『そんなわけだから、良かったら予定を空けておいて。出来れば休前日の木曜日。あ、どうしても無理だったら、ギリギリでもいいから連絡ちょうだい?』
「分かった」
『悪いわね、勝手に決めて。それじゃ、また今度。おやすみなさい』
「おやすみ」
最後の挨拶をしてからも、向こうからの電話は切れない。
朋也は少し悩んだが、結局は自分から通話を切った。
誓子に引き続き、涼香から電話がかかってきたことで忙しなかった。
しかし、涼香と話をしたら、不思議と心が穏やかになっていた。
涼香と誓子の強引さは似ているようで似ていない。
涼香は誓子と違い、ほど良い距離感を保ってくれる。
ましてや、男に『好き』などと軽々しく口にはしない。
「って、そもそも彼女が俺を好きなわけねえし……」
自惚れにもほどがあると思いながら、朋也は自嘲した。
「それにしても、いつ帰ってくるんだか……」
朋也は隣のベッドに視線を向ける。
合コンに一番乗り気だった充のことだ。間違いなく日付が変わった頃の帰宅になるだろう。
「さて、俺は寝るぞ」
まだ帰っていないルームメイトに告げ、朋也は瞼を閉じる。
アルコールがいい具合に眠りを誘い、数分も経たないうちに意識が遠のいた。
◆◇◆◇◆◇
電話が終わったとたん、涼香は一気に力が抜けた。
朋也に緊張が伝わらないよう、必死で明るく振る舞ったものの、心臓の鼓動は張り裂けそうなほど早鐘を打ち続けていた。
いきなり電話をするなど、ずいぶんと思いきった行動に出たものだと自分に感心してしまう。
怖くて途中で携帯電話を投げ出しそうになったが、朋也の声がどうしても聴いていたかったから、最後まで〈押し付けがましい女〉を演じ続けた。
「しかもやっちゃったよ、私……」
勢いに任せて、つい、飲みに誘ってしまうとは。
だが、後悔は全くしてない。
むしろ、何の行動も移さずに会話を終わらせてしまう方がよほど辛い。
紫織を除け者扱いしてしまったのは申しわけないと思ったが、下戸なのは事実だから、軽々しく居酒屋へは連れていけない。
ましてや、今度行くつもりの場所は、以前に上司の夕純に教えてもらった男性向けな居酒屋だから、なお無理がある。
「さて、紫織にも報告しといた方がいいのかな……?」
紫織は涼香と朋也のことをとても気にしている。
高校の頃から涼香の気持ちを知っているから、朋也と上手くいってほしいと願ってくれているのだ。
ただ、朋也がまだ紫織に未練があることも薄々勘付いているようだから、それはそれで複雑な心境でもあるようだ。
「私は別に、高沢と今のままの関係でいられれば充分なんだよ」
そう自分に言い聞かせる。
本音を言えば、友人以上の関係になりたい。
だが、下手に近付き過ぎたら、真面目な朋也のことだ。
今までと同様に接してはくれないだろう。
せっかく仲良くなってきたのに急に距離を置かれてしまったら、さすがに立ち直れない。
「ほんと狡い女だよな、私って……」
あまりにも臆病な自分が滑稽で、惨めな気持ちにもなる。
そんな自分を嘲り、深い溜め息を漏らす。
涼香は携帯を握り締めたままでいたが、それをローテーブルに置き、立ち上がった。
キッチンに入り、冷蔵庫を開けると、そこから缶ビールを一本取り出して再びリビングへ戻る。
プルタブを上げると、プシュ、とガスの抜ける音が響いた。
涼香は一気に半分ほどを呷り、また溜め息を吐く。
「こーんなガサツ女じゃねえ……」
ひとりでクツクツと笑い、今度はちびちびと残りのビールを流し込む。
夕飯は済ませていたから酔いの回りは遅かったが、疲れていたからすぐに睡魔に襲われた。
「もうちょっと可愛げのある女になりたいわ……」
空になったビール缶をテーブルに置き、そのまま突っ伏した。
少し強く握ってみれば、脆いアルミ缶は簡単にグシャリと潰れた。
歪んで情けない姿になった缶は、虚しく鎮座している。
それを眺めながら、涼香は意味もなく口元を緩めた。
(そういや、これが最後の一本だったね。明日買ってこないと)
本当にどうでもいいことを考えていた。
これが紫織なら、好きな相手と逢うために早くから服選びをしていそうなものなのだが。
「どうせオッサンですからー!」
開き直れば開き直るほど、また虚しさが募る。
やっぱり、ちょっとぐらいは紫織を見習うべきか。
そう思いながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
[第四話-End]
朋也と電話をしたすぐあとは、服装のことなど全く考えていなかった。
しかし、酔いが醒めた翌日になって、やはり女らしさをアピールしたいと急に思い立ち、当日になって着ていく服を物色し始めた。
しかも、夜が待ち遠しく思え、時間の流れがいつになく遅く感じてソワソワする。
こんな涼香を見たら、紫織はどう思うだろう。
もしかしたら、『涼香可愛い』などと言いながら楽しそうにケラケラ笑うに違いない。
馬鹿にする、というより、素直に涼香が〈女〉になっている姿を喜ぶ。
紫織はそういう人間だ。
だが、姉と妹は絶対に違う。
紫織と違い、あからさまに面白がり、揚げ句の果てにはデートの相手を確かめてやろうと躍起になる。
色んな意味で恐ろしい姉妹だから、親に頭を下げてまで一人暮らしを始めて良かったとつくづく思う。
「それにしても、これって変に気合入り過ぎて変に思われないかな……?」
涼香はひとりごちながら、全身鏡で今の自分の格好を改めて見つめる。
仕事の時はともかく、普段は進んでスカートを穿くことがない。
だが、せっかくだからと滅多に着ることのない、黒地に白い花柄があしらわれたワンピースを引っ張り出したものの、いかにも〈私、すっごく張りきっちゃってます〉感が出ていて、やっぱりこれはどうなのだろうかと思い直してしまう。
かと言って、いつものような白シャツとジーンズだとあまりにもラフ過ぎて、それも違うのでは、と思ってしまう。
こんな時、紫織がいたらどう言ってくれるかと考える。
「やっぱ紫織だったら、こっちがいいって強く主張してくるな……」
考え抜いた末、紫織が出すであろう意見を尊重しようと決めた。
自分で結論を出したというのが恥ずかしいから、勝手にこの場にいない紫織をダシにしたようなものだが。
「私だって女なのよ、うん!」
鏡の向こうの自分に強く言い聞かせ、何度も頷いて見せる。
よくよく自分の姿を見てみれば、ワンピース姿も決して悪くない。
膝が隠れるか隠れないかのギリギリの長さだから、脚もいつもよりも長く見える。
私もそこそこ見られるじゃない、と思ってしまう辺り、結構なナルシストなのかもしれないと涼香は自分で呆れた。
◆◇◆◇
待ち合わせ場所の駅には、三十分以上も前に着いてしまった。
本当に、どれだけ今日を楽しみにしていたのだろう。
恥ずかしいと思いつつ、ちょっとだけ、そんな自分を微笑ましくも感じてしまう。
朋也を待っている間、涼香は近くのベンチに腰を下ろし、携帯電話を弄っていた。
最近は携帯で様々なサイトを覗けるようになったから、ポケットベルを持っているだけで周りが盛り上がっていた高校の頃を考えると、本当にとても便利になったものだと感心する。
ただ、パソコンと違って見られるサイトはだいぶ限られるし、サクサク見られるわけではない。
ディスプレイはカラーになってはいても、画像自体はとても暗くて見づらい。
だが、携帯の進化は年々進化を遂げているから、そのうち、パソコンに負けずとも劣らない携帯が生まれてもおかしくないかもしれない。
(時代の変化に着いてけないよ、私……)
まだ二十代前半だというのに、年寄り臭いことを考えてしまう。
同時に、こんな発言をしたら、もっと年上の夕純はどんな反応を示すだろうか。
さすがに怒りはしないだろうが、『そんなこと言わないでよ』と、ちょっと哀しそうにされてしまうかもしれない。
その夕純とは、初めて飲みに誘われたことがきっかけとなり、それからもたまにふたりで仕事帰りに飲む機会が増えた。
夕純は本当に涼香を気に入ってくれているらしく、あの日以降も親しく接してくれる。
会社でも一緒に昼食を摂ることが多くなったから、周りの同僚にはとても驚かれている。
そして、何となく距離を置かれつつあるのも薄々察していた。
だが、自分達が嫌っている〈お局様〉と仲良くしていることで避けられるということは、淋しさよりも呆れてしまう。
むしろ、外面だけで判断する人間と付き合いたいと思わないのが涼香だ。
煩い噂話を聴き続けるのもうんざりする。
(けど、こんな性格だから誰とも上手く付き合えないんだよな、私って……)
苦笑いしながら、ふと顔を上げた時だった。
ちょうど、朋也がこちらに向かって速足で近付いてくるのが目に飛び込んだ。
涼香は携帯をバッグにしまった。
そして、今度はニッコリしながらヒラヒラと手を振った。
「ごめん、遅れた?」
恐る恐る訊ねてくる朋也に、涼香は、「ぜーんぜん!」と頭を横に振った。
「私がちょっと早かったのよ。まだ、待ち合わせの五分前」
「そっか」
涼香の言葉に、朋也はホッと胸を撫で下ろしていた。
「それじゃ、早速行こっか? それとも、もうちょっと休んでからにする?」
「いや、いいよ。正直、喉がカラッカラだし」
「あら、ほんとに正直ねえ」
「そういう山辺さんはどうなんだよ?」
「うん、私ももう飲みたい」
「俺とおんなじじゃねえか」
朋也が表情を崩したとたん、涼香の胸が小さく波打った。
記憶の中の朋也は、涼香に笑顔を向けてくれたことがない。
だから、ほんの小さな変化にもドキリとさせられる。
「よっし! ほんとに行くわよ!」
朋也に心を読まれないようにしようと思った結果、妙なハイテンションで声を張り上げてしまった。
案の定、朋也は呆気に取られている。
だが、涼香はそれに気付かぬふりを装った。
朋也の少し前を歩き、ひっそりと深呼吸を繰り返す。
ちなみに今日の行き先は、夕純が初めて連れて行ってくれた居酒屋だ。
本来であれば、女らしく、ちょっと洒落た店にでもした方が良かったのだろうが、あの店が本当に気に入ってしまったから、ぜひとも朋也も連れて行きたいと思っていたのだ。
それに、あのオヤジ臭い店の雰囲気は、涼香らしいと言えば涼香らしい。
しかし、今日の服装は、よくよく考えてみたら場違いだった。
それを今になって気付くのだから、迂闊にもほどがある。
(まあ、高沢は私の服装なんて気にしてなさそうだけど……)
せっかく悩んで選んだ服にも無反応な朋也に、ホッとしつつも虚しくもある。
もしも自分が紫織だったら、ちょっとした変化にもすぐに気付いてくれたんだろうな、とほんの少しだけ紫織に嫉妬してしまった。
(ああ、ほんっと私ってヤな女……!)
うっかり言葉に出そうになったが、何とか心の中で叫ぶだけに留めた。
◆◇◆◇
しばらく歩いて、ようやく目的の居酒屋に到着した。
「こいつはまた、なんつうか……」
朋也は言葉を濁したが、言わんとしていることはすぐに察した。
「すっごくレトロでしょ?」
涼香は『オンボロ』と言いそうになったが、中に聴こえてしまっては拙いと思い、あえていい表現を使った。
朋也は、「ああまあ」と曖昧に答えるも、明らかに、『すっげえボロいな』と言いたそうにしている。
というか、表情にはっきりと出ていた。
「ま、建物はこんな感じだけど料理の味は保証するから。お酒の種類も豊富だし、ほんとお勧めよ?」
「ふうん……」
涼香が強く推しても、まだ半信半疑なようだ。
だが、いくら口で説明しても疑いが晴れるわけではない。
そう思い、半ば強引に朋也の二の腕を掴み、立て付けの悪い扉を開けた。
中に入ると、以前に来た時と同様、ムンとした熱気を感じた。
ちょうどお腹を空かせていたから煮物のいい匂いが食欲をそそる。
一番奥の席が落ち着くな、と思っていたら、運良く空いていた。
涼香は朋也を引っ張る格好で、ズンズンと店の奥まで進む。
そして、そこでようやく朋也の腕を解放し、互いに向かい合って腰を下ろした。
「まずはビールにしとく?」
涼香が訊ねると、朋也は黙って頷く。
多分、全ての注文を涼香に任せる気でいるのかもしれない。
涼香は店の女将を呼び、思い付くままに注文をしてゆく。
朋也の好みを聞いていなかったから適当に頼んでしまったが、もしも食べたいものがあれば追加注文すればいい、と軽い気持ちで思った。
ほどなくして、瓶ビールが運ばれてきた。
以前に来た時と同様、ふたり分のコップにそれぞれビールを注いでくれる。
「それじゃ、乾杯ね」
夕純が言っていたような台詞を、涼香が朋也に向けて言っている。
朋也はコップを持ち上げ、「お疲れさん」と口元を小さく綻ばせた。
互いのコップが乾いた音を立ててぶつかり合う。
それからほぼ同じタイミングでビールを流し込む。
「ああ、生き返るわあ……」
またしても、夕純と同じようなことを口にしている。
だが、ビールを飲むと自然と出てしまうから仕方がない。
一方で、朋也も口には出さなかったものの、美味しそうにビールを飲み続ける。
喉仏を動かし、半分ほどなくなったところで、ようやくコップから口を離した。
それにしても、不思議な光景だと改めて思う。
アルコールを口に出来ない未成年の頃から知っているからというのもあるだろうが、朋也が涼しい顔をして酒を飲んでいるのがにわかに信じられない。
もしかしたら、朋也も涼香に対して同じ思いを抱いているかもしれない。
いや、朋也のことだから、涼香のことなど全く気にも留めていないだろうか。
(あ、なんかすっごい落ち込んできた……)
気分直しに新たにビールを注ごうと瓶に手を伸ばしたら、朋也が先回りして瓶を取り上げていた。
「手酌なんてしたら出世しないっつうだろ?」
涼香は驚き、けれども軽く会釈して、素直に朋也からの酌を受けることにした。
「女はそうそう出世なんて出来ないわよ?」
「そう? 山辺さんだったら男を踏み台にしてグングン上に行きそうだけど?」
「私の上司にそうゆう人はいるけど、私はそこまでなれないわ」
「出世欲はない?」
「さあ、どうとも言えないかもね」
涼香が言いながら首を竦めて見せたところで、コップが琥珀色の液体で満たされた。
ただ、泡がほとんどない。
やはり、少しでも開けてから時間が経ってしまったからだろう。
「ありがと」
涼香はニッコリと礼を言う。
朋也の気持ちは嬉しかったから、素直な想いが口から出た。
「私も注いであげるよ」
一本目は涼香のコップに満たされてなくなっていたから、二本目を新たに開ける。
栓抜きを使ってビールを開けるなんて家ではまずしないから、何となく新鮮さを覚える。
朋也は慌てて残ったビールを飲み干し、コップを軽く傾けてきた。
今度は開けたてだから、液体と泡がほど良い具合に注がれてゆく。
元々、涼香はビールを上手く注ぐのが得意なのもある。
朋也は自分に注がれたビールと涼香のビールを見比べ、少し決まりが悪そうにしている。
「俺、かえって余計なお節介焼いちまった……? 俺の注いだやつ……」
「別に気にすることじゃないわよ。これはこれで飲めるし。それに、私は注ぎのプロなんだから」
「なんだそれ、注ぎのプロ、って……」
「仕事の飲み会で必ずお酌して回ってるんだから、自然と上手くなるのよ。何だったら、高沢君にも教える?」
「まあ、どっちでも……」
「なにそれ」
涼香は思わず肩を揺らしてクスクスと笑ってしまった。
朋也は、何故笑われるのか、と言わんばかりにポカンとしていたが、やがて釣られるように喉を鳴らして笑い出した。