人形使いには、信じられなかった。
フォンが得た新たな繋がりを認めたくないと言わんばかりに、首を失った人形を立たせて、彼女は飛び出しかねないほど目をひん剥き、狂った雄叫びを上げた。
「邪魔をするな、あ、あああぁぁッ!」
リヴォルの咆哮が響き渡っても、誰も怯みはしなかった。
臆せず突進してくる、それだけで今の彼女にとっては脅威となった。
「クロエ、カレン、アンジーは僕達を援護して! サーシャ、挟み撃ちにするよ!」
「サーシャ、承知!」
数だけなら大したことはないが、問題はその中に忍者と、忍者に匹敵する力を有する女騎士がいること。加えて、彼ら五人はただの寄せ集めではなく、強い絆で結ばれた者達なのだ。
フォンが先陣を切って突撃してくるのを見るや否や、彼女はレヴォルを引き寄せて武器を構えさせるが、彼の背中から隠れるようにしてギミックブレイドの刃が飛んでくる。
レヴォルの体を盾にして刃を受け止めるも、アンジェラの腕力は人形を彼女の手元から剥がしてしまう。そうなればリヴォルは防御策を失い、クロエとカレンが放つ矢と火球を、ただ避けるしかなくなる。
勿論、遠距離攻撃だけではない。フォンの超高速近接攻撃と、サーシャのメイスが振るわれる度に、環境に破壊が齎されてゆく。岩が砕け、水が弾けると、リヴォルは嫌でも自分の体と未来を破壊された物体に重ねてしまう。
(こいつら、お兄ちゃんと息が合い過ぎてる! 孤独なはずの忍者が、どうして!?)
彼女には、到底理解できなかった。
自身が知る限り最も凶悪で強かった頃のフォンよりも、ともすれば今の彼は勝っている。おまけに五対一の状況を卑怯だと言及もできただろうが、これは決闘ではなく殺し合いだ。ましてや忍者同士の争いなのだから、正々堂々などあったものではない。
「お兄ちゃん、どうして!? お兄ちゃんの本当の姿はこんなのじゃないんだよ、もっと深い闇を持ってる、もっと強い力を持ってるのに、どうして!?」
「あんたには分かんないでしょ、あたし達とフォンとの繋がりなんて!」
「お前には聞いてないだろうが、このおぉッ!」
「べらべらと喋ってるなんて、随分余裕なのね!」
余裕などあるはずがない。知っていて、アンジェラは挑発している。
矢と炎が飛び交い、メイスと苦無が迫り、蛇腹剣が飛んでくる。真っ黒なレヴォルの体が削れてゆき、リヴォルにも傷が増えてゆく。
クロエやサーシャが気を抜けば死んでしまうほどの速さで斬撃が、打撃が飛び交う。ただし、気を抜けばレヴォルを破壊されて死ぬのは、リヴォルも同じ状況なのだ。
加えて、彼女は気づいていない。自分にとって最大の危機は多くなってゆく傷ではなく、次第に体が滝口へ通されていることであると。ただただ必死に攻撃を防ぐばかりで、フォンの真の目的を彼女は知らないし、知る余裕すらないのだ。
何度目か分からない、一瞬の油断が死を招く激闘の最中、遂に時が訪れた。
「そこだッ!」
クロエの矢とアンジェラの蛇腹剣を同時に避け、レヴォルをサーシャのメイスで抑えつけられたリヴォルにできた、完全なる隙。フォンとカレンは、それを逃さなかった。
「どりゃあ、でござる!」
カレンの一蹴り。リヴォルがぐらりと姿勢を崩す。
(しまった、後ろは……!?)
猫忍者の打撃の威力は微々だが、彼女はあくまで前振りでしかない。
真に待ち構えていたのは――大きく拳を振りかぶり、レヴォル諸共リヴォルを殴り飛ばす為に、真正面から突っ込んできたフォンだ。
「――うおりゃああぁぁ――ッ!」
振り抜かれた拳は、リヴォルの顔面を打ち抜いた。
「ぶ、ぐっおぉッ!?」
忍者が持ち得る腕力を最大限活かした一撃は、鼻血を噴き出すリヴォルの体を、レヴォルと共に宙に浮かせた。背を川に向けたまま跳ねた彼女の後ろに待っているのは、リヴォルも予想していた通り、大きな音を立てて口を開ける、滝への入口だ。
姿勢は崩れたまま。受け身も取れない。そもそも、あらゆる次の手をフォンは潰せるよう、彼女から微塵も目を離さない。ならば、姉妹が行き着く先はただ一つ。
フォンの作戦が成功し、リヴォルは滝へと叩き落とされるのだ。
「やった……!」
「滝に落ちたなら、あいつは……!」
上手く川の浅いところに着地した彼のみならず、息が上がった様子のクロエ達も、どういうわけか体の動きが鈍りつつあるアンジェラも、敵の転落死を確信した。
――ただ、彼らは想定していなかった。リヴォルが悍ましい執念の持ち主であると。
リヴォルとレヴォルが滝に吸い込まれ、姿が見えなくなった瞬間、フォンは自分の腹に熱いものがじわりと広まっていくのを感じた。クロエも、サーシャも、カレンも、アンジェラも、張本人であるフォンですら、何が起きたのかを把握しきれなかった。
静かに浸透していく感覚の正体を知るべく、フォンはゆっくりと自分の腹を見た。
「……これ、は」
彼の腹には、黒い刃物が深々と突き刺さっていた。
しかも、ただ長いだけの刃ではない。これはフォンも使う忍具で、手持ちの鎌の後部に鎖を付けた、『鎖鎌』だ。この武器の鎖は必ず手元に握られているので、つまり、誰かがそれを掴んでいるのは間違いない。
誰だろうか、などとくだらない質問だ。顔を上げたフォンは、全てを察した。
轟轟と流れる滝の下に、鎖は続いていた。この滝から落ちていったのはただ一人と一つだけで、フォンには分かり切っていた。どこかに武器を隠し持っていたレヴォルが、落ちる瞬間に、彼目掛けて鎖鎌を刺したのだと。
「……ッ!」
全員が、フォンの腹を貫いた刃を見た。しかし、もう何もかもが遅かった。
彼が仲間達に警告するよりも先に、滝の底から這い寄るような衝撃を覚えたフォンは、足でどうにか踏ん張るよりも早く、滝口へと引っ張られてしまった。
「師匠!」
「フォン!」
駆け寄ろうとする仲間達の姿が遠くなる。手を伸ばしても、誰にも届かない距離。
水を散々飲まされながら、フォンの体は滝壺の遥か上空に投げ出される。驚愕する仲間の顔が見えなくなり、代わりにぐるりと体を捻らせた彼の瞳に映ったのは、激流に体を打ち付けられながらも、彼を凝視して凄まじい笑顔を見せるリヴォル。
鎖鎌を首の中から放っているのは、レヴォル。どうやら人形が鎖鎌を握っているのではなく、体の中に仕込んでいたようだ。ならば当然、リヴォルが離さなければ鎖は離れず、フォンは彼女達が落ちていく方向に引っ張られてしまうのだ。
つまり、底の見えない地獄の入口。滝壺に向かってである。
「うわああぁぁ――ッ!」
レヴォルが腕で鎖を引き込むと、フォンの体は滝に沈んだ。
たちまち、二人と一つの影は、凄まじい水の怒号の中へと消えてしまった。
滝からの落下自体は、フォン自身、修行で何度か体験していた。
一度目は死にかけた。二度目は少し慣れ始め、三度目以降は落下してもそれほどの怪我を負わなくなっていた。だから、墜落自体に抵抗感はなかった。
ただ、それは怪我のない状態で、且つ体の自由が利いていた時だ。今は違う。腹に鎖鎌が刺さり、しかも滝の内側にいるレヴォルが彼を引き寄せているのだ。当然、フォンも内部に連れ込まれ、猛烈な勢いの水流の直撃と、崖の切り立った岩に激突させられる。
「うぐ、う、うおおおぉぉッ!」
真下に見えるリヴォルは、激突する箇所にレヴォルを挟んで落ちているので目立った衝撃を与えられていない。しかしフォンはというと、滝と岩の間に挟まれ、揺れる度に体をぶつけられる。いかに忍者といえども人間だ、ただでは済まない。
衣服が破れるのは当然、肌が裂けて血が噴き出す。頬、腕、足、衝突する度に傷が増え、しかもリヴォルは一向に引っ張る力を弱めない。どこかに手をかけようとしても、レヴォルが引きずる力の方が強く、掌が削れ、手が剥がれるのを繰り返す。
そうして何度も水に撃たれ、岩に叩きつけられ、ようやくフォンは滝壺へと落ちた。
落ちた時もまた、体を巨大な鞭で打たれるような激痛が奔った。体中を引き裂く感覚に耐え、彼はどうにか水面へと上がろうと足掻くように泳ぐ。滝の水は絶えず落ち続け、回り込んで浮き上がらないと忍者といえども脱出できない。
「……ッ!」
ところが、彼の動きは急に止まった。というより、足元から引き留められた。
何が起きたのかと足元に目をやると、レヴォルの黒い足が、フォンの足首を掴んでいた。その奥ではリヴォルは歯を見せて笑っている。明らかに彼女も危険だというのに、一向に自分から浮上する様子はなく、寧ろ奥へ、奥へと潜ってゆく。
彼女はレヴォルを使って、底の見えない闇へと彼を道連れにするつもりなのだ。
「――――ッ!?」
フォンは必死に抵抗するが、苦無を落とした上、水中では呼吸を必要としない人形の方がよく動く。骨をへし折りかねないほどの力を込めて、レヴォルは首から放たれた鎖を引き、フォンをリヴォル諸共溺れさせようとしている。道連れなど、正気の沙汰ではない。
鎌を引き抜くと、痛みで口が開く。フォンは水中での呼吸時間が常人の三倍以上保つが、負傷した状態ではやはりあてにならないし、そもそも多量の失血で気を失う方が先だ。
(こっちにおいで、お兄ちゃん)
リヴォルが口を開き、フォンに語り掛ける。何としてでも自分のものにするという途轍もない執念が心臓に圧し掛かり、ぞっと背筋が凍り付く。
このままでは、リヴォルの思い通りだ。フォンは気絶して連れ帰られる羽目になる。
次第に、振り払おうとする足にすら力が入らなくなってくる。血が流れ過ぎたのか、体中から力が抜け、視界の周りの黒い水が赤く染まる。
腹を抑えてどうにか力を込めようとするが、既に手遅れのようだ。リヴォルも彼の限界が近づいているのを察し、一気に仕留めるべく、レヴォルに足を潰すほど握らせようとした。
だが、それよりも先に、ぴたりとフォンの動きと藻掻きが止まった。
「……!?」
彼自身の力ではないはず。もしもレヴォルの引力に抵抗するだけのパワーがまだ残っていたならば、早々に発揮していたはずだ。そうしないということは、今こうしてレヴォルの手でどれほど動かそうとしても反応がないのは、外部的要因があるのだ。
赤と黒の水が澱む中、目を凝らしてリヴォルがフォンを見ると、彼の腹部に蛇の如く連なった刃が巻き付けられていた。フォンを切り刻むどころか、包帯のように傷を隠しているそれらは、明らかに水面の上から滝壺に差し込まれている。
この奇怪な武器の正体を知るリヴォルが慌ててフォンを引きずり込もうとするよりも早く、蛇腹の剣――ギミックブレイドが、フォンを勢いよく水上へと引きずり出した。
「うお、うわあああッ!?」
この状況に最も驚いていたのは、水中から無事脱出できたフォンだった。
フォンが飛び出せば、彼の足を握っているレヴォルも、彼女を自分の傍から離すわけにはいかないリヴォルもついてくる。まるで大魚の一本釣りのような光景を眺めていると、剣が持ち主の元へと手繰り寄せられた。
好機を逃さず、フォンはレヴォルの首に蹴りを叩き込む。水の中以外では彼に利があるようで、首なしの人形はたちまちフォンの足から手を離し、姉同様に地面に激突した。
一方でフォンはというと、全身の痛みを堪えながらもどうにか無事に着地できた。
「げほ、ごほ……」
ぜいぜいと肩で息をする彼の体から刃が離れ、後方から走ってくる主人のもとに戻ってゆく。フォンは、自分を助けてくれた誰かの正体を、水中にいた頃から知っていた。
「……助かったよ……アンジー……」
蛇腹剣、ギミックブレイドを振るいながらフォンに駆け寄ってきたのは、アンジェラだ。
レヴォルに攻撃されてからずっと顔色がやや良くないが、刃でフォンを捕まえ、敵ごと引きずり出すほどの腕力は残っているらしい。薄手の鎧は針で貫かれた以外は大きな損傷もなく、一行では最も負傷の蓄積値が低いと言えるだろう。
そんな彼女が加勢として滝の下まで来てくれたのは、フォンにはかなり有難い。
「随分とやられちゃったわね。動けそうにないなら、休んでてもいいのよ?」
鼻で笑うアンジェラに微笑み返しながら、フォンはどうにか立ち上がる。
「……アンジーこそ……顔色が、悪いようだけど……?」
「あいつに針を刺されてから、なんだが調子が良くないのよ。血でも出過ぎたのかしらね?」
「調子が……それは、まさか……」
フォンが何かを言おうとするより前に、リヴォルがようやく戦いの準備を終えた。
首のないレヴォルに刃物と鎖鎌を持たせ、めをぎょろつかせて姉が吼える。
「お兄ちゃんと私の邪魔をしないでって昨日も言ったでしょ、このババア!」
婆と呼ばれ、アンジェラの額に血管が浮かんだ。歳はまだ二十二だが、十九のクロエですら苛立つ禁句だ。リヴォルを憎むアンジェラが聞けば、猶更怒るだろう。
「……ここでケリをつけてやるわ、ガキが」
「ケリをつけるのはいいけど、アンジー、クロエ達はどこに?」
「三人とも、さっきの戦いで傷が少し開いたみたいよ。滝の上で体を休めてから下りてくるように伝えて、私だけがこっちに来たの。どうする、五人揃うまであいつを放っておく?」
アンジェラの問いに、びしょ濡れのフォンは首を横に振った。
「……いいや、僕とアンジーで倒す。とどめは任せるよ」
「分かってきたじゃない、行くわよ、フォン!」
「ああ、言った通りケリをつけよう、アンジー」
すう、と瞳のハイライトを消して拳を構えるフォンと、蛇腹剣の刃を垂らすアンジェラ。
二人のコンビネーションに、白い髪を濡らしたリヴォルは天を仰いで激昂する。
「だから――お兄ちゃんから離れろって言ってるでしょうがああぁッ!?」
首なし人形ですら絶叫しているのかと見紛うほどの雄叫びを上げながら、姉妹は物凄い勢いで二人に突進してきた。
今度こそ因縁を、過去の憎悪を斬り払うべく、忍者と女騎士は迎え撃った。
激突する三人と一つ。二対二の戦いの火蓋は、切って落とされた。
「うおらあああぁぁッ!」
「キャハハハハアアァ――ッ!」
うち一人は岩に何度も激突して体中に傷跡が残り、腹に穴が開き、もう一人は鎧を貫くほどの針で胸を穿たれている。片や人形を操る少女は、痛みをまるで意に介していない。
なのに、フォンとアンジェラは一瞬たりとも引けを取らず、五感と四肢のありとあらゆる機能を稼働させる、人間離れした戦いぶりを披露していた。
傍から見れば、橙と黒、二つの白い影が旋風の如くぶつかり合っているようにしか見えないほど動きが速く、いずれかがぶつかり合う度に地面が抉れ、水が跳びはね、岩や木々が抉れてゆく。時折血が舞い、黒焦げの欠片も宙に飛び散る。
「目障りな首、落とさせてもらうわよ!」
「首が落ちるのはそっちだよ!」
蛇腹剣の白銀の刃がリヴォルの首を狙えば、レヴォルが楯となって刃物で反撃を試みる。
「させるかッ!」
「邪魔者を消そうとしてるんだから、お兄ちゃんは割って入らないでッ!」
人形の拳がアンジェラの喉を潰そうとすれば、フォンの苦無が遮り、弾き返す。
忍者と人形、騎士が織りなす、剣、拳、刃の応酬。恐らく、速度を十分の一、二十分の一に落としたところで、常人には目視すら難しいだろう。トランス状態に入ったフォンと怒りに駆られるアンジェラ、狂人リヴォルと人形レヴォルの挙動は、最早達人の域である。
特にフォンの動きは、腹に鎖鎌を突き刺され、滝から落とされた人間とは思えないほどだ。黄金獅子を倒した時と同じトランス状態に入ることで、彼は一時的に痛覚を遮断している。人に見られたくない姿ではあるが、贅沢は言っていられない。
尤も、彼とアンジェラを相手にして五分に立ち回るリヴォルも、怪物と呼んで差し支えないだろう。レヴォルを動かしながら自分も戦うなど、本来なら百年修業を積んでも能わない芸当だ。それを僅か二年ほどでものにしたのだから、彼女も天才である。
ただ、人形を武器として換算するなら、数にはフォン達に利がある。
それを指し示すように、リヴォルは少しずつ、少しずつ圧され始めていた。
「うう、このぉ……!」
レヴォルがまともな状態であればまだ勝機はあったかもしれないが、彼女の妹は首から上がなくなり、全身が真っ黒に焦げたせいで動きがどうにも覚束ない。
武器も爆発に巻き込まれた際に機能不全となったのか、使っているのは腕に備え付けられた細長い刃と、首から生えていた鎖鎌だけだ。何より、両手に持った凶器を振るわせるリヴォルの操作が、思考から遅れ始めているのだ。
これはつまり、リヴォルが自身の防御と回避、攻撃に集中している証拠であり、即ちレヴォルに構っている余裕がない確証でもある。これまで一度だって見せたことのないリヴォルの焦りを目の当たりにして、フォン達は今こそが攻め時だと睨んだ。
「フォン……!」
「分かってる、リヴォルは明らかに弱っている! 今がチャンスだ!」
仕留めるならばここだ。ギミックブレイドと苦無がレヴォルの鎖鎌を弾き、ようやく双方が距離を取ったが、リヴォルが微かにぐらついた。やはり、疲弊しているのだ。
「僕が敵の気を引く、その間にアンジーが……」
――ただし、動きの鈍りは、リヴォルだけに言えた状態ではなかった。
「……アンジー?」
フォンに声をかけられても、隣の彼女は返事をしなかった。
「……フー……フー……!」
というより、正確には返事をしたくても、舌先が動かないようだった。ぱくぱくと呼吸ができない魚のように、息がか細くなり、蛇腹剣を装備した両手にも力が入らないようだ。
顔色もよくよく見てみれば、朝顔のように青くなっている。戦いの最中で顔を見る余裕すらなかったからフォンは気づけなかったが、これでは死人同然だ。
「アンジー、どうしたんだ、アンジー!?」
「……ハァ、ゲホ……ッ!」
フォンが必死に問いかけると、彼女はせき込む。眼前の敵を見据えるのに必死で、それ以外に力を使えば今にも倒れてしまいそうなのだろう。外傷は見たところほぼないが、フォンは忍者が、ほんの少しの傷で人を殺める術を持っていたのを思い出した。
「毒か……滝の上で放った針に、リヴォル、やはりお前が毒を!」
そう、毒だ。
アンジェラが唯一目立った傷を負ったのは、リヴォルが死んだふりをしている時に不意打ちで射出した針の一撃だけだ。追撃の蹴りで毒を注入できなかったとするなら、針にそれを仕込んでいたとしか思えない。
そして彼の予想は、見事に的中していた。
「うん、結構強めの痺れ毒を塗ってあったんだけど、そこの女騎士は普段から毒に対抗する訓練でもしてたのかな? 効き始めるのにかなり時間がかかっちゃった」
ここまで毒の発生を遅らせたのは、アンジェラの体質か、訓練の賜物か。しかし、今回の場合は、遅延させてしまったことでアンジェラに毒だと気づかせなかった。
「リヴォル……!」
「無事に毒が効いてきてよかったよ。これでもう、そいつは邪魔できなくなるもんね」
そして息を荒げてはいるが、リヴォルからして、ようやく状況は好転したようである。
「でも、まだ戦おうなんて目をしてるのがなんだか嫌だなあ……だったら、今度こそ本気でそいつの息の根を止めて、お兄ちゃんと私だけで戦えるようにしよっか!」
しかもどうやら、リヴォルはまだ奥の手を隠し持っていたようだ。
おのずと鼓動が早くなるフォンの前で、リヴォルは自分の指に嵌っていた、レヴォルを操る為の指輪を全て外す。それらを全部中指に纏めて嵌め直すと、指輪が禍々しい紫色の光を解き放った。
「何をするつもりだ……!?」
フォンが問うのに呼応するかの如く、レヴォルの体が大きく震え、項垂れる。
「……今まで制御していた、レヴォルの力を解き放つの。私の命令もあんまり聞けなくなっちゃうけど、体内に閉じ込めた『魔宝玉』のエネルギーが枯渇するまで、今までとは比べ物にならない力と速さを得るんだ」
彼女が操っていた時点で、フォンですら早いと認識できるほどの速度で動いていた。それが、リヴォルの拘束から解き放たれれば更に強く、速くなるというのか。ハッタリでないとすれば、アンジェラの弱体化も加えて、最悪の事態といっても過言ではない。
「制御……今まで、レヴォルの力を制限してたのか……!?」
「そうだよ? 忍者の里でも教わったでしょ、実力の全てを表に出すなって。今はそう言ってられないから、お兄ちゃんに見せてあげるね……これが、レヴォルの真の姿だよ!」
我慢できないように、リヴォルが高らかに叫ぶのと同時に、レヴォルが体を仰け反らせた。
『――ギイィィィガアアアアァァァ――――ッ!』
紫に染まった体をこれでもかと震わせたレヴォルは、首のない体で雄叫びを上げた。
「……化物、か……!」
どこから声を出しているのか、などとくだらない疑問を吹き飛ばす叫びは、魔物ですら逃げ出すほどの絶叫だった。森に棲む数少ない鳥や獣が逃げ出し、走り去っていく音が聞こえてきた。人形はたちまち、ポルデン山の生態系の頂点に立ったのだ。
弱ったアンジェラですら慄き、フォンは噴き出す汗を抑えられなかった。こんな敵を、弱った仲間を抱えて戦うのは、至難の業だ。
どうすればいい、どうすればいいのか。
刹那の間に思案に耽ろうとしたフォンだったが、もう瞬間の余裕すら、彼にはない。
「――やれ、レヴォル」
リヴォルの命令で、フォンの視界からレヴォルが消えた。
「――ッ!?」
これまで何度か、フォンが凡人の視界に映らないほどの速さで動いた経験はあった。だが、その逆はなかった。どれほど高速であったとしても、捉えられない足も挙動もなかった。
今は違う。レヴォルは秒間の思考の間でフォンの瞳から離れ、完全に姿を掻き消した。黒点を必死に動かして上下左右、リヴォルの背後にまで視点を移しても、影の一つも見当たらず、匂いすら感じ取れない。
だから、次に彼女が現れたのは――存在に気付けたのは、彼のすぐ隣だった。
「ごぼッ」
鎖を巻き付けた拳をアンジェラの腹に撃ち込んだ、レヴォルの姿があった。
滝の上で受けた蹴りなど、比べ物にならない打撃。いかに薄いとはいえ王国騎士が纏う鎧が、拳の一打で砕け、アンジェラの鍛えられた腹筋を抉り取った。鈍く光る鎖を纏った人形の拳打は、彼女を吐血させるには十分過ぎた。
しかし、アンジェラも奇襲を受けてそのままでいるほど、甘くはない。
「うおらあああぁぁッ!」
腹筋に力を入れ、簡単に引き抜かせないようにした上で、彼女は両腕のギミックブレイドを振るった。いかに彼女が弱っているとはいえ、十以上の刃を操る技術は健在であり、ましてやこれだけの近距離での斬撃であれば、フォンでも無傷では回避できない。
血を口から漏らしながら双頭竜の首を襲いかからせるアンジェラだったが、彼女の刃が届くより先に、レヴォルが動いた。麻痺毒のせいで引き締めきれなかった腹筋から腕を引き抜くと、人形は残った腕の刃と鎌で、迫りくる蛇腹剣を防いでしまった。
いや、防御だけに留まらなかった。二つの武器でギミックブレイドの刃の関節を巻き取ったレヴォルは、物凄い勢いで蛇腹剣そのものを引き千切ってしまった。
「な……!」
いかにアンジェラが負傷しているとはいえ、これほど簡単に攻撃を無効化されるとは。フォンが驚愕し、助ける間もなく、今度は胸にレヴォルの拳撃が連続で命中した。
「ぶぐ、おっご……!」
今度こそ、アンジェラの瞳から意識が途絶えた。
ギミックブレイドを破壊され、鎧を打ち砕かれた彼女は、後方へと勢いよく吹き飛ばされた。フォンが抱き寄せる間もなく、地面に何度も体を擦らせたアンジェラは欠片も抵抗できないまま、大木に激突して動きを止めた。
か細い呼吸が聞こえるだけで、アンジェラはもう戦えない。
フォンが自身の劣勢を理解するのと、レヴォルの標的が自分になったのだと気づいたのはほぼ同じだった。だとしても、対策など何もできないのだが。
「うおおぉぉッ!?」
顔のない首を向けたレヴォルの凪ぐ刃ではなく、腕の方を前腕で受け止めたフォンだが、骨にひびが入るような感覚が全身に行き渡った。しかも防御したのに、人形の腕力は無理矢理刃を押し込むように、力ずくで彼の喉を裂こうとしているのだ。
辛うじて敵の腕を跳ね飛ばしたフォンだったが、レヴォルの攻撃は息つく暇も与えない。鎖鎌を回転させ、刃を隙間に刺し込むようにして襲い来る人形の目まぐるしい連撃を、フォンはただ避けるしかない。反撃など、思考に割り入ってくるはずがない。
そんな彼を、リヴォルは遠目で楽しそうに、勿体なさそうに見つめるばかり。
「お兄ちゃん、さっさと降参した方がいいよ? 今のレヴォルは容赦しないから、このままだと死んじゃうよ?」
「な、に、をおぉッ!」
「私は最悪、お兄ちゃんが死んでもいいんだけど、できれば持って帰りたいんだよねー。ま、どっちにしても――お兄ちゃんの仲間は全員殺しちゃうけどね」
彼女の邪悪な笑みが、フォンの視界に飛び込んだ。
瞬間、激昂しかけていた感情が急速に冷めていくのを彼は感じた。
「……何だ、と?」
リヴォルの見過ごせない発言を聞いたフォンは、鎖鎌を投げつけようとしたレヴォルの腕を弾き、後方に大きく跳んで着地した。焼けつくような痛みも忘れ、彼は敵を睨む。
追撃を覚悟していたが、レヴォルも幸い敵を深追いせずに姉の元へと一跳びで戻ってしまった。どうやら、まだ多少なりリヴォルの命令を聞いてはくれるようだ。そんな妹の様子に満足した顔で、彼女はフォンに語り掛ける。
「言った通りだよ、あいつらは皆殺しにするの。そこの騎士も含めて、皆殺すよ」
「……戦うのは僕だ。彼女達を巻き込ませない」
「どうして? 私は彼女達も殺せって言われたんだよ? そうでなくても殺すけど」
「お前こそ、どうしてそこまで僕を孤独にしようとするんだ!? 僕が忍者だったからか、独りで居続けたからか!? 繋がりを絶とうとも、僕はもうあの頃には戻らないぞ!」
「違うよ、お兄ちゃん。大事なのは結果じゃなくて、その過程だよ」
リヴォルの笑顔が、醜悪で悍ましいものへと昇華していく。
「大事な存在を失う怖れが、怒りが、お兄ちゃんを忍者にしてくれるんだよ。牙の抜けた今の姿じゃなくて、私が、レヴォルが知る本当のお兄ちゃんに……だからもう一度奪うんだ、お兄ちゃんの存在理由を奪って、今度こそ闇に染め上げる為に!」
レヴォルが狂ったように揺れ周り、リヴォルはフォンの全てを奪う喜びに酔いしれる。
「お兄ちゃんが一番悲しむ殺し方で始末してあげる! 一番苦しむやり方で拷問してあげる! 誰よりも惨めに、惨く、悲惨な殺し方をお兄ちゃんに見せてあげる、あいつらはその為だけにここにいるの、私に殺される為にここに来てくれたんだよ!」
「……やめろ、やめろ!」
「あの時と同じ目に遭わせてあげる、忘れてるのなら思い出させてあげる!」
「やめろと言ってるだろう!」
「死んだレヴォルの記憶から掘り起こした――『あの日』と同じように!」
リヴォルは確かに言った。フォンの地獄を掘り起こす、あの日を再現すると。
「――――ッ!」
家族とも呼べる者達を惨殺し、潜在するはずの闇を取り戻す、ただその為だけに。
死ぬ。奪われる。失う。消え去る。孤独の腐海に沈ませると。
無為な虐殺の果てに、意味のない享楽の果てに、彼女は遂に一線を越える発言をした。
「――そうか」
――その途端、彼の醸し出す空気が変わった。
電撃が迸るような空間の一変を前に、姉妹は思わず体を強張らせた。明確に異変を察知したリヴォルどころか、今や姉の命令ですら半分ほど聞かなくなったレヴォルですら、狂気に身を任せるのをやめた。
顔を下げ、地を見る彼の表情は窺い知れなかったが、纏わりつく漆黒の覇気が、ただ一つ、紛れもない事実を姉妹の脳に刻み付けた。
心の底に燻っていた真の邪悪が、ゆっくりと瞳を開いたのだ。
――彼女が予想していたよりも遥かに凄まじい、邪なる存在が。
「……お兄ちゃん、なの?」
リヴォルは思わず、フォン以外の誰でもないはずの彼に、奇怪な問いを投げかけた。
何故なら、リヴォルはレヴォルの記憶を『傀儡の術』で引きずり出して彼の本来あり得る性質を聞き出しただけで、実物を見てはない。つまり、里を滅ぼした時の、里にいた時のフォンを見るのは、今回が初めてなのだ。
だとしても、雰囲気が変わり過ぎている。
凄まじい感情の発露であればリヴォルも嬉々として殺し合いを楽しんだ。彼女の目的は大好きな彼の魂を呼び起こし、命を賭けて戦い、手中に収めることなのだが、トランス状態を通り越して虚無に近い波動と感情は、想定外にも程がある。
怒りはない。悲しみではない。そのいずれかを待ち望んでいたリヴォルにとっては、僅かに俯いて顔の見えないフォンがどんな表情をしているのかが分からなかった。
(聞いていた以上の覇気……これが、本当のお兄ちゃん……!)
ただ一つ言えるのは、彼女の発言が、開けてはならない扉の封印を解いたことだけだ。
(常人の纏える威圧じゃない……凄いよ、お兄ちゃん! これならきっと、私と子供を作って、ハンゾーよりも強い忍者の里を再興できる! 最強の忍者夫婦として……!)
しかも、彼女が想像するよりもずっと、もっとまずい扉を開いたのに、気付いていない。
――ところで、フォン自身の記憶の中には、自分で言っていたように幾つかの欠落があった。凄絶な体験で忘れてしまった内容もあれば、自発的に心の奥底に封印した記憶もある。リヴォルが引き出したかったのは後者、忘れようとした闇であった。
しかし、彼女は知りえないが、挑発と罵詈はその奥までをも引きずり出してしまった。
「……またか、お前達は」
地を這う大蛇の如き声と共に、フォンは顔を上げた。
「また――『俺』から全部奪うのか、忍者は」
「……ッ!」
リヴォルの頭から空想が吹き飛び、全身から汗が噴き出した。
纏う気迫と表情、瞳はもう、フォンとは呼べない別人格となっていた。
本来ならば焦げ茶色であるはずの瞳は、真っ黒に染まっていた。しかもただ塗り潰されているのではなく、まるで瞳の中で渦が巻いているかのように、紋様が忙しなく変化しているのだ。大きな変容はそれだけなのに、醸し出す雰囲気は別人の域まで昇華している。
これまでのフォンが無理矢理な怒りに身を任せていたとすれば、今のフォンからは何も感じない。リヴォルが威圧感を覚えたのに、向こうはそんな感情を抱いていない。
そんな人間こそが最も危険であると、リヴォルは知っていた。だからこそ、棒立ちのフォンが動作を起こすよりも先に、リヴォルは叫んだ。
「――レヴォル、やっちゃえ!」
彼女が命令するよりも先に、レヴォルは再び山猿の如き雄叫びを上げながら、拳を鳴らし、フォンに向かって恐るべき速さで突進した。
制限が外れている今、命令を聞いてくれる確率は半分程度で、今回はリヴォルの指示を無視した。とはいえ、この状況ではレヴォルの専行はありがたい。命令を聞いてから挙動するよりも敵の不意を突けるからだ。
(動かない、レヴォルの速度に反応できてない! 見せかけのハッタリなんて、忍者には意味がないって教わったはずだよ、お兄ちゃん!)
一切動かない彼は、攻撃を目視できていない。恐らくあの覇気もこちらを脅すだけの苦肉の策で、撤退してくれるだろうと一縷の望みを賭けた張子の虎にすぎない。確かにリヴォルを恐れさせた気迫は大したものだが、所詮は気迫。こちらを傷つけることはできない。
ならばレヴォルは頭を叩き潰し、動けなくなった彼の四肢を鎖鎌で引き裂くのみ。その頃には人形のエネルギーも枯渇するだろうし、あとは持ち帰る準備をしてから滝の上の三人を始末し、山を下りればいい。
瞬間的な思考の間に、レヴォルはフォンの眼前で、鎖を撒いた拳を振りかざしていた。
仕留めろ。叩き潰せ。リヴォルはほくそ笑み、レヴォルは拳を振り下ろし、そして――。
「――――えっ」
果たして、フォンの体に、鎖と腕撃は命中した。
ただし、彼の右手――レヴォルの暴行を防いだ腕は折れもせず、彼は怯みもしなかった。
振動も、衝撃も、威力も、全てが彼の腕に吸収された。直撃すれば岩を砕き、内臓を容易くかき混ぜる人形の一打を、フォンは腕一本で簡単に受け止めてしまった。しかも掌ではなく、盾のように翳した腕だけで。
「レヴォルッ!」
反射的にリヴォルが叫び、レヴォルが動いた。命令を聞かないと言ってはいたが、姉妹の繋がりがあるのだろうか、人形は殆ど彼女に呼応して戦っている。
自ら腕を弾くと、今度は打撃ではなく武器に頼る。鎖を解いて鎌を振り回し、もう片方の手で刃を構え、超至近距離で左右から攻撃を仕掛けた。
腕の速度に加えて武器の加速。これならばどうだとばかりに放たれた攻撃だったが、フォンはなんと、一切目視すらせずに、左右の人差し指と親指だけで、刃面を掴んでしまった。
「なっ……!?」
今度こそ、リヴォルは驚愕を隠せず、体から血の気が引いた。
目視している状態ですら回避が困難だった武器による攻撃を、フォンはリヴォルを睨みながら防御した。しかも、さっきまでとは比べ物にならないほど、とてつもない力で掴んでいる為か、今度はレヴォルが動けなくなっている。
(レヴォルの攻撃を指一本で!? どんな怪力なのさ!?)
手の甲に血管が浮き出るほど力を込めたフォンに驚くリヴォルだが、これで終わりではない。彼が刃と鎖鎌に力を込めると、みしみしと嫌な音が鳴り響く。
(ま、まさか!? 忍者が使う超硬質鋼製の暗器と武器を、素手で砕くつもり!?)
正しく、リヴォルの予想通りであった。
フォンが目をかっと開き、指先を捻ると、彼に向けられていたレヴォルの武器がへし折れた。忍者の武器は並の刀剣よりも遥かに鋭く、硬く作られており、本来ならば同じような剣と唾ぜり合っても負けないどころか、敵の武器を割ってしまう場合もあるはずだ。
なのに、フォンの腕力は忍者特製の武器に勝った。常人どころか、同じ忍者ですら難しい芸当を、彼は顔色一つ変えずにやってのけたのだ。
首のないレヴォルですら、何が起きたのかを理解できていないようだった。そんな彼女の目を覚まさせるかのように、フォンは一回転すると、人形の胴体に回し蹴りをくらわせた。
ただの蹴り。ただそれだけなのに、レヴォルの体が空間諸共軋み、残像を残して叩き飛ばされてしまった。どうにか姿勢は保っていた人形だが、蹴られた箇所が凹んでいる。
自分の隣まで蹴飛ばされた人形を見て、リヴォルはまたも汗を流す。
「……レヴォル、私も行くよ。二人じゃないと、お兄ちゃんは倒せない」
人形が返事をしないと知っていながら、リヴォルは彼女の隣に並び立つ。
一方でフォンも、ただ敵の攻撃を待つだけではなくなったようだ。その証拠に、破けたパーカーを脱ぎ捨て、内側に備え付けてあった黒い細縄を引っ張り出した。縄の先には何かが繋がっていて、それらも同時にぼろぼろの衣服から取り出された。
「――ッ!?」
じゃらりと音を掻き鳴らすそれらを目の当たりにして、リヴォルは絶句した。
一体、こんなものを服のどこに隠し持っていたのか。
フォンが引きずり出し、両手に握り締めたのは、無数の苦無を括りつけた黒い細縄。針鼠の棘の如く、剣山よりも鋭く煌めく苦無が、けたたましい音を立てて地に落ちた。
忍者は服の内側や体内に武器を隠し持っている場合が多いが、だとしても限度がある。フォンがこれまで手足だけで防御し、胴体に一撃も入れさせなかったのは、この凄まじい武器群を隠す為だったのだ。
ただの苦無の群れならば、リヴォルもぞっとはしない。
彼女が警戒しているのは、苦無を縄で繋いだだけのそれが、忍術だと知っているからだ。
「忍法・禁術――『百連苦無』」
百本の苦無を手足よりも己の体として操る、凶悪な禁術であると。
リヴォルも、制御を失ったはずのレヴォルも硬直した。
細縄と苦無の集合体と『百連苦無』の名前、そして両手に縄を掴んで構えるフォンの姿が、里にいた頃の彼よりも遥かに強く、悍ましい存在へと変貌を遂げていると直感したからだ。
(『百連苦無』……お兄ちゃんが禁術を会得していたっていうの!?)
禁術の会得は、それそのものが忌まわしい事実であり、嫌悪される要因ともなる。里では次世代を担うとされていたフォンがもしも会得の為に動いていたとすれば、マスター・ニンジャが止めていただろうし、噂はレヴォルにまで広まっていたはずだ。
ならばいつ、どうやって、誰に教わったのか。そんな些末な考えを巡らせるリヴォルだったが、フォンの爪先が僅かに動いたのに気付き、たちまち戦いに集中した。
(来る……!)
姉妹は同時に前屈みになり、敵の襲撃に備えた。
どこから来ても対応できる。反撃で傷を負わせ、じわじわと弱らせる。
そんなリヴォルの企みは、刹那の間で瓦解した。
「お兄ちゃん、いつでも――」
いつでも来いと言いたかったが、言えなかった。
瞬きと瞬きの隙間、更にそれよりも狭い刻の間に、苦無を鳴らしたフォンの姿が消えた。
全身から血の気と汗が引いたリヴォルが、どこへ行ったのかと左右を見回そうとして、右に視点をずらした時には、既に答えは出ていた。
『ガギュグイィッ!?』
喋らないはずのレヴォルが、鈍い悲鳴を上げた。リヴォルがもう一度左に振り向いた時には、フォンが縄に縛り付けられた苦無の大半を、人形の肉体に突き刺していた。
てきとうに投げつけた苦無が命中したのではない。ほんの少しの指の動き、手の動作、肩の挙動で、彼は括りつけられた百本の苦無を操作し、あらゆる方向から刺突攻撃を繰り出したのだ。それこそ、視界の中も外も、知覚の範囲外からも、苦無が飛来するのだ。
そんな襲撃を受ければどうなるか。レヴォルの刃は苦無で折られ、鎖鎌を回転させて防ぐ間もなく、人形の体のありとあらゆる関節と基部には苦無が刺さっていた。
(これが――これが、『百連苦無』ッ!)
レヴォルからフォンを引き剥がすよりも早く、リヴォルは距離を取っていた。
みしみしと音を立て、動作の一つすら許されない人形は救えないと見限ったのだ。それくらい、あの禁術は一度くらえば逃げられないのだと彼女は知っていた。
(鞭のように縄を振るうだけじゃない、全ての苦無に瞬間的、且つ的確に触れることであらゆる方向から苦無による攻撃を繰り出す術! 百本の苦無を操る時点で、会得中にほぼ全ての忍者が死んでしまった術を、お兄ちゃんは容易く……!)
『百連苦無』は単に縄を振るい、苦無をぶつける術ではない。
攻撃を加える瞬間、フォンは縄を通じて苦無に振動を与えて刃の方向を悉くずらす。切っ先を統一させず、尚且つ敵の全方向から攻撃できるように縄で囲むことによって、人間では完全に反応できない同時攻撃を叩き込めるのだ。
防御不可能の攻撃など、誰もが会得したがるところだろうが、この術が禁術に指定されているのには理由がある。沢山の苦無を同時に使う豪快な術は、会得の修行中に操り切れず死亡する事態が頻発した。忍者の絶対数を減らさないように指定された禁術なのだ。
フォンからは、そんな様子は見て取れない。現にレヴォルは苦無で動きを制限され、渦巻く黒い瞳を湛えるフォンの体には、己の武器で傷ついていない。
(視界の外どころか五感で感知しきれない範囲から、縦横無尽に飛び交う苦無を避けきるのはほぼ不可能! こんな術まで使いこなすなんて!?)
冷静に分析するリヴォルだが、もうそんな猶予は残されていない。
フォンは縄を引き、食い込んだ苦無でレヴォルの一切合切を引き裂いた。あらゆる攻撃に耐えてきた人形だったが、流石に刺さった刃物への耐久には限界があったのか、四肢が胴体から引き千切られてしまった。
鎖鎌も、刃も落とした人形の末路が目に飛び込んできたリヴォルは、反射的に指を動かした。すると、体が砕けたレヴォルが彼女の命令に従い、姉の元へと引き寄せられた。どうやら人間の形を保っていなくても、人形を操れるようだ。
ただ、彼女は焦ってはいたが、怖れは既に消えていた。
「――凄い、凄いよ、お兄ちゃん! もっと、もっと見せて、お兄ちゃんの全部を!」
寧ろ、楽しんでいた。フォンの闇が増していくにつれて垣間見える残酷性と邪悪さを引き出したいと願うリヴォルは、気を抜けば絶頂しそうなほど恍惚に満ちた顔をしていた。
人形の無効化に成功したフォンも、即座に標的を変えた。苦無を翳しながら倒れそうな姿勢で駆け寄り、まるで舞踊のような動きで細縄を振るい、『百連苦無』を叩き込む。
「ずっと続けよう、私との戦いを、殺し合いを! レヴォルなら核を破壊されない限り動き続けるよ、だからもっと私に教えて、お兄ちゃんの闇と悍ましさを、醜さを見せて!」
壁として用いる人形の手足が苦無で切り刻まれるのも、リヴォルにとっては喜びである。
「興味は、ない。俺から奪うな、忍者」
「お兄ちゃんも忍者でしょ! 血塗られた狂気の集団、世界に仇名す外道の同類だよ!」
「何も奪わせない、それだけだ」
「だったら楽しもうよ、奪われない為に渡しを殺すつもりで戦わないと!」
「奪わせない」
破壊されゆく人形の残骸。夜闇に煌めく無数の刃。ぶつかり合う度に破壊が巻き起こり、地面が、岩が、水が弾け飛ぶ。極限のせめぎ合いで、それでもリヴォルは嗤う。
「そればっかり! 今より強いお兄ちゃんが見られるなら、私は何だってやるよ! 殺し合おうよ、お兄ちゃん、どっちかが死ぬ最後の最期までえええぇぇッ!」
戦いをただ楽しんでいた。以上でも以下でもなく、殺し合いに興じていた。
だからこそ、気付かなかった。
「ええええ――――えっ?」
不意に、リヴォルは自分の右手に力が入らなくなっていた。
だらりと力なく垂れた腕をリヴォルが見た。『百連苦無』の攻撃も収まり、彼女は時間が止まったのではないかと錯覚したが、直ぐにそうではないと悟った。
もう、攻撃の必要がなくなったのだ。
リヴォルの右肩に、五本の苦無が突き刺さっていたのだから。
「――ぎゃああああぁぁぁッ!」
絶叫が轟いた。
肩を貫通した苦無をフォンが縄ごと引き寄せ、リヴォルの肩から下の右腕を千切り落としたからだ。腕は宙を舞い、刃で五つに切り刻まれ、接合部からは血が噴出した。
流石の忍者といえど、右手が欠損すれば激痛を伴うし、行動も鈍る。人形による防御もまともにこなせない今、フォンが彼女の隙を突かない理由がない。
「俺から奪うなら、奪ってやる。お前の全ても」
地の底から響くようなフォンの声にリヴォルが気づいた時には、彼女の周りには百本の苦無が鎮座していた。全ての切っ先が彼女に向いており、そのうち十本ほどにはレヴォルの残骸が突き刺さっている。つまり、防御に人形を使えない。
眼前で睨むフォンが縄を引けば、地を這う苦無が一斉に襲い掛かる。防御不可の攻撃が全方位から解き放たれれば、リヴォルは死ぬ。苦無で串刺しにされ、確実に死に至る。
そんな苦境に置かれても、腕を失っても、リヴォルは嗤っていた。喜び以外の感情をなくしてしまったかのように、迫りくる絶望と最期すらも、彼女からすれば歓喜の瞬間であるかのように、目と口から血を垂れ流しながらけたけたと嗤うのだ。
「楽しいね、お兄ちゃん! とっても楽しいね、殺し合いは、ねえねえ、ねえ!」
狂喜するリヴォルに対し、フォンはただ無機質に縄を掴むだけだ。
引き寄せるだけで人の命を絶ち切る禁術で、ただ殺すだけだ。
「終わりだ」
静かに呟き、狂ったリヴォルと向き合い、彼は手を――。
「――フォン!」
引けなかった。
遠くから響いた声が、彼の手を僅かに戸惑わせた。
ほんの微かに狂った手元。縄を震動が伝い、微かに苦無の飛来がずれる。
そのおかげで、リヴォルに向かって放たれるはずだった苦無のうち九十九本は、彼女に突き刺さらなかった。白いワンピースを破り、肌を裂く程度に留まり、致命傷どころか肉を貫通すらしなかった。
残る一本だけは違った。
勢いを失わなかった唯一の苦無は、リヴォルの右目に刺さった。
「っがぎゃああぁぁぁ――っ!」
またも、人間とは思えない悲鳴が響いた。
右目を潰されたリヴォルは大きく仰け反り、獣の如く叫んだ。苦無は幸いにも彼女の眼窩を貫通して脳にまで届かなかったようだが、どろりとした赤い液体が黒い刃と肉の隙間から漏れ出し、ぼたぼたと落ちて地面を汚した。
右目と右手を失ったリヴォルは目に刺さった苦無を引き抜き、右目を閉じたまま、残った左目と鬼のような形相で喚きかけたが、忍者らしく何をすべきかを見忘れてはいなかった。
動きを止めてしまったフォンへの反撃など考えず、レヴォルの唯一残された胸元の部位――恐らくは宝玉を埋め込んだ箇所である――を掴むと、苦無の結界から逃れるかのように彼女は距離を取った。
フォンはというと、彼女を追わず、声の主を呆然と目だけで探しているようだった。苦無も宙を舞わず、地面にばらばらと落ちてしまっている。
渦巻く黒い瞳がそれを見つけるよりも先に、もう一度彼を誰かが呼んだ。
「フォン!」
木々と茂みの間から姿を現したのは、クロエだった。
傷口が開いたとアンジェラは言っていたが、どうやら動けないほどの痛みを伴っているようではなさそうだ。腹を貫通する一撃を受けて半日で、攻撃を受けた部位を抑えていれば動ける程度に回復している彼女が異常であるとも言えるが。
邪魔物の乱入に苛立って、ぎろりと睨みつけるリヴォルを睨み返しながら、クロエはフォンの傍に駆け寄った。どうやら極端に目立った傷はないが、何かしらの内的要因で自失状態に陥っているようで、目の焦点が合っていない。
「あんた、フォンに何したの!?」
息を切らしながらも弓を構えるクロエに対し、リヴォルは明確な殺意を向ける。
「邪魔しないでよ……お兄ちゃんと私の間に入ってくるな、ゴミ風情の分際でッ!」
「質問に質問で返さないで! フォンに、アンジェラに何をしたかって聞いてんの!」
「うっさい、ムカつく、黙れ、この蛆虫女! まだまだ私はお兄ちゃんと殺し合うってのに、お前みたいなのがいると楽しめないだろうがァ!」
「話す気がないなら、ふんじばって歯ァ全部へし折って、無理矢理口を割らせてやる!」
じりじりと怒りをぶつけあう二人だったが、激突するよりも早く介入者が現れた。
「師匠、クロエ、無事でござるか!?」
「仲間に手を出す、サーシャ、許さない!」
少し遅れてやってきたカレンとサーシャが、クロエと同じ茂みからやってきたのだ。
同じ道を使って滝の上から滝壺辺りまで下りてきたらしい。二人も顔色を悪くしているが、それなりに動けるくらいの余力を残しているようで、フォン達のもとまでやって来る。
「カレン、サーシャ! 手伝って、あいつを捕まえるのを……」
「それよりもクロエ、師匠の介抱が優先でござる!」
クロエと違うのは、カレン達が彼女よりも冷静で、大事なことを見失っていない点だ。師匠であるフォンの教えをしっかりと活かしているのか、戦いよりも命を優先している。
どうにもクロエは納得していない――リヴォルが簡単に自分達を逃すとも思えないと考えている様子だったが、フォンが糸の切れた人形のようにゆらりと体を揺らし、その場に倒れ込んだのを見ると、彼を抱きかかえた。
「フォン!?」
彼は呼吸こそしていたが、何度も体を揺らしても目を覚まさない。疲労と蓄積した負傷が緊張と共に一気に解き放たれ、肉体の限界値を越えてしまったのだろう。その域も相当荒く、クロエが憤ったまま戦いでもしようものなら、今度こそ本当に彼の命が失われてしまう。
だからこそ、カレンは敵との戦いではなく、師匠の命を最優先とした。
「そこの忍者、お主も最早限界でござろう! 双方共に戦い続けても疲弊し、目的を果たせぬまま散るだけでござる! なれば今は、互いに手を引くのが得策かと!」
「お前、不利! サーシャ達、お前、見逃す!」
「目と手を片方失い、武器である人形も損傷しているならば、妥当な判断でござる!」
仲間達に諭され、ようやくクロエも小さく頷き、撤退を促す。
「こ、の、クソ共があァ……」
忍者でもない敵に撤退するよう勧告され、感情を爆発させて血管を浮き立たせ、憤死しかねないほどの表情で目をぐるぐると動かし回すリヴォルだったが、二人の説得はどうにか通じたようだった。
「……お兄ちゃんに伝えろ……絶対に諦めないと、また会いに来ると!」
血走った左目で呪うかの如く三人を凝視するリヴォルは、レヴォルを抱えたまま、どこからか小さな黒い球を取り出して地面に叩きつけた。
地面に直撃した球は炸裂し、もうもうと黒い煙が巻き上がる。クロエ達が、何が起きたのかを確かめる間もなく、煙が晴れた時にはリヴォルの姿は影も形もなくなっていた。忍者の常套手段、忍具『煙玉』を使って消えたのだ。
「……撤退、した……?」
「みたいでござるな……殺気ももう、遠くへ行ったようでござる……」
うっすらと空が白んでいく中、敵の気配を感じなくなった。
「……ありがとうね、カレン」
「礼には及ばんでござるよ」
安全を頭ではなく肌で感じ取り、どっと汗が噴き出してきた三人は、やっと互いと仲間の無事を確かめられるほどの余裕も出てきた。クロエもまた、何をすべきかを冷静さと共に把握し始めたようで、普段の的確な指示を下せるようになった。
「サーシャ、アンジェラの様子を見てきて。フォンを連れて、速めに山を下りよう」
頷いた仲間が、倒れたままのアンジェラに走ってゆく。
彼女の腕で眠るフォンが二度と目を覚まさないような気がして、クロエは思わず、思い切り彼を抱きしめた。微かで弱々しい呼吸に耳を傾けるよう、胸の中に抱き入れた。
空の白みが明るみに変わる中、太陽が山の頂点から昇りつつあった。
◇◇◇◇◇◇
その頃、煙玉を用いて目を晦ましたリヴォルは、既に林の奥まで逃げていた。
ワンピースの裾を歯で千切り、右手の基部に巻き付け、筋肉に力を込めた無理矢理な止血をした彼女は、未だに右目から血を垂れ流しているのに、心底楽しそうに笑っていた。
「――そっか、成程。お兄ちゃんは作り替えたんだね、自分の記憶を」
レヴォルの残骸を足元に転がし、座り込んだ彼女は、気付いていた。
フォンの変貌の理由を。今の彼と、里の彼との違いの原因を。
「記憶に蓋をするんじゃなくて、壊れた自我を守る為に、記憶そのものをすり替えたんだ。今のお兄ちゃんが偽物にすら見えるほどに……ううん、今のお兄ちゃんは偽物だよ」
言動の矛盾。記憶の欠落。僕を俺と名乗る人格。
全ての答えに、リヴォルは辿り着いていた。
「安心して、今度はちゃんと見つけてあげる……次に来る時は、私と『彼』でね」
だからこそ、彼女は今度こそ、真の彼を取り戻す執念を燃やしていた。
「そうすれば、お兄ちゃんはまたあのお兄ちゃんに戻らざるを得ないもんね! 安心してね、お兄ちゃんもハンゾーが望んだ『忍者兵団』の仲間に入れてあげるから! ずっと一緒だからね、ずっと見てるからね、あははは!」
最凶最悪の忍者が齎す悪夢は終わっていない。ここからが始まりだ。
夜が明け、陽の光が木々に差し込んでも、闇に染まる彼女は暗がりで笑っていた。
「あははは、あは、あはははは――ッ!」
瞳をぎらつかせ、ただただ、延々と哂っていた。
闇の中にいた。
どろりと体に纏わりつく、冷たく凍える闇の中に。
手を伸ばしても、足をばたつかせても、どこにも届かない。目を開いているのか閉じているのかが不明瞭なほどに、眼前は漆黒に囚われていて、何一つ目視できない。
ただ一つ分かるのは、自分が仰向けになって、遥か奥の空を眺めていること。
いや、それすらも事実なのだろうか。
己は上を見つめているのか、下を向いているのだろうか。そもそも上下の概念があるのか、浮いているだけでここには何もないのではないか。油断していると、感情が思考に呑まれてしまいそうだった。
やがて、無限に続く虚空の中心で、彼は分かりつつあった。
この空間は、どこか懐かしいと。何度か、何度もか、ここに来た記憶があると。
――違う。
ここに来たのではない。ずっと、ここに閉じ込めていたのだ。
思い出すまいとねめつけた感傷。喰らい尽くされかねない憎悪。我が根幹すら破壊する衝動。凡そ必要ではない闇と狂気の全てを閉じ込めてきた、魂の墓場。
だが、墓場はもう機能しない。彼は解き放ってしまったのだから。
誰にも制御できない悍ましき龍の権化を、真なる己を照らし出したのだから――。
「――――――あぁ」
――微かな呟きが、闇を祓った。
彼は、フォンはベッドの上で目を覚ました。
暖かく、柔らかい感触に全身を包まれている。首まですっぽりと掛布団に覆われている彼の視界に入るのは、見慣れない天井ではなかった。
一度だけ見た覚えがある天井は、爆砕したこれまで泊っている宿ではなく、新たに取った宿であると、彼は思い出した。ついでに、肌の感触は布団でだけでなく、顔面以外は皮膚が完全に隠れるほど包帯に巻かれているのだとも気づかせてくれた。
忍者の覚醒時の反射行動として、彼はまず、手足を先端から基部にかけて動かす。まだ虚ろな目がぱっと開くほどの鈍痛が体中に迸ったが、動かない部位はなく、微力ではあるがフォンの思い通りに可動した。
自身の無事が保証されたならば、次に確認するべきは状況だ。開いた窓から差し込む陽の光が朝か昼だと告げ、転機は晴れだとも言っている。
だが、何よりも気にするべきなのは、昨日の出来事だ。思案する能力が復活してくるのにつれて、フォンの記憶が鮮明に思い出されてくる。即ち、リヴォルとレヴォル姉妹を仕留める罠と死闘、その二つによって齎された結果だ。
彼が覚えている範囲は、アンジェラが毒とレヴォルの暴走によって倒され、姉妹と一騎打ちをしている途中までだ。それ以降の記憶がなく、何をしたか覚えていない。
敵を倒したのか。仲間はどうなったのか。結果を知るべく起き上がろうとしたフォンだったが、彼の無茶な動作を制するように、掠れた声が左側から聞こえてきた。
「――目が、覚めたんだね、フォン」
視線だけをずらすと、彼が横になるベッドの隣に、クロエが座り込んでいた。
震える声を絞り出す彼女の目の下には、暫く眠っていなかったのか、それとも不安と心配で圧し潰されそうになっていたのか、隈ができていた。服はいつも通りだが、まだ額には包帯が巻かれたままだ。
そんな彼女と、フォンの目が合った。
のそり、のそりとどうにかフォンが体を起こした。手にしたタオルや水の入った瓶から察するに、自分の看病をしてくれていた彼女に寝たまま声をかけるのは失礼だと思ったのだ。
「……クロエ、無事で……」
無事でよかったと言いたかったが、彼の言葉は塞がれて出てこなかった。
「フォン、良かった……良かった……!」
感極まったように涙を目に溜めながら、クロエが彼の胸に飛び込んできたからだ。
暖かく柔らかい感触と優しい匂いに思わず戸惑ったフォンだが、直ぐにその感情は吹き飛んだ。自分の胸板に顔を埋めているクロエが、しゃくりながら泣いていた。
「もしかしたら、目を……覚まさないんじゃないかって……ずっと……このままじゃないかって……怖くて、あたし、怖くて……!」
こんなクロエを、見たことがなかった。少し熱くなりやすいところはあるが、いつでも彼女はパーティの中で物事に達観していて、少なくとも他人に簡単に涙など見せなかった。
「……嫌だよ……フォンが、フォンが死んだら……あたしのせいで……!」
今の彼女は違う。可愛い弟分が死に瀕しているかもしれないというのに、見ているしかできないもどかしさと、永遠に開かない目の幻覚すら抱きつつあった。何もできなかった自分への積もる念が、彼女を寝ずの看病へと駆り立てた。
果たして、フォンは覚醒した。決して無事とは言い難いが、彼女の恐るべき最悪の妄想は、有り得ない夢へと変わって霧散した。その嬉しさたるや、言葉になどできない。
首に手を回して泣きじゃくるクロエに驚いていたフォンだが、彼女の心境を悟ると、静かに頭を撫でた。ひと撫でする度に、クロエはしゃくりあげた。
「……死なないよ、クロエ」
「……リヴォルと……死ぬ覚悟で……戦うつもり、だったのに……」
「うん、そのつもりだった。必要なら刺し違えて、道連れにするつもりだった。けど、今はもう違うよ。ここまで愛してくれる人がいて、僕の命を蔑ろにはできない」
「……フォン……」
クロエをゆっくりと離した彼は、目を赤く腫らした彼女に向き合い、言った。
「必要なら命を捨ててでも使命を果たすのが、忍者だ。でも僕は、これから忍者の掟を破る。皆の為に生きる――生きる為に、戦うよ」
「……本当に?」
「本当だ。僕だけの命じゃない、皆の命なんだって、クロエが教えてくれたから――」
忍者らしからぬ新たな誓いをクロエに告げるフォンだったが、またも彼の発言は、想定外の第三者によって遮られてしまった。
「――ししょおおおおぉぉぉ――――っ!」
「おーまーえええぇーっ!」
耳を劈く雄叫びと一緒に、残る仲間達が入口から荷物を放りだして走ってきた。
いつの間にか開いていた部屋の入口から、今度はサーシャとカレンが、フォン目掛けて突進してきたからだ。投げ捨てた籠の中には林檎や、衣服の替えが詰め込まれており、きっと彼の看病にしっかり貢献していたのだろう。
恐らくではあるが、彼女達もいつフォンが目を覚ますか、心配で仕方なかったに違いない。そんな折、彼が体を起こしているのだから、同じく感極まるのも無理はない。
二人の勢いは留まらず、フォンとクロエごとベッドの上でもみくちゃになってしまった。
四人とも怪我人で、特にフォンの傷はまだ完全に塞がっていないかもしれないのに、嬉しさはそんな些末な可能性を吹き飛ばしてしまった。弟子であるカレンはともかく、いつもな不愛想なサーシャまでもが目に涙を浮かべ、フォンにしがみつく。
「お前、目を覚ました! サーシャ、嬉しい、サーシャ、感激!」
「師匠、師匠! この二日間、不肖カレン、一瞬だけ……刹那だけ、師匠が目を覚まさないのではないかと疑ったでござる! こんな馬鹿な拙者を叱ってほしいでござる、師匠!」
フォンの体には痛みが奔っていたが、それよりもずっと、嬉しい気持ちが勝っていた。
こんなに愛されていたのなら、やはり掟を破るのは正しかった。これからは一層、生きる気持ちを強く持ちながら接して行こうと、彼は改めて心に誓った。
「怒らないよ、そんなことじゃ……二日間? 丸二日も、僕は眠ってたのか?」
だが、何よりも気になったのは、自分が二日間も目を開けなかった事実だ。顔を上げたカレンが何度も頷いている辺り、あの戦いから二日も経っているのは間違いない。
フォンは三人に抱き着かれながらも、どうにか聞いてみた。
「だったら、リヴォルはどうなった? 僕が寝ている間に襲撃は……」
彼の問いに答えたのは、三人ではなく、これまた扉の方からだった。
「ないわよ、一度もね。街も襲われてないし、相手もきっと、諦めたんじゃないかしら」
扉を静かに閉めて部屋に入ってきたのは、アンジェラだった。
「一度も、襲撃を……?」
リヴォルがまさか諦めるとは思っていなかったのか、フォンは目を丸くした。
自分の目的は何としてでも果たすはずの彼女が、どうして諦めるのか。有り得るとすれば彼女が経戦能力を失うほどの重傷を負うしか考えられず、フォンは死闘の結果を聞いていない。だから、この状態はまだ休戦中だと思っていた。
しかし、絶好の機会の最中で一度も襲ってこなかったのならば、諦めたと判断するのが普通だろう。三人にしがみ付かれながらも、フォンは胸を心の中で撫で下ろす。
そんな情報を教えてくれたアンジェラはというと、いつもの騎士甲冑を纏っていなかった。革のズボンとやや大きめの白いシャツを着た彼女は、フォンと同じくらい体に負傷の痕があり、手や足包帯で覆い隠されていた。
「ええ、一度も。私達が負傷していても襲ってこないなら、断念したと見るべきね……ほら、貴女達もいつまでも引っ付いてないで。彼の傷が開いたらどうするのよ」
それでもいつもの態度を崩さずに、アンジェラは三人を引き離しにかかった。クロエ達は抵抗しようとしたが、ずるずると岩の苔を剥がすようにどかされてしまった。
床に転がされた三人は恨めしそうにアンジェラを細めで見るが、フォンの身を案じるのも一理あると思ったのか、これ以上は彼にへばりつかなかった。代わりに各々は立ち上がるなり、ベッドに腰かけるなりして、フォンの近くに集まった。
「……それで、戦いはどうなったんだい?」
改めて現状を確かめようとしたフォンに、クロエが首を傾げて言った。
「どうなったって……フォンがリヴォルを撤退させたんだよ?」
「……僕が?」
「うん、あたしはフォンとリヴォルの決着がついた辺りで合流できたんだけど、物凄い数の苦無で敵に攻撃してた。カレン、確か持って帰ってきたよね?」
「勿論でござる。師匠、これが師匠の使っていた武器でござるよ」
カレンがベッドの下をごそごそと漁り、引っ張り出したのは、『百連苦無』に用いる大量の苦無が縛り付けられた黒い細縄。フォンは当然それを知っていて、リヴォルとの決戦で使う予定だったのだが、いざ禁術を使った記憶がないのだ。
というよりは、戦闘中の記憶がごっそりとなくなっている。リヴォルが仲間を殺すと挑発してから、頭に血が上り、そして気が付くとベッドの上に寝かされていた。だから、決着どころかリヴォルを退かせた手段すらも頭に残っていない。
「『百連苦無』……僕が奥の手で用意していた禁術だ。間違いなく、僕のものだ」
「ではやはり、師匠が敵を倒したのでござる!」
「あたしもそう思うよ。あたしが声をかけたせいで手がぶれたみたいなんだけど、フォンが最後の一撃を叩き込むところだけは見てたから。フォンは明らかに圧倒してたよ」
「そもそも、この面子で忍者に太刀打ちできるのは貴方くらいなものじゃないかしら?」
確かにそうだ。クロエやサーシャ、カレンではリヴォルには対抗し得る戦力とはならない。望みがあるとすればアンジェラだが、彼女は先にやられてしまっていた。
だとすれば、やったのはやはりフォンなのだが、ここまで話を聞いたフォンがどうにか思い出せたのは、うすぼんやりとした光景だけだ。まるで、自分ではない他の誰かが、自分の体を使って戦ったようにしか脳内で再現できないのだ。
「……ごめん、あまり覚えてない。アンジーがやられて、リヴォルと戦っていた時からの記憶がないんだ。その苦無を使った禁術も知ってるけど、発動した覚えがまるでないよ」
アンジェラも含め、仲間達は顔を見合わせ、もう一度フォンを見た。
「記憶喪失ってこと? それくらい集中してたとか?」
「だとしてもおかしいわね。私を仕留めかねないくらいの人形と忍者を相手にして圧倒するなんて、フォン、今まで実力を隠して手を抜いていたわけじゃないでしょう?」
「手を抜けるような相手じゃないよ、リヴォル達は……ただ、なんだか懐かしいんだ」
「懐かしい?」
話をしている最中で、フォンは胸に去来する懐古感を隠し切れなかった。
「昔、どこかで会った気がする。僕の代わりにリヴォルと戦ったその人に、多分」
「……何の話をしてるの?」
「師匠、誰でござるか? あの忍者と戦っていたのは、師匠でござるよ?」
クロエ達がおかしな様子で見つめているのに気付いて、フォンは慌てて取り繕った。
「いや、何でもない。ただの独り言だよ」
彼がはぐらかしながらはにかむと、三人はまたもや首を傾げたが、深く追求はしなかった。
きっと、これ以上聞いてもフォン自身も理解できていないし、自分達が突撃した上に、思考で体力を浪費させるのも良くないだろう。
互いに頷き合ったクロエ達は、話をずらすことにした。
「ところで、フォン、リヴォルの件だけど、まだ完全には解決してないみたいだよ」
「……というと?」
クロエの話題に興味を示し、体を寄せるフォンに続きを話すのは、カレンだ。
「リヴォルの奴、どうやら己の意志だけで拙者達を狙ったわけではないようでござる。どこかの誰かに、拙者達全員の暗殺を依頼されたようでござるな」
フォンの瞳が、誰かを想起して細くなった。