忍者にとって試練を与える場所において、何が起きてもおかしくないと思っていた。覚悟もしていたし、事実、火炎放射や吊り天井まであったのだから。
 しかし、まさかもう一人の自分が出てくるとは予想していなかった。しかも、自分が一番気にかけている一人称を用いて、心を揺さぶってこようとするなどと想像もできない。
 こんな状況ではどうするべきか。心に波風一つ立てないまま、苦無を握るのが正解だ。

「……僕のつもりか」
「そうだとも、俺のつもりだ」

 同じ声色だが、口調が少し違う。凶暴性を強調し、こちらの動揺を誘うつもりか。

「外の音が聞こえない、恐らくは逆も然りだろう。外界との接触を絶ち、精神を揺さぶる幻覚を見せる。忍者が尋問する時の常套手段だ、だけど――」

 そんな小細工は通用しないと言いたかったが、先にもう一人のフォンが声を出した。

「『僕には通じない』、と言いたいのかな?」

 思考を先読みされた。
 普段なら戸惑いの一つでも見せていただろうが、ついさっきにもフォンは同じ経験をしている。だから取り乱さず、偽物を試すように、敢えて彼は大きめの声で言った。

「「心を読まれている。冷静になれ、相手は幻だ。こちらに分の悪いようにしか動かない」」

 やはり。心が読まれている――もしくは、行動が先読みされている。
 ここまでの挙動は、大方、想定通りだ。敵もまた苦無を手に取るのも、予期していた。

「……試しに声に出してみたけど、やっぱりそうか。改めて言うよ、僕に幻覚は通じない」
「そうだな……君が予想する通りの相手ならの、話だけどねっ!」

 ただ、唯一予想を裏切ったのは、もう一人のフォンが、僕と名乗るフォンよりもずっと好戦的で、苦無を構えると同時に斬りかかってきた点だ。
 フォンを名乗るだけあり、速さ、鋭さ、強さ、その全てが常人では比べ物にならない。同じく苦無で斬撃を受け止めたのが忍者でなければ、容易く首を刎ねられていただろう。
 体を捻り、今度はフォンが手首から下を斬り落とそうと動く。影の方も防御に瞬時に回ったが、先程までのように心を読んだかのような動作はなかったので、こちらを揺さぶる目的で使ったのだと分かった。
 ところが、影の攻撃は、単なる苦無での奇襲だけではなかった。
 次に暗器同士が激突した瞬間、フォンの頭の中がちかちかと弾けた。

「ッ!?」

 未知の経験を前に、彼は思わず飛び退いた。
 自分の目に見えている光景以外の景色――漆黒の世界ではない、まるで別の空間が脳裏に浮かび上がったのだ。しかも、ただ思い出しただけではない。
 フォンがそこにいて、当たり前に動いている。まるで、最初からそこにいたかのように。

(何だ、今のは!? 僕の中に、何かが流れ込んで……!?)

 存在しないはずの何かが脳に無理矢理植え付けられたのに、いつになく狼狽えた表情を隠せないフォンをもう一人が嘲笑う。

「どうしたんだ、『偽物』? 何かを思い出したような顔をしてるよ?」

 思い出したと彼は言うが、フォンにとっては違う。
 謎の感情が流し込まれ、自分の中にある別の自分が目覚める恐怖が芽生えつつあるのだ。思い出すものなどないはずだが、脳に、心臓に刻み込まれてゆくのだ。

「……偽物は君の方だろう。忍術で生み出された幻で、偽物以外の何者でもない」
「そうかな? だったら、贖罪の意識と、上塗りの記憶でしか存在しない君の方はどうなんだ? 君は何者でもないというのに、人を偽物扱いするとはねっ!」

 去来する現実を、己も知らない間に怖れるフォンを殺すべく、もう一人が飛び掛かる。
 今度は、フォンの対応が遅れた。普段ならばどれだけ心を揺らがされても、瞬時に水面の如き平静さを取り戻して応戦するはずなのだが、今は明らかに動作の全てが遅れている。

(全ての挙動が僕と同じ……いいや、ともすれば僕より速い!)

 回避に徹するが、四方から迫りくる苦無の連撃を避けきるなど到底できない。防御をしないのは、もう一度触れ合えば何が起きるのかを理解しているからだ。そうしてまた激突すると、またも頭の中に存在しない全てが雪崩れ込んでくるのだ。
 必死に武器を弾くフォンに対し、もう一人はフォンらしからぬ顔で哂う。

「そっちが押し負けているね、実力では俺の方が上だよ! まだ認めないのかい!?」
「認めるはずがない、必要もない! 僕はフォン、ただのフォンだ!」
「いいや、違うね!俺が真実のフォンだ!」
「どうしてそう言える、そっちが本物だと!? 君は僕を惑わす為だけに生まれた偽りの影に過ぎない、そしてそれが試練の一つなんだろう!?」
「試練だって、偽りだって? 違うよ、これは全てただの現実だ!」

 同じ姿をした二人が衝突し合う中、遂にもう一人が吼えた。
 びくりと、フォンが震えた。彼の目の中にはありありと恐れが浮かんでいた。
理由なら百も承知だ。先程から自分の中に入ってくるのが、記憶の残滓だと気づいているからだ。これまで自分が求めていた欠落を埋めるものが、よりによって幻覚に過ぎないはずの相手から与えられているのに怖れているのだ。

「分かっているはずだ、ぶつかり合う度に記憶が流れ込んでいくのが! 空っぽの君に俺が記憶を流し込んでいるんだよ! 記憶を持つ者と何も持たない者、どちらが本物かなんて語るまでもないさ!」

 狂ったように哂う幻影に対し、フォンはただ首を振り、叫ぶだけだ。

「違う……違う、違う! これは忍術による幻だ、僕はフォン、忍者だ!」
「そうだとも、君は忍者でフォンだ! だけどね、全て仮初なんだよ!」

 はっと、彼は目を見開いた。
 仮初とは何なのか。フォンであり、忍者でありながらも、偽りでしかない。
 戸惑いが恐怖に代わり、苦無を握る力が弱まったのを、幻影は見逃さなかった。この場に於いて、既に主導権を握っているのはフォンではなく、彼が幻だと言い放った相手だと分かった相手が遠慮する理由はなかった。

「今から教えてあげるよ、君がどうして記憶を失ったのか、どうして忍者を――」

 切り上げた一撃でフォンの苦無を弾いた彼は、無抵抗の顔を思い切り掴んだ。
 振りほどく間もなく、反撃をさせる余裕も与えず、疑問を抱く暇すら渡さず――彼は己の顔を寄せて鼓膜を劈くほどの大声で言った。
 記憶を失う切欠を。
 今の彼に至る経緯を。
 そして、忍者を壊す絶望を。

「――師匠を殺すに至ったのかをね!」

 頬が裂けるほど哂った本物の掌から、偽物を覆う光が溢れ出した。

「……ッ!?」

 息を呑むフォンが、光の中へと包まれてゆく。
 五感が失われ、体が白い空間に溶け込む。
 さっきまで自分を覆っていた恐れがなくなるのを感じるフォンから、遂に意識が手放される。戦いも、試練も、探索も忘れ、どこかへと飛ばされる安寧に身を任せる。
 目が開いているのか、閉じているのかも分からない。
 もう一人の存在も忘れてしまう。どうでもいいと、全てを委ねる。
 このまま自分の何もかもが消え去ってしまうのではないかと思った時、彼の閉じた瞳の裏に、真っ白な光とは別の淡い明るさが差し込んできた。
 五感も、触覚をはじめとして戻ってくる。
木と自然の匂いが鼻腔をくすぐり、足元に柔らかい感覚が当たる。瞳をゆっくりと開いた先には、もうそこは暗黒に視界を遮られた邪悪な試練の地ではなかった。
木で作られた簡素な小屋。
足元にはクッション。少し埃を被った家具と、窓の外に見える木々。

(……ここは……)

 彼には見覚えがあった。
 誰に説明されずとも、心が覚えていた。

(――忍者の里だ)

 彼は、帰ってきていた。
 在りし日の忍者の里に――記憶の彼方に眠った、思い出の場所に。