2.


 あまりキャプテンを人目につかせるわけにも行かず、誠は彼を部屋から出すことがなかった。だが、いつもなら絶対に一日に一度は散歩に行って気分転換をしていたのが、行かなくて済むようになったとも言える。キャプテンは別に部屋の中にいるのを不満に思わないようだった──実際は不満だったかもしれないが、状況として外に出るのは得策ではないと理解していたのだろう──し、誠は外に散歩しに行かなくても、キャプテンが話し相手になってくれた。
 彼は、勉強なんかしてないとは言っていたし、特に何か教えてくれるということはなかった。だが、誠には思いつかないような観点で物事を見ていた。


 ある日、いつものように喋りながら勉強をしていると、道路の方から何か話す音が聞こえ、キャプテンは驚いたのか肩を竦ませた。誠は何度も聞いたことあるものだ。
「い、今の大きい女性の声はなんだ……?」
「ウグイス嬢です」
「ウグイス……?」
「ええと、もうすぐ選挙って言って、土地のリーダーを決める投票があります。立候補者は、自分に票を集めるために、女性に頼んでアピールしてもらってる……って感じです」
「へぇ……それはいいことだ。何においても民の意見は取り入れられるべきだからね。君もその投票をするんだろう?」
 当然のように言ったキャプテンに、誠は思わず笑ってしまった。なんで笑うのか、と言いたげな訝しげな瞳を見て答える。
「僕は行けないんです」
「……どうして?」
「投票に行けるのは18歳になってからって決まってて、子供は投票に参加できません」
「それは悪しき習慣だな……」
 難しい顔をして腕を組むその姿に、今度は誠が不思議そうにした。子供の意見など取り入れても、どうにもならない。政治のことがよくわからない子供に意見を聞いても、突拍子のないことになるのは間違いないのだ。だがキャプテンは違った。
「たとえ子供だろうと平等に権利はあるべきだ。そりゃ、子供と大人どっちのほうが知識がありますか?と言われれば間違いなく大人だ。でも、知識があるなら正しいのかと言われれば、そうじゃない」
 誠は、僅かに目を見開いた。
「持論だけど、この人はいい人だ、この人は悪い人だ、と見抜くだけの力なら、大人より子供のほうが上だと思うよ。それに今の子供はどんなことを考えているのか、大人はそれを知る必要がある。『子供だから』と言って権利を取り上げるのは……正しいとは思えないな」
 ──彼が生きた18世紀のヨーロッパといえば、絶対王政の時代だ。身分で全てが決まり、権力を持った人間はそれを振りかざし、国を掌握し、反抗する人は弾圧する……それが当然の時代。だからこそ、そういう意見を持つ彼が異端に見えた。そんな時代に生きてきたのなら、まず投票で決まることが不思議ではないのか。それとも彼は──反乱者としての素質があるのか。
 気になった彼は、勉強の手を止めたまま彼に訪ねた。
「あの、その、大人が絶対ではないって、いつ思ったんですか? 何かきっかけとか……」
「……絶対これ、というきっかけはなかった気がするな……ただ、俺は君より小さい頃から、世界を知っていたからね。色々見て、成長していくうちにそう思うようになった、というだけだと思うよ」
 少年の頃から船乗りをしていた、という話を彼は思い出した。今の時代の子供が知る大人といえば、自分を育てる親と、勉強を教える先生くらいだ。そうして育てられたから、この人は勉強を教えるから、そうした過程で自分たちは大人を正しいと思ってしまうのかもしれないが、キャプテンは違う。もっと沢山の大人を見ているうちに、これは間違ってる、これはおかしいと思うことが増えたのかもしれない。そんなことを誠は考えていた。



 翌日、また選挙カーが通っていった。別段驚きはしなかったが、キャプテンはまた難しい顔をしていた。
「うーん……大人だけが決めるのはまぁとにかくとして……腐敗しないか心配ではあるね」
「へ? 腐敗?」
「心配じゃないかい? だってリーダーというのは基本、自分だけ有利な規律を突然作ったりするじゃないか」
 あぁ、なるほどと思った誠は、今の時代はそんなことはないと前置きしてから、現代日本の政治の仕組みを説明した。どのような自治体でも、全ての法は人の上にあり、個人の気分などで変えられるものではないのだと。
 それは素晴らしい、と彼は言った。
「うんうん、いいことだ! 権力の集約はろくなことをもたらさないと思うよ。それは船の上でも同じだ。船長の独断で全てが変わってしまったら船員は不満を抱えるだろうし、海の上では海流によって船が難破することもあり得る。それを避けるために航海士もいて──」
 はた、と何か思いついたようにキャプテンの言葉は止まった。熱くなって語りだしたな、と内心苦笑していた誠は、その様子に首を傾げたあと尋ねた。
「何か……思い出しましたか?」
「航海士……あ、あぁ、そうだ! 俺は何かの船で航海士をしていた。等級持ちだった……何等だったかは覚えてないけど……」
「等級航海士!? 凄いじゃないですか!」
「うん……だが……」
 何かまだ、続きがあったような気がするよと、彼はこめかみを抑えた。


 鉛筆を削っているところを、興味深く見ていた。
「それは鉛筆?」
「はい……キャプテンが使ってたの、今とはやっぱり形が違いますか?」
「いや、鉛筆は同じようだけど……それよりこっちに興味あるかな」
 キャプテンが指さしたのは、卓上鉛筆削りだった。
「このレバーを回すだけでいいのかい?」
「はい。きれいに削れますよ、こんな風に」
 言いながら誠は削り終えた鉛筆を見せた。鋭利になった鉛筆に、おお、とキャプテンが声を上げる。
「すごいな。昔はナイフで削るしかなかったからね」
 技術の進歩とは素晴らしい、と彼が笑うのに釣られて誠も笑った。何もかもが、誠にとって当たり前の景色だったのに、キャプテンがそれを面白がるから、これは凄いことなんだと実感する。学校では習わないことを学んでいるのだと実感した。昔の人は、鉛筆削り一つでもこんなに新鮮な反応をするのだと。
「物の整備は大変なことだからね。それでもいつも点検しておくに越したことはないし、何なら義務化するべきだ。便利な道具があるならなおさらだろう?」


 若い母親と幼い子供が暴行を受け、母親は死亡、子供は重傷であるという話が新聞に載っていたらしい。誠は新聞をちゃんと読めと親に言われていた。犯人はまだ捕まっておらず、夜だったために誰もその姿を見ていないそうだ。
「そもそも、なんでその親はそんな夜中に子連れで出歩いていたんだろうね?」
「ニュースでも見たんですけど、夫が暴力を奮っていたらしいって……離婚しようとすると殴られて離婚できないって近所の人に相談してたみたいです。その夫は不倫してるって噂もあって、死に別れってことにするために殺したんじゃないかって噂まで……」
「そこまで下衆だと思いたくはないが、可能性は高いね」
 誠は少し考えたあと、キャプテンに尋ねた。
「キャプテンの時代にそういう人はいなかったんですか?」
「そこまで頭を使う輩がまずいなかったよ。不倫したならそれはそれでさっさと前の妻は捨ててその相手と結婚するからね。でもそういう奴は俺は嫌いだったな」
 というか、と彼は続けた。
「女子供に限らず、仲間は大切にしたいものだけどね」


 ある日、外が騒がしかった。なんだろう、と二人は気にして、窓から外を見てみた。だが、誠は嫌な顔をすると閉めてしまった。
「あいつらか……」
「あいつら?」
 キャプテンが不思議そうな顔をしたので、誠は説明した。外で騒がしくてしていたのは、誠の同学年の男子たち数人で、彼らは学校をしょっちゅうサボったり、下級生をいじめたり中学生に喧嘩を売ったりしている連中なのだ。
「止めなくていいのかい?」
「……僕一人じゃ……それに、今は煩く話してるだけで誰がいじめられてるわけでもないですから」
 そう言うと、キャプテンもそれもそうかと納得した様子だった。
「……ああいう輩は、将来苦労するさ。……この世界ではわからないが」
「……」
「遅くまで酒を飲んで賭博して、大負けして地面に這いつくばれくらいには思うよ。行くやつは挙げ句の果に、金品を盗んだりもして人生を棒に振る。そこまで落ちろと思うのも、そう悪いことじゃないさ」
 俺は賭博も盗みも、遅くまで酒を飲むのだって好きではないけどねと、キャプテンは嘲るように笑った。


 ある日、父がずいぶんと荒れた様子で帰ってきた。どうも、プロジェクト内で裏切り者が出て、こちらのプロジェクトを台無しにした人がいたらしい。
「前々からあいつのことは気に入らなくて、度々喧嘩していたが……あの野郎……!」
 母にそう愚痴っているのが、誠の部屋にまで聞こえてきた。
「僕に立派になれと言うくせに、お父さんはあれ、立派っていうのかな」
「うーん……立派にもいろいろ意味はあるからね。そこは俺が判断していいことではないが……それにしても喧嘩は感心しないな」
 やはりそこはそうなのか、と思いながら誠はキャプテンを見た。キャプテンは扉の向こうをじっと見つめたあと、視線をずらし、何でもないような顔で言った。
「どうせ何度も喧嘩するなら、そんなのは一度で済ませたほうがいい。相手が死ぬまで人の邪魔にならないところで決闘でもした方が手っ取り早いと思わないか?」
 誠はその言葉に、ぎょっとして目を見開いた。思わず驚いてしまったが、そうだ、目の前の彼は何百年も前に生きた人なのだ。発想は今の人より過激だろう。
「そ、そこまでしますか……? 今は決闘とかできませんけど」
「なんだ、出来ないのか? ……じゃぁ裏切り者は死刑とかは?」
「社内の裏切りは法では裁けないかと……」
「なんだ、生温い世界だね」
 ゆるゆるとキャプテンは頭を振ったが、その時、また父の声が聞こえた。
「まぁ、この件で次のボーナスは弾んでくれるとか言っていたけど……」
「あら、良かったじゃない」
 誠は苦笑した。わからないだろうと思って、ボーナスっていうのは普段もらう給料とは別のお金なんですと説明した。
「なるほどね。今回の件で裏切りがあったことを理解されて……ということか。良かったじゃないか。福利厚生はしっかりしてないとね」
 その日の夜、福利厚生はしっかりと言っていたことだし、と、誠はキャプテンに夜ご飯に出たぶどうを持ってきたが、彼は嫌そうな顔をしてぶどうを拒否した。
「ぶ、ぶどう嫌いなんですか?」
「わ、わからない……けど、やめてくれ。……見たくもないんだ、それ」


 日曜日でも、誠は勉強していた。
「……子供の仕事は勉強だとこの世界では言うらしいけどね」
 キャプテンは苦々しい顔で誠に声をかけた。
「何も安息日に仕事をすることはないんじゃないか!?」
 そういうと思った、と言いたかったがそんな言葉は出てこず、うっと誠は唸った。敬虔なクリスチャンなのだ、安息日……つまり日曜日には仕事をしないと考えるのが彼の基本だ。だがそうはいかない。日曜日でも気は抜けないのだ。
 母は友達とお茶にでかけているし、父は釣りをしに行った。家の中には誠しかいないだけに、普段静かなキャプテンも声を張り上げる。
「僕はクリスチャンではないので……」
「それはそれだ、君の父母も遊びに行ってるんだろう? 君だけ仕事する義理はないだろう!」
 それもそうだが、親には逆らえないのだ。逆らおうと思ったこともない誠に、勉強しないという手は考えられなかった。
「船乗りに休みはあったんですか?」
「ないよ。というか、誰かは絶対仕事しないと船沈んだら洒落にならないからね。みんなそれで仕事はしたけど……それはそれだ。陸の常識は海じゃ通じないんだから。でもここは陸だ!」
「……キャプテン」
 今の時代はですね、と誠は前置きした。昔と違って娯楽が今の世界には多い。そしてその娯楽を支えるのは、みんなが休みである日曜日に働く人なのだと。
「だからそう、安息日なのにと怒らないでください。みんな代わりに、ちゃんと休みがあるんですから」