ウチの店長が憂鬱な理由

「本当に無理しない方がいい。今家に連絡して家族の方に迎えに来てもらうから……」

「っ……それは駄目です!」

「……小野さん?」


家族のことに触れられ、咄嗟に大声を出してしまった。驚いた表情の店長を見て、その場の空気を換えなくてはと焦った私は……

私は、背中に隠していた名刺を取り出して彼に見せた。


「これ、さっき店の前で渡されて……店長に見せてほしいって……」

「名刺?」


彼が不思議そうな表情を浮かべて私が差し出した名刺を受け取る。
見たくないと思いつつも、彼の様子を観察していると名刺に書かれている名前を見た瞬間から彼の表情が曇っていくのが見えた。

あぁ、やっぱり渡さなきゃよかった。こんなふうに動揺する店長のことを見たくなかった。


「これ……渡してきた人はまだいるの?」

「えっと、これを見せたら分かるだろうってどこかに行っちゃって……」

「……そっか」


ありがとう、と何事もなかったように名刺をポケットに直した店長。
先程のような動揺はなくなったけれど、二人の関係についてつついてみたい気持ちと知りたくない気持ちが胸の中で矛盾する。


「突然驚いたでしょ。気にしないでいいから。俺からまた連絡入れておくよ」

「っ、連絡するんですか?」

「え?」


仕事が終わった後、店長はあの女性と会うのだろうか。
「……小野さん?」

「ごめんなさい、私……」


こんなこと、私が言ったって仕方がないって分かっている。あの女性に連絡するかしないかは店長が決めることだから。
それでもあの人に会ったらなにかが変わってしまうんじゃないかって。私の知らない店長になってしまうじゃないかって。そう、心配になってしまう。


「……」


一人思い詰めた様子でいる私のことを見つめた店長は暫く黙り込んだのち、静かに口を開いた。


「連絡、しない方がいいかな?」

「……それって私が決めていいんですか?」

「うーん、俺は別にしなくてもいいかなって思っていたりするんだけどね」


店長がそう口にしながら軽く微笑んだ。それだけで胸中に立ち込めていた厚い雲が吹き飛ばされたように気持ちが晴れていくのを感じた。
彼は私が連絡してほしくないことを分かっていたのかもしれない。だからそう言って私を安心させようとしている。

きっと本当はあの女性と会うべきなんだ。だけどそう言ってくれた彼を嬉しく思う気持ちを隠せないでいる。


「……しなくていいのなら」

「うん、じゃあ連絡しない。会う予定もないよ」

「……」


こういうとき、店長は私よりずっと大人なんだなって思い知らされる。
「(こんなに近く感じるのに、それと同時に遠くも感じる……)」


ずっと好きでいる自信はある。だけど彼に追いつく姿は想像できない。
私が知らない店長がいることは当たり前のはずなのに寂しいなんて、自分勝手だ。


「ありがとう、ございます……」


不意に飛び出した言葉。なにに対してお礼を言っているのかも分からなかった。
ただ一つ、理解できたのは……


『そう思うと瑞希って幸せだね』

『え、なんで?』

『店長って今のところライバルとかもいないんでしょ? だったら恋のいざこざとかなくていいじゃん』


私は今、幸せな恋をしていないということだけ。

「岸本恵? 聞いたことないけど」


バイトの休憩中、私が口にした名前にそう反応した花宮さんに溜め息が漏れる。


「やっぱり仕事関係の人じゃないのかな……」

「その人が店長のこと尋ねに来たって? 別にあの人のことだし、気にする必要ないんじゃない?」


彼女はそう言うと静かに紙コップに入ったコーヒーを啜り始める。

例の女性が店に尋ねに来たのが一週間前の話。それから彼女の姿を一度も目にしていないにも関わらず、私の頭はあの日の出来事で占領されていた。

店長は連絡しないって私の前では言っていたけど、実際はどうだか分からない。彼の言葉を信じたいけれど、だけど店長のことだって私は深くまで理解できていないのだ。


「(どういう関係なんだろう……)」


それを知ったら安心するのか、それとももっと不安になるのか。

口を開けば溜め息しか出ず、休憩室のテーブルに項垂れている私を見兼ねて、黙っていた花宮さんが呆れたように口を開く。


「考えすぎ。どうせ大したことないって。小野より長い間あの人のこと近くで見てきたけど、一度も女の気配したことないから」

「そう、だと思うんですけど……でも、でもぉ!」

「……小野はなにがそんなに気になるの?」


そう改めて聞かれると、私は「うーん」と頭を捻った。


派手で高そうな身なりだったから店長の雰囲気と釣り合わないところとか、それが余計に私の知らない繋がりに見えたり、女性の名前を聞いたときに彼が一瞬表情を曇らせたのが頭に残っているからだったり。

なによりも、そうだ……


「(どこか、店長は分かっていたような気がする……)」


いつかあの人がここを尋ねに来ることを。

だけどこれらを全て言語化することは難しい。


「お、女の勘です!」

「勘。ね。まあその勘が当たらないことを祈ることね。じゃ、私仕事戻るから」

「あ、私も!」


経験豊富そうな花宮さんに話を聞いてもらったらちょっとは心も晴れるかと思ったけど、やはりこの胸のモヤモヤを晴らすにはもっと時間がかかりそうだ。





休日もいうこともあり、今日の客入りは良好でお昼はフロアも厨房も忙しなくしていたが、三時くらいになるとようやく人の流れが落ち着いた。


「小野ごめん、五番テーブルに注文取りに行ってもらってもいいー?」

「はーい!」


そう花宮さんの指示を受けてハンディターミナルを持ってフロアに出る。
フロアチーフということもあり、お店が忙しい時の花宮さんの捌きようは見ていて尊敬だ。いつか私も彼女のように仕事をしたいものだ。
「お待たせしました。ご注文お決まりでしょうか?」


指示された五番テーブルに向かうと座っていたお客様に声を掛ける。
この時間帯に女性一人の来店は珍しいなと眺めていると、メニュー表から顔を上げたその人の顔を見て、

顔が止まった。


「コーヒーを、ホットで」


あの人だ。店の裏口で店長の事を待っていたあの女性だ。


「(岸本恵……)」


思わずフリーズしてしまっている私に対して不思議に思ったのか、彼女がこちらを凝視してきたので焦りを覚える。
注文を聞いてすぐに下がろうとかろうじて指を動かしたところで彼女が「あら」と呟く。


「あなた、このあいだの子? 店の服着るとだいぶ印象変わるのね」

「っ……」


真っ赤に染まった彼女の唇が弧を描くようにして歪む。
喉から絞り出すようにして「ホットコーヒーですね」と注文を繰り返すとハンディに入力をする。


「そういえばあの名刺、本当に彼に渡したの?」

「……わ、渡しました」


嘘じゃない。渡したことは事実だ。
そのことを告げると品定めをしているかのような彼女の視線がふとピリつくのを感じた。


「そう、じゃあ連絡を寄こしてこないってことはこっちを拒否してるってことね」

「え……」


そう彼女が小さく漏らした言葉に少し体の力が抜けるのを感じた。


「(店長、本当に連絡しなかったんだ……)」


彼が約束を破る人間ではないと知ってはいたが、それが事実であることに酷く安堵していた。

注文を入力し終えた私は「少々お待ちください」と常套句を告げてその場をあとにする。
やっと戻れた。どうしてだかあの人の傍にいると息が詰まる思いがして苦しくなる。

彼女はまた店長に会いに来たんだろうか。店長から連絡を待っているということは、あの人は彼の連絡先を知らないようだ。

花宮さんはまだ忙しくしている。彼女のことだから状況を察してくれるだろうけれど、これ以上迷惑をかけるわけにもいかない。
大丈夫だ、私は店員として普通に接すればいいだけ。そう心に決めて「よし」と気合を入れると注文されたホットコーヒーを乗せてフロアに出た。

テーブルに近付くと岸本さんは物珍しそうに店内を見渡している。
遠くから見ると、本当にファミレスに見合っていない格好をしている。まるで高級レストランに来たのかと勘違いするような佇まいだ。


「お、お待たせしました」


手の震えがソーサーに伝わり、がたがたと食器がぶつかる音が響く。
よし、これで仕事は完了だ。そう直ちにバックヤードへ戻ろうとする私を彼女が引き止めた。


「今日は彼来てるの? いつ仕事が終わるか知ってる?」

「え、えっと……」


やっぱり聞かれた。というか相手が私じゃなくても彼女は店長のことを店員に尋ねただろう。
私は心の中で深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせると口を開く。


「今日はその、本社に呼ばれててお店にはいません」

「本社? ああ、彼ここの店長だったっけ? 一日いないの?」

「は、はい。一日いないです……」

「……」


不審な視線を向けられて首の裏に冷や汗を掻く。
しかし今口にしたことは本当で、店長同士の会合があるとかで一日店にいない。それをあとから知って後悔したくらいなのだ。

私の言っていることを信じていないのか、不服そうにテーブルに置かれたコーヒーカップに目をやる。白く細い指でカップの取っ手を掴み、口へ運ぶのを緊張の面持ちで眺める。
やっぱりファミレスのコーヒーは口に会わないだろうかと不安だったが、一口飲んだ彼女の様子は思っていたよりも良好だった。

その気持ちは彼女も一緒だったのか、ずっと強張っていた表情が初めて緩むのを見た。
怖い顔していたから分からなかったけれど、凄く美人な方だと改めて感じる。

思わず見惚れていた私は我に返ると仕事に戻ろうとする。


「あなた、彼のことどう思う?」

去ろうとした際にそう声を掛けられて脚を止めた。


「彼って、店長のことですか……?」

「それ以外誰がいるの」

「そ、そうですよね……」


何故一店員の私にそんなことを尋ねてくるのだろうか。まさか私の店長への気持ちがバレてしまっているのだろうか。
いや、流石にそれはないかと自分を説得させながら当たり障りのない返事を探す。