ウチの店長が憂鬱な理由

「ん?」


眼鏡をかけ、こちらを不思議そうに見つめている小太りのおじさんだった。


「……あれ」


私はあたりを見渡して女性を探すがそこに立っているのは花宮さんとおじさんだけ。
一度固まった思考を動かし、「あ、あのー」と歯切れ悪く尋ねる。


「さっきここに畠山さんがいませんでしたか?」

「畠山なら俺だが」

「あ、そうなんですかー」


さも当たり前のことのように言われ、一瞬流してしまいそうになったところをなんとか食い止める。
待ってこのおじさん、今畠山は俺だって言わなかった……?


「は、畠山さん……ですか?」

「? だからそう言っているだろう」


そこには私が想像する大人でグラマラスな女性はいなかった。


「い、いやいやいやいや! 待ってください! だって花宮さんこのあいだ『大人の女性』だって……!」

「女性とは言ってないでしょ。大人の人って言っただけ」

「えええ、でも桐谷先輩は店長の為にお弁当作ったりシャツにアイロンかけたりして家事が得意だって」

「別に男の人でも家事が得意な人だっているでしょう」


だけど花宮さんと桐谷先輩の話を聞いていたら女性だとしか思えなかった。
というより私が畠山さんを女性だと勘違いし始めたのって光里と彩葉が私に変なことを言ったからだ。あの助言さえあれば私がこんな勘違いをすることはなかったはずなのに。

まさかこんな展開が待っているなんて、頭を抱えているとやっと追いついたのか店長が息を切らしながら私の背後に立っていた。


「お、小野さん、脚早いね」

「て、店長、私……」


私はとんでもない勘違いを……
すると畠山さんが「小野?」と私の名前に反応し、言葉を漏らした。


「あぁ、最近入ってきた仕事ができるバイトってこの子のことですか」

「う、うん。畠山くんが会うのは初めてだよね?」


店長は諦めがついたのか、前に出ると畠山さんのことを私に紹介し始める。
「小野さん、この方はうちの店舗のマネージャーを担当してくれている畠山健さん。本社の社員の人だよ」

「どうも、挨拶が遅れてすみません」


挨拶をしてくれた畠山さんに私も慌てて頭を下げた。本社の人ってことは店長よりも立場が上の人ということだろうか。
ん、いや待てよ。そもそも女性だと思い込んでいた畠山さんが実は男性だったというだけでなんの問題もなくないか? 最初から店長に近付く女性がいなかったというだけで。

私にとって、これってめちゃくちゃいいことなのでは!?


「どうも、初めまして! 春から新しくバイトに入った小野瑞希です! 畠山さんにお会いできて光栄です!」

「いきなり勢いが凄いな」

「というか店長、普通に会わせてくれたらよかったじゃないです! 一体なにを懸念してたんです?」

「え、いやぁ……」


うーん、と歯切れ悪く頬を掻く店長を見ていた花宮さんが「店長まさか」と呟く。
すると彼女が何を言い出そうとしているのかを察したのか慌ててその声をかき消すように大声を出した。


「あー! は、花宮さん、ちょっと来週のシフトで相談したことが。ちょっと来てもらっていい?」

「……まあ、いいですけど」


そう言って花宮さんとその場を去ろうとする店長を逃がすまいと背中のシャツをすかさず掴んだ。


「店長待ってください! まだ質問に答えてもらってませんよ!」

「ぐっ、小野さん手離して……」

「どうして私と畠山さんを会わせないようにしていたんですか!」


見かけによらず頑固な店長はなかなか私の問いかけに口を割ろうとしない。
それを見ていた花宮さんが呆れたように溜め息を吐いた。


「まさか店長、いい歳して小野の老け専発言を気にしていた、なんてことはないですよね?」

「っ……」
明らかに花宮さんの発言に動揺する店長を見て、「老け専?」と首を傾げる。
そして後ろに立っている畠山さんの姿を視界に入れると、これまでの店長の行動の理解できなかった点が頭の中で解けていった。


「店長、私が老け専だって言ったから畠山さんのことを好きになるって思ったんですか?」

「……いや、流石にそんなことは考えていないよ」

「でも……」

「考えてないけど、小野さんの考えてることっていつも俺には奇想天外すぎて……」


はあ、と溜息と共に肩を落とした店長の背中を軽く叩く花宮さん。
もしかして、店長が何を考えているのか分からなくて不安になる私と同じで、店長も私のことで頭を悩ませていたのかもしれない。それでもあまりに考えが突飛しすぎて吃驚だが。

だけどそうか、本当に心配することは何もなかったんだ。
店長はいつもの店長だし、私もこれまで通り店長以外の人を好きになることはないのだから。


「ふふふ、店長かーわいい」

「可愛くないから。というか小野さんそろそろ帰ったら?」

「拗ねてる店長も可愛い」

「あーもー、ちょっとだけ一人にさせて」


恥ずかしいのか、髪の毛の隙間から見える耳が真っ赤になっている。それがなんだか嬉しくて、嫌がる店長のことをずっと追いかけまわしてしまった。
私が想像しているよりも歳の差なんて関係ないのかもしれない。このままずっと追いかけていればいつの日か追いつく日がやってくる。私はそれを信じて前に進むだけだ。


「で、あの茶番は一体何ですか」

「ここ最近のうちの名物です。畠山さんも賭けに参加しますか?」

「……遠慮しておきます」


信じて進んだ先に、店長が隣を歩いてくれる未来があることを。
「いらっしゃいませー」


来客を告げるベルの音に反応すると店の入り口に家族連れのお客様が立っていた。
すれ違うようにバックルームに入ってきた瑞希ちゃんが「しーちゃん!」と私に合図を送った。


「ごめん、手が離せなくて。お願いしてもいいかな?」

「う、うん!」


彼女の指示で入口へと向かうとお客様をテーブルへ案内する。同級生である瑞希ちゃんが働くファミレスでアルバイトを始めて一か月。徐々に業務にも慣れ、接客もスムーズにこなせるようになってきた。
最初のころは男性愚か、普通のお客様ですら接客することが難しかった私も少しずつ人と話すことに対して恐怖感を抱かなくなってきた。今なら男性グループの接客も……いや、それはまだできないかもしれない。

でもここでアルバイトを始めてから自分でも成長できていることが実感できた。
勇気を出してアルバイトを始めて本当に良かった。



休憩の為にバックルームに入ると後ろから瑞希ちゃんが肩を叩いて声をかけてくれた。


「しーちゃん、さっきはありがとう。助かった~」

「う、ううん。役に立ててよかった」


二人で休憩室に向かっていると彼女が「そういえば」と、


「前に比べてしーちゃん、話すときにあんまり声気にしなくなったよね。店長がこのあいだ普通に話しかけてくれて嬉しかったって言ってたよ」

「そ、そうかな。店長さんのこと最初は怖いなって思ってたけど、ここ最近はそう思わないというか」

「あはは、店長のこと怖いって言うのしーちゃんくらいだよー」


店長さんが怖いというより父親以外の大人の男性が怖かった。だけど瑞希ちゃんと話している店長さんを見ていると怖がる必要なんてないのでは、と思い始めた。
このあいだ相談に伺った時も優しく話を聞いてくれたし。

休憩室に入ると先に桐谷先輩が席に座っており、テーブルになにやら紙のようなものが置かれていた。
「桐谷先輩お疲れ様です! それってもしかして、来月の新メニューですか?」

「あぁ、そうだけど」


瑞希ちゃんが興味津々にテーブルへ駆け寄る。私も背後から新しいメニューが記された紙を確認した。


「きのこのリゾットかー、秋ですねー。あ、モンブランパフェ! これ絶対おいしいやつ!」

「八月が終わったらすぐに秋メニューとか。忙しないよな」

「秋好きですよー。ご飯美味しいですもん。来月のまかない絶対パフェにしよっと」

「おい、俺に作らせるつもりだろ」


作らないぞ、と呆れたように言う桐谷先輩のことをスルーして瑞希ちゃんがこちらを振り返った。


「しーちゃんも。食べたいものがあったら桐谷先輩に頼んでね。なんでも作ってくれるよ」

「え……」

「おい、作らないって言ってんだろ」


耳付いてるのかと桐谷先輩に睨まれても気にしていない瑞希ちゃんの言葉に言葉が詰まった。
瑞希ちゃんがそう言ってくれるのは私をこの店に馴染ませたいからだろう。その気持ちはもちろん嬉しいし、素直に受け入れたい気持ちはあるのだが。

だけど……


「わ、私来月はもう……」


もうこの店には……


「え、しーちゃんって今月で辞めるんだっけ?」

「う、うん。一応」

「そんなあ……」


私の言葉を聞いて予想以上に悲しそうな表情を浮かべる彼女に罪悪感は湧き上がる。
いつかは言わないとと思っていたけれど、瑞希ちゃんを前にするとなかなか言えなかった。
元々アルバイトは両親に反対されていた。夏休み限定という約束で始めることを許してもらったからその約束通り、今月でこの店を去らなければいけない。
そのことを店長に相談したとき、彼も「残念だな」と悲しがってくれた。


『初めのころはどうなるかと思ったけど、宇佐美さん予想以上に頑張ってくれたしできたらこの先もって思ったんだけど……だけどご両親との約束なら仕方がないね』


そう、これは最初から決まっていたこと。だからこの店を去ることなんてずっと前から心の準備はできていたつもりだった。

つもりだった、のに。


「(寂しいな……)」


少しだけ未練を感じてる、なんて。




本当はなんでもよかったんだ。あの日、校舎の廊下に貼られていたアルバイト募集のポスターを見たときだって。
今の環境から抜け出せるならなんでもよかった。だけど自分から行動を起こす自信がなかった。だからなにかきっかけがほしかった。

親に相談するのは怖かった。これまでの私のことだけを評価して、反対されると思ったから。
一か月、これが二人から言い渡された私のタイムリミットだった。

期待なんてしていなかった、私も。自分はどうやっても変わらないんだって、駄目なやつなんだって思い込んでいた。
だから今の自分に少しびっくりしている。だから欲が出てしまったのかな。

もう少し、ここにいたいって。


「ありがとうございましたー」


店を出ていくお客様を見送ると「雫」と肩を叩かれた。


「お疲れ様、少し早いけどもう上がっていいって店長が」

「花宮さん、ありがとうございます」


夏休みの半分が過ぎた。宿題は図書感想文だけが手付かずでほかは全部終わっている。
最初のころはしんどいと感じていたアルバイトも、今では楽しみになっていた。
「そういえば小野に聞いた。今月でバイトやめるんだってね」

「は、はい。お世話になりました」

「小野のおかげもあると思うけど馴染むの早かったし、もっと長くいるものだと思ってたけど」


残念ね、と淡々と告げる彼女に「本当かな」と疑問を抱いてしまう。花宮さんが悪い人ではないと知っていても、表情から感情が読み取れないからよく分からないな。
お言葉に甘えて早めに仕事を上がると帰る準備をする。思えば最初のころは瑞希ちゃんとシフトが一緒じゃないと不安でいっぱいだったけど、今では問題なく働けている。


「(私、本当に成長したんだな……)」


コンプレックスが直ったまではいかなくても、以前よりかは息がしやすくなった。
それなのにどうしてこんなにも複雑なんだろう。

着替えて更衣室を出ると丁度帰るタイミングだったのか、制服姿の高野先輩と鉢合わせした。


「(あれは……)」


ピアスをしていない、ということはお兄さんの方か。


「あ、宇佐美さんお疲れ様。今帰り?」

「お、お疲れ様です」


さすがに一対一だとまだ緊張するな。そのせいで一緒のシフトだったのに仕事中は一言も話していなかったし。
彼は手に持っていたスマホをジャケットのポケットに戻すと視線を窓の外へと向ける。


「もう外も暗いですし一緒に帰りましょうか。駅まで送ります」

「え……」

「ん?」


さらりと言われた言葉に固まる。一緒に帰る? 私と高野先輩が?
行きましょうと休憩室をあとにする彼を私は思考が追いつかぬまま追いかけた。



バイト先には三人の男性の先輩がいる。厨房担当の桐谷先輩とフロアスタッフで双子の高野先輩。
その三人のなかだとお兄さんの方の高野先輩はまだ話しかけやすい方だった。

小学生の頃、声が変だとクラスの男子に虐められていた。それで異性が怖くなり、中学は男の子の存在すら避けていた。高校も女子高に通うという選択肢があったけれど、地元で公立の女子高がなくて諦めてしまった。


「宇佐美さんと小野さんはクラスも一緒なんですか?」

「く、クラスは別です……」

「流谷って頭いいのに凄いですよね」


駅までの道、苦にならない程度に会話をしてくれる高野先輩の心遣いに助けられた。

高野先輩は私の年上だけど、なぜか私に対して敬語を使う。それは瑞希ちゃんも一緒だった。
理由を彼女に聞いたとき、「癖なんじゃないか」と話していたけれど。不思議な癖だなあ。

だけどそのおかげで圧を感じずに会話ができているからありがたいのだけど。


「(改めてだけど、恐ろしいくらい顔が整っているなあ……)」


彼の話に耳を傾けながらその横顔を盗み見る。形のいい目にすっと通った鼻筋、薄目な唇に白い肌。完璧といっていいパーツが完璧な位置、角度に存在している。
桐谷先輩も格好いい部類に入るだろうけど、彼は独特の雰囲気というか、オーラが怖くて近付きづらい。高野先輩は正統派というか、十人の人に聞いたら十人がイケメンというんじゃないだろうか。

普段から大変なくらいモテているみたいだし、本当に住む世界が違うな。


「……さみさん、宇佐美さん?」

「っ……すみません!」


しまった、完全に自分の世界に入っていて彼の話を聞いていなかった。わざわざ私の為に会話を続けてくれていたのに。
彼の顔が曇っていくのが見えてさっと血の気が引いていった。


「すみません、俺一人話しちゃって。うるさかったですよね」

「そそそ、そんなことないですよ。むしろ私のようなミジンコとの会話に思考を割かせてしまってすみません!」

「ミジンコ?」
こんな顔、高野先輩のファンが見たら卒倒してしまう。そしてその怒りはもちろん私へ向くはずだ。
むしろこの瞬間でさえ、高野先輩のファンが隠れて見ているかもしれない。突然周りを警戒し始めた私に彼が不思議そうに首を傾げた。


「どうしました?」

「い、いえ、急に命の危険を感じたというか。気にしないでください」

「……ふっ」

「え?」


不意に笑い声が聞こえたと思ったら、高野先輩が挙動不審な私のことを見て吹き出すように笑っていた。それも普段のような目を細める綺麗な微笑ではなく、眉を下げ、顔をしわくちゃにするような幼い笑い方で。
こんな笑い方もする人なんだ。そう彼の表情に見惚れていると我に返った高野先輩が自分の口元を手で覆った。


「す、すみません。宇佐美さんのことを笑ったわけじゃなくて」

「……いえ、むしろ笑ってください。自分の行動が変なことは自覚しているので」


あぁ、せっかくバイトに馴染めてきたと思ったのに。これで高野先輩の目には私がおかしい人って認識で映るんだろうな。
まあ、もうバイトを辞めるつもりだからどう映っても気にならないけど。


「……ネガティブだなぁ」

「っ……」


それでも、ここで培ったことや経験したことはバイトを辞めても忘れない。
なにもできない私のことを悪く言わず、見守ってくれた人たちのことはこの先もずっと覚えているだろう。

私に微笑みかけてくれた高野先輩の姿に、これまで幾度も助けられてきたことを思い出した。
この人たちに私が最後にできることってなんだろうか。


「(やっぱり私は……)」


ここで、立ち止まってはいられない。