「フォン?」

 隣にいたクロエが思わず声をかけるほど、フォンの形相は変わっていた。
 彼女の声に気づいてはいたが、彼の喉には言葉が詰まっていた。言いたいこともあるはずなのに、返事も決まっているのに、口に蛇の尾を詰め込まれたかのように、喋れなかった。
 異様な態度にサーシャやカレンも顔を寄せてきた時、やっとフォンが口を開いた。

「……クロエ、サーシャ、カレン。警護を始めてくれ。皆にもそう伝えてくれ」

 さっきまでの明るさは、もうどこにもなかった。
 凶悪な魔物やクラークを相手にしていた頃の余裕は、微塵も感じられなかった。代わりに彼は、一番近い廊下の窓を開いて、大袈裟に身を乗り出した。

「警護って、まだ王様は……」
「いいから言ったとおりにしてくれ、もう猶予はないんだ!」

 そうして、クロエ達に警告したのを最後に、フォンは窓の外へと飛び出した。

「あ、ちょっと待ってよ、フォン! どこ行くの!?」
「師匠!」

 あまりに唐突な出来事に驚いたクロエ達が窓から顔を出すと、フォンはもう壁を走っていた。かつて大木を垂直に走ってみせたように、宮殿の壁を駆け出したのだ。
 フォンの目は、仲間達の方には向いていなかった。宮殿の屋根から感じる蛇の視線が鋭くなるにつれ、彼の瞳はずっと上を向き続け、同じく表情も険しくなる。大口と牙の中に飛び込むような錯覚を覚えながらも、彼の体は重力に逆らい続ける。
 後方からは広場の騒ぎ声が聞こえてくる。現実が引き戻そうとするのを振り払いながら、フォンはあっという間に、広く長い屋根へと辿り着いた。
 ネリオスの全てが見えるほど広大な、宮殿の頂点。遥か青い空の下。

 ――そこに、奴はいた。
 フォンに背を向けた黒いコートの男は、ゆっくりと振り返り、彼に顔を見せた。
 フードの中にあるのは、暗い緑か、青か、黒にも見える色の短髪。嘴の如く尖った鼻。ぎょろぎょろと螺旋模様を描く、蛇に似た大きな瞳。年は恐らくは青年程度で、顔中に継ぎはぎのような傷痕があるのに整った顔立ちに見えるのは、幻覚だろうか、それとも。
 総じてフォンが一度だって見たことのない男だが、彼は正体を知っていた。

「――レジェンダリー・ハンゾー」

 彼が、彼こそが、かつて老人の姿を取っていたハンゾーであると。
 振り返り、フードを脱いだ男は、厭らしさをここまで詰め込めるのかと驚かされるほどの笑みを浮かべて言った。

「――その名で儂を呼ぶとは。まだ敬意というものが残っておるようじゃな」

 嗤うハンゾーとは裏腹に、フォンは冷たい目を見せた。
 亡骸を見据えるというよりは、邪悪の根源を見ているようだ。

「一度死した者は伝説とだけ残るべきだ。埋もれ、潰えるだけでいい。僕がお前を伝説と呼んだのは、どうして生きてここにいるのかと疑問に思ったから、それだけだ」
「うむ、確かにお主は儂の心臓を絶った、と思っているじゃろう」

 フォンの記憶が正しければ、ハンゾーは自分が斬り捨てた。
 だが、彼の認識はやはり違っていたようだ。これまでにも何度か、彼がもしかすると生きているのではないかという考えが頭を過ったが、正しくそちらが事実だったらしい。

「じゃが甘い。儂が自らの心臓を筋肉で止めているのも気づかず、度重なる肉体改造によって心臓の位置が変わっているのも気づかず、お主は相手を殺したと思っただけよ。この体も、可愛らしい少女の姿も、儂の得た禁術のものよ」

 ハンゾーの脳裏に浮かぶのは、自分がフォンに斬られた瞬間だ。噴き出す血と痛みは確かだったが、筋肉や骨格を自在に変える能力を持つハンゾーは心臓を斬撃痕から逃し、死だけは回避してみせたのだ。

「致命傷でも、なんでもなかったというわけか」
「いいや、儂の体を裂いたお主の腕は確かよ。致命傷こそ受けなかったが、隠しておったリヴォルと共に暫く養生しなければならなかったほどにはな。自然治癒力を高める『心身活性の術』がなければ確かに死んでおったかもしれんのう、くはは」
「そのまま朽ちていればよかった。なぜ生き返った、何の為に?」
「分からんわけがなかろう」

 今度は、ハンゾーの目が妖しく光った。
 彼と目を合わせず、静かに視線をずらすフォンの態度を見ながら、彼は話を続ける。

「忍者が夜を統べる時代は終わりよ。太陽の下を食らいつくし、己が国を以て凡愚どもを従え、真に王冠を被るのが誰であるかをしらしめるのだ。この国は、その第一歩よ」

 ハンゾーの目的は、里にいた頃から何一つ変わっていない。寧ろ、より邪悪さを増しているようでもあった。なんせ、既に計画を実行へと移しているのだから。
 忍者がいかに素晴らしいかを説くのは昔と変わらなかったが、他の忍者と違い、フォンにはやはりどれほど素晴らしいのか理解できなかった。彼は常に、忍者そのものが素晴らしいのではなく、忍者の為すべき正しさに価値があると教えられてきたからだ。
 先代フォンの言葉を覚えているからだからこそ、忍者が偉ぶるのがどれほど無価値か、ともすれば愚かとすら形容できないかは分かっていた。そんな連中を指し示す言葉は、フォンは一つしか思い浮かばない。そして、言ってやらない理由もない。

「自分達を認めない国への反逆か。くだらない」
「反逆? 違う。儂らが持つべきものを取り返すだけだ」

 フォンの言い分を、ハンゾーは軽く受け流した。

「お主も見たであろう。侵略を恐れて殻に閉じこもる愚かな王と、自らが狙われているとも気付けない間抜けな王子を。奴らを傀儡にしてやるのも一興かと思ったが、やはりつまらん。正面から潰してやり、忍者の恐怖を刻み付けるのが一番よな」

 どうやら、クラークやリヴォルをこちらにけしかけたのも、ハンゾーからすれば単なる余興の一環に過ぎなかったようだ。
 作戦が成功すればよし、失敗したところでさして問題もなし。まるで、忍者の余裕を現したかのような行動に、フォンは半ば不快感すら覚えた。特に、アンジェラの同僚を殺したのも丹念な計画ではないかのような言い分は苛立たずにはいられなかった。

「四騎士を殺したのも、戯れ程度だというのか?」
「『配下』の力を試しただけよ。なんじゃ、大きな計画でも感じておったのか?」

 その通りだった。アンジェラがこれを聞けば、どれほど怒るだろうか。

「忍者の力があれば、純粋な武力があれば、計画など不要。衆愚、騎士、兵士、何もかも不要。忍者以外はいらんのだと……リヴォルは理解しておらんようじゃがな」
「忍者以外がいらないのなら、クラーク達は?」
「生かす理由があるとでも?」

 知ってはいたつもりだが――クラーク達の運命も、決まっていた。
 彼らは復讐を果たす前に、道具として使い捨てられるのだ。