暗いホームに特急の電車がすべりこんでくる。
(あと一歩、踏みだせば楽になれる)
 その考えが身に迫って、息ができなくなりそうだった。
 ふいに、誰かの声が聞こえた。
『白線の内側までお下がりください』
 いつものアナウンスが響いて、
 すべてが終わる音がした。



「落ちましたよ」
 取引先にむかう途中、そう声をかけられた。
 ふりむくと、グレーのスーツを身にまとったひとりの女性と目が合った。
斎藤(さいとう)拓馬(たくま)』と書かれた、顔写真付きのパスケース。
彼女が見つけてくれたのは、僕の社員証だった。
「あ、どうも……」
 僕がそう言って拾うのと、「あ、この会社」と彼女がつぶやいたのが同時だった。
「ご存知ですか」
 弊社を、と続けようとしてできなかった。
 彼女の視線が揺らいで、悲しみを凝縮させたような複雑な色が目に浮かんだ。僕が何も言えないでいると、彼女は静止した表情のまま、ほんのわずかにうなずいた。
「働いていたんです。ここで」
「へえ、奇遇ですね」
 ただそれだけの会話なのに、妙に印象に胸に残った。
 僕たちは軽く会釈して別れた。
(どれくらい前に辞めたんだろう)
 同い年くらいに見えたけど、年上なのかもしれなかった。
 僕は意識の表層でうっすらとそう思いながら、現実に引き戻されていく。

「お前、この企画書ホントに通ると思ってんのか。最初から全部やり直せ」
 徹夜して仕上げた企画書は、上司のひと言でボツになった。
 その瞬間、週末の出社が決定し、土曜まで休めなくなった状況だけが露呈する。
「分かりました」
 かろうじて答えた声が震えた。
 けっこう自分のなかでは「頑張った」つもりの企画書だった。
 でも、その努力の欠片も目に見える実績を残さなければ、会社には認めてもらえない。その事実が鉛のように胸の底を重くする。先の見えない諦念が心の奥を圧迫し、周囲の空気が薄くなったような感覚にとらわれる。
《ときに感情を消さなければ、大人として生きられない》
 入社して半年も経つ頃には、僕はそう気づいていた。
 いくつもの言葉を呑みこみながら、容赦のない現実と折り合いをつけるしかないんだと。
「その痛みを乗りこえた先に、いったい何が残るのか」
 そんなことを真剣に考えていたら、身がもたない。
 仕事量と比例して倍加するように疲弊する重い体を抱えながら、今日も業務が割り振られる。どう考えても終わらない。たとえ、そう分かっていても。
 いつからだろう。朝、目が覚めるたびに起きることが苦痛になった。
『大人になったら就職して、働くのが当たり前だ』
 学生の頃は当然のように、僕はそう考えていた。
 そう思っていた自分は、なんて浅はかだったんだろう。
「大人として働く」ことは、ずっと過酷なことだった。それでも、働かなければいけない。
(僕は、大人なんだから)
 その思いだけを抱えて何かに引きずられるように、僕は今日も仕事をする。

 広告代理店の営業という仕事は、給与は割ともらえるものの、予想以上にきつかった。週末は普通に潰れるし、残業も日常的にある。終電で帰ることもざらで、本当に忙しいとき――納期が近づく頃は、家に帰れるだけでマシという日々が続いていく。それでもしがみつくように、最初の一年は乗り切った。
 一年経つ頃に気づいたのは、「この日々にはゴール地点がない」ということだった。
(これが終われば、この仕事が片付けば)
 その一念で働いてるのに、それを乗りこえた先にあるのは、途方もない荒野だった。辞めてく同期もいる一方、僕は歯を食いしばるようにこの仕事を続けている。手放すのが怖かった。「しょせんその程度か」と烙印を押されることが。一度立ちどまったら、動けなくなる気がすることが。
『働いていたんです。ここで』
 そう告げられた声が耳のなかに残っていた。
 僕はその出来事を日常に訪れる偶然として、記憶の隅にとどめていた。でも、ただそれだけだった。日々の激務にまぎれて、忘れていってしまうだろうと。数日後、街中でまた彼女と再会するまでは。