「よーしよーし、食いたいだけ好きなだけ食いな! 金はとらないから安心しろ!」
頭に触れても嫌がられない程度に心は開いてくれていた。餌付けをして悪い事を企む大人になった気分で居心地は少しばかり悪い。勿論犯罪なんて欠片も考えていない。
「なあ、家ではこういうの、食べさせてもらえないのか?」
声色は優しく、笑みは絶やさず。
餌付けの効果は覿面で、手を止めて少しの間黙り込んだ少年は小さく声を発した。
「お母さん、あまり帰ってこないから……」
大人の眉間に皺を寄せさせるには十分な言葉だった。誤解の元となってしまう顔を見られる前に幸哉は直ぐに取り繕う。
「普段は何を食べてる? ご飯くらいは置いて行ってるだろ?」
「……ううん。適当にあるものを食べなさいって。知らないうちに野菜とか入ってたりするから……あと、お金置いて行ってくれるときは、何か買って食べておけって……今日も朝起きたら、ご飯と一緒に置いてあって……それで、出てきた……」
穴が空いていないか心配になるショートパンツから皺だらけになった千円札が取り出される。子供からしてみれば大金であるその金を無防備にポケットの中に入れて、それを他人の前で取り出すなど不用心なこと極まりない。この子はそういったことを教えてくれる大人に恵まれなかった。
命綱であるそれを差し出しているように見える少年の手を、幸哉は両手で包み込んだ。
「見せなくていい。それは店で何かを、自分の手でレジに持って行ったときにだけ見せて渡しなさい」
自分の目から隠し、何も見ていないから大丈夫と心の内で語るのは自分に対してではなく間違った行動をしてしまった少年に対してだ。
「ここも店……」
「え?」
「看板に書いてあった。『店』って字が二つ、並んでた」
自分の名前は漢字で書けなくとも、漢字を一つも知らないわけではない。
「……確かに店だけどな? この店は料理の持ち帰りはやってないんだ。お前だって飲食店じゃなくて、スーパーやコンビニでご飯を買おうと思うだろ? さては今日、迷子になったな?」
「っ、なってない……」
「嘘つけ」
「つかない」
今のは「嘘をつくな」という意味だったのだが、真逆に伝わってしまった。自然と身に着くであろう国語力も少年には備わっていない。からかいが伝わるだけマシである。
「学校は? まだ小学生じゃなかったりする? 平日の真昼間からお前みたいなのが一人で出歩いていると、不審に思った大人は気に掛けるし悪人であれば良からぬことを考える。お母さんからお金をもらっても、今後出歩くときは近所にした方が――」
――いい。ちょっとしたアドバイスを雑談混じりに語るだけで、決して泣かせるつもりはなかった。
「行きたくない……。給食費なんて払えないし、払えない奴は食うなって。誰かの物が無くなれば、服も買うお金もないんだからって疑われる。電話の次はチャイム、怖い……嫌だ……」
静かにポロポロと雫を零す姿は、初対面時の焦りではなく罪悪感を大きく込み上がらせる。
こんなとき、どうするか。
子供が学業の助けを求めたとき、救いの言葉を差し伸べる大人もいれば突き放しの言葉を与える者もいる。大半が後者であるが、大人はそれを全く自覚せず助けてあげた、やるべき事をやったと満足感に浸る。そんな人間を幸哉はあまり好ましく思っていない。
例えそれが教育上あまり良くないことであったとしても、子供が本当に望んでいるであろう言葉をかけてやりたい一心で、口から洩れた。
「行かなくていいよ。小学校の学びなんて、中学の勉強の予習みたいなものばかりだ。俺は六年間小学校に通ったけど不登校をすればよかったと心底後悔している」
将来教育関係の仕事に就きたいと言う者とは思えない言葉の数々を、間違ったことなど言っていない自信を溢れさせ次々と並べる。
「必要最低限の勉強は教科書があれば家の中で十分出来る内容ばかりだ。学校生活は人間関係を学ぶ場と言うけど、今のお前の境遇からしてそれはもう不可能だろ? 行っても行かなくても同じだっつーの。中学、高校と違って、公立に上がるなら内申だって必要ない。行きたくないなら無理に行かなくていいんだ。義務教育とはいえ小学生は休むことが許される唯一の学生。大学生以上の、人生の隠れ夏休みなんだからさ」
その夏休みに当時気付けなかった自分はなんて勿体ないことをしたのか。一時期過去に戻ってやり直そうかと幸哉は本気で考えたことがあった。
幸哉の言葉に呆れのため息を零している斗夢は、当時幸哉を止めた苦労を思い出して苦い顔をしている。今も幸哉の口を塞ぎたいところ、どうしようか迷っている。
「こういう事を学校側に告げると、義務教育なんだから学校に来るのが当たり前とか、いじめで学校に来れないならこの先社会でやっていけないとか、小学校に通わなくて中学に毎日通えるわけないとか言いそうだけど、その義務教育で学べるものが一部どこでも学べるものだったり、一部学校では学べられなくなってしまっているなら行く意味なんてない。意味があることと言えば、朝起きて特定の場所に行く習慣が付くことだ。そんなの学校じゃなくて、図書館とかでもいいじゃないか」
真夏の日、行き先がクーラーのない小学校ではなく涼しい図書館に行きたいと、小学生のときは頻繁に望んだものだ。気温三十度以上の室内での勉強なんて非効率的としか思わない。
「いじめに耐えられない者が社会で生きられないのなら、誰にもいじめられずに楽しく学生生活を終えた人間は社会で生きていけないということになる。もしそうなら、教育システムに個々がイジメられる体験学習を取り入れないのはおかしな話だ。つまり、必要なのはいじめに耐える我慢強さではなく人との接し方なんだよ。自分と会わない奴や厄介な相手が話しかけてきたとき、どういう対応をとればいいのか。日常的な経験から自然とそういう技術を取得することが集団環境の中で得る学びだ。これらを取得すれば、そもそも我慢なんて最終手段を取る必要がなくなる。でも、これもお前の今の環境からは学べる内容が半減しているだろ? 人のことを考えて行動する力を身に着ける集団行動だって、相手がお前と集団になる意思がなければ集団行動とは言わない。小学生が既に、大人の対応というものを身に着けていれば話は別だけどな」
そんな小学生ばかりなら、そもそも貧しい少年を言葉の暴力で傷つけたりはしないだろう。関わりたくない相手は愛想笑いで適当にあしらい、何も言わず何も話しかけない。コミュニケーションは必要最低限に留める程度だ。
「だからさ、学校だけを学びの場に選ぶのではなく、外を選ぶという選択肢がお前の中にはあるってことを忘れるな。学校へ行きたいのなら行けばいいし、何も知らずに非難を浴びせる奴や、それを傍観しているだけの奴らに会いたくなくて、行きたくないのなら行かなければいい。お前は大人が与えた環境による被害者なだけなんだから、萎縮する必要もない。悪いのもカウンセリンを受けなきゃいけないのも攻撃をする側で、最も悪いのは……それを気付かずに放置して、被害者の方をどうにかしようとする大人達だ」
言葉には表さないが、幸哉は加害者である生徒の気持ちにも共感していた。自分は適正価格を支払うことで対価の品を受け取り、一人の人間だけは例外される。事情を知らなければ、納得が出来なければ、恨む気持ちは募るだろう。だからといって刃先を向けるのは間違っていているが……それを教えるのも親と教師の役目。
結局のところ、加害者の子供も被害者の子供も、どちらも大人の被害者だ。
「とにかく、お前にとって一番駄目なのは人と関わる機会を失う家の中に籠ること。外には学校よりも沢山の人がいる。むしろ学校よりも多い。ただ他人と関わる機会が一気に減ってしまうから、そんな短所をお前自身が自ら人と関わっていくことで補わなくてはならない。今日みたいに買い物に外へ出たり、こんな風にどこかの店に入って、店員と喋ったり……何でもいいから、自分の世界を自分だけの空間にしないようにだけ気を付けるんだ」
完全に一人で籠ったときこそ、学校側が危惧したように将来の社会で困ることになる。
一気に喋ってしまったからか、小学生には難しい言葉を並べてしまったからか、少年は聞いているのか聞いていないのか分からない表情でポカーンと口を開けていた。それでも聞きたくない内容を語っているわけではないことは伝わっているだろう。
「大丈夫。不登校をしている大人だってたくさんいる。みんな時間が経って、社会不適合者から適合者に変わるから……」
――大丈夫。行かなくていいよ。
小さな子供には、今はまだこの二つだけでいい。
学ぶことさえ止めなければ、いつかきっと理解することが出来るようになるから。
だからそれまでは、甘えられる内に甘えることを周囲の大人は許してくれることを――
望んで、いったい何人が叶えてくれるだろうか。
◇◇◇◇◇
「――本当に送って行かなくていいのか?」
「……うん」
「でもなぁ……」
幸哉が危惧しているのは、何も道中の道だけではない。道よりも危険が確定している家の方をそれ以上に心配している。
どうする? 帰していいと思う? 警察に言った方がいいんじゃ……。
小声で斗夢に相談した。一人で帰ると言っている以上、悩める時間は少ない。
息子に結論を託された斗夢は僅か数秒ほど悩んでから答えを出した。
「トキワくん、だったかな?」
引き出しの中から一つの藍色の箱を取り出した。その色が示す中身を斗夢は惜しげもなく少年に差し出す。
「これを君にあげよう」
驚いたのは幸哉だ。少年自身はそれがどういうものなのか、正確な意味では分かっていない。自分の知っている、腕に付けるタイプのものではないそれを不思議そうに見つめていた。
「時計?」
「ああ、そうだ。君が生きている時間を、電池という命が続く限り刻み込んでくれる奇跡の時計。この懐中時計はきっと、一度だけ君を助けるチャンスを与えてくれるよ。君さえよければ、これを貰ってくれないかな?」
知らない人から物を貰ってはいけない。それによって生じる危険を少年は教えて貰えていなかった。
父親の出した結論を邪魔するわけにはいかず、幸哉はそれについて指摘することをしない。またいつか、機会が訪れたときに少年が知らないままなのだとしたら今度は泣かせずに伝えようと思う。
少しの戸惑いを見せた後、少年はコクリと頷いてその場から走り去った。
半ば押し付けたものに、お礼の有無など気にしない。相手は小さな子供なのだから。
「いいのか? タダで渡して。あれは別だろ」
「一人息子がやたら気にかけていたからな。あれさえあれば、行動次第で最悪な事態は回避出来る」
「一度だけ、な」
その奇跡の一回を、彼はどのように使うのか。
使う未来など来ないのが一番であるが、人間生きていれば必ず高い壁に遭遇する。ただ立ち塞がっているだけの壁ならまだしも、自身を潰そうと倒れてくる、大きな壁に。
「……許されるのは、小学生まで」
名前しか知らない小さな少年の立場を、幸哉は再び頭に思い浮かべた。
中学生からは内申に関わる。将来のことを考えるならば、辛くとも戦わなくてはならない。
小学校で傷つけられて中学校に通えなくならないように、今は精神面の体力を温存することを許される。
「大事な時に頑張って、肝心なときに壊れて頑張れなくなったら、それこそ頑張り損だもんな」
親子二人しかいない空間。この時間になれば、客は早々来ない。
今日この日、この時間に、珍しくもドアベルが来客の訪問を告げた。
二人は驚かなかった。むしろ、その客が来ることを想定していた。
5
日は間もなく暮れようとしている。
つい数十分前まで青色であった空はいつの間にかダークグレーへと姿を変えていた。その色が黒に変わるまでそう時間はないだろう。沈み始めた日はあっという間に底へと落ちる。
「買い物……明日で……いいや」
当初の目的を果たせずに帰宅することに戸惑いはあったが、今日の食事は十分にとった。イレギュラーな一日であったこともあり、少年は息を切らしながら壁に手をついて自身の甘えを許す。
身体は正直だった。時計店を出たときよりもずっと重たく、この突然の変化は何だろうと感情に不安を生じさせる。いくら日が沈んでいるとはいえ、気温も変わりすぎではないだろうか。寒さなど欠片も感じなかったのに、今はゾクゾクと震えが生じている。平衡感覚が狂い、足を一歩前に出すのにも少年は苦しんでいた。
――やっぱり……一緒に来て貰えば……よか――っ。
そう思ったところで、消し去るように首を振った。
大人は怖い生き物だ。見知らぬ他人なんて信用出来ない。信用出来るのは家族だけ。誰も……誰も助けてはくれない。
意識を朦朧とさせながら、ゆっくり……ゆっくり一歩を踏み出して、どうにか帰路についた。鍵を閉めて寝室である和室に向かう気力も無く廊下に倒れ込む。こういったことは少年にとって初めてでは無いため、不安と寂しさは付き纏っても恐れることはない。
――大丈夫。しばらく横になっていれば、きっと元に戻る……。
先日の雨の気温が原因の風邪だと少年は気付かなかった。そもそも風邪というものを少年は認識していない。ただ身体がだるくて苦しい、定期的に怒る身体の変化だとばかり思っている。
どんなに苦しくても。
どんなに寒くても。
例え身体が動かせなくても。
時間が解決してくれる。時間が助けてくれる。
きっと今回もそう。
そうに……違いない……。