この世界で俺だけが【レベルアップ】を知っている


「――――()()()()()()()()()()



 オーガの首筋に向かって、逆手に握ったナイフを突き立てた。さらに掌底を放つようにナイフの柄頭に左手を押し当て、ずず……とオーガの首にさらに刃をめり込ませる。
 そのまま落下の勢いを乗せて、首筋から喉元まで一気に切り裂いた。

「……ァ……ぇ……?」

 呆けたようなオーガの声。
 なにが起きたのか、まだ理解できていないのだろう。
 それから一瞬遅れて、びゅぅうぅ――ッ! と血が噴水のように弧を描いた。

「……あ……ァ、エ……?」

 オーガは首元を押さえながら、なにか声を上げようとしたらしい。しかし、ぱっくり割れた喉からは、こひゅっ……と空気の漏れる音しか出てこなかった。

 そのまま――ずしんっ! と。
 オーガは自らの血溜まりに倒れ伏す。



 ――――討伐完了だ。



「…………ふぅ」

 そこで、俺はようやく一息ついた。
 ()()()()()の実戦だったが、なんとかうまくやれたようだ。
 魔物や人間たちに隠れてこそこそ鍛錬はしてきたが、やはりレベル1だと思うように体が動かない。このたった数秒間で魔力も底を尽きてしまい、目眩でふらふらする。

(これじゃあ、たしかに……()()()人間じゃ、魔物に勝てないだろうな)

 レベル10のオーガと、レベル1の人間とでは、身体能力に大きな開きがある。その差は10倍をも超えるだろう。
 それに加えて、人間は魔物の管理化にあるのだ。
 どこにいっても魔物の目があるから下手に動けないし、魔法の知識どころか武器となるものも手に入らない。

 まともな刃物を手に入れるのも、このオーガの調理場に入り込むぐらいしか方法がなかった。
 その刃物にしても“物質強化(ミ・ベルク)”の魔法で強靭化しなければ、オーガの肌に傷をつけることすらできなかっただろう。しかもレベル1では、燃費のいい強化魔法ですら10秒ともたずに魔力切れを起こすときた。

(……人間が魔物に勝てないように徹底的に管理してる、といったところか)

 思わず、溜息が出る。
 このせいで、たかがオーガを1匹倒すまでに時間がかかってしまった。

 この町の外がどうなってるかはわからないが……。
 オーガたちの人間をバカにしたような口ぶりから、だいたい察しはつく。
 おそらくは他の町も同じような環境に置かれていて、この世界の誰も魔物を倒すことはできないのだろう。
 いや、そもそも……魔物に抵抗しようと思っている人間すらいないのかもしれない。

(……()()なのは、俺だけなんだろうな)

 俺という存在は、魔物たちにとって()()()であるはずだ。
 なぜなら、俺は……生まれたときから、魔法の使い方を知っていた。あらゆる武術を知っていた。魔物の弱点を知っていた。
 そして――人が魔物を倒せる、ということを知っていた。

 そう、俺には……前世の記憶があったのだ。


 ――冒険王テオ・ロード。


 それが、前世の俺の呼び名だった。
 史上最強とうたわれた人間にして、世界唯一のSランク冒険者。

 俺に冒険できない地なんてなかった。
 俺が勝てない魔物なんていなかった。

 草原を、山を、森を、地底を、海を、空を……。
 世界のありとあらゆる場所を、俺は自由に冒険し尽くした。
 どんなに強大な魔物が現れても――俺はその全てを倒し続けた。


(……こんな話しても、誰も信じてくれないだろうけどな)

 俺自身でさえも、この世界で魔法が使えなかったら、妄想だと疑っていたかもしれない。
 それぐらい今の時代の人間からしたら、非常識な記憶だった。

 そもそも、なぜ転生したのかは不明だ。『力強い魂は、輪廻転生しても形を保つことがある』といった話は、前世でモリガナという知り合いの錬金術師から聞いたことがあるが……ここまではっきりと記憶が残っている例は聞いたことがない。

 それに、俺がどうして死んだのかも思い出せない。
 死ぬ間際、誰かと大切な約束をした気がする。
 しかし、その約束すらも……忘れてしまった。

(それでも、前世の記憶があったのは助かったな)

 前世で習得した武術や魔法の知識がまるまる残っていなければ、レベル1のままオーガを倒すことはできなかっただろう。
 そもそも、魔物に抗おうという考えすらわかなかったはずだ。

 ――人は、魔物には勝てない。

 この世界の誰もが口をそろえて、そう言った。
 しかし、俺だけは知っている。

 ――人は、魔物に勝つことができるのだと。

 いや、それどころか……。
 人間こそが、いずれ最強に至ることができる種族なのだ。
 なぜなら、人間には最弱にして最強の天恵(ギフト)があるのだから。


(お……来たか)


 オーガの肩のレベル刻印から光が浮き上がり、すぅぅ……と俺の手の甲のレベル刻印へと吸い込まれていく。
 その瞬間――。

「……っ!」

 びり――ッ! と、全身に電流が走った。
 体中の血管に、直接エネルギーを流し込まれるような感覚。

 それと同時に……かちり、と。
 その手の甲に刻まれた紋章の模様が変化する。

(……レベル5、か)

 レベル――それは種族ごとに定められた命の格。
 その数字は生まれたときから変わることはない。
 それがこの世界のルールだ。

 しかし、人間だけは違う。
 そのルールを破壊する、唯一無二の天恵(ギフト)が与えられている。
 それこそが――。


 ――【レベルアップ】


 魔物の命を喰らい、自らの命の格(レベル)を上げる天恵(ギフト)
 人間は生まれたときこそ世界最弱(レベル1)だが、魔物を倒すことができればどこまでも強くなることができる。

 ゆえに、人間は――最弱にして最強。

 とはいえ、人が魔物に勝てなくなったこの時代では、人間が【レベルアップ】できることも忘れ去られてしまったようだが……。

 まぁ、今はそんなことを考えていても仕方ない。
 それよりも……。

(……始めるか)

 オーガを殺した時点で、もう後戻りはできない。
 すぐに他のオーガたちも、このオーガの殺害に気づくだろう。

 感慨に浸っている時間はない。急いでこの町から脱出する必要がある。
 だが、その前に――。


 ――この町にいるオーガを、全てこの手で討伐しよう。

 オーガを殺した時点で、もう後戻りはできない。
 急いでこの町から脱出する必要がある。
 だが、その前に――。


 ――この町にいるオーガを、全てこの手で討伐しよう。


 その理由は、もちろん――レベルを上げるためだ。
 レベル5で外に出ても、すぐに野良の魔物に食われてしまう。
 どうせ、この町から脱出するには、最低でもあと何匹かオーガと戦わなければいけないのだ。
 それなら相手が油断している隙に、こちらから仕掛けさせてもらう。

(……まずは、食堂にいるオーガたちだな)

 今、この町のオーガのほとんどは食堂に集まっている。
 もちろん、生贄(おれ)を食うために。
 だからこそ、俺は町から脱出するのにこの“投票”の日を選んだ。
 1か所に固まってくれているなら、油断している隙に一網打尽にすることができる。

 とはいえ……レベル5では、食堂に集まっているオーガたちをまとめて相手するのは難しい。
 いくら前世の知識や技術があるとはいえ、さすがにまだレベルが低すぎる。
 超級魔法を使えたところで、魔力不足で発動できないのなら意味がない。

 それに、【筋肉操作】というオーガの天恵(ギフト)は、攻撃だけでなく防御にも応用が効く。
 もしもオーガに首の筋肉を増大させられたら、ナイフの刃では致命傷を負わせるのが難しくなってしまう。

 できれば、1体1体、不意打ちで倒したいところだが……。

(……そのための策は立ててきた)

 俺は調理場にあるナイフを何本かもらいつつ、調理油を床や壁にぶちまけた。
 そして……。



「さぁ――――反逆開始だ」



 床に手をついて、“手火(フェオ)”の魔法を唱える。
 その瞬間――。

 ごォォオォ――ッ!! と、調理場が爆炎に包まれた。

 一瞬にして視界が炎と煙で覆われる。
 鍋や皿がけたたましい音を立てて跳ね飛び、城全体ががらがらと激しく揺れ、どこかから怒号や悲鳴が上がり……。

 そんな騒ぎの中、俺はそっと物陰に身をひそませる。

「……風操(フゥゼ)

 風属性の初級魔法を発動。
 そよ風を発生させて、炎と煙を食堂のほうへと流し込む。
 すぐに、オーガたちの慌てふためいた足音がやって来た。

「……な、なんだァ!?」「調理場から火がッ!」「火事だァッ!」「おィィ! 誰か水か砂を持ってこいィ!」「酒ならたくさんあるぞォ!」「宝物庫を守れッ!」「窓を開けろッ! 煙を出せッ!」「人間どもを働かせろッ!」

 混乱するオーガたちは、ばらばらと分かれて行動を始める。
 立ち込める煙で、お互いの姿はよく見えていないらしい。

 そして――隠れ潜んでいる俺のことも、見えていない。
 炎と煙と爆音が、こちらの気配を完全に消してくれていた。

「……風操(フゥゼ)

 俺は指をくいっと動かしながら、最後尾にいたオーガの顔の辺りへと煙を流す。
 この“風操(フゥゼ)”は初級魔法とはいっても、俺のもっとも得意な風属性魔法だ。
 オーガの鼻や口の中へと、強引に煙を流し込むぐらいは簡単にできる。

「……げほォッ! ごほォッ! くそッ、なんだってんだ!?」

 オーガが背中を丸めてひどく咳き込んだ。
 煙を吸いすぎて軽く中毒反応も出ているらしく、ふらふらとよろめく。

(……隙だらけだな)

 狩られる経験がないがゆえの――ここがすでに戦場だと気づいていないがゆえの無防備さだろう。
 もちろん、その隙を見逃してやるわけがない。

「……肉体強化(バ・ベルク)……物質強化(ミ・ベルク)

 強化魔法を発動しながら、俺はその丸まった背中へと飛び乗った。
 そして、ナイフを振りかぶる――。

「…………あァ?」

 オーガが俺に気づいたのか、ばっとこちらを振り向き――その勢いのまま首がぐるんと一回転して、ぼとりと床に落ちた。


(……これで2匹)


 さっきよりも力が上がったことで、簡単にオーガを狩ることができた。
 レベル1では首の骨を切断することはできなかったはずだ。
 魔力にもまだ少し余裕がある。

(……やっぱり、レベルアップの恩恵は大きいな)

 それから先ほどのように、オーガのレベル刻印から青白い光が浮かび上がり、俺の手の甲へと吸い込まれていく。
 手の甲の紋章が示すレベルが、5から7へとさらに上がる。
 まだ正面からオーガと対峙するには心もとないレベルだが、不意をついて倒すなら充分なレベルだろう。

(さて、この町から出る前に、どれだけレベルを上げられるかな)

 にぃぃ……と、口元がとつり上がるのを抑えることはできない。
 この日をどれだけ待ち望んでいたか。

 この18年間、オーガたちに大人しく支配されてきたのは……全てこの日のため。
 オーガを狩り尽くし、最高の形で町から脱出するためだ。
 この町は、もはや――いい狩り場でしかない。


「……なッ!?」


 ふたたび物陰にひそんでいると、やがて酒樽を持ったオーガが戻ってきた。

「お、おい……ッ!? し、死んでる……!?」

 身をかがめたオーガが、仲間の死体を見つけてうろたえる。

「な、なんだァ……? なにが起こってる? なんで殺されてる……? いったい、なにが…………ここに、いる?」

 すっかり怯えきった様子だ。
 やはり、オーガたちは今まで“狩られる側”に立ったことがないのだろう。

 しかし……この世は食うか食われるかだ。
 弱いままでは、いつまでも食う側ではいられない。
 正義だとか、優しさだとか、美しさだとか……そんなものは関係ない。

 強いやつが食い、弱いやつが食われる。
 食わなきゃ、食われる。
 それならば――。


(…………俺が、“食う側”になってやる)


 俺は舌なめずりをしながら、オーガの背後に忍び寄った。
 オーガはまだ、こちらに気づかない。
 俺は、そっとナイフを振りかぶる……。



 ――――さぁ、レベル上げの時間だ。


 城にいるオーガたちを殲滅したあと。
 火事騒ぎで城の周りに集まってきたオーガを、俺は1体ずつ確実に仕留めていった。

「に、人間…………ぇ……?」

 まさか、“人間がオーガを殺して回っている”とは思ってもいなかったのだろう。
 オーガたちは誰も武装もしていなかったし、注意も完全に城の火事のほうへと向いていた。
 その無防備な首をはねるのは容易かった。

(……こんなザコどもに18年も支配されていたとはな)

 こいつらは、まともに戦い方を知らない。
 おそらく実戦経験もないし、戦うために訓練することもなかったはずだ。
 ただ、自分よりもレベルの低い家畜(にんげん)に鞭を振るっていれば、それでよかったのだから。
 しかし、今――盤上はひっくり返った。

(……さて、あとは門の前にいる2体だけか)

 殺したオーガの数を計算する。
 この18年間、俺はただ家畜として生きてきたわけではない。
 この町のオーガの数や配置ぐらいは把握している。

(……じゃあ、仕上げといこうか)

 俺は最後に、町の市門へと向かった。
 門を警備していた2人組のオーガが、すぐにこちらに気づく。

 まだ他のオーガたちが殺されたことは知らないのだろう。
 オーガたちは顔を見合わせると、獲物を見るような目で、にやにやと俺に斧槍を突きつけてきた。


「おい、人間……止まれ」


「…………」

 俺はちらりとオーガの腕を見る。
 こいつらも、まだ人間相手に油断があるのか、それとも武器を威嚇用でしか扱ったことがないのか……斧槍を突きつけるために、無防備に腕を伸ばしきっていた。
 その状態からでは、いかに馬鹿力のオーガといえども、すぐに攻撃に移ることはできない。
 俺はかまわず歩みを進める。

「あァ……? おい、誰が動くことを許可した! 止まれ! 食われたいのか!」

 オーガがさらに、なにかを言いかけたところで。
 たんっ、と俺は地面を蹴った。

「…………へ?」

 一瞬で間合いをつめ、オーガの腕の下にもぐり込む。
 そして、背中からナイフを抜き放つ――。

「…………ぇ……は……?」

 すぱんっ! と、オーガの腕がちぎれ飛んだ。
 手にしていた斧槍が、腕と一緒にくるくると宙を舞う。

 さらに俺は接近した勢いのままに跳躍し、空中で斧槍を手に取った。
 その斧槍を、唖然としているオーガに向けて振り下ろす。

「……ァ……ぇ……?」

 オーガが間の抜けた声を出した。
 わずか数秒の出来事に、まだ理解が追いついていないのだろう。

 そして、理解が追いつく間もなく――オーガの体にぷつりと赤い縦線が走った。
 それから、ずるり……とオーガの体が上下にずれて、肉が石畳を叩く音が2回響く。

「…………なっ」

 残ったオーガはしばらく凍りついていたが……。
 俺が顔を向けると、慌てたように斧槍を振りかぶった。

「に、人間が、なめるなァ……ッ!」

 こちらへ迫る斧槍を、俺は手に持っていた斧槍で弾き返した。
 ぎィン――ッ! と火花が散ると同時に、オーガの持っていた斧槍が吹き飛ぶ。
 その衝撃で、オーガが体勢を崩して尻もちをついた。

「…………は?」

 状況についていけないというように、オーガはそのまま動かなくなる。

「な、なんで……なにが……?」

 それから俺を見て、顔を強張らせる。


「……な、なんなんだ、お前はァッ!?」


「見てわからないか? ただの人間だ」

「に、人間!? う、嘘をつくなァ……ッ! 最弱種族(レベル1)の人間ごときが、そんな力を持ってるわけがないだろォッ! オレたちオーガは、レベル10なんだぞ!」

「そうか、俺より低いな」

「……へ?」

「俺のレベルは14だ」

 手の甲のレベル刻印を見せてやると、オーガがぽかんとしたように固まった。

「な……なっ……」

 信じられないのか目を白黒させるオーガ。
 その気持ちが落ち着くのを待ってやる義理はない。
 俺はとどめを刺すため、オーガに近づいていく。

「く……来るなァッ! こんなことして、ただで済むと思っているのかァ!? お前がちょっとレベルが高くても……オレ以外にも、オーガはたくさん……!」


「――心配するな、お前が最後の1匹だ」


 俺は淡々と告げる。

「お前の仲間は、もうみんな俺が殺した」

「……な、に……?」

「残念だが……この世は食うか食われるかだ。強いやつが食い、弱いやつが食われる。だから恨むなら……弱いオーガなんかに生まれてきた自分を恨んでくれ」

「…………ひっ」

 オーガはそこでようやく、自分が狩られる側だとはっきり認識したらしい。
 小さな悲鳴のような声を漏らして、尻もちをついたまま後ずさった。

「ま、待ってくれェッ! 見逃してくれェッ! なんでもする! ここを通りたきゃ通してやる! そ、そうだ! 人間じゃァ、この扉を開けられないだろォ? オレを殺したら、きっと困ることに……」

「なぁ」

 オーガの言葉を遮る。

「お前は……命乞いをする獲物を見逃したことがあるか?」

「そ、それは……」

「まぁ、ないよな」

 それだけ言うと、俺は斧槍でオーガの首をはねた。


「――――俺もない」


 断末魔の叫びを上げる間もなく。
 ぼとり……と、最後のオーガの首が地面に落ちる。

「…………」

 そのあとは、沈黙が降りた。
 遠くの火事の音だけが、ぱちぱちと辺りにむなしく響いている。
 俺は顔についた返り血をぬぐいながら、手にしていた斧槍を投げ捨てた。

「これで……オーガは全て、討伐完了か」

 手の甲の刻印を確認すると――レベル15。
 この町から出る前に、それなりに上げることができたか。そこらの野良の魔物なら、充分に倒せるレベルだ。

「……あとは、この町から出るだけだな」

 俺は町の外へとつながる門に歩み寄った。
 その門をふさいでいるのは巨大な鉄扉だ。

 ……長年、この町の人間を閉じ込めてきた支配の象徴。

 この扉は、あまりにも堅牢で、重厚で……たとえ鍵がかかってなくても、レベル1の人間では束になってようやく数ミリ動かすのがやっとだろう。
 だからこそ、誰も扉を開けなかった。開けようすら考えなかった。

 そんな扉に、俺は手をかけ――。


「…………テオ、なのか?」


 そこで、背後から声をかけられた。
 町の外へとつながる扉に、俺が手をかけたとき。

「…………テオ、なのか?」

 ふと、背後から声をかけられた。
 ふり返ると、町の住民たちが遠巻きに俺を眺めていた。

 先ほどオーガが叫びまくっていたし、何事かと様子を見にきたのかもしれない。
 できれば、住民たちの意識が火事に向いているうちに町を出ていきたかったが……さすがに騒ぎすぎたか。

「やっぱり、テオか……」

 住民たちの先頭にいたのは、友人のトールだ。
 その視線は、俺とオーガの死体に交互に向けられている。

「これ……お前がやったんだよな?」

 質問というよりは、確認といった感じだった。
 おそらく、俺が戦っているところを見ていたのだろう。
 だから、今さら取りつくろっても意味はない。

「ああ、そうだ」

 俺は、短く頷いた。

「なんで、人間が……魔物を倒せるんだ? それも、こんな簡単に……」

「レベルが上がったからだ」

 俺はそれだけ答えて、自分の手の甲を見せる。
 そこに刻まれている紋章は、あきらかにレベル1のときとは変わっていた。

「今の俺のレベルは――15だ」

「ば、バカな……!? なんで、レベルが上がってるんだ……!?」

「それが、人間の天恵(ギフト)だからだ」

「え……?」

 ――天恵(ギフト)
 それは、レベルとともに、生まれつき1つだけ与えられる種族固有の力。

「で、でも、人間は天恵(ギフト)を持たないはずじゃ……」

「持ってるんだよ、俺たちは。魔物を殺すことでレベルアップする、最弱にして最強の天恵(ギフト)をな」

 俺はトールに背を向けて、改めて鉄扉と向かい合った。
 頭上高くまでそびえ立つ、家畜(にんげん)を閉じ込めるための檻の扉。

 レベル1のときには突破できなかったが、レベルが上がった今は違う。
 俺はそっと拳を握りしめ――。


「――肉体強化(バ・ベルク)


 最大限の強化魔法とともに――扉に拳を放った。
 がぎィ――ッ! と、破城槌のごとき拳の一撃が扉にめり込み、金属が悲鳴を上げる鋭い音が響く。
 おそらくは、扉を支えていた蝶番が弾け飛んだのだろう。
 巨大な鉄扉がぐらっと傾き、そして――。

 ――ずぅぅん……ッ! と。

 地面に叩きつけられた扉が、轟音と衝撃で町全体を震えさせた。


「……………………」


 誰も言葉を発しなかった。
 生まれたときから住民たちを縛りつけていた檻の扉が、あまりにもあっさりと破壊されたのだ。

 俺たちの前に現れたのは、遮るものがなくなった町の門。
 市壁をくぐる通路の先から、光が漏れてくる。
 長年、ずっと求めていた――外の世界の光だ。

 その光を背負うように、俺は今一度ふり返った。


「これが、人間の力だ」


 唖然としている人々に言う。

「俺たちはただ食われるだけの種族じゃない。むしろ、かつては人間が魔物を狩る側だった時代もあったんだ。レベルを上げることができれば……人間は最強にだって至ることができる」

 力強く断言する。
 そして、もう一度、トールに問う。

「なぁ、一緒にこの町から出ないか?」

「……え?」

 トールが目を丸くした。
 思ってもみない提案だったのだろう。
 実際、俺にとっても合理的な提案ではない。損得で考えれば、他の人間をつれて行くメリットはないはずだ。

 しかし……気づかないうちに、情でも移ってしまったか。
 いつ食べられるかもしれない仲間たちへの感情など消したつもりだったが。
 この町に転生してからの18年間は、あまりにも……長かった。

「……いいのか? 俺はお前を裏切ったんだぞ」

「裏切るように仕向けたのは俺だ。そのほうが都合がよかったからな。だから、べつに恨むようなことでもない」

「は、はは……俺は、お前の手の上で踊らされてたってわけか」

 トールが力なく笑う。

「……テオは、すごいな。お前といれば、もしかしたら本当に……自由になれるのかもしれないって思うよ」

「なら」

「だけど、悪い……無理だ」

 きっぱりと断られた。

「なんでだ……? この町にいても、どうせすぐに魔物が来るぞ?」

「それでもだ」

「どうして……」

「……怖いんだよ。俺には冒険なんてできない。テオみたいに魔物に立ち向かう力も勇気もない」

「…………」

 そこで、俺はようやく気づいた。
 自分たちを閉じ込めていた檻が開いたというのに、ここにいる人間たちが誰も外へ出ようとしないことに。

(……学習性無力感、か)

 ふと、前世で見てきたことを思い出す。
 監禁されて虐待された人間は、檻の扉が開いても――逃げないのだ。
 自分があまりにも無力で、なにをしても無駄だと思うから。なにかをすれば、もっとひどい目にあうと思ってしまうから。

「こんな俺がついて行っても、お前の足手まといになるだけだろ?」

「……ああ、そうだな。俺1人のほうが生存率は格段に高まるだろう」

「はは、お前はいつでも正直だな……」

「ただ、それでも……残念だとは思う」

 仕方のないことだとはわかっている。
 それなりに戦える人間ならまだしも、足手まといの素人をつれて行こうという判断は、あきらかに間違っている。

 今はまだ自分1人を守るだけで手一杯だ。
 今のレベルで誰かを守れるほど、この世界は優しくない。
 だけど、それならば……。

「……なら、待っていろ」

「え?」

「俺はこれから、もっとレベルアップする。すぐに最強にまで至ってやる。そして、いつか俺が魔物どもを全て討伐して――人類全員、この手で解放してやるよ」

「…………はは」

 しばらくして、トールが苦笑する。

「まったく……お前の口からは、いつも予想できない言葉が飛び出てくるな。しかも、お前なら本当にやりそうだから困る」

「やりそうではない。これは約束だ」

「わかってるよ。お前は……そういうやつだからな」

 そこで、会話が途切れた。
 町を出るなら、いつまでもここにはいられない。
 それはトールも察していたのだろう。

「もう行けよ……お前は、いつまでもこんな檻の中にいていい人間じゃないだろ」

「……ああ」

 俺は未練を引き剥がすように、トールに背を向けた。

「……食われるなよ、テオ」

 背中に投げかけられた言葉に、俺は振り返らずに答える。

「お前もな、トール」

 そして1人、出口へと続く通路を歩きだす。
 前へ進むごとに、町の外から漏れる光もだんだん大きくなる。
 その光は眩しいほどにまで膨らんでいき、やがて――。


 ――――光が、弾けた。



「…………ぁ……」

 思わず、声が漏れた。
 目の前に広がっていたのは、夕日に彩られた海だった。
 すぐ先には海へと鋭くせり出した岩崖があり、その向こうには赤い水平線が世界の果てまで伸びている。

 前世では飽きるほど見てきた、なんでもない光景。
 それなのに――胸を打たれる。足が止まる。

(俺は、今……外の世界に立っているのか)

 ふと、気まぐれな潮風が頬をなでた。
 すぅっとした冷たい風が、火照った体には心地がいい。
 18年分のよどみを溜め込んでいた肺が、一息ごとに換気されていくのを感じる。

(……風を新鮮だと感じたのは、いつ以来だろうか)

 転生してからずっと、壁に切り取られた空しか見ていなかった。
 だから、忘れていた。

 空はどこまでも果てがないのだと――。
 世界はどこまでも自由なのだと――。

 俺はもう、この目に映っている世界の、どこにだって行くことができるのだ。
 なぜだか、初めて冒険に出たときのような高揚感があった。
 いつまでも、この光景を眺めていたいと思った。
 しかし……。

(……今はまだ、立ち止まってはいられない)

 この景色の代償は――自由の代償は、けっして軽くはない。
 いつ、追っ手が来るかもわからない。

 見回せば、崖をくり抜いたような階段があり、その下にある木の桟橋には小舟がつけられている。おそらくは物資搬入のために使われているものか。
 新たな冒険の船出にはちょうどいい。

「それじゃあ…………行こう」

 自分を奮い立たせるように呟いて。
 外の世界へと、俺は足を踏み出した。
 この広い世界で、新たな冒険を始めるために。
 そして――――。


「…………は?」


 なんの前触れもなく。
 突然、あらゆる事象の流れをぶった切って――。

 ――どくんっ! と、世界が脈打つように震えた。

 同時に、辺りの空気が変質する。
 まるで、いきなり異界に足を踏み入れてしまったかのような感覚。
 そして、気づく。

 …………ひらり、と。

 視界の端で、炎の羽根が舞ったことに――。




「――――不思議だわ」




 ふと、少女の声が聞こえてきた。

「なにか燃えてるなー、と思って来てみれば……どうして、こんなところに人間(おやつ)が落ちてるのかしら?」

 歌鳥がさえずるように美しく――。
 ゆえに、人間の声とは異質な響きがある声だった。
 それは、もはや“声”というより“音色”といったほうが近いかもしれない。

 その声のほうに、俺はゆっくりと顔を向ける。
 今まで見ていたはずの夕日と海……。

 その景色の中に――それは、いた。

 いったい……いつから、そこにいたのだろうか。
 いつの間にか、俺の目の前に――。


 ――1人の少女が浮かんでいた。

「なにか燃えてるなー、と思って来てみれば……どうして、こんなところに人間(おやつ)が落ちてるのかしら?」

 町の外へと脱出した俺は、1人の少女と対峙していた。

 それは、夕空から染み落ちてきたかのような、紅い少女だった。
 炎のようにけぶる繊細な髪。
 燃えるように爛々と輝いている真紅の瞳。
 そして――その背を飾っている、紅炎の翼。

 ……人間、ではない。

 人間のはずがない。
 ()()()()()が人間であっていいわけがない。
 どれだけ擬態していようが、人間とはまとっている空気が違いすぎる。

 ただ、そこにいる。
 ただ、それだけのことで。
 俺の本能が、この少女を――“災厄”だと断じた。

 こいつは――魔物だ。

「……っ!」

 町の外に出たからと油断しきっていた自分を呪う。
 魔物がいるのは町の中だけ、なんてはずがない。
 外の世界の美しさに足を止めている暇なんてなかった。

 ここから見える世界の全ては――魔物の支配領域なのだ。


「あなた、とっても美味しそうな匂いがするわね? いつもは若くて綺麗なメスの肉しか食べないのだけど、それよりもずっとずっと美味しそうだわ。どうして、そんなに美味しそうなのかしら? 不思議だわ」

 少女は唇をなめてから、地面にとんっと降り立った。

「それに……どうやって、ここまで来たのかしら? どうやって、魔物の支配を抜けたのかしら? もしかして、ここの町が燃えてるのもあなたの仕業? そうだったら、とても不思議でうれしいのだけど……」

 一歩、また一歩……と、少女が近づいてくる。
 その一歩ごとに、残酷な理解を突きつけられる。
 今の俺では、この少女とあまりにもレベルが違う――違いすぎる。
 このままでは……食われる。

「……ッ!」

 とんっ、と少女が無防備に足を前に出し。
 俺の間合いに――入った。
 その瞬間、俺はぎりっと足に力を込めながら叫んだ。


「――肉体強化(バ・ベルク)ッ!」


 強化魔法の発動とともに、少女に飛びかかる。
 少女へと一息に接近し、そして――。

「――物質強化(ミ・ベルク)ッ!」

 その白い首筋に向けて、強靭化したナイフを抜き放つ。

 まだ少女は、俺がただの人間だと油断しているはずだ。
 ただの、どこにでもいる――レベル1の家畜(にんげん)だと。

 もちろん、この攻撃でこの化け物を倒せるはずがない。
 あっさり回避されてしまうだろう。
 だが、それでいい。

 わずかでも少女の体勢を崩すことができれば……その隙に、彼女の背後にある海へと飛び込むことができるかもしれない。
 それだけが、この状況から逃れるための道だ。
 しかし、俺は予想に反し――。

「…………は?」

 少女は回避をしなかった。防御をしなかった。反撃をしなかった。
 ただ、無抵抗にその場に立ったまま――。



 ――すぱんっ、と。



 少女の首は、あっさりと飛んだ。
 首の切断面から、果実が破裂するように新鮮な血が飛散する。

 ゆっくりと宙に舞う、少女の首――。

 その首についている双眼が、わずかに見開かれる。
 俺は思わず逃げることも忘れて、その場に留まってしまった。

(…………殺した、のか?)

 一瞬、そんな希望が芽生えたが……。



「――――あ……ッははははははッ!」



 突然――首が、笑いだした。
 その笑い声に呼応するように、少女の体から爆発的に炎が噴き上がる。

「……ぐっ!?」

 半ば宙に浮いたままだったせいで、踏ん張ることができない。
 俺の体が勢いよく吹き飛ばされる。
 とっさに受け身を取って顔を上げると、辺り一面は火の海になっていた。

「――あッ、ははははははッ!」

 少女は壊れたように笑い声を響かせながら。
 自ら発した炎に包まれ――炭と化し、そして灰と化す。
 ……かと思えば、その灰が意思を持ったように渦を巻いて、みるみるうちに人間の形をなした。

「……不思議だわ。不思議、不思議、とっても不思議。こんな不思議なこともあるのね」

 そうして現れたのは、先ほどまでと変わりない少女の姿だった。
 そう……まったく、変わりないのだ。
 傷ひとつない。焦げ跡ひとつない。炭になったことも、灰となったことも、首を切断されたことすら――全てが()()()()()()にされている。
 まるで本当に何事もなかったかのように、少女はしゃべり続ける。

「魔物に反抗する人間なんて、まだ絶滅していなかったのね。それも、このわたしの1回も殺すなんて……生まれてこの方、こんなにびっくりしたのは初めてよ。どうして、レベル1の人間ごときがそんな力を持っているのかしら……?」

 そこで少女の目が、俺の手の甲――レベル刻印へと向けられた。
 とっさに隠すが、遅かった。
 少女はしばし、目を丸くする。


「――ねぇ、あなた……どうして、レベルが上がっているの?」


「…………」

「どうやってレベルを上げたのかしら? それに、どうやってさっきの魔法を覚えたのかしら? わからないわ。すごく不思議だわ。いいわ……あなた、とっても面白いわ。世界は不思議に満ちていなければ、このわたしが生きてあげる価値がないもの。だけど……あなたにとっては相手が悪かったわね」

 と、少女は悪戯っぽく微笑する。

「わたしは魔界七公爵の一柱、フィフィ・リ・バースデイ。永遠に死と再生をくり返す、不死鳥(フェニックス)――」

 そして、少女は告げる。


「――わたしのレベルは77よ」


 炎に染め上げられた世界の中。
 少女の胸元のレベル刻印が青白く輝いていた。
 そこに刻まれているレベルは、少女の言葉通り――77。

(……不死鳥……聞いたことはある)

 それは、“太陽の化身”と称される世界最上位の魔物の名だ。
 はるか空の高みでその身をまばゆく燃やしながら、世界を巡り廻り、回り廻る――円環の炎鳥。
 死んでも、死んでも、死に尽きることなく、炎の中から永遠に蘇生し続ける不死の鳥。

 文字通り、レベルが違いすぎる。
 こんな冒険の始まりには、絶対に出遭ってはいけない存在だった。

「あなたはここに来るまでに、たくさんの夢を見たのよね? たくさんの希望を抱いたのよね? そして、たくさんの努力をしたのよね? それは、とても素敵なことだわ。でもね……」

 少女がぱちんっと指を鳴らすと、周囲の炎たちが意思を持ったかのように俺のもとに集まってきた。炎は渦を巻きながら鳥かごの形をなして、俺を逃さないように閉じ込める。


「それでも、人は魔物には勝てない。あなたは、わたしには絶対に勝てない。あなたの壮大な冒険の旅は――幕を開けない」


 くすくすと、悪戯っぽく、楽しげに――。
 少女はスキップでもするような弾んだ動きで、俺へと顔を寄せてくる。

「でも、そうね……あなたは面白いから、特別に2つの選択肢をあげるわ」

「……選択肢?」

「えぇ、よーく考えて好きなほうを選ぶといいわ」

 少女がもったいぶるような間をあけながら指を立てた。

「まず1つ、わたしにここで食べられる。そして、もう1つ――」

 炎の鳥かごの隙間から、少女がくいっと俺の顔を持ち上げる。


「――わたしの愛玩動物(ペット)として生き続ける」



   ◇



 不死鳥のフィフィが目の前の人間をすぐに食べなかったのは、ほんの気まぐれのためだった。
 永遠に続く同じ日々に飽きていた、というのもあるかもしれない。

 ――【輪廻炎生(リンネエンセイ)

 それが、不死鳥の身に宿っている天恵(ギフト)だ。
 それは、死んでも永遠に蘇えることができる祝福にして――死ぬことができない呪いでもある。

 この退屈な永遠を吹き飛ばしてくれるような刺激が欲しかった。
 そして、この人間ならば、そんな刺激を与えてくれるのではないかと思ったのだ。

 この人間はあきらかに他の人間とは違っていた。
 魔物の家畜であることに甘んじ、死んでいるように生きているだけの人間ではない。
 それも、なぜか魔法を覚え、なぜか武器を扱うことができ、そして……なぜかレベルが上がっている。

(……面白すぎるわ)

 だからこそ。
 たとえ、魔界の掟に反しているのだとしても。
 たとえ、“王”に逆らうことになるのだとしても。
 ……殺すのはもったいない、と思ってしまった。

「あなたは面白いから、特別に2つの選択肢をあげるわ」

 炎の鳥かごにとらえた人間の頬をなでながら、フィフィは告げる。
 ここで食べられるか、それとも愛玩動物(ペット)として生き続けるか。
 あきらかに偏った2択。
 選択肢を与えると言いつつ、どちらを選ぶかなんて明白だった。

「答えは決まったかしら?」

「……選択の余地なんてないだろ」

 人間が忌々しげに睨んでくる。
 血濡れの刃を思わせる、紅い眼光――これだけ絶望的な状況だというのに、この人間はいまだ反抗的な瞳を揺らがせない。
 それどころか、こちらが隙を見せたら飛びかかってきそうな戦意さえ感じる。

「ふふ……やっぱり面白いわね、あなた」

 こんなにわくわくしたのは、いつぶりだろうか。
 とても不思議で、興味深く、刺激的な人間だ。
 やはり、ただ食べて終わりではもったいない。

「それじゃあ、一応、答えを聞かせてもらうわ」

「……ああ」

 とはいえ、どうせ答えは決まっている。
 そもそもこれは、どちらが上位者(かいぬし)なのかを思い知らせるためのパフォーマンスでしかないのだから。

 人間がこちらに首を差し出すかのように、頭を垂れる。
 そして――。


 ――――どすっ、と。


 フィフィは胸の辺りに衝撃を感じた。

「…………え?」

 一瞬、なにが起こったかわからなかった。
 理解より先に、フィフィの口元から血が垂れる。

 そこで、フィフィはようやく気づいた。
 ……自分の心臓にナイフが突き立っていることに。
 そのナイフを握りしめているのは――目の前にいる人間だ。

「……言っただろ? 選択の余地なんてない、と」

 気づけば、人間は不敵な薄笑いを浮かべていた。



「――――俺の答えは、“選択肢なんて知るかボケ”だ」


 フィフィの心臓にナイフが突き立っていた。
 そのナイフを握りしめているのは――人間だ。

「……言っただろ? 選択の余地なんてない、と」

 人間は不敵な薄笑いを浮かべる。


「――――俺の答えは、“選択肢なんて知るかボケ”だ」


 その言葉とともに、フィフィの意識がふっと遠のいた。
 その体がさらさらと灰になって地面に崩れ落ち、そこからふたたび再生する。

(……殺された? なぜ……?)

 わけがわからない。
 この期に及んで、フィフィを殺す意味があるとは思えない。
 べつに、不死身のフィフィは何度殺されても問題はないのだ。
 ただ……殺されて不快でないわけでもない。

「どうやら……しつけが必要なようね!」

 フィフィは体が再生しきると同時に――。
 炎の鳥かごに向け、怒りに任せて手から爆炎を放った。
 ごォォォ――ッ! と、炎光が地面を爆ぜ散らし……。

(……? ……いない?)

 炎が晴れたとき、鳥かごの中には、ただえぐれた地面だけが残っていた。
 手加減はしたつもりなのに、一欠片の炭すらも残っていない。
 もしかして、火力を出しすぎただろうか。
 それとも――避けられたか。

(……そんなまさか、ね)

 そう思いつつも、フィフィは念のため辺りを見回す。
 しかし……やはり、いない。
 右にも、左にも、背後にも、どこにもいな……。


「――上だ、鳥頭」


 ――がッ! と。
 フィフィの口から刃が突き出す。

「……ぁ、がッ!?」

 背後から喉を突き破ってくる鉄の感触。力任せに首の骨が断ち切られ――また殺されたと自覚するころには、フィフィの意識は飛んでいた。
 ふたたび灰となり、ふたたび再生する。

「……こんなことを、しても……無、駄……」

 蘇生してから、そう人間を睨みつけようとしたところで。
 フィフィは違和感に気づいた。
 視界が安定しない。なぜか……ぐるぐると回転している。

 一瞬の混乱のあと。
 フィフィは視界の端に、首を失った自分の胴体をとらえた。
 その横に立っているのは、ナイフを振り抜いた人間の姿……。

(……斬られた!? いつの間に……!?)

 いや、そうか……と、すぐに思い至る。
 考えてみれば単純なことだ。
 人間はフィフィの蘇生と同時に、その首をはねたのだ。

 たしかに、フィフィは灰から再生したあと、すぐに動けるわけではない。
 再生が終わったことを自覚して、自分の置かれている環境を五感で認識して、そこからようやく動きだすのだ。
 だから、そのとき1秒にも満たない一瞬だけ、フィフィに隙が生まれる。
 しかし……。

(……ありえない)

 この人間は、フィフィの蘇生能力をたった2回見ただけで完璧に把握し――それから1発でフィフィの首をはねるのを成功させたとでも言うのか?
 いったいどこで、それほどの技術を()()させた?
 思わず、ぞくっとする……が。


「…………だから、なに?」


 ぶわ――ッ! とフィフィの胴体から炎が噴き上がった。

「……っ!」

 フィフィの胴体の前に陣取っていた人間が、とっさに後ろへ跳んで回避する。
 炎を器用に回避したものの、そこから人間は動かない。
 それもそのはずだ。距離さえ開いてしまえば、もう人間に攻め手はないのだから。

 フィフィが今まで攻撃を食らっていたのは、あくまで不意打ちをされていたからにすぎない。
 純粋な戦闘力ならば、フィフィのほうが圧倒的に上だ。
 灰から蘇生したフィフィは、人間を睨みつける。

「こんなことをしても無駄よ。わたしの天恵(ギフト)は、【輪廻炎生】。死んでも死んでも炎の中から蘇ることができる力。もしかしたら、“何回も殺せば、蘇生できなくなる”とでも思っているのかもしれないけど、それは大きな間違いだわ」

 人間がどれだけ技術があろうが、どれだけフィフィを殺そうが。
 ……全ては、まったくの無意味。
 フィフィはどれだけ死んでも蘇ることができる不死鳥なのだから。
 命が尽きない彼女を、殺し尽くすことは不可能だ。

 だからこそ、フィフィは真面目に人間の相手をしていなかったが。
 しかし……やはり、殺されるのは不快だった。

「何度殺したところで、わたしには絶対に勝てないわ。わたしとは違って、あなたの体力や魔力は有限だもの。長生きしたいなら無駄な抵抗はやめなさい。いい加減にしないと…………食べるわよ?」

「……はっ」

 黙ってこちらの隙をうかがっていた人間が、ようやく口を開く。

「どうせ俺を飼ったところで、いたぶり尽くしたあげくに、すぐに飽きて食うだけだろ?」

「…………さて、どうかしらね?」

 フィフィは答えをはぐらかす。それが答えのようなものだった。
 人間はふたたび鼻を鳴らす。

「それに、お前に勝てる確率はかなり少ないが……ゼロじゃない」

「ふーん? 不思議なことを言うのね。レベルがこれだけ離れている不死身の相手に、どうやって勝つと言うの?」

「悪いが……不死身の魔物なんて、俺は何回も倒してる。レベル上げに使えるからな」

「……? なにを言ってるの?」

 絶望で頭がおかしくなったのかと思った。
 しかし、彼の瞳には確かな理性の光がある。
 むしろ、冷静に――冷徹にこちらを観察しているような目だ。

「それに、レベルについては、お前のおかげでなんとかなりそうだ」

「……え?」

「お前の天恵(ギフト)は、死んでも蘇ることができる力……言い換えれば、お前は何度でも殺されることができる。そして――」

 人間はナイフの切っ先を、フィフィへと突きつけた。


「――お前を殺すたびに、俺はレベルアップする」

 
「――お前を殺すたびに、俺はレベルアップする」


 その人間の言葉に、フィフィは首を傾げた。

「……殺すたびに、レベルが上がる?」

 にわかには信じられない。
 それは、『生まれ持ってのレベルで命の価値が決められる』という、この世界のルールを真っ向から無視するものだ。
 そんな力が存在するとは思えない。

 しかし、実際に――。
 人間のレベル刻印が、いつの間にか変化していた。
 その紋章が示しているレベルは、“44”。
 最初のレベルはよく見ていなかったが、それでもここまで高くなかったはずだ。

「でも……だから、なに? たしかに、あなたはレベルが上がったかもしれない。それでも、【輪廻炎生】があるかぎり、絶対にわたしには勝つことができないわ」

「いや、そんなことはない」

「……え?」


「不死鳥の倒し方なら――知っている」


 その瞬間――。
 人間の体を取り巻くように、複数の魔法陣がきらめいた。
 同時に、彼が地面を蹴る。

(……! 会話で魔法発動のための時間を稼いでいたのね……人間のくせに小癪な)

 人間が一気に距離をつめてくる。
 レベルが上がったからか、最初の頃よりも格段に速い。
 しかし……結局は、ただのまっすぐな突進だ。

(……芸がないわね)

 これが、“不死鳥の倒し方”だとでもいうのか。
 なにを見れるのかと、少し期待もしたが……がっかりだ。
 フィフィはとりあえず、炎を放って迎え撃ち――。


「――風王結界(フゥゼ・ルベーレ)


 ひゅお――ッ! と人間の周りで、魔法の風が渦を巻いた。
 フィフィが放った炎が、その風の膜とぶつかり――受け流される。

「……なっ」

 かなり高度な魔法だ。
 なぜ、人間がそんな魔法を使えるのかわからない。
 魔法の知識が得られる環境ではなかったはずだ。それも魔力を大量消費する上級以上の魔法なんて、低レベルでは訓練しようもなかったはずだ。
 それなのに……。

(……なぜ?)

 わからない。ただ、1つだけわかることは――。
 人間が減速すらせずに、炎の中を一直線に突き抜けてきたということ。
 攻撃が受け流された今、フィフィの攻撃はただの“隙”でしかなくなった。

「……こ、このッ!」

 とっさに拳で迎撃しようとするも、読まれていたかのように回避される。
 人間は流風のごとく、するりとフィフィの懐にもぐり込み――。


「――風王剣(フゥゼ・ハルテ)


 ひゅん――ッ! と。
 鋭利な魔風をまとったナイフが、フィフィの胴体を心臓ごと両断した。

「……ぐ、ぅ……ッ」

 致命傷――またしても意識が飛ぶ。
 また死んでしまった。
 おそらくは、またレベルアップもされてしまっただろう。

(……! そういうことね)

 そこで、フィフィは察する。
 この人間は、不死鳥の無限の命を喰らい続け――。
 やがては、フィフィよりも高みのレベルへと上りつめるつもりなのだ。

「……人間の……くせに……ッ」

 フィフィがふたたび灰から蘇生する。
 これまでの戦闘から、蘇生直後に人間が攻撃してくることは読めていた。
 だから、相討ち狙いで拳を前に突き出し……。

「……え?」

 目の前に人間がいない。
 今までとは違い、なぜか間合いが開いている。
 と、同時に。
 ひゅん――ッ! と飛来した真空波が、フィフィの首をはねた。

「……っ!?」

 そこで、ようやく気づく。
 この人間は、『フィフィが人間の攻撃を読んで反撃する』ということまで読んで間合いを取ったのだ。
 そして、蘇生直後の一瞬に当たるタイミングで遠距離攻撃を放った……。


(……な、なに!? なんなの、この人間は!?)


 たしかに、フィフィは人化したまま戦うのは初めてだった。
 もちろん、人間の体の動かし方に慣れているわけではない。

 それに、人化している状態では力も弱まる。少しでも本気を出そうとすれば、その前にこの肉体が消し飛んでしまうからだ。
 肉体の限界まで力を出したところで、レベルで言うと60ほどの力しか出ないだろう。

 それでも、この人間の相手をするのには充分すぎるはずだった。
 そのはずなのに……。

(どうして、当たらないの……!?)

 フィフィの反撃は、全て空を切る。
 一方で、人間の攻撃は確実にこちらに傷を負わせてくる。
 人間の動きが速いわけではない。速さではフィフィのほうが上なのだ。

 それなのに――遅れを取る。

 それもそのはずだ。
 魔物の戦い方は、力によるゴリ押しがほとんどなのだから。
 ゆえに、フィフィは"技"を知らない。
 打撃を、斬撃を、刺突を、カウンターを、防御を、回避を、足さばきを、目付けを、牽制を、つなぎを、フェイントを、間合いを、ありとあらゆる駆け引きを――知らない。

 “技”とは傷つかずに傷つけるための術。
 “技”とは弱者が強者を喰らうための術。
 そんなものは、不死鳥のフィフィにとっては必要のないもの――だった。
 だから、理解できない。対処できない。

「……こ、のッ……いい加減に……ッ!」

 フィフィが炎を放つが、またしても空を切る。
 戦い方が単調なせいで、動きを予測されたのだろう。
 人間はフィフィが動きだすよりも先に、ぐっと低く身を沈めていた。


「――風王剣(フゥゼ・ハルテ)


 縦一直線の斬撃が飛来し、フィフィの体を両断する。

「……う、ぐ……っ」

 絶命する直前、なんとかフィフィは反撃を試みるも――当たらない。

(……一発……一発でいいのに)

 一発でもまともに攻撃を当てられたら、人間なんて無力化できるのに。

 ――当たらない。

 レベルの差は歴然なのに、一方的に押されているのはフィフィのほうだった。
 さらに人間はレベルアップを重ねて、どんどん動きが速くなっていく。

 力の差が急速に縮まっていく。
 このままでは、追いつかれ――追い抜かれる。


(……これが、人間の力……!)


 と、そのとき――。
 ざり……っ、と足元から今までと違う感触が返ってきた。

 フィフィはそこで、はっと気づく。
 いつの間にか、自分が崖の縁まで追い込まれていたことに……。

(このわたしが……退いたの……?)

 いくら人化しているとはいえ……人間ごときに対して、魔界七公爵である自分が?

(……ありえない)

 彼女のプライドがその現実を拒絶する。
 しかし、認めるしかない。

 こうなった理由は、いくらでも挙げられるだろう。
 ただ、おそらく一番の理由は――。


 ――この人間を、侮っていた。



「ふ、ふふ…………あ……ッははははははは――ッ!」

 ……不思議だ。不思議だ。不思議だ。不思議でたまらない。
 本気じゃないとはいえ、圧倒的なレベルの差がある不死身の魔物に対して、この最弱(にんげん)は恐れることなく挑みかかり……。

 そして――圧倒したのだ。

 こんなこと、今までにあっただろうか?
 こんな人間、今までにいただろうか?

「とても……とっても面白いわ、あなた」

 相手が人間だからとなめていたが、フィフィはようやく認識を改める。

 ――この人間は、危険だ。

 けっして、小さな鳥かごの中に収められる器ではない。
 これは、“食われる側”ではなく――“食う側”の生き物だ。


「……いいわ、認めてあげる。あなたは……強い」


 ふいに、フィフィの体から一段と激しい炎が上がった。
 炎が渦巻きながら、卵殻のように彼女の体を包み込み、そして――。

「だから、特別に……本当のわたしで、あなたを殺してあげるわ」

 人化を――解く。
 少女の体がびきびきと変形し始める。
 まるで鳥がさらに羽化でもするように、背を飾っていた炎の翼が膨らんでいき、肌からは紅い羽毛が生えてくる。

 “太陽の化身”と崇められるレベル77の不死鳥――。
 その真の姿へと、少女は変貌していく。

 今まで誰かに本気を見せたことなど、彼女の永い生涯をもってしても数えるほどにしかなかった。
 それも人間相手になんて、そんなことは高レベルの魔物としてのプライドが許さなかった。

 だが、この人間には100%の力をもって相手をしよう。
 自分の矜持と、この人間への敬意のために。

 フィフィが真の姿に戻った瞬間――この戦いは終わる。
 人間など、灰の1粒も残らず消え失せるだろう。

 だから、彼女は優しく微笑んだ。
 この戦いの終幕に、そっと花を添えるように。

「さぁ、美しく灼かれなさい。今からあなたが見ることになるのは、わたしの究極の核融合魔……」




「――――隙ありィイィッ!!」




「え、ちょっ……」

 変身中に、普通に斬りかかられた。

 全身の腱に神経に筋肉――。
 体の動きに制限がかかる部位に、次々と的確にナイフがねじ込まれていく。
 対処しようにも、変身途中の半端な体ではうまく動くこともできない。


「うおおおォオォ――ッ!! これが、人間の力だァァ――ッ!!」


「い、痛っ……ちょっ、待っ……! やめ……! いったんストップ……!」

 人間の攻撃は止まらない。それどころか――加速していく。
 まったく躊躇いがない。容赦がない。


「ず……ずるいっ!」


「知るか! この世は勝ったもん勝ちだ!」

 人間が仕上げとばかりに、どんっ! とナイフを突き刺しながら体当たりしてきた。

「ぐ、ふ……ッ!?」

 半端に変身した体では踏ん張りがきかず、がくっと足を崖から踏み外し――そして、浮遊感。

 スローモーションで体が傾いていく。
 体から剥がれ落ちた紅い羽根が、はらはらと花吹雪のように舞うのが妙にはっきりと見てとれる。
 そんなゆっくりと移り変わる世界の中で――。

「なぁ、不死鳥」

 人間が悪魔のように笑った。


「――お前、炎がなくても蘇れるか?」


 人間がフィフィにナイフを突き刺しながら体当たりをする。
 フィフィが足を崖から踏み外し――そして、浮遊感。
 スローモーションで体が傾いていく中で……。

「なぁ、不死鳥」

 人間が悪魔のように笑った。


「――お前、炎がなくても蘇れるか?」


 一瞬、問いの意味がわからなかった。
 しかし、すぐに思い出す。
 自分がこれから、どこに落ちようとしているのかを……。

「……ッ!」

 フィフィの背後にあるのは――海だ。
 不死鳥は、死んでも炎の中から蘇ることができる魔物。
 逆に言えば、炎を浴びて灰にならなければ蘇ることはできない。
 もしも、死んでも蘇生できなければ――死んだままだ。

(…………まずい)

 フィフィの顔から血の気が引いた。
 おそらく、これこそが――人間の言っていた“不死鳥の倒し方”。

 単純に、“レベルで上回ること”が勝利の秘策なのだと思って、油断していたが……今さらながらに気づく。
 人間はあえてレベルアップについて語ることで、自分の狙いをフィフィに誤認させ、海から注意をそらしたのだ。
 そのうえで――。

(このわたしを殺し続けながら……ここまで誘導していたというの!?)

 いったい、どれほどの戦闘技術と実戦経験があったら、そんな芸当ができるというのか。
 人間の力を認めると言いつつも、やはり今の今まで油断があった。
 それがここにきて、ようやく……フィフィの本能が警鐘を鳴らした。
 しかし、もう遅い。

 すでに、落下は――始まった。


「……ッ!?」

 ぐるん――っ! と視界が回転する。
 人間ともつれ合いながら、海へと真っ逆さまに落ちていく。

 目に飛び込んでくるのは、血を流したように紅い夕焼け空……。
 その落日の光景は、これからフィフィの身に起こることを不吉に暗示しているように思えた。

「……く、ぅっ!?」

 中途半端に鳥の体になったのが、まずかった。
 鳥は仰向けになると弱い。鳥の肉体は仰向けの体勢を想定して作られていない。仰向けのままでは飛ぶことができない。

 しかし、体勢を変えようにも……。
 腱や神経が切られたせいで、体がまともに動かない。
 そしてなにより、上にいる人間が邪魔をしてくる――。


「……こ、のッ……人間の、分際で――ッ!」


 海に落下するまでの、わずか2秒間……。
 その時間内に体勢を立て直そうとするも――間に合わなかった。

 どぶん――ッ! と。
 抵抗むなしく、フィフィの体は海面に叩きつけられる。

「…………ッ!」

 大きな水飛沫が上がる。
 炎の翼が、じゅわぁあ……と一瞬でかき消える。

 夕日に照らされた海中に、燦然と散りばめられる紅い羽根……。
 全身に刃が突き立てられた体では、泳ぐどころか、もがくことすらままならない。

(…………ぁ、あ……)

 海の底へと沈む……沈んでいく……。
 光の揺らめく海面が、どんどん遠ざかる。

 沈んでいくフィフィと、浮上していく人間。
 彼のほうへと手を伸ばすも……届かない。


(…………わたしの……負け、か……)


 フィフィは、ごぼっと最後の空気を吐き出すと。
 そのまま、暗い海底へと落ちていくのだった――――。



   ◇



「…………はぁ……んぐっ……がはッ」

 不死鳥との戦闘後。
 俺はぼろぼろの体で、月光に照らされた砂浜へと這い上がっていた。

 戦闘の疲労のせいでまともに泳げず、ずいぶん波に流されてしまったようだ。
 思いっきり漂流してしまい、ここがどこだかわからない。
 あれから、どれだけ時間が経ったのかもわからない。

 見上げれば、空ははっきりと夜の色合いをたたえており、月はぼろぼろの俺を嘲笑うように冷ややかに輝いている。

「……はぁ」

 俺は体を引きずって歩き、砂浜の上にどさっと倒れるように寝転がった。
 そこで、しばらく呼吸を整えてから……。
 ぼんやりと自分の手を眺めてみる。


「…………生きてる、のか?」


 そんな当たり前のことを自問する。それほどまでに実感がなかった。
 低レベルの人間が、レベル77の不死鳥に挑んで生き残るなんて……笑い話にもならない。

 だけど、目に染みるような鮮やかな月空の色彩は、鼓膜を心地よく揺らす波のさざめき声は、鼻孔につんと突き抜ける潮の香りは、背中に伝わるじゃりじゃりと湿った砂の感触は……どれも、確かなものだった。

「……は……はは」

 食料や装備は全て失った。体力も魔力も尽きて、ほとんど満身創痍だ。
 疲労で体もまともに動かないし、頭も回らない。
 しかし、それでも……生きている。

「――――ッ!」

 遅れてやって来た実感に、思わず拳を空へと突き上げた。
 快哉を叫ぶほどの余力はないけれど、心はかつてないほど高揚していた。

 それから……ふと、手の甲に目を向ける。
 そこに青白く輝いているレベル刻印が、先ほどよりも大きく変化していた。


(……レベル58か。一気に上がったな)


 これほどまでに大幅なレベルアップは、前世でも経験したことがない。
 このレベルアップは、俺が不死鳥に勝った証だ。

(……まさか、本当に勝てるとは)

 相手が油断しきっていたことや、天恵(ギフト)の相性がよかったことが大きかった。
 もちろん、不死鳥はあの程度で殺しきれるような魔物ではない。
 ただ無力化して、次の蘇生までの時間を稼いだだけではあるが……。
 それでも、俺が勝ったという事実は揺るぎない。

「……人は、魔物に勝てる」

 俺は誰にともなく呟いた。
 町では言うたびにバカにされていた言葉だ。

 しかし、どれだけ時代が変わっても……。
 この世界の誰もが、口をそろえて否定しようとも……。

 それでも――俺は知っている。
 この世界でただ1人、俺だけは知っている。

 人間は食べられるだけの種族ではないのだと。
 それどころか、レベルアップできる人間こそが、最強へと至ることができる種族なのだと――。



『…………たしかに、そのようね』



 ふと、声が返ってきた。
 はっとして顔を上げると、月を背景にして(もや)のようなものが漂ってきていた。

 夜霧――では、ない。
 あきらかに異質なその靄は、しだいに俺の前に集まっていき……。
 やがて、幽霊のように人の形をなす。

「……なっ」

 思わず、上ずった声が出た。
 霊体になっていようが、その姿を見間違えるはずもない。


『ふふ……驚いてくれたかしら?』


 いきなり目の前に現れたのは、さっきまで殺し合っていた少女――。

 ……先ほど、海に沈めたはずの不死鳥だった。


 人間と不死鳥――。
 本来、相容れないはずの俺たちは、こうして出遭(であ)い……。


 ――この奇妙な出遭いから、俺の冒険は幕を開けたのだった。



 オーガに支配されていた町を脱出したあと。
 月光に照らされた砂浜で、俺は不死鳥の少女と再会した。

『ふふ……驚いてくれたかしら?』

 少女は悪戯成功とばかりにドヤ顔をする。
 なぜか彼女は霊体になっており、その体を通して背後にある夜空が透けて見えた。

「……っ」

 俺はとっさに腰に手を伸ばし――。
 そこに武器がないことを思い出して舌打ちする。

「……なんで、お前がここに? 海に沈めてやったはずだが」

『ふふん……どうやら、わたしの不死身力を甘く見ていたようね。たしかに、あの肉体が蘇れなくなったのは残念だけど、不死鳥の魂はそもそも肉体の檻なんかにとらわれていないわ。じゃないと、肉体が蘇れなくなったら死んでしまうでしょう?』

「……なんでもありかよ」

 さすがは、レベル77の天恵(ギフト)の力というべきか。
 おそらく、“不死”ということにかけては、全ての魔物の中でも最高位の力だろう。
 これでは本格的に倒しようがない。
 なんとか現状を打開しようと、考えをめぐらせていると……。

『そう、警戒しなくていいわよ』

 少女がくすりと笑った。

『べつに、戦いの続きをしに来たわけじゃないわ。どのみち、今のこの霊体(からだ)じゃ、魔力がないからまともに戦えないもの』

「…………」

 たしかに、この少女からは敵意が感じられない。
 それどころか、ほとんど魔力も感じられない。
 おそらくは、ここにいる少女は抜け殻みたいなものなんだろう。
 いくら超級魔法や神級魔法を扱う技術があったところで、魔力がないなら脅威にはならないだろう……ちょうど今の俺のように。

「……そうか」

 俺はわずかに警戒を解く。
 とはいえ、戦闘力がないからと油断するつもりはない。

「なら、なにが目的だ」

『お話をしに来たの。せっかく面白い人間に会えたのに、このままお別れじゃもったいないでしょう?』

「俺はもう二度と、お前に会いたくなかったけどな」

『そんなつれないこと言わないでよ。あんなに情熱的に殺し合った仲じゃない』

「それを言うなら、“俺がお前を一方的に殺した仲”だろ」

『う、うぐ……あ、あれはまだ本気を出してなかっただけよ。あんな負け方認めないんだから』

「あんな負け方、ね……」

 何気なく記憶を掘り起こしてみる。
 ついさっきの出来事だったためか、その記憶は鮮やかに脳裏に蘇ってきた。


 ――いいわ、認めてあげる。あなたは……強い。

 ――だから、特別に……本当のわたしで、あなたを殺してあげるわ。

 ――さぁ、美しく灼かれなさい。

 ――い、痛っ……ちょっ、待っ……! やめっ……! いったんストップ……!


「…………ああ」

『しみじみと思い出すのやめて』

「……よく考えると、舐めプしたまま負けるとか一番恥ずかしいやつだよな」

『よく考えるのやめて』

「やーい、敗北者」

『う、うぬぅぅうぅう……ッ!』

 めちゃくちゃ悔しがった。

「で、話ってなんだ? 敗北者?」

『ナチュラルに、その呼び方定着させるのやめて』

「いやでも、敗北者のことを、なんて呼べばいいかわからないし……」

『普通に名前で呼べばいいでしょう!?』

「……お前の名前って、なんだっけ?」

『さっき名乗ったじゃない!?』

「ああ……そういえば、なんか勝手に自己紹介してたな」

 思い出す。
 たしか……あれは、最初にこの少女の首をはねた直後だったか。
 あのときは正直、それどころじゃなかったが。

「たしか、お前の名前は……“フィーコ”って言ったな?」

『言ってない』

 不正解だった。

『なによ、そのインコみたいな名前? ふざけてるのかしら?』

「……いや、悪い。冗談とかじゃなくて、普通に覚えてなかった」

『そ、そう』

「…………」

『…………』

「……なんか、ごめんな?」

『いたたまれない感じの空気にするのやめて』

 心なしか少女がしゅんとする。

『ふん……まったく、これだから人間は低脳でダメね。この誇り高き不死鳥の名前を忘れるなんて、バチ当たりもいいところだわ』

「涙ふけよ」

『泣いてない!』

「で、名前はなんだ?」

『ふんっ……今度こそ、その頭に刻み込みなさい。わたしの名前は、フィフィ・リ・バースデイよ』

「ふ、ふぃ……めちゃくちゃ呼びづらいな、お前の名前」

 鳥の鳴き声っぽいというか、人間用の名前という感じではない。
 うまく舌が回らなくて、『フヒッ』みたいな発音になってしまう。

「仕方がない。バースデイさんと呼ぼう」

『なんか、誕生日の化身みたいになるからやめて』

「よっ、生ける誕生日」

『やめて』

「なら、もうフィーコでいいか」

『……結局、1周したわね。もう、それでいいわ』

「ちなみに、俺はテオだ」

『ふーん……って、テオ?』

 なぜか、ぴくんと反応を見せる。
 どうせ興味ないとか言われると思っていたから、その反応は少し意外だった。

「どうかしたのか?」

『…………もしかして』

 フィーコがしげしげと俺の顔を眺めてくる。
 しばらくそうしたあと、やがてなにかを納得したように頷いた。

『うん、気のせいね』

「そうか、気のせいか」

 よくわからないが、気のせいだったらしい。
 いや……なんの時間だったんだ、今の。
 そんなこんなで、敵同士なごやかな自己紹介タイムも終わったところで。

「で、話ってなんだ? 自己紹介をしに来たわけじゃないんだろ?」

 ふたたび本題に戻る。


『そうね。話っていうのは、端的に言うと――“確認”と“警告”と“提案”よ』