「あらあらこんな兎小屋に私を? ここが蕎麦屋? 庶民は窮屈な所で下等なものを食べるのが好きなのねぇ」
「剣菱の冷や。それと海苔。あと卵焼きをお願いしますわ」
席に就くと品書きを見ながら五分の熟考の末、マリーはそう注文した。
「はい只今」
やがて店員のおばさんが、徳利と木箱を持ってきた。
酒を注ぎ、箱を開ける。中には練炭で炙られた海苔。
「蕎麦屋呑みと言えば剣菱。赤穂浪士も討ち入り前に呑んだと有名ですわね」
まずは冷やを一口すする。口内にすっと広がる日本酒の香り。そしてすっきりとした後口。
「この冷や酒に、あぶった海苔の香ばしさが合うのですわ……」
海苔を一口かじる。パリパリとした食感に、磯の香り、海苔の味。そしてそこに追いつく酒。
ほぅ、と貴族令嬢は息を吐いた。
「昼の蕎麦屋酒を一人楽しむ……」
時刻は昼の1時。今日は休みだ。なにも予定はない。
天気は良く、気温もほどほどだ。
遅く起きた時、今日は蕎麦屋で呑ろうと思い立った。
寝る前に剣客商売を読んだからだろうか。
ネギ入りの卵焼きが、やたら記憶に残る。
「池波正太郎の世界を味わっている感覚ですわね……」
チビリチビリと酒を煽り海苔を齧る。時間はゆったりと流れ、ただどこか好ましい倦怠感に包まれている。立ち食いや居酒屋ではなく、本式の蕎麦屋で呑む。酒飲みならば一度は憧れるものだ。
「はいこちら卵焼きですぅ」
「どうもどうも、あ、にしんの棒煮とお酒もう一つ。冷やで」
空になった徳利と引き換えに卵焼きを受け取る。焼き目がしっかりとついた店で焼いている卵焼きだ。ふんわりと香るのは、中に日本酒を入れて焼いているため。
「蕎麦屋の卵焼きには蕎麦屋の命たるそばつゆのかえしが入っていますのね。一味ちがいますわ……」
箸で千切り、大根おろしをのせて一口。はふはふと熱気を冷ましながら冷や酒できゅっと迎え撃つ。
「ふはぁ……」
うまい。うまいに決まっている。箸が止まらない。酒も止まらない。
「お待ちどう、にしんの棒煮とお酒ですぅ」
皿の上にはとろりと甘露煮されたにしんの半身。いわゆるにしんそばの具のにしんである。
「このにしんの棒煮も蕎麦屋以外ではあまり食べないもの……こっくりと甘辛に煮られていて酒が進みますわ」
これもチビチビと千切り食べ、チビチビと呑む。甘辛い煮られた身欠きにしんが実にいい酒のつまみだ。
「いい天気ですわねぇ……」
窓の外は快晴。梅雨入りしかけている今では珍しいだろう。だが外の人手は少ない。
「アベノマスクってまだこないのかしら……」
近くにあったスポーツ新聞を捲る。スポーツはほぼ休止してるので、野球選手やサッカー選手の感染報道ばかりだ。
こんな記事では酒の肴にはなりそうもない。
「ウーバーイーツの仕事も最近ちょっと減ってきて…わたくしこのままずっと独身なのかしら……」
マリーはそろそろ結婚適齢期が近い。だが、結婚の予定はまだなかった。
「で、でも結婚って今どんどん遅くなっておりますわ。まだですわ。まだ焦る時間じゃないですわ……」
結婚の予定は、まだなかった。
「……だ、だめですわ弱気になっては! 攻めの姿勢! 貴族は常に攻めの姿勢でなくては!」
マリーは、後退のネジを外しているのだ。
「天ぷら盛り合わせお願いしますわ!」
とにかく、なにかアガるものを食べよう。ゲン担ぎ的な意味で。
△ △ △
「蕎麦屋の天ぷら、定番ながら安定の味。エビはぷりっと、キスはほっくり、最高ですわ」
天ぷらをむさぼる。揚げたての熱々に天つゆを浸し食べるこの快感は貴族でも虜になる。
一口目に感じるゴマ油の香り。食欲をそそる芳香と、そして火の通りも絶妙だ。エビもキスもやや半生で仕上げ素材の甘味を舌に感じる。
「酒が止まらない……!」
そして二本目の徳利が空になる。空になってしまう。
「このボルテージを最高潮のままにして」
手をあげて、貴族令嬢マリーは高貴に、しかし力強く叫ぶ。
「店員さん、ざるそば。大盛でお願いしますわ。あとお酒もう一つ!」
△ △ △
「うっめ、うっめ」
一気に蕎麦をすすり込む。ここは更科だ。蕎麦の実の中心を使った白い蕎麦は、貴族に相応しい上品なのどごし。
なによりここは汁がうまい。
「ぷはぁ」
蕎麦を食べきり、蕎麦湯を注ぐ。グビグビと飲み、そして交互に冷や酒を呑む。
蕎麦湯で薄めた汁。これがまたつまみにやれるのだ。
「あー全部汁飲んじゃった……」
貴族は、塩分過多など気にしない。
△ △ △
「まいどー」
店員に見送られ、帰り道を歩く。日はまだまだ高い。風はどこかぬるい。
ふわりとした虚脱感。いい酔い心地だ。
「ふう……なんとかことなきを得ましたわ。酔い醒ましに少し歩こうかしら」
トボトボと、白いドレスが街を行く。
「剣菱の冷や。それと海苔。あと卵焼きをお願いしますわ」
席に就くと品書きを見ながら五分の熟考の末、マリーはそう注文した。
「はい只今」
やがて店員のおばさんが、徳利と木箱を持ってきた。
酒を注ぎ、箱を開ける。中には練炭で炙られた海苔。
「蕎麦屋呑みと言えば剣菱。赤穂浪士も討ち入り前に呑んだと有名ですわね」
まずは冷やを一口すする。口内にすっと広がる日本酒の香り。そしてすっきりとした後口。
「この冷や酒に、あぶった海苔の香ばしさが合うのですわ……」
海苔を一口かじる。パリパリとした食感に、磯の香り、海苔の味。そしてそこに追いつく酒。
ほぅ、と貴族令嬢は息を吐いた。
「昼の蕎麦屋酒を一人楽しむ……」
時刻は昼の1時。今日は休みだ。なにも予定はない。
天気は良く、気温もほどほどだ。
遅く起きた時、今日は蕎麦屋で呑ろうと思い立った。
寝る前に剣客商売を読んだからだろうか。
ネギ入りの卵焼きが、やたら記憶に残る。
「池波正太郎の世界を味わっている感覚ですわね……」
チビリチビリと酒を煽り海苔を齧る。時間はゆったりと流れ、ただどこか好ましい倦怠感に包まれている。立ち食いや居酒屋ではなく、本式の蕎麦屋で呑む。酒飲みならば一度は憧れるものだ。
「はいこちら卵焼きですぅ」
「どうもどうも、あ、にしんの棒煮とお酒もう一つ。冷やで」
空になった徳利と引き換えに卵焼きを受け取る。焼き目がしっかりとついた店で焼いている卵焼きだ。ふんわりと香るのは、中に日本酒を入れて焼いているため。
「蕎麦屋の卵焼きには蕎麦屋の命たるそばつゆのかえしが入っていますのね。一味ちがいますわ……」
箸で千切り、大根おろしをのせて一口。はふはふと熱気を冷ましながら冷や酒できゅっと迎え撃つ。
「ふはぁ……」
うまい。うまいに決まっている。箸が止まらない。酒も止まらない。
「お待ちどう、にしんの棒煮とお酒ですぅ」
皿の上にはとろりと甘露煮されたにしんの半身。いわゆるにしんそばの具のにしんである。
「このにしんの棒煮も蕎麦屋以外ではあまり食べないもの……こっくりと甘辛に煮られていて酒が進みますわ」
これもチビチビと千切り食べ、チビチビと呑む。甘辛い煮られた身欠きにしんが実にいい酒のつまみだ。
「いい天気ですわねぇ……」
窓の外は快晴。梅雨入りしかけている今では珍しいだろう。だが外の人手は少ない。
「アベノマスクってまだこないのかしら……」
近くにあったスポーツ新聞を捲る。スポーツはほぼ休止してるので、野球選手やサッカー選手の感染報道ばかりだ。
こんな記事では酒の肴にはなりそうもない。
「ウーバーイーツの仕事も最近ちょっと減ってきて…わたくしこのままずっと独身なのかしら……」
マリーはそろそろ結婚適齢期が近い。だが、結婚の予定はまだなかった。
「で、でも結婚って今どんどん遅くなっておりますわ。まだですわ。まだ焦る時間じゃないですわ……」
結婚の予定は、まだなかった。
「……だ、だめですわ弱気になっては! 攻めの姿勢! 貴族は常に攻めの姿勢でなくては!」
マリーは、後退のネジを外しているのだ。
「天ぷら盛り合わせお願いしますわ!」
とにかく、なにかアガるものを食べよう。ゲン担ぎ的な意味で。
△ △ △
「蕎麦屋の天ぷら、定番ながら安定の味。エビはぷりっと、キスはほっくり、最高ですわ」
天ぷらをむさぼる。揚げたての熱々に天つゆを浸し食べるこの快感は貴族でも虜になる。
一口目に感じるゴマ油の香り。食欲をそそる芳香と、そして火の通りも絶妙だ。エビもキスもやや半生で仕上げ素材の甘味を舌に感じる。
「酒が止まらない……!」
そして二本目の徳利が空になる。空になってしまう。
「このボルテージを最高潮のままにして」
手をあげて、貴族令嬢マリーは高貴に、しかし力強く叫ぶ。
「店員さん、ざるそば。大盛でお願いしますわ。あとお酒もう一つ!」
△ △ △
「うっめ、うっめ」
一気に蕎麦をすすり込む。ここは更科だ。蕎麦の実の中心を使った白い蕎麦は、貴族に相応しい上品なのどごし。
なによりここは汁がうまい。
「ぷはぁ」
蕎麦を食べきり、蕎麦湯を注ぐ。グビグビと飲み、そして交互に冷や酒を呑む。
蕎麦湯で薄めた汁。これがまたつまみにやれるのだ。
「あー全部汁飲んじゃった……」
貴族は、塩分過多など気にしない。
△ △ △
「まいどー」
店員に見送られ、帰り道を歩く。日はまだまだ高い。風はどこかぬるい。
ふわりとした虚脱感。いい酔い心地だ。
「ふう……なんとかことなきを得ましたわ。酔い醒ましに少し歩こうかしら」
トボトボと、白いドレスが街を行く。