「兄上は辛いと思うことがないのですか?」



「なにかあったのか?」



「己の無力さを嘆いていたところです。特に何ということではないのですが」



 ルネであったころなら同じように思ったのだろうかとロランを見る。この出来の良い弟はなにやら幼い頃にクロエとうまくやれなかったことを今でも悔いている節があるようだ。

 もう二十にもなって、と思うがロランの中では大切なことで、消化出来ていないことなのだろう。それを笑う権利は誰にも無いはずだ。



「辛いと思っても顔に出すとクロエが心配するんだ。まだ学生なのだしどうせ卒業したらすぐ結婚式なのだから今くらい気楽に過ごして欲しいだろう」



「ご自身の蟠りやお気持ちはどうなるのです?」



「それこそお前が私の手助けをしてくれている」



 つい先日、うっかりクロエにこぼした弱音については夢見が悪かったの一言に尽きる。夢を見たのは本当だ。その夢がなんの脈絡もない神託ではなく過去の自分の記憶だというだけで。

 そのクロエはといえば、彼女は彼女で女王だったころの夢を見たというではないか。それが本当かウソか、覚えていたのか、思い出したのか、自分に気を使ったのかはわからないが、そして自分がかつてそうだったのだと彼女に告げることは神との約束故できないことだが、それでも夢に身を委ねるなと言われたのは個人的には救われたものだ。

 前世も今世も彼女には救われてばかりいる。

 あと半年。夢にまで見た、いや、願い続けた結婚というその行為を控えて最近はすこしばかり浮かれている自覚もある。もっとしっかりしなくては。



「初めて、クロエ嬢にあった日のことをよく覚えています。愛らしい少女だと思いました。それ以上にどこか完成しているようでなんだか少し怖かったことも」



「お前より年下なんだけれどな」



「自覚がないのですか? クロエ嬢と兄上は全く同じなのです。こう、まるで、人生をやり直しているかのような完璧さを感じます」



 変に聡い弟の発言に笑って否定をすれば、たとえに決まっているでしょうとぶすくれた顔をする。前世も弟がいたが、早くに病でなくなってしまった。その時もアリスタが一緒に泣いてくれたのだったと思いだす。

 ロランのその怖かったという感情はごくまっとうな気がする。自分よりはるかに完成された生き物が怖くないのであればそれは単なる愚か者だ。



 クロエが怖い。

 たしか、母上も一度だけそう言っていた。もちろん、婚約に反対だとかそこまでは言わなかったがあの出来上がりすぎた賢さに危うさを感じたそうなのだ。

 いくらエンディア公が優秀で、その娘とはいえ、5歳児があいさつも言葉遣いも完璧なのではそう思うなというのも無理かもしれない。

 賢い子だと笑って済ませた父のずぶとさは国王ゆえのもののような気もするし、自分が動じずにいられたのはアリスタだと知っているからだ。



「目標にしている方がいます」



「へえ、お前の口からそういうのを聞くのは初めてだ」



「あまり大声で言っていいような人ではないので」



「どんな方だ?」



「亡国の、アリスタ女王陛下とその騎士です」



 動揺した。悟られてはいないか。どうしてロランの口からその名前がでたのかと返事が一瞬遅れてしまった。

 幸い「やはり大っぴらにいってはいけないので」とこちらの反応を勘違いしてくれたようだがどちらにしても理由は気になるので話を促す。



「まだかの女王が死んで40年くらいですが、国自体が滅んだのは10年ほど前ですね。徐々に悪化していたあの国の内情を知るからこそ本当にその女王が処刑されるようなことをしたのかずっと疑問に思っています。あの国の歴史書を手に取る機会があったのですが、あの国は、女王が死ぬまでは、完成されていました」



 ああそうだ。アリスタがそうしたのだ。

 聖人たる魂の素養、神々はそんなことを言っていた。
 本当の意味で完璧だった彼女の手によって作られていたあの国に間違いなどあろうはずもない。美しく、素晴らしい、楽園のような祖国こそが人間が追い求めた神の庭だったはずなのだ。

 間違っていたのは、最期の、あの日だけで。



「強く美しい女王だと記されていました。信頼されていた側近の騎士もまるで同じ目を通して見ているかと思うほど息がぴったりだったそうです。兄上にとって、自分がそうでありたいと、そのためには兄上のことももっと見なくてはと思っているのですが、どうにも兄上とクロエはなんだか別の次元を生きているかのようで」



 辛いと思うことはないのか、という最初の質問はここにかかってくるわけかと納得する。要は自分たちのやっていることについていけないのではと不安になっているのだろう。



 なんてことはない。私は、「リシャール」がしているのはあの頃のアリスタの真似事に過ぎない。下地があるから優秀に見えるというだけでやっているのは透かした紙をなぞっているようなもの。それでも自分は書き取りや、聞き間違いもするし、計算を間違うこともある。人を怒らせることも、転ぶことも、食器を割ったこともある。彼女とは違う。なぞっていても完璧ではないのだ。



「兄上とクロエはよき王になると確信しています。ただ、自分がそのそばにいるのに少しばかり自信がないというだけで。もしかしたら、自分はいなくても構わないのではないかと」



「なんてことを言うんだ!」



 思わず声を荒げると目を丸くしてロランは驚いたような泣きそうな顔をした。

 ロランに対して大声で怒鳴ったことなんてないし、兄弟げんかで泣かせたこともないから驚かせたのだろう。

 腹が立つことなんていくらでもあった。それは兄弟ゆえの、些末なことばかりで、腹は立ったけれど、それ以上に弟という存在が愛おしかったから喧嘩の必要などなかっただけだ。

 そんな些細なことも、私にとってはかけがえのない大切なものなのだ。



「いいか、ロラン。私がお前より優秀に見えるのは当然だ。なぜなら私が兄だからだ。歳の分、積み重ねた日々がお前より長いからだ。クロエだって、あの大公の娘なのだ。一癖も二癖もあるだろう。私たちは家族だ、無二の兄弟だ。だが私とお前は同じ生き物ではない。自分を他者と比べる必要なんかない。そうだろう、お前は、お前だけが私の弟だろう」



「あ、兄上っ、落ち着いて、もう言いません、言いませんから、どうか僕のために」



 泣かないでください、というその声も泣いていた。

 アリスタ、君を見ていたからよくわかる。自分と違う他人こそとても尊く愛しいものだ。メイドと一緒に泣いたあの日も、コックのために慌てていたあの日も、ただのかすり傷で大泣きしていたあの日も、あなたはこれ以上なくあなたの民を愛していたのですね。



 まだ自分の弟に、そしてクロエにしかそんな激しい感情を生み出せない自分は聖人ではないし、聖人にはなれない。こんな痛々しい思いを、国民すべてに向けていたあの女王なんかに比べれば私はまだまだ未熟者だ。そんな私を追うために、ロランに心を痛めてほしくない。



「たとえロランが、手足を失い、私を忘れる日が来ても、私はロランを、私の弟をずっとずっと尊く思う。だから壁の向こうで、ひとりで膝を抱えないでほしい。暗闇でひとりで迷わないでほしい。私を呼び、二人で歩けばそんなに険しい道でもないはずだ。私は聖人ではない、だが善人であることはできる。だからお前を大事にしたいという私の気持ちを、お前も汲んではくれないか」



「弟相手にずいぶん情熱的なことをおっしゃいますね」



「神も父上も、そしてほかでもない私がそう望んでいる」



「そう、ですか。ああ、そうですか……そう、兄さん、僕は……」



 今世も善人であれと、父なる神々はそういった。

 たとえ聖人になれなくても、世界中を慈しめなくても、神はそれを悪とは言わない。

 こうして目の前にいる肉親一人に心を割くこともまたひとつの善性だ。そうして私が、今世でこそ守りたいものを守り切ったなら、きっとクロエも、そしてロランも、一緒に父たちに拝謁する日がくるだろう。



 私はそのために、リシャールとして生きているのだから。