
「思い出話でもして、帰ろ」
と、郷愁の念に駆られているような顔で、そう言った。
今日で白雪くんと帰るのが最後になる、と考えると、胸が締め付けられて、泣き崩れてしまいそうだった。けれども、そんなことをしたら、白雪くんが心配してしまうから、私は泣きたい気持ちを必死に抑えて、白雪くんと一緒に帰った。
帰り道の思い出話、すごく楽しかった。
白雪くんが車に轢かれそうになったところを私が助けたこと。
それを白雪くんは、私が前方不注意で衝突してきた、と勘違いしていたこと。
今思えば、あの出来事がなければ、私と白雪くんは一緒にいられなかったのかもしれない。
どうして白雪くんは、あのときの勘違いに気が付いたのかは知らないけれど、もしも白雪くんに、その勘違いを指摘してくれた人がいたのなら、私は感謝してもしきれない。私と白雪くんを結んでくれたその人には一生、顔が上がらないだろう。
そこから私と白雪くんは一緒にいる時間が多くなった。
笑って、笑って、笑って。毎日が楽しかった。
ほとんど私しか笑っていなかったかもしれないけれど、やっと今日、白雪くんは初めて、私に笑顔を見せてくれた。嬉しかった、ほんとうに。やっと、本心を見せてくれたって。
白雪くんはいつも、辛そうな顔しかしていなかった。
人生を苦しんでいるだけで、ちっとも楽しんでいないように見えた。
初めて一緒に勉強したとき、あまりにも人生に絶望しているような顔をしていたから、私は笑わそうと、友だちから教わった顔芸で挑んでみたけれど、白雪くんには効果がなかった。あれは失敗したなと思う。
でも、今は違う。
呪いが解かれたかのように、笑うようになった。
「じゃあな、赤染」
白雪くんは手を振った。
それも今までと違って、楽しかったよ、と伝えるように手を振っている。
「……じゃあね、白雪くん」
私も白雪くんと同じように、楽しかったよ、と手を振る。
もっと、このときが早かったら、どれだけ楽しい生活を送れたかと思う。
そう思っても、この日常は二度と、戻ってこない。
戻したくても、戻してはいけないのだ。
だって、
私は、人間じゃないから——
今日、私は気が付いてしまった。
白雪くんが血を出したとき、私は、今まで家に届いていた栄養ドリンクと同じ匂いだと思った。色は違うけれど、白雪くんの血を嗅いだとき、美味しそうだな、と思ってしまった。だから私は、どれだけ食べものを食べても、なにかが足りないような感じがしていたのだ。胃袋に食べものが溜まるだけで、食欲が満たされなかった理由はそうだったのか、とわかってしまった。
最近、私の家に血が届かなくなって、飲める量が減ってきているからか、食欲が増してゆくばかりだ。私のせいで、もしも人を殺してしまったら、と考えると身震いせずにはいられなかった。仲のいいクラスメイト、白雪くん、紅野さんを殺してしまう私を想像すると、頭が壊れてしまいそうだった。
最後の分かれ道、私は白雪くんの後ろ姿を見続けた。
もう一人の自分を押し殺しながら、私は、白雪くんの姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くした。最後の最後まで私は、白雪くんの姿を目に焼き付けるように見た。
「……行っちゃった」
暗いところでも明るく見える私の目でも、彼の姿がとうとう見えなくなってしまった。
「やだよ……やだよ……」
涙が溢れ、私はその場で崩れ落ちた。
別れの言葉なんて言えなかった。
今までありがとうって伝えたくても、私は言えなかった。
白雪くんを心配させてしまうのだけは、嫌だった。
せっかく笑顔になった白雪くんを不安にさせるのだけは嫌だった。
「……でも、白雪くんからしたら、私って、特別じゃないもんね……」