やっと期末試験の一日目が終わった。試験問題が例年と違い、大学入試に近い難易度の設問があって驚いた。が、なにより、俺にとっての一番の驚きは赤染が始業時刻に間に合ったことだ。朝からいったい、どれくらいの距離を走ったのだろうか。簡単に計算すると約三十キロになる。完全に人間離れした体力だ。登校でフルマラソンに近い距離を走るなんて、近代文明を完全に忘れている。
 ホームルームを終えてから帰り支度を整えていると「白雪、飯に行こうぜ」と結城が誘ってきた。「昼飯、持っていないんだよな」
「わかった」そう言えば、冷蔵庫に食材が無かった。
「やっぱり今日も無理かって、え、いいの?」
「ああ」
「どうしたんだ白雪。お前は俺の知っている白雪じゃない」
「俺は白雪だ」
「結城はどこに行きたい」
「あー。そうだなぁ。まさか誘いに乗って来るとは思わなかったから」
「なら誘うなよ」
「理不尽過ぎるだろう。じゃあ、あそこの芹麵(せりめん)でいいか?」
「ああ。わかった」
 久しく行っていなかった。初めて行ったのは、ここに入学した頃だろうか。
 結城が担任に、どこか美味しい店はありますか? と訊いたら、その蕎麦屋の名前が出てきたらしい。店長の苗字である芹沢から店の名前ができたらしい。
「よし、じゃあ行くぞ!」
「だな」蕎麦屋でテンションが上がる学生を初めて見た。
「——ねえ。白雪くん」
「ん」
 と、横を見ると、そこには赤染が立っていた。
「どうした、赤染」
「お願いしたいことがあるんだけど……」
 赤染は俯き、なにか言い難そうな顔をすると、
「今日の放課後も、一緒に勉強、できない、かな?」
「すまない。このあと結城と飯に行くから」罪悪感があった。
「あっ。そうだよね。うん……わかった」
 そう言うと赤染は、「じゃあね」と小さく手を振り、教室から出て行ってしまった。
「——この、バカ野郎!」
 その言葉が聞こえたとき、俺の頭になにかが落ちてきた。
 拳だ。
 それもわざと、骨の部分を当ててきた。
「いって。なにするんだよ」
「なにするんだよって。俺からしたらお前こそなにしてるんだって言いたいね!」
「なんで急に……」なにか俺は、間違えたことでもしたのだろうか。結城との約束が先だったから守っただけなのに。
「まあいい。もう終わったことだしな。行くぞ、芹麵に。そこで説教だ」
 結城は呆れたようにため息をつくと、颯爽に教室から出て行ってしまった。

 学校から出て、四十分くらい歩いたところにある芹麵に到着した。
 地元の人しか知らなそうな立地にある芹麺は木造建築で、なかには十五人くらいしか入れなさそうな小さな店だ。昼時から時間帯がズレているからか、俺ら以外の客は二人しかいなかった。
 芹沢さんらしき人に、二人です、と伝えたあと、俺と結城は藍色の座布団に座った。
 窓際にある風鈴の音を聞きながらメニュー表を見て、俺はこれといった特徴のない、せいろ蕎麦を、結城はボリュームのある鴨せいろを頼む。
 結城は氷と水が入ったコップを手に取り、そのまま喉に流し込むと「もったいないことしたな、白雪」と言った。
「なにを」
「どう考えてもしただろ! お前が誘いを断った赤染は評判がいいんだぞ?」
 どうして赤染が白雪を…… と、さりげなく、人が傷つく言葉を結城は付け足した。
「なんだよ、その言い方」
「だって今朝、赤染から俺宛に連絡が来たんだぜ?」
「赤染から結城にか」
「そうだ。『いつも何時に学校来てるの?』ってきたから、『七時半くらいかな』って送り返したんだよ。だから俺は期待したんだ。もしかしたら一緒に登校できるかもって。でもそのあと、『ありがとね!』、で終わったんだよ。なんのために赤染は、俺に時間を訊いてきたのか、さっぱりわからねえ」結城はお手上げとでも言いたげに頭を掻いた。
「……」
 俺は今朝、赤染と鉢合わせた。で、赤染は俺に、一緒に学校へ行こう、と誘ってきた。
 これだと話しの筋が合わないし、結城に時間帯を訊いた意味がない。
「まあ別にいいんだけどさ。俺はもう恋愛する気はないし」
「もう好きな人は作らないのか。前はお姉さんタイプが好きだとか言ってたけれど」
「あー、あれか。紅野が好きなわけじゃないよ。赤染か紅野なら紅野ってことだ」
「食堂にいたとき、じっと見つめてただろ。俺には好意があるようにしか見えなかったけど」
「ははははは!」
 結城は可笑しそうに笑うと、「違うよ白雪。あれは昔にあったことを思い出してたんだよ」
「……あ、あれか」
「そう。だから俺は、恋愛する気はない」
 と、目を澄まし、断言した。
 なにを言われても意見は曲げない、そんな力を結城から感じた。
「……悪かった」
「おいおい、頭下げるなって。白雪はなにも悪くないだろ。悪いのは俺の方だ」
 この場の雰囲気を和まそうとしているのか、結城は笑顔を作った。
 あの日の結城に、俺はなにも言葉をかけてやれなかった。
 あれは前々から予想はできていた出来事だった。結城が幸せな道を進めるだなんて思っていなかった。けれども俺は、止めなかった。結城の好きなようにやらせてしまった。
 あれは友だちとして言うべきだったのか。
 それともあれで、正解だったのか。
 経験の少ない俺には、なにもわからなかった——
「お待たせしました。せいろ蕎麦に鴨せいろ蕎麦」
 気まずくなった空気を裂くように、芹沢さんは横から蕎麦を持ってきた。
「ありがとうございます」結城は笑顔で応えると、「残り半年で、この学校ともおさらばだな」と言った。結城は箸を割り、いただきます、と言うと、蕎麦をすすり始める。俺も箸を割り、蕎麦を口のなかに運んだ。
「そうだな」
「楽しかったか、この三年間は」
「……ふつうだ」
「事情は知っているけど、真面目過ぎるのもほどほどにしておけよ? 俺の両親より真面目な人はお前くらいしかいないからな」
「なら俺は、教師に向いているのか」
「子供が可哀そうだからやめておけ」
「遠回しに傷つくことを言うな」
「はははは。悪い悪い。白雪を弄るのが楽しくてよ」結城が悪ふざけする子供にしか見えない。
「まあ。自分が後悔する選択だけはするなよ。いくら嘆いても、時間だけは戻らなかったからさ——」結城は白い歯を見せ、昔を懐かしむように笑った。

 期末試験直前に、あばらにヒビが入ってしまう災難があったが、なんとかして乗り越えられた。今回の試験は、日頃からの復習が大事だと思い知らされた出来事だった。
「それじゃあ、期末試験の成績を返すよ」
 教卓にいる担任は机の上に置いてある成績表を手に持つと、
「出席番号一番から取りに来て。えー、赤染さん」
「はい」
 教室に会話が飛び交っているなか、赤染は立ち上がると担任のところへ行った。
 担任から成績表を受け取った赤染の顔は渋かった。失敗したのだろう。まあ仕方がない。三日でマスターする方がおかしいのだ。でも、三日間で攻略するのは無理だとわかっていても、赤染の顔を見て悔しがっている自分がいた。
「どうしたんだ白雪。そんな顔しちゃって。なにかあったのか?」結城が俺の顔を覗いてきた。
「いや、なにもない」
「赤染はいつもあんな顔するよな。赤ちゃんがしょっぱい顔しているみたいだ」
 あははは、と結城は笑った。可愛らしいって言いたいのだろう。
 そこからの試験返しでは、自分の点数を見て一喜一憂する人もいれば、自分だけは無関係だと無表情に受け取る生徒もいた。成績表を受け取ったら、今日の授業は終わっているし、担任から帰っていいと指示が出ているが、クラスメイトたちはそれに従うことなく、友だち同士で集まり点数の見せ合いっこをしている。
 数学の問題を解きながら先生に呼ばれるのを待っていると、「じゃあ次はー、白雪くん」と、声がした。
「はい」
 席から立ち上がり教卓に向かう。
 試験終了まで何度も見直しはした。でも、それでもどこかケアレスミスしていそうで緊張する。
「はい、今回もお疲れ様。頑張ったね」
 担任は微笑むと成績表を渡してきた。
 それぞれの教科の点数を確認する。百点は数学だけだった。あとの四教科は九十点台。
「ありがとうございます」
 毎回これだ。
 必ずどこか、間違えている。
 試験の結果に呆れながら、俺は自分の席へと戻った。
 バッグのなかに成績表を入れて帰宅する準備を整えていると、「今回の試験もぜんぶ九十点越えか?」と結城が話しかけてきた。「俺はぜんぶ赤点スレスレだったぜ」
「それは狙ってだろ」
「想像にお任せする。で、どうだったんだ?」
「いつも通りだよ」
「いつも通りってことは……平均九十は超えたか。やっぱすげーな、白雪は」
「まだまだだよ」
「期末試験は終わったし、どうだ? 山登りにでも——」
「行かない」
「相変わらず即答だな」
 結城は誘うのを諦めて苦笑いすると、「さっきから気になってたんだけど、一つ訊いてもいいか?」と、俺の背後に目をやりながら言った。
「どうした」
「赤染はなんで、さっきからお前のことをちらちら見ているんだ?」
「ん、どういうことだ」
「わからないなら振り向いてみろよ。今も見ているから」
 結城の言う通り、俺はさり気なく赤染の方を見る。
 一瞬だけ目が合ったような気がしたが、瞬きした瞬間、赤染は自分の足元を見つめていた。
「嘘だろ」
「ほんとうだってば」言葉を区切ると結城は、「まあいっか。俺の想像が飛躍し過ぎているだけかもしれないし」
「どんな想像してるんだ」
「赤染がお前のことが好き」
「なわけないだろ。前にもそんなこと言ってなかったか」
 前に言われたのは食堂で会話していたときだ。俺が赤染に、謝りに行くときに、結城はそう言った。その結論に辿り着いた理由は自分で考えろ、と言われたのを覚えている。
 結城はなにかを思い出したかのように「あー、そんなのあったなー」と言うと、「あれは冗談で言ったつもりなんだけどな。でも仮に、赤染がお前のことを好きって思っている場合で考察すると、いろいろと納得できる部分があるんだよな」
「なんだそれ」
 結城はミステリー作家にでもなったつもりなのだろうか。
 下を向き、腕を組みながら考え込むと、「噂で聞いたんだけど、ここ一週間くらいか? 放課後、赤染と一緒に勉強していたのか?」
「ああ。そうだけど」
「お前から誘ったのか?」
「違う」
「そうだよな。お前から誘うわけないもんな」結城は口を広げて笑った。「で、俺の考察はここからだ」
「だからなんだ」
「女子とはまともに話さない白雪を赤染は助けた。それで期末試験前に一緒に勉強しようって誘ってきた。それも女子とはまともに話さない白雪に。俺から見たら、命を助けたのは白雪に近づくための口実で、勉強っていうワードでコミュニケーションを取っているようにしか見えないが。どうだ? ふだん女子とはあまり話さず、真面目で優等生の白雪。俺は理にかなってると思うがね」
「どうして女子と話さない部分をそこまで強調する」
 結城の考察は一瞬だけ正しく思えてしまった。
 そう、一瞬だけだ。
 こんな考察、恋愛中毒者みたいなところが多々ある。
「俺からしたら命を懸けてまで口実を作るなんて想像できない。ファンタジーじゃあるまいし。だいたい、結城もさっきから言っているけど、女子と話さないようなやつに恋心を抱く機会なんてないだろ」
「やっぱりそうなるよなー。でも、白雪は学校でも有名だからな、生徒会長だし。少なからず認知はされているだろうよ」
 結城は机に置いてあるバッグを背負うと、「悪いな、時間取って。ついつい口走ってしまった」
「気にしないでいい」
「じゃあ俺は、夜空眺めにでも行ってくるか」
「今日も夜中に忍び込んで屋上か」
「違う違う。今日は山の頂上さ」
 そう言うと結城は、俺に背を向けて教室を出て行った。
 最近、結城と話す内容が偏っている気がする。
 ここ最近だ。赤染について話す機会が増えたのは。
 前から女子について話す機会はあったが、そのほとんどがあの人って可愛いよな、あの人は奇麗だよな、みたいな、そんなレベルの話しだった。その会話の中心は結城で、ほとんど俺は口を開いていないが。
 そんなことを思いながら俺は教室を出た。
 
 そろそろ夏休みだ、と生徒たちが騒がしくしている廊下を一人で歩く。大きな足音を立てながら俺を追い抜いてゆく生徒を見て、曲がり角で人と衝突したらどう責任をとるのだろうか、と考えながら、今日も家に帰ったら大学入試に向けてなにをするかを考えていると。
「——待って! 白雪くん!」
 後ろから声がした。
 振り返り見てみると、そこには荒い呼吸をしている赤染がいた。
「どうした」
「…………」
 時間が止まったかのように赤染は、俺をじっと見たまま動かなかった。
 いつもと雰囲気が違う赤染。
 なにか言いたそうだけど口を開かない赤染。
 ——俺を見て、なにを考えているんだ?
 そう思った瞬間、赤染は真剣な表情で、
「今日、このあと、話したいことがあるの……」
 だから六時に、屋上に来てくれる? 待っているから——