「また上野? わたくしああいう薄汚れたところにはもう参りたくありませんのよ」
燕湯
「う゛あ゛あ゛あ」
壁面には、雄大なる富山の立山が描かれていた。その横には今は貴重となった富士山の溶岩石によってつくられた岩山がある。
そして、客の居ない湯船、うなり声がある。
「う゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁ……」
湯船の中には美しい女がいた。陶器のように白い肌は赤くなり、優雅な輪郭は堅く食いしばれたことにより歪む。目を閉じ、ただずっと唸りながら湯船に肩まで使っている。
「あ゛あ゛あ゛ぁ……」
貴族令嬢マリーは現在47度の熱湯風呂に肩まで浸かっていた。
ここは上野有数の老舗銭湯である燕湯だ。まるで昭和時代のドラマのセットそのままな店構えとその内装は見るものを圧倒する。
「この銭湯は五十度近い都内有数の熱湯風呂が名物ですわぁぁ……煮込まれていくモツ煮になった気分……」
燕湯の湯船温度は最大50度にも達する。いかに貴族といえどそう長く耐えられる温度ではない。
「限界が見えたら熱湯風呂から脱出!」
豪快に湯船から立ち上がる、マリーの均整の取れた体。そのままシャワー場へ歩く。
栓を押した。
「そのまま冷水シャワー!!」
燕湯に水風呂はない。ザバザバと、冷水シャワーを頭から浴びながらマリーはゆっくりと息を吐いた。
「ふぅぅぅ、自律神経が整っていくぅ……」
△ △ △
「銭湯上がりのコーヒー牛乳はなぜこんなにも美味なのか……」
一糸まとわぬ全裸で腰に手を当ててコーヒー牛乳を飲む。扇風機の風を全身に浴びながら、タオルをスパンと肩に当てて担ぐ。まるでギリシャ彫刻の如き優雅な肉体美。
マリーは銭湯の作法を完全に習得している。
「燕湯は銭湯でありながら国指定登録有形文化財。まさに貴族にふさわしい伝統の風呂でしたわね……御徒町駅から降りて来たかいがありますわ」
今日は、上野を満喫するのだ。
「さあ、待望の十万円が給付されましたし、今日は貴族らしく昼風呂から上野を悠々と楽しみましょう」
十万円が来た。耐え難きを耐えた、その報いが今。
「これぞパーフェクトプラン……!」
その前に、服を着ろ貴族令嬢。
「まあ色々支払いで十万円もそれほど残っていませんが……まずこざっぱりとしたところで」
△ △ △
立ち呑みカドクラ
時刻は午前11時。数人の先客が卓を囲んでいる。ビニールシートが張られた店先を潜り、マリーはキッチン受付を目指す。
「始めはここですわ……ハイボール、ハムかつ、あと牛すじとキムチお願いしますわ」
注文し先に会計する。本来ここはキャッシュオンデリバリーで商品と引き返しに会計する方式だったのだが、コロナの流行で先会計の券で呼び出すやり方に変えたそうだ。
「あいよーはいまずハイボールと牛スジ!」
酒と煮込みはすぐに出てきた。マリーは風呂上がりの乾いた喉へ、迷うことなくハイボールをぶち込んだ。
ゴキュゴキュ
呑む。
ゴキュゴキュ
呑む。呑む。呑む。
ゴキュゴキュ
呑む。呑む。呑む。
ズゾゾゾ
そして底にある酒をすする。
やがて、マリーはジョッキから口を離した。
「……ああああ!! 四日ぶりの酒は美味すぎですわこりゃあ!!!! SAN値すり減るぅ!!」
令嬢は狂おしいほどに渇いていた。
「ハイボールおかわり! 濃いめで!」
またもカウンターで注文、酒と引き換えに会計して席に戻る。ついでにハムカツとキムチも持ってきた。
「カドクラは焼き肉屋大昌園の系列…肉系のつまみに外れない、当然ハムかつは美味……!焼き肉屋ということでキムチも外れがないですわ!」
ムシャムシャとむさぼりながら、さらにハイボールを傾ける。もういくらでも入っていきそうだ。
「やはり日が高いと飲む酒のうまさも倍に感じますわねぇ!!」
グビグビと呑む。呑んで食う。その開放感、プライスレス。
「というか酒はやはり昼から呑むもんですわ! むしろ夜呑むほうが不健全!!」
貴族令嬢の倫理観は一般人と少々異なっていた。貴族なので仕方がないことなのだ。
「しかし、アルコールやシートがペタペタ垂れ下がってはいますけれど、確実に人は店に戻ってきていますわね……」
店にはいる時も検温してアルコール消毒をさせられた。飲食業としてはクラスター発生源となっては致命的になるかもしれないので必死になるのは仕方ないことなのだが。
「少しずつでも、いつもの日常が戻って行くのは嬉しいものですわ」
グビグビと、ハイボールを呑む。
「酔っ払いがいない上野なんて米のないチャーハンのようなものですわ」
貴族令嬢の上野観は偏っていた。
△ △ △
肉の大山
店先の立ち飲みスポットを抜けてやや薄暗い店内へ。検温とアルコール消毒を済ませて、マリーはカウンター席に着座する。
「大山盛り合わせスペシャルランチ一つ、あとは生ビール。それと特製メンチ二個。ライス無しで」
「はいわかりましたー」
肉の大山、前回の上野ではここの立ち飲みスペースを利用した。だがここもまた上野老舗の一角。店内のレストランメニューも当然侮り難い。
「二件目はここですわ。大山はランチのコスパが抜群ですの。肉屋ならではのパワーあふれる肉洋食の味わい……堪能させてもらいますわ」
「はいビールとメンチカツ!」
まず即座に運ばれる酒とメンチ。流れるような手つきでマリーはまずなにもつけずにメンチをかじる。
「そして飲む!!」
ザクッとした衣、弾力ある肉。旨味。それらをビールの濁流で流し込む。
「荒々しい快感!!」
いくらでも呑める。呑めてしまう。
「店先での立ち飲みも乙ですが、こうやって座って落ち着いて味わうのも良きものですわ。……店先の立ち飲みスペースにサラリーマンが結構いますわね。そりゃこんなの見たらこらえきれませんわ」
これもまた上野の良き光景。酒と飯を分かち合う限り、人はみな優しく平等でいられる。日の高いうちから呑む酒は、この世から争いを無くすのだ。
「はいスペシャルランチー」
運ばれる皿。肉の大山名物の一つ。
「さあ本命ですわ……!」
サラダ、そして数々の肉料理がマリーを迎え撃つ。
「特選スペシャルランチはミニステーキ、ミニカツ、ミニハンバーグ、骨付きソーセージ、エビフライにポテサラという豪華な布陣。まさに大人のお子様ランチなのですわ」
お子様ランチ。様々な種類のワンプレートだ。色々な料理を一度に楽しめるというワクワク感は、教育と修養により成熟した精神を持つ貴族令嬢でも抗い難い。
「目移りするような殿方たちを前によりどりみどりな一時……まずはステーキ! 肉のうまさを上品に噛みしめますわ!」
ナイフで切ったステーキを口に運び、かみしめる。小さくても肉質は確か。
「ハンバーグにエビフライ、箸休めにポテサラもつまむ……洋食オールスターズで最後の最後まで食べる人間を楽しませてくれますわ、なんてエスコート上手な紳士達。……」
フォークとナイフが止まらない。そして瞬く間にビールが空になる。
「生ビールおかわりお願いしますわ!!」
高々と、貴族令嬢は空のジョッキを掲げた。
「ランチをつまみに酒を呑む、この背徳感が私を燃え上がらせますのよ……!」
△ △ △
「ふぅーやはりランチの満足感で少し満腹になってきましたわね」
アメ横から上野駅へ歩きながら、マリーは腹をさする。なかなかの充足感だ。
「しかしどこも平日の昼間から呑む人間ばかり……結局元の上野に戻ってますわね」
さもあろう。コロナと言われても日常の喜びを捨てることなどそうはできない。
「花見もろくにできない3ヶ月分のストレス、みなさん発散できる時をまっていたのかしら。……次の店どうしよ」
貴族令嬢は迷っていた。
「うーんと、ひさしぶりに上野来たらアレ食べようとか思ってても、いざ来たら忘れてしまっている……」
なかなか思い出せない。
「いやですわね老化かしら」
「えーと、あ、そうだあれだアレ」
「牛丼ですわ」
△ △ △
牛の力
「牛力丼、白一つっと」
マリーの細い指が、食券の画面を押す。
「牛の力は国産牛、高級醤油を使ったハイエンド系牛丼が売りの店。三大大手牛丼屋を除いた言わば個人店インディーズ系牛丼屋でもかなりの有名店ですわ」
細長いカウンターのみの構造の店内。その椅子に腰掛ける。食券を出す。しばしの間の後、おまちかねの丼が来た。
「はい牛力丼白お待ち!」
褐色の煮込まれた薄切り和牛の上に、温玉とバター、そして海苔が彩る。
「白は牛丼にバター温玉ノリをトッピングした代物。私はこれに卓上の丸ニンニクを」
テーブルにあるにんにく絞り器、そこに丸ニンニクを入れ、マリーそれを両手で持った。丼の上で構える。
「絞る……!」
ギュウウウウ
絞り器から、粉砕されたニンニクが飛び出す。
「もいっこ絞る……!」
丸ニンニクをもう一つ装填し、絞る。
ギュウウウウ
絞り器から、粉砕されたニンニクが飛び出す。
「もう一個、力を込めて…!」
丸ニンニクをもう一つ装填し、絞る
ギュウウウウ
絞り器から、粉砕されたニンニクが飛び出す。
「くたばれ、くたばれ消費税……!」
憎しみとは力である。
やがてニンニクマシマシな牛丼を混ぜる。溶けるバター、絡まる半熟。にんにくの芳香。
「そしてかっこむ……!」
ガツガツと、マリーは牛丼を胃にぶちこんだ、
「国産牛の柔らかさ……バターの背徳感…そしてニンニクぅ! 他では食えない牛丼ですわ!」
パワー。まさにパワーを今マリーは食らっている。生き抜くためのパワーだ。
「……ふぅー、汁物も味噌汁ではなくお吸い物なのも高級感を演出していますわね」
吸い物を飲み、ようやく人心地つくマリー。やはりこのハイクラス牛丼はいつ食べても満足感が素晴らしい。
「うー満腹ですわ…」
△ △ △
「ありやとやっしたー」
店員に見送られ、マリーは店を出る。眼前には上野広小路口。多くの人間が行き交っている。
「ふぅーひさしぶりの上野にはしゃぎすぎてしまいましたわね……貴族たるものいつまでもこんな風ではいけませんわ」
満腹から自己を反省する余裕が生まれる。常に自己を振り返る慎ましさが貴族に必要なものだ。
「……中断してた就職活動再開しませんと。YouTuberになれないかなとか現実逃避してる場合ではありませんわ」
戦わないといけない現実は、まだまだある。
「でも、その前にもう少し楽しんでもいいですわよね。
ちょっと神保町まで腹ごなしに行ってみましょうか……」
「焼肉屋……? 下々はよくこんな煙臭いところでお食事ができるものねえ」
「一番手は上タン。網に置いてから、上面に汁が浮かんできた所で皿に取り」
燃える炭。陽炎が踊る網の上で、牛タンが焼かれる。高熱に炙られ、表面に浮かぶ肉汁。
マリーはそのタイミングを逃さず、トングで取ってレモン汁の 入った小皿の上へ。
みじん切りのネギを肉に乗せる。
「そして食べる」
肉を食らう。同時に伸びる手がジョッキを掴んだ。
「すかさず生ビール!」
流し込む、その衝撃。
「これ、これですわ!」
貴族令嬢マリーは焼肉屋の中心で愛を咆哮した。
「食べてから三枚乗せる、焼けたら食べてまた三枚乗せる……」
感動に震えながら、機械のような精密運動を行う。焼肉を遂行するには、感情は不要だ。衝動ではなく、徹底した焼肉哲学に基づいた動きが成功を左右する。
「このペースが炭火焼き肉の鉄則、網に乗せまくるものは死罪にすべきですわ」
焼肉は、遊びではないのだ。
「あー、一人焼き肉のビールめっちゃ旨い」
グビグビとジョッキを明かす。
今日のマリーの姿は、いつもと違っていた。靴は革靴。長い髪はひとまとめに縛っている。そして、服装はいつものドレスでなない。
グレーのリクルートスーツだった。
「タン塩後の第二手は……店員さん、マルチョウとミノをお願いしますわあと生ビールおかわり」
「はいただいまー」
マルチョウ、牛の小腸である。ミノは牛の第一胃だ。
「間を繋ぐオイキムチ……焼き肉屋のレベルはキムチでわかりますわね。ん、美味しい」
ボリボリとキュウリを噛み砕く。甘さと辛さのグラデーション。いいキムチだ。
「まずは脂少なめのミノを焼く、内臓なのでしっかりめに火を通してから」
焼いたミノをタレにつけ、頬ばる。コリコリとした食感、そして肉の旨味。
「そして飲む……!」
そこにぶち込む生ビール。
「当然、当然の如く美味!」
焼いた肉、ビール、それは約束された勝利である。
「次のマルチョウ、牛の小腸ですわ。ここは茹でではなく生のホルモンを扱う店ですわ。レベルも期待できるというもの」
貴族令嬢はホルモンを生で扱う店にしか足を運ばないのだ。かさねていうなら水曜日曜の肉市場が定休日とその次の日も来店は避ける。新鮮な内臓肉を狙うためだ。
「皮部分を七部、脂部を三分。ゆっくり脂を落とすように焼いて……」
腸のホルモンは脂が多い。この脂をどう残しどう落とすかで焼く人間の技量が問われるのだ。
貴族令嬢マリーは脂をじっくりと落としてカリッとした食感を目指す派である、
「焼けたらコチュジャンを多めに解いたタレで……」
かみしめる、モツの旨味。
そして迎え撃つビール。
「……美味い!」
当たり前である。
「店員さん、網の交換を。それとハラミ、上カルビ、あとライスをお願いしますわ」
「はいはい今お持ちしますねー」
「それから3杯目は……マッコリをお願いしますわ。焼き肉屋でぐらいでしか飲めないものですからね」
△ △ △
「新しい網にハラミを並べる喜び……脂もほどほどで赤みの旨さを楽しめるハラミ。焼き肉界随一のエレガントですわ」
牛の横隔膜、ハラミ。肺を支え動かすための筋肉、ハラミは少ない脂肪分と濃い肉の旨味が楽しめるホルモン界の四番だ。
「ほどよくレア目の焼けた頃を見計らいサンチュの上にオン!!」
肉と野菜がいまここに究極合身。
「コチュジャン! キムチ! 巻く! そして食べる!」
流れるような動き。リクルートスーツといえどマリーの動きに淀みはない。焼肉屋とは貴族にとって常在戦場の場。油断はない。
「追ってマッコリ!」
口の中にはじける甘酸っぱさが肉の後味を洗い流す。
「昼から呑めるので当然のごとく旨さ杯付けですわ!」
時刻は昼12時である。
「……就職活動なんてやってられませんわ!」
マリーは、就職面接をフけていた。
「慣れないリクルートスーツまで着て!」
数年ぶりに袖を通したリクルートスーツは、少し腹と胸がきつくなっていた。
「わざわざ移動費かけて!」
往復520円は自腹である。
「人事部のクソハゲゴミヘドロ顔面スピロヘータの千葉県民に未来のビジョンがないとか社会でやってけないよとかウダウダウダウダウダウダイヤミ言われるなんてのをなんで何回も何回もやらないといけませんの!!!!!」
現在就職活動8連敗である。
「いけませんの!!!!!」
大事なことなので二度いった。
「……取り乱すなんて、わたくしとしたことが貴族らしくありませんでしたわね。だめですわ。今を楽しまないと」
貴族とは、反省ができる生き物である。
「ハラミを焼き肉界のエレガントと称しましたが、やはり焼き肉界の頭領と言えば上カルビ。それに白飯を添えればその姿は王と王妃の威容……」
王家である。マリーの目の前に、華麗なる一族があった。
「まずは焼くべし……」
炭の熱に、カルビの脂が沸騰する。人は火を見ると本能的に安心する習性がある。太古の昔に外敵に怯えながら火を囲んだ本能だろう。
そして、太古の昔から人は火で肉を焼き食らってきた。
肉を焼くことは、原始的な、人間という生き物の根幹に根ざした喜びなのである。
「そしてタレべっとり漬けからのオンザライス……!」
肉と米。逆らえる日本人などいるのか。
「で、食べる」
肉と米を、胃袋にぶち込む。ぶち込み尽くす。
「マッコリで流す……」
グビグビと、ただグビグビと酒を飲み干した。
「これがエピキュリズムの極地!!!!」
快楽の果てがここにある。
△ △ △
「ありがとうございましたー」
「就職活動のストレスで思わず焼き肉屋に飛び込んでしまいましたわ……後でファブリーズしないと……」
衝動で行ってしまった焼肉。だが時には貴族とて衝動に身を任せたくなる時もある。仕方ないことだ。
「明後日も面接……焼き肉で活を入れたのだからここで頑張らないと」
肉。肉と酒がマリーを支えてくれるのだ。
「……あ、あっちの焼鳥屋開いてるちょっとよってこうかな」
「インド……カレー屋……? どうせバングラディシュかネパール人が作ってる店なんでしょ?」
「……やってる?」
昼だというのに薄暗い店内、ドアをくぐる貴族令嬢マリーはどこかおっかなびっくりに声を出す。
「ヤッテルゥ、ヤッテルヨーオ客サァーン」
店内奥から人懐っこい声で店員が出てきた。浅黒い肌のアジア系、だが何人かはよくわからない。多分インド人ではない。
「オ客サァーン、コチラドゾー」
案内された席にマリーは腰をかける。隣の席に仕事着が入ったリュックを置いた。
「ふぅー」
仕事終わりの疲れから一息吐く。メニューをめくりなにを頼むかしばし思案した。
「えーと、タンドリーチキン、あとバターチキンカレー。それとナン。瓶ビール」
「ハイネー。辛サドースル?」
「一番辛いやつで」
貴族は迷わない。
「死ヌヨー」
店員の警告はドストレートだった。
「いいからやって」
「ワカッタヨー」
スタスタと店奥に引っ込む店員。なんというか毒気を抜かれる接客だ。
「相変わらず緩い接客ですわねぇ。私、友の裏切りは許せても辛くないカレーは許せませんの……」
貴族令嬢には許せないものが三つある。辛くないカレー、辛くない麻婆豆腐、ノンアルコールビールだ。
「ストレスがたまると、無性に辛いものが食べたくなりますわね……」
就職活動は現在15連敗。辛さだ。辛さだけがマリーの心を癒すのだ。
「アイヨー ビールネー」
栓を抜かれ運ばれるビール瓶。アハヒスゥパァドゥラァイだ。
「これこれ」
トクトクと、コップにビールを注ぐ。泡3に液体7の黄金比に整えた。
そして一息に飲み干す。
「ふぅー……ストレスが緩和されますわぁ」
コップにビールを注ぎつつ、薄暗い店内から外を見る。マスクをした高校生達、帰りのサラリーマンやOLなどがいた。
「もうすぐ夏休みねえ……どうせコロナだし、特に仕事しか予定はないんだけれど」
遊ぶ予定はない。遊ぶ相手もとくにいない。ついでに海もここ最近行ってない。
「ないんだけれど」
ついでにそんな余裕もない。
「ないんだけれど!!!」
カレーは、救いはまだか。
「オ客サーン チキンヨー」
店員の姿より先に匂い立つ芳香がマリーの元に届いた。複雑なスパイスの香り。焼きたてのタンドリーチキンの香り。
「タンドリーチキン、まあようはカレー味のチキンなんですけれど、カレー屋にくるといつも頼んでしまいますわね……」
フォークで黄金色の鶏肉を口に持って行く。
「ここは本式のタンドリーでパリッと焼いてくれるのが売り。そこにアサヒビール……」
グビリと、呑む。
「印日同盟成立ッッ!!」
日本とインドの共同歩調、平和への道のりがマリーには見える。
「なぜビールとカレー味はこんなにも合うの……」
ムシャムシャと鶏肉を食い、ビールを呑む。インドの奥深い文化にマリーはおぼれていた。
「しかしUber EATSも参加者が増えてなかなか仕事がこない…」
「十万円給付も来たはいいけどいろいろ支払いで大して残らないし……」
「アイヨー カレートナンネー」
救いだ。救いがやってきた。
「……悩むのは後回しにして食べましょう。蒸し暑くも冷たい世の中でもバターチキンだけは私を包み込んでくれますわ…ナンをちぎってカレーにつけて」
ぶちっとちぎってカレーをとっぷりとつける。
「食べる!」
かぐわしいカレーの芳香、奥深い香り。そして鮮烈な辛さ。
「追ってビール!」
飲み干す一杯。
「ナマステッ!!」
旨さに思わず挨拶してしまった。
「辛いッッ!! そりゃ辛さマックスで頼んだわけだから当たり前だけど、やはりカレーは辛くないと食べた気がしませんわ!!」
ナンをちぎる、カレーに漬ける。食べる。そしてビール。手が止まらない。美味い。
「海外では中華とインド料理はどこにでもあると言われているそうですが、たしかにあらゆる民族にこのスパイシーさはウケて当然ッッ!」
インドの強さ、ここにあり。
「それに酒が合えば向かうところ敵なし……ゼロの概念、インド映画のボリウッド、テレポートにヨガフレイム。インド恐るべしですわ…」
貴族令嬢のインド観はかなり貧弱だった。
「店員さん、ビールお代わり。あとほうれん草のカレーとチーズガーリックナン一つ。激辛で」
「アイヨー」
雑だが小気味よく返事。本当にこの店の接客は独特だ。緩すぎる。
「一杯程度では収まりませんわ…今宵火がついたカレー欲は…!」
今日はどこまでも激辛で行きたい。明日にトイレでどうなろうともうマリーは構わないのだ。
△ △ △
「ハイカレートナンネーチーズガーリックヨーあとビール」
「ナンの真骨頂はチーズ入りに有り……!アツアツを千切ってのばせば!」
ナンの中に入れられたチーズがたらりたらりと糸を引く。チーズの糸を何回か巻いて引きちぎり、チーズだらけのナンをもって、カレーの上へ。
「伸びるチーズをカレーにドブヅケしてぇ!」
豪快にカレーに漬ける。つけるというか沈めるに近い。
それを引きずり出して口へ運ぶ。
「食べる! そしてビール!」
スパイスの辛さを、ガーリックの鮮烈さを、チーズのまろやかさを、ビールの爽快感が洗う。
「you win!!!!」
勝利確定。もう手が止まらない。本能の、衝動のままにナンにカレーを次々と沈め、引き上げ食らう。
「カレー! ガーリック! チーズ! そして辛さマックス! うまさの竜巻旋風脚ですわ!!」
瞬く間に空になる皿。
「ふぅー、やはりインド料理にハズレ無し……待ちガイルのごとき鉄板戦略ですわ」
トタトタと、店員が一息ついたマリーへなにかを持ってくる。
「ハイネーコレサービスノラッシーネー」
「あ、どうも……」
「ユックリシテネー」
「接客は雑だけど、サービスは丁寧なのよねえ……」
△ △ △
「マタキテネー」
手を振る店員、どうにも子供っぽく見えて困る。
「接客は緩いものの、結局店員の愛嬌が印象に残る店ですわねぇ……しかしこのコロナ禍、あの店も来年にまたいけるのでしょうか」
一寸先は闇。こんな時代ではどうなることか。
「…その前にまず私のほうが来年無事に正月を迎えているのかがわかりませんけれど」
「あらあらこんな兎小屋に私を? ここが蕎麦屋? 庶民は窮屈な所で下等なものを食べるのが好きなのねぇ」
「剣菱の冷や。それと海苔。あと卵焼きをお願いしますわ」
席に就くと品書きを見ながら五分の熟考の末、マリーはそう注文した。
「はい只今」
やがて店員のおばさんが、徳利と木箱を持ってきた。
酒を注ぎ、箱を開ける。中には練炭で炙られた海苔。
「蕎麦屋呑みと言えば剣菱。赤穂浪士も討ち入り前に呑んだと有名ですわね」
まずは冷やを一口すする。口内にすっと広がる日本酒の香り。そしてすっきりとした後口。
「この冷や酒に、あぶった海苔の香ばしさが合うのですわ……」
海苔を一口かじる。パリパリとした食感に、磯の香り、海苔の味。そしてそこに追いつく酒。
ほぅ、と貴族令嬢は息を吐いた。
「昼の蕎麦屋酒を一人楽しむ……」
時刻は昼の1時。今日は休みだ。なにも予定はない。
天気は良く、気温もほどほどだ。
遅く起きた時、今日は蕎麦屋で呑ろうと思い立った。
寝る前に剣客商売を読んだからだろうか。
ネギ入りの卵焼きが、やたら記憶に残る。
「池波正太郎の世界を味わっている感覚ですわね……」
チビリチビリと酒を煽り海苔を齧る。時間はゆったりと流れ、ただどこか好ましい倦怠感に包まれている。立ち食いや居酒屋ではなく、本式の蕎麦屋で呑む。酒飲みならば一度は憧れるものだ。
「はいこちら卵焼きですぅ」
「どうもどうも、あ、にしんの棒煮とお酒もう一つ。冷やで」
空になった徳利と引き換えに卵焼きを受け取る。焼き目がしっかりとついた店で焼いている卵焼きだ。ふんわりと香るのは、中に日本酒を入れて焼いているため。
「蕎麦屋の卵焼きには蕎麦屋の命たるそばつゆのかえしが入っていますのね。一味ちがいますわ……」
箸で千切り、大根おろしをのせて一口。はふはふと熱気を冷ましながら冷や酒できゅっと迎え撃つ。
「ふはぁ……」
うまい。うまいに決まっている。箸が止まらない。酒も止まらない。
「お待ちどう、にしんの棒煮とお酒ですぅ」
皿の上にはとろりと甘露煮されたにしんの半身。いわゆるにしんそばの具のにしんである。
「このにしんの棒煮も蕎麦屋以外ではあまり食べないもの……こっくりと甘辛に煮られていて酒が進みますわ」
これもチビチビと千切り食べ、チビチビと呑む。甘辛い煮られた身欠きにしんが実にいい酒のつまみだ。
「いい天気ですわねぇ……」
窓の外は快晴。梅雨入りしかけている今では珍しいだろう。だが外の人手は少ない。
「アベノマスクってまだこないのかしら……」
近くにあったスポーツ新聞を捲る。スポーツはほぼ休止してるので、野球選手やサッカー選手の感染報道ばかりだ。
こんな記事では酒の肴にはなりそうもない。
「ウーバーイーツの仕事も最近ちょっと減ってきて…わたくしこのままずっと独身なのかしら……」
マリーはそろそろ結婚適齢期が近い。だが、結婚の予定はまだなかった。
「で、でも結婚って今どんどん遅くなっておりますわ。まだですわ。まだ焦る時間じゃないですわ……」
結婚の予定は、まだなかった。
「……だ、だめですわ弱気になっては! 攻めの姿勢! 貴族は常に攻めの姿勢でなくては!」
マリーは、後退のネジを外しているのだ。
「天ぷら盛り合わせお願いしますわ!」
とにかく、なにかアガるものを食べよう。ゲン担ぎ的な意味で。
△ △ △
「蕎麦屋の天ぷら、定番ながら安定の味。エビはぷりっと、キスはほっくり、最高ですわ」
天ぷらをむさぼる。揚げたての熱々に天つゆを浸し食べるこの快感は貴族でも虜になる。
一口目に感じるゴマ油の香り。食欲をそそる芳香と、そして火の通りも絶妙だ。エビもキスもやや半生で仕上げ素材の甘味を舌に感じる。
「酒が止まらない……!」
そして二本目の徳利が空になる。空になってしまう。
「このボルテージを最高潮のままにして」
手をあげて、貴族令嬢マリーは高貴に、しかし力強く叫ぶ。
「店員さん、ざるそば。大盛でお願いしますわ。あとお酒もう一つ!」
△ △ △
「うっめ、うっめ」
一気に蕎麦をすすり込む。ここは更科だ。蕎麦の実の中心を使った白い蕎麦は、貴族に相応しい上品なのどごし。
なによりここは汁がうまい。
「ぷはぁ」
蕎麦を食べきり、蕎麦湯を注ぐ。グビグビと飲み、そして交互に冷や酒を呑む。
蕎麦湯で薄めた汁。これがまたつまみにやれるのだ。
「あー全部汁飲んじゃった……」
貴族は、塩分過多など気にしない。
△ △ △
「まいどー」
店員に見送られ、帰り道を歩く。日はまだまだ高い。風はどこかぬるい。
ふわりとした虚脱感。いい酔い心地だ。
「ふう……なんとかことなきを得ましたわ。酔い醒ましに少し歩こうかしら」
トボトボと、白いドレスが街を行く。
「餃子……? 下品な食べ物を出す店は店構えも客層も品が無いわねぇ、この……王将という店は」
「いらっしゃっせー!!! お一人っすか!!!!」
いきなりの気合いの入った接客。しかし貴族は動じない。
「ひとりですわ。あと瓶のおビールとお餃子二人前」
席につきながらまず注文。メニューは見ない。
即座に店員がビールとグラスを持ってくる。
「はいこちらビール!!! お疲れ様です!!!」
「あどーもどーも」
トクトクと注がれるビール。とりあえずは冷えたやつを一杯飲み干す。
「あ゛あ゛!! うまいっ!!」
最近気温が上がってきた。暑い外仕事帰りにビールが染みる。
「えい! リャンガーコーテー!!」
店員がキッチンスタッフに絶叫する。エコーが店内に響き渡った。
「このコールを聞くだけでも来る価値がありますわねぇ……」
グビグビと、店員のシャウトと店内のラードの焼けた香りをつまみにビールをあおる。
客入りはコロナにしてはボチボチ。夕方の餃子の王将は、今日も熱く燃えていた。
「はい餃子二人前!」
最速で最短で真っ直ぐに運ばれてくる餃子。これぞまさに餃子の王将の魂というべき根本だ。
「王将は『餃子のタレ』が置いてあるのですわね。関東出身の私としてはタレは醤油ラー油などでつくるもの、あらかじめタレがあるなんてと驚いたものですわ」
王将の餃子は王将の食べ方がある。マリーは餃子のタレに酢多めがマイスタイルだ。
「王将の餃子……常にハイスピードで出てくるまさに王将の魂ですわ」
より早くよりうまく。あまねく餃子に飢えるものたちのために、餃子の王将は今日も焼かれる。
一口、餃子を食べる。野菜そして肉。それらにニンニクの香りがまとわれ一体となる旨味。
「今時はにんにくのない餃子も増えましたが……やはりこのにんにくが利いてる王将の餃子はいいものですわね。そしてビール」
ぐいとコップのビールをあおる。餃子とビールという完璧なコンビネーションに、マリーはしばし沈黙した。
「ノスタルジィ……」
昭和から変わらない街中華の原風景。日本人にしかわからない、日本人のための中華料理。ただ貴族としてマリーは敬意を表するのみ。
「さて、次手はなにをすべきか……ここはやはりジャストサイズを活用したいですわね」
王将ジャストサイズ。豊富なラインナップの王将の中華を、少なめお手頃価格で注文できるシステムである。
「ニラレバ、エビチリ、ジャストサイズで。あと鶏の唐揚げお願いしますわ」
「あいよー!!!」
豪快な挨拶。キッチンへ注文を絶叫する。
「中華メニューの充実レベル、やはりその辺は日高屋とは比べものにならない高さですわね……昔は関東でも鶏のチューリップ頼めたのに、今はもうダメなのはちょっと気にくわないけれど」
エビチリが食べたい。バンバンジーが食べたい。ゴマ団子が食べたい。もし真夜中にそんな欲望にかられたら、人はどうする?
王将ならば、そんな人も癒やすことができるのだ。
「それにしてもまただんだん仕事が落ちてきましたわねぇ……コロナ自粛復活から上がったテンションが落ちてきたような」
なんともいえない倦怠ムードが社会を包み込んでいる。こればかりはいかに貴族といえど払拭はできない。
「Uber EATSもあまり稼げなくなってきたし、やはりなにかべつの副業か転職を……」
だが、正社員の就職活動はまだ成功していない。
「ダメですわ……呑んで、呑んで不安を忘れるのよ!」
餃子を食いビールで洗い流す。いまはこの快感だけでいい。
「はいご注文の品お待たせしましたー」
「きたきた。色々な品を少なめに頼めるのがジャストサイズの良いところですわ……あ、ビールもう一本お願いしますわ」
まずはエビチリ。ぶっくりとしたエビに絡むチリソースが光る。嬉々として貴族令嬢は口にぶち込んだ。
「エビチリ! 甘辛のソースにエビの旨味…超大好きですわこれ!」
そして追ってビール。快楽が舌と喉を灼く。
「大好物のニラレバ!! レバーの旨味とニラもやしの香ばしい歯触り、ビールを呼んでいる!」
レバーの味、そしてニラやもやしの歯触り。止まらない。もうマリーは暴走列車だ。
「はいお客さんビールです!!」
「あらありがとう……でもすぐになくなりそうね。三本目も、いやここはチューハイにしとくべきかし」
「……もし、あなたは?」
不意にかけられる声。思わず声の方向を見上げる。
「え」
思わず、呆けた声を出すマリー。懐かしい人物が、二度と忘れられない人が、そこにいた。
「あ、ああ、」
言葉がうまく出ない。まさかこんなところで会えるとは。
いまこの瞬間が、夢なのかもしれないとさえ思えてくる。
流れるような、輝く銀髪は柔らかに揺れている。整った顔立ちにどこか憂い眼差し。慈母のように穏やかな笑みと、気品溢れる振る舞い。高い身長とマリー以上に均整の取れた体型を、金の刺繍が飾る絹のドレスで包み込む。
それはまるで月下に咲く一輪の白菊のような。
「あなたは!」
伯爵家という高位の家柄に生まれた貴族令嬢マリーでさえ、どこか引け目を感じてしまうほどの高貴を超えた血筋と品位を感じる。
変わっていない、なにもこの人は、あの頃と変わっていない。
「あなたは……お姉さま、コニーお姉様ではありませんか!?」
コランティーヌ、愛称はコニー。貴族子女工業高校時代にマリーを可愛がってくれた先輩令嬢だ。
「ごきげんようねマリー」
思わず立ち上がる。ドレスの裾を持ち上げ、敬意をこめて挨拶を返す。いかなるときも貴族は礼儀を欠かしてはならない。例えそれが数年ぶりのどれほどに嬉しい再会であっても。
「ごきげんようですわお姉さま……!」
「こんなところで会うなんて……一体いつぶりでしょうか」
懐かしい。懐かしさがなかなか言葉にできない。やっと一息つき、マリーは喋り出した。
「お姉さまが貴族子女工業高校を退学になられて、実家に帰って以来……五年ぶりですわ」
貴族子女農業高校への殴りこみ、もとい交流が発端となりコニーは退学になったのだ。マリーも問われたその責は、コニーが全て指示したと自ら背負った結果である。
その後に祖父母のいる関西に帰ったと聞いたが、連絡を取っていなかった。
「もうそんなに経ったのね。あなたの綺麗な金髪ですぐに思い出した。変わっていないのね」
マリーの金髪を撫でながら、コランティーヌは微笑む。変わらない。貴族子女工業高校で姉妹の契りを交わしたころからなにも、変わっていない。
「お姉さまもお変わりなく……あれからどうしていたのですか?」
どうしても気になる。コニーはなにをして過ごしていたのか。
「実家の関西に帰って家業を手伝っていたのよ。岸和田の」
岸和田? たしか聞いていた話しでは。
「お姉さまはたしか実家は神戸のほうだと」
コニーの微笑みが、止まった。
「……ええ、神戸よ、岸和田は家業の支店があるほうね。すこし間違えてしまったわ。オホホ」
「そ、そうでしたの。神戸と岸和田では偉いちがいですものね!」
「そうねマリー。神戸と岸和田ではね!」
しばし笑いあう。だが、コニーの笑い方はどこか固かった。
「というわけで、実家が関東に支店を出すことになって、その準備にこっちに戻ってきたのよ。懐かしいわね、東のほうは……」
「まあ! お姉さまのお家の家業とはどんなお仕事ですの?」
「そうね、解体業よ……いろいろなものの」
一体なにを解体しているのか、
「若頭! 逃げた社長の居場所つかみましたで! あのタコオヤジどないイワしますかいな!?」
突然、コニーの後ろから大柄の中年が寄ってきた。ダブルのスーツに、ごま塩頭。そして顔には刃物の傷跡がある。
「な、なんですのこちらの方はお姉さま……?」
「外じゃカシラじゃなくて専務と呼べいうたろうがこのホンダラがぁ!」
コニーの手が卓上にあった空のビール瓶を掴み、一閃。同時に中年の男がのけぞる。
今までの慈母の微笑みではなく、激怒の形相を浮かべる先輩令嬢コニー。
「アダッ!!?」
ガン、という小気味よい打撃音。
マリーも言葉を失う。
「昔のツレん前で恥かかすなやボンクラがぁ!!!」
さらに殴打、殴打、殴打。中年の男が腕で必死にガードしている。
「せ、専務! 堪忍して下さい!」
「お、お姉さま、ここは店の中ですので……」
マリーの制止にやっとコニーの動きが止まる。表情に慈悲の微笑みが宿った。
「はぁ、はぁ、……イヤだわはしたない、つい故郷の神戸の喋り方がでてしまって……恥ずかしい」
「神戸ってそんな土地でしたっけ」
思ってた神戸と違う。
「ごめんなさいねお見苦しいところをお見せしてしまって。それでは仕事が入りましたので、名残惜しいですが今日はここまでで、ごきげんようマリー」
ゆっくりと優雅に別れの一礼をし、たおやかに店を去っていくコニー。その振る舞いは貴族子女工業高校の頃からなにも変わっていない。
「いくぞグズ!」
中年を蹴って、起こす。
「へ、へい専務!!」
「あ、はいごきげんよう…」
「……」
なんというか、言葉が出ない。とりあえず座り直す。
「……唐揚げおいしいですわ」
もぐもぐと口に運ぶ。バイオレンスの後でも中華はおいしい。
「ショッキングなことがあっても美味しさは変わらないですわ、さて締めに頼むのは、醤油味の焼きそば、大盛で…!」
△ △ △
「はい大盛り醤油焼きそばおまち」
「この醤油とオイスターソースの香りがたまらないですわ!」
一口すする。香ばしさと旨味が炸裂。ビールが進む。
「そこに酢を足してさらにサッパリ加減をアップ!」
ダクダクと酢をぶち込む。小瓶の半分まで入れるのはもはやノルマだ。
「焼きそばを飲み込みながら、追ってビール!
ベストコンビネーション!!」
最後の一杯を、高らかに飲み干した。
△ △ △
「ありやとやっしたー」
「ふぅ……王将、日高屋並みに店舗が関東にあったらこちらのヘビーローテーションしてしまうところですね。私の分の会計を払っていてくれたのね。ありがとう、コニーお姉さま……」
トボトボと街を歩く。生きていれば、歩き続ければ、懐かしい相手とまた出会えるものだ。
「……お姉さま、お仕事頑張っているのでしょうね。なんのお仕事かよくわからないですけれど」
コニーの仕事は、マリーにはよくわからない。
「あ、あっちに新しいやきとん屋開いてる。ちょっとみてこ」
終わり
「いわし……庶民はこういう下魚ばかりありがたがって食べているのね。かわいそうなことだわ」
がらら、と引き戸が開く。外の雨音が雪崩れ込み、人影がのれんをくぐる。傘たたみながら店内へ。
すすけた壁と使い込まれて飴色を放つカウンター、その椅子に腰掛けながら貴族令嬢はゆっくりと今日の品書きに目をこらす。
「へいらっしゃい」
居酒屋の大将の言葉を無言で流し、少しの沈黙の後に貴族令嬢は口を開いた。
「お新香、日本酒……八海山の冷やで。あとは……イワシの刺身、それと塩焼き」
「あいよ」
即座に出される徳利とぐい飲み、そしてお新香。注ぎながら、マリーはため息を吐いた。
そしてまず一杯を飲み干す。
「ふぅぅ……」
少しだけ、マリーの目尻に涙が浮かんでいた。
「梅雨でドレスがカビましたわ……」
マリーの服装は今、ジャージであった。
貴族子女工業高校の校章が入った紫のクソダサイジャージであった。それとスニーカー。長い金髪はひとまとめにして巻いてある。
「まさか二着同時にカビが生えるとは……この貴族の目でも見抜けませなんだ」
現在、ドレスはクリーニングと補修に出している。
「また金がかかる……給付金ほとんど残ってませんわ」
江戸時代、金には足が生えていると言われていた。まるで足が生えているようにすぐに逃げてしまうという意味である。
マリーは思う。現在では金は進化した。足どころか翼が生えていると。
「ですが失ったものを悔いても仕方ないこと……振り向かないことが誇り高い生き方なのよ……!」
貴族は前に進み続ける。例えどれほどの別れがあろうとも。
もう一度、酒をあおる。これは弔いの酒である。ドレス二着分のクリーニングと補修費への弔い。
「へいイワシ刺、それと塩焼き」
冥福への祈りを断ち切る大将の言葉。運ばれてきた料理にマリーの視線が移った。
「入梅イワシ、梅雨入りのイワシは油が乗って最上とのことですがどれほどのものか見せていただきましょうか」
刺身をしょうが醤油で一口。口内に広がる油の甘味、いわしの旨味。
「そこに合わせて酒!」
ぐいと呑む。合わさる喜び。
「旨いですわ……」
梅雨らしく、しっとりと喜びを呟く。旨い。旨くて当然だ。
「ただでさえ旨いいわしの刺身が、油が乗ってさらに旨い……ああ、私の心がいやされていきますわ」
刺身をつまみ、酒をちびちびとやる。この居酒屋に流れる有線はいつも昭和ムード歌謡だ。音は控えめなので、外の雨音が聞こえてくる。
蒸し暑くろくなことがない梅雨でも、こうして呑めるならば悪くはないものだと思えてくる。
「さて次はいわし塩焼き……」
箸で身を摘まむと、見事な油のてかり。大根おろしと共に一口頬張ると焦げた皮と油の香ばしい香りがする。
「追って日本酒!!」
またぐいと呑む。いわしの旨味を日本酒がよりふくよかにさせてくれる。
「これは何杯でも飲めますわね」
イワシはかつて下魚とされ、豊漁だった江戸時代は畑の肥料にされたという。今はもう高級魚になりかけているというのに。
「時代により扱いは変わるもの。それは貴族もイワシも同じですわ」
逃れられないのだ。魚も人も時代からは。
「……仕事、途絶えましたわね」
梅雨入りの雨が続き、外現場の仕事が途絶えた。
「しかし耐えなければいけません。耐えることも貴族の美徳……! それには活力が必要。そして活力とはなにか」
活力とは、生きる力を与えるものとはなにか。
「それは油ものですわ。大将、このイワシの大葉チーズフライ、それと中生」
「あいよ」
△ △ △
「はいイワシ大葉チーズフライ、それとビールね!」
「来ましたわぁ」
開かれた後に、くるりと巻かれフライにされたイワシ。それをマリーはそのまま豪快にかぶりつく。
マリーは歯が丈夫なので小魚の小骨程度は気にしないのだ。顎が強いことは貴族のたしなみである。
「ふはぁ、衣のサクサク、揚げられたイワシの旨さに、チーズと大葉が渾然一体となり……たまりませんわぁ!」
そこにビールをぶちかます。梅雨を吹き飛ばす爽快感。
「くぅぅ……無限に呑めますわぁ!」
△ △ △
「ありあとやっしたー」
大将に見送られ、マリーは店を出る。
そとは相変わらずの雨であり、蒸し暑さは変わらない。
だがマリーの心にはいくばくかの爽やかさが戻っていた。
「天気予報では明日は晴れ……仕事も予定が入っていますわ。今日を不幸が覆っても、明日には明日のやるべきことがある。人生とはそういうものですわ。なによりもそれが自由というもの」
ピチャピチャと、雨の中をジャージのマリーが歩く。
「……やっぱドレス着ないほうが快適ですわね」
「発泡酒を開けて」
缶のプルタブを開ける。シュワシュワと炭酸の弾ける音は、駅前の雑踏にかき消された。
マリーは少し周りを見渡すと、壁と壁の角に残業明けの疲れた体をぴったりとはめ込む。
「でさーうちの旦那がギャハハハハハ」
中年のおばちゃん同士が話し込む。旦那の悪口で爆笑していた。
「このあとタピオカいくー?」
女子中学生のグループが笑いながら歩いている。駅前のタピオカ屋に向かっていった。
「さきいかをつまみに呑む」
開けた袋から頭だけ出したサキイカを、くわえる。そのままムシャムシャと噛みながら、発泡酒を一口グビリと呑んだ。
マリーの視線は駅前の人々を見つめ続けている。その眼差しは、冷めていた。
「えーその件ではうちのミスですので本当に申し訳なく……」
携帯越しに話しながらペコペコと頭を下げるサラリーマン。家路を急ぐOL。そんな人々を見ながら、マリーは冷めた目で酒を呑む。
「つまみに呑む……」
もぐもぐとさきいかを飲み込み。酒を流し込む。やがて、貴族令嬢の手が止まった。
「……」
そして、ぐしゃりと空になった缶を握りつぶした。
「ステーションバーなんてぜんぜん楽しくないですわ!!!」
漫画でやってたからとりあえず試してみたが、やはりこれはダメだ。
「駅の隅っこ挟まってその辺のおばちゃんや学生見ながら酒のんでなにか楽しいんですの!!!??」
なにが楽しいんだろうか。
「なにが!!! 楽しいんですの!!?」
大事なことなので二回言ってみた。
△ △ △
「あー試しにやってみましたけれど、飲み代無駄にした気分ですわ……」
微妙だと思ったものはやはり試すべきではない。貴族たるもの慎重に戦うべきであった、
「この傷心は、次の店で癒やすしかありませんわね」
そういうと、貴族令嬢は優雅な足取りで立ち食い寿司屋ののれんをくぐった。
「はいいらっしゃい」
店員の出迎えに、指一本立てて返す。
「一人ですわ」
「ではこちらのカウンターで」
「ビール、それと味噌汁を」
「へい今すぐ」
「大きめの駅の中には立ち食い寿司屋というものがありますわ。立ち食いそばのように立って職人の握った寿司を食わせるスタイルの店ですの」
カウンターのみで寿司や酒を出す。電車の待ち時間に気軽に寿司を食えるといったスタイル。
目の前で寿司職人が握ってくれるところを直に見れるところも売りだろう。寿司マシンとはやはり味わいも違って感じるものだ。
「回転寿司よりも上、だが回らない本格的な寿司よりは下という微妙な中間ラインを駅ナカという入りやすさを武器に攻めるジャンルの立ち位置……」
「江戸前寿司の発祥はこういった立ち食い屋台で食べさせる寿司屋、実は本来の源流にもっとも近いあり方の寿司屋スタイルと呼べるものですわね」
「はいビールと味噌汁です」
受け取ったジョッキに口をつけた。
「まずは喉にしめりけを!」
グビグビと呑む。
「季節のネタから攻めたい気分ですが、それは後に取って……タイ、アジ、赤貝お願いしますわ」
「へい」
「寿司の食い方はいろいろこだわりを問われますが……」
白身など味わいが淡白なものは先に。油の強いものは後に。ガリはホイホイ食べ過ぎない。色々と寿司食いには堅苦しいものがある。
「私はその時の気分で好きにやる派ですわ」
貴族令嬢は、寿司だけは食べ方に指図されるのがこの世で一番嫌いだった。
「寿司食ってるときに細かいことなんか考えたくありませんの!!」
自分の稼いだ金で寿司を食うのである。他人が文句を言われる筋合いはないと貴族令嬢は考える。
「日本人なら目の前の寿司に無心になるべきですわ!」
寿司は自由だ。自由に寿司を食うべきなのだ。少なくとも、この一瞬は。
「残業で疲れて空腹のときはなおさらに!!」
今夜のマリーのHPは20くらいしか残ってない。
「へいタイアジ赤貝」
出された寿司、その鯛をマリーは素手でつかむ。マリーは寿司は素手でたべる派だ。
「回転寿司もけして悪くはありませんが、懐に余裕があるうちはやはり目の前で職人が握るやつをガッツリ食べておきたいものですわね……」
寿司は旨い。安くても少し高くても旨い。寿司を逆さにし、醤油にネタの方をちょいとつけ、一口で頬張る。
「タイ、白身の基本…そして夏が旬のアジ、私の好きな赤貝……」
ヒョイヒョイと寿司が消える。交互にビールで流し込む
「追って味噌汁!」
あおさの味噌汁。熱い旨味が胃を癒やす。
「外人にこの快感はわかりますまいに!!」
カリフォルニアロールが好きなやつらにこれをわかってたまるか。
「ひらめとうなぎ、あとハマチお願いしますわ」
「へい」
「開いた間をガリをつまみつつ味噌汁を味わう……寿司屋のガリはついついつまみすぎて困りますわね」
しゃくしゃくとガリを噛む。甘酢と生姜の爽快感はやはりやみつきになるものだ。
「あおさノリの味噌汁、大好きですわぁ」
ズズズと味噌汁を啜る。店内のオススメをみながらなにを頼もうか考えを巡らせる。この瞬間がマリーは好きだった。
「あと日本酒、八海山で」
「あいただ今」
運ばれてくる升酒。
「ビールから日本酒への切り替え、スムーズに行えるかが酒飲みの技量というもの。ここは経験がものをいうのですわ」
そろりと頼んだ寿司が並ぶ。それらを貴族令嬢は無心で食べ、飲み込み、胃にぶち込む。そして酒で流す。シコシコとしたひらめ、濃厚なツメのうなぎ。ハマチの油の甘み。
順番なぞ関係ない。食べたいときに食べたいものを食う。寿司を前にすればマリーは獣だ。
「ここらでそろそろ旬のものを……するめいか、それとイワシとすずき」
されど獣とて季節は愛でるもの。
「へい」
「寿司を思い通りに食える。社会人になった喜びですわね」
正直好きなときに好きなだけというわけではないが。
「へいいかにイワシとすずき!」
即座に寿司に伸びる手。
「イカの甘味、最高……イワシも脂がありますわねぇ…」
そして升酒。コップの縁に口をつけた。
「もっきりの八海山……」
すすり込む。日本酒の芳香が、寿司を何倍もうまくする。高めあう両者。
「口中に夏の日本海…!」
「開いた隙間へ升に入った分を注ぐ…!」
慎重に作業。粗相は許されない。
「一滴残らず…! この作法だけはきっちりやっておきたいですわね…あ、あと炙りとろサーモンとかわはぎお願いしますわ」
「へいかわはぎ、それととろサーモン今炙りますねー」
そして突き出される白身のカワハギ。焼きたての香り漂う炙りとろサーモン。
「かわはぎは夏が旬……そしてかわはぎの本体とも言える肝を上に載せてくれるありがたさよ」
歯ごたえあるカワハギに肝のとろりとした旨味が加わる。応えられない。
「そして炙りとろサーモン。江戸前にサーモンはないなんて今はもう言うのも野暮というものですわ。美味いものが寿司屋にあってなにが悪いというの」
サーモンの脂が熱で溶け出しこれも絶品だ。
「八海山、冷やでもう一杯お願いしますわ」
「へい、八海山の冷や!」
酒だ。酒がどうにも足りない。
「近頃は低糖質といいながら酢飯を残す人もいるという、愚かしいですわね。このシャリとネタの渾然一体となったものを味わわずしてなにが寿司ですの……」
貴族令嬢は寿司の食い方に文句はつけられたくないが、他人の食い方には遠慮なくつける女だった。
「あと酒、寿司に絶対酒必要ですわ。手巻きのあなきゅう、あと漬けマグロに生だこ」
△ △ △
「はいまいどありがとうございます」
のれんを出る。そろそろ夜九時近い。遅くまで呑もうという気もおきないので、そろそろ帰るか。
「ふぅ…思ったより食べてしまいましたわねぇ。やはり寿司屋、気が抜くと勘定が思ったより高かったりしますわ……」
レシートをみながらスタスタと駅中を歩く。何度見返しても頼んだものしか書かれていなかった。
「ふぅ……人手不足で明日の現場も多分残業ですわね。明日の気温は……」
スマホで明日の天気を見る。
「天気予報だと超快晴の38度かぁ。家で寝てたいですわあ……」
七月の時点で、太陽は人を殺そうとしている。
「……いえダメですわこういうときに諦めてはサボり癖がつきますわ。行くといった以上はいかないと」
「貴族たるものは働けるうちに働くのよ、マリー」
「いらっしゃませー」
ドアとと共に熱風が吹き抜けた。午後2時、七月後半の最高潮の気温の中に佇む人影がある。
ゆっくりと、クーラーが効く店内へ入る。その足取りは、どこかふらついていた。
やがて、倒れ込むように案内された座席に座る。
こけた頬で、かさつく唇で、息も絶え絶えに貴族は呟く。
「……ール、オナ……オナシャス、アトギョ」
ボソボソとした声。店員が貴族に近寄り耳をかざす。
「……はい、はい。ギョーザ、生ビール、はーいいますぐ」
店員を見送り、がっくりと彼女はテーブルに突っ伏した。
「……」
ぐったりとしたまま、動かない。
そのまま死んだように待つ。
ビールを、待つ。
ギョーザを、待つ。
水分とタンパク質を、待つ。
「はいおまたせしやしたービールとギョウザ」
「……!!」
ガバと頭を上げて運ばれてきた二品を見つめる。旅人が星から導きを得るように、希望のように、どこか懐かしいように、見つめる。
やがて、震える手を差し出す。
震える手が、ジョッキを掴んだ。
震えるまま、ゆっくりと口に運ぶ。
グビリと、喉が鳴る。
またグビリと喉が鳴る。
鳴る。鳴る。鳴る。
呑む、呑む、呑む。
空になったジョッキを机に叩きつけた。
「……アアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!! ウマイイイイイ!!」
マリーの精神は崩壊しかけていた。
「アアアアアアアアアア!!!」
絶叫が収まらない。
「水分補給もほどほどに日中の現場上がり!!!」
今日の気温は40度を超えた。あえて水分はほどほどに抑え今この瞬間の快楽にそなえていた。
「そこに生ビールを喉にぶち込んだら!!」
このために乾いていた。このために渇いていた。このための乾きだった。このために汗を流した。
「そら発狂もんですわねえええ!!!」
これは訓練を積んだ貴族階級のみにできることであり、一般庶民には危険が伴うのでおすすめできない。
皿に酢コショウ。ギョーザをそこにつけて一口食べる。
「生ビール!!!! おかわり!!!!!」
声がデカい。
「はいただいまー」
「はあ、はぁ、さすがにこの気温の現場仕事はなかなかきつかったですわね……空調服もないよりはマシでしたけれどもう少し性能上がらないかしら…」
もう少し作業時間が長ければやばかったかもしれない。
「地球は確実に人類殺しにきてますわね。しかし、日高屋もすでに今月八回目……この日高屋シンドローム状態からそろそろ脱出したいのですが…」
「はい生ビールでーす」
酷暑からの日高屋エスケープ。これがなかなか耐えきれないものだ。
「あ、どもども。駅近なのでフラフラとついよってしまう。だめよ貴族たるもの自分を律さなくては……」
「不況でも日高屋のギョウザは安いですわね…」
安いつまみは助かる。特に毎日来る自分には。
「おつまみ唐揚げ、あとメンマ下さる?」
「はいただいまー」
「しかし今年は海もプールもお祭りも中止、しけた一年ですわねぇ……」
この分では年末年始も似たようなものになるのではないか。
「そして毎年のこの猛暑。誰ですの今年は冷夏になるとほざいていたやつは……? ぶっ殺して差し上げますわ」
マリーは毎日の暑さで気が立っていた。
「現場仕事はボチボチ戻ってきたけど正社員募集の求人もめったにないし……」
すでに就活は30連敗である。
「やはりなにか新しい仕事を探すべき…? いやその前に資格を……貴族子女工業高校で取った資格ではそろそろ限界ですわね。溶接とフォーク、あと玉掛けでは戦えませんの?」
「はいおつまみ唐揚げとメンマー」
運ばれてきた肉と油とそしてメンマ。貴族令嬢の思考が途切れる。
「……とりあえず今は飲んで食って明日考えればいいですわね。店員さん、黒酢冷やし麺大盛。あと大盛券ありますわ」
「はい冷やし大盛ー」
「明日は明日の風が吹きますわ! 貴族たるもの今を楽しむべし!」
唐揚げ、メンマ、そしてビール。人に希望を与えるものは、なにも大きなことや物が必要なわけではない。ただささやかに、今日を支える糧でもいい。貴族とはそういうものだ。
「はい冷やし中華おまちー」
「この日高屋の冷やし中華、奇をてらわない味付けがいつ食しても見事ですわ!」
「日が高いうちから呑んでると思うとさらにうまさも倍付けですわ!」
△ △ △
「ありがとうございましたー」
「ふー、しかしまたこのパターンにハマってしまった……日高屋ループからそろそろ抜け出さないと」
外はまだむっとする熱気が漂う。この熱気は夜まで収まらないのだ。たまらない。
だがマリーは今日を、今を強く生き抜かねばならない。明日を夢見るために、今年は冷夏だといったバカをぶん殴るために、帰って檸檬堂呑んで寝るために。
「……明日は油そばにしようかしら」
「大宮……? いかにも埼玉の田舎者が集まるところらしい街だわ」
「はいどうぞ」
のれんをくぐり、コロナ対策に開け放たれた戸口をくぐる。アルコールと検温を済ませてマリーは長テーブルの丸椅子にどっかりと腰を落とした。
ビニールの丸椅子など、ひさびさに見た気がする。
首をコキリと鳴らしながら壁を見上げる。元は白色だったろう壁が茶色に染め上がり、そこにやはり茶色着いた品書きの札が一面に張られている。値段のところだけ白いのはそこだけ張り替えたから。
「えーと、赤星。それとキュウリの一本漬けに煮込み、あとアジフライ」
さらりとメニューを決める。よってきた店員のおばちゃんが、紙に直接メニューと値段を書き始めた。ここは徹底的なローテクで注文と会計をしている店だ。
化石か。
「あいよーはいビールお待ち」
なにはともあれ酒のレスポンスは早い。それが一番大事だ。ぽんと栓を抜かれたビールをコップに注ぐ。
「液体7の泡3で注いで」
くっと、喉に差し込む。
「一気に飲む!」
喉を通る刺激。灼熱の8月頭を乗り越えたマリーには染みる。
「ひさびさの赤星、効きますわね……」
ここは大宮駅東口からすぐにある老舗居酒屋、いずみやだ。東口から徒歩十秒ほどの立地にある。朝の10時から秒で酒が呑める紳士の社交場、大宮のエルサレム、または埼玉のソドムである。
とにかく大宮駅を降りてで手っ取り早く呑みたいならばここだ。
「早めに終わった仕事帰りでふらっと来てしまいましたけれど」
たまに埼玉方面にくるマリー、大宮はあまり利用したことがなかった。いかにも酒飲みが寄ってきそうな場所だというのに。
「はい煮込み漬け物アジフライー」
淡々と運ばれるメニュー。
「しかしまあこの店はなんだか落ち着きますわねぇ。なんというか大宮は埼玉県の“いいかげん”がぐぎゅっと濃縮された感じで居心地が良さそうですわね…」
グビグビとビール、そしてポリポリときゅうりを摘まむ。
「とくに大宮駅降りて徒歩ゼロ分にあるこのいづみや……ドリフの酔っ払いコントに出てくるセットのような古臭い建物、そして昼間から堂々と酒を飲ませるスタイル……」
落ち着いた住宅街。マンション開発の進んだ駅前。そういう小ぎれいになっていく街とはやはり大宮は雰囲気が違う。どう開発が進み人口が入れかわろうと、なんというか、雑なのだ。
その雑さが、落ち着く。
「雑さがぶっきらぼうな優しさに見える、良い街じゃないですの大宮」
煮込みに箸を伸ばす。ここの煮込みはとにかく安く、そして早く出てくる。
「ここの名物は煮込み、安さ速さに味が揃えば……」
もつを味わい、グビリと呑む。
「当然侮り難し……」
大宮に長年佇む、酒場の風格があった。
「見上げれば煤けた壁に同じく黄ばんだ紙に書かれた大量のメニュー……ちょっといくらなんでも多過ぎじゃありませんの?」
焼き鳥や揚げ物はもちろんそれにプラス料金で定食もできる。元は酒屋が発祥だったそうで、酒のメニューも多い。無敵である。無敵要塞だ。
「長テーブルに丸椅子というザ☆チープな内装もしみじみと落ち着く……こういうのでいいんですわこういうので!」
ビールを飲み干し、手を上げた。
「チューハイ! あとシシャモ!」
「ハーイ」
△ △ △
「ありがとうございましたー」
「ふぅ……濃密な昭和感に思わず長居しかけましたがいけませんわ。今日はハシゴと決めておりますので。次は」
酒蔵力
赤い。とにかく赤い店構えだった。
看板が赤い。戸が赤い。店員の服装も赤い。なんだここは。共産主義か。
「大宮から浦和にかけての居酒屋グループならばここがまず有名ですわね。相変わらず真っ赤な店構え……」
本店が浦和にある酒蔵力は、当然地元チームである浦和レッズを応援している。浦和レッズのチームカラーは赤。ゆえにこの烈火のごとく赤で染めている。
それにしても、赤すぎる。大宮には大宮アルディージャがいるというのに。
「はいいらっしゃいやせー」
若い店員が小気味よく迎える。お年が上気味の淑女店員が多いいずみやより勢いがあった。
「ハイボール一つ。あと焼き鳥のモモ、かしら、レバー。全部塩で」
「へーい、ただいまー」
「ここは元は肉屋が本体ですので、肉メニューに外れがありませんわ」
「はいハイボール、それと焼き鳥でーす」
「ここは焼き鳥は二本から注文なので調子乗って頼むと結構な量食わされるので注意ですわ……」
モモを一本手にとり、豪快にかぶりつく。もも肉の弾力と脂の旨味。塩が引き立てる。
たまらずにハイボールを煽った。
「肉屋の腕は内臓肉にでる……ぷりっとした断面のレバー、なるほど鮮度がいいですわね」
切り口に角の立つのは新鮮な証だ。それに絶妙な火の通りでレバーの味を引き立てる。
「臭みなくレバーの旨味が口に広がる、そこにハイボール!」
もう一杯目が無くなった。
「店員さん、ハイボール濃いめでもういっぱい!」
「はいハイボール濃いめ一丁!」
「あらそうそう、この店に来たら頼んでおくものがありましたわ」
マリーは思い出した。この店に来たら必ず頼むと決めていたあのブツのことを。
中毒必至の、あの合法麻薬というべき代物を。
「焼き豚足、ハーフで」
「はいただいまー」
「豚足というと茹でたものを酢みそで食べるイメージが強いですわね。見た目からニガテな人も多いと思いますわ」
なにせ豚の足そのままである。冷えた豚足を酢味噌や唐味噌というのもやはり好みがわかれそうだ。
だが焼き豚足は違う。あれはもうヤバい。
「しかし私から言わせてもられば、あのような豚足の食べ方は二流ですわ」
「はいハイボール濃いめに焼き豚足!」
「豚足は焼いて食べるのが一番うまいのですから!」
マリーの目に、暗い欲望があった。ジャンキーの目をしていた。
半割りにされた豚足が、焼かれて焦げ目をつくっている。ジュクジュクと沸騰した脂に、にんにくダレがかかる。その香りが貴族、マリーの本能を誘う。
「焼かれてコラーゲンが溶け出した豚足に、大量のネギとにんにく風味のタレがかけられていますの……」
豚足にネギを乗せ、手で持ち上げる。震える唇を、開く。
「これを手づかみでむしゃぶりつく!」
ガツガツ犬のようにかじりつく。骨の周りの皮やとろけた関節コラーゲンをはがし、すする。ネギの辛味とにんにくの香り。たまらない。
「変わらず本能に突き刺さるお味ですわ! 今わたくしは餓えた野犬なの!!!!」
豚足にかじりつく自分は今なんと浅ましい姿だろう。だが仕方ない。マリーは悪くないのだ。すべての責任はマリーを狂わせるこの豚足にある。
「まとわりつくコラーゲンと脂をハイボールで流す!!」
グビリグビリと、ハイボールを呑む。炭酸の爽快感がまた豚足に向かわせる。
「これはまさに合法の麻薬ですわ!!!!!」
退廃都市、大宮。ここでは焼き豚足と呼ばれる麻薬が乱用されていた。
△ △ △
「またのおこしをー」
「ふう……焼き豚足キメると満足感がはんぱないですわね…さてあとは、ええっと」
豚足の威力にマリーもひれ伏しそうになる。だがここで下がっては貴族ではない。マリーはかろうじて持ちこたえた。
酒蔵力を出て、飲食店の並ぶ商店街をうろうろとあてもなくぶらつく。
そこでふと、奇妙な店を見つけた。
「あれは大宮名物の……そうそう、大宮来たからには一度あそこいってみようと思ってましたのよ」
マリーは、観葉植物と雑多なメニュー書きが並ぶ喫茶店へと足を踏み入れた。
伯爵亭
「はいいらっしゃいませー」
中年男性の店員に席を案内され、座るマリー。しげしげとやや薄暗い店内を見渡す。
「……しかし個性的な店構えと内装の店ですわねここは…」
まず間違いなく純喫茶のたぐいではない。無国籍喫茶とでもいうべきか。
「まず店の外側にはよくわからない植物や置物があり……」
この時点でもう店の戦闘力が高い。
「デカデカとアピールされるのは『24時間営業』の文字……」
さすがに緊急事態宣言中は自粛するらしいが。
「薄暗くこれまたシックなような雑なような統一感のない無国籍な内装……」
メニューを開く。これも分厚い。おなじみの喫茶店メニュー、だけなわけがない。
「大宮ナポリタンが名物らしいですが、メニューを開ければ焼酎からビールにカクテルと酒ならなんでもござれ。喫茶なのにコーヒー飲ませる気が一ミリもありませんわ……」
店奥にはバーカウンターらしきものがある。さすが大宮名物。ただの喫茶店なわけがなかった。なんだこの店は。
「食事メニューは通常の喫茶メニューの他にステーキや沖縄そば、インドやスリランカなどのアジアンもある……」
24時間、いつどこの誰がきても挑戦を受ける。そんなマスラオの雰囲気があった。
喫茶店なのに。
「埼玉のいいかげんさ、適当さが存分に出てカオスな店ですわねぇ……え? なにこれ『お嬢様セット』……? ナポリタン、唐揚げ、フレンチトースト……一体どこにお嬢様成分があるのよこれ……? ふざけてるの?」
お前が言うな。
「ていうかそんなもうお腹に入りませんわ。とりあえず、名物ですので大宮ナポリタン頼んでおきましょうか……すいませんナポリタン一つ」
「はい大宮ナポリタンね!」
「大宮ナポリタンは大宮に店があって埼玉県産野菜を一種類使えば誰でも名乗れるそうですわね……条件緩すぎですわ」
埼玉の緩さが、オーバードライブしていた。もとより埼玉県民が厳しい戒律などを守れるわけがないのだ。
△ △ △
「へいおまち!」
出されたナポリタンは、真っ赤だった。量が多い。
「しかし大宮名物伯爵亭のナポリタンならばこれぞという個性が……」
フォークで巻き取らずズルズルとすすり込む。日本の生まれのナポリタンはこうして食うのが一番旨いものなのだ。
「個性……」
ズルズルと、すすりながらマリーの言葉がゆっくりと少なくなっていく。
「……」
やがて無言でマリーはナポリタンを食っていた。
△ △ △
「ありがとうございましたー」
店を出ながら、トボトボとマリーは空を見上げた。電柱の配線が雑だった。埼玉らしいと思った。
「……量が多いけど普通のナポリタンでしたわね」
「まあ美味しいことは美味しいんですが、普通というか…地方名物とはそういうものですわよね」
トボトボと、街を歩く。
「しかしそれなりに大きい大宮でも閉まってる店がちらほらありますわね」
マスクを売っている飲食店もあった。どこも必死なのだ。
「やはりコロナからの回復は遠いのでしょう。この雑で呑気な街のまま、というわけにはいかないのでしょうか……雑だ雑だと散々ディスってしまいましたが、大宮は良い街ですわ」
大宮は雑だ。だが良い街だ。マリーはそう思う。
「だって、昼間から酒が呑める店がある街は良い街に決まっておりますもの。……あ、あっちに銀座ライオンある。よってこ」