家に帰ったあと俺は、結城から着信があったことに気が付いた。寝る前に何度かかけ直したけれども返信がなかった。どうした? と、送ったラインも既読が付かない。屋上でまだ寝ているのだろうか。授業開始まで残り三十分だというのに。
「おはよう、白雪」
声を掛けて来たのは結城だった。寝不足には見えない。だが、疲れているように見えた。
「おはよう。よくあんな寒いところで寝れたな」
「布団があれば乗り越えられるよ」寝相が悪い人はどうすればいいのだろうか。確実に椅子から落ちるし、起きた頃には布団がなくて、風邪をひいているだろう。
「昨日の電話、どうしたんだ? 何回もかけ直してきたけれど」
「ああ、あれか」結城は俯くと、「暇だったからだよ」
「夜中に暇だからって、電話をかけてくるやつが身近にいるとはな」
「ははは」結城は苦笑いした。なにか誤魔化しているように見える。
「結城は昨日、幽霊を見たか?」
「幽霊? 俺は見てないけれど……」
「そうか」
「どんな幽霊だったんだ?」結城が心配しているようにも見える顔で訊いてきた。答えによっては真剣に話をしなければならないと目で伝えてくる。思い当たる節は毛頭ない。だから俺は、
「赤染が教室にいたんだよな」
と素直に伝えた。
「……」
「でも、瞬きしたらいなくなってたんだ」
目を開けたら、入れ忘れられた椅子に、開けっぱなしの窓しかなかった。まるで姿を見られたくないからと、外に逃げ出したかのように。
「……白雪」「ん? どうした?」
「ほんとうに、赤染を見たんだな」声を低くして同じ質問をしてきた。
聞き逃したのかと思い、もう一度同じことを言おうとした。が、いつものおちゃらけた雰囲気が少しもなく、見てはいけないものを見てしまったのかと、赤染を見たのは冗談だと言ってくれと、そんな思いが伝わって来た。
「ほんとうだけど……どうした?」
質問の糸が汲み取れなかった。
結城はため息をつき、誰かを探すように教室を見渡すと、「白雪、外で話したいことがある。時間を貰ってもいいか?」と余裕のない顔で言った。
「外で?」
「そうだ。ここじゃ、ダメだ」結城の必死な顔に圧力を感じる。
「……ああ、別にいいけど」
「じゃあ行こう。時間がない——」
そう言うと結城は、颯爽に教室を出て行ってしまった。
「そんなに慌てて。急にどうしたんだ?」
「昨日の帰り、お前は軍人を見たか?」命でも狙われているかのように、結城の話し方には余裕がない。「それとも見てないのか、どっちなんだ、白雪」
「まずは落ち着け、深呼吸でもしろ」このまま話していたら、結城の呼吸がもたなそうだった。昨日までは平然としていたのに、いったいなにがあったというのか。
気持ちが落ち着いてきたのか結城は、「悪かったな」と謝ると、申し訳なさそうに俯いた。
「気にするな。赤染の霊を見たのは確かだけど、それがどうしたんだ?」
「やっぱりそうか——」
結城は苦い顔を浮かべる。俺の返答を恐れていたかのような表情だ。
結城は改まるように深呼吸をすると、「これからする話をよく聞いて欲しい。俺のためにも、そして、お前のためにもな——」
「ああ。どんな話だ?」
結城は心を落ち着かせるように目を閉じる。
そして、深刻な事態に巻き込まれたかのような顔つきになると、
「昨日、お前が帰ったあと、赤染と軍のやつらが殺し合いをしたんだ——」
「……え?」真顔で冗談を言っているのだろうか。だとしたら、将来は役者になれるだろう。そう思ってしまうくらいに突拍子もない話題だ。けど、結城の硬直した顔は崩れず、微動だにしない眼差しを俺に向けてきている。
「信じなくても構わない。ただ、頭の片隅に入れておいて欲しいんだ。なにかあったときのために。俺たちが殺されないために……」
人が死んでしまうような悲惨な光景を見たのだろうか。結城の顔色は悪く、今にも倒れてしまいそうだった。「それで、赤染の方が勝ったんだ。軍のやつら、二十人くらいか。そいつらを全員、食ったんだよ。赤染が……」
うえっと。吐き気がしたのだろう。
結城は両手で口を押さえると下を向いた。
「おい、大丈夫かよ」
信じられない話だが、結城が冗談を言っているようには思えなかった。
「ああ、大丈夫だ。悪い……」
「生き残りは誰もいないのか? それに、殺す、じゃなくて、赤染は食ったのか? それも軍人を……」
「そうだ、食ったんだ。それに——」
結城は目を逸らすと、
「紅野がいたんだよ。軍の方に。あいつは死んでない。今も生きてる……」鬼に恐れている子供みたいに、怯えた声でそう言った。「どうして、あんなやつが、俺たちのクラスにいるんだよ……」
「紅野? どうしてここで——」
「はは、アイツは人間じゃない。鬼だ。人の顔をした鬼だ。俺も殺されるかもしれない。アイツらみたいに、エサにされるかもしれない。ここで死ぬのなんて、それだけは御免だ」
恐怖を植え付けられたような顔をしている。今にも壊れてしまいそうだ。
「大丈夫だ、結城。紅野は今、ここにはいない」
結城の怖気づいた目に視線を合わせて、紅野はここにいないから大丈夫だと言い聞かせた。お前を殺すような人はいないと、緊張している体を和らげるように囁いた。
「……そうだな。それなら、よかった……」安心しきっているわけではないが、動揺が少しだけ納まったような気がした。
「これがもしも、世間に発覚したら日本はつぶれるだろう。日本がつぶれたら、やつらにとっても不利益しかないはずだ。だから慎重に物事を進めてくる。目撃されたら銃口を向けてくるくらいにな……」結城は目を鋭くして俺を見る。「だから、この島に滞在する残りの一週間、絶対に赤染と紅野の関係に首を突っ込まない方がいい。殺されるかもしれない。これは、俺からの警告だ。もしも紅野に、赤染を見かけたか、みたいな質問をされたら絶対に見てないって答えろ」
いいな、と。
結城は俺に、念を押した。
「…………」
すぐに返答できるような内容ではなかった。
前の俺なら迷わず、結城の意見に従っていただろう。
だが、今の俺は、違う——
「悪いが結城の意見には賛同できない」
「白雪……」
「俺は、大切な人を見殺しにはできない」
きっと結城は、ほんとうにあったことを話しているのだろう。
昨日の夜、赤染と軍の人たちが殺し合ったこと。
赤染が軍の人たちを食べたこと。
そして紅野が、軍の方にいたこと——
話が物語のようだ。まるで、全てが初めから予定されていたかのように。
あの日の帰り道、紅野は俺に、忠告してきた。
——赤染とかかわるな。後悔するのはお前だ、と。
あれは、俺を巻き込まないための言葉だったのだろう。
今思えば、不可解なことがたくさんあった。
赤染が発送先も知らない飲みものを飲んでいたこと。暗闇のなかでも、日が出ているように辺りが見えること。人とは思えない異常な体力を持っていること。そして、そんな赤染を遠くからずっと見ている紅野。
紅野がいつも、赤染の近くにいたのは監視をするためだったのかもしれない。赤染の身近にいることで、うまく実験が進んでいるのかを観察していたのかもしれない——
「それでも俺は、会いたいんだ。一緒に、居たいんだ——」
これこそ、飛んで火に入る夏の虫だろう。
俺が首を突っ込んで、どうこうできる問題ではないのは誰にだってわかる。
でも。
それでも俺は、赤染愛夜、彼女を救いたいんだ。
俺の人生を変えてくれた人。
人生は、歩みたくない道から逃げることじゃない。
歩みたい道へ進んでいくことが大事なんだって。
そう教えてくれた彼女を、俺は、救いたいのだ——
「バカなことを言ってるって自分でもわかる。けれど、大切な人を救いたいって気持ち、結城なら、わかるだろ?」
「…………」結城は黙り込むと、「ははは」、と笑い出した。可笑しいものでも見ているかのように、結城は笑った。
「なにが可笑しいんだよ」
「いやいや。まさかお前が、ここまで赤染のことが好きだったとはな」
「好きじゃ表せない。俺にとって赤染は、人生を変えてくれた人なんだ」
「そっか……」
にやり、と。
結城は口角を上げると、
「行くまでとことん行ってこい。満足するまで抗ってこい。大事なのは自分に忠実になることだ。ほとんどのやつらは、見えない未来に怯えて安全な道を選んで行く。
でも、それは間違いだ。この世に安全な道なんてどこにもない。勉強をすれば安全な道に行けるかって? それは違う。勉強すれば安全な道に行けるなんて、それはその道を突き進んだ人への冒涜だ。その人たちは、二度と戻ってくることのない時間を犠牲にして、掴み取ったんだ。自分の望む未来を。安全な生活をな。人生をかける覚悟がなければ、安全なんて手に入らないだろう」
結城は微笑み、最後に言った。
「そんな、人生の成功者って言われているやつらに共通することはなにか——
それは、自分に素直なところなんだ。そいつらが最期に笑って死ねるのさ。って。日葵がそう言ってた」
「お前の言葉じゃないのかよ」
「もちろん。俺の頭じゃ、こんな言葉は出てこない」
あはははは、と。
俺と結城は二人で笑い合った。
俺たちはほんとうに馬鹿だなと、そう言い合った。
一週間後に行われる卒業式に向けて、今日は卒業式の進行の流れを確認する時間が放課後に設けられた。体育館が業務用ストーブに温められ、先生の話を真面目に聞いている生徒がいるなか、体を揺らしながら寝ている生徒もいれば、仲のいいクラスメイトと会話している生徒もいた。本番で緊張しないためにも、演台で自分が答辞を読んでいるシーンをイメージしながら、俺はこの時間を過ごした。
卒業式練習が終わり、次々と体育館を出てゆく生徒を見ながら、俺も下校する準備を早々に整え、正門へと向かう。友だち同士で帰っている生徒が多いなか俺は走った。早く行かなければならないと思ったからだ。赤染の安否が心配で、平静ではいられない。
「——あら? どうしたの? そんなに慌てて」
尾行されていたのだろうか。
帰り道、いつも赤染と別れる場所で、後ろから紅野に声を掛けられた。
「用事があるから急いでるんだ」
「ふーん」不気味な笑みを紅野は浮かべた。「もしかして、赤染さんの家に行くのかな」
紅野の言葉を聞いて、俺は確信した。
今朝、結城が嫌な夢を見て精神的に不安定だったのかもしれない、という可能性もあったが、その可能性は完全に抹消された。紅野は昨夜、ほんとうに赤染を殺そうとしたのだろう。赤染と戦争をした、と結城は言っていたが、その様子がまったく窺えない。傷跡が一つもないのだ。
「その様子だと、私の予想は当たってたみたいね」
「お前は俺に、辞めておけ、とでも言うのか? お前に都合が悪いことでもあるのかよ」
紅野は知っているのだ。俺が昨夜の出来事を知っていることを——
そうでなければ話しかけてこない。紅野はどこかで、結城と俺のやり取りを見ていたのだ。
ふつう、機密事項を知られたら、外に情報が漏れないように、と俺を暗殺してきそうだが、そうではないらしい。
「違うわよ」紅野は首を小さく振り、「都合が悪かったら、とっくに白雪くんなんて捕まえてるわよ」と微笑んだ。「その気になれば、いつでも白雪くんなんて殺せるんだから——」
平気で物騒なことを言う。心臓が締め付けられ、体が逃げろ、と命令してきた。が、俺は立ち止まり、紅野を睨みつけた。気持ちで負けたら、二度と立ち向かえそうにない。
「世間にバラされるのは怖くないのか」
人間兵器を製造している、と世間の人たちが知ったら、紅野にとって不都合だろう。職を失うのはもちろん、これから先、どこにも就職できないのは容易に想像できる。だが紅野は、昨夜の出来事を知られているのにもかかわらず、結城に手を出すわけでもなければ、俺に手を出すわけでもない。弱みを握られているはずなのに、隠蔽しようとする素振りすら見せない。
「まったく、怖くないわ」
「はったりだろ」
「そんなわけない。白雪くんも知ってるでしょ? 証拠がなければ誰も動かないって。一般人が犯行現場を見たからって、それが決定的な証拠にはならないってね」
だって、
と。
紅野は薄気味悪く笑う。
「結城くんのスマホはここにあるから」
紅野は胸ポケットから、結城が最近買ったばかりのスマホを取り出した。
「……」
「あれ? どうしたの? さっきまで、あんなに勢いがあったのに」
「……そのスマホ、いつ結城から奪った」
「いつって……」思い出す素振りを見せ、「昨日の夜だけど」
「お前、結城になにをした」
「体に傷をつけるようなことはしてないわ。誰かいないかって、見回りをしてたら、たまたま結城くんが屋上にいたから、一緒に儀式を見ただけよ」
「儀式?」
「そう。儀式よ。人類の救世主の誕生を確かめる、大きな儀式。でも、結果はダメだったけれどね——」紅野は俺の理解速度を気にせず、べらべらと話し続けた。「今回の儀式は成功するのか、期待していたのよ。今まで何度も何度も挑戦してきたからね。けれど赤染愛夜は失敗作だった。食べちゃったのよ、人間を。お腹が空いたからって理由で。食べなければ死んでしまうような飢餓状態でも、理性を保てられるように赤染さんを造ったんだけどね。だからまた、作り直さないといけない」
「……」
「白雪くんもわかるでしょ? お腹が空いただけで人を食べる人造人間がいたら危ないって。そんな人造人間がいたら、みんな死んじゃうわよ」
「……」
紅野のような人間を狂人と言うのだろう。
紅野の考えを俺は理解できる気がしない。しようとも思わない。人の心を持っているのであれば、誰もそんな思想に辿り着かないだろう。
紅野は作り直さなければならない、と言っていた。赤染が失敗作だとも言っていた。赤染は失敗作なんかではない。一人の人生をいい方向に変えるほどの価値観を持った、正真正銘の人間だ。
そんな赤染を駄作だなんて、許せない——
「だから、いくら白雪くんが足掻いても無駄なんだよ。証拠がなければ権力もない。それに、赤染愛夜は処理しなければならない。暴走したら誰も止められなくなるからね」
「——お前の好きなようにはさせない」
これが精一杯だった。
今の俺にできる、最大限の敵意表明だった。
「赤染も、結城も、滅茶苦茶にしやがって」
「さすが赤染さんの彼氏さん。でも救われない。助けられない——
せいぜい足掻きなさい。赤染愛夜を救うために。そして思い知るのよ、愛は破滅しか生まないって。人間は、愚かなんだって——」
これ以上話す理由はなくなった。
ここで立ち止まっていても、時間が経つだけだ。
紅野が言う通り、俺には権力もなければ紅野をつぶせるような証拠もない。
ただ、勝機はまだある。
紅野は油断している。負けとは無縁そうだ。
それが故に、紅野は情報を漏らしすぎた。
教えてはいけないはずの情報も、包み隠さず俺に伝えた。
必ず俺は、救ってみせる。なにが起きようと、助け出してやる。
輝く未来を手に入れるために、俺は必ず、君を守って見せる——
「おはよう、白雪」
声を掛けて来たのは結城だった。寝不足には見えない。だが、疲れているように見えた。
「おはよう。よくあんな寒いところで寝れたな」
「布団があれば乗り越えられるよ」寝相が悪い人はどうすればいいのだろうか。確実に椅子から落ちるし、起きた頃には布団がなくて、風邪をひいているだろう。
「昨日の電話、どうしたんだ? 何回もかけ直してきたけれど」
「ああ、あれか」結城は俯くと、「暇だったからだよ」
「夜中に暇だからって、電話をかけてくるやつが身近にいるとはな」
「ははは」結城は苦笑いした。なにか誤魔化しているように見える。
「結城は昨日、幽霊を見たか?」
「幽霊? 俺は見てないけれど……」
「そうか」
「どんな幽霊だったんだ?」結城が心配しているようにも見える顔で訊いてきた。答えによっては真剣に話をしなければならないと目で伝えてくる。思い当たる節は毛頭ない。だから俺は、
「赤染が教室にいたんだよな」
と素直に伝えた。
「……」
「でも、瞬きしたらいなくなってたんだ」
目を開けたら、入れ忘れられた椅子に、開けっぱなしの窓しかなかった。まるで姿を見られたくないからと、外に逃げ出したかのように。
「……白雪」「ん? どうした?」
「ほんとうに、赤染を見たんだな」声を低くして同じ質問をしてきた。
聞き逃したのかと思い、もう一度同じことを言おうとした。が、いつものおちゃらけた雰囲気が少しもなく、見てはいけないものを見てしまったのかと、赤染を見たのは冗談だと言ってくれと、そんな思いが伝わって来た。
「ほんとうだけど……どうした?」
質問の糸が汲み取れなかった。
結城はため息をつき、誰かを探すように教室を見渡すと、「白雪、外で話したいことがある。時間を貰ってもいいか?」と余裕のない顔で言った。
「外で?」
「そうだ。ここじゃ、ダメだ」結城の必死な顔に圧力を感じる。
「……ああ、別にいいけど」
「じゃあ行こう。時間がない——」
そう言うと結城は、颯爽に教室を出て行ってしまった。
「そんなに慌てて。急にどうしたんだ?」
「昨日の帰り、お前は軍人を見たか?」命でも狙われているかのように、結城の話し方には余裕がない。「それとも見てないのか、どっちなんだ、白雪」
「まずは落ち着け、深呼吸でもしろ」このまま話していたら、結城の呼吸がもたなそうだった。昨日までは平然としていたのに、いったいなにがあったというのか。
気持ちが落ち着いてきたのか結城は、「悪かったな」と謝ると、申し訳なさそうに俯いた。
「気にするな。赤染の霊を見たのは確かだけど、それがどうしたんだ?」
「やっぱりそうか——」
結城は苦い顔を浮かべる。俺の返答を恐れていたかのような表情だ。
結城は改まるように深呼吸をすると、「これからする話をよく聞いて欲しい。俺のためにも、そして、お前のためにもな——」
「ああ。どんな話だ?」
結城は心を落ち着かせるように目を閉じる。
そして、深刻な事態に巻き込まれたかのような顔つきになると、
「昨日、お前が帰ったあと、赤染と軍のやつらが殺し合いをしたんだ——」
「……え?」真顔で冗談を言っているのだろうか。だとしたら、将来は役者になれるだろう。そう思ってしまうくらいに突拍子もない話題だ。けど、結城の硬直した顔は崩れず、微動だにしない眼差しを俺に向けてきている。
「信じなくても構わない。ただ、頭の片隅に入れておいて欲しいんだ。なにかあったときのために。俺たちが殺されないために……」
人が死んでしまうような悲惨な光景を見たのだろうか。結城の顔色は悪く、今にも倒れてしまいそうだった。「それで、赤染の方が勝ったんだ。軍のやつら、二十人くらいか。そいつらを全員、食ったんだよ。赤染が……」
うえっと。吐き気がしたのだろう。
結城は両手で口を押さえると下を向いた。
「おい、大丈夫かよ」
信じられない話だが、結城が冗談を言っているようには思えなかった。
「ああ、大丈夫だ。悪い……」
「生き残りは誰もいないのか? それに、殺す、じゃなくて、赤染は食ったのか? それも軍人を……」
「そうだ、食ったんだ。それに——」
結城は目を逸らすと、
「紅野がいたんだよ。軍の方に。あいつは死んでない。今も生きてる……」鬼に恐れている子供みたいに、怯えた声でそう言った。「どうして、あんなやつが、俺たちのクラスにいるんだよ……」
「紅野? どうしてここで——」
「はは、アイツは人間じゃない。鬼だ。人の顔をした鬼だ。俺も殺されるかもしれない。アイツらみたいに、エサにされるかもしれない。ここで死ぬのなんて、それだけは御免だ」
恐怖を植え付けられたような顔をしている。今にも壊れてしまいそうだ。
「大丈夫だ、結城。紅野は今、ここにはいない」
結城の怖気づいた目に視線を合わせて、紅野はここにいないから大丈夫だと言い聞かせた。お前を殺すような人はいないと、緊張している体を和らげるように囁いた。
「……そうだな。それなら、よかった……」安心しきっているわけではないが、動揺が少しだけ納まったような気がした。
「これがもしも、世間に発覚したら日本はつぶれるだろう。日本がつぶれたら、やつらにとっても不利益しかないはずだ。だから慎重に物事を進めてくる。目撃されたら銃口を向けてくるくらいにな……」結城は目を鋭くして俺を見る。「だから、この島に滞在する残りの一週間、絶対に赤染と紅野の関係に首を突っ込まない方がいい。殺されるかもしれない。これは、俺からの警告だ。もしも紅野に、赤染を見かけたか、みたいな質問をされたら絶対に見てないって答えろ」
いいな、と。
結城は俺に、念を押した。
「…………」
すぐに返答できるような内容ではなかった。
前の俺なら迷わず、結城の意見に従っていただろう。
だが、今の俺は、違う——
「悪いが結城の意見には賛同できない」
「白雪……」
「俺は、大切な人を見殺しにはできない」
きっと結城は、ほんとうにあったことを話しているのだろう。
昨日の夜、赤染と軍の人たちが殺し合ったこと。
赤染が軍の人たちを食べたこと。
そして紅野が、軍の方にいたこと——
話が物語のようだ。まるで、全てが初めから予定されていたかのように。
あの日の帰り道、紅野は俺に、忠告してきた。
——赤染とかかわるな。後悔するのはお前だ、と。
あれは、俺を巻き込まないための言葉だったのだろう。
今思えば、不可解なことがたくさんあった。
赤染が発送先も知らない飲みものを飲んでいたこと。暗闇のなかでも、日が出ているように辺りが見えること。人とは思えない異常な体力を持っていること。そして、そんな赤染を遠くからずっと見ている紅野。
紅野がいつも、赤染の近くにいたのは監視をするためだったのかもしれない。赤染の身近にいることで、うまく実験が進んでいるのかを観察していたのかもしれない——
「それでも俺は、会いたいんだ。一緒に、居たいんだ——」
これこそ、飛んで火に入る夏の虫だろう。
俺が首を突っ込んで、どうこうできる問題ではないのは誰にだってわかる。
でも。
それでも俺は、赤染愛夜、彼女を救いたいんだ。
俺の人生を変えてくれた人。
人生は、歩みたくない道から逃げることじゃない。
歩みたい道へ進んでいくことが大事なんだって。
そう教えてくれた彼女を、俺は、救いたいのだ——
「バカなことを言ってるって自分でもわかる。けれど、大切な人を救いたいって気持ち、結城なら、わかるだろ?」
「…………」結城は黙り込むと、「ははは」、と笑い出した。可笑しいものでも見ているかのように、結城は笑った。
「なにが可笑しいんだよ」
「いやいや。まさかお前が、ここまで赤染のことが好きだったとはな」
「好きじゃ表せない。俺にとって赤染は、人生を変えてくれた人なんだ」
「そっか……」
にやり、と。
結城は口角を上げると、
「行くまでとことん行ってこい。満足するまで抗ってこい。大事なのは自分に忠実になることだ。ほとんどのやつらは、見えない未来に怯えて安全な道を選んで行く。
でも、それは間違いだ。この世に安全な道なんてどこにもない。勉強をすれば安全な道に行けるかって? それは違う。勉強すれば安全な道に行けるなんて、それはその道を突き進んだ人への冒涜だ。その人たちは、二度と戻ってくることのない時間を犠牲にして、掴み取ったんだ。自分の望む未来を。安全な生活をな。人生をかける覚悟がなければ、安全なんて手に入らないだろう」
結城は微笑み、最後に言った。
「そんな、人生の成功者って言われているやつらに共通することはなにか——
それは、自分に素直なところなんだ。そいつらが最期に笑って死ねるのさ。って。日葵がそう言ってた」
「お前の言葉じゃないのかよ」
「もちろん。俺の頭じゃ、こんな言葉は出てこない」
あはははは、と。
俺と結城は二人で笑い合った。
俺たちはほんとうに馬鹿だなと、そう言い合った。
一週間後に行われる卒業式に向けて、今日は卒業式の進行の流れを確認する時間が放課後に設けられた。体育館が業務用ストーブに温められ、先生の話を真面目に聞いている生徒がいるなか、体を揺らしながら寝ている生徒もいれば、仲のいいクラスメイトと会話している生徒もいた。本番で緊張しないためにも、演台で自分が答辞を読んでいるシーンをイメージしながら、俺はこの時間を過ごした。
卒業式練習が終わり、次々と体育館を出てゆく生徒を見ながら、俺も下校する準備を早々に整え、正門へと向かう。友だち同士で帰っている生徒が多いなか俺は走った。早く行かなければならないと思ったからだ。赤染の安否が心配で、平静ではいられない。
「——あら? どうしたの? そんなに慌てて」
尾行されていたのだろうか。
帰り道、いつも赤染と別れる場所で、後ろから紅野に声を掛けられた。
「用事があるから急いでるんだ」
「ふーん」不気味な笑みを紅野は浮かべた。「もしかして、赤染さんの家に行くのかな」
紅野の言葉を聞いて、俺は確信した。
今朝、結城が嫌な夢を見て精神的に不安定だったのかもしれない、という可能性もあったが、その可能性は完全に抹消された。紅野は昨夜、ほんとうに赤染を殺そうとしたのだろう。赤染と戦争をした、と結城は言っていたが、その様子がまったく窺えない。傷跡が一つもないのだ。
「その様子だと、私の予想は当たってたみたいね」
「お前は俺に、辞めておけ、とでも言うのか? お前に都合が悪いことでもあるのかよ」
紅野は知っているのだ。俺が昨夜の出来事を知っていることを——
そうでなければ話しかけてこない。紅野はどこかで、結城と俺のやり取りを見ていたのだ。
ふつう、機密事項を知られたら、外に情報が漏れないように、と俺を暗殺してきそうだが、そうではないらしい。
「違うわよ」紅野は首を小さく振り、「都合が悪かったら、とっくに白雪くんなんて捕まえてるわよ」と微笑んだ。「その気になれば、いつでも白雪くんなんて殺せるんだから——」
平気で物騒なことを言う。心臓が締め付けられ、体が逃げろ、と命令してきた。が、俺は立ち止まり、紅野を睨みつけた。気持ちで負けたら、二度と立ち向かえそうにない。
「世間にバラされるのは怖くないのか」
人間兵器を製造している、と世間の人たちが知ったら、紅野にとって不都合だろう。職を失うのはもちろん、これから先、どこにも就職できないのは容易に想像できる。だが紅野は、昨夜の出来事を知られているのにもかかわらず、結城に手を出すわけでもなければ、俺に手を出すわけでもない。弱みを握られているはずなのに、隠蔽しようとする素振りすら見せない。
「まったく、怖くないわ」
「はったりだろ」
「そんなわけない。白雪くんも知ってるでしょ? 証拠がなければ誰も動かないって。一般人が犯行現場を見たからって、それが決定的な証拠にはならないってね」
だって、
と。
紅野は薄気味悪く笑う。
「結城くんのスマホはここにあるから」
紅野は胸ポケットから、結城が最近買ったばかりのスマホを取り出した。
「……」
「あれ? どうしたの? さっきまで、あんなに勢いがあったのに」
「……そのスマホ、いつ結城から奪った」
「いつって……」思い出す素振りを見せ、「昨日の夜だけど」
「お前、結城になにをした」
「体に傷をつけるようなことはしてないわ。誰かいないかって、見回りをしてたら、たまたま結城くんが屋上にいたから、一緒に儀式を見ただけよ」
「儀式?」
「そう。儀式よ。人類の救世主の誕生を確かめる、大きな儀式。でも、結果はダメだったけれどね——」紅野は俺の理解速度を気にせず、べらべらと話し続けた。「今回の儀式は成功するのか、期待していたのよ。今まで何度も何度も挑戦してきたからね。けれど赤染愛夜は失敗作だった。食べちゃったのよ、人間を。お腹が空いたからって理由で。食べなければ死んでしまうような飢餓状態でも、理性を保てられるように赤染さんを造ったんだけどね。だからまた、作り直さないといけない」
「……」
「白雪くんもわかるでしょ? お腹が空いただけで人を食べる人造人間がいたら危ないって。そんな人造人間がいたら、みんな死んじゃうわよ」
「……」
紅野のような人間を狂人と言うのだろう。
紅野の考えを俺は理解できる気がしない。しようとも思わない。人の心を持っているのであれば、誰もそんな思想に辿り着かないだろう。
紅野は作り直さなければならない、と言っていた。赤染が失敗作だとも言っていた。赤染は失敗作なんかではない。一人の人生をいい方向に変えるほどの価値観を持った、正真正銘の人間だ。
そんな赤染を駄作だなんて、許せない——
「だから、いくら白雪くんが足掻いても無駄なんだよ。証拠がなければ権力もない。それに、赤染愛夜は処理しなければならない。暴走したら誰も止められなくなるからね」
「——お前の好きなようにはさせない」
これが精一杯だった。
今の俺にできる、最大限の敵意表明だった。
「赤染も、結城も、滅茶苦茶にしやがって」
「さすが赤染さんの彼氏さん。でも救われない。助けられない——
せいぜい足掻きなさい。赤染愛夜を救うために。そして思い知るのよ、愛は破滅しか生まないって。人間は、愚かなんだって——」
これ以上話す理由はなくなった。
ここで立ち止まっていても、時間が経つだけだ。
紅野が言う通り、俺には権力もなければ紅野をつぶせるような証拠もない。
ただ、勝機はまだある。
紅野は油断している。負けとは無縁そうだ。
それが故に、紅野は情報を漏らしすぎた。
教えてはいけないはずの情報も、包み隠さず俺に伝えた。
必ず俺は、救ってみせる。なにが起きようと、助け出してやる。
輝く未来を手に入れるために、俺は必ず、君を守って見せる——