幸哉の言葉に呆れのため息を零している斗夢は、当時幸哉を止めた苦労を思い出して苦い顔をしている。今も幸哉の口を塞ぎたいところ、どうしようか迷っている。


「こういう事を学校側に告げると、義務教育なんだから学校に来るのが当たり前とか、いじめで学校に来れないならこの先社会でやっていけないとか、小学校に通わなくて中学に毎日通えるわけないとか言いそうだけど、その義務教育で学べるものが一部どこでも学べるものだったり、一部学校では学べられなくなってしまっているなら行く意味なんてない。意味があることと言えば、朝起きて特定の場所に行く習慣が付くことだ。そんなの学校じゃなくて、図書館とかでもいいじゃないか」


 真夏の日、行き先がクーラーのない小学校ではなく涼しい図書館に行きたいと、小学生のときは頻繁に望んだものだ。気温三十度以上の室内での勉強なんて非効率的としか思わない。


「いじめに耐えられない者が社会で生きられないのなら、誰にもいじめられずに楽しく学生生活を終えた人間は社会で生きていけないということになる。もしそうなら、教育システムに個々がイジメられる体験学習を取り入れないのはおかしな話だ。つまり、必要なのはいじめに耐える我慢強さではなく人との接し方なんだよ。自分と会わない奴や厄介な相手が話しかけてきたとき、どういう対応をとればいいのか。日常的な経験から自然とそういう技術を取得することが集団環境の中で得る学びだ。これらを取得すれば、そもそも我慢なんて最終手段を取る必要がなくなる。でも、これもお前の今の環境からは学べる内容が半減しているだろ? 人のことを考えて行動する力を身に着ける集団行動だって、相手がお前と集団になる意思がなければ集団行動とは言わない。小学生が既に、大人の対応というものを身に着けていれば話は別だけどな」


 そんな小学生ばかりなら、そもそも貧しい少年を言葉の暴力で傷つけたりはしないだろう。関わりたくない相手は愛想笑いで適当にあしらい、何も言わず何も話しかけない。コミュニケーションは必要最低限に留める程度だ。