「……化物、か……!」

 どこから声を出しているのか、などとくだらない疑問を吹き飛ばす叫びは、魔物ですら逃げ出すほどの絶叫だった。森に棲む数少ない鳥や獣が逃げ出し、走り去っていく音が聞こえてきた。人形はたちまち、ポルデン山の生態系の頂点に立ったのだ。
 弱ったアンジェラですら慄き、フォンは噴き出す汗を抑えられなかった。こんな敵を、弱った仲間を抱えて戦うのは、至難の業だ。
 どうすればいい、どうすればいいのか。
 刹那の間に思案に耽ろうとしたフォンだったが、もう瞬間の余裕すら、彼にはない。

「――やれ、レヴォル」

 リヴォルの命令で、フォンの視界からレヴォルが消えた。

「――ッ!?」

 これまで何度か、フォンが凡人の視界に映らないほどの速さで動いた経験はあった。だが、その逆はなかった。どれほど高速であったとしても、捉えられない足も挙動もなかった。
 今は違う。レヴォルは秒間の思考の間でフォンの瞳から離れ、完全に姿を掻き消した。黒点を必死に動かして上下左右、リヴォルの背後にまで視点を移しても、影の一つも見当たらず、匂いすら感じ取れない。
 だから、次に彼女が現れたのは――存在に気付けたのは、彼のすぐ隣だった。

「ごぼッ」

 鎖を巻き付けた拳をアンジェラの腹に撃ち込んだ、レヴォルの姿があった。
 滝の上で受けた蹴りなど、比べ物にならない打撃。いかに薄いとはいえ王国騎士が纏う鎧が、拳の一打で砕け、アンジェラの鍛えられた腹筋を抉り取った。鈍く光る鎖を纏った人形の拳打は、彼女を吐血させるには十分過ぎた。
 しかし、アンジェラも奇襲を受けてそのままでいるほど、甘くはない。

「うおらあああぁぁッ!」

 腹筋に力を入れ、簡単に引き抜かせないようにした上で、彼女は両腕のギミックブレイドを振るった。いかに彼女が弱っているとはいえ、十以上の刃を操る技術は健在であり、ましてやこれだけの近距離での斬撃であれば、フォンでも無傷では回避できない。
 血を口から漏らしながら双頭竜の首を襲いかからせるアンジェラだったが、彼女の刃が届くより先に、レヴォルが動いた。麻痺毒のせいで引き締めきれなかった腹筋から腕を引き抜くと、人形は残った腕の刃と鎌で、迫りくる蛇腹剣を防いでしまった。
 いや、防御だけに留まらなかった。二つの武器でギミックブレイドの刃の関節を巻き取ったレヴォルは、物凄い勢いで蛇腹剣そのものを引き千切ってしまった。

「な……!」

 いかにアンジェラが負傷しているとはいえ、これほど簡単に攻撃を無効化されるとは。フォンが驚愕し、助ける間もなく、今度は胸にレヴォルの拳撃が連続で命中した。

「ぶぐ、おっご……!」

 今度こそ、アンジェラの瞳から意識が途絶えた。
 ギミックブレイドを破壊され、鎧を打ち砕かれた彼女は、後方へと勢いよく吹き飛ばされた。フォンが抱き寄せる間もなく、地面に何度も体を擦らせたアンジェラは欠片も抵抗できないまま、大木に激突して動きを止めた。
 か細い呼吸が聞こえるだけで、アンジェラはもう戦えない。
 フォンが自身の劣勢を理解するのと、レヴォルの標的が自分になったのだと気づいたのはほぼ同じだった。だとしても、対策など何もできないのだが。

「うおおぉぉッ!?」

 顔のない首を向けたレヴォルの凪ぐ刃ではなく、腕の方を前腕で受け止めたフォンだが、骨にひびが入るような感覚が全身に行き渡った。しかも防御したのに、人形の腕力は無理矢理刃を押し込むように、力ずくで彼の喉を裂こうとしているのだ。
 辛うじて敵の腕を跳ね飛ばしたフォンだったが、レヴォルの攻撃は息つく暇も与えない。鎖鎌を回転させ、刃を隙間に刺し込むようにして襲い来る人形の目まぐるしい連撃を、フォンはただ避けるしかない。反撃など、思考に割り入ってくるはずがない。
 そんな彼を、リヴォルは遠目で楽しそうに、勿体なさそうに見つめるばかり。

「お兄ちゃん、さっさと降参した方がいいよ? 今のレヴォルは容赦しないから、このままだと死んじゃうよ?」
「な、に、をおぉッ!」
「私は最悪、お兄ちゃんが死んでもいいんだけど、できれば持って帰りたいんだよねー。ま、どっちにしても――お兄ちゃんの仲間は全員殺しちゃうけどね」

 彼女の邪悪な笑みが、フォンの視界に飛び込んだ。
 瞬間、激昂しかけていた感情が急速に冷めていくのを彼は感じた。

「……何だ、と?」

 リヴォルの見過ごせない発言を聞いたフォンは、鎖鎌を投げつけようとしたレヴォルの腕を弾き、後方に大きく跳んで着地した。焼けつくような痛みも忘れ、彼は敵を睨む。
 追撃を覚悟していたが、レヴォルも幸い敵を深追いせずに姉の元へと一跳びで戻ってしまった。どうやら、まだ多少なりリヴォルの命令を聞いてはくれるようだ。そんな妹の様子に満足した顔で、彼女はフォンに語り掛ける。

「言った通りだよ、あいつらは皆殺しにするの。そこの騎士も含めて、皆殺すよ」
「……戦うのは僕だ。彼女達を巻き込ませない」
「どうして? 私は彼女達も殺せって言われたんだよ? そうでなくても殺すけど」
「お前こそ、どうしてそこまで僕を孤独にしようとするんだ!? 僕が忍者だったからか、独りで居続けたからか!? 繋がりを絶とうとも、僕はもうあの頃には戻らないぞ!」
「違うよ、お兄ちゃん。大事なのは結果じゃなくて、その過程だよ」

 リヴォルの笑顔が、醜悪で悍ましいものへと昇華していく。

「大事な存在を失う怖れが、怒りが、お兄ちゃんを忍者にしてくれるんだよ。牙の抜けた今の姿じゃなくて、私が、レヴォルが知る本当のお兄ちゃんに……だからもう一度奪うんだ、お兄ちゃんの存在理由を奪って、今度こそ闇に染め上げる為に!」

 レヴォルが狂ったように揺れ周り、リヴォルはフォンの全てを奪う喜びに酔いしれる。

「お兄ちゃんが一番悲しむ殺し方で始末してあげる! 一番苦しむやり方で拷問してあげる! 誰よりも惨めに、惨く、悲惨な殺し方をお兄ちゃんに見せてあげる、あいつらはその為だけにここにいるの、私に殺される為にここに来てくれたんだよ!」
「……やめろ、やめろ!」
「あの時と同じ目に遭わせてあげる、忘れてるのなら思い出させてあげる!」
「やめろと言ってるだろう!」
「死んだレヴォルの記憶から掘り起こした――『あの日』と同じように!」

 リヴォルは確かに言った。フォンの地獄を掘り起こす、あの日を再現すると。

「――――ッ!」

 家族とも呼べる者達を惨殺し、潜在するはずの闇を取り戻す、ただその為だけに。
 死ぬ。奪われる。失う。消え去る。孤独の腐海に沈ませると。
 無為な虐殺の果てに、意味のない享楽の果てに、彼女は遂に一線を越える発言をした。

「――そうか」

 ――その途端、彼の醸し出す空気が変わった。
 電撃が迸るような空間の一変を前に、姉妹は思わず体を強張らせた。明確に異変を察知したリヴォルどころか、今や姉の命令ですら半分ほど聞かなくなったレヴォルですら、狂気に身を任せるのをやめた。
 顔を下げ、地を見る彼の表情は窺い知れなかったが、纏わりつく漆黒の覇気が、ただ一つ、紛れもない事実を姉妹の脳に刻み付けた。
 心の底に燻っていた真の邪悪が、ゆっくりと瞳を開いたのだ。
 ――彼女が予想していたよりも遥かに凄まじい、邪なる存在が。