◆◇◆◇◆◇
いったい、何が起こったのか。
朋也には理解出来なかった。
何か気に障ることでもしてしまったのだろうかと思ったが、思い当たる節は全くない。
ただ、涼香を傷付けたことだけは何となく察した。
「女の気持ちって分かんねえ……」
こういう時、誰に相談したらいいのだろう。
紫織――は、とても言いづらい。
涼香は紫織の親友だ。
もしも、傷付けてしまったかも、なんて言ったら、紫織にこっぴどく叱られることは明白だ。
かと言って、自分に告白してきた張本人である誓子には、なおさら相談出来ない。
朋也はその場に立ち尽くしたまま、チノパンのポケットから携帯電話を取り出す。
ほとんど無意識だった。
指は、電話帳登録されている兄――宏樹の番号を選択して押していた。
コール音が鳴り続ける。
不意に我に返って通話を切ろうとしたのだが、それより先にコール音は途切れてしまった。
『お、朋也か?』
向こうも番号を登録しているから、すぐに朋也からだと分かったらしい。
挨拶を抜きに、いきなり、『どうした?』と切り出してくる。
『電話してくるなんて珍しいな。今頃になって家が恋しくなったか?』
「うるせえ。茶化してんじゃねえよ」
『あっははは! 冗談だよ、冗談! すぐにムキになるトコは昔っから変わらねえなあ』
電話の向こうで笑い続ける宏樹。
腹立たしく思いつつ、懐かしいやり取りに、ほんのちょっぴり心が和む。
『で、ほんとにどうしたんだ? もしかして、兄ちゃんに相談事か、ん?』
「――その〈まさか〉だったらどうするよ……?」
朋也の台詞に、宏樹の笑い声がピタリとやんだ。
まさか、本気で朋也が宏樹に相談事を持ちかけてくるなんて夢にも思わなかったのだろう。
そもそも、宏樹以上に朋也本人が一番驚いているのだから。
「――ほんとは女子の方がいいと思ったんだけど……」
『紫織じゃダメなのか? 紫織はれっきとした女子だぞ?』
先ほどとは打って変わり、真面目に返してきた宏樹に対し、朋也は絞り出すように、「ダメなんだよ」と訥々と続けた。
「紫織に言ったら、確実にこってり絞られるし……。なんつうか……、紫織の友達絡みだから……」
これ以上はどう説明していいのか分からなかったこともあり、言えなかった。
携帯の電波を通し、沈黙が流れる。
宏樹も何か考えているのだろうか。
『よく分からんけど』
しばらくして、宏樹から口火を切った。
『今度、連休でも取ってウチに来いよ。お前、ずーっと実家に戻ってないだろ? 親父もおふくろも、朋也はいつになったら帰って来るんだ、ってぼやいてるし』
「――別に俺が帰らなくたって、兄貴はずっとそっちにいるだろ?」
『お前のことが心配なんだよ。特におふくろは、いっつもお前を案じてるんだぞ? 手紙を書いても、ちっとも返事を寄越さないだろ?』
宏樹の鋭い指摘に、朋也はグッと言葉を詰まらせる。
確かに、実家にも戻らず、手紙での連絡さえもしていないのだから、普通の親であれば気にかかるのは当然のことかもしれない。
「まあ、何の音沙汰もないんじゃな……」
『そうだぞ? お前、とんでもない親不孝をしてるんだからな』
気付けば宏樹に説教されている。
とはいえ、宏樹の言うことはいちいちもっともだから、反論のしようがない。
「分かったよ」
朋也は溜め息を吐きながら言った。
「今度連休取ってそっち行く。日にちがはっきりしたら、また兄貴に連絡するよ」
『了解。紫織もお前に逢いたがってたしな』
宏樹は何気なく紫織の名前を出したのだと思う。
だが、朋也にしてみたら、紫織と逢うことは何としても避けたかった。
今回の件とは別にしても。
「あのさ、兄貴……」
朋也は無意識に声を潜めた。
「紫織には、俺が帰ることは内緒にしてくれないか?」
『ああ、友達のことがあるからか?』
「ま、まあな……」
煮えきらない口調で、宏樹も電話越しにでも察しただろう。
しかし、分かっているからこそ、よけいな詮索はしてこなかった。
『とにかく、帰って来る時は気を付けて来いよ? 事故ったりしたら元も子もねえからな?』
「分かってるよ。気を付けるから」
『じゃあ、またな』
「ああ、また」
会話を終え、朋也は携帯を耳から離して通話を切った。
ディスプレイはまだ、ぼんやりと明るい。
「兄貴とも、逃げないでちゃんと向き合わなきゃ、だな……」
携帯のディスプレイに向かって、ひとりごちる。
すると、ほどなくして黒い画面へと変貌を遂げた。
朋也は携帯を折り畳んだ。
そして、再びポケットに押し込むと、一歩、また一歩と歩き出す。
「まだまだ冷えるな……」
歩きながら、自らの身体を両腕で抱き締める。
白い息こそ吐き出されないが、頬や首筋を掠めてゆくそよ風は冷たい。
(あったかいコーヒーでも買って飲むか)
自動販売機を求めて、キョロキョロと辺りを見渡す。
と、少し先にほの白い明かりを見付けた。
朋也は口元を緩め、その明かりに向かって駆け出した。
[第五話-End]
宏樹と電話で話をした翌日、朋也は一週間後に三連休の希望を出した。
ちょうど来月度の休みの申請が出来るようになっていたから、本当に良いタイミングだった。
ただ、あまり自ら連休の希望を出さないだけに、周りからは、いったい何があったのかと不思議に思われた。
ことに充に至っては、『泊まりでデートかよ?』と下司な詮索をしてくるものだから、突っぱねるのに苦労した。
否定すればするほど勘違いされてしまうから、なおさら。
何はともあれ、一週間後は予定通り、実家に帰ることにした。
宏樹にはあらかじめ話していたから、両親にも伝わっているかもしれない。
その代わり、紫織には口外しないようにしてもらっている。
とはいえ、宏樹が黙っていても、母親が紫織と逢った時によけいなことを言わないとは限らない。
その時はもう、諦めるほかないだろう。
マイカーを持っていない朋也は、電車に乗って実家の最寄り駅へと向かう。
所要時間は一時間とちょっと。
県内とはいえ、それなりの長旅だ。
それにしても、ずっと実家に戻っていなかっただけに、長いこと電車に乗り続けるのは何とも不思議な心地だった。
就職のために今の職場の寮に向かっている間に同じ景色は眺めていたはずなのに、初めて見るような感覚に陥る。
考えてみたら、あの頃はまだ高校を卒業して間もない頃だったから、自ら決心したとはいえ、ひとりで生活することに不安を覚えていたことは確かだった。
◆◇◆◇
長い時間をかけて電車に揺られ、ようやく最寄り駅に到着した。
珍しいことに、宏樹が車で迎えに来てくれると言っていたので、改札を出てから宏樹の姿を探した。
いや、元々が狭い駅だから探すまでもなかった。
宏樹は、改札から出て来た朋也を見付けるなり、軽く手を上げてきた。
「お疲れさん」
宏樹に改めて労いの言葉をかけられると、変な気持ちだ。
しかも久々だから、正直なところ、宏樹と顔を合わせることに多少の照れ臭さも感じている。
「おう」
軽く挨拶を返した朋也に対し、宏樹は微苦笑を浮かべている。だが、よけいな軽口は叩かず、「そんじゃ行くか」と促してきた。
◆◇◆◇
実家を長いこと離れていたのだから、当然、宏樹の車に乗るのもずいぶんと久しぶりだった。
朋也が高校在学中に買った宏樹の愛車は、だいぶ乗り潰され、何となく年季が入っているように思えた。
「腹減ってる?」
朋也がシートベルトを締めたタイミングで、宏樹が訊ねてきた。
「まあ、そこそこに」
「そこそこか」
「来る前には軽く食ってたしな」
「じゃあ、家まで我慢出来るか?」
「こっからだったら大した距離じゃねえだろ?」
「それもそうだな」
他愛のない会話を繰り返してから、ようやく宏樹はアクセルを踏み込んだ。
少しずつ、スピードが上がってゆく。
「紫織は元気?」
何も喋らないのも気まずい気がして、朋也から話題を振ってみた。
宏樹は前方に視線を向けたまま、「ああ」と答える。
「そんなにちょくちょくは逢ってないけどな。こっちは仕事がちょっと忙しいし。けど、時間があればメシぐらいは食いに行ってるよ」
「そっか」
「朋也は?」
「俺?」
「うん。友達と飲みに行ったりとかしないのか?」
「まあ、行くことは行くよ。ついこの間は、人数合わせだとか言われて合コンに連れてかれたし」
「合コン? お前が?」
「――なんだよその言い方……」
「いや、別に」
そう言いつつ、宏樹はあからさまにニヤニヤしている。
合コンに参加したという事実が、宏樹的にはツボにはまったらしい。
「しっかしまあ、青臭いガキのまんまだと思ってたのに、とうとう合コンに参加するまでになったか。いや、兄ちゃんとしてはもちろん嬉しいぞ?」
「――茶化してんじゃねえよ……」
「茶化してないさ。お前が合コンの場でどんな話をしたのかを想像するのは面白いけどな」
「――だから面白いとか言うな。別に普通にしてたし……」
「そうか、普通か」
そこで会話が途切れた。
お互い、話すことがなくなり、車の中はエンジンと微かに流れるラジオの音だけが細々と聴こえる。
宏樹と話しながら、ふと、涼香のことが頭を過ぎった。
一緒に飲みに行った帰り、急に朋也から逃げるように駆け出してしまった涼香。
あれからずっと、気になってはいたものの、やはり、どうして涼香を追いつめてしまったのかの理由が分からずにいる。
涼香は男顔負けな豪快さがある。しかし、半面で非常に脆い。
それは何となくでも察した。
それと比較すると、一見弱そうな紫織の方が、精神的には強い。
(そういや、兄貴に相談する気だったんだよな、俺)
今さらのように気付いた。
だが、相談するにしても、どう話を切り出して良いものか。
もちろん、車の中で話す気はない。家に帰り、夕飯を済ませてからゆっくりと話すつもりだ。
「朋也」
不意を衝いて、宏樹が声をかけてきた。
思案に暮れていた朋也はハッとして、運転席の宏樹に視線を向けた。
「せっかくだ。今夜はふたりで飲みに出るか?」
「え? 家で食うんじゃねえの?」
「家ん中じゃ、かえってゆっくり話も出来ないだろ?」
そんなことはない、と言いたいところだが、母親のことだ。
家にいたらいたで、なかなか解放してくれないだろう。
ずっと帰っていなかったから、もしかしたら、ずっと小言を聴かされて夜が明けてしまいそうだ。
「もちろん奢りだよな、兄ちゃん?」
朋也は宏樹に向けてニヤリと口の端を上げる。
宏樹は朋也を一瞥すると、「やれやれ」と肩を竦めた。
「こういう時だけ『兄ちゃん』って呼ぶんだな、お前は」
「当ったり前だろ。スポンサーに胡麻すりしないでどうする?」
「『兄ちゃん』呼びが胡麻すりか……」
宏樹は苦笑いしながらも、「分かった分かった」と頷く。
「ま、言われなくっても俺が出すつもりだったしな。お前よりは蓄えはあるし」
「さっすが太っ腹だねえ!」
「ほんと調子いいな、こういう時だけ……」
そう言いつつ、朋也には嬉しそうにしているように映った。
◆◇◆◇
実家に戻り、宏樹は車を、朋也は荷物を自室に置いてからすぐに家を出た。
予想通り、母親には、「もうちょっと落ち着けないの?」とぼやかれたが、兄弟揃って聴いていないふりを装った。
ふたりが向かった先は、徒歩十分ほどの場所にある焼き鳥屋。
朋也が家を出て間もなく出来た店らしい。
焼き鳥屋だけあって、店の中は煙が充満している。
換気扇は回しているようだが、あまり意味をなしていない。
とはいえ、煙たさもまたその店の味だと思えばさほど気にならない。
朋也と宏樹は一番奥のテーブル席に着いた。カウンター席も決して悪くないが、宏樹なりに気を遣ってくれたのかもしれない。
確かに、カウンター席だと密談するには不向きだ。
それを考えると、奥の席が空いていたのは幸運だった。
密談と呼ぶには大袈裟かもしれないが。
「まずはビールでいいよな?」
宏樹に訊かれ、朋也は「ああ」と頷く。
それを見届けてから、宏樹が店の従業員を呼び、瓶ビールと焼き鳥をお任せで注文した。
ほとんど待つことなく、ビールは運ばれてきた。
一緒にお通しもそれぞれの前に置かれる。
従業員が離れてから、宏樹がビール瓶を持ち上げる。
そして、注ぎ口を朋也に無言で向けてきた。
朋也は少し慌ててコップを手に取った。
わずかに傾けて差し出すと、琥珀色の液体がコップの中にゆっくりと注がれてゆく。