廉冶さんはその半紙を拾い上げて言った。

「これ、今書いてるやつなんだけど」

 私はその字を声に出して読み上げた。

「色即是空 空即是色。
この言葉、よく見るけど、意味は知らないや」

「般若心経だ」

 廉冶さんはその字に触れながら言った。

「この世のすべてのものには、実体がない。その実体のないものが縁によって存在する」

「えっと……?」

「『色』っていうのは、物質のこと。つまり目に見えるものだ」

「うんうん」

「で、『空』は実態のないもの、うつりかわるもののこと」

「なるほど? じゃあ色と空は正反対のものってこと?」

「そうそう。でも色は空であり、空も色である。つまり同じ物だっていう意味なんだ」

「え!?」

 まったく反対だけど、同じ物? 混乱してきた。

「この二つはセットなんだ。俺たちの目に見えているものは、実態がなく、無である。その無であるものが目に見えているだけってことだな」

「無であるものが、目に見えている?」

「仏教用語では、因と縁だ。ほら、人にぶつかったチンピラが、因縁を付けるとか言うだろ」

「言うね」

「『因』っていうのは物事の直接的な原因で、『縁』はそれを助ける間接的な力だ。
たとえば籾(もみ)だねが『因』だとして、そこに籾だねがあるだけでは、米は育たない。
籾だねが米になるためには、水や土、光などの『縁』がないとダメってことだ」

「うんうん」

「あらゆる存在は、そういう因と縁が重なって出会っていることで成り立っている」

「なるほど……? えっと、目に見えているものと、見えないもので成り立ってるってことかな?」

「あぁ。で、さっきの『色即是空 空即是色』の話に戻るけどな。
目に見えるものや心で思っていることは、絶対的ではない。
世の中の出来事、人の気持ち、すべてが移り変わっていく。今目の前に見えている物も、次の瞬間には変わってしまうかもしれない。
だから何かにこだわらず、とらわれず、変化を楽しみながら生きよう。そんな意味だと俺は思ってる」

「へぇ……」

 私はその言葉の意味をもう一度考えた。完全に理解できてはいないかもしれないけれど、廉冶さんの伝えたいことは分かった気がする。

「俺、こういう人間の考え方って好きなんだ」

「廉冶さんは神様だけど、仏教の教えも学んでるんだね」

「あぁ、人間の世界に来てから、色んなことを学んだよ。色んな人にあったし、色んな人と話した。
尊敬できる人もたくさんいたし、やってみたいと思う仕事もたくさんあった。もちろん、その逆もな」

 廉冶さんは薄く微笑んで言った。

「いい書の条件って知ってるか?」

 私はしばらく考えてみる。

「字が上手なこと……? ううん、きっと違うよね。人の心を動かすこと……かな?」

「へぇ、どうしてそう思う?」

 私はこの家で、初めて彼の書いた字を見た時に思ったことを口にする。

「廉冶さんの字を見た時、鳥肌が立ったから。全身がざわざわした」

 私は自分の胸を押さえた。

「詳しいことは分からないけれど、心臓をつかまれたような気持ちになったの」

 廉冶さんはふっと笑って、「満点の答えだ」と言う。

「俺も人間の世界で暮らすようになったばかりの時、そういう作品を目にする機会があってな。
自分で作ってみたくなったんだ。
神様だった時は何でも作れたけど、人間になって、最初は何を作っても下手でな。
悔しかったし歯がゆかったけど、でも、それが楽しかった。だから、俺も何かを生み出す人間になりたかったんだ」

「そっか」

 廉冶さんが、こうやって自分のことを話してくれるのは珍しいし嬉しい。
 私は廉冶さんのことを全然知らないから、これからも少しずつ知れたらいいなと思う。 

「だから納得がいくまで、書き直したいんだ」

 そう言った彼の横顔は、格好良かった。



 藍葉さんが作品を取りに来た後も廉冶さんは仕事部屋にこもっていたし、翌日もずっと熱心に字を書いていた。
 廉冶さんが一生懸命な理由は分かったけれど、それでも心配なものは心配だ。
 その日の朝、マオ君を幼稚園に送ってから、異変に気づいた。
 台所に現れた廉冶さんの顔色は、明らかに悪かった。

「弥生、俺、もうちょっとしたら出かけるから」

「出かけるって……」

 廉冶さんの額に触れてみる。……熱い。どう考えても、熱が出ている。

「廉冶さん、無理だよ!」

 神様は、万能じゃない。特別な力もないし、具合も悪くなる。そんな話を聞いたばかりだ。 
 廉冶さんはだるそうな様子で、コップにお茶を注ぐ。

「今日、本土に行って会場の設営を見ねぇといけないんだ……」

風邪を引いてふらふらなのに、それでも廉冶さんは私が押さえるのを振り切り、出かけようとする。

「気になるのは分かるけど、藍葉さんにお任せしよう!」

「いや、俺が自分で見たいんだよ」

 私は廉冶さんにしがみついた。

「自分の体調分かってるの!? そんなふらふらで来られても、会場の人だって迷惑だよ!」

 廉冶さんはふっと笑って、私の頭を撫でた。 

「そんなに俺のことが心配なのか?」

 からかうようにそう言われると、つい否定してしまいたくなる。

「……っ、うん、心配してる!」

 負けずにしっかり言い返すと、廉冶さんは私の肩にもたれかかった。


「癒やしてくれ」